政治家の関与があったかなかったか、たとえ国会の証人喚問で疑惑の渦中にある人が偽証したとしても、偽証であることを証明することはほぼ不可能だ。
元財務省理財局局長で、つい最近森友学園への国有地払い下げ問題の責任を取って国税庁長官職を辞した佐川氏が昨日(3月27日)国会の証人喚問(衆参予算委員会)で、自民党・丸川議員の質問に対して「一切なかった」と断言した。自民党幹事長の二階氏は「これで政治家の関与がなかったことが明確になった」と胸をなでおろしたが、佐川氏が本当に真実を語ったか否かを証明することもほぼ不可能だ。
そもそも証人喚問には限界があった。「刑事訴追の恐れがある」と証人が主張すれば、証言を拒否できる。証人喚問が行われた予算委員会の委員長(議長)が、「この質問は森友問題の核心に触れることだから証言拒否は認めない」と証言を強く求める権限があれば、佐川氏も簡単には逃げられなかったのだが…。
佐川氏の証言拒否は40数回に及んだという。疑惑の核心に迫る質問には、すべて証言を拒否した。安倍政権を支えるべき立場の丸川氏の「(政治家の関与がなかったというなら)なぜ文書に総理や総理夫人の名前が頻繁に出てくるのか」というきわどい質問に対しては、佐川氏は即答できず「助言」を求めたうえで回答を拒否した。これではたして二階氏が胸をなでおろしたように「政治家の関与はなかったことが明確になった」と言えるのだろうか。
もともと政治家の関与の有無については、丸川氏の質問もおかしかった。「政治家からの“直接的”関与の有無」を聞くべきだった。「直接的関与」とは、政治家本人または政治家からの指示による秘書等からの面談・文書・電話・メールなどでの働きかけや問い合わせを意味する。佐川氏本人だけではなく財務省職員、とりわけ森友学園側との直接交渉に当たった近畿財務局職員に対して、政治家や秘書などとの「面談はなかったか」「文書での依頼あるいは問い合わせはなかったか」…と一つずつ追及していけば、佐川氏も「関与はなかった」と断言することはできなかったと思う。
そもそもこの問題の最重要点は、行政が権力(政権)に忖度せざるを得ない実態を国民の前に赤裸々にすることにある。
森友学園問題に限らず、前川氏の公立中学校での講演(「授業」?)について、文科省職員が自民党文科部会幹部の要請にいとも簡単に応じて中学校側に講演の趣旨や内容を問い合わせるといったことにも表れている「行政の権力(政権)への隷属」関係の解明こそが最優先されなければならない。
将来の総理総裁が確実視されている小泉進次郎氏が怒りを込めて囲み取材の記者たちに言ったように「(この問題は)与党も野党も関係ない」。実際、民主主義の根幹が揺らぎつつあることが、いま問われているのだ。
私はブログで『民主主義とは何かが、いま問われている』というタイトルのシリーズをこれまで17回にわたって書いてきた。民主主義というと多くの人たちは、その言葉自体にはほとんど疑問を抱いていない。私のシリーズは、民主主義を否定するためではなく、民主主義はいまだ発展途上の政治システムであり、人類が2000年以上の歴史を経て試行錯誤しながら、ときには「一歩前進二歩後退」を繰り返しながら、「より良き民主主義制度」の実現に向けて血のにじむような努力を重ねてきた過程に過ぎないことを訴え続けてきた。
安倍総理は「アメリカなど共通の価値観を有する国との良好な関係を築く」ことをしばしば強調するが、安倍さんは「民主主義とは何か」がまったくわかっていない。彼が言う「共通の価値観」とは日本にとって、あるいは安倍政権にとって都合がいい部分で価値観を共有できれば、それでいいということのようだ。
しかし、はっきりしておかなければならないことが二つだけある。
一つは民主主義とは政治のシステムであり、国によってそのシステムは違うということ。
もう一つは、「民主主義は理想的な政治システムだ」と多くの人たちは錯覚しているようだが、民主主義には大きな欠陥があり、それは「多数決原理」にあるということが分かっていない。議会の多数決で決議すれば、どんな悪法でも効力を持ち、その法に国民は縛られることになる。この欠陥の「対症療法」として「少数意見にも耳を傾ける」という原則が民主主義のシステムには導入されてはいるが、少数意見が議決で採択されることはあり得ない。民主主義の原則に反するからだ。
だからこそ私たちは、血のにじむような努力を重ねて民主主義制度の在り方を常に問いつつ、民主主義をより成熟させていく義務がある…と私は思っている。そして人類は民主主義をより良き制度にしていく過程で「三権分立」という制度を作り上げた。人類の英知のたまものの最大の一つといっても差し支えない。
三権分立は、権力の一極集中による独裁政治を排するためロック(英)やモンテスキュー(仏)などの思想家が唱え、1789年のフランス人権宣言で採用され、自由主義各国の近代憲法に強い影響を与えた基本的理念だ。国家権力を立法・行政・司法のそれぞれ独立した機関に担当させて相互に抑制・均衡を図ることで権力の乱用を抑制し、国民の権利・自由を確保しようというシステムで近代民主主義の原理原則として多くの国で確立されている。日本も、この基本原則を採用したはずだった。
が、現在の日本の場合、この原則が必ずしも守られていない。やむを得ない部分もあるのだが、しばしば立法府に属する政治家が行政に介入する余地を排除できないのだ。とくに2014年5月30日、「官僚主導から政治主導へ」のキャッチフレーズによって内閣官房に設置された内閣人事局が、官公庁の審議官以上の幹部国家公務員約600人の人事権を掌握するようになって以降、省庁の幹部が権力の顔色をうかがう傾向が強くなったと言われる。たとえば、前川氏の講演に対する政治家の介入に対して、文科省職員の「いまの文科省には政治に逆らえる力がない」との自嘲的発言が報道されたように、「政治主導」の意味が「省庁は政治家の言いなりになれ」と履き違えられているのかもしれない。
はっきり言って国家公務員は行政のプロである。官僚主導が「省益あって国益なし」と言われるような省庁間の縄張り争いや行政の歪みをもたらした側面は否定できず、政治主導が必ずしも間違っているとは思わないが、政治家が行政のプロと対等にやりあうためには省庁のトップである担当大臣がそれなりの見識と専門知識に精通する必要がある。が、内閣人事が派閥の均衡や論功行賞などで決められている状況で、見識も知識もない大臣がでかい面をするようになると、霞が関が「忖度社会」にならざるを得ないのは論理的必然でもある。
ある意味、佐川氏は「忖度社会」が生んだ「犠牲者」と言えなくもない(かといって、私は彼に同情しているわけではない。内閣人事局は佐川氏を懲戒免職にして、退職金も支払わないという処罰を科すべきだと私は考えている)。官邸のために身を捧げた佐川氏に対して、内閣人事局が厳しい処分を行えば、霞が関の住民が「こんなばかばかしい忖度社会はやめよう」と、権力に反旗を翻すようになるかもしれないからだ。
民主主義を一歩前進させる機会に森友問題がなれば、安倍総理の強権体質や佐川氏の忖度的生き方も、日本社会に大きな貢献を果たすことになるかも…。
元財務省理財局局長で、つい最近森友学園への国有地払い下げ問題の責任を取って国税庁長官職を辞した佐川氏が昨日(3月27日)国会の証人喚問(衆参予算委員会)で、自民党・丸川議員の質問に対して「一切なかった」と断言した。自民党幹事長の二階氏は「これで政治家の関与がなかったことが明確になった」と胸をなでおろしたが、佐川氏が本当に真実を語ったか否かを証明することもほぼ不可能だ。
そもそも証人喚問には限界があった。「刑事訴追の恐れがある」と証人が主張すれば、証言を拒否できる。証人喚問が行われた予算委員会の委員長(議長)が、「この質問は森友問題の核心に触れることだから証言拒否は認めない」と証言を強く求める権限があれば、佐川氏も簡単には逃げられなかったのだが…。
佐川氏の証言拒否は40数回に及んだという。疑惑の核心に迫る質問には、すべて証言を拒否した。安倍政権を支えるべき立場の丸川氏の「(政治家の関与がなかったというなら)なぜ文書に総理や総理夫人の名前が頻繁に出てくるのか」というきわどい質問に対しては、佐川氏は即答できず「助言」を求めたうえで回答を拒否した。これではたして二階氏が胸をなでおろしたように「政治家の関与はなかったことが明確になった」と言えるのだろうか。
もともと政治家の関与の有無については、丸川氏の質問もおかしかった。「政治家からの“直接的”関与の有無」を聞くべきだった。「直接的関与」とは、政治家本人または政治家からの指示による秘書等からの面談・文書・電話・メールなどでの働きかけや問い合わせを意味する。佐川氏本人だけではなく財務省職員、とりわけ森友学園側との直接交渉に当たった近畿財務局職員に対して、政治家や秘書などとの「面談はなかったか」「文書での依頼あるいは問い合わせはなかったか」…と一つずつ追及していけば、佐川氏も「関与はなかった」と断言することはできなかったと思う。
そもそもこの問題の最重要点は、行政が権力(政権)に忖度せざるを得ない実態を国民の前に赤裸々にすることにある。
森友学園問題に限らず、前川氏の公立中学校での講演(「授業」?)について、文科省職員が自民党文科部会幹部の要請にいとも簡単に応じて中学校側に講演の趣旨や内容を問い合わせるといったことにも表れている「行政の権力(政権)への隷属」関係の解明こそが最優先されなければならない。
将来の総理総裁が確実視されている小泉進次郎氏が怒りを込めて囲み取材の記者たちに言ったように「(この問題は)与党も野党も関係ない」。実際、民主主義の根幹が揺らぎつつあることが、いま問われているのだ。
私はブログで『民主主義とは何かが、いま問われている』というタイトルのシリーズをこれまで17回にわたって書いてきた。民主主義というと多くの人たちは、その言葉自体にはほとんど疑問を抱いていない。私のシリーズは、民主主義を否定するためではなく、民主主義はいまだ発展途上の政治システムであり、人類が2000年以上の歴史を経て試行錯誤しながら、ときには「一歩前進二歩後退」を繰り返しながら、「より良き民主主義制度」の実現に向けて血のにじむような努力を重ねてきた過程に過ぎないことを訴え続けてきた。
安倍総理は「アメリカなど共通の価値観を有する国との良好な関係を築く」ことをしばしば強調するが、安倍さんは「民主主義とは何か」がまったくわかっていない。彼が言う「共通の価値観」とは日本にとって、あるいは安倍政権にとって都合がいい部分で価値観を共有できれば、それでいいということのようだ。
しかし、はっきりしておかなければならないことが二つだけある。
一つは民主主義とは政治のシステムであり、国によってそのシステムは違うということ。
もう一つは、「民主主義は理想的な政治システムだ」と多くの人たちは錯覚しているようだが、民主主義には大きな欠陥があり、それは「多数決原理」にあるということが分かっていない。議会の多数決で決議すれば、どんな悪法でも効力を持ち、その法に国民は縛られることになる。この欠陥の「対症療法」として「少数意見にも耳を傾ける」という原則が民主主義のシステムには導入されてはいるが、少数意見が議決で採択されることはあり得ない。民主主義の原則に反するからだ。
だからこそ私たちは、血のにじむような努力を重ねて民主主義制度の在り方を常に問いつつ、民主主義をより成熟させていく義務がある…と私は思っている。そして人類は民主主義をより良き制度にしていく過程で「三権分立」という制度を作り上げた。人類の英知のたまものの最大の一つといっても差し支えない。
三権分立は、権力の一極集中による独裁政治を排するためロック(英)やモンテスキュー(仏)などの思想家が唱え、1789年のフランス人権宣言で採用され、自由主義各国の近代憲法に強い影響を与えた基本的理念だ。国家権力を立法・行政・司法のそれぞれ独立した機関に担当させて相互に抑制・均衡を図ることで権力の乱用を抑制し、国民の権利・自由を確保しようというシステムで近代民主主義の原理原則として多くの国で確立されている。日本も、この基本原則を採用したはずだった。
が、現在の日本の場合、この原則が必ずしも守られていない。やむを得ない部分もあるのだが、しばしば立法府に属する政治家が行政に介入する余地を排除できないのだ。とくに2014年5月30日、「官僚主導から政治主導へ」のキャッチフレーズによって内閣官房に設置された内閣人事局が、官公庁の審議官以上の幹部国家公務員約600人の人事権を掌握するようになって以降、省庁の幹部が権力の顔色をうかがう傾向が強くなったと言われる。たとえば、前川氏の講演に対する政治家の介入に対して、文科省職員の「いまの文科省には政治に逆らえる力がない」との自嘲的発言が報道されたように、「政治主導」の意味が「省庁は政治家の言いなりになれ」と履き違えられているのかもしれない。
はっきり言って国家公務員は行政のプロである。官僚主導が「省益あって国益なし」と言われるような省庁間の縄張り争いや行政の歪みをもたらした側面は否定できず、政治主導が必ずしも間違っているとは思わないが、政治家が行政のプロと対等にやりあうためには省庁のトップである担当大臣がそれなりの見識と専門知識に精通する必要がある。が、内閣人事が派閥の均衡や論功行賞などで決められている状況で、見識も知識もない大臣がでかい面をするようになると、霞が関が「忖度社会」にならざるを得ないのは論理的必然でもある。
ある意味、佐川氏は「忖度社会」が生んだ「犠牲者」と言えなくもない(かといって、私は彼に同情しているわけではない。内閣人事局は佐川氏を懲戒免職にして、退職金も支払わないという処罰を科すべきだと私は考えている)。官邸のために身を捧げた佐川氏に対して、内閣人事局が厳しい処分を行えば、霞が関の住民が「こんなばかばかしい忖度社会はやめよう」と、権力に反旗を翻すようになるかもしれないからだ。
民主主義を一歩前進させる機会に森友問題がなれば、安倍総理の強権体質や佐川氏の忖度的生き方も、日本社会に大きな貢献を果たすことになるかも…。