小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

自公圧勝で猪瀬都政はどう変わる(社説読み比べ)

2013-06-24 23:48:41 | Weblog
 今更ブログで書くまでもないことだが、23日に行われた東京都議選で、マスコミ各社による事前の世論調査通り自公が圧勝した。しかし、ここまでの圧勝とはマスコミも含めだれも予想しなかっただろう。私自身も、まさか自民の立候補者59人、公明の立候補者23人が全員当選するとは思いもよらない結果だった。民主の15人は、そんなものだろうと思っていたが、予想が大きく外れたのは維新のたった2人、共産の大躍進(17人)だった。その結果、都議会の新勢力は定数127のうち自公が82を占め、なんと3分の2に近い大勢力になった。都議会は1院制だから3分の2に達したとしても衆院とは意味が全く違うが、それにしても国政と都政が同じ方向を向いて走り出すことになるのは間違いない。
 予想以上だったのは、維新の大惨敗である。結局、橋下氏の従軍慰安婦発言が世論の反発を買ったことがもろに出たと言えるのだろうが、ことさらに橋下氏の発言を誇大解釈して世論を誘導したマスコミのモラルの実態をも明らかにした選挙結果だった。私は別に橋下氏を擁護したわけではないが、歴史の真実を私なりに調べて何度もブログで報告してきた。マスコミが歴史的真実をきちんと検証したうえで、橋下氏の失言は失言として厳しく批判するのはいいが、マスコミの世論誘導の結果、どういう事態が生じたかをマスコミはきちんと自らを検証すべきだった。が、そうした自己検証をしたマスコミは1社もなかった。結果として、マスコミが橋下氏の失言を誇大報道して世論を誘導したことを奇貨として、米軍沖縄基地司令部が行ったのは、基地配属の米兵士の厳しい外出規制を緩め、再び米兵士による性犯罪が沖縄で続発する可能性に道を開いたことだった。今のところ米兵士の犯罪は報道されていないが、時間の問題で沖縄が再び米兵にとっては不法地帯に戻るのは避けられない。そうなった場合の全責任はマスコミにあることだけ、ここで明らかにしておきたい。
 もう一つの意外性は、共産の躍進だった。改選前の8から17へと2倍を超える議席を獲得した。共産はその結果自公に次ぐ第3政党になり、議会での発言力はかなり増したと言えよう。今日(24日)の朝刊では共産党議員の得票率はまだわからないが、仮に獲得議席率を指標とすれば13.4%の都民からの支持を得たということになる。マスコミ各社が毎月行う全国の政党支持率では共産は2%台だから、獲得議席率を政党支持率と短絡するのは明らかにおかしいが、実はマスコミ各社の今回の都議選の結果についての分析方法は、こういうおかしさを反映したものになっている。今回は全国紙5紙の社説でそのことを検証してみよう。大新聞社の論説委員の論理的思考力とはこの程度のものだと思って新聞を読んでいただければいい。
 まず各紙に共通しているのは7月の参院選(未定だが4日公示、21日投票が有力視されている)の前哨戦として都議選を位置付けていることだ。なぜ都議選が参院選の前哨戦になるのかの説明は各紙とも一切ない。
 参院選からネット選挙運動が解禁になる。ネット選挙運動が始まると、これまでの選挙戦とは全く違う局面が生じる可能性は否定できない。従来型の組織や後援団体など人手と人脈に頼る運動が果たしてどこまで有効性を維持できるのか、その検証をマスコミは全くしようともしていない。もちろん日本での検証作業は不可能だが、すでにネット選挙が解禁されている先進国もあるわけで、それらの国の選挙運動がネット解禁によってどういう変化が生じたのかの検証作業は絶対必要なのだが、そういう検証作業が必要だという発想そのものがマスコミのお偉いさんには全くないようだ。
 マスコミやインターネットでしか情報を入手できない私としては、ネット選挙運動が解禁になるとどうなるかの見当のつけようもない。実はアメリカやヨーロッパなどの先進国はすでに大半がネット選挙運動を解禁しているようだ。お隣の韓国でもとっくに解禁されている。その結果、選挙運動の在り方がどう変わり、有権者の投票行動にどう反映されたのかがマスコミ報道からは全く分からない。おそらく自民党をはじめ有力政党はとっくに先進国のネット選挙運動が従来型の選挙をどう変えたのかを徹底的に分析して参院選に備えているはずなのだが、そうした各政党の備えすら取材していないようだ(少なくとも記事にはなっていない)。だから、果たして単純に都議選が参院選の前哨戦になるという結論を短絡的に出していいのかどうか、私は各紙論説委員たちの頭をかち割って中身をのぞいてみたいという衝動に駆られたほどである。
 ただ言えることは、ネット選挙運動が解禁になると政党助成金の必要がなくなるはずだということだ。そのことすらマスコミ界には気付いた人がいないというのは、さびしさを通り越して悲しくなる。
 政党助成金は1994年、金と選挙の関係を断ち切るために成立した政党助成法によって、企業・労組・団体からの献金を制限するための代償として、原則5人以上の国会議員を擁する政党に対して選挙運動資金を税金で支えてあげようという趣旨の金である。それは選挙に金がかかるから、という前提があって初めて成り立つ論理である。つまり企業や労組・団体などからの潤沢な資金提供を得られない弱小政党が、金のかかる選挙運動で不利にならないようにという意味で国民も納得して払っている金だ(国民一人当たり年250円)。だが、ネット選挙運動の解禁で、選挙運動の主力が金がほとんどかからないネットに移行していけば政党助成金を維持する根拠がなくなる。
 きょう成立した0増5減法案に関して読売新聞は社説をはじめスキャナーなどを総動員して日本の国会議員数は先進国の中で少ない方だ(国民一人あたりの比例数)と主張し続けている。私は読売新聞に対して、国会議員数の国際比較をするなら、国会議員一人当たりにかけている歳費も国際比較をするべきだと何度も主張してきたが、そういう調査をするつもりはないようだ。いや、ひょっとしたらしているのかもしれないが、調査結果を公表すると政党助成金を税金で援助している先進国などないことがバレてしまうので公表しないのかもしれない。常に政権与党にすり寄ることを社是としている読売新聞ならではの姿勢としか思えない。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の話になるかもしれないが、ネット解禁で一気とまではいかなくても金と組織のバックがない市民運動家や市民団体が、徐々に政治のひのき舞台に躍り出る時代が来るのではないかと私自身は想像している。アメリカで黒人のオバマ氏が大統領の地位に昇りつめることができたのも、アメリカではネット社会が政治の分野にまで広がった結果ではないかと思っている。
 しかもたった今見ていたNHKのニュース7で21~23日にかけて行われた内閣支持率の世論調査が報道された。調査結果によれば安倍内閣の支持率は61%で、都議選での自公の獲得議席の占有率64%とほとんど差はない。全国紙5紙が社説で自公の大勝利と騒ぐほどの選挙結果ではなかったのだ。
 むしろマスコミが都議選について社説を書くならば、なぜ都議選で国政の議論が中心になったのかという疑問を呈するべきだろう。たとえば猪瀬都知事は東京オリンピックの招致に死にもの狂いになっているが、猪瀬都知事がオリンピックを東京に招致して、どういう東京都をつくろうとしているのか、私にはさっぱりわからない(私はオリンピックの招致に反対しているわけではないですよ。もし長生きできれば、夜更かししなくても日本選手の活躍をテレビで見ることが出来るから賛成はしています)。ただ、東京にオリンピックを招致することがなぜ必要なのかの説明が石原都知事の時もそうだったが、全くないことに疑問を持っているだけだ。そういうことがなぜ選挙の争点にならなかったのかが私には不思議な世界だなぁ、という感じがするというだけの話。
 また日本一ホームレスが多い東京をどう世界に誇れる文化的大都市にするのか、といったことの方が都議選では重要な課題になるべきではなかったのかとも思う。また石原都知事時代に作られた負の遺産である新銀行東京をどうするのかも猪瀬都知事が解決しなければならない大問題のはずだ。東京都が、中小企業向けの融資を目的にした新銀行東京は、素人銀行員の無責任な貸し出し競争によって1000億円もの大赤字を出し、融資先を都の公共事業関係先(請負企業など)に絞って黒字経営に転換できたが、何のことはない都職員の天下り対策に使われているというのが実態だ。新銀行東京をどうするのかも都議選の争点にならなかった。おかしな選挙だったという批判は、どの社説にも載らなかった。
 比較的ましな社説を書いたのは朝日新聞だった。書き出しの部分でこう述べている。
「身近な都政の課題より(※肝心の身近な都政の問題には一切触れず)、安倍政権の経済運営の是非に焦点が当たった選挙だった。このところ足踏み気味の株価だが、それでも首都の有権者は、アベノミクスに一定の期待を示したといえるだろう」「ただ自民党が野党の不振に乗じた面が強いことは否定できない(※すでに述べたように内閣支持率がほぼ都議選にも反映されただけ)」
 また民主の凋落については、各紙同じような分析をしている。もともと政党の体を成していない野合政党に過ぎず、政権をとるためだけに結集しただけの政党だから、党綱領すら作れず、政党支持率は8%にまで落ちている(全国)。もし政党支持率どおりだったら10人しか当選できていなかったはずで、当選者を15人も出したのは、凋落というより健闘したと言うべきだろう(※これは皮肉ではない)。
 一方大躍進したのはみんなと共産だった。みんなは「しがらみがない」(本当かな?)「ぶれない」(本当かな?)の殺し文句が効いたのだろう。みんなの真実は少数野党ではなく政権党とまで行かなくてもある程度キャスティングボードを握れるようになったとき明らかになるだろう。それまではあまり無責任な批判は控えておく。
 一躍自公に次ぐ第3勢力に躍り出たのが共産だ。共産の当選議員数は17人と倍増、全議員数の10%を占めた。しかし共産の全国政党支持率は2%台前半。このギャップはどうして生じたのか。共産の躍進について社説で「分析」したのは朝日新聞と毎日新聞だけ(読売新聞も共産の躍進については数文字を割いたが、分析はしていない)。朝日新聞地毎日新聞の分析はこうだ。
「反アベノミクス、原発ゼロ、憲法改正反対を明確に打ち出し、政権批判票の受け皿になったことは間違いない」(朝日新聞)
「(みんなも含め)野党でも政策の輪郭が明確な政党が健闘したといえる。安倍内閣に向かう対立軸をきちんと示せるかどうか、参院選で野党側が負う責任は重大である」(毎日新聞)
 期せずして似た論調だ。だが、全国政党支持率2%そこそこの共産がなぜ10%もの議席数を獲得できたのかの疑問すら両紙の論説委員は持っていないようだ。たぶん明日になれば(このブログをお読みになっている方にとってはおそらく過去形の話になっていると思うが)分かると思うが、共産党立候補者が獲得した票は果たして全体の10%にとどいているだろうか。私は多くても3%台にとどまっているのではないかと思う。もしその程度の得票率で10%もの議席数を獲得できたのだとしたら、その理由は一つしかない。
 実はNHKの政党別支持率(全国)調査では、自民が断トツの45.6%、次いで民主が8.1%と第2位を占めていたのである。3位が公明の5.5%、維新が3.3%、みんな2.0%で共産は2.4%という結果だった。つまり政党支持率が今回の都議選では直接的には反映されていなかったと言うべきであろう。ということは野党が選挙協力を組めず、各選挙区で票の奪い合いをした結果、共産が漁夫の利を得たのが共産躍進の真相だと思う(まだ共産の獲得票が不明なので)。
 確かに朝日新聞や毎日新聞が主張したように自公との対立軸を共産は明確にして闘ったが、そうした選挙運動は今回に限ったことではなく、どの選挙でも共産だけは政権政党との対立軸を鮮明にして闘ってきた。もし朝日新聞や毎日新聞の主張が正しければ7月の参院選でも共産は大躍進するはずだが、そんなことは政党支持率から考えてもあり得ない。
 さらに各紙が社説でどこも触れなかった重要な視点が別にある。それは都議選で大敗北した民主や維新が、みんなにも呼び掛けて大規模野党選挙協力を実現できるかどうかが、参院選を占う大きなカギとなる。もし大協力が実現すれば、解禁されるネット運動が莫大な効力を発揮するのではないかという気がする。その可能性を生み出したのが、今回の都議選の最大のポイントとなる。ただ「ぶれない」ことを旗印にしてきたみんなが野党大協力に参加できるか、まさにふたを開けてみなければわからないことだが。

読売新聞がプロ野球統一球問題に及び腰なのはなぜか。

2013-06-17 08:25:49 | Weblog
 読売新聞がなぜか、奥歯に物が挟まったような報道しかしない。
 いうまでもなくプロ野球の統一球問題である。

 「今年のボールは飛ぶぞ」……そういった声はプロ野球選手の間では開幕早々からあったらしい。確かにテレビで見ていても、「あー、ダメだ」とため息をつきかけたボールが塀際で失速せず外野のフェンスを越えてホームランになるケースはしばしば感じていた。去年だったら「あっ、ホームラン」と思ったボールが急に失速して外野手のグローブに収まってしまったケースを何度も見てきた。
 おそらくバッターが統一球になれて来たのだろう、あるいは打撃練習用のピッチングマシンが統一球に対応したタイプに改良され、選手の打撃能力が向上したのだろうと思っていた。
 ところが、そうではなく、NPB(日本野球機構)が統一球の仕様をひそかに変更していたというのだ。
 日本のプロ野球が統一球の採用に踏み切ったのは11年から。理由は二つあった。一つはオリンピック競技から野球が外された影響があったのかもしれないが、国際基準(ということはNPBに言わせれば大リーグのことらしい)に合わせようという理由。もう一つは、それまでは試合の主催球団が独自に採用していたボールの仕様を統一すべきだという理由。
 後者については当然だろう。それまでは球場の広さ(ホームベースから外野フェンスまでの距離)だけでは説明できないホームラン数の差異があったからだ。今更検証しようもないが、王・長嶋時代の巨人の主催ゲームでは飛ぶボールが使用されていたのではないか、あるいは伝説の「バックスクリーン3連発」(バース・掛布・岡田)時代の阪神も主催ゲームでは飛ぶボールを採用していたのではないか、といった疑問は当時から提起されていた。ホームランバッターが主力選手にいた球団が、主催ゲームで「飛ぶボール」を採用するのは選手のためではなく、営業上の利点があったからだ。
 もちろん「飛ぶボール」と言っても、むやみやたらと反発係数を高めたボールを勝手に採用していたわけではない。それなりに一定の基準値内に収まるよう規格は定められていたはずだ。その点はゴルフと同じである。ゴルフの場合もボールやクラブについて厳しい規格が定められていて、その規格に適合したボールやクラブでないと競技には使用できないことになっている。たとえばドライバーのヘッドの大きさ、反発係数、シャフトの長さ、クラブのフェースに刻まれている溝の深さと溝の間隔などの規制が規格で決められている。その規格内でメーカーは必死になって開発競争を繰り広げているというわけだ。
 そういう意味では各球団が営業上の目的から「飛ぶボール」や「飛ばないボール」を勝手に採用することに歯止めをかけたことは間違っていないと思う。
 だが、もう一つの理由はもともと無理があった。大リーグの使用球を基準に「国際的に通用する規格」にするという発想そのものがファンを無視したものだった。
 まずアメリカの野球場は日本に比べて狭い。そのうえ、アメリカの野球選手(アメリカ人だけでなく南米人も)は日本人選手より体力的にかなり上回る。もし王選手がホームラン記録を樹立した当時のボールを大リーグが採用していたら、いったい何本の世界記録が生まれていたであろう。松井選手は彼の人柄もあって日本人からもアメリカ人からも愛された数少ない日本の野球選手だが、日本ではホームラン打者として活躍した彼も、ヤンキースではホームランバッターとしては評価されていない。野手で大リーグで活躍できたのは足が速く内野安打でヒットを稼いだり、芸術的なバットコントロールでヒットを量産し、また外野手としては「レーザービーム」と絶賛された強肩の持ち主のイチロー選手くらいだ。それに対し、相対的に投手は活躍している。ボールが飛ばないことと、コントロール重視のピッチングを鍛えてきたことが有利に働いたのではないかと思う。大リーグのバッターは飛ばないボールをホームランにしようとバットをぶんぶん振り回すから、変化球の微妙なコントロールを得意とする日本投手にとっては格好の餌食なのかもしれない。実際大リーグから日本のチームに移籍して大活躍した打者は無数にいるが、投手ではほとんどいない。日本で活躍した外国人投手も少なくないが、彼らの大半は大リーグの出身ではない。
 だが、大リーグに移籍して活躍できた選手とできなかった選手には大きな違いがある。私はそこまで専門家ではないので、今後、大リーグを目指す選手のために専門家が、活躍できた選手と期待を裏切った選手の差異を子細に分析して、参考資料として提供してもらいたい。実際松井秀喜選手が大リーグに挑戦した時、評論家たちは「大リーグは本当は松井稼頭央選手を狙っていたのではないか」と憶測していた。松井稼頭央選手も松井秀喜選手を追いかけるように大リーグに移籍したが、ほとんど活躍できず日本に帰ってきた。
 それはともかく、プロ野球はだれのためにあるのか、という原点に立ち返って考えてほしい。球団のためにあるのでもなければ、まして選手のためにあるのでもない。野球が世界的なスポーツになって、サッカーのワールドカップのような世界中が熱狂するスポーツになったときは、大柄な欧米選手だけが活躍できるようなボールではなく、人種による利・不利が生じないような規格がボールだけでなくバットやあらゆるもの(球場の大きさも含め)に決められるべきであろう。現にゴルフがそうなっている。だから体格的には日本人とほとんど変わらない韓国人がアメリカのゴルフ界で大活躍しているし、日本人も岡本綾子選手がアメリカの賞金王に輝いたこともある。
 はっきり言わせてもらう。日本のプロ野球は日本のプロ野球ファンのためにあるべきなのだ。ことさらに「国際化」を理由に日本選手にとって不利な規格のボールにしたことがそもそも大きな間違いだった。その結果、野球ファンにとっては試合そのものがつまらなくなってしまった。ゲームが、息づまるような投手戦ではなく、貧打戦の連続になってしまったからだ。
 今年、ホームランが増えてことによって野球ファンが「面白くなくなった」と思っているだろうか。ほとんどの野球ファンは、終盤の一発逆転劇が増えたことで、「野球は9回裏2アウト2ストライクになってもわからない」という野球本来のだいご味を喜んでいるのではないだろうか。
 そういう意味では、いまの統一球は、野球ファンを喜ばせるものになったと私は思っている。現にNPBに批判の矛先を向けている大半のマスコミも、統一球を元に戻すべきだなどという主張はしていない。野球ファンも「プロ野球がつまらなくなった。飛ばないボールに戻せ」などと要求したりしてはいない。

 では、問題はどこにあったのか。
 統一球変更の経緯がきわめて不透明で、かつコミッショナーにも知らされずに行われ、そのうえメーカーのミズノ社にも口止めしていたことにある。
 統一球問題が明るみに出たのは11日の午前中。ただどういう経緯で明るみに出たのか、いろいろ調べたがわからない。とにかく明るみに出たことで翌12日、NPBは急きょ記者会見を開いた。この記者会見が全くおかしかった。
 まずNPBの実務上の最高責任者である下田邦夫事務局長が「加藤良三コミッショナーと相談しながら決めた」と説明したが、加藤氏が「私が知ったのは昨日だ。もっと早く知っていれば直ちに公表していた」と下田氏の弁明を真っ向から否定。しばし加藤氏と顔を寄せていた下田氏が「混乱していて間違えた。コミッショナーには話していない」と前言をひっくり返し、「統一球の変更を知っていたのは2,3人」と、極秘で行った変更だったことを明らかにしたうえミズノ社に口止めしたことも認めた。だらしがなかったのは、この記者会見に出席した記者たちだった。記者のだらしなさを箇条書きで述べる。

① 加藤氏が「昨日知った」という釈明に対して、「どういう方法で知ったのか。誰から聞いたのか」という最も重要な事実関係をだれも質問しなかったこと。
② 下田氏が「知っていたのは2,3人」と説明したのに対し、その2,3人はだれかを追求しなかったこと。
③ 統一球の変更はだれが提案し(あるいは指示または強要)、だれがどういう権限で決めたのか、をだれも質問しなかったこと。コミッショナーが知らないうちにこのような重大な決定が行われたということは、NPBの最高責任者は加藤コミッショナーではない誰かだということを意味する。それほど偉い人はだれなのかという決定的な質問を記者の一人もしなかった。
④ さらに極秘で2か月以上放置してきたことはだれの指示によるのか、コミッショナーより偉い人の命令だったのか、という質問も誰もしなかったこと。(のちに下田氏が、2~3月のキャンプ、オープン戦は新旧のボールが混用されていたため、いたずらに混乱を起こさないために公表しなかったと釈明したが、新旧のボールが混用されていたらプロ野球の選手が気が付かないわけがない。もし気が付かないほど鈍感な選手だったらもともとプロになる資格がない)
⑤ 統一球の変更が明らかになった今日、統一球は今後どうするのか。現在のボールを使い続けるのか、それとも「飛ばないボール」に戻すのか、という質問も誰もしなかったこと。
⑥ なぜ開幕前でなく、今頃になって公表に踏み切ったのかという事実経緯についての質問も出なかった。

 結局、記者たちの追及はトップがどう責任を取るのかということだけだった。
 加藤氏は「私は不祥事だとは思っていないからやめる必要はない」と主張した。ただ、私が加藤氏の立場だったら「要するに、私はお飾りの『裸の王様』だったということが分かった。責任を取るためではなく、そのような屈辱には耐えられないから辞める」と怒りをぶちまけて席を立っただろう。コミッショナーに今回の問題で責任がないことは私も認めるが、コミッショナーたるもの、そのくらいの矜持は持ってもらいたい。要するにNPBのガバナンスとはその程度のものなのだと思えば腹も立たない。
 下田氏は(その後だが)辞意を表明る意向を漏らしたが、辞めるのは当然としても、すべてを明らかにしてから辞めるべきである。辞表を提出することは免罪符にはならないことを記者はとことん追求すべきだろう。
 さて書き出しの問題に戻る。統一球問題についての読売新聞のスタンスだ。
 読売新聞が統一球問題について紙面で初めて触れたのは13日朝刊のスポーツ面と社会面。他紙ほど大きな扱いではなかった。すでにその前日には民放だけでなくNHKもこの問題をニュースで大々的に報じていた。社会問題化することは必至という状況だった。しかも社会面の見出しが「NPB 公表遅れ お詫び」という信じ難いものだった。解説記事の見出しも「必要だった開幕前の開示」というあきれたものだった。
 この時期まで、なぜNPBは統一球変更の事実をひた隠しにしてきたかの批判も追及もまったくない。NPBが「時期を見て公表に踏み切った」という好意的な記事としか解釈できないような扱いだ。
 もし東電の原発で何らかの問題が生じて一時停止したのち、大きな事故には至らないと判断して運転を再開した場合、その事実を公表せず、たとえば内部告発などで東電が事実を公表せざるを得なくなったようなケースで、読売新聞は「東電 公表遅れ お詫び」「必要だった運転再開前の開示」などという見出しで報道するだろうか。
 この統一球変更の事実をNPBが開幕前に公表しなかったのは、明らかに、「遅れた」のではなく、「隠ぺい」だった。だから野球ファンがNPBに怒りをぶつけたのは16日のテレビ報道でも明らかにされたが、統一球の規格を変更したことに対してではなく、その事実をひた隠しに隠してきたことに対してだった。現に読売新聞も13日付朝刊社会面の記事の中で、加藤コミッショナーの釈明をこう記事化している。
「変更が加えられれば公表すべきものと思う。隠蔽するつもりは全くない」と。
 しかし加藤氏は、その事実をまったく知らされていなかった。だから加藤氏の発言には重いものがある。つまり、変更の事実を前もって知らされていれば「公表すべき」という価値観を持っていたが、事実を知らされていなかったので「(自分は)隠蔽するつもりは全くない」と弁明したのである。つまり加藤氏が暗にNPBの隠ぺい体質をトップ自ら内部告発したのがこの発言の趣旨だと考えるのが、すべてを合理的に説明できる論理的解釈である。
 いずれにせよ、統一球問題は12日以降一気にプロ野球ファンの関心事のレベルを超えて社会問題化していった。その事実までは、さすがに読売新聞も黙視できなかったようだ。14日朝刊スポーツ面の隅っこに「3行記事」同様の扱いでその後の経緯を以下のように報じた。
「NPBには13日午前から抗議や問い合わせの電話が殺到し、午前中は八つの回線がほぼふさがった状態。また、問題が明るみに出てから13日午後6時ごろまでに寄せられた4000件近くの電子メールは、ほとんどがこの問題に関するもので、加藤コミッショナーの進退も含め、NPBの対応に批判的な内容が大半だった」
 一方社会面では3回にわたって連載した『試練の柔』の最終回がでかでかと掲載された。記事面の半分近くを割いたこの記事の見出しは「ガバナンス欠く全柔連」だった。「おっしゃること、まことにごもっとも」と、胸がすっとするくらい小気味いい記事だった。だからよけい統一球問題についての報道との落差が目立ったのはやむを得ないだろう。
 15日、読売新聞は一気にNPB擁護の報道姿勢を明らかにした。今度はスポーツ面のかなり目立つ場所に相当のスペースを割き「統一球 今季の反発力基準内」という見出しで、NPBが発表した反発係数の検査結果を報道した。同紙によれば11年、12年の統一球の反発係数は許容範囲には収まっていたが基準値の下限を下回っていたという。そこで今季は反発係数を基準値の下限より高くするためボールの芯を覆うゴム材を変えて反発力を高めたという。それで11年、12年の「飛ばない」統一球問題を解決したというのであれば、内密に処理するような話ではないはずだ。また変更を隠ぺいする必要もないはずだ。
 ところが、同紙の記事には理解できない個所があった。
「(ボールの芯を覆うゴム材を変えて反発力を高めた)結果、2度の検査でいずれも目標範囲の上限いっぱいの(反発係数が)0.416となっている」
 この短い文章の中に、これまで一度も目にも耳にもしたことがない言葉が飛び出した。「目標範囲の上限」という言葉だ。同紙の解説記事によれば「平均反発係数」とは(規則によれば)「反発測定器による検査で、その平均反発係数が適合域内におさまるものでなければならないと定められている」ということだ。
「適合域内」という言葉はわかりにくいので、分かりやすく「基準内」とか「規格内」と言い換えても間違いではないと思う。ただ基準の上限・下限と言っても、最初からある程度の許容範囲を含めて決めておけば問題は生じないのだが、統一球の場合、反発係数の上限・下限を厳しく定めてしまったため、上限・下限を超えても一定の範囲なら許容することにしていたようだ。そんな玉虫色の規格の決め方は通常ありえない。
 常識的に考えても、野球のボールもゴルフのボールも、使用環境の温度や湿度、また標高差によっても反発係数は異なる。また材質も完全に同一の品質を保つことは不可能だし、仮に同一の品質であっても経時変化や使用頻度によって反発係数は変わる。ファウルのたびにキャッチャーが審判にボールの変更を要求するのも、ファウルによって受けたボールの微妙な変化が投手に与える影響を嫌うからだし、プロゴルファーが3ホールごとに新しいボールに変えるのも、たった3ホールだけでもボールの反発力が落ちると考えているからだ。
 そのためゴルフの場合の規格は、最高の使用条件での基準値を定めており、従って上限値は決めても下限値は決める必要はない。ただし、野球のボールと違ってゴルフのボールは飛びさえすればいいというわけではない。むしろ一定の距離以上に飛んでは困るケースもある。だからボールの反発係数の上限だけでなく、クラブについては飛距離をコントロールするためのバックスピン度にも規格が定められている。
 要するに野球にせよゴルフにせよ、スポーツに使う道具類には一定の規格が定められているケースが少なくない。水泳の水着でもそうなのだ。かつて天才スイマーと言われたイアン・ソープ選手(オーストラリア)が愛用していた全身型水着は、現在、国際水泳連盟が認める競技では使用禁止になっている。
 しかし、こうしたスポーツ道具類の規格は規則でどう表現されているか。NPBはボールの反発係数の規格について「適合域内」という表現を用いているが、確かに理解しにくい言葉だと思う。だから「規格」とか「基準内」といった表現に言い換えても問題はないと思う。しかし、「目標範囲」という言葉を新たに「発明」して、その言葉が「適合域内」を意味すると主張すると、これは明らかに言い換えの「いかさま」である。「目標」とは国語辞典を調べるまでもなく、努力して達成を目指すレベルのことである。たとえば打者なら3割30ホームランなど、投手なら20勝、防御率1点台など、といった目指すレベルだ。ボールの反発係数の規格に「目標」とすべき「範囲」などあろうはずがない。
 読売新聞は当初「適合域内」を「基準内」と言い換えた。そこまではいい。誤解が生じるとは思えないからだ。
 しかし、読売新聞は勝手に「NPBは昨季までは、使用球の反発係数が基準値の下限に近付くよう目標を立てた」と解釈し、ゴム材を変えて「目標範囲の上限いっぱい」にしたと主張している。NPBはボールの反発係数だけでなく、ボールの大きさや重さ、縫い目などについても細かい規格を定めている。それらの規格のどこに「目標」とする数値を定めた規格があるか。あるわけないだろう。もし、あったら、それは規格ではない。
 読売新聞がNPBの隠ぺい工作(ミズノ社にまで口止め工作をした以上隠蔽工作であることは否定できない)を単なる「公表の遅れ」とかばい、ボールの反発係数変更を「目標範囲の上限いっぱい」にしたと通常規格には含まれない「目標」なる新しい概念を持ち込んでまでNPBをかばおうとしたのはなぜか。
 ただし読売新聞の記者の中には正常な感覚の持ち主もいて、15日の解説記事で「設置が決まった第三者委員会では、今回の事実確認、原因解明だけでなく、ガバナンス(統治能力)上の問題点も明らかにするという。いずれにしてもファンや選手の信頼回復につながるものでなくてはならない」(下村征太郎氏)と正論を述べている。第三者委員会が、今の段階では不明な誰かがコミッショナーの頭越しにボールの変更を事務局長に指示し、たった2,3人で変更を決めてメーカーに極秘で変更させた経緯を、いかなる圧力にも屈せず明らかにしてほしい。そのことが下村氏が望んだように「ファンや選手の信頼回復につながるものでなくてはならない」ことは言うまでもない。
 

でかした、朝日新聞。いじめ自殺中学の実名報道によくぞ踏み切った。

2013-06-11 07:30:12 | Weblog
 朝日新聞がついにタブーに挑戦した。6月10日の夕刊の記事だ。
 今年4月、神奈川県の中学校の2年生が同級生からのいじめを苦に自宅で自殺した事件で、学校名を初めて公表したのである。

湯河原町立 湯河原中学校

 いじめ自殺の舞台になった学校である。同日の読売新聞夕刊は学校名を公表しなかった。学校名どころか、「神奈川県西部」という極めてあいまいな地域の表記にとどめた。これではネット検索すらできない。
 NHKはニュース7で「神奈川県湯河原の中学校」と地域を特定した。当然ネットですぐ検索できた。ニュース7では流さなかった湯河原町教育委員会と学校側の保護者に対する説明会の動画もユーチューブで流されていた。もっともNHKは8時45分からの首都圏ニュースでは説明会の映像を流した。

 私は以前から、いじめ自殺を防げなかった学校名を公表すべきだとブログで何度も主張してきた。私が初めていじめ問題をブログで取り上げたのは2012年8月8日である。それまで2年半、体調を崩してブログ活動を中断していた。
 8月6日、NHKがニュース7でいじめ自殺を報道した。学校名は伏せたが、仙台市の高校という場所を明らかにしたため、すぐネットで仙台育英高校がいじめ自殺の舞台であることが分かった。私はブログでこう書いた。
「このニュースを見た直後、私はNHKのふれあいセンターに電話し、チーフに代わってもらって『なぜ校名を明らかにしなかったのか。これほどいじめが社会問題化している時期に加害生徒を処分せず、逆に被害生徒に自主退学を迫るという悪質な学校名を明らかにしなかったのはなぜか』と苦情を述べた」
 続いて11日には『いじめ社会の復活に手を貸した大手マスコミの罪』という過激なタイトルのブログを投稿した。このブログは大津市立皇字山中学校でのいじめ自殺事件を題材にしたものだった。この事件の時もすべてのマスメディアは学校名を伏せた。が、大津市という場所を特定した報道だったためすぐネットで事件の舞台が明らかになった。このブログで私はこう主張した。
「文科省のいじめ対策に限界がある以上、大手マスコミにはすでに社会問題化し、学校も教育委員会も手が付けられないところまで来てしまったいじめ社会の根絶に腹を据えて取り組む責任と義務がある。被害学生に対する配慮も大切だが(中略)、現在のネット社会が持っている社会的影響力が、もはや大手マスコミの思惑やマスコミの社会にしか通用しなくなった自主規制を完全に過去のものにしてしまったことに、そろそろ気づいてもいいころだ。
 あえて言う。いじめ事件の増大にストップをかけ、被害学生を守る最善の手段はニュース報道で学校名を明らかにしてしまうことだ」
 マスコミが学校内の不祥事を実名で報じた事件が今年に入って生じた。大阪市立桜宮高校のバスケットボール部主将の2年生男子が、顧問の男性教諭の体罰を受けた翌日自宅で自殺した事件である。この事件については校名を実名報道し、仙台育英高校や皇字山中学のいじめ自殺については校名を伏せたのはなぜか。私はNHKと朝日新聞、読売新聞に対し、報道基準を明確にするよう求めた。明確な答えはまったくなかった。で、私は1月24日に『桜宮高校を実名報道し、仙台育英高校や皇字山中学の校名を伏せたマスコミの報道モラルの基準はどこにあるのか』と題するブログを投稿して、こう書いた。
「確かに実名報道はジャーナリズムにとって悩ましい問題であることはわかる。仙台育英高校や皇字山中学の事件は、いじめと無関係な在校生や進学予定の学生に与えるであろう精神的影響や、地域周辺からの、事件を生じた学校に対するいわれのない非難が集中しかねないことを危惧したのかもしれない。だとしたら桜宮高校の場合も実名公表にはしかるべき配慮がされるべきではなかったか」(中略)
「私は桜宮高校の実名を公表すべきではなかったと主張しているのではない。実名を公表する場合、何を目的に公表するのかの基準についての報道機関の無見識を問題にしているのだ。
 日本だけではなく世界的にいじめ問題は社会問題化している。そうした状況の中で生じたいじめ問題を報道する場合、先に述べたような問題点はあるにせよ、いじめを根絶することが報道機関にとって最大の社会的責務であるはずだ。いじめ事件が生じても学校名が公表されないとなると、他の学校や教育委員会は危機感を抱かない。学校が危機感を持って生徒指導に当たるような報道をしない限り『事なかれ主義』の学校や教育委員会の無責任体質は存続されてしまう。報道機関は自らの社会的使命と責任感を自覚して実名報道の基準を明確にしてほしい」
 さらに私は2月3日、『桜宮体罰自殺事件の実名報道をマスコミは重く噛みしめよ』と題するブログを投稿した。「しつこいなぁ」と言わないでほしい。このブログで私はこう書いた。
「桜宮高校の部活体罰が、桜宮高校だけでなく全面的に不可能になったのは、ひとえにマスコミが学校名を実名で報道したからである。つまり部活動体罰が明らかになると学校名が実名で報道されるという危機感を、スポーツに力を入れている学校がいっせいに抱いたという意味合いが、この実名報道の最大の成果だった。
 確かに仙台育英や皇字山中学のいじめ事件を実名報道しなかったマスコミが抱いた『実名報道すると大混乱が生じる可能性』が、桜宮高校の実名報道で検証された。桜宮高校の在学生やその父兄、体罰を行っていなかった部活動顧問教諭や普通科教諭も肩身の狭い思いをしたであろうことは想像に難くない。
 また桜宮高校の『悪名』は当分消えないだろうから、今年の入試は桜宮高校に絞っていた中学生は桜宮高校を受験するだろうが、来年度以降、桜宮高校の受験生が激減することはほぼ間違いない。場合によっては近い将来、桜宮高校は廃校になる可能性すら否定できない。
 そういう意味では非常に大きな犠牲を伴う実名報道だったが、私は『一罰百戒』の効果の方を重視する。この実名報道によって、すべての学校(中学から大学まで)で、スポーツ系部活の在り方が一変することは疑いを容れない。(中略)
 この教訓は学校の体育系部活だけではない。プロ・スポーツの世界でも大きな変化が期待できるし、これまで負のアナウンス効果を恐れて実名報道を避けてきた報道機関にとっても大きな課題を突きつけたといえよう」
 実際、桜宮高校事件の実名報道をきっかけに体育系部活やスポーツ界の体罰が次々に明るみに出て、日本の「しごき」的指導法が完全に見直されることになった。
 いじめ事件の実名報道も、一時的には大混乱を生じるだろうが、長い目で見れば日本の学校からいじめを根絶する最善の方法だと思う。またいじめを根絶するということは、ただいじめがなくなるにとどまらず、スポーツ指導法が「しごき」重視から科学的トレーニング法に転換しようとしているように、社会的弱者に対する思いやりを子供たちの心に育むことにつながるのではないかと思う。また教師の教育目的の中にそういう意識が組み込まれていくことが必至になる。ことさらに「道徳教育」なる教科を設けなくても、いじめを根絶する過程で、子供たちの心にやさしさや思いやりの気持ちが自然に生まれるようになれば、私たち世代は安心して日本の将来を子供たちに託すことができるだろう。

先の大戦でアメリカ兵士もフランス女性をレイプしたり買春していた。

2013-06-05 16:01:52 | Weblog
 やっぱり、と言うべきか。
 AP通信社、ロイター通信社に次ぐ世界3位の規模を有し、世界最初の報道機関とされているフランスのAFP通信社がニュースを流した。先の大戦時における米軍兵士の性犯罪についての研究書籍が6月中にアメリカで刊行されるというのだ。
 先の大戦でヨーロッパの戦局を大きく動かしたとされる米海軍によるノルマンディー上陸作戦の成功後、米軍兵士がフランス女性をレイプする事件が多発し、米兵による買春もあったという。この事実を米仏両国の資料を分析して研究書としてまとめたのが、米ウィスコンシン大学のメアリー・ロバーツ教授だ。ロバーツ教授の研究によれば、当時のある市長は駐留米軍幹部に苦情を申し入れたが、米軍は問題を改善しようとしなかったという。
 この事実は「橋下発言」が虚構ではなく、歴史的事実に基づいたものであったことを証明する結果になった。
 橋下氏は、沖縄における米軍海兵隊兵士によるレイプ事件が後を絶たないことについて、現実的解決策を提言した。その発言に「風俗業の活用」と言う不適切な部分があったため、国内外から袋叩きにあったが、袋叩きにしたほうが歴史的事実に目をつぶった「いいっ子」ぶりをしただけであったことが明らかになったと言えよう。
 確かに「風俗業の活用」は事実上、買春を意味しており、私も不適切な発言であることは、これまで何度もブログで書いてきた。言うまでもなく日本やアメリカでは売買春は法律で禁止されている。しかし日本ではソープランドなど個室での事実上の売春業が公然と行われている。あまりにもあくどい営業をしたりする店には警察による摘発が行われるが、そういう店の経営者はほとんど第三国人である。日本の暴力団も当然売春業を行っているが、当局のお目こぼしの範囲を逸脱しないようにしているようだ。
 一方アメリカは、これもブログで書いたが、ソープランドのような個室での風俗営業は禁止されている。そこでアメリカのダウンタウンの風物詩になっているのがストリートガールなのである。アメリカでのストリートガールの実態を調べようと思ってウィキペディアで検索してみたが、さすがにこの項目についての検索はできなかった。だがヤフーで検索すれば『ことバンク―デジタル大辞泉』で「街頭で男を誘う売春婦。街娼」という説明は載っている。だがストリートガールという言葉の意味の説明だけで、アメリカでの売春業の実態は結局わからなかった。
 私の乏しい知識の範囲で解説すると、アメリカではソープランドのような個室での風俗営業は認められていないため、売春婦は街頭で目を付けた男性を誘い(街頭だけとは限らず、一般のバーなどでも網を張っているようだ)、主に自宅に誘う。当然危険が伴うので、自宅(普通のアパート)の別室にはマフィアなどの用心棒がいて、客と売春婦との間でもめ事が生じたりすると姿を現し、もめ事を解決するという。
 つまりアメリカの男性は、夜更けに人通りが少ない道で女性が一人で歩いていると、勝手にストリートガールなのだと思い込んでいる可能性が考えられる。
 つまり売買春に関する文化や風習の差が米兵の沖縄での性犯罪の大きな要因の一つを占めているのではないだろうか。橋下氏はこの日米の売買春の違いについて、米兵士にきちんと教育することを米軍に要求すべきだった。それを怠って、いきなり「風俗業の活用」を勧めることは、建て前に過ぎないと言っても売買春を禁止している米軍は当惑するしかなかったのだろう。いわば橋下氏がパンドラの箱を開けてしまったというのが、この大騒ぎの原因であった。
 とにもかくにも橋下氏が外国人記者特派員協会が主催した記者会見で謝罪したことで、アメリカ側の反発は収まったようだが、「日本維新の会」の支持率の低下傾向に歯止めが依然としてかからない。だが、それほど橋下氏の発言が女性蔑視、人権無視と批判するなら、いっそのこと個室の風俗営業をアメリカ並みに禁止することを政府に要求したらどうか。
 私は別の意味で「日本維新の会」には問題を感じている。民主党と同様、党綱領さえ作れない政党に日本の将来を託する気になれないからだ。「日本維新の会」は一日も早く橋下・石原両代表の歴史認識を統一して党綱領をまとめ、国民に信を問うべきである。両氏の歴史認識を統一するためのヒントはすでにブログに書いている。