来年夏には参議院選挙がある。すでに最高裁は2度にわたって弁護士らが提訴していた「選挙無効」の訴えに対し、「無効」とまではしなかったものの「違憲状態にある」として選挙制度改革を促してきた。
まず1996年、最高裁は最大格差6.59倍になった92年の参院選に対し初めて「違憲状態」との判断を下した。その後は5倍前後で合憲と判断してきたが、10年参院選での最大格差5.00倍に対して最高裁は12年に「違憲状態」との厳しい判断を下した。
最高裁は衆院選に対しては最大格差を「2倍以内」にすることを国会に求めたが、参院選については「違憲状態」になる最大格差の基準を示しておらず、各政党はそれぞれの党利党略を確保しながら格差是正の交渉を重ねてきた。その結果、肝心の与党内で自民と公明が対立し、自民は維新、次世代など野党4党と2合区による10増10減案をまとめ、先週23日に公職選挙法改正案を参院に提出、翌24日には参院本会議で可決、今週早々にも衆院での可決を目指すことになった。
一方与党の一角を形成する公明は民主と5合区による12増12減案を参院に提出したが、自民・維新などがまとめた10増10減案が参院を通過した。
自民・維新などによる10増10減案は、確かに最大格差は10年参院選に比べれば大幅に減少したが、それでも最大格差2.97倍が残る。また国立社会保障・人口問題研究所が13年に発表した推計人口統計をもとに朝日新聞が試算したところ、40年には最大格差が3.32倍に広がり、23都道府県で2倍を超えるという。
一方民主・公明案でも来年参院選では最大格差が1.95倍とかろうじて2倍を切ってはいるが、少子高齢化と人口の大都市集中化現象に歯止めがかからない以上、来年の参院選では再び2倍超となる可能性が高い。
最高裁は参院選の最大格差について「合憲」の基準を示してはいないが、衆院選については「2倍以内」と明確な基準を示しており、また「参院選だからと言って直ちに投票価値の平等の要請が後退してよいと解釈すべき理由は見出し難い」としている。
そこであらためて衆議院選挙制度と参議院選挙制度の違いについて考えてみることにした。
まずわかりにくい方の衆議院選挙制度から説明する。戦後長く日本の衆議院選挙制度は中選挙区制(1選挙区から3~5名の議員を選出)だった。が、1994年に小選挙区制が導入され、一つの選挙区から一名の議員を選出する制度に変
わった。選挙制度を変更した目的は二つだった。一つは「政権交代可能な2大政党政治」が望ましいと考えたこと(アメリカ型モデルとイギリス型モデルを参考にしたとされている)。もう一つは「選挙に金がかかりすぎる派閥政治の解消」が目的とされた。そのことを政治家もメディアも忘れているようだ。「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」というのが日本人の民族性ということだが、言い換えれば「健忘症症候群」のことである。かく言う私自身もその一人だが、「はてな?」と疑問を持った時はすぐネットで調べることにしている。
これまで何度も書いてきたことだが、政策や法律は、制定や実施後の検証作業をつねに忘れてはならないということだ。小選挙区制についても同様で、導入以来約20年を経て、失敗だったことがすでに明らかになっている。まず「政権交代可能な2大政党政治の実現」だが、確かに細川野合連立政権、野合民主党政権が生まれた。「野合」の位置を変えたのは、細川政権そのものが政策協定も何もなく、ただ自民党政権打倒のために複数政党が「この指とまれ」で集まったに過ぎない政権だったため、何も決められずに政権は自滅した。民主党は確かに細川政権と異なり、いちおう単独政党による政権だったが、肝心の民主党が野合政党だった。自民党も派閥政党だが、自民党の場合は55年体制以来の歴史と伝統があり、いざというときには派閥が結束してきた(河野新自由クラブや小沢新党などの自民党離脱も繰り返しはしてきたが)。そのため民主党政権も衆議院で単独300議席を超えるという歴史的快挙を成し遂げながら、党内での足の引っ張り合いにより何も決められない政治が続き、どの内閣も短命に終わった。
次に「派閥政治の解消」だが、確かに政党助成金の交付などによって派閥の領袖による「カネの力による縛り」は弱まったが、派閥そのものいぜんとして残り(私自身は派閥の効果も認めているが)、党の「金庫番」であり、選挙の指揮権を持つ幹事長の力が相対的に強くなっただけである。安倍総裁が、総裁選で全国自民党員の支持が一番多かった石破氏をいったん幹事長の要職につけたものの、内閣支持率の高さを武器に、石破氏を強引に幹事長の座から追いやったのも、そうした政治力学による。
本来、選挙制度はその国の民主主義の成熟度を測る尺度でもある。そういった視点から、日本の選挙制度も検証する必要がある。一票の格差を少なくすることだけが、日本の場合、民主主義をより成熟させることにつながるのかどうか、私は最高裁判決にさえも疑問を呈しながら問題点を洗い出していきたいと考えている。まず衆議員選挙制度から考えてみる。
衆議院の選挙方式は「小選挙区制」と「比例代表制」(小選挙区比例代表並立制)による。総議員定数は475名だが、小選挙区による選出議員は295名、比例代表制による選出議員は180名で、計475名となる。小選挙区295の議員定
数295名のうち、2009年の最高裁判決は、一票の格差が2.30倍にもなるのは「違憲状態」とし、その格差が生じた原因は「一人別枠方式」にあると決めつけたことを受け、2013年に公職選挙法が改正され小選挙区は0増5減で295になったが、「一人別枠方式」は温存された。この「一人別枠方式」とは人口の多寡によらず47都道府県に最初から一名ずつの議員を割り振り、残り248名は人口比に応じて区割りされた小選挙区で最高票を獲得した立候補者が当選するという仕組みだ。
このときの公職選挙法改正によって小選挙区の区割り変更は、最も人口が少ない鳥取県の議員1人当たりの人口を基準に、それを下回る山梨・福井・徳島・高知・佐賀の5県の小選挙区数を一つずつ減らし、総小選挙区数を300から295にしたのである。この改正によっていったんは一票の格差が2倍以内に収まることになったが、その後の人口の大都市集中化によって再び「違憲状態」とされた2.0倍を超えている。
確かに「一人別枠方式」を温存する限り、最低でも各都道府県には2つの小選挙区が残り、論理的には一票の格差はなくならないことになる。
私が選挙制度はその国の民主主義の成熟度を測る尺度であると書いたのは、単純に一票の格差をなくすことが民主主義をより成熟させる結果になるのかという疑問を持ったからである。
デモや集会ではしばしば主催団体は「民主主義を守れ」などと主張する。果たして民主主義とは「守る」べき政治システムなのか、という疑問をこのシリーズで私は一貫して訴えてきた。民主主義という政治システムは2000年以上前にギリシャで発明され、2000年以上の経験を重ね、いちおう人類共通の政治理念となってはいる。が、その歴史は一歩前進二歩後退であったり、二歩前進一歩後退であったりして、「亀の歩み」のごとくであっても、それなりに成熟への道を歩んできたと私は考えている。
問題は、最高裁判決のように「一人別枠方式」を廃止すれば一票の格差は確かに減少するだろうが、そうなれば政治は否応なく人口が集中する大都市中心のものにならざるを得ないことだ。果たして、それが民主主義の成熟と言えるのだろうか。
各メディアの世論調査によれば、いぜんとして支持する政党は自民党がトップを続けている。メディアの世論調査は「一人別枠方式」を採用しているわけではないから、誤差は大きくなってはいる。世論調査の方法はコンピュータが固定電話番号から無差別に選んだ調査対象に対して行っているが、若い人たちは固定電話を持たない人が増えており、通話料定額制のスマホなどの需要が増加しつつある状況から考えると、若い人たちの考えが世論調査に反映されない
傾向がますます増大することは間違いないと思える。当然世論調査の対象は固定電話の所有者である中高年層に偏り、支持政党も自民党の高止まりは解消されない。が、自民党への支持率が高い一方、世論の「自民に対抗できる野党への期待」も大きい。世論調査の誤差は拡大してはいるが、私は日本国民は健全だと思っている。
民主主義という政治システムをより成熟させていくにはどうしたらいいか。私は民主主義は「守る」べきものではなく、「育てる」べきものだと考えているから、その観点から選挙制度についても考えてみたい。
民主主義の最大の原理は「多数決主義」にある。そして、その多数決原理が実は民主主義が克服できない最大の弱点でもあると私は考えている。「一人別枠方式」をなくせば、確かに一票の格差は減少するが、政治は大都市中心にならざるを得なくなることはすでに書いた。そういう意味では「一人別枠方式」は地方の少数意見を国政に反映させるための、民主主義の多数決原理の欠陥を補う一つの方法ではあると私は思っている。もちろん「地方に強い自民党の党利党略による選挙制度」という問題とは別の次元だが。
私自身は衆院選挙の最大の問題は、小選挙区制と比例代表制の「並立制」にあると考えている。比例代表議員180名は全国11ブロック(北海道・東北・北関東・南関東・東京・北信越・東海・近畿・中国・四国・九州・沖縄)から、それぞれ人口に比例した定数が決められているが、小選挙区と比例代表との重複立候補が可能なことは大きな問題だと指摘されている。実際、多くの識者は「小選挙区で落選したのに比例代表で復活当選できるのはおかしい」と主張しているが、本当の問題は別にあると私は考えている。
小選挙区は立候補者個人への投票で選挙を行うが、比例代表は政党への投票である。つまり比例代表で当選した議員には「顔」がないのだ。なぜ「顔」のない「議員」に対して税金から歳費を払わなければならないのか。そうした制度のほうが「違憲」ではないのだろうか。
もちろん比例代表制には小選挙区制の欠陥(大政党が絶対に有利)を補い、小政党も国政に参加できる制度という意味では、私も全否定しているわけではない。要は比例代表選出「議員」をすべてロボットにしてしまえばいいと私は考えている。つまり180体のロボットを各政党に割り振れば、ロボットには税金から歳費を払う必要もないし、税金の無駄遣いは大幅に減少できる。しばしば生じる所属政党議員の離党問題もなくなる。問題は小選挙区では勝てない政党に対する配慮だが、比例代表だけで当選者を出した政党に限って1名の「顔を持つ」議員を認める「一人特別枠議員」制度を導入すれば解決できる。
衆院の選挙制度問題から離れる。今週にも衆院で可決される見込みの参院選
挙制度改正の問題に移る。
今回の参院選挙制度改正は、異例の事態になった。自公連立政権が発足して以来、おそらく初めて、自民党と公明党が採決で対立したからだ。衆院では単独で過半数を占める自民党だが、参院では単独では過半数を占めることができない。だが、自民の「一票の格差是正」案に対し、公明が「まだ格差是正が十分ではない。再び違憲状態と最高裁から批判される可能性がある」と自民案に反対したのだ。
その結果、自民は「禁じ手」を使って「2合区、10増10減案」を参院で成立させた。「禁じ手」とは、公明党との妥協点を模索するのではなく、維新・次世代・日本を元気に・新党改革の4野党を巻き込み、党利党略に基づく参院選挙制度改正を参院で成立させたことを意味する。
参院本会議での採決では公明が「2合区、10増10減案」に反対票を投じただけでなく、合区対象となった鳥取・島根、徳島・高知の4県から選出されていた自民議員6名が採決の直前、本会議場から退席した。合区によって当該4県から選出されている議員が6名から4名に減るからだ。6年間という安定した職場を失う議員が確実に2名は出ることになる。
が、こうした荒療治でも、2010年の国勢調査をベースにした一票の格差は2.97倍になる。2013年の4.77倍からは大幅に改善されてはいるが、今年は5年ごとに行われる国勢調査の年に当たる。地方の過疎化・人口の大都市集中化に歯止めがかからない状況が続いており、今年の国勢調査の結果、「2合区、10増10減」では確実に一票の格差は3.00倍を超える。
が、すでに衆院選挙について「違憲状態」と判断し、「その原因は一人別枠方式にある」とした最高裁判決は、多数決原理にもとづく民主主義政治システムの弱点をさらに拡大しかねないことを私は指摘してきた。
もちろん多数決原理を否定したら、プラトンが主張したように「哲学者による独裁政治」を選択せざるを得なくなる。私は哲学者が特別な存在だとは思わないし、哲学者がすべて同じ考えを持ち、国民の幸福を追求してくれるとも考えていない。実際、腐敗した政権を倒してきたのは軍部によるクーデターだったし、軍部による独裁政治も、軍部政権による新たな腐敗を生み出してきたことは世界の無数の歴史が証明している。だから多くの欠陥を抱えてはいるが、多数決原理による民主主義政治のシステムを私も全否定はしない。が、この致命的と言っても差し支えない欠陥を、少しずつでも修正して民主主義システムを成熟させていくことが、政治には求められているはずだ。
よく考えてほしい。一票の格差を是正し続けることは、究極的には格差をゼ
ロにすることにつながる。そうなれば、おそらく295小選挙区選出の衆議院議員の90%以上が大都市圏に集中し、地方は見捨てられて過疎化が一層進み、国
土は荒れ放題になることが目に見えている。それが究極の民主主義政治がもた
らす結果だ。
そういう意味では、私は一票の格差が大きくなることは民主主義の、むしろ健全な傾向ではないかとさえ考えている。私たちが考えるべきことは、一票の格差が政権にとって有利な手段に利用されかねないことを、どう防いでいくかにかかっているのではないだろうか。だから格差是正のために地方の県を合区することは、そのこと自体が憲法に違反しているのではないかという疑問を持たざるを得ない。私は法曹家ではないので、このブログでは素朴な疑問を提起するにとどめるが、合区に反対して採決の際、議場から退席した「勇気ある」6人の自民党参議院議員に拍手を送りたい。痛烈な皮肉を込めてだが…。
ただし、この6人の議員が声を揃えて「それぞれ異なった地方の声が、国政に反映されなくなる」と主張したことを、私は条件付きで支持する。その条件は、那覇市長選・沖縄県知事選・衆院選という3つの選挙で示された沖縄県民の声を、彼らが支持して普天間基地の廃止または県外移設を参議院で強く求めることである。もしこの6人が、そういう行動を取れば、彼らの言動は完全に一致していると大多数の国民は認めざるを得なくなるだろう。そして、その声が日本国内に充満すれば憲法学者や弁護士たちが「一票の格差より、合区のほうが違憲だ」と全国の8高裁に提訴するに違いない。民主主義が成熟するとは、そういうことではないだろうか。
なお自公の連立は次期国政選挙(おそらく来年の参院選挙)でほぼ崩壊するだろう。安保法制反対の声は、公明の支持母体である創価学会全体に急速に広まっているからだ。「連立」は「選挙協力」が大前提である。すでに学会員の多くから「次期国政選挙では自民候補への応援はできない」という声が上がっている。学会員の応援が求められないということになれば、自民の支持団体も公明候補への応援ができなくなる。選挙協力が不可能ということになれば、当然「連立」も解消せざるを得なくなる。
いまのところ、自民首脳も公明・山口代表も「連立は解消しない」と強調しているが、その「建前」論がしらじらしく聞こえるのは、私だけではあるまい。自民があえて「禁じ手」を使って維新と手を組んだのは、すでに公明との連立解消を見込んでのことではないだろうか。
しかし維新は自民や公明、民主のような強力な支持母体や支持団体を持っているわけではない。維新の議員はいわば浮動票(支持政党なし)の寄せ集めで当選したケースが大半と言っても差し支えないだろう。そういう意味では先の
総選挙でしらけきっていた有権者が、「自民、300を超える勢い」というメディ
アの選挙直前の世論調査の結果にダイレクトに反応して、「反自民」の一票を共
産党に投じたのと同じと言ってもよいだろう。今年4月の統一地方選挙でも共産党が躍進したが、いま日本国民が左傾化しているとは到底考えにくい。安倍政権の強権体質に反発した有権者によって、共産党の候補者が「漁夫の利」を得た結果にすぎないと考えるのが自然だろう。
維新も一時は「橋下人気」でブームを起こしたが、細川氏率いた日本新党と同じく浮動票の集中によって生じた結果でしかない。そんな維新と自民は連立を組んだとしても、国政選挙で選挙協力のしようがない。安保法制にしても、橋下氏は安倍総理にすり寄る姿勢を見せたが、維新の国会議員たちは安保法制に反対票を投じている。維新との連立はまず不可能と考えていいだろう。
すでにブログで書いたことだが、地方の民意を政府が踏みにじることは、中央集権主義を意味し、民主主義とは相容れない。民主主義を育てるということは、地方が示した民意をどう国政に反映させるかの一点にかかっているのだ。
ついでに新国立競技場をはじめとする東京オリンピック施設のカネにまつわる問題だ。国立競技場だけでなく、次々に当初見積もりのずさんさが表面化した。そうした事態について、舛添都知事が怒りを爆発させた。
「こんなずさんな計画でオリンピックを招致した文科省の役人に対して信賞必罰で臨め。それができないなら、行政の長(下村文科相)が自ら責任をとれ」
東京都民の数は、沖縄県民とは比較にならない、日本全体の10%を占める。おそらく政府は舛添都知事の怒りに屈服するだろうが、地方の怒りの声は都道府県民の数の多寡で政府は動くのか。全国民に聞いてみたらいい。
追記……昨日、自民党内で「反安倍強権体制」派の先陣を切って小さなアドバルーンが上がった。上げたのは安保法制の閣議決定に際して「総務会でまだ十分議論されていない」と安倍総裁の独走に待ったをかけようとした野田・元総務会長だ。アドバルーンそのものは安倍政権を揺るがすような大問題ではない。夏の暑い期間、早朝出勤・早い時間の大金で夕方の時間帯を個人の自由時間として活用するという「ゆう活」に野田氏が噛みついたのだ。
「ゆう活に参加できない人たちがいる。誰でしょう。子育てをしている人たちだ。まだ保育園も開いていない時間帯に出勤しろということは、子供たちをどうしたらいいのか」(発言要旨)
線香花火のような小さなアドバルーンだが、「アリの一穴」になるか?
まず1996年、最高裁は最大格差6.59倍になった92年の参院選に対し初めて「違憲状態」との判断を下した。その後は5倍前後で合憲と判断してきたが、10年参院選での最大格差5.00倍に対して最高裁は12年に「違憲状態」との厳しい判断を下した。
最高裁は衆院選に対しては最大格差を「2倍以内」にすることを国会に求めたが、参院選については「違憲状態」になる最大格差の基準を示しておらず、各政党はそれぞれの党利党略を確保しながら格差是正の交渉を重ねてきた。その結果、肝心の与党内で自民と公明が対立し、自民は維新、次世代など野党4党と2合区による10増10減案をまとめ、先週23日に公職選挙法改正案を参院に提出、翌24日には参院本会議で可決、今週早々にも衆院での可決を目指すことになった。
一方与党の一角を形成する公明は民主と5合区による12増12減案を参院に提出したが、自民・維新などがまとめた10増10減案が参院を通過した。
自民・維新などによる10増10減案は、確かに最大格差は10年参院選に比べれば大幅に減少したが、それでも最大格差2.97倍が残る。また国立社会保障・人口問題研究所が13年に発表した推計人口統計をもとに朝日新聞が試算したところ、40年には最大格差が3.32倍に広がり、23都道府県で2倍を超えるという。
一方民主・公明案でも来年参院選では最大格差が1.95倍とかろうじて2倍を切ってはいるが、少子高齢化と人口の大都市集中化現象に歯止めがかからない以上、来年の参院選では再び2倍超となる可能性が高い。
最高裁は参院選の最大格差について「合憲」の基準を示してはいないが、衆院選については「2倍以内」と明確な基準を示しており、また「参院選だからと言って直ちに投票価値の平等の要請が後退してよいと解釈すべき理由は見出し難い」としている。
そこであらためて衆議院選挙制度と参議院選挙制度の違いについて考えてみることにした。
まずわかりにくい方の衆議院選挙制度から説明する。戦後長く日本の衆議院選挙制度は中選挙区制(1選挙区から3~5名の議員を選出)だった。が、1994年に小選挙区制が導入され、一つの選挙区から一名の議員を選出する制度に変
わった。選挙制度を変更した目的は二つだった。一つは「政権交代可能な2大政党政治」が望ましいと考えたこと(アメリカ型モデルとイギリス型モデルを参考にしたとされている)。もう一つは「選挙に金がかかりすぎる派閥政治の解消」が目的とされた。そのことを政治家もメディアも忘れているようだ。「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」というのが日本人の民族性ということだが、言い換えれば「健忘症症候群」のことである。かく言う私自身もその一人だが、「はてな?」と疑問を持った時はすぐネットで調べることにしている。
これまで何度も書いてきたことだが、政策や法律は、制定や実施後の検証作業をつねに忘れてはならないということだ。小選挙区制についても同様で、導入以来約20年を経て、失敗だったことがすでに明らかになっている。まず「政権交代可能な2大政党政治の実現」だが、確かに細川野合連立政権、野合民主党政権が生まれた。「野合」の位置を変えたのは、細川政権そのものが政策協定も何もなく、ただ自民党政権打倒のために複数政党が「この指とまれ」で集まったに過ぎない政権だったため、何も決められずに政権は自滅した。民主党は確かに細川政権と異なり、いちおう単独政党による政権だったが、肝心の民主党が野合政党だった。自民党も派閥政党だが、自民党の場合は55年体制以来の歴史と伝統があり、いざというときには派閥が結束してきた(河野新自由クラブや小沢新党などの自民党離脱も繰り返しはしてきたが)。そのため民主党政権も衆議院で単独300議席を超えるという歴史的快挙を成し遂げながら、党内での足の引っ張り合いにより何も決められない政治が続き、どの内閣も短命に終わった。
次に「派閥政治の解消」だが、確かに政党助成金の交付などによって派閥の領袖による「カネの力による縛り」は弱まったが、派閥そのものいぜんとして残り(私自身は派閥の効果も認めているが)、党の「金庫番」であり、選挙の指揮権を持つ幹事長の力が相対的に強くなっただけである。安倍総裁が、総裁選で全国自民党員の支持が一番多かった石破氏をいったん幹事長の要職につけたものの、内閣支持率の高さを武器に、石破氏を強引に幹事長の座から追いやったのも、そうした政治力学による。
本来、選挙制度はその国の民主主義の成熟度を測る尺度でもある。そういった視点から、日本の選挙制度も検証する必要がある。一票の格差を少なくすることだけが、日本の場合、民主主義をより成熟させることにつながるのかどうか、私は最高裁判決にさえも疑問を呈しながら問題点を洗い出していきたいと考えている。まず衆議員選挙制度から考えてみる。
衆議院の選挙方式は「小選挙区制」と「比例代表制」(小選挙区比例代表並立制)による。総議員定数は475名だが、小選挙区による選出議員は295名、比例代表制による選出議員は180名で、計475名となる。小選挙区295の議員定
数295名のうち、2009年の最高裁判決は、一票の格差が2.30倍にもなるのは「違憲状態」とし、その格差が生じた原因は「一人別枠方式」にあると決めつけたことを受け、2013年に公職選挙法が改正され小選挙区は0増5減で295になったが、「一人別枠方式」は温存された。この「一人別枠方式」とは人口の多寡によらず47都道府県に最初から一名ずつの議員を割り振り、残り248名は人口比に応じて区割りされた小選挙区で最高票を獲得した立候補者が当選するという仕組みだ。
このときの公職選挙法改正によって小選挙区の区割り変更は、最も人口が少ない鳥取県の議員1人当たりの人口を基準に、それを下回る山梨・福井・徳島・高知・佐賀の5県の小選挙区数を一つずつ減らし、総小選挙区数を300から295にしたのである。この改正によっていったんは一票の格差が2倍以内に収まることになったが、その後の人口の大都市集中化によって再び「違憲状態」とされた2.0倍を超えている。
確かに「一人別枠方式」を温存する限り、最低でも各都道府県には2つの小選挙区が残り、論理的には一票の格差はなくならないことになる。
私が選挙制度はその国の民主主義の成熟度を測る尺度であると書いたのは、単純に一票の格差をなくすことが民主主義をより成熟させる結果になるのかという疑問を持ったからである。
デモや集会ではしばしば主催団体は「民主主義を守れ」などと主張する。果たして民主主義とは「守る」べき政治システムなのか、という疑問をこのシリーズで私は一貫して訴えてきた。民主主義という政治システムは2000年以上前にギリシャで発明され、2000年以上の経験を重ね、いちおう人類共通の政治理念となってはいる。が、その歴史は一歩前進二歩後退であったり、二歩前進一歩後退であったりして、「亀の歩み」のごとくであっても、それなりに成熟への道を歩んできたと私は考えている。
問題は、最高裁判決のように「一人別枠方式」を廃止すれば一票の格差は確かに減少するだろうが、そうなれば政治は否応なく人口が集中する大都市中心のものにならざるを得ないことだ。果たして、それが民主主義の成熟と言えるのだろうか。
各メディアの世論調査によれば、いぜんとして支持する政党は自民党がトップを続けている。メディアの世論調査は「一人別枠方式」を採用しているわけではないから、誤差は大きくなってはいる。世論調査の方法はコンピュータが固定電話番号から無差別に選んだ調査対象に対して行っているが、若い人たちは固定電話を持たない人が増えており、通話料定額制のスマホなどの需要が増加しつつある状況から考えると、若い人たちの考えが世論調査に反映されない
傾向がますます増大することは間違いないと思える。当然世論調査の対象は固定電話の所有者である中高年層に偏り、支持政党も自民党の高止まりは解消されない。が、自民党への支持率が高い一方、世論の「自民に対抗できる野党への期待」も大きい。世論調査の誤差は拡大してはいるが、私は日本国民は健全だと思っている。
民主主義という政治システムをより成熟させていくにはどうしたらいいか。私は民主主義は「守る」べきものではなく、「育てる」べきものだと考えているから、その観点から選挙制度についても考えてみたい。
民主主義の最大の原理は「多数決主義」にある。そして、その多数決原理が実は民主主義が克服できない最大の弱点でもあると私は考えている。「一人別枠方式」をなくせば、確かに一票の格差は減少するが、政治は大都市中心にならざるを得なくなることはすでに書いた。そういう意味では「一人別枠方式」は地方の少数意見を国政に反映させるための、民主主義の多数決原理の欠陥を補う一つの方法ではあると私は思っている。もちろん「地方に強い自民党の党利党略による選挙制度」という問題とは別の次元だが。
私自身は衆院選挙の最大の問題は、小選挙区制と比例代表制の「並立制」にあると考えている。比例代表議員180名は全国11ブロック(北海道・東北・北関東・南関東・東京・北信越・東海・近畿・中国・四国・九州・沖縄)から、それぞれ人口に比例した定数が決められているが、小選挙区と比例代表との重複立候補が可能なことは大きな問題だと指摘されている。実際、多くの識者は「小選挙区で落選したのに比例代表で復活当選できるのはおかしい」と主張しているが、本当の問題は別にあると私は考えている。
小選挙区は立候補者個人への投票で選挙を行うが、比例代表は政党への投票である。つまり比例代表で当選した議員には「顔」がないのだ。なぜ「顔」のない「議員」に対して税金から歳費を払わなければならないのか。そうした制度のほうが「違憲」ではないのだろうか。
もちろん比例代表制には小選挙区制の欠陥(大政党が絶対に有利)を補い、小政党も国政に参加できる制度という意味では、私も全否定しているわけではない。要は比例代表選出「議員」をすべてロボットにしてしまえばいいと私は考えている。つまり180体のロボットを各政党に割り振れば、ロボットには税金から歳費を払う必要もないし、税金の無駄遣いは大幅に減少できる。しばしば生じる所属政党議員の離党問題もなくなる。問題は小選挙区では勝てない政党に対する配慮だが、比例代表だけで当選者を出した政党に限って1名の「顔を持つ」議員を認める「一人特別枠議員」制度を導入すれば解決できる。
衆院の選挙制度問題から離れる。今週にも衆院で可決される見込みの参院選
挙制度改正の問題に移る。
今回の参院選挙制度改正は、異例の事態になった。自公連立政権が発足して以来、おそらく初めて、自民党と公明党が採決で対立したからだ。衆院では単独で過半数を占める自民党だが、参院では単独では過半数を占めることができない。だが、自民の「一票の格差是正」案に対し、公明が「まだ格差是正が十分ではない。再び違憲状態と最高裁から批判される可能性がある」と自民案に反対したのだ。
その結果、自民は「禁じ手」を使って「2合区、10増10減案」を参院で成立させた。「禁じ手」とは、公明党との妥協点を模索するのではなく、維新・次世代・日本を元気に・新党改革の4野党を巻き込み、党利党略に基づく参院選挙制度改正を参院で成立させたことを意味する。
参院本会議での採決では公明が「2合区、10増10減案」に反対票を投じただけでなく、合区対象となった鳥取・島根、徳島・高知の4県から選出されていた自民議員6名が採決の直前、本会議場から退席した。合区によって当該4県から選出されている議員が6名から4名に減るからだ。6年間という安定した職場を失う議員が確実に2名は出ることになる。
が、こうした荒療治でも、2010年の国勢調査をベースにした一票の格差は2.97倍になる。2013年の4.77倍からは大幅に改善されてはいるが、今年は5年ごとに行われる国勢調査の年に当たる。地方の過疎化・人口の大都市集中化に歯止めがかからない状況が続いており、今年の国勢調査の結果、「2合区、10増10減」では確実に一票の格差は3.00倍を超える。
が、すでに衆院選挙について「違憲状態」と判断し、「その原因は一人別枠方式にある」とした最高裁判決は、多数決原理にもとづく民主主義政治システムの弱点をさらに拡大しかねないことを私は指摘してきた。
もちろん多数決原理を否定したら、プラトンが主張したように「哲学者による独裁政治」を選択せざるを得なくなる。私は哲学者が特別な存在だとは思わないし、哲学者がすべて同じ考えを持ち、国民の幸福を追求してくれるとも考えていない。実際、腐敗した政権を倒してきたのは軍部によるクーデターだったし、軍部による独裁政治も、軍部政権による新たな腐敗を生み出してきたことは世界の無数の歴史が証明している。だから多くの欠陥を抱えてはいるが、多数決原理による民主主義政治のシステムを私も全否定はしない。が、この致命的と言っても差し支えない欠陥を、少しずつでも修正して民主主義システムを成熟させていくことが、政治には求められているはずだ。
よく考えてほしい。一票の格差を是正し続けることは、究極的には格差をゼ
ロにすることにつながる。そうなれば、おそらく295小選挙区選出の衆議院議員の90%以上が大都市圏に集中し、地方は見捨てられて過疎化が一層進み、国
土は荒れ放題になることが目に見えている。それが究極の民主主義政治がもた
らす結果だ。
そういう意味では、私は一票の格差が大きくなることは民主主義の、むしろ健全な傾向ではないかとさえ考えている。私たちが考えるべきことは、一票の格差が政権にとって有利な手段に利用されかねないことを、どう防いでいくかにかかっているのではないだろうか。だから格差是正のために地方の県を合区することは、そのこと自体が憲法に違反しているのではないかという疑問を持たざるを得ない。私は法曹家ではないので、このブログでは素朴な疑問を提起するにとどめるが、合区に反対して採決の際、議場から退席した「勇気ある」6人の自民党参議院議員に拍手を送りたい。痛烈な皮肉を込めてだが…。
ただし、この6人の議員が声を揃えて「それぞれ異なった地方の声が、国政に反映されなくなる」と主張したことを、私は条件付きで支持する。その条件は、那覇市長選・沖縄県知事選・衆院選という3つの選挙で示された沖縄県民の声を、彼らが支持して普天間基地の廃止または県外移設を参議院で強く求めることである。もしこの6人が、そういう行動を取れば、彼らの言動は完全に一致していると大多数の国民は認めざるを得なくなるだろう。そして、その声が日本国内に充満すれば憲法学者や弁護士たちが「一票の格差より、合区のほうが違憲だ」と全国の8高裁に提訴するに違いない。民主主義が成熟するとは、そういうことではないだろうか。
なお自公の連立は次期国政選挙(おそらく来年の参院選挙)でほぼ崩壊するだろう。安保法制反対の声は、公明の支持母体である創価学会全体に急速に広まっているからだ。「連立」は「選挙協力」が大前提である。すでに学会員の多くから「次期国政選挙では自民候補への応援はできない」という声が上がっている。学会員の応援が求められないということになれば、自民の支持団体も公明候補への応援ができなくなる。選挙協力が不可能ということになれば、当然「連立」も解消せざるを得なくなる。
いまのところ、自民首脳も公明・山口代表も「連立は解消しない」と強調しているが、その「建前」論がしらじらしく聞こえるのは、私だけではあるまい。自民があえて「禁じ手」を使って維新と手を組んだのは、すでに公明との連立解消を見込んでのことではないだろうか。
しかし維新は自民や公明、民主のような強力な支持母体や支持団体を持っているわけではない。維新の議員はいわば浮動票(支持政党なし)の寄せ集めで当選したケースが大半と言っても差し支えないだろう。そういう意味では先の
総選挙でしらけきっていた有権者が、「自民、300を超える勢い」というメディ
アの選挙直前の世論調査の結果にダイレクトに反応して、「反自民」の一票を共
産党に投じたのと同じと言ってもよいだろう。今年4月の統一地方選挙でも共産党が躍進したが、いま日本国民が左傾化しているとは到底考えにくい。安倍政権の強権体質に反発した有権者によって、共産党の候補者が「漁夫の利」を得た結果にすぎないと考えるのが自然だろう。
維新も一時は「橋下人気」でブームを起こしたが、細川氏率いた日本新党と同じく浮動票の集中によって生じた結果でしかない。そんな維新と自民は連立を組んだとしても、国政選挙で選挙協力のしようがない。安保法制にしても、橋下氏は安倍総理にすり寄る姿勢を見せたが、維新の国会議員たちは安保法制に反対票を投じている。維新との連立はまず不可能と考えていいだろう。
すでにブログで書いたことだが、地方の民意を政府が踏みにじることは、中央集権主義を意味し、民主主義とは相容れない。民主主義を育てるということは、地方が示した民意をどう国政に反映させるかの一点にかかっているのだ。
ついでに新国立競技場をはじめとする東京オリンピック施設のカネにまつわる問題だ。国立競技場だけでなく、次々に当初見積もりのずさんさが表面化した。そうした事態について、舛添都知事が怒りを爆発させた。
「こんなずさんな計画でオリンピックを招致した文科省の役人に対して信賞必罰で臨め。それができないなら、行政の長(下村文科相)が自ら責任をとれ」
東京都民の数は、沖縄県民とは比較にならない、日本全体の10%を占める。おそらく政府は舛添都知事の怒りに屈服するだろうが、地方の怒りの声は都道府県民の数の多寡で政府は動くのか。全国民に聞いてみたらいい。
追記……昨日、自民党内で「反安倍強権体制」派の先陣を切って小さなアドバルーンが上がった。上げたのは安保法制の閣議決定に際して「総務会でまだ十分議論されていない」と安倍総裁の独走に待ったをかけようとした野田・元総務会長だ。アドバルーンそのものは安倍政権を揺るがすような大問題ではない。夏の暑い期間、早朝出勤・早い時間の大金で夕方の時間帯を個人の自由時間として活用するという「ゆう活」に野田氏が噛みついたのだ。
「ゆう活に参加できない人たちがいる。誰でしょう。子育てをしている人たちだ。まだ保育園も開いていない時間帯に出勤しろということは、子供たちをどうしたらいいのか」(発言要旨)
線香花火のような小さなアドバルーンだが、「アリの一穴」になるか?