小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

民主主義とは何かが、いま問われている⑱--国会の証人喚問で佐川氏が証言拒否した理由を考えてみた。

2018-03-28 08:25:28 | Weblog
 政治家の関与があったかなかったか、たとえ国会の証人喚問で疑惑の渦中にある人が偽証したとしても、偽証であることを証明することはほぼ不可能だ。
 元財務省理財局局長で、つい最近森友学園への国有地払い下げ問題の責任を取って国税庁長官職を辞した佐川氏が昨日(3月27日)国会の証人喚問(衆参予算委員会)で、自民党・丸川議員の質問に対して「一切なかった」と断言した。自民党幹事長の二階氏は「これで政治家の関与がなかったことが明確になった」と胸をなでおろしたが、佐川氏が本当に真実を語ったか否かを証明することもほぼ不可能だ。
 そもそも証人喚問には限界があった。「刑事訴追の恐れがある」と証人が主張すれば、証言を拒否できる。証人喚問が行われた予算委員会の委員長(議長)が、「この質問は森友問題の核心に触れることだから証言拒否は認めない」と証言を強く求める権限があれば、佐川氏も簡単には逃げられなかったのだが…。
 佐川氏の証言拒否は40数回に及んだという。疑惑の核心に迫る質問には、すべて証言を拒否した。安倍政権を支えるべき立場の丸川氏の「(政治家の関与がなかったというなら)なぜ文書に総理や総理夫人の名前が頻繁に出てくるのか」というきわどい質問に対しては、佐川氏は即答できず「助言」を求めたうえで回答を拒否した。これではたして二階氏が胸をなでおろしたように「政治家の関与はなかったことが明確になった」と言えるのだろうか。
 もともと政治家の関与の有無については、丸川氏の質問もおかしかった。「政治家からの“直接的”関与の有無」を聞くべきだった。「直接的関与」とは、政治家本人または政治家からの指示による秘書等からの面談・文書・電話・メールなどでの働きかけや問い合わせを意味する。佐川氏本人だけではなく財務省職員、とりわけ森友学園側との直接交渉に当たった近畿財務局職員に対して、政治家や秘書などとの「面談はなかったか」「文書での依頼あるいは問い合わせはなかったか」…と一つずつ追及していけば、佐川氏も「関与はなかった」と断言することはできなかったと思う。

 そもそもこの問題の最重要点は、行政が権力(政権)に忖度せざるを得ない実態を国民の前に赤裸々にすることにある。
 森友学園問題に限らず、前川氏の公立中学校での講演(「授業」?)について、文科省職員が自民党文科部会幹部の要請にいとも簡単に応じて中学校側に講演の趣旨や内容を問い合わせるといったことにも表れている「行政の権力(政権)への隷属」関係の解明こそが最優先されなければならない。
 将来の総理総裁が確実視されている小泉進次郎氏が怒りを込めて囲み取材の記者たちに言ったように「(この問題は)与党も野党も関係ない」。実際、民主主義の根幹が揺らぎつつあることが、いま問われているのだ。
 私はブログで『民主主義とは何かが、いま問われている』というタイトルのシリーズをこれまで17回にわたって書いてきた。民主主義というと多くの人たちは、その言葉自体にはほとんど疑問を抱いていない。私のシリーズは、民主主義を否定するためではなく、民主主義はいまだ発展途上の政治システムであり、人類が2000年以上の歴史を経て試行錯誤しながら、ときには「一歩前進二歩後退」を繰り返しながら、「より良き民主主義制度」の実現に向けて血のにじむような努力を重ねてきた過程に過ぎないことを訴え続けてきた。
 安倍総理は「アメリカなど共通の価値観を有する国との良好な関係を築く」ことをしばしば強調するが、安倍さんは「民主主義とは何か」がまったくわかっていない。彼が言う「共通の価値観」とは日本にとって、あるいは安倍政権にとって都合がいい部分で価値観を共有できれば、それでいいということのようだ。
 しかし、はっきりしておかなければならないことが二つだけある。
 一つは民主主義とは政治のシステムであり、国によってそのシステムは違うということ。
 もう一つは、「民主主義は理想的な政治システムだ」と多くの人たちは錯覚しているようだが、民主主義には大きな欠陥があり、それは「多数決原理」にあるということが分かっていない。議会の多数決で決議すれば、どんな悪法でも効力を持ち、その法に国民は縛られることになる。この欠陥の「対症療法」として「少数意見にも耳を傾ける」という原則が民主主義のシステムには導入されてはいるが、少数意見が議決で採択されることはあり得ない。民主主義の原則に反するからだ。
 だからこそ私たちは、血のにじむような努力を重ねて民主主義制度の在り方を常に問いつつ、民主主義をより成熟させていく義務がある…と私は思っている。そして人類は民主主義をより良き制度にしていく過程で「三権分立」という制度を作り上げた。人類の英知のたまものの最大の一つといっても差し支えない。
 三権分立は、権力の一極集中による独裁政治を排するためロック(英)やモンテスキュー(仏)などの思想家が唱え、1789年のフランス人権宣言で採用され、自由主義各国の近代憲法に強い影響を与えた基本的理念だ。国家権力を立法・行政・司法のそれぞれ独立した機関に担当させて相互に抑制・均衡を図ることで権力の乱用を抑制し、国民の権利・自由を確保しようというシステムで近代民主主義の原理原則として多くの国で確立されている。日本も、この基本原則を採用したはずだった。
 が、現在の日本の場合、この原則が必ずしも守られていない。やむを得ない部分もあるのだが、しばしば立法府に属する政治家が行政に介入する余地を排除できないのだ。とくに2014年5月30日、「官僚主導から政治主導へ」のキャッチフレーズによって内閣官房に設置された内閣人事局が、官公庁の審議官以上の幹部国家公務員約600人の人事権を掌握するようになって以降、省庁の幹部が権力の顔色をうかがう傾向が強くなったと言われる。たとえば、前川氏の講演に対する政治家の介入に対して、文科省職員の「いまの文科省には政治に逆らえる力がない」との自嘲的発言が報道されたように、「政治主導」の意味が「省庁は政治家の言いなりになれ」と履き違えられているのかもしれない。
 はっきり言って国家公務員は行政のプロである。官僚主導が「省益あって国益なし」と言われるような省庁間の縄張り争いや行政の歪みをもたらした側面は否定できず、政治主導が必ずしも間違っているとは思わないが、政治家が行政のプロと対等にやりあうためには省庁のトップである担当大臣がそれなりの見識と専門知識に精通する必要がある。が、内閣人事が派閥の均衡や論功行賞などで決められている状況で、見識も知識もない大臣がでかい面をするようになると、霞が関が「忖度社会」にならざるを得ないのは論理的必然でもある。
 ある意味、佐川氏は「忖度社会」が生んだ「犠牲者」と言えなくもない(かといって、私は彼に同情しているわけではない。内閣人事局は佐川氏を懲戒免職にして、退職金も支払わないという処罰を科すべきだと私は考えている)。官邸のために身を捧げた佐川氏に対して、内閣人事局が厳しい処分を行えば、霞が関の住民が「こんなばかばかしい忖度社会はやめよう」と、権力に反旗を翻すようになるかもしれないからだ。
 民主主義を一歩前進させる機会に森友問題がなれば、安倍総理の強権体質や佐川氏の忖度的生き方も、日本社会に大きな貢献を果たすことになるかも…。

森友学園問題で昭恵夫人の直接的関与はあったのか?

2018-03-23 00:29:04 | Weblog
 今日のブログは、ちょっと遊んでみたい。あくまで遊びだから、確実な事実に基づいた推論ではない。読者の皆さんも、同様に論理力を働かせて論理のゲームに挑んでみてもらえたらと思う。
 私の推理ゲームの前提は、すでに前回のブログ(16日投稿)で書いた。
 忖度…という意味についてである。
 忖度という言葉が昨年の流行語大賞を受賞したことは皆さんもご存じだと思う。この年の流行語大賞には「忖度」と一緒に「インスタ映え」も選ばれた。インスタ映えはまったくの新語だが、忖度は国語辞書なら必ず載っている日本語だ。ほとんど死語になっていた忖度という言葉が一気に流行語になったのは、森友学園の籠池理事長(前)が国会の証人喚問(昨年3月23日)で昭恵夫人の関与について語った証言の中で使ったからだ。
 すでに明らかになっているように、籠池氏は昭恵夫人との関係の深さを、財務省官僚との国有地払い下げ交渉でフルに利用した。籠池氏は、昭恵夫人が国有地払い下げ交渉の過程でどういう役割を果たしたかについては何も言っていない。ただひたすら昭恵夫人が新学校創設にどんなに力を入れてくれているかを、様々の手段で財務官僚に思い込ませることに成功しただけだ。だから籠池氏は、官僚が「忖度を働かせてくれたのだろう」と証人喚問の場で語ったのだ。
 実はこの時期、私は大きな病を抱えてブログ活動を休止している。私の手元にある記録によれば、ブログ活動を休止する前の直近のブログは1月30日である。休止期間はかなり長く、再開したのが6月6日だ。その再開第1号のブログで私はこう書いている。


  再開第1回のブログは、やはり今国会やメディアで大問題になっている加計学園問題を取り上げることにする。
「権力は必ず腐敗する」とは言い古された格言だが、今まさに日本でそういう事態が現在進行形の真っ最中と言っても過言ではないだろう。
 なぜ権力は腐敗するのか。
 今年の流行語大賞の有力候補と目されている、「忖度」が機能するからではないだろうか。安倍総理が直接「腹心の友」である加計孝太郎氏のために「一強」と言われる権力を行使したのかどうかはわからない。私自身は、安倍総理がそんなリスクを冒すほどのバカではないと思っている。
 だが、安倍総理と加計氏の関係は官邸では早くから知れ渡っていたようだ。総理夫人の昭恵氏が二人の親しさをうかがわせる写真をSNSで明らかにし「男たちの悪巧み!」などという冗談交じりのコメントを付けたくらいだから、官邸が「安倍総理の加計氏に対する心情」を忖度しただろうことは想像に難くない。

 私は前回のブログで「忖度」について、こう書いた。

 そもそも財務省は官庁中の官庁と言われ(予算を握っているため、他の官庁は財務省に頭が上がらない)、財務省官僚はそれなりの矜持を持っていると言われる。その財務省官僚が、なぜ森友学園のために常識的にはあり得ない便宜を図ったのか。また決裁文書を改ざんしてまで、累(るい)が権力に及ばないような忖度をしたのか。実際財務省OB(旧大蔵省も含め)はメディアで全員「あり得ないこと」と発言している。現職の自民党議員もだ。
 そもそも忖度というのは、忖度した相手に、その意が伝わらなければ意味をなさない。当然財務省が誰かのために格別の配慮をしたのであれば、その意を相手に伝わるようにしていたはずだ。ひとりよがりの片思いで、ストーカーまがいの「忖度」をするほどのバカ集団ではありえない。

 つまり籠池氏が財務省との交渉で昭恵夫人との関係をこれでもか、これでもかというほどに強調したのは、財務省官僚に忖度を働かせることが目的だった。
 交渉は、政治の世界であろうとビジネスの世界であろうと、ある種ゲーム的要素を持っている。どうやって交渉相手を自分のペースに巻き込むかが、交渉ごとにおける勝負を決する。籠池氏と、国有地払い下げ交渉にあたった財務省官僚は、そうした籠池氏の交渉テクニックに見事に手玉に取られたというしかない。初心(うぶ)なのか、バカだったのかは、私の知ったことではない。
 おそらく昭恵夫人そのものは、この払い下げ問題に関して直接財務省に働きかけるなどの圧力をかけたりはしていないと思う。もし、していれば、それなりの証拠が残っているはずだ。いわゆる「森友文書」にも、昭恵夫人への忖度を伺わせる表現は盛り込まれているが、それは実際に昭恵夫人が直接何らかの働きかけをしたという証拠にはならない。官僚に忖度させようと、昭恵夫人の名前を頻繁に出したのは、交渉を有利に進めるための籠池氏のテクニックというべきだろう。
 なお、昨年の流行語大賞の受賞者は、この言葉を一気に広めた籠池氏ではなく、忖度という言葉が社会で広まった(一種の社会現象)後に、便乗商法で「忖度まんじゅう」を作って販売したヘソプロダクションの代表取締役・稲本ミノル氏だった。選考者は何を考えているのか。「忖度まんじゅう」を貰って、忖度したのだろうか。授賞式で稲本氏は「このたびは大きな忖度をしてくださり、ありがとうございます」(朝日新聞)と謝辞を述べたようだ。

 ついでに、財務省官僚がなぜ禁じ手を使ったのか。
 禁じ手とは、言うまでもなく決裁文書の改ざんである。決裁文書は30年間の保存が法律で義務付けられている。
 ちょっと気になったので裁判の判決文の保存期間をネットで調べてみた。死刑・無期などの重罪の刑事事件の場合は100年、民事事件は50年ということだった。もちろん判決後に、判決文を書き換えるなどということは想定外だ。
では官公庁の決裁文書の改ざんについてはどうなのか。公文書偽造は1年以上10年以下の懲役刑だ。決して軽い刑ではない。当然、元財務省理財局局長だった佐川氏は、公文書偽造の重罪性は熟知していたはずだ。
にもかかわらず、国会答弁で「記録は残っていない」と、公文書改ざんの事実の隠ぺいに奔走した。なぜか。
安倍総理が「もし森友学園問題に私や妻がかかわっていたら、私は総理も国会議員もやめる」と大見得を切ってしまったことにすべての原因がある。総理はこの発言で、自らの政治家としてのけじめのつけ方を表明することで、国民から拍手喝さいを貰えると考えたのかもしれないが、そういう結果にはならなかった。かえってこの軽はずみな発言が自らを窮地に追い込むことになる。
官僚が、ある日突然、国会に呼び出されるなどということはない。国会で答弁するときは、あらかじめ国会議員からどんな質問が浴びせられるか、百も承知で国会に出向く。
おそらく佐川氏が国会で答弁する前に、佐川氏は部下から交渉経緯についてはすべてを聞いていたはずだ。で、財務省として「交渉経緯は絶対に秘匿しなければならない」と考えたのだろう。安倍総理に対する忖度が働いた可能性が限りなく高い。そのため、決裁文書を改ざんして昭恵夫人や政治家の名前をすべで消去することにした。そう考えるのが自然だ。
朝日新聞がこの文書改ざんの事実をどうやってつかんだのかは私も分からないが(たぶん内部告発)、3月2日の朝刊1面トップでスクープした。それから次から次へと、財務官僚の悪巧みが明るみに出てきた。
安倍総理が、総理の重職にあるまじき、あまりにも軽はずみな答弁をしてしまったことが、すべての原因である。自らまいた種によって霞が関に大混乱を巻き起こし、国民の行政不信を極限まで招いた。その責任は、安倍さんや官邸が考えているほどには軽くない。
「官僚が、勝手に忖度した。オレ、知ーらない」などという言い訳は、この際通用しない。自分が蒔いた種は、自ら刈り取る…それが最高責任者としてのけじめのつけ方だ。最高責任者は、言うまでもないが、佐川氏ではない。




「森友文書」が改ざんされたのはいつか…佐川氏の国会答弁の前か後か?

2018-03-16 03:26:49 | Weblog
 「森友文書」と言われている文書は複数存在する。それらの文書がいつ「改ざん」されたのかについて、私は少し前から疑問を持つようになった。
 私が疑問を持つにいたったきっかけは、麻生財務大臣が「国会での佐川答弁と齟齬を生じないために財務省理財局が勝手にやった。当然文書改ざんの責任者は理財局トップの佐川局長(当時)だ」と記者会見で断定的に言い切ったからだ。
 佐川答弁とは、昨年2月の国会で「森友学園側との交渉記録は一切破棄した」「売り渡し価格についての事前交渉は一切していない」「政治家などの関与は一切ない」などと断定して森友疑惑を闇に葬ろうとしたことを指す。
 この佐川答弁で、いったん森友疑惑は闇に葬られるかと思ったが、最初に森友疑惑(国有地を破格の価格で森友学園に払い下げようとしたこと)を最初に報じた朝日新聞が、今年3月2日、再び「森友文書書き換え疑惑」を執念でスクープしたことから再度火を噴いた。
 そして文書の書き換え(もはや「改ざん※」と言って差し支えないが…)の事実が次々と明るみに出て、上から書き換えを命じられたとみられる近畿財務局の職員が自殺したことが明るみに出た時点で事態は一変する。
  ※「改ざん」とは厳密な意味では自分に都合がいいように元の文書を書き
換えることを意味するが、実際には「書き換えた」のではなく、都合の悪い個所を削除したようだ。
 とりあえずNHKを除いてほぼすべてのメディアが「改ざん」という表現で統一しているので(NHKだけが「書き換え」と言い続けている)、このブログでも「改ざん」として扱うが、麻生氏の主張によれば財務省理財局が「独断で」(つまり官邸は関与せず自分たちだけの判断で)改ざんしたことになるが、その主張にはどう考えても論理的に無理がある。
 というのは、なぜ理財局が改ざんする必要があったのかということで、そのことはメディアの記者たちも麻生氏を追及したが、麻生氏は「私は分からん。佐川(※この記者たちへの発言から佐川氏を呼び捨てにするようになった)に聞いてくれ」と逃げた。「私は分からん」という以上、麻生氏をそれ以上追及できないように見えるが、理事局が勝手に改ざんしたとすると、「理財局に改ざんする必然性があるのか」という疑問が生じる。
 麻生氏は「佐川の国会答弁との齟齬(そご)をきたさないように改ざんしたのだろう」と想像をたくましくした見解を述べたが、果たして佐川答弁との齟齬をきたさないために複数の文書を財務省総がかりで改ざんしたのだろうか。
 もしそうだとすると、前回のブログで書いたように佐川氏は国会答弁で数々のウソをついたことになる。佐川氏は、なぜ国会でウソをつく必要があったのか。もし官僚の人事権を握る官邸から「国会答弁でウソをついてくれたら国税庁長官に昇進させる」というエサをぶら下げられていたとすれば、佐川氏ならずとも喜んで虚偽答弁をするかもしれないが…。
 その場合、佐川氏は国会で確信的にウソの答弁をしたことを意味する。実際国会答弁のときの映像を昨日(15日)のテレビ朝日『報道ステーション』が放映したが、何度も何度も部下からサジェッションを受けたり、メモを見せてもらったりしながら答弁していた。このことは何を意味するか。なにかとの齟齬をきたすことがないように慎重に答弁していたからではないだろうか。
 実は、そうした事情をうかがわせる要素を、やはり昨日のNHK『ニュース7』が報道した。その個所をネット配信したNHKのニュース原稿を転記する。

関係者の取材で、この職員(※自殺した近畿財務局の職員)が、上からの指示で文書を書き直させられた、といった内容が書かれたメモを残していたことがわかりました。このメモは数枚にわたって書かれていて、決裁文書の調書の部分が詳しすぎると言われ上司に書き直させられたとか、勝手にやったのではなく財務省からの指示があった、このままでは自分1人の責任にされてしまう、冷たい、などという趣旨の内容も書かれていたということです。
このほか、去年2月以降の国会で財務省側が学園との交渉記録は破棄したとする答弁(※佐川答弁のこと)をしていることについて、資料は残っているはずで、ないことはあり得ない、などと疑問を投げかける内容も書かれていたということです。

 このNHKの報道が事実とすれば、文書の書き換え(改ざん)は昨年2月の佐川氏の国会答弁の前に行われていたことになる。そうだとすれば、すべての疑問が氷解するのだ。事実関係が不明なのに、なぜ麻生氏が「佐川答弁と齟齬をきたさないように(佐川答弁の後で)文書の改ざんを行った」と言い切った理由もはっきりする。
 そもそも財務省は官庁中の官庁と言われ(予算を握っているため、他の官庁は財務省に頭が上がらない)、財務省官僚はそれなりの矜持を持っていると言われる。その財務省官僚が、なぜ森友学園のために常識的にはあり得ない便宜を図ったのか。また決裁文書を改ざんしてまで、累(るい)が権力に及ばないような忖度をしたのか。実際財務省OB(旧大蔵省も含め)はメディアで全員「あり得ないこと」と発言している。現職の自民党議員もだ。
 そもそも忖度というのは、忖度した相手に、その意が伝わらなければ意味をなさない。当然財務省が誰かのために格別の配慮をしたのであれば、その意を相手に伝わるようにしていたはずだ。ひとりよがりの片思いで、ストーカーまがいの「忖度」をするほどのバカ集団ではありえない。
 ここからは私の推測だが、昨年朝日新聞が森友学園への国有地払い下げで異例の便宜を近畿理財局が行ったことをスクープし、国会で野党から追及されるハメになった時点で、財務省と官邸がこの危機を乗り切るために、共同作業で文書の改ざんに取り組んだと考えるのが一番自然だ。
 そう考えれば、佐川氏が国会で部下にいちいちサジェッションを受けたりメモを貰ったりして、官邸に累が及ばないような答弁をした理由も納得がいくし、佐川氏の国税庁長官への昇進についても総理や麻生氏が「適材適所」とかばい続けた理由も納得がいく。
 佐川氏の国税庁長官就任で、現場の税務署職員が納税者との対応で窮地に陥っていることは総理や麻生氏も報道で熟知していたはずで、佐川氏の個人的能力は別としても、現場の部下たちを窮地に追い込むような人事を「適材適所」と言い切れる神経に、前にもブログで書いたが私はあきれていた。権力者というのは、そのくらい図太くないと地位を保てないということなのだろう。
 さらにあきれるしかないのは、文書の改ざんが明らかになった途端、これまで「適材適所」とかばい続けてきた佐川氏を、たちまち「文書改ざんの張本人」と決めつけて“トカゲのしっぽ切り”に走ったことだ。「かばうなら、最後までかばってやれよ」と、言いたくなる。
 こうなったら、どの道佐川氏の「これから」は断たれてしまったのだから(佐川氏の身の振り方についてはメディアが徹底的に追いかけるから、はっきり言ってどうにもならない)、佐川氏としてはもう洗いざらいぶちまけて、官邸と差し違えするところまで腹をくくってもらいたい。そうすれば、佐川氏の新しい「これから」の道も開けるかもしれない。私は、そう願う。

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

森友文書問題の真相を解明する最重要な視点はこれだ。

2018-03-12 23:52:14 | Weblog
 森友文書問題の最大のポイントは、文書の「書き換え」をだれが、いかなる権限で、どういう目的で行ったか…ではない。
 この問題の最大のポイントは、南スーダンに派遣された自衛隊PKO部隊が現地で遭遇した事件についての稲田防衛相(当時)の国会答弁と同じ性質の問題だということにある。
 この事件はPKO活動に従事していた自衛隊のすぐ近くで政府軍と反政府軍の衝突があり、現地部隊から防衛省に報告も届いていた。が、防衛省は現地部隊に撤収を命じなかった。そうした対応について国会で稲田防衛相が野党から追及された時の稲田氏の答弁は「(現地部隊からの)日報についての報告は受けていない」「日報隠ぺいについて了承したこともない」の一辺倒だった。が、防衛省幹部は「防衛相に報告をあげている」と、稲田答弁を真っ向から否定した。
 この問題について私は昨年8月11日に投稿したブログ『南スーダンPKOの「日報隠ぺい」問題の真相を論理的に解明してみた』で書いたので、このブログでは繰り返さないが、二つのケースを軸に考えてみた。一つは稲田氏が「ウソをついていた場合」の動機とその背景。もう一つは稲田氏が「ウソをついていなかった場合」の危険性。「危険性」と書いたのは、もし稲田氏がウソをついていなかったとしたら、自衛隊は文民統制の大原則を無視して、防衛省の判断でPKO活動を推進しようとしていたことになるからだ。
 同様に森友文書問題も同じように考えてみよう。
 決裁文書に書き換えがあったことはもはや明々白々になった。最大の問題は、「書き換え」そのものの追及ではない。「交渉過程を記録した文書は廃棄した」「政治家や第三者の関与はない」と言い切った佐川理財局長(当時)の国会答弁は「ウソ」だったのか否かである。
 佐川氏自身に「ウソ」という認識がなかったとしたら、そこまで断定的に国会で言い切れるわけがない。「省内で徹底的に調べさせる」と調査を約束していたはずだ。
 書き換え前の決裁文書が、佐川答弁の前に作られていたことも、麻生財務相が明言している(これもウソでなければ)。麻生氏によれば、「佐川答弁との齟齬(そご)をきたさないように、理財局のだれかが書き換えたのだろう」。
 となると、佐川氏がウソ(つまり国会での虚偽答弁=偽証)をついたのか、それとも最初の(つまり「書き換え」前の)決裁文書がウソ八百の「作文」だったのかということしか考えられない。
 もし佐川答弁がウソで固められていたのだとしたら、佐川氏がなぜ犯罪行為である国会での虚偽答弁=偽証を行ったのか…その問題を徹底的に追及しなければならない。
 佐川氏自身にウソをつかねばならない自らの事情があったとは考えにくいから、なぜウソをついたのかを彼自身の口から国会で証言させる必要がある。その場合、当然考えられるのは昭恵夫人の関与を隠ぺいするために「文書は破棄した」「第三者の関与はない」と言わざるを得なかったのだろうという推測だ。
 一方、もし佐川氏にウソという認識がなかったとしたら、財務省内部のだれかがウソ八百の「作文」を作ったということになるが、そんな「作文」が公式の決裁文書として省内で承認されるだろうか。もし万が一、そういう事態が起こりうるとしたら、財務省は直ちに解体しなければならない。
 このブログは12日中に投稿したいため、ここまでにする。

「働き方改革」から「働かせ方改革」へ。

2018-03-03 01:20:13 | Weblog
 安倍総理が、今国会の重要法案と位置づけていた「働き方改革」関連法案のうち、裁量労働制の拡大がとん挫した。厚労省が行った労働時間の実態調査がでたらめで、そのデータを根拠にして「裁量労働制の労働時間のほうが一般労働者の労働時間より短いというデータもある」と、国会で答弁した安倍総理の面目が丸つぶれになったためである。
 どうしてそんなでたらめなデータが出てきたのか。厚労省の調査がずさんだったせいか。それとも「働き方改革」関連法案を何が何でも成立させるために、都合がいいようにデータをねつ造したためか。ねつ造したにしては、あまりにもお粗末なやり方と言えなくもないが、調査がずさんだったとすれば調査にかかわった職員や官僚は義務教育をちゃんと受けてきたのか、と疑いたくなるほどのひどさだ。
 政府は調査をやり直して再度裁量労働制の拡大を法制化するとしているが、こんなでたらめな調査をした職員たちに再調査させても、国民は納得しないだろう。とにかく、一国の総理に赤っ恥をかかせた厚労省幹部の責任は軽くない。事務次官以下、責任を取って引責辞職に追い込まれる官僚の数がどのくらいになるか、見ものではある。
 厚労省の責任問題はさておくとして、私は「働き方改革」の考え方そのものに少なからず疑問を抱いていた。
 政府の産業競争力会議(議長・安倍総理)が、労働時間を基準に賃金を支払うのではなく、労働の成果に応じて賃金を支払うよう賃金制度を改めるという「成果主義賃金制度」導入の検討を開始したのは2014年5月である。私はこの時、3回にわたって(5月21~23日)『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』と題するブログを書いた。少なくとも、この時期、安倍内閣は「同一労働同一賃金」を念頭には置いていなかった。ただ、労働界や野党から「残業代セロ政策」と批判された「成果主義賃金制度」を、その年6月に改定する予定だった成長戦略に盛り込むことだけしか考えていなかったようだ。
 この時期の「成果主義賃金制度」は年収1000万円以上の従業員を対象にしたもので職種は問わず、また年収1000万円以下の従業員でも本人が同意すれば対象にできるというものだった。この構想が3年半たって、同一労働同一賃金制を前提にした裁量労働制と高度プロフェッショナル制度として「働き方改革」関連法案になったという経緯がある。
 私は制度そのものに真っ向から反対しているわけではない。先進国の中で異常に低いと言われている日本人の労働生産性向上と、また異常に長いと言われている長時間労働体質の根本的改善につながるのであれば、大いに結構なことだと思ってはいる。
 日本生産性本部の集計によれば、2016年の日本人の1時間当たり労働生産性(付加価値)はOECD加盟国35か国中20位で、主要先進7か国の最下位であった(データが取得可能な1970年以降連続最下位を記録中)。一人あたりの生産性はアメリカやドイツの3分の2である。
 日本人の能力がそれだけ低いのであれば、他の先進国に比べて労働生産性が低くても仕方がないと思う。が、私も一人の日本人として、そんな自虐的な気持ちには到底なれない。日本人の能力が、世界に冠たるほど優れているとまではうぬぼれていないが、先進7か国中50年近くにわたって最低の労働生産性を記録しなければならないほどの低能民族とはいくらなんでも思えない。
 だとしたら、どうすれば日本人の労働生産性を向上できるのか。安倍内閣の「働き方改革」で、日本人の労働生産性が格段に向上できるのか。労働生産性を向上させることができないような「働き方改革」は長時間労働の蔓延化と過労死の増加しか結果しないのではないだろうか。
 で、私は安倍さんの頭の中を180度ひっくり返してみることにした。つまり、裁量労働制は、給与に見合った成果を上げることだけを従業員に約束させ、勤務時間管理は完全に廃止することにしたらどうか、と考えてみた。具体的には裁量労働制や高プロ対象の従業員は、出退勤自由、仕事をする場所も自由、給料は定額で残業代はないが、1日の労働時間の制約も一切ない。ただし、裁量労働制や高プロ対象の仕事は厳密に制御され、対象以外の労働に従事した場合は無条件に時間外労働の対象として割増賃金を支払わせる。
 さらに、長時間労働が会社にとっても大きな負担になるように、時間外労働の割増賃金基準を大幅にアップする。現在の25%増は50%増に、50%増は100%増に引き上げる。そうすれば残業が多い会社は人件費倒産に追い込まれるから、多くの会社は例えば1か月の残業は30時間以内に制限するようになる。
 つまり「働き方改革」から「働かせ方改革」に成長戦略のスタンスを180度ひっくり返すのだ。そうすれば、長時間労働も過労死問題も一気に解決する。こうして労働生産性をアメリカやドイツ並みにアップすれば、自動的に労働時間もいままでの3分の2に減らすことができる。
 私自身の経験から、翌日まで疲労を持ちこさずに仕事に集中できる時間はせいぜい1日4~5時間である。それ以上仕事をすれば、間違いなく集中力は低下するし、能率も下がる。ミスも増える。日本人の労働生産性が低いのは、そのせいであることにそろそろ気がついてもいいころだ。つまり、部下を長時間働かせる上司は「無能」という烙印を押せるような社会環境に転換していくことが、すべての問題を解決する道だ。