小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「民主主義とは何かがいま問われている⑮」 参院選挙制度改正は何を意味するか、を考えてみた。

2015-07-27 06:27:04 | Weblog
 来年夏には参議院選挙がある。すでに最高裁は2度にわたって弁護士らが提訴していた「選挙無効」の訴えに対し、「無効」とまではしなかったものの「違憲状態にある」として選挙制度改革を促してきた。
 まず1996年、最高裁は最大格差6.59倍になった92年の参院選に対し初めて「違憲状態」との判断を下した。その後は5倍前後で合憲と判断してきたが、10年参院選での最大格差5.00倍に対して最高裁は12年に「違憲状態」との厳しい判断を下した。
 最高裁は衆院選に対しては最大格差を「2倍以内」にすることを国会に求めたが、参院選については「違憲状態」になる最大格差の基準を示しておらず、各政党はそれぞれの党利党略を確保しながら格差是正の交渉を重ねてきた。その結果、肝心の与党内で自民と公明が対立し、自民は維新、次世代など野党4党と2合区による10増10減案をまとめ、先週23日に公職選挙法改正案を参院に提出、翌24日には参院本会議で可決、今週早々にも衆院での可決を目指すことになった。
 一方与党の一角を形成する公明は民主と5合区による12増12減案を参院に提出したが、自民・維新などがまとめた10増10減案が参院を通過した。
 自民・維新などによる10増10減案は、確かに最大格差は10年参院選に比べれば大幅に減少したが、それでも最大格差2.97倍が残る。また国立社会保障・人口問題研究所が13年に発表した推計人口統計をもとに朝日新聞が試算したところ、40年には最大格差が3.32倍に広がり、23都道府県で2倍を超えるという。
 一方民主・公明案でも来年参院選では最大格差が1.95倍とかろうじて2倍を切ってはいるが、少子高齢化と人口の大都市集中化現象に歯止めがかからない以上、来年の参院選では再び2倍超となる可能性が高い。
 最高裁は参院選の最大格差について「合憲」の基準を示してはいないが、衆院選については「2倍以内」と明確な基準を示しており、また「参院選だからと言って直ちに投票価値の平等の要請が後退してよいと解釈すべき理由は見出し難い」としている。

 そこであらためて衆議院選挙制度と参議院選挙制度の違いについて考えてみることにした。
 まずわかりにくい方の衆議院選挙制度から説明する。戦後長く日本の衆議院選挙制度は中選挙区制(1選挙区から3~5名の議員を選出)だった。が、1994年に小選挙区制が導入され、一つの選挙区から一名の議員を選出する制度に変
わった。選挙制度を変更した目的は二つだった。一つは「政権交代可能な2大政党政治」が望ましいと考えたこと(アメリカ型モデルとイギリス型モデルを参考にしたとされている)。もう一つは「選挙に金がかかりすぎる派閥政治の解消」が目的とされた。そのことを政治家もメディアも忘れているようだ。「のど元過ぎれば、熱さ忘れる」というのが日本人の民族性ということだが、言い換えれば「健忘症症候群」のことである。かく言う私自身もその一人だが、「はてな?」と疑問を持った時はすぐネットで調べることにしている。
 これまで何度も書いてきたことだが、政策や法律は、制定や実施後の検証作業をつねに忘れてはならないということだ。小選挙区制についても同様で、導入以来約20年を経て、失敗だったことがすでに明らかになっている。まず「政権交代可能な2大政党政治の実現」だが、確かに細川野合連立政権、野合民主党政権が生まれた。「野合」の位置を変えたのは、細川政権そのものが政策協定も何もなく、ただ自民党政権打倒のために複数政党が「この指とまれ」で集まったに過ぎない政権だったため、何も決められずに政権は自滅した。民主党は確かに細川政権と異なり、いちおう単独政党による政権だったが、肝心の民主党が野合政党だった。自民党も派閥政党だが、自民党の場合は55年体制以来の歴史と伝統があり、いざというときには派閥が結束してきた(河野新自由クラブや小沢新党などの自民党離脱も繰り返しはしてきたが)。そのため民主党政権も衆議院で単独300議席を超えるという歴史的快挙を成し遂げながら、党内での足の引っ張り合いにより何も決められない政治が続き、どの内閣も短命に終わった。
 次に「派閥政治の解消」だが、確かに政党助成金の交付などによって派閥の領袖による「カネの力による縛り」は弱まったが、派閥そのものいぜんとして残り(私自身は派閥の効果も認めているが)、党の「金庫番」であり、選挙の指揮権を持つ幹事長の力が相対的に強くなっただけである。安倍総裁が、総裁選で全国自民党員の支持が一番多かった石破氏をいったん幹事長の要職につけたものの、内閣支持率の高さを武器に、石破氏を強引に幹事長の座から追いやったのも、そうした政治力学による。
 
 本来、選挙制度はその国の民主主義の成熟度を測る尺度でもある。そういった視点から、日本の選挙制度も検証する必要がある。一票の格差を少なくすることだけが、日本の場合、民主主義をより成熟させることにつながるのかどうか、私は最高裁判決にさえも疑問を呈しながら問題点を洗い出していきたいと考えている。まず衆議員選挙制度から考えてみる。
 衆議院の選挙方式は「小選挙区制」と「比例代表制」(小選挙区比例代表並立制)による。総議員定数は475名だが、小選挙区による選出議員は295名、比例代表制による選出議員は180名で、計475名となる。小選挙区295の議員定
数295名のうち、2009年の最高裁判決は、一票の格差が2.30倍にもなるのは「違憲状態」とし、その格差が生じた原因は「一人別枠方式」にあると決めつけたことを受け、2013年に公職選挙法が改正され小選挙区は0増5減で295になったが、「一人別枠方式」は温存された。この「一人別枠方式」とは人口の多寡によらず47都道府県に最初から一名ずつの議員を割り振り、残り248名は人口比に応じて区割りされた小選挙区で最高票を獲得した立候補者が当選するという仕組みだ。
 このときの公職選挙法改正によって小選挙区の区割り変更は、最も人口が少ない鳥取県の議員1人当たりの人口を基準に、それを下回る山梨・福井・徳島・高知・佐賀の5県の小選挙区数を一つずつ減らし、総小選挙区数を300から295にしたのである。この改正によっていったんは一票の格差が2倍以内に収まることになったが、その後の人口の大都市集中化によって再び「違憲状態」とされた2.0倍を超えている。

 確かに「一人別枠方式」を温存する限り、最低でも各都道府県には2つの小選挙区が残り、論理的には一票の格差はなくならないことになる。
 私が選挙制度はその国の民主主義の成熟度を測る尺度であると書いたのは、単純に一票の格差をなくすことが民主主義をより成熟させる結果になるのかという疑問を持ったからである。
 デモや集会ではしばしば主催団体は「民主主義を守れ」などと主張する。果たして民主主義とは「守る」べき政治システムなのか、という疑問をこのシリーズで私は一貫して訴えてきた。民主主義という政治システムは2000年以上前にギリシャで発明され、2000年以上の経験を重ね、いちおう人類共通の政治理念となってはいる。が、その歴史は一歩前進二歩後退であったり、二歩前進一歩後退であったりして、「亀の歩み」のごとくであっても、それなりに成熟への道を歩んできたと私は考えている。
 問題は、最高裁判決のように「一人別枠方式」を廃止すれば一票の格差は確かに減少するだろうが、そうなれば政治は否応なく人口が集中する大都市中心のものにならざるを得ないことだ。果たして、それが民主主義の成熟と言えるのだろうか。
 各メディアの世論調査によれば、いぜんとして支持する政党は自民党がトップを続けている。メディアの世論調査は「一人別枠方式」を採用しているわけではないから、誤差は大きくなってはいる。世論調査の方法はコンピュータが固定電話番号から無差別に選んだ調査対象に対して行っているが、若い人たちは固定電話を持たない人が増えており、通話料定額制のスマホなどの需要が増加しつつある状況から考えると、若い人たちの考えが世論調査に反映されない
傾向がますます増大することは間違いないと思える。当然世論調査の対象は固定電話の所有者である中高年層に偏り、支持政党も自民党の高止まりは解消されない。が、自民党への支持率が高い一方、世論の「自民に対抗できる野党への期待」も大きい。世論調査の誤差は拡大してはいるが、私は日本国民は健全だと思っている。
 民主主義という政治システムをより成熟させていくにはどうしたらいいか。私は民主主義は「守る」べきものではなく、「育てる」べきものだと考えているから、その観点から選挙制度についても考えてみたい。

 民主主義の最大の原理は「多数決主義」にある。そして、その多数決原理が実は民主主義が克服できない最大の弱点でもあると私は考えている。「一人別枠方式」をなくせば、確かに一票の格差は減少するが、政治は大都市中心にならざるを得なくなることはすでに書いた。そういう意味では「一人別枠方式」は地方の少数意見を国政に反映させるための、民主主義の多数決原理の欠陥を補う一つの方法ではあると私は思っている。もちろん「地方に強い自民党の党利党略による選挙制度」という問題とは別の次元だが。
 私自身は衆院選挙の最大の問題は、小選挙区制と比例代表制の「並立制」にあると考えている。比例代表議員180名は全国11ブロック(北海道・東北・北関東・南関東・東京・北信越・東海・近畿・中国・四国・九州・沖縄)から、それぞれ人口に比例した定数が決められているが、小選挙区と比例代表との重複立候補が可能なことは大きな問題だと指摘されている。実際、多くの識者は「小選挙区で落選したのに比例代表で復活当選できるのはおかしい」と主張しているが、本当の問題は別にあると私は考えている。
 小選挙区は立候補者個人への投票で選挙を行うが、比例代表は政党への投票である。つまり比例代表で当選した議員には「顔」がないのだ。なぜ「顔」のない「議員」に対して税金から歳費を払わなければならないのか。そうした制度のほうが「違憲」ではないのだろうか。
 もちろん比例代表制には小選挙区制の欠陥(大政党が絶対に有利)を補い、小政党も国政に参加できる制度という意味では、私も全否定しているわけではない。要は比例代表選出「議員」をすべてロボットにしてしまえばいいと私は考えている。つまり180体のロボットを各政党に割り振れば、ロボットには税金から歳費を払う必要もないし、税金の無駄遣いは大幅に減少できる。しばしば生じる所属政党議員の離党問題もなくなる。問題は小選挙区では勝てない政党に対する配慮だが、比例代表だけで当選者を出した政党に限って1名の「顔を持つ」議員を認める「一人特別枠議員」制度を導入すれば解決できる。

 衆院の選挙制度問題から離れる。今週にも衆院で可決される見込みの参院選
挙制度改正の問題に移る。
 今回の参院選挙制度改正は、異例の事態になった。自公連立政権が発足して以来、おそらく初めて、自民党と公明党が採決で対立したからだ。衆院では単独で過半数を占める自民党だが、参院では単独では過半数を占めることができない。だが、自民の「一票の格差是正」案に対し、公明が「まだ格差是正が十分ではない。再び違憲状態と最高裁から批判される可能性がある」と自民案に反対したのだ。
 その結果、自民は「禁じ手」を使って「2合区、10増10減案」を参院で成立させた。「禁じ手」とは、公明党との妥協点を模索するのではなく、維新・次世代・日本を元気に・新党改革の4野党を巻き込み、党利党略に基づく参院選挙制度改正を参院で成立させたことを意味する。
 参院本会議での採決では公明が「2合区、10増10減案」に反対票を投じただけでなく、合区対象となった鳥取・島根、徳島・高知の4県から選出されていた自民議員6名が採決の直前、本会議場から退席した。合区によって当該4県から選出されている議員が6名から4名に減るからだ。6年間という安定した職場を失う議員が確実に2名は出ることになる。
 が、こうした荒療治でも、2010年の国勢調査をベースにした一票の格差は2.97倍になる。2013年の4.77倍からは大幅に改善されてはいるが、今年は5年ごとに行われる国勢調査の年に当たる。地方の過疎化・人口の大都市集中化に歯止めがかからない状況が続いており、今年の国勢調査の結果、「2合区、10増10減」では確実に一票の格差は3.00倍を超える。
 が、すでに衆院選挙について「違憲状態」と判断し、「その原因は一人別枠方式にある」とした最高裁判決は、多数決原理にもとづく民主主義政治システムの弱点をさらに拡大しかねないことを私は指摘してきた。
 もちろん多数決原理を否定したら、プラトンが主張したように「哲学者による独裁政治」を選択せざるを得なくなる。私は哲学者が特別な存在だとは思わないし、哲学者がすべて同じ考えを持ち、国民の幸福を追求してくれるとも考えていない。実際、腐敗した政権を倒してきたのは軍部によるクーデターだったし、軍部による独裁政治も、軍部政権による新たな腐敗を生み出してきたことは世界の無数の歴史が証明している。だから多くの欠陥を抱えてはいるが、多数決原理による民主主義政治のシステムを私も全否定はしない。が、この致命的と言っても差し支えない欠陥を、少しずつでも修正して民主主義システムを成熟させていくことが、政治には求められているはずだ。
 よく考えてほしい。一票の格差を是正し続けることは、究極的には格差をゼ
ロにすることにつながる。そうなれば、おそらく295小選挙区選出の衆議院議員の90%以上が大都市圏に集中し、地方は見捨てられて過疎化が一層進み、国
土は荒れ放題になることが目に見えている。それが究極の民主主義政治がもた
らす結果だ。
 そういう意味では、私は一票の格差が大きくなることは民主主義の、むしろ健全な傾向ではないかとさえ考えている。私たちが考えるべきことは、一票の格差が政権にとって有利な手段に利用されかねないことを、どう防いでいくかにかかっているのではないだろうか。だから格差是正のために地方の県を合区することは、そのこと自体が憲法に違反しているのではないかという疑問を持たざるを得ない。私は法曹家ではないので、このブログでは素朴な疑問を提起するにとどめるが、合区に反対して採決の際、議場から退席した「勇気ある」6人の自民党参議院議員に拍手を送りたい。痛烈な皮肉を込めてだが…。
 ただし、この6人の議員が声を揃えて「それぞれ異なった地方の声が、国政に反映されなくなる」と主張したことを、私は条件付きで支持する。その条件は、那覇市長選・沖縄県知事選・衆院選という3つの選挙で示された沖縄県民の声を、彼らが支持して普天間基地の廃止または県外移設を参議院で強く求めることである。もしこの6人が、そういう行動を取れば、彼らの言動は完全に一致していると大多数の国民は認めざるを得なくなるだろう。そして、その声が日本国内に充満すれば憲法学者や弁護士たちが「一票の格差より、合区のほうが違憲だ」と全国の8高裁に提訴するに違いない。民主主義が成熟するとは、そういうことではないだろうか。
 なお自公の連立は次期国政選挙(おそらく来年の参院選挙)でほぼ崩壊するだろう。安保法制反対の声は、公明の支持母体である創価学会全体に急速に広まっているからだ。「連立」は「選挙協力」が大前提である。すでに学会員の多くから「次期国政選挙では自民候補への応援はできない」という声が上がっている。学会員の応援が求められないということになれば、自民の支持団体も公明候補への応援ができなくなる。選挙協力が不可能ということになれば、当然「連立」も解消せざるを得なくなる。
 いまのところ、自民首脳も公明・山口代表も「連立は解消しない」と強調しているが、その「建前」論がしらじらしく聞こえるのは、私だけではあるまい。自民があえて「禁じ手」を使って維新と手を組んだのは、すでに公明との連立解消を見込んでのことではないだろうか。
 しかし維新は自民や公明、民主のような強力な支持母体や支持団体を持っているわけではない。維新の議員はいわば浮動票(支持政党なし)の寄せ集めで当選したケースが大半と言っても差し支えないだろう。そういう意味では先の
総選挙でしらけきっていた有権者が、「自民、300を超える勢い」というメディ
アの選挙直前の世論調査の結果にダイレクトに反応して、「反自民」の一票を共
産党に投じたのと同じと言ってもよいだろう。今年4月の統一地方選挙でも共産党が躍進したが、いま日本国民が左傾化しているとは到底考えにくい。安倍政権の強権体質に反発した有権者によって、共産党の候補者が「漁夫の利」を得た結果にすぎないと考えるのが自然だろう。
 維新も一時は「橋下人気」でブームを起こしたが、細川氏率いた日本新党と同じく浮動票の集中によって生じた結果でしかない。そんな維新と自民は連立を組んだとしても、国政選挙で選挙協力のしようがない。安保法制にしても、橋下氏は安倍総理にすり寄る姿勢を見せたが、維新の国会議員たちは安保法制に反対票を投じている。維新との連立はまず不可能と考えていいだろう。
 すでにブログで書いたことだが、地方の民意を政府が踏みにじることは、中央集権主義を意味し、民主主義とは相容れない。民主主義を育てるということは、地方が示した民意をどう国政に反映させるかの一点にかかっているのだ。

 ついでに新国立競技場をはじめとする東京オリンピック施設のカネにまつわる問題だ。国立競技場だけでなく、次々に当初見積もりのずさんさが表面化した。そうした事態について、舛添都知事が怒りを爆発させた。
「こんなずさんな計画でオリンピックを招致した文科省の役人に対して信賞必罰で臨め。それができないなら、行政の長(下村文科相)が自ら責任をとれ」
 東京都民の数は、沖縄県民とは比較にならない、日本全体の10%を占める。おそらく政府は舛添都知事の怒りに屈服するだろうが、地方の怒りの声は都道府県民の数の多寡で政府は動くのか。全国民に聞いてみたらいい。
追記……昨日、自民党内で「反安倍強権体制」派の先陣を切って小さなアドバルーンが上がった。上げたのは安保法制の閣議決定に際して「総務会でまだ十分議論されていない」と安倍総裁の独走に待ったをかけようとした野田・元総務会長だ。アドバルーンそのものは安倍政権を揺るがすような大問題ではない。夏の暑い期間、早朝出勤・早い時間の大金で夕方の時間帯を個人の自由時間として活用するという「ゆう活」に野田氏が噛みついたのだ。
「ゆう活に参加できない人たちがいる。誰でしょう。子育てをしている人たちだ。まだ保育園も開いていない時間帯に出勤しろということは、子供たちをどうしたらいいのか」(発言要旨)
 線香花火のような小さなアドバルーンだが、「アリの一穴」になるか?
 



「政治の王道」とは何か。安保法制強行採決の意味を考えてみた。

2015-07-20 08:20:10 | Weblog
「平和の党」を標榜し、これまでは自民党政策の歯止め役を担ってきた公明党
が、とうとう安倍強権政治に屈服した。
 なぜか。
 小選挙区制の下で自民との選挙協力体制が崩壊したら、小選挙区での選挙に勝てなくなるからだ。党利党略が安保法制の衆院協強行採決でも優先された。
 そもそも安倍政権が「憲法解釈の変更による集団的自衛権行使の容認」という戦後の安全保障体制を大きく転換しようとした時、公明党の支持母体である創価学会が異例の反対声明を公表した。が、公明・山口代表が創価学会を押し切って閣議決定に協力した。選挙優先、という公明党の党利党略に創価学会が屈したためだ。
 閣議決定については安倍・高村ラインは公明党案をほぼ丸呑みすることで、公明党は一定の歯止め役を果たした、かに見えた。が、その結果、公明党は安倍強権体制の補完役に転じてしまった。党利党略を優先したことによる、当然と言えば当然すぎる結果でもあった。
 メディアの報道によれば、全国の学会員に大きな動揺が走っているという。「自民党の暴走を止めるために、公明党は連立政権を維持してきた」という言い訳のしらじらしさが、だれの目にも明白になってしまったからだ。次の選挙(国政あるいは地方)から、学会員は自民候補への選挙協力ができなくなった。そのことを山口代表は分かっているのだろうか。学会員が自民候補者への選挙協力を拒めば、当然公明候補に対する自民支援者の選挙協力も期待できなくなる。すでに地方選挙では、公明党候補者が公明党の公認を辞退して無所属で立候補するケースが出てきている。この流れはおそらく大河となるだろう。

 衆院特別委員会で強行採決の際し安倍総理はこう言った。
「残念ながら国民が十分に(安保法制)を理解している状況ではない」
 国民が十分に理解していないのに、なぜ採決を急いだのか。
 総理は法案の審議の目安である100時間をはるかに超える116時間を審議に費やした、と採決の妥当性を訴える。が、安保法制は10本の関連法案からなる。10本の法案の審議に116時間を費やしたということは1本当たりわずか11.6時間しか審議していないことになる。法案の1本ずつについて100時間をかけて審議していれば、合計で1,000時間を費やさなければならない計算になる。小学生にでもできる計算だ。
 自衛隊が専守防衛のためではなく、他国防衛のために実力を行使する集団的自衛権の前提となる「存立危機事態」についてもあいまいなままだ。5月26日の衆院本会議で、安倍政権のおひざ元である自民の政調会長・稲田氏が「典型例」についての説明を求めたが、総理は「典型例をあらかじめ示すことはでき
ないが、国民生活に死活的な影響を生じるか否かを総合的に評価して判断する」
としか答えなかった。
 いったい、安倍総理は今後何十年、何百年も、自分の「判断力」を維持できると思っているのか。そのときの政権が「存立危機事態にある」と判断すれば、日本は戦争への道を突っ走れることになる。そんな安保法制が「合憲」であろbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhている。多くの弁護士たちも全国各地で集会を開き「安保法制の問題」を訴えている。学生たちも全国各地で抗議活動を始めた。国会周辺では連日数万人規模のデモや集会が行われだした。「60年安保改定」時と同じ様相を呈しだした。

 内閣支持率は各メディアの世論調査で軒並み下落し始めた。そうした状況の中で、安倍総理は急きょ、新国立競技場の建設計画を白紙撤回することを発表した。菅官房長官によれば、安倍総理は1か月前から下村文科相に計画の見直しが可能かどうかの検討を指示していたという。下村文科相から「ラクビー・ワールドカップには間に合わないが、東京オリンピックには何とか間に合う」との回答を得て、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委会長であり、日本ラクビーフットボール協会名誉会長である元総理の森氏と会談、森氏の了解を得て計画の白紙撤回を決定したという。
 が、元オリンピック女子マラソン選手として銀・銅メダルに輝いた有森裕子氏がシンポジウムで「オリンピックが皆さんの負の要素のきっかけになるようなことはアスリートの一人として本望ではない」と涙で声を何度も詰まらせながら訴えたり、国民からも「なぜそんなずさんな計画にこだわるのか」といった抗議の声が高まったことを「口実」に、安倍総理は白紙撤回に応じたという。
 国民をバカにするのもいい加減にしろ、と言いたい。
「多くの国民が反対し、アスリートからも見直しの声が出たので白紙撤回することにした」というなら、国民から多くの疑問が寄せられ、憲法学者の大半も「違憲法制だ」と声を上げ、安倍総理自身が「国民が十分に理解している状況ではない」と認め、さらに内閣支持率も大幅に低下する原因となっている安保法制について、なぜ安倍総理は衆院特別委と本会議での強行採決を白紙撤回しようとしないのか。
 舛添・都知事は17日、自身の公式ツイッターで「国立競技場建設計画の白紙撤回は内閣支持率の回復が目的か?」に皮肉たっぷりに総理の「決断」をつぶやいてみせた。

 衆院での安全保障法案が通過した後、安倍総理は「議論の場は参院に移る。良識の府ならではの議論を進めたい」としおらしく語ったが、そんな言葉に騙
されてはならない。
 20日、NHKの『日曜討論』に出演した高村副総裁は衆院特別委での強行採決について、こう弁解した。
「特別委では116時間の長時間の及ぶ議論を行った。しかも野党の委員に特別に配慮して一人当たり7時間も発言時間を割り振った。一方与党委員には一人当たり30分の発言時間しか割り振らなかった。最終段階では野党委員からの質疑が同じことの繰り返しになり、十分に議論は尽くされたと判断した」
 はっきり言えば、野党の委員には言いたいだけ言わせた。が、与党は野党委員の質疑に真摯に答えなかった。与党委員に割り振った発言時間は一人30分だけだったからだ。高村副総裁の弁解は、そういうことを意味する。
 本来、野党委員は簡潔に安保法制の疑問点を追及し、野党委員の何倍もの時間をかけて与党委員は野党委員から出された疑問点に対し、丁寧かつ真摯に答えるのが民主的な討論のやり方ではないか。与党委員には時間がなかったから十分に野党委員の質疑に答えられなかった…などという言い訳が通るなら、発言時間数をもって議決数にすべきだろう。
 さらに毎日新聞は衆院通過直後の17,8日の両日にわたり緊急の全国世論調査を行った。毎日新聞は今月すでに4,5日の両日にも内閣支持率の世論調査を行っており、メディアが月内に2度も世論調査を行うのは異例中の異例だ。毎日新聞の最初の世論調査では内閣支持率は42%だったが、直近の支持率は7ポイント減の35%に低下したという。
 安倍総理が「国民の声に耳を傾けて」新国立競技場計画の白紙撤回を表明したのは17日であり、毎日新聞の世論調査にこの白紙撤回表明がどの程度影響したかは不明だが、少なくとも二日目(18日)の調査にはもろに反映しているはずだ。そのことも含めて毎日新聞の世論調査の結果の意味するところを考えると、内閣支持率低下の歯止めのために行った新国立競技場計画の白紙撤回だったとしたら、安倍さんの目論見は見事空振りに終わったと言えよう。

 参院での与党は、徹底的に低姿勢で望むだろう。できれば60日ルールを使わずに、参院では審議を十分に尽くして今国会会期中での採決に持ち込みたいところだろうが、そんなことが不可能なことは安倍総理も分かりきっているはず
だ。
 野党は衆院での与党の説明の非整合性を、国民に十分理解できるよう明確にし、「あの時、こう言ったではないか。答弁の内容が変わったのはなぜか。国民に十分理解できるよう、論理的整合性のある説明を求める」と追及の手を緩めるべきではない。
 そのうえで、政府が国民に十分理解できる言葉で説明できなかったら、どういう問題点について政府が逃げたかを国民に明らかにしたうえで、堂々と採決の場から退席し、60日ルールを使わざるを得ない状況に政府を追い込め。

 メディアも、感情的にならずに冷静に事態を報道・解説してほしい。
 そもそも現行憲法はGHQによる占領下において制定された。被占領国の防衛と国民の安全は占領国側が責任を持つのが国際法上の常識であり、現行憲法草案(大日本帝国憲法改正草案)を第1次吉田内閣が衆院本会議に提出したのは1946年6月25日である。
 その翌日には早くも憲法9条に対する質問が相次ぎ、日本進歩党の原議員が「自衛権まで放棄するのか」と吉田総理に噛み付いている。この質疑に対し吉田総理は「第二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と明確に自衛権を否定する答弁をしている。
 1951年9月4日、日本がサンフランシスコ講和条約に調印して独立国家としての主権を回復したとき、本来は国の防衛と国民の安全に対する責任は日本政府に移るべきだった。つまり憲法もその時点で改正し、主権国家としての尊厳を回復したものにすべきだった。
 が、日本の独立は日本側の努力によってではなく、朝鮮動乱を契機とする共産勢力のアジア進出を防ぐためという、アメリカの都合によって行われた。日本の経済力・国力はまだ戦後の痛手から回復していず、吉田総理は当面国力の回復に全力を傾けるという方針を継続することにした。日本の国家資産を石炭と鉄鋼の二大産業に重点的に振り向けるという傾斜生産方式を経済再建の最大の柱にした。
 が、日本から米軍が撤退するとなると、日本は丸裸になってしまう。妙齢の女性が素っ裸で夜道を一人で歩いたら、どういう目にあうか。そこで吉田総理は米軍基地をアメリカに提供し、抑止力にしたいと考えた。サンフランシスコ条約調印と同時に日米安全保障条約を独断で締結した。吉田総理は次の政権の担い手として期待をかけていた池田氏(のち総理、故人)をサンフランシスコ講和条約調印の議員団の一員として同行させたが、日米安保条約調印の席からは池田氏を外している。
 この旧安保のポイントを簡単に述べる。
「日本は武装解除されているため固有の自衛権を行使できる有効な手段を持っていない。しかし無責任な軍国主義がまだ世界から駆逐されていないため、日本は自国防衛のための暫定措置として、日本に対する武力攻撃を阻止するために米軍が日本国内およびその周辺に駐留することを希望する。アメリカは平和と安全のために、自国軍隊を日本国内およびその周辺に維持する意思がある」
 一見、旧安保はアメリカが日本防衛の義務を負っているかのように見えるが、実はそうではなかった。草案の段階では「(日本駐留の米軍は)専ら日本の防衛
を目的とする」という表現で日米が合意していたのだが、米議会が認めず「日
本の安全に寄与する」という表現に変更された。つまり日本駐留の米軍は「日本防衛の義務は負わず」ただ「日本の安全に寄与する」というあいまいなものになってしまった。
 吉田総理が日本の再軍備に着手したのはその翌年52年である。10月に自衛隊の前身となる保安隊を創設し、吉田総理自らが初代長官になった。53年3月には旧ソ連・スターリン書記長が死去し、7月には朝鮮戦争も終結した。極東の危機は差し当たって遠のき、アメリカは日本に日本自身による防衛力の強化を強く求めるようになった。翌54年7月には自衛隊が発足し、防衛庁も発足した。「自衛のための戦力」さえ否定した憲法には手を付けずにだ。だから今でも自衛隊は「軍隊」や「戦力」ではなく、「実力」という国際社会からは認められていない「新定義」を作らざるを得なくなった。現行憲法が抱えている矛盾から、国民もメディアも目を背けてはならない。

 長期政権は必ず腐敗する。吉田総理の最大の功績は、なんといっても傾斜生産方式を導入して日本経済復興の足掛かりを作ったことだが(この経済政策が失敗していたら日本は朝鮮特需にもありつけなかったし、その後の「世界の奇跡」と言われた高度経済成長時代も実現できなかっただろう)、主権を回復したにもかかわらず現行憲法の改正に手を付けなかったことが、日本のその後に大きな禍根を残すことになった。
 とまれ、吉田政権末期には汚職が続発し、延べ7年2か月も政権の座に座り続けた吉田総理自身の傍若無人のふるまいも目立つようになった。政権後半の3年間は支持率が20%台に低迷、ついに独裁権力の座から滑り落ちる結果となった。吉田氏退陣の後を引き継いだ鳩山内閣の時代に、保守・革新の両勢力がそれぞれ合同、いわゆる「55年体制」が生まれた。鳩山内閣は日ソ国交回復、国連加盟を花道に引退、石橋内閣が誕生したが病気で短命内閣になり、そのあとを継いだのが安倍総理の祖父・岸内閣(57年2月25日成立)である。
 岸総理がまず着手したのが安保改定だった。すでに旧安保の対米「従属性」はだれの目にも明らかだった。社会党も「廃棄せよ」と主張したが、岸総理は「対等的な関係に改定したい」と主張した。60年安保改定は、こうした与野党対立のもとで行われたことをメディアもブログ読者も理解していただきたい。
 が、岸内閣のもとで行われた安保改定は「仏作って魂入れず」に終わった。アメリカに一定の日本防衛の責任を負わせることには成功したが、その代償は沖縄県民をいけにえに差し出すことだけで、とうてい「対等的」な関係に改定することはできなかった。現行憲法が、このときも岸総理の足を引っ張ったのである。
 その後池田内閣の時代に日本経済は高度成長を遂げ、ついにはGDP世界2位の地位を占めるに至った。その結果、1980年代に入り、アメリカとの貿易摩擦が激化し、アメリカ国内で「ジャパン・バッシング」の嵐が吹き荒れた。アメリカ国民や米メディアの日本批判の中心は「安保タダ乗り」論だったが、安倍総理はそうした時代があったことをもう忘れたのか。

 岸総理の孫の安倍政権の時代になって、ようやく現行憲法の問題性に多くの国民が気付くようになった。まだ「平和憲法神話」にしがみついている国民も少なくなく、憲法9条が「日本の平和の砦になっている」と主張する人々も少なくない。が、世界の歴史をよく考えてみてほしい。先の不幸な時代に、永世中立宣言をして国際会議で承認された国がいくつかあった。が、他国から侵略を受けなかった国は、国民皆武装で侵略を防いだスイスだけで、他の永世中立国はすべて侵略された。国際会議で、それらの国の永世中立を承認した各国は、永世中立国を防衛する義務があったが、どの国もその責任を果たさなかった。
 いちおう、現在の日米安全保障条約ではアメリカが日本を防衛する義務が盛り込まれているが、実際に日本が侵略を受けた場合、アメリカは自国の国益に反してまで日本のためにアメリカ兵士の血を流してくれるわけではない。そういう意味では安保法制を私は全否定しているわけではない。しかし、安保法制を現行憲法下で実施するのは、はっきり言って無理だ。

 今回の安保法制騒動について、「政治の王道」とはどうあるべきかを考えてみた。この手順はあくまで論理的整合性を追求した結果だ。
 ①日本が独立して主権を回復した時点で、占領下においては日本の防衛義務を負っていたGHQには、その義務がなくなったことを誠実に日本国民に伝えること。
 ②しかし当時の日本の国力では、日本政府には日本の防衛と国民の安全に全責任を負えるだけの国力がなく、沖縄県民をいけにえにして米軍に「おんぶにだっこ」せざるを得なかったことを誠実に国民に説明すること。
 ③いま日本が国際社会に占めている地位にかんがみて、日本は国際とりわけアジア太平洋地域の平和と安全に、それなりの貢献をすべき責任があることについて国民に理解を求めること。
 ④そのうえで憲法を改正して、日本が国際とりわけアジア太平洋地域の平和と安全に貢献できる集団安全保障体制の構築に努力することの理解を国民に求める。――そうした手順を踏むことが政治の王道ではないだろうか。
 が、今回の安保法制の本当の目的を、谷垣幹事長が6月20日、山口県宇部市での講演でとうとう明らかにしてしまった。私はその発言内容を6月22日に投稿したブログで明らかにしたが、もう一度書く。
「日本周辺の安全保障環境は変わってきて、テロのようなものも起きるようになってきた。アメリカは、かつてほど世界のどこにでも目を光らせているという状況ではなくなっており、それを補わなければならない」
 つまり弱体化しつつあるアメリカの「世界の警察官」としての権威を、自衛隊が補完できるようにするというのが、安保法制の真の狙いなのだ。つまりアメリカの「飼い犬」として、アメリカにさらに忠誠を示すというのが安保法制の目的であり、そんな「集団的自衛権行使のための安保法制」が現行憲法下で認められるわけがない。
 私自身は、憲法を改正して、日本が国際とりわけアジア太平洋地域の平和と安全に貢献すべく、アメリカとだけではなくアジア太平洋諸国に働きかけてNATOのような集団安全保障体制の構築に努力すべきだと考えている。でき得れば、その集団安全保障体制に中国や北朝鮮も組み込み、政治体制は異なってもアジア太平洋の諸国が、アジア太平洋の平和と安全を守るために一致して行動をとれるようにすべきだとすら考えている。そういう構想を日本政府が明らかにして韓国や中国にも働きかければ、韓国や中国の日本に対する警戒心はなくなるだろうと思う。

安倍政権の足元から水が漏れだした。独裁権力は早晩崩壊するだろう。

2015-07-13 09:43:26 | Weblog
 きょうは二つの問題について書く。一つは今週15日に予定されている安保法制の衆院強行採決の結果が意味すること。もう一つはギリシャのユーロ圏離脱問題だ。

 安倍独裁政権の足元が揺らぎだした。
 7月11,12日の二日間にわたって行われたNHKの世論調査で内閣支持率は大幅に下落する見通しがほぼ明らかになった。実際の数字は今日の『ニュース7』で発表されるが、内閣支持率は前月に比して大幅に低下することが確実のようだ。
 大手メディアによる今月の内閣支持率調査はすでに読売新聞と毎日新聞が行い、ともに下落が明らかになっている。ただし、メディアの立ち位置によって支持率は大きく異なり、読売新聞は49%、毎日新聞は24%と差は25ポイントにも上る。朝日新聞は今週末に世論調査を行う予定だが、6月の世論調査ですでに39%への下落が明らかになっており、今月の世論調査ではおそらく30%を割る可能性が予測されている。
 NHKの世論調査は通常毎月最初の土日に行われるが、なぜか今月は第2週の週末に行うことにした。NHKによれば、前回の世論調査との間隔が短いということだが、6月の最初の土日は6,7日であり、今月の4,5日との間隔が極端に短いとは言えない。私の推測だが、先週の安保法制を巡る与野党の衆院での攻防が山場を迎えることがすでに明らかになっており、その攻防が世論に与える影響を見越したうえで調査を行うことにしたのではないかと考えられる。このブログはNHKの調査結果が発表される前に投稿したので、私は結果をまだ知らないが、先週の安保法制に対する国民の反対運動の盛り上がり、憲法学者や弁護士の相次ぐ集会での「違憲」発言が世論に与えた影響は無視できず、NHKの世論調査の数字に大きく反映されるだろう。
 NHKの報道姿勢は、最近きわめてフェアになってきた。私はメディアの報道姿勢や報道内容について批判することはあっても、支持することはまずない。が、籾井会長の様々な発言や、出家詐欺問題を報道した『クローズアップ現代』でのいわゆる「やらせ」事件に対する視聴者の反発が、NHKの報道姿勢に大きく影響したことは間違いない。視聴者に正面から向き合う姿勢がNHKの報道に反映されだしたのではないかと考えると、そのことは大いに歓迎すべきことだから、あえて書くことにした。
 ついでに「やらせ」事件でNHKが行った記者への「3か月停職」という処分は、「自分から辞表を出せば、自己都合による退職金も出せるし、企業年金(NHKの場合、年金の上乗せ部分をどう表現しているかは知らない。公務員の共済年金のようなものだと思う)も権利を失わずに済む」という、公務員の不祥事に対する「肩たたき」と同様の処分であり、実際その記者は「自己都合による退職」をしていることだけ明らかにしておく。この記者への事実上の「解雇」処分は、第3者機関による調査を信じる限り、私は重すぎると思っている。NHKの記者たちがこの処分で取材活動を萎縮してしまうことを私は恐れている。視聴者におもねることで信頼を回復しようとしたことは、メディアが「言論・報道の自由」を自ら放棄することを意味しかねないからだ。
 
 安倍独裁権力は、何によって支えられてきたか。言うまでもなくこれまでの内閣支持率の高さによる。
 自民党には総務会という国会議員25人からなる機関がある。党大会、両院議員装荷に次ぐ党の意思決定機関と位置付けられているが、常設の機関としては党内最高意思決定機関である。安倍総理が私的諮問機関「安保法制懇」を設置し、憲法解釈の変更によって「集団的自衛権の行使」を可能にするとした時、当時の総務会長の野田聖子氏が「総務会でまだ議論していない」と安倍総理の独走に待ったをかけようとしたことがあるが、安倍総理が無視、党内での独裁体制を一気に築き上げた。以降総務会は有名無実の「党内最高意思決定機関」と化し、安倍独裁権力が確立した。そんなことが可能になったのは小泉政権以来の内閣支持率の高さが安倍政権を強固にしたためで、党内の反安倍勢力は地下に潜らざるを得なくなった。
 が、安倍独裁権力の足元から水が漏れ出した。「安倍チルドレン」と言ってもいい党内若手議員たちが作家の百田尚樹氏を招いて党本部で開催した『文化芸術懇談会』なる「勉強会」での様々な発言が大問題になってしまった。朝日新聞が6月26日付朝刊で小さくこの「勉強会」について報道したが、当日の朝日新聞お客様オフィスには抗議の電話が殺到した。朝日新聞の報道姿勢に対する抗議だった。
 朝日新聞は読者からの抗議に直ちに反応した。当日の夕刊で大きく報道し、翌27日にも朝刊1面トップ、『時々刻々』、社説を総動員して「言論・報道の自由」に対する弾圧のための「勉強会」を批判した。野党も国会で安倍総理の責任を追及し始めた。詳しくは6月29日に投稿したブログ『自民「勉強会」と朝日新聞第一報が意味することを考えてみた』で書いたが、この「勉強会」に出席した議員たちへの処分があまりにも甘かったため、党内で総裁責任論が火を噴いた。安倍独裁権力の足元が崩れ出したのはその瞬間からである。私はそのブログでこう書いた。
「議員は国政選挙によって有権者から選ばれた人たちだ。彼らを政治の世界から葬ることができるのは、彼らの選挙区の有権者だけである。が、そういう議員を党から除名しようとしなかった安倍総裁の政治責任は当然問われなければ
ならない」
 今年1月2日に投稿したブログ『メディアに「戦後70年」を語る資格があるのか?』ではこう書いた。
「40年2月、民政党・斉藤隆夫議員が衆議院で戦争政策を批判(同議員は3月、議員を除名されたが、メディア自身による検証はない)。
3月、聖戦貫徹議員連盟結成。
9月、日独伊3国同盟成立。
10月、大政翼賛会結成。
12月、情報局官制公布。以降、メディアに対する言論統制が始まる。
 本来、日本を占領したGHQは、日本の軍国主義への道を掃き清めた『露払い』役のメディアを解体すべきだった。が。そうしなかった。なぜか。
 日本に健全なメディアが残っていたら、おそらく軍部に協力したメディアは一掃されていた。が、メディア自身が自分で自分の首を絞めた結果、メディア自身が自主性を完全に失っていた。メディアは自分自身が生き残るため、操をGHQに売ることにした。GHQにとっても、メディアの『売春行為』は歓迎すべきことだった。占領政策を成功させるためには、メディアの協力が欠かせないからだ」
 この日のブログでは書かなかったが、斉藤氏は42年の総選挙で、軍部などによる妨害をはねのけて兵庫県5区から最高点で再当選し、衆院議員に返り咲いている。私がもう少し若かったら斉藤隆夫氏の評伝と、堕落したメディアに比し健全な民主主義を守った兵庫県5区の有権者たちの物語を書きたいのだが、それだけの力と時間が今はない。私はこの個所を涙しながら書いている。
 当時の大日本帝国憲法が、国民から選ばれた国会議員を除名する権利を議会に認めていたかどうかは知らないが、おそらく一応民主主義制度を政治システムとして導入していた大日本帝国憲法も、そのような権利を議会に認めてはいなかったと思う。
 今日のブログでは「安倍チルドレン」の議員たちの発言内容については繰り返さないが、こうした言論・報道に対して弾圧したいと考える議員をかばった安倍総裁に対して、地下に潜っていた「反安倍派」の議員たちが公然と反旗を翻し始めたことは、様々なメディアが報じだした。
 さらに安保法制についても、国民に十分な説明をしていないという世論が圧倒的になり始めた。安倍総理は「審議は十分に尽くした。決めるべき時には決める」と、今週15日に衆院特別委員会採決、16日には本会議での採決を強行する構えを崩していない。大多数の憲法学者や弁護士が「違憲法制」と批判している法制について、国民に信を問わずに採決を強行したらどうなるか。
 先の総選挙について、安倍総理は民主党が昨年10月に行うことを当初主張し
ていた消費税再引き上げの延期を争点にしたかったのだが、民主党が消費税の
再引き上げを主張しなかったため、やむを得ず「アベノミクスの継続」を国民に審判してもらうと、苦し紛れの「争点」をでっち上げ、私は当時のブログで「憲政史上最低の投票率になる」と書いた。実際にはしらけきっていた有権者が、選挙直前の世論調査の結果としてメディアが「自民300議席を超える勢い」と報道したため、予想以上の投票率になった(それでも戦後最低の投票率だったが)。しらけきっていた有権者が、結局選択肢がない中で共産党の公認立候補者に投票、共産党が予想外の大躍進を遂げるという結果になったが、自民党は議席をかえって減らす結果になった。
 本来、安倍総理はその総選挙で安保法制について国民に信を問うべきだった。が、祖父の岸信介総理(故人)と同様、日米安保条約改定を隠したまま総選挙で勝利し、国民の審判を仰がずに沖縄県民をいけにえとしてアメリカに差し出す安保改定を強行し、国民の猛反発によって退陣を余儀なくされた。
 たとえ安倍総理が安保法制を強行採決しても、日米安保改定のときは問われなかった「憲法違反」の訴訟が全国8高裁で一斉に行われ、高裁、最高裁ともに「違憲判決」を下すであろうことは目に見えている。結果、安倍内閣は総辞職か衆院解散に追い込まれ、安倍独裁権力は崩壊する。つまり祖父と同じ道をたどることになり、しかも成立させた安保法制は最高裁によって破棄されることになる。
 安倍総理は自分の手で憲法改正への道筋も付けたかったはずだ。私はこれまで何度もブログで書いてきたように、現行憲法は日本が占領下に置かれていた時代に制定されたもので、日本の防衛と日本国民の安全は占領国(連合国、実際にはアメリカ)が責任を持つのが国際法上の常識である。だから憲法制定の可否を採決した国会(帝国議会)で、当時の吉田茂首相は「自衛のための戦力をも持たないというのが憲法9条の趣旨である」と答弁している。
 しかしサンフランシスコ講和条約に調印して日本が独立を回復した時点で、日本の防衛と国民の安全に対する責任は日本政府に移った。当然政府は新憲法制定の義務を負い、国会で発議して国民に賛否を問わなければならなかった。が、独立国家としての尊厳を吉田首相は放棄した。当時の日本の国力が、自国と国民の防衛・安全に責任を持てる状態になかったからだ。吉田首相はまず先の大戦で崩壊した経済、特に国内総生産力の回復に全力を挙げざるを得なかった。経済再建優先のために、事実上日本の防衛と日本国民の安全は、アメリカに「おんぶにだっこ」を続けざるを得ないと吉田首相は考えた。サンフランシスコ講和条約調印と同時に吉田首相が日米安全保障条約を独断で結んだのは、そういう事情が背景にあったからだ。
 本来他国との安全保障条約は双務的であり、片務的な安全保障条約は相手国
の事実上「属国」になることの承認を意味する。吉田首相が独立国家としての尊厳を回復しなかったのは、当時の日本を取り巻く国際情勢にも原因があった。日本海を隔てた朝鮮では共産勢力と反共産勢力が激しい戦争を行っていた。北朝鮮にはソ連と中国が軍事支援を行っており、南朝鮮(現韓国)にはアメリカが軍事支援を行っていた。その戦果が日本に飛び火する危険性はきわめて高かった。が、日本はその飛び火を自ら防げる国力が当時はなかった。吉田首相が、独立を回復しながら軍事的には事実上アメリカの「属国」状態を続けざるを得ないと考えたのはやむを得なかったと、私も思う。
 ただ、吉田首相はそうした事情と日本の現実を国民に誠実に説明し、日本が国力を回復した時点で憲法を改正し、アメリカへの事実上の「属国」状態も解消しなければならない…そのことは日本が国力を回復した時点の政府の責任だと国民に訴えるべきであった。その最低限の政権トップの義務を吉田首相は果たさなかった。そのため「憲法9条の平和神話」が日本国民の間に広く定着してしまった。日本経済復興に果たした吉田首相の功績は確かに大きかったが、独立国としての尊厳の回復を招来の政府に委ねることを国民に約束しなかった「罪」は、これまた計り知れないほど大きかった。
 ここ数年、国民の間にも憲法改正すべきとの気運がようやく高まってきた。各メディアの世論調査でも、ごくわずかだが憲法改正賛成派が反対派を上回るようになってきた。だが、大多数の憲法学者や弁護士が「違憲法制」と決めつけている安保法制を安倍総理が強行採決すれば、国民の間にようやく生じてきた憲法改正気運が一気にしぼんでしまう可能性が高くなった。「違憲法制」と決めつけた憲法学者や弁護士たちも、すべてが憲法改正反対派ではない。むしろ憲法改正が先だろう、という思いで安保法制に対して「違憲法制」と決めつけていると考えてもおかしくない。
 安倍総理は、憲法改正を優先していたら時間がかかると考えたのかもしれない。が、日本がそれほど存亡の危機という緊急事態を迎えているわけではない。むしろ「世界の警察官」として覇権を確立してきたアメリカが、国力の疲弊によって生じた軍事力の弱体化を、後方から軍事支援することが安保法制を急いだ安倍総理の本当の狙いだ。そうした考え方自体を私は全面的に否定するわけではない。現在の日本の国力と国際社会に占める地位から考えれば、日本は世界、とりわけアジア太平洋地域における安全と平和にそれなりの責任を負うべきだと、私は考えている。が、国際の安全と平和に貢献するためには、現行憲法を改正することが大前提になる。その大前提を無視して「憲法解釈の変更」によってアメリカの軍事支援をするというのは、かえって日本の歴史を逆戻りさせる結果になることは必至である。そのことを政治家もメディアも理解してほしい。

 もう一つの重要な問題、ギリシャ問題は日本時間昨夜からきょう未明にかけて行われたユーロ圏首脳会議では決着がつかなかった。ドイツが強硬な姿勢を崩さなかったからだ。
 結局、首脳会議で出した結論は、15日までにギリシャが改革案を法制化することを要求するにとどまった。ギリシャのチプラス首相はほぼユーロ圏首脳が突き付けた緊縮政策を受け入れることを表明したが、ユーロ圏首脳会議は「口約束だけでは信用できない」と突っぱねてしまった。
 が、緊縮政策の法制化は、チプラス首相にとっては容易ではない。そもそも緊縮政策に反対して首相になり、ユーロ圏首脳が要求する緊縮政策を受け入れるか否かの国民投票(直接民主主義)まで行って放漫政策を続けることをいったん決めたはずだ。チプラス首相としては、ギリシャ国民が民意を示した以上、ユーロ圏各国もギリシャ国民の選択を尊重してくれるだろうと考えたのだろうが、そんな甘い話をユーロ圏が認めるわけがない。
 第一、ギリシャ国内では60%を超える国民が緊縮政策に反対した。その民意を否定する提案をユーロ圏に示したチプラス首相への厳しい批判が国内に渦巻いている。ユーロ圏首脳から突き付けられた「15日までに緊縮政策の法制化」という待ったなしの条件を達成するのは容易ではない。
 そんなことは不可能だと考えたのだろう、対ギリシャ強硬派のドイツ・メルケル首相は「5年間の一時的ユーロ圏からの離脱」さえ勧告した。ユーロ圏からいったん離脱した場合の復活は認められていないが、言うなら緊急避難措置として例外的に認めようとユーロ圏首脳を説得したようだ。
 もはやチプラス首相もギリシャ国民も「ノー天気」を続けられる状況ではなくなった。ギリシャの最大の産業は観光。が、いまのギリシャへの観光旅行をしようという外国人はすでに激減する傾向が表れている。さあ、どうする。ギリシャの国会は15日までに緊縮政策の法制化を認めるのか。それともデフォルトの道を選択するのか。少なくともギリシャは建国以来最大の危機的状況を迎えている。

ギリシャ国民はなぜデフォルトへの道を選択したのか。政権によるメディア操作の疑問がぬぐえない。

2015-07-06 07:29:22 | Weblog
 いま日本時間6日の午前5時10分。NHKの5時のニュース番組『おはよう日本』によれば日本時間5時に発表されたギリシャの国民投票の開票状況は、賛成38.47%、反対61.57%(開票率71.9%)である。
 国民投票はギリシャがEUから突き付けられた「緊縮財政」の要求を呑むか否かを問うもので、「呑む」場合が賛成、「呑まない」場合が反対、という二者択一を国民に選択させようというものだった。この開票状況で「勝利」を確信した政権側のバルフォキス財務相は「勝利宣言」を発表した。
 が、ギリシャのチプラス政権は、反対派が多数を占めたことで本当に「勝利」したのだろうか。
 そもそも今回の国民投票は1週間前にチプラス首相が唐突に発表したもので、6月30日の読売新聞は社説で「ギリシャ国民は、EUとの交渉経過デフォルト(※債務不履行=国家財政の破たん)がもたらす影響を十分に知らされていない。政権が国民に最終判断を丸投げするのは、あまりにも無責任だ」とこっぴどく批判した。
 チプラスはギリシャの「民意」を投げかけることでEUに翻意を迫る作戦なのだろうが、EUがギリシャへの金融支援を再開する見込みはまずない。私が2日に『ギリシャはどこまで「ノー天気」なのか。財政立て直し策は一つしかない』をブログ投稿した時点では、ロシアと中国が虎視眈々とギリシャを足掛かりにヨーロッパへの進出を狙っていることは知らなかった。知ったのは4日のNHKのニュースで、ロシアがギリシャへの天然ガス供給のためのパイプライン建設を計画していること、中国がギリシャの立地条件を重視して港湾施設建設に協力しようとしていることを報道したことによる。ただし、このニュースの信ぴょう性は確認されていない。ギリシャのチプラス政権がEUをけん制するために、「EUがギリシャを見捨てるならギリシャはロシアや中国と手を組む」というアドバルーンを上げただけ、という可能性も十分考えられる。
 実は賛成か反対かの国民投票を行うと発表した時点では、民間の世論調査会社の調査によれば「賛成」(EUの要求を呑む)とした国民が約7割を占めていた。その世論が1週間で逆転した。なぜか。
 ギリシャの国営放送を含むメディアの報道姿勢を抜きには、この逆転劇は生じなかったに違いないと思う。おそらくチプラス政権は国民投票という「賭け」に打って出たとき、メディアを意のままに操れるという確信を持っていたのだろう。
 ギリシャに限らず、政権は多数の機密情報を握っている。チプラスはギリシャ・メディアの恥部を握っていた可能性が高い。国民投票までの1週間、ギリシャのメディアがどういう報道をし、国民を世論操作してきたのかを、日本のメディアは分析する責任と義務がある。
 
 いま午前6時。NHKのニュースによれば開票作業は着々と進み、約90%が開票され「反対」派の勝利が確実になったようだ。チプラス首相は公共放送で「勝利宣言」を行い、「6日朝にもEU側との交渉を再開したい」と述べたようだ。
 が、EUとくに主要国のドイツとフランスがギリシャに妥協する可能性は、はっきり言って0%だ。この国民投票によってギリシャ国民は自分たちがいかに「ノー天気」だったかを思い知らされることになる。ギリシャはEUブロックからの離脱を要求され、間違いなくデフォルトに陥る。そうなった場合、本当にロシアや中国がギリシャ支援計画を立てていたとしても、実行する可能性は極端に少なくなる。「得るものより、失うもののほうが大きい」ことに気が付くだろうからだ。
「先の不幸な時代」だったならば、「失うものが大きくても、ギリシャを植民地として手に入れることのメリット」を、ロシアも中国も選択しただろう。が、いまはそんな時代ではない。ロシアや中国の進出にはEUが指をくわえて見ているはずがない。
 もはや、ギリシャのEUからの離脱は防ぎようがなくなった。ギリシャがデフォルトに陥って、ユーロに代わるギリシャ通貨を発行することになっても、そのギリシャ通貨は国内でしか通用しない。どの国も、また海外企業もギリシャの通貨では、ギリシャの企業や国民が必要とするものを売ってくれなくなる。
 ギリシャが財政危機から立ち直るとしたら、2日のブログで書いたようにアメリカの「属国」になり(つまり現在の日本のような状態)、アメリカの要求に無条件に応じて、多くの米軍基地を提供するしかないだろう。だが、この1週間でギリシャの世論が逆転したのは、おそらくギリシャ・メディアの大半が「EUの圧力に屈していいのか」というナショナリズムを煽ったからだと思う。アメリカがギリシャの救済に乗り出そうとした時、ナショナリズムが勝利を収めたギリシャで、メディアやギリシャ国民が、そんなにご都合主義的にナショナリズムを捨てるとも思えない。ギリシャは完全に袋小路に入り込んでしまった。

 いま7時の『おはよう日本』でチプラス政権の勝利が確定したことが判明した。ギリシャがデフォルトに陥ることが確実になった。そのとき、ギリシャの軍部がどう出るか。クーデターによるチプラス政権打倒の可能性もあり得ないではない。あらゆる論理的可能性を、メディアは考慮する必要がある。日本のメディアには、あまり期待はできないがね…。

 あと1時間足らずでFIFA女子ワールドカップの決勝戦が始まる。私もテレビにかじりつく。
 メディアが煽りに煽るから、テレビにかじりつく日本人はどうしても期待感を持ってしまう。が、冷静に考えれば今度の決勝戦は、相撲に例えれば無敵の横綱に小結が挑むようなものだ。もちろん相撲だって番狂わせはあるわけだから、なでしこに勝機がゼロというわけではない。イギリスのブックメーカーの賭け率がどうかは知らないが、おそらく8:2くらいで日本の不利が予想されているのではないかと思う。
 でも、また冷静に考えれば、今大会のなでしこは本当によくやった、と感動している。戦力は4年前に比べかなり落ちているのに、全試合1点差ながら階段をよくぞここまで上り詰めたと、佐々木監督の采配(戦術、選手の起用法も含め)もさることながら、選手たちの頑張りに拍手を送りたい。スポーツは必ずしも1プラス1=2という結果にはならないことが少なくない。3にも4にもなることがある。そうした奇跡を期待したい。


ギリシャはどこまで「ノー天気」なのか。財政立て直し策は一つしかない。

2015-07-02 08:15:21 | Weblog
 ギリシャ政府の「ノー天気」さには、呆れるしかない。すでにギリシャの富裕層は金融資産を海外に移転しているのに、やはり「ノー天気」な一般国民は銀行が封鎖されるまでギリシャの危機的状況に対応してこなかった。
 先月末が期限だったIMFへの返済ができなかった。ギリシャが発行している国債は紙切れになった。つまり企業で言えば「倒産」状態である。厳密に言えば企業が発行した小切手や手形が落とせなくなった場合、すぐ「倒産」というわけではない(※日本の場合)。だが続けて2回目も小切手や手形が落とせなかったら、銀行は当該企業との取引を一切停止する。つまり現金でしか当該企業は取引先との決済ができなくなる。その時点で「倒産」という事態になる。取引先企業との現金決済もできなくなるからだ。
 ギリシャが置かれていた状況とは、そういう事態だった。ギリシャのチプラス首相は、何とかユーロ諸国の支援を引き出すため、まったく無意味な「努力」を重ねてきた。だが、これまでユーロはギリシャの財政破たんを回避しようとギリギリまで支援を続けながら、その一方ギリシャ自身の自己努力を要請してきた。具体的には社会福祉の見直し(年金支給年齢の引き上げ・年金額の減少)、公務員(ギリシャ国民の2割が公務員だった)の削減と高賃金の見直しなどだった。これがギリシャに突き付けられていた「緊縮財政」の要求だった。他にも公共投資の削減なども求められていたが、公共事業をストップするとギリシャ経済が根本から崩壊しかねないので、ユーロ諸国はそこまでを絶対条件にするつもりはなかったと思う。
 が、ギリシャ国民は緊縮財政による財政立て直しより、「いざとなったら、ユーロ諸国が何とかしてくれるだろう」という、言うなら子供が親に対する「おんぶにだっこ」を期待していたようだ。が、ユーロ諸国も実はそんなゆとりはなくなっていた。リーマンショック以降の「失われた20年」は日本だけではなかったのだ。日本の場合は一時的にITバブルによって景気回復の兆しもあったが、ヨーロッパにはIT技術が育っていなかった。ユーロ圏ではITバブルは生じなかった。
 その理由について簡単に触れておきたい。産業革命の発祥の地はイギリスだった。きっかけはジェームス・ワットが発明した蒸気機関車だったとされている。蒸気機関車は確かに産業革命の主役にはなったが、はっきり言って蒸気機関車はヨーロッパには向いていなかった。そのことを歴史家たちはだれも指摘してこなかっただけだ。
 なぜか。ヨーロッパの水は石灰分を多量に含み、その水を石炭で沸騰させて蒸気をつくり機関車を動かす原動力にしようとしたのだが、水に含まれている多量の石灰分は残念ながら蒸発してくれない。だからヨーロッパではせっかくの蒸気エンジンがすぐボロボロになってしまうのだ。
 ヨーロッパの産業がIT革命の恩恵にあずかれなかったのは、同じ理由だ。IT技術の根幹をなすのは、言うまでもなく半導体技術だ。半導体を作るには純水が不可欠である。不純物を大量に含んだ水から純水を作るのは技術的にもコスト的にもきわめて不利になる。
 世界で最初に半導体技術が発達した米シリコンバレーはきれいな水に恵まれていた。半導体技術で一時は世界ナンバー1になった日本も純水を作るのに恵まれた国だった。いま日本を抜いて世界ナンバー1の半導体技術を誇る韓国も水に恵まれていた。そのことは、なぜ日本の米がおいしいのか、カリフォルニア米も日本米に匹敵するくらいおいしいのか、はその一点にある。韓国でコシヒカリを栽培したら、新潟産に匹敵するくらいのおいしい米が作れると思う。
 話がちょっと横道にそれたが、ヨーロッパでは絶対おいしい米は作れない。同様に半導体技術も育たない宿命にあった。イギリスの食事がまずいというのも、ドイツやフランスは水の代わりにビールやワインを飲む習慣が生まれたのも水質のためだ。
 現代の産業は基幹部分を半導体技術に頼っている。ヨーロッパが世界の産業発展から遅れだしたのは「水」という天然資源に恵まれなかったためだ。韓国の朴政権が反日感情を煽りだしたのは、自国の半導体技術が世界の産業発展を担っているという自負の表れでもある。そのことはすでに何度もブログで書いてきたので、これ以上は繰り返さない。ギリシャの問題に戻る。
 ギリシャの国内総生産(GDP)は日本の神奈川県1県だけの総生産にも劣る。主な産業は観光と農業だ。資源はない。農業もオリーブや綿、葉タバコなど世界の主要農産物とは言えない。ただ世界でもまれな立地国ではある。ギリシャは地中海と黒海につながるエーゲ海に面し、海を挟んで西欧、東欧諸国、さらに中東諸国とも面している。いうなら世界最大といってもいいほどの軍事的要衝地域にある。その利点をギリシャ政府はなぜ活かそうとしないのか。
 はっきり言えば、アメリカにとってはのどから手を出したいほどのおいしい国なのだ。現代世界で最強の同盟関係にあるのは言うまでもなく米英だ。アメリカにとってイギリスに次いで大切な国はイスラエルだ。イスラエルがすでに核を保有しているのは世界の常識だが、アメリカもイギリスもイスラエルの核は不問に付してイランの核疑惑や北朝鮮の核だけを非難している。フェアなやり方とは言えまい。
 アメリカがそういうスタンスをとるなら、ギリシャにとっては「タナボタ」的チャンスがある。ユーロ諸国がギリシャを見捨てるというなら、アメリカと同盟関係を結べば問題は一気に解決する。はっきり言ってしまえば、ギリシャがアメリカの準州になればいい。アメリカがギリシャに軍事拠点を自由に作ることができれば、その経済効果だけでもギリシャの財政破たんは一気に解決す
る。一方アメリカにとっては頭痛の種であるイスラム国の反米活動に大きなにらみを利かせることができる。その代償として米産業界がギリシャの産業復興に協力してやれば、ギリシャは「観光・農業」立国から工業立国に脱皮できる可能性も生じる。しょせん世界を動かしている「パワー・ポリティクス」とはそういうものだ。
 少なくとも、ギリシャが「ヨーロッパがギリシャを見捨てるなら、アメリカと同盟関係を結ぶぞ」と言えば、ギリシャを取り巻く経済環境は一変する。「緊縮財政」一本槍でギリシャを責め立てるのではなく、ギリシャの経済復興のために、金融支援だけでなくあらゆる技術的、あるいは産業進出などの支援に本格的に乗り出さざるを得なくなる。ヨーロッパ諸国も一枚岩ではない。イギリスとドイツを除けば、反米感情を濃厚に残している国が少なくない。イギリス人でさえアメリカ文化に汚染されることを嫌い、テレビ放送方式もアメリカが開発したPAL方式を採用せず、娯楽番組も一切拒否してきた。マードックが衛星放送でエンターテイメント番組をばらまきだすまでは…。
 よく知られている話だが、フランス人の反米感情は並々ならないものがある。フランスをドイツの占領下から救ってくれたのはアメリカを中心とする連合国軍だが、なぜかフランス国民はアメリカを嫌う。「自由の女神」を贈ったのはフランスだったのだが…。
 そうしたヨーロッパ諸国のそれぞれの国民感情を利用すれば、ギリシャは最後の切り札を持っているはずなのだ。が、その切り札を使わなければ、ギリシャはデフォルトへの道を進まざるを得なくなる。ギリシャ問題について、日本のジャーナリストはどうしてそういう発想で分析できないのか。何のために「言論と報道」の自由を持っているのか、私には想定外である。