小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

NHKが迷走を始めた。NHKは安倍総理の私的放送局になったのか。トップの責任が問われるのは必至だ。

2014-02-28 11:01:14 | Weblog
 NHKがとんでもない迷走を始めた。NHKの番組の中で最も権威があると自他ともに認める『ニュース7』でメイン・アナウンサーが安倍総理の提灯を担ぐアナウンスを数回(たぶん4~5回)行い、しかもテロップの字幕でも同様な説明文字を流したのだ。
 実は同じような表現のテロップを、2月5日の『ニュースウォッチ9』で流した時、私はNHKのふれあいセンターに電話をして責任者にクレームを申し入れた。その後、NHKは私のクレームを受け入れて、いったん表現を変えた。ところが2月25日の『ニュース7』で、冒頭に書いたようにとんでもない報道をしたのである。この20日の間に、NHKの政治部に何があったのか。新任の籾井会長は編成や編集に口出しはしないと国会で証言しているから、籾井会長の直接の指示ということは考えにくい。籾井会長が間接的に指示したのか。あるいは籾井会長の取り巻きが「会長の意向だ」と政治部に圧力をかけたのか。いずれにしても、この「事件」が公になれば、政治部長の首は間違いなく飛ぶし、籾井会長もただでは済まないかもしれない。

 現在、首相官邸に「安保法制懇」(安全保障の法的整備の再構築に関する懇談会)が設置されている。もともとは第1次安倍内閣(2006年9月~07年8月)の時に安倍総理が設置した私的諮問機関である。その目的は、日本の集団的自衛権の問題と日本国憲法の関係整理及び研究をすることだった。
 このとき設置された安保法制懇についてはすべてのメディアが「総理の私的諮問機関」あるいは「総理の私的懇談会」と位置付けていた。そして、安倍総理が健康上の理由で辞任し、福田内閣(07年9月~08年8月)が誕生した。
 安倍総理は辞任後「総理在任中に靖国神社に参拝できなかったのは痛恨の極み」と思いを語ったが、福田総理は自分の内閣から数名の閣僚が靖国神社に参拝して中国や韓国の反発を受けて、靖国神社に代わる戦没者追悼のための国立墓地建設を諮問する有識者会議を私的に設置した。
 第1次安倍内閣の安保法制懇も、福田内閣の時の国立戦没者墓地建設の私的諮問機関も、ともに首相官邸に設置された。政府が設置した諮問機関(あるいは有識者会議)は、閣議で決定されたうえで通常内閣官房に設置される。そうなると政府が設置した正式な機関ということになるからオフィシャルな機関となり、内閣が代わっても与党に変更がないかぎり存続される。しかし、政府が正式な手続きを踏んで内閣官房に設置することができなかった場合は、総理の私的諮問機関(あるいは有識者会議、懇談会)として首相官邸に設置される。(以降第1次安倍内閣の時に安倍総理が設けた安保法制懇は「第1次法制懇」、第二次安倍内閣時のは「第2次法制懇」と記すことにする)
 結論から言えば、第1次法制懇も、福田総理の諮問機関も、総理の退陣とと
もに消滅している。政府のオフィシャルな諮問機関(あるいは有識者会議、懇談会)ではなかったからだ。
 第1次法制懇は5回会合を開いたが、肝心の安倍総理が退陣したため立ち消えになった。繰り返すようだが、第1次法制懇が政府のオフィシャルな有識者会議であったら、総理が退陣しても政権与党が変わらない限り継続審議されるのが通例である。だが、いちおう第1次法制懇は柳井俊二座長の名において08年6月に報告書をまとめている。すでに安倍総理は退陣したあとのことで、福田総理の時だ。が、福田総理はこの報告書を握りつぶした。政府のオフィシャルな諮問機関が提出した報告書でなかったからだ。
 従来から、憲法9条の解釈について政府は「外部からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合に、これを排除するために必要最小限の範囲で実力を行使することまでは禁じていない」という解釈を継承してきた。
 一方、国連憲章第51条は国連加盟国の「自衛権」について「(外部からの)武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章(※国連憲章の全文)に基づく権能及び責任に対しては、いかなる影響を及ぼすものではない」と、自衛権行使の権利と行使した場合の措置について定めている。
 日本の法律文書や金融商品(預貯金、クレジット、保険など)の約款もそうだが、誤解や曲解を防ぐためかどうかは分からないが、ことさらに難解な文章の羅列になっている。で、私は1月6日に投稿したブログ『安倍総理の集団的自衛権行使への憲法解釈変更の意欲はどこに…。積極的平和主義への転換か?』で国連憲章をかみ砕いて説明したが、さらに大胆に要約してみる。
 まず国連憲章は、国際間のトラブルは話し合いによる平和的な解決(二国間、仲介国を入れた三国以上、国際司法機関、国連などの場で)を義務付けている。が、それでも国際紛争を解決できなかった場合は、国連の安保理があらゆる手段(経済制裁などの非軍事的措置及び武力行使による軍事的措置)を使ってトラブルを解決する権限があることを認めている。が、安保理には拒否権を持つ常任理事国5か国があるため、せっかく与えられた権限を行使できないことも考えられるため――という前提で外部からの攻撃を受けたときには、攻撃された国は「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を行使(武力による防御を意味する)してもかまわない、という意味なのである。
 そういうふうに解釈すれば(高校生くらいの読解力があれば、間違いなくそ
う解釈する)、日本の場合、「個別的自衛権」としてはすでに自衛隊を擁しており、「集団的自衛権」としては一応「同盟国」という位置付けをしているアメリカが日米安保条約によって助けに来てくれることになっている。だから、私はこのブログを書いたことを首相官邸のホームページから連絡した。その数日後、首相官邸からメールが届き「関連部署に伝えました」と返事がきた。つまり私の「集団的自衛権」解釈は無視できないと首相官邸は判断したということだ。
 もともと政府の集団的自衛権の解釈は「日本と密接な関係にある国が攻撃を受けた場合、日本への攻撃とみなして日本が武力行使をする権利」とおかしな解釈をしてきた。そういう解釈に立てば、「集団的自衛権は固有の権利として認められているが、我が国の場合、憲法9条の制約によって行使できない」という結論になるのは当然である。
 そこで第2次法制懇は、私の主張との整合性を図るため集団的自衛権についての従来の政府解釈を微妙に変えることにしたようだ。
 第1次法制懇が08年6月に提出した報告書には集団的自衛権の行使について、こうまとめている。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使を『国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』ものであって、個別的自衛権はもとより、集団的自衛権の行使や国連の集団安全保障への参加を禁ずるものではないと読むのが素直な文理解釈であろう」と。
 もし、そう解釈できるなら、憲法9条は何の意味も持たないことになる。福田総理が無視したのはそのためである。
 が、第2次安倍内閣の発足によって安保法制懇(第2次法制懇)も再開される。柳井座長をはじめ、懇談会のメンバーも同じ顔ぶれが大半を占めた。最初から結論ありきのはずだったから、昨年夏ころには柳井氏は「憲法解釈の変更で集団的自衛権を行使できるめどがついた。年内には結論を出す」と胸を張っていたのだが、私が8月29日に投稿したブログ『安倍総理は勘違いしている。日本はすでに集団的自衛権を保持している』を投稿し、首相官邸にそのことを通知した。その後柳井座長は第2次法制懇から一時逃げ出している。簡単に第2次法制懇の会合(第2次法制懇のホームページにも「会議」ではなく「会合」と記載されている。マスコミは「会議」と「会合」の言葉の持つ意味の重さの違いも理解できないようだ)での柳井座長の出欠歴を紹介する。
  第1回 13年2月8日 出席
  第2回 13年9月17日 欠席
  第3回 13年10月16日 欠席
  第4回 13年11月13日 欠席
  第5回 13年12月19日 出席
  第6回 14年2月4日 出席
 少なくとも柳井俊二氏は第2次法制懇の座長である(第1次法制懇でも座長だったが)。そして夏ころには「年内に憲法解釈の変更が可能との結論を出せる見込みがついた」と豪語していた。
 その、安倍総理が最も頼りにしていた人物が、肝心な時に3回も連続して大事な会議をすっぽかしているのである。その間に必死に頭をひねっていたのだろう。第2次法制懇の北岡伸一座長代理21日、日本記者クラブで記者会見して4月に提出する最終報告書の骨子を明らかにした。それによれば、集団的自衛権行使の条件として「密接な関係にある国が攻撃される」「放置すれば日本の安全に大きな影響がある」など5条件を報告書に盛り込む考えを示した。ほかの条件は、「攻撃を受けた国から日本の支援を求める明らかな要請がある」「首相が総合的に判断し、国会の承認を受ける」ことなどとしている。4月にこれらの内容を盛り込んだ上で集団的自衛権を行使できるという報告書を第2次法制懇は出すようだが、この第2次法制懇の位置付けについて依然として不透明なままである。
 民放のニュース番組は事実上「ニュースショー」なので、こうしたシリアルな政治問題は報道を避けているようなので(各民放の視聴者センターに確認してはいない)、新聞がどう位置付けているか調べてみた。読売新聞と産経新聞は「政府の有識者会議」と位置付け、朝日新聞は「総理の私的諮問機関」、毎日新聞は「総理の私的懇談会」、日本経済新聞はただの「有識者会議」としている。
 どうして新聞各紙の位置づけが異なっているのか。新聞だけではない。自民党には聞くまでもないと思い聞いていないが、野党はもちろん私的諮問機関(あるいは私的懇談会)という位置付けで、与党の公明党すら私が電話で問い合わせた24日の時点では肝心の集団的自衛権問題の担当スタッフも「そういうことは考えたこともありませんでした」といったありさまだった。私が「政府の、ということになると公明党も閣僚を送り込んでいますから、責任を共に負うことになりますよ」と申し上げたら、びっくりしたような様子で「この件は直ちに上にあげます」と約束した。
 しつこいようだが、原則は政府が閣議で決定したオフィシャルな諮問機関(あるいは有識者会議)は内閣官房に設置される。少なくとも福田総理が設けた国立戦没者墓地建設を検討するための諮問機関は、自民党内部での反対意見が強くてオフィシャルな諮問機関として閣議決定できずに、私的諮問機関として首相官邸に設置された。もし福田総理が早期退陣せずに、この私的諮問機関が「国立戦没者墓地を建設すべきだ」という報告書を提出していたら、自民党は賛否が二分していたであろうが、与党の公明党をはじめ全野党が支持しただろうから、その時点で靖国参拝問題は解決していたはずだ。
 ところが、第2次法制懇についてはメディアの位置付けはすでにバラバラなのだ。一般的には右寄りとされている読売新聞や産経新聞が「政府の」と位置付け、左寄りとされている朝日新聞と毎日新聞が「私的」と位置付け、中間的立場の日本経済新聞は何の位置付けもしていないことはすでに書いた。

 そこで問題になったのがNHKである。2月5日(第6回目の第2次法制懇の会合が行われた翌日)の『ニュースウォッチ9』(『ニュース7』だったかもしれない)で「政府の有識者会議」と位置付けたテロップを流した。私は直ちにふれあいセンターの責任者に電話をして公共放送であるNHKがNHKの判断で第2次法制懇をオーソライズするのはまずいのではないかと申し上げた。その時責任者は第2次法制懇についての位置付けが非常に重要な意味を持つことへの理解はできなかったようだが、「お客さまのご意見は伝えさせていただきます」と対応してくれた。
 私が再度疑問を感じたのは、21日に第2次法制懇の座長代理の北岡氏が記者会見で、4月に出す予定の報告書の概要を発表したのちである。その日はあいにく外出していてNHKのニュースを見ることができなかったのだが、やはり気になり、24日にまず公明党の事務局と内閣官房国家安全保障局に電話をした。公明党事務局の担当スタッフとのやり取りはすでに書いた。
 ついで内閣官房国家安全保障局に電話をした。第2次法制懇の公式ホームページに「連絡先」として内閣官房国家安全保障局が記載されており、所在地や電話番号も載っている。が、安保法制懇の担当者に「メディアによって安保法制懇の扱い方がまったく違うので、本当のところはどうなのか」と尋ねたのだが、担当者は非常に歯切れが悪い。私の質問に答えないのだ。担当者が言ったのは「昨年2月22日に安倍総理から、安保法制懇の事務方は内閣府が担当するように指示がありました。しかし安保法制懇の会合は首相官邸で行われています」という、すでに私が知っていることだけだった。私がさらに「通常、政府のオフィシャルな有識者会議や諮問機関の場合、内閣官房に設置されますね。しかし、総理の私的諮問機関などは通常首相官邸に設置されます。安保法制懇の場合、首相官邸に設置されながら事務方は内閣官房が引き受けるということはどういうことですか」と追及したが「その辺の事情は私にはわかりません。ただ言えることは先ほど述べたように事務方は内閣官房が担当するよう総理から指示があったということだけです」だった。

 ちなみに内閣府は2001年1月の中央省庁再編に伴い、内閣(事実上の内閣官房を含む)主導により行われる政府の政策の企画・立案・総合調整(縦割り組織である各省庁間の調整)を補助する目的で設置された。内閣府は、そういう意味では各省庁と横並びの行政機関という位置付けになっているが、内閣府のトップ(省庁の大臣・長官に相当)は総理大臣であり、内閣官房は内閣府に置かれているが官房長官室は首相官邸にある。そのうえ、内閣府の各部門は千代田区の永田町と霞が関に分散しており、永田町にある内閣府の代表電話番号に電話をかけても内線でつなげることができない部署もあるという。
 非常にややこしい組織になのだが、2001年に新設されたということもあって、永田町や霞が関に独立したビルを建てるスペースの確保が難しかったのだろう。それはいいとしても、読売新聞や産経新聞が第2次法制懇について「政府の有識者会議」と勝手に位置づけたのは、内閣府のトップは名目上総理大臣であり(縦割り行政の弊害を防ぐことが内閣府の重要な役割であり、そのため各省庁間の調整を行うには内閣府に相当の権限を付与する必要があるため、内閣府の長官職は総理大臣が兼任する形式をとることにしただけのこと)、総理の女房役である官房長官も名目上は内閣官房のトップであるが、官房長官室は首相官邸に置かれているうえ、安保法制懇の会合に総理と官房長官も出席していることで、読売新聞と産経新聞が「政府の有識者会議」と位置付けた理由だと思う(両新聞社に理由を聞いたことがあるが、そういう質問にお答えするところではないと回答を拒否された)。
 だが、それなら第1次法制懇のときには両紙とも「私的諮問機関・懇談会」と位置付けたのか。第1次の時も会合には総理と官房長官が出席しており(福田総理の時は不明)、安保法制懇の位置付けについての一貫性がない。また位置付けを変えたことについての説明も紙面でしていない。「言論の自由」を喚き散らしながら、読者に対しては「黙って新聞に書いていることを受け入れろ。文句があるなら読まなければいい」と言わんばかりの、自分たちは何様だと思っているのかと言いたくなるほど傲慢な連中だから、主張を変えても説明責任を果たす必要性などまったく感じないのも当然と言えば当然かもしれない。

 が、民間企業の新聞社と違ってNHKは立場が違う。法律で視聴者に視聴料の支払いが義務付けられており(ただし、支払わなくてもイギリスのBBCのように罰金をとられるようなことはない。フランスなど公共放送の受信料を税金で徴収している国もある)、だからNHKは常に公平で公正・政治的中立をたもった放送がやはり法律で義務付けられている公共放送である。だからBPOはNHKと民放各社が共同で設立したが、NHKの出身者の発言力が強く、そのためかえってNHKに対する厳しい目線で放送をチェックしている。
 ある意味では、NHKの職員の使命感の高さには私も高く評価している。私がかつて『NHK特集の読み方』(88年11月、光文社から上梓)を書いた時、広報の計らいである番組制作のプロジェクト・チームの取材に完全密着して取
材現場から編集現場。編集後のチェックや修正作業、放送中に視聴者からかか
ってくる電話に対応するため1室に全員が待機する場まで同席させてもらい、彼らの仕事ぶりに心から感動したことがある。
 にもかかわらず、私は同書でNHK特集の空前絶後の反響を呼んだ番組『世界の中の日本――アメリカからの警告』について手厳しい批判もして、その個所が様々な方から書評で高く評価されたことがある。この番組はゴールデンウィークが始まる1986年4月26日(土)~28日(月)にかけての3日連続で、それもゴールデンタイムに放送したシリーズ番組で、のちに雑誌スタイルの3冊の本になったほどだった。この成功でメイン・キャスターを務めた磯村尚徳氏は、この番組で一躍名を挙げて都知事選に担ぎ出されたほどだった。
 それほどの番組に対して、私は「欠落した重要な視点」(見出し)としてこう指摘した。「日本と海外、特にアメリカとの関係を論じるうえで、きわめて重要な視点が欠落していることも指摘しておかなければならない。それは自動車や電気製品を作っている輸出メーカーは、果たして円高の被害者なのか加害者なのか、という視点である。私は輸出メーカーは三つの点で、円高の加害者であ
ると考えている。一つは日本の消費者に対して、二つめは日本の零細輸出業者に対して、三つめはアメリカの産業界に対して、である。その後、この視点で当時の松下電器産業(現パナソニック社長)の谷井昭雄社長にインタビューして月刊誌に掲載した記事を抜粋転記したのだが、その部分だけでも相当長くなるので要約する。
 NHKがこの番組を制作した当時は、その前年に米プラザホテルに先進5か国の財務担当相が集まり、疲弊したアメリカ経済を立て直すために先進国が協力してドル安誘導することを決めた歴史的会合が行われた(通称「プラザ合意」)。その結果1年で円は倍近くに高くなったのだが(※わずか2~3円の為替相場の変動で株価が大きく動く現在では想像もできないことだが)、1年で円が倍になっても輸出大企業はびくともしなかった。そこで日本の大企業のお行儀の悪さにお灸をすえるため松下電器産業をやり玉に挙げたのである(私が月刊誌の編集長に依頼したのは、松下かトヨタのトップにインタビュ―をセットしてほしいということだったので、たまたま雑誌の締め切りの関係もあり谷井氏へのインタビューになっただけで、谷井氏にはお気の毒だったと思っている)。
 この急速な円高で、日本の輸出メーカーはまったく苦境に陥らなかった。円がドルに対して倍になれば、アメリカで1ドルで売っていた商品は単純計算でいえば2ドルに値上げしなければならなくなるはずだ。が、日本の大企業は多少値上げはしたが、せいぜい10%か20%に値上げ幅を抑えてしまった。アメリカからの、ダンピングだという非難に対しては「合理化努力の成果だ」と日本企業は反論した。
 本当に合理化努力によってコストダウンに成功したのなら、その恩恵に日本
の消費者があずかれないのはなぜか、と私は批判した。それが第1点である。つまり私が言いたかったのは、アメリカへのダンピング輸出によって生じた減益分を日本の消費者から回収しようという大企業のお行儀の悪さにお灸をすえたのである。
 第2点めは、国内の消費者に減益分を転嫁できない零細輸出業者に対する加害者に、結果的になったという点である。たとえば、新潟県の燕市は金属製洋食器の産地として世界的に有名だが、輸出価格を円高に比例して値上げするわけにもいかず、かといって大手自動車メーカーや電機メーカーのように国内の消費者を犠牲にすることもできず、金属産業存亡の危機に立たされたことがある(※今は技術革新によって危機を乗り越えたようだ)。この指摘はそれはそれで間違いではないが、もう一つ付け加えるべきだった。それは、いま大企業の中小下請け会社が消費税増税分を納入先に拒否されて困っているのと同様、当時の大企業の「合理化努力」の中身に下請けいじめも含まれていたことを指摘しておくべきだったことである。私のこの番組に対する批判の視点を多くの評者が高く評価してくれただけに、忸怩たる思いをいまでも引きずっている。
 第3点目は、アメリカ産業界に対する加害者としての側面である。アメリカが産業の空洞化に苦しんで「助けてよー」と世界の先進国に頭を下げたのは、誇り高きアメリカにとって空前絶後のことだった。自業自得と言ってしまえばそれまでだが、やはり日本が世界第2位の経済大国になったのは(当時。今は中国に抜かれて3位)、やはりアメリカのおかげだった。だから、アメリカ政府が誇りを捨てて頭を下げて頼んだのに対して、世界の先進国は「よっしゃ」とドル安誘導の金融政策をとったのである。日本政府も足並みをそろえて協力した。にもかかわらず日本の大企業は「合理化努力によってコストダウンに成功した」ことを口実に、ダンピング輸出で米産業界に打撃を与え続けた。その後、アメリカ中に、他の先進国に対してではなく日本に対してのみ「ジャパンバッシング」の嵐が吹き荒れることになったことが、番組からすっぽり抜け落ちているというのが私の指摘だった。

 少し話が横道にそれたが、第2次法制懇についてNHKは2月5日のニュースで「政府の有識者会議」と位置付ける報道をした。私はすぐにNHKのふれあいセンターに電話して責任者に「メディアによって位置付けが違う第2次法制懇について、読売新聞と産経新聞しか『政府の有識者会議』と位置付けていない状況であることを伝え、NHKが『政府の有識者会議』と位置付けてしまうのはどういうことか」とクレームを付けた。NHKの責任者は「大変重要なご指摘です。政治部に伝えます」と返答した。
 そして先に述べたように2月21日に第2次法制懇の北岡座長代理が4月に提出予定の報告書の内容について記者会見で述べたため、私は24日に再びNHKのふれあいセンターに電話をし、責任者に代わってもらって2月5日以降のNHKニュースで第2次法制懇についてどう位置付けているかNHKのデータベースで調べてもらった。結果は大変満足するもので「5日以降は『懇談会』としか言っていません」ということだった。
 実は当日、私は第2次法制懇の公式ホームページにある問い合わせ先(内閣府の代表番号)に電話をして国家安全保障局の担当者につないでもらって事情を聴いていた。すでに述べたように、担当者もどう位置付けていいのかわからない感じで、ただ事実として「安倍総理の指示により事務方を内閣府が担当していますが、懇談会の会合は首相官邸で行われています」ということしか言えなかった。また与党であり、政府の一翼を担っている(閣僚を送り込んでいれば、自動的にそういうことになる)公明党ですら「政府の有識者会議」という認識を持っていないことも私は確認していた。で、NHKの責任者にそのことを伝え、今後も冠表現(私的あるいは政府の)を付けずに、ただの「懇談会」という位置付けを続けるように要望した。責任者は分かりましたと私の主張を受けとめてくれた。
 ところが、その翌日、25日の『ニュース7』でとんでもないことが生じた。スーパー字幕で「政府の有識者懇談会」と流し、メイン・アナウンサーが数回(少なくとも4~5回)にわたり「政府の有識者懇談会」というアナウンスを連発したのである。
 すでに書いてきたように、政府の一翼である公明党の集団的自衛権問題の担当者ですら「政府の有識者会議(NHKは会議を懇談会と言い換えただけ)という認識はしていない」と私に証言している。また、このニュースの中で、公明党の山口代表は記者会見で「報告書が出てから考える」と発言した場面の映像、さらに菅官房長官も「与党(自公両党)と相談のうえ対応を検討していく」と、まだ閣議決定していないことを明らかにする発言の映像も放映している。菅官房長官すら困惑している第2次法制懇の位置づけについて、NHKがメイン・アナウンサーの数回にわたる「政府の…」というアナウンス、さらに同じ字幕を流したということは、もはやNHKは公共放送としての資格も権利も自ら放棄したと言わざるを得ない。
 私はNHKのふれあいセンターに再び電話して、責任者に代わってもらったが、偶然前日に私と話をした相手だった。私は前日、私が知り得た第2次法制懇についての情報はその方にすべて伝えており、責任者も「どうしてこうなったのか…」と、頭を抱えてしまった。私は、この件だけは見逃すわけにいかない、BPOにぶちまけると言ってある。このブログ原稿は今日、BPOにFAXする。BPOも完全に政治的中立性を放棄したNHKを無視はしないだろう。そう期待したい。

 実はいつもそうだが、ブログ記事の原稿は投稿前日に書き終え、翌朝に推敲して投稿することにしている。このブログ記事も27日の夕方には書き終えていた。夕食を済ませて『ニュース7』を見ていたら、またメイン・アナウンサーが第2次法制懇について「政府の有識者懇談会」とアナウンスした。
 菅官房長官さえ、「公明党は誤解している(これは私が公明党の事務局に電話したことで、第2次法制懇の位置づけに関して公明党の漆原国対委員長が安倍総理への不信感を表明したことに対する反論)。内閣法制局の意見も踏まえ与党(※当然公明党も含まれる)と相談のうえ対応を検討していく」と釈明し、公明党を無視して閣議決定などするつもりがないことを明確にしていた(26日)。
 この菅長官発言は公式記者会見で行われており、NHKの記者も会見に出席している。「閣議決定に基づいて」第2次法制懇が政府のオフィシャルなものとして設置された事実はないと弁明したのである。この菅官房長官の記者会見での発言により、NHKの25日の『ニュース7』での第2次法制懇についての報道が完全な誤報であったことが明らかになった。
 私は怒り心頭に達したため、NHKふれあいセンターの責任者(24日、25日に対応された方とは別人)に怒りをぶつけた。これまでのNHK責任者とのやり取りの経緯や当日の菅官房長官の発言内容も伝えたうえで、「25日の『ニュース7』での報道の間違いが明らかになっているのに今日の『ニュース7』で再び同じ誤報を流した。そうなると、これはもはや単純なケアレス・ミスではすまされない。明らかに意図的な視聴者に対する政治的誘導ニュースと断定せざるを得ない。いつからNHKは安倍総理の私的放送局になったのか」と詰問した。責任者は「お客様のおっしゃることは難しくて、私にはわかりません」と返答した。せめてふれあいセンターの責任者には高卒程度の理解力のある人を配置してほしい。
 

国益と民主主義は両立しえないのか――TPP交渉は結局経済大国のエゴで合意に至らない可能性も…。

2014-02-26 12:24:30 | Weblog
 民主主義が崩壊の危機に瀕している。民主主義の危機を招いたのはアメリカ政府と日本政府である。二つの経済大国の政府がともに「国益を守る」という口実で民主主義のもろさをむき出しにしてしまった。
 私は、これまでも民主主義はまだまだ未熟で欠陥だらけだと書いてきた。欠陥だらけで未成熟ではあっても、人類は一歩一歩民主主義という政治システムを育ててきた。人類が、多くの血を流して構築してきた民主主義を育ててきた歩みが、いま頓挫しようとしている。にもかかわらず、メディアは沈黙している。気が付いていないのか、気が付いていても、そのことを明らかにするのはまずいというトップの強い意志が働いているためか。
 言わずと知れたTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)交渉のことである。昨日(25日)、シンガポールで開かれていたTPP交渉の閣僚会議で、経済大国間(日米)の交渉が難航し、新興国(日米を除く10か国)との対立が解消できず、目標としてきた大筋合意が見送られたのである。この交渉を始めたのはシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4か国で、2006年5月に交渉がスタートした。その交渉の重要な目的は「小国同士の戦略的提携によってマーケットにおけるプレゼンスを上げること」であった。その目的を達成するため加盟国間のすべての関税の90%を撤廃し、2015年までにすべての関税をゼロにすることが加盟国間で合意されていた。
 が、この4か国だけでは実際問題として環太平洋の主要国を自由貿易のレールに乗せることができないため、2010年3月から拡大交渉会議が始まり、アメリカ、オーストラリア、ベトナム、ペルーが交渉に参加し、同年10月にはマレーシアも加わった。さらに12年11月にはカナダとメキシコも加わった。
 その間、日本はどうしていたのか。まったく動かなかった。動けなかったのかもしれない。自民党政府の票田が農業団体や医師会だったからかもしれない。その日本が動き出したのは、政権が民主党に変わり、管直人氏が総理の座についてからである。管総理は10年10月にTPP交渉への参加を検討すると表明、経団連は支持を表明した。が、民主党は自民党を離党した保守グループと連合を支持母体とする旧社会党系グループを寄せ集めた野合政党だった(なお細川内閣は野合政権)。当然、管総理の意向で簡単に党内がまとまるわけがない。また農業団体や医師会も参加反対を表明し、管政権は動きが取れなくなった。
 が、管総理のあとを継いだ野田佳彦総理が11年11月に「交渉参加に向けて関係国と協議に入る」と表明し、一気に日本の方針が決まったかに見えた。が、事は野田総理の思惑どうりにはいかなかった。肝心の既加盟国側から、日本のスタンスが明確でないと参加を拒否されてしまった。そして政権が民主党から自公連立に移って以降、日本側の足元がようやく固まった。13年3月には安
倍晋三総理がTPP交渉への参加を表明し、加盟国との個別交渉に入った。そしてまずアメリカが翌4月に日本の参加を承認し、他の加盟国の承認も取り付けて7月から交渉のテーブルにようやく着くことになった。が、日本にとって交渉のハードルは高かった。
 自民党は前の参院選で農業団体の票を固めるため「聖域なき関税撤廃は前提にしない」と公約していた。この表現はきわめてあいまいで、自民党は「前提にはしないが、事と次第によっては」という含みを持たせたつもりだったのだろうが、いったん言葉になると、その言葉に含めた意味とは別の意味にとられて独り歩きを始めることがしばしばある。農業団体は「農産物にかけている関税は守ってくれる」と勝手に解釈してしまった。困ったのは安倍総理だ。あわてて「重要5品目は国益として守る」と表現を変えた。重要5品目とは、米・麦・牛豚肉・乳製品・砂糖(※後述するがもう一つの重要品目は無視された)。
 が、アメリカは日本に対して農産物の関税撤廃を要求して一歩も引かない。日本側はアメリカに対して「だったら、自動車の関税も撤廃しろ」といちおう反発してはいるが、あまり意味がない。すでに小型車はアメリカの自動車メーカーはとっくにお手上げしており、何が何でもトラックだけはという米自動車業界の圧力にオバマ大統領もソッポを向くわけにはいかないうえ、日本でも自動車業界からトラックも自由化してくれという要求は出ていないからだ。
 アメリカの映画を見るとよくわかるが、とにかく何でもでかい。ハイウェイを走る馬鹿でかいトラック。あんなもの日本で作ってもどうやってアメリカまで運ぶのか。それに乗用車とトラックの混血児のようなピックアップ。アメリカのクルマ文化を象徴しているようなクルマだが、古くは農作業用として使われていたため、州によっては自動車税が無税か低率に抑えられ、所得が少ない若者たちの人気を集めるようになっていき、爆発的にヒットするようになった。とくに中西部や南部では一種のステータス・シンボルになるほどで、日本の自動車メーカーもトヨタ、日産、ホンダが現地生産している。
 現地生産である以上、当然アメリカでも国産車扱いになるから高率関税の対象にはならないし、仮にアメリカがピックアップの関税率を下げても、日本の自動車メーカーが国内での需要が見込めないのにアメリカへの輸出目的でピックアップを国内生産したりはしない。だから、日本としてもアメリカに「農産物の自由化と引き換えにトラックも自由化を」と迫って、万一実現したら虻蜂取らずの結果に陥ることは目に見えており、そのため攻め手にあぐんでいるというのが実情である。
 もともと先の大戦の原因の一つとして保護貿易国に対して自由貿易を推進したいという国との経済戦争という側面もあった。そのため1947年10月、ジュネーブでGATT(ガット。関税及び貿易に関する一般協定)が発足し、86年9月のウルグアイ・ラウンドまで8回にわたる多国間交渉が行われ、その間に平均関税率は10分の1以下の4%にまで低下した。ウルグアイ・ラウンドは発展的に解消し、現在はWTO(世界貿易機関)となっている。
 余談だが、実は私はいつもデータとして利用している数字について疑問を持っている。主要なメディアは毎月、内閣支持率や政党支持率、いろいろな政策に対する支持率が発表されるたびに思うのだが、アンケート調査の対象はコンピュータが無差別に選んでいると言われるだけで、宝くじ方式の無差別なのか(その場合は単純平均)、それとも加重平均で選んでいるのかがわからないから、正確さについての疑問を持たざるを得ない。加重平均でコンピュータが選んでいたら、かなり正確になるが、その加重平均も都道府県の人口比例での加重平均なのか、あるいは年代層別に加重平均しているのか、その調査方法によって結果に対する分析は大きく異なるはずなのだが、その調査方法が「コンピュータが無差別に選んだ」としか発表していないので、本当に民意を反映しているのか疑わしい感じが否めない。
 例えば今年4月から実施される消費税増税についても、世界でも異例な増税支持が反対を上回るという世論調査の結果が各メディアから発表されたが、消費税増税によって年金など社会補償を受ける高齢者はおそらく大多数が賛成したであろうが、低所得で自分たちが高齢になった時のことを不安に思っている若者層がどれだけ増税を支持したのか疑問を抱かざるを得ない。同様に8回にわたるGATTのラウンドで平均関税率が10分の1以下の4%まで下がったと言われても、単純平均(すべての関税率を平均化したもの)なのか、それともそれぞれの輸入品の輸入総額の中に占める割合を考慮に入れた加重平均をしているのか、その辺が、ネット検索で数字を丸呑みして書いていながら、正直疑問に思わざるを得ないのだ。
 それにしても、TPP交渉に参加している加盟国のGDP(国内総生産)総計のうち91%を日米の2か国が占めており、当初4か国でスタートし最終的に関税ゼロを目指すというGATTの理想を継承したTPP交渉は事実上日米のFTA(自由貿易協定)になってしまったという見方が強まっている。つまり、もともとは経済小国の4か国が国民生活を豊かにすることを目的として関税のない自由貿易圏を作ろうというのがTPPの目的だったはずなのだが。
 それが「国益」に名を借りた日米のエゴ丸出しのせめぎ合いで、日米経済大国の草刈り場になりつつあるのがTPP交渉の現状である。実際、ウィキリークス(情報提供者を絶対に秘匿する体制を整えて政府や企業、宗教などに関する機密情報を集めて公開しているウェブサイトの一つ)が「TPPの草案」(TPP交渉で配布された極秘資料)のうち知的財産分野の条文草案をニュースして公表した。その内容についてオーストラリアの日刊紙、シドニー・モーニング・
ヘラルド(1831年創刊)はこう指摘して警鐘を鳴らしている。
「これは消費者の権利および利益を大きく度外視していると同時に、アメリカ政府が企業の利益を優先した内容であり、製薬業界、大手IT産業、ハリウッド、音楽業界に有利な内容で、まるで大企業へのクリスマスプレゼントだ」と。
 私はそれに大規模農家や医療関係業界(製薬業界だけではない)も加えたい。
 私は1940年(昭和15年)の生まれだ。日本が終わったのは5歳の時。外地(中国の天津)に疎開していた私は、戦争終結直前に現地で召集された父を残し、兄とともに母が必至の思いで日本に連れ帰ってくれた。当時の思い出はほとんど記憶にとどめていないが、帰国の旅に出るとき、兄と私はオブラートでくるんだ小さな包みを母から渡されたことだけが、なぜか脳裏の片隅に残っている。その包みの中は、数年たったのち、母が教えてくれた。青酸カリだった。致死量をはるかに超える量だったという。「お母さんがのみなさい、と言ったらのむんだよ」と言って渡したということだった。
 もちろん私が小学校に入ったのは戦後である。私は戦中派の最後の世代であり、戦後民主主義の最初の申し子でもあった。小学生の時から「民主主義」というものを教えられて育った。
「何でも多数決で決める」――それが小学生の時教わった民主主義の概念だった。「正しいか、間違っているか、は数で決めていいのか」と5年生だったか6年生だったかの時、先生に食って掛かったことがある。当時、私のクラスではなんでもクラスルームで決めていた。教室の壁には「いい者グラフ」「悪い者グラフ」が貼ってあり、週に1回のクラスルームでクラスのみんなが「いいことをした人」「悪いことをした人」を名指しでいう。自ら「私は(僕は)こんないいことをしました」と名乗りを上げる生徒もいる。その都度多数決をとり、数が多い方のグラフのマス目が一つずつ塗りつぶされるようになっていた。棒グラフのようなものをイメージして貰えばいい。だいたいはある生徒が手を挙げるのを見てから一斉に手が挙がっていた。その生徒は頭もよく、人にも親切で、クラスの信望が厚かった。だけどお山の大将といったタイプではなかった。母親の教育がよかったのだろう。「俺が、俺が」とでしゃばるタイプでもなかった。だから私も多くの場合、彼が手を挙げた方に手を挙げていた。が、意見が衝突したことがあった。相当激しく論争した挙句、先生が多数決をとった。私が僅差で負けた。「何でも多数決で多数を占めた方が正しいのか」と先生に食って掛かったことはその時だった。先生は答えることができなかった。翌週、「いい者グラフ」「悪い者グラフ」は教室から撤去された。
 私が民主主義とは恐ろしい制度だと思うようになったきっかけだったと思う。もちろん小学生の時にそのような成熟した疑問を抱いたわけではない。ジャーナリストになった時、改めて民主主義というものと向き合わざるをえなくなり、小学生の時のちょっとしたエピソードを思い出したというだけの話だ。
 今回のブログの冒頭に書いたように、いま「民主主義」が崩壊の危機に瀕している。日本に戦後民主主義を持ち込み(戦前・戦中も日本は形式的には民主主義の制度を採用していたし、北朝鮮ですら正式な国名は朝鮮民主主義共和国である)、日本を「いい子」に育て日本型民主主義のモデルとなったアメリカが、それもリベラル主義の政党とされている民主党のオバマ大統領が、選挙のためなら表の顔をひっくり返さざるを得ないのが民主主義の実態であることを、TPP交渉はもろにさらけ出してしまった。今年アメリカでは中間選挙があり。すでにオバマ氏は2期目に入っているため次の大統領選挙には出馬できない。それでも民主党政権のためには、これまでオバマ氏がしてきたことのすべてをひっくり返すようなTPP交渉の方針を打ち出すとは…。
 オバマ大統領の最大の功績は、不完全とはいえ曲がりなりにも国民皆保険制度の導入を実現したことだった。民主党の大統領候補の座をオバマ氏と争ったヒラリー・クリントンが、クリントン政権時代に政治生命をかけて取り組んだにもかかわらず実現できなかった国民皆保険制度の導入に成功したことは、オバマ大統領の最大の功績として高く評価されていた。それほど気高い信念で社会的弱者のために「何でも自己責任」を口実に国民皆保険制度の導入に反対してきた共和党をねじ伏せた力量は、歴代大統領の中でも高く評価されていいと私は思っていた。が、中間選挙という壁を超えるためだったら、自らの信念であり政治信条としてきたリベラル主義を捨ててまで、アメリカの「国益なるもの」を環太平洋の経済小国に押し付けても許されるのか。
 日本もそうだ。これまで日本はアジアの新興国(旧「発展途上国」、旧旧「後進国」)を育てることで日本自身も発展してきたという側面もある。結果論、と言ってしまえば結果論だが、日本がアジアの新興国に産業進出したことで、新興国が大きく成長し、日本の先端産業界のライバルにまで育ってきた。そのことによって弱体化した産業もあるが、ロシアや中国はいぜんとして日本の技術力に頼らざるを得ない状況にある。
 いまの日本を取り巻く国際状況を見れば、なぜ韓国の朴大統領が国民の反日感情をあおり続け、一方ロシアのプーチン大統領が今秋来日してまで日本との経済関係を密にしようとしているのか(プーチン大統領は、おそらく自分が政権の座にある間に日本との領土問題を解決したいと考えている)、また尖閣諸島をめぐって領土問題にしようと画策している中国の習近平国家主席が、中国人の反日感情を必死になって抑え込もうとしているのか。そういった、日本にとって重要な隣国の対日姿勢の裏(つまり本音)が透けて見えてくるはずなのだ。
 そういう要素も含めて考えるとき、日本は再びあの悪夢の時代に戻ろうとしているのかという危惧すら覚える。
 いったい「国益」とはなんなのか。誰が決めるのか。
 零細農家の生活を支えるために税金をじゃぶじゃぶ使え、と日本人の大多数が主張しているのか。私は昨年1月11日、発足直後の安倍政権に対する提言をブログで投稿した。記事のタイトルは『安倍政権は公約に反しても「聖域なきTPP交渉」に参加すべきだ』である。その中でこう書いた。

(高石早苗政調会長がテレビでTPP交渉に参加する意向を表明したことに関して)民主は野田前総理が早くからTPP交渉参加への意欲を公言していた。総選挙のマニフェストには、党内の「TPP交渉参加をうたうと、地方では戦えない」という主張に妥協して盛り込まなかった。
 一方、自民は「聖域なきTPP交渉には参加しない」と公約していた。「聖域」とは農業分野であることは自明である。結果、地方で自民はほぼことごとく勝利を収めた。
「ふざけるな!!」
 民主・野田前総理はいま歯ぎしりしているだろう。
「そんなの、ありか!」
 そう思っているかもしれない。
 総選挙における公約(マニフェスト)とはそんなに軽いものなのか。選挙に勝つためなら、どんなウソをついてもいいのか。政党や立候補者が選挙に勝つことだけを最優先してポピュリズムに走るから、政治に対する国民の不信感は募るのだ。(中略)
(自公政権が)自由貿易を目指すなら当然「聖域なき自由貿易」を目指すべきだと私は考えている。たとえば、自動車と言えば、アメリカにとってはかつては産業のシンボルだった。だから戦後一貫して保護政策をとってきた日本に対し、最初に自由化を迫ったのは自動車だった。(中略)
 かなり自由化が進んだ今日でも高い関税で保護されている国産品は少なくない。たとえば革靴(すべてではなくても一部に皮が使われていれば適用される)は30%もしくは一足当たり4300円というべらぼうな関税障壁がある。日本の歴史で最大の汚点と言っていい差別を受けてきた人たちが革靴の職人に多いという理由からだ。差別を受けてきた人たちの苦しみは今も消えていない。差別視する日本人が日本から一人もいなくなるまで、彼らの苦しみに正面から向かい、救済するのは政治の大きな課題ではある。だが、高い関税で外国製品を排
除することが彼らへの償いになるのか、私は疑問を禁じ得ない。第一、そんな
障壁理由を海外に説明できるか。(※政府が関税障壁を守ろうとしている重要5
品目には「革靴」は入っていない。この時期は私はブログの元原稿を読売新聞
と朝日新聞にはFAXしていたから、この重要な情報を彼らは無視したのだろう。何らかの政治的配慮によって…)(中略:この後転記することはTPP交渉とは無関係だが、非常に重要なことなのであえて転記する)
 明治の時代になって日本の通貨は一本化され紙幣と硬貨が原則となり、単位は円と銭の2種類になった。現在通貨としての銭は発行されていないが、単位の呼称としての銭は今も使用されている。当初政府は通貨の兌換性(一定の比率で通過を金と交換すること)を保証していたが、1931年にイギリスが金本位制を停止したのに伴って日本も金本位制から離脱し、通貨の金への兌換を停止した。その結果、日本の通貨に対する国際的信用が下落し、急激な円安に陥った。当時の為替は固定相場制ではなかったのである。
 だが、この急激な円安はまだ離陸したばかりの日本の近代産業にとっては神風となった。輸出が急増し、輸出先の国にとっては国産品が日本製品との競争できわめて不利になる要因となった。世界各国から日本に対し「ダンピング輸出だ」と言われのない非難が浴びせられ(※この記事を書いた時、ネットで検索したことをそのまま信用してこう書いたが、当時の日本企業が「ダンピング輸出」をしていたのか否かの検証はしていなかった。申し訳ない)、日本は輸出先を欧米先進国からアジアへと転換を余儀なくされた。そのアジアはすでにヨーロッパ諸国によって分割支配されていた。日本がヨーロッパ諸国と経済的利害を巡って激突したのは当然の帰結であった。ヨーロッパ諸国はアジアの支配権を防衛するため、アメリカを誘い入れて日本を孤立化する戦略に出た。それが具体化したのがABCD包囲網で、日本の産業力を殺ぐべく石油の日本への輸出をストップする手段に出た。これが日本を一気にアジア支配のための軍事行動に駆り立てた経済的要因である。(※当時世界主要国は貿易に関しては保護貿易政策をとっており、自国の産業競争力を強化するために自国通貨の切り上げ・切り下げを自由気ままに行っていた。それが貿易摩擦を劇化し、世界大戦を惹起した経済的要因の一つになったという反省から、第二次世界大戦の末期の1944年に米ニューハンプシャー州ブレトンウッズで国際的に安定した為替レートを決めて自由貿易を促進することになり、戦後日本の円は1ドル=360円という固定相場制の下で経済力の奇跡的な復活を成し遂げたという経緯があったため、TPP交渉においては日米の経済大国が大国エゴを振りかざしていてはまとまる話もまとまらなくなることの補足説明として加えた)(中略)
 86年から95年にかけてIMF(※国際通貨基金。ブレトンウッズ体制下で自
由貿易を推進するために設けられた)体制下での最長のロングラン通商交渉となったウルグアイ・ラウンドでは、先進国の農業保護政策の見直しが最大のテーマとなった。アメリカは「アメリカも農業保護をやめるから他の先進国も農
業保護をやめないか」と主張したが、農業保護をやめると政権がつぶれること
だけしか考えない他の先進国(もちろんその中に日本も含まれる)の猛反対により、10年かけた長期交渉でも農業分野の自由化は実現しなかった。以来世界規模での自由化の交渉は途絶し、地域単位の自由化を進めながら、それが実現した将来、再び世界的規模での貿易自由化の仕組みの構築について話し合おうという流れになった。そういう流れの中で地域貿易の自由化圏構築を目的にした試みの一つがTPPなのである。
「聖域なきTPP」交渉に参加して日本が自ら血を流しても発展途上国(※1年前にはまだこの呼称が一般的には使われていた。現在は「新興国」という呼称が一般的である)のために農業保護をやめると宣言すれば、他国にとって「脅威となる軍事力」を持たなくても日本の国際的発言力は飛躍的に高まる。(それ以外の方法で、農業保護を続けながら)かつ世界の孤児にならずにすむ方法が会ったら、その方法を具体的に示していただきたい。いま日本がTPPに参加することを国民が支持するか否かに、日本人の民度が問われている。
 TPP交渉はもう最終段階に差し掛かっている。待ったなしの状況の中で、安倍政権は、このブログの冒頭に書いたことと相反する主張に見えるかもしれないが、 「聖域なきTPP交渉」への参加を決意すべでだ。たとえ、公約が軽い、と国民の政治不信を増大することになってもだ。

 この転記したブログ記事は、安倍政権が正式にTPP交渉に参加することを表明する2か月前に投稿したものである。すでに日本がTPP交渉のテーブルで相当の発言力を行使している現在の視点で読むと多少の違和感をお持ちになると思うが、TPP発足時点の「自由貿易圏の構築」という理想は日米のエゴの衝突でどこかへ吹き飛んでしまった感がある。
 TPP交渉に参加している国はすべて民主主義を標榜している。だったら争点が出尽くしている今、さっさと民主主義の大原則に従って、多数決で関税撤廃への段取りを決めたらどうか。TPP交渉参加国の中で経済大国はアメリカと日本だけだ。新興国が圧倒的多数を占めている。
 本当の意味での「国益」とは何かの国民的議論もせずに、勝手に「国益」を決め、実のところは政権・政党のための「党益」をちゃっかり「国益」にすり替えているのがアメリカと日本ではないのか。
 TPP問題については、また改めて書く。


読売新聞読者センターとの最終決戦レポート――日本最大の新聞社の卑劣さを暴く(最終回)

2014-02-25 05:29:50 | Weblog
 判決理由後半を今回で終え、最後に判決を言い渡す。
「当人に確認しましたが、そんなことは言っていないことがわかりました」と、小林紀興氏がブログに虚偽記載したと読売新聞読者センターから攻撃されたことについては、氏も「言った、言わない」の論争は録音でもしていれば疑いの余地なく証明できるのだが、もともと他人に対して悪意をもって接するようなことはしない人なので、電話機には録音機能がついているが使用したことはないという。
 そのため「言った、言わない」といった平行線の論争に陥ることを避けるため、読売新聞読者センターのいわれのない攻撃にも取り合わなかったようだ。が、氏の怒りを爆発させる事態が生じた。小林紀興氏はブログでマスコミを批判することが大半ではあるが、ときに評価することもある。たとえば読売新聞読者センターを震撼させたブログを投稿した1週間後の8月22日には『緊急提言!! 日本はフェアな歴史認識を世界に向かって発信せよ』と題するブログで、読売新聞読者センターとの関係が悪化している最中にもかかわらず、珍しく読売新聞の社説を高く評価した。そのさわりの部分を転記する。

 その社説のタイトルはこうだった。
『「史実」の国際理解を広げたい……日本の発信・説得力が問われる』
 しばしば「何様だと思っているのか」と言いたくなるような命令口調の、上から見下すような傲慢さがこのタイトルからはまったく感じられない。むしろ読者の視点に立って読者と歴史認識を共有したいという筆者の切ない思いが私の胸に響いたほどである。

 この判決理由文で詳細に小林紀興氏の読売新聞社説に対する評価を繰り返すことは差し控えるが、このブログのさわりの部分からも、氏が読売新聞読者センターに対して悪意を持っていたとは当裁判所も考えにくい。にもかかわらず読売新聞読者センターは氏に対していわれのない憎しみを組織ぐるみで抱き続けていたようだ。
 小林紀興氏がそのブログを投稿した日の夜、別件で読売新聞読者センターに電話したという。その時の読者センターのスタッフとのやり取りについて、氏は26日に投稿したブログでこう書いている。
「やっと電話に出てくれた方は(※その夜はなかなか電話がつながらなかったようだ)私の記憶にはない声の肩で、『小林です』と名乗ると、『しょっちゅう電話してくる小林さんですか』と聞いてきたので『そうです』と答えると『ねつ造した方ですね』と非難のボルテージを上げた言い方をした。私は当然『何を根拠にそう言えるのですか』と尋ねたところ『録音があるから』と断言した。『本当ですか』と聞くと『当たり前だ』とすごんだ。『録音があるなら聞かせてください』と言ったところ、『そんなことできるわけがない』と拒否し、さらに『裁判が……(後半がぼそぼそした声で聞き取れなかった)』と続けた。私は一瞬恐怖におののいた。

 その後、小林紀興氏はこの問題について書いてきたブログ記事のコピーを添えて読売新聞社のコンプライアンス委員会に裁定を仰いだという。どの会社でもそうだが、コンプライアンス委員会は社内に設けられてはいるが、社外の弁護士なども加わっていて、いわば第三者委員会のような存在である。当然コンプライアンス委員会は氏の申し出を無視せず、慎重に調査したようだ。そしてコンプライアンス委員会は氏に軍配を挙げたとみられる。コンプライアンス委員会から氏への直接の回答はなかったらしいが、読売新聞読者センターのスタッフがほぼ総入れ替えになったことと、その後の読売新聞読者センタースタッフの小林紀興氏への対応がガラッと変わったからだ。
 どう変わったのか。小林紀興氏によれば、読売新聞読者センターに電話するたびに、氏に好意を持ってくれているらしい(※これは氏の感じ方で、当人が氏に好意を持っているかどうかは当裁判所としては判断できかねる)人を除いて、しばしば「当人に、ブログに書くことについて了解をとったのか」と詰問されたからだ。そういう詰問をしてくること自体、小林紀興氏がブログで書いた読売新聞読者センターとのやり取りは事実であったことを読売新聞社が(読売新聞読者センターではない)認めたことを意味している。それも一人や二人ではなく、何人もの読者センター・スタッフから同じ詰問をされたというから、読者センターの責任者が氏からの電話に対してはそう対応するように指示したと考えざるを得ない。ただ氏も、読売新聞読者センターとの間でトラブルが生じた直後の25日に投稿したブログでこう反省はしている。
「確かに私が、オスプレイ事故件数を米国防総省が公表した件について読者センターに電話したとき、調子に乗りすぎて『つまり記者としては失格ですね』などという思い上がった質問をぶつけてしまったことは大いに反省しているが、読者センターの方も(たとえ同感していただけたとしても)苦笑いしながら『私にはその質問にはお答えできません』と大人の対応をしていただいていたら、私には事実上その方も私と同意見をお持ちのようだと推測できたし、それで十分だった。だから読者センターで大問題になったわずか1行半ほどの文章を書くことはなかったと思う。人のせいにするわけではないが、これまで営々と築き上げてきた読者センターと私との信頼関係がたった1行半のブログ記事によって崩壊してしまったことに思いを致すと、無念でならない」と。
 ただ、小林紀興氏はこの裁判が終わったらブログで書かなければならないことがあるので、早く判決を出してほしいと要望されているので、今日判決を下す予定だが、氏が朝日新聞お客様オフィスに安保法制懇の位置づけについての説明を求めたとき、朝日新聞お客様オフィスのスタッフは「そういうご意見があったことは伝えます。ここは読者の質問に答えるところではありませんから」と肩透かしを食ったという。読売新聞読者センターの方も、そういう対応をしていれば、小林紀興氏がそのやり取りをブログに書いたとしても、何の問題もなかったと思われる。現に氏から朝日新聞お客様オフィスの対応の仕方を聞いて、この判決理由で小林紀興氏の証言をそのまま書いたが、朝日新聞が小林紀興氏や当裁判所に対して攻撃的態度をとってくるとは到底考えられないからだ。
 しかし、総入れ替えになった読売新聞読者センターの小林紀興氏に対する敵
意は一部のスタッフを除いてかえって増幅したようだ。すでに述べたように、「当人の了解をとったのか」という詰問は氏も聞き流してきたが、とんでもない追及をしてきたスタッフがいた。それはさすがに氏も黙認するわけにはいかず、再び読売新聞社のコンプライアンス委員会に問題を上げることにした。氏は新聞1面の題字の下に記載されている読売新聞のメールアドレスにコンプライアンス委員会宛に抗議のメールを送ろうとした。が、パソコンのディスプレイには「そのアドレスは存在しません」という表示が出るだけで、メールを送ることは不可能だった。で、やむを得ず読売新聞読者センターにFAXして事情を伝え、絶対に握りつぶさずコンプライアンス委員会に渡してくれるように頼むしかなかった。が、これは考えてみれば泥棒に金を預けるに等しい行為だったようだ。読売新聞読者センターに見事に握りつぶされてしまったようだ。読売新聞読者センターの小林紀興氏への憎悪はますます激しくなり、いま氏は読売新聞読者センターとの関係を完全に遮断している。
 氏がアウトルックの画面に張り付けて読売新聞に送信する予定だった元原稿(ワードで書いた文書)を一字一句修正せずそのまま転載する。なお日付は今年1月7日である。

 昨日、私は『安倍総理の集団的自衛権行使への憲法解釈の変更はどこに…。積極的平和主義への転換か?』と題するブログを投稿しました。
 そして午後8時半ごろだったと思いますが、読者センターに電話をして要点を伝えようとしましたが、電話に出た方は私の声ですぐ分かったようで「小林さんですね。自己批判をしていませんね」といきなり言ってきました。私は「何のことですか」と聞き直すと、相手は「ブログに書くことを了解とってないでしょう」と言われました。またその話か、と思ったのですが、すでに読者センターとの関係は修復できたと思っていただけにショックでした。
 ご承知のように、オスプレイ問題について読者センターに私の考えを述べたとき、対応された方が私の考えに同意されたので、あまり深く考えずにそのやり取りをブログに書いてしまいました。
 当時私はブログの原稿を読売新聞と朝日新聞にはほぼ大半をFAXしていました。読者センターの責任者だと思いますが、私と電話対応された方を突き止め、私が読者センターの方とのやり取りをでっち上げた、と判断されたようです。その結果、私が読者センターに電話すると「本人に確認したが、そんなことは言っていないことがわかりました。ウソを書かないでください」と言われ続けました。その都度、私は「ウソなんか書いていない」と申し上げてきましたが、あるとき「ねつ造した小林さんですね」と言われ、「ねつ造なんかしていない。ねつ造したという証拠があるのか」と聞き返したところ「録音がある」と言わ
れ、「では聞かせてくれ」と申しましたが「裁判が…」と言いかけて突然電話を切られました。
 私はこの問題についてのすべてのブログ原稿をコンプライアンス委員会に送りました。とくに8月26日に投稿したブログ『読売新聞読者センターはとうとう「やくざ集団」になってしまったのか?』ではこう書いています。
「私は誠意を尽くし、3日間かけて読者センターへの反論と批判の記事を書くと同時に、私自身も反省すべき点があったことを認めた」
 昨日、読者センターの方から「小林さんですね。自己批判していないでしょう」と言われ、私は即座に反論しました。「そちらのほうこそ私にまだ謝っていないじゃないか」と。
 私がコンプライアンス委員会に読売新聞読者センターのコンプライアンス違反についての告発をしたのち、読者センターのスタッフはほとんどが総入れ替えになりました。
 その後、私が電話をすると聞き覚えのある方たちが戻ってこられていました。ということはコンプライアンス委員会は私の言い分のほうをお認めいただいたと私は理解しています。しかし、その後電話をするたびに「取材ですか。取材なら広報に回しますよ」とか「ブログに書くことの承認をとったのですか」と言って、私の話に耳を傾けずに電話を切られることが続き、私もしばらく冷却期間を置くしかないと考え電話を控えてきました。
 その後、昨年12月頃から再び電話をかけ始め、読者センターの方もかつてのように私の意見に耳を傾けてくれるようになり、先日電話して「憲法改正問題」について愚論を申し上げたときは「ありがとうございました。編集局に伝えさせていただきます」とまで異例の対応をしてくださった方もおられるようになりました。この言葉の重みは新聞社の記者経験がない私にもわかります。(※なお小林紀興氏の「現行憲法無効」論は、今年1月22~24日にかけ3回にわたり
ブログで発表している)
 私がブログで「私にも反省すべき点はあることを認めた」と書いたことは、昨日の電話に出られた方にお伝えする必要はないと考えています。私は読者に対しての責任をとる必要があると考えたためにブログに書くことの重大性を改めて認識した旨をお伝えしました。
 その後は、私が聞いたことは相手を特定できるようなことは書き方はしていません。例外はNHKの視聴者事業局視聴者部の山本健一副部長とのフィギュアスケート競技の結果のニュース報道スタンスに関するFAXでのやり取りで、山本氏にはブログで公開することを伝えたうえで昨年11月10日に投稿のブログ『フィギュアスケート競技のNHKニュース7の報道スタンスは偏向しているぞ!』で書きました。そして読売新聞読者センターには今後、読売新聞に見解を
求めるときはFAXで申し入れることも伝えました。
 昨日の方に対してどういう処分をされるのか、教えてください。私が納得すれば、この件は墓場まで持って行きます。ご返事がなかった場合、また私が納得できる処分でなかった場合、すべての経緯とこの申し入れもブログで公開します。猶予期間は土休日を含め1週間です。

 その後、小林紀興氏が読者センターに結果を聞きただしたところ、電話に出た方から「有象無象の読者のブログなんか…」と罵倒され、電話も一方的に切られたという。以降、氏は読売新聞読者センターとの連絡は一切遮断しているという。
 当メディア最高裁判所としては、以上で判決に至る経緯を述べてきた。そしてこのケースは単に読売新聞読者センターと小林紀興氏との感情的対立にとどまらず、ジャーナリストとしての基本的姿勢にかかわる問題であると受け止めることにした。
 新聞などマスコミも含め、メディアとはどうあるべきかという問題を、この事件は問うている。いまツイッターなどSNSによるいわれのない匿名の個人攻撃や誹謗中傷が氾濫し、社会問題化している。ブログはSNSのはしりともいうべきもので、いまだにツイッターやフェイスブックを抑えて最大のSHSメディアの地位を保っている。小林紀興氏が経済とくにハイテク分野のジャーナリストとして一世を風靡したのは20年ほど前の話で、当時の担当編集者はすべて現役を退いており、小林紀興氏の知り合いで氏のブログを読んでいる可能性があるのは一人しかいないはずだと氏は断言している。
 小林紀興氏はジャーナリズムの世界に飛び込んだのはまったく偶然だったという(詳細はブログ第1弾の『私がなぜブログを始めたのか』に書かれている)。氏は偶然この世界に飛び込んで以来、ジャーナリストとはどうあるべきかを自
問自答を続け、今もその姿勢に変化はないという。
 氏がこの世界に飛び込んだきっかけは偶然徳田虎雄氏と知り合ったことだったという。「事実は小説より奇なり」というが、氏の経験を小説にしたら「そんなことはありえない」と読者からそっぽを向かれたに違いないという。またなんの文筆活動もしてこなかったにもかかわらず、光文社の申し子ともいえる商業主義出版の大手、祥伝社の伊賀弘三郎編集長(当時)が徳田氏の妨害工作にもかかわらず、いきなり小林紀興氏の本名で出版してくれたのは、ひとえに徳洲会のモットーの一つである「ミカン1個でも貰った医者、看護婦(※当時は「看護婦」だった)は直ちにクビにする」という意味を解明したことを伊賀編集長が高く評価してくれたためだったという。
 ビジネス社会における贈答関係は両者の力関係を反映する、という不文律を
発見したのは小林紀興氏が初めてであり、医療も医師にとってはビジネスである以上、治療費を貰う患者のほうから金品を貰うことが何の疑問も持たれずに慣習化していることに鋭いメスを小林紀興氏は入れたのである。そして、そうした慣習が日本に根付いてしまったのは、徳川家康が儒教を事実上の国教にすることで「実力主義・能力主義」の世界に終止符を打つことに成功したことに端を発しているという結論に達したという。
 実際戦国時代の日本は実力主義・能力主義が当然であり、だから名のある武将は自分の能力を高く評価してくれる大名を求めて「転職」を重ねるのが当たり前だった。そして転職を重ねるたびに立身出世を遂げていく状態は、まさにアメリカのビジネス社会と同じではないかと氏は指摘したのである。
 そういう実力主義・能力主義が存続すると徳川家の安泰は確実なものにできないと考えた家康は、林羅山や藤原惺窩らの儒教学者を重用して儒教を日本社会の精神的規範にすることに成功したというのが小林紀興氏の分析である。さらに氏の発想は大きく広がって行く。本来ビジネス社会では、贈答はお金を貰う側がお金を払う側に対して行われるはずであり、だから「力関係の反映」を意味するのだという結論に達した氏は、その贈答関係が逆転している世界で生きている人間は「聖職」と見なされ、「先生」と呼ばれる共通項があると見抜いた。そういう視点でアメリカの映画を見ると、教師や弁護士、医者は生徒や依頼者、患者に対して「サンキュー」と言っていることに気付いたという。日本では「ありがとうございます」と頭を下げるのは、生徒や依頼者、患者の側である。
 いま、医者と患者の力関係は当時と大きく変わった。総合病院の医師は、まだ患者に君臨する状態が続いているが、多くの総合病院が「当院は患者さまやお見舞いの方からのお礼は謝絶させていただいています」といった貼り紙をあちこちに貼るようになっている。開業医であるクリニックの医師は患者に対して極めて低姿勢になっている。少なくとも患者を見下すような言い方をする医師はほとんど見なくなった。例外は近隣に競争相手がいないクリニックで、患者を奪われる心配がないから、患者をベルトコンベアの上の荷物のように扱って平然としている。が、そうした医師も競争相手が出現すれば、患者に対する態度がコロッと変わる。
 小林紀興氏は「私は知識で書くジャーナリストではない」と胸を張る。氏は「私は右でも左でも、保守でも革新でもない。私がものを書く基準はまだまだ未熟な民主主義を少しでも成熟化していくこと、また国によって異なる民主主義の概念を世界共通の物差しにしていくこと、そのためには対立が生じた場合の解決する方法はフェアネスを基準にすること」を目指しているという。
 昨日の判決理由の中で、仲間意識、身内意識がいかに組織を腐敗させるかを書いた。そうした村社会の中でぬくぬくと既得権益を守っている官僚組織に対してマスコミは手厳しい批判をしてきたはずだ。そのマスコミの中でも最大手の属する読売新聞の、しかも読者の意見に対応する窓口である読者センターが、仲間意識、身内意識の中でかばい合っていたら、果たして読者の信頼が得られるであろうか。
 以上で当メディア最高裁判所は判決理由を終える。

 判決主文――被告「読売新聞読者センター」に解体を命じる。そのうえで、身内意識を捨てた、読者目線に立った新しい読者との対応部署を設けることを当裁判所として読売新聞社に要請する。以上。
 


読売新聞読者センターとの最終決戦レポート――日本最大の新聞社の卑劣さを暴く⑤

2014-02-24 07:44:21 | Weblog
 真央が散った。が、散った花びらのあとに新しい芽が残っていた。散った翌日に、その目が大輪の花を咲かせた。前日には茫然自失で無表情の顔だった真央。が、翌日の演技のあと真央の顔には涙が溢れ、そして満面の笑顔に変わった。女子フィギュア・シングルのフリー競技で、史上初めてトリプルアクセルを含む3回転ジャンプを8回成功させた真央。彼女の涙と笑顔が、ソチで、自宅のテレビにかじりついていたすべての日本人の心を打った。裁判官も人の子なら、小林紀興氏も人の子。読売新聞読者センターのスタッフも人の子だろう。その思いを共有してこれから述べる判決理由の5回目を読んでいただきたい。

 先週に続いて小林紀興氏と読売新聞読者センターとの激しい戦いの経緯と判決理由について、これから述べることにする。先週の判決理由前半においては、直接には読売新聞読者センターとの争いについてあえて触れなかったのは、小林紀興氏がきわめて論理的な思考力の持ち主であること、氏が事実を捻じ曲げてまで自己の主張を正当化する人間ではないことを、まずもって明らかにしておく必要があったと当裁判所は考えたからである。
 小林紀興氏と読売新聞読者センターは佐伯氏が読書センターの責任者だった時代から、極めて良好な関係を築いてきた。当時はまだブログは書いていなかった小林紀興氏は、電話やFAXでしばしば佐伯氏をはじめ読売新聞読者センターのスタッフと今日的課題について友好的な雰囲気の中で議論を重ねてきたようだ。
 氏がブログを書き始めたのは2008年4月で、『小林紀興のマスコミに物申す』という総タイトルにあるように、マスコミがまき散らす偏見や一方通行の主張に対して手厳しい批判をすることが目的だった。といっても実際に氏が批判の対象としてきたのはNHK、読売新聞、朝日新聞の三大マスコミであった。氏の記念すべきブログ第1弾で、こう書いている。
「かつての医師は『医は仁術なり』という医者にとって極めて都合がいい医業観(実はこの定義は儒教思想を背景に作られたのだが)を口実に患者に君臨してきた。同様にマスコミは『社会の木鐸』というマスコミ側にとって極めて都合がいい定義を口実に国民の批判を封じ込めてきた。それが証拠に新聞はすべて読者の投稿にある程度のスペースを割いているが、その新聞の主張を批判した投稿は絶対に採用されない。読者の批判を封じてきただけではない。政官財癒着のトライアングルを『村社会』として批判しながら、マスコミの世界そのものを『村社会』化することで、いわば『核シェルター』の中(つまり絶対的な安全地帯)でぬくぬくと言いたい放題、書きたい放題を重ねてきた。私は4月1日に朝日新聞の秋山社長宛に現在のマスコミの姿勢を憂い、フェアな社会を構築するためにマスコミがどういうスタンスをとるべきかA4版9ページに及ぶ批判と改善策を提言した手紙を送ったが、たぶん社長室の愚か者が破棄したのだろう、完璧に無視された」
 こうしてマスコミ自身が自浄能力を失ったと確信した小林紀興氏は、ブログでのマスコミ批判を展開することにしたのだという。またNHKや読売新聞、朝日新聞の視聴者、読者の意見窓口(NHKは「ふれあいセンター」、読売新聞は「読者センター」、朝日新聞は「お客様オフィス」)にしばしば電話で批判や意見を述べてきたようだ。NHKは体質的なのか、どのような意見にも「ご無理ごもっとも」といった慇懃無礼な態度をとるスタッフが多いが、読売新聞や朝日新聞は紙面に対する批判は基本的に無視する。無視できないほど重要な指摘があった場合は「伝えます」と言うが、無視する場合は「分かりました」「伺いました」と言うことにしている(この返答があったら「右から左に聞き流す」ということを意味している)。この定型対応は新聞読者が記事について何か言いたいことがあった場合に、読者窓口のスタッフがどういう対応をしたかの基準なので知っておいた方がいい。
 そのことはともかく、氏の手厳しい批判は感情論ではなくきわめて論理的なので、読売新聞側も無視できず「伝えます」と応じることが多かった。ある事件が起きるまでは…。
 事件の発端は2013年8月16日に投稿したブログの内容だった。当時、私はブログ記事を読売新聞と朝日新聞にはFAXしていた。そのブログのタイトルは『緊急告発 ! オスプレイ事故件数を公表した米国防総省の打算と欺瞞』というもので、氏の主張については、そのブログ記事を読んでいただくしかないが、読売新聞読者センターを驚愕させたのは、以下の部分であった。

 実は昨夜読売新聞の読者センターの方に私の考えを申し上げたところ、担当者は「うーん。……おっしゃる通りだと思います」とお答えになったので、「読売さんの記者はまだ誰も米国防総省の計算と欺瞞性にお気づきではないようですね」と言いつのった。「そのようですね」と誠に正直にお答えになったので「つまり記者としては失格だということですね」とまで挑発してみたが、返ってきた答えは「その通りだと思います」だった。

 小林紀興氏が、そこまで読売新聞読者センターの担当者に食い下がって質問したのは、自分の論理のどこかに見落としがないかを確認するためだったようだ。氏はこの文に続いて「そこで私が米国防総省の欺瞞性を暴いてみることにしたというわけである」という文章を続けていることからも、氏が何らかの読売新聞読者センターに対する悪意があって、このように執拗に読売新聞の記事を問題にしたわけではないということが誰にでも分かろうというものだ。
 ところが、このブログ記事は読者センターにとっては大問題になった。読者センターのスタッフが、読売新聞の記者の無能さの追求に同意してしまったことが大問題になった原因らしい。その後小林紀興氏が読売新聞に電話をすると「ブログでウソは書かないでください」という反応が返ってくるようになった。氏が「どういうことですか」と聞くと、「当人に確認しましたが、そんなことは言っていないことがわかりました」と言う。
 現行犯ならいざ知らず、まだ容疑も固まっていない人間に対して警官が「あなたは、ひょっとしたら何か法に触れることをしていませんか」と問われて「はい。やりました」と答えるバカがどこにいるか。しかも訊問した相手が仲間の警官だったら、人情として「いえ、犯罪はしていません」という相手の証言を信用したくなるのは当たり前ではないか。
 だが。問題は読者センターのスタッフはすでに現場から離れたとはいえ、元は記者つまりジャーナリストの出身である。仲間内の証言をハナから信用するような体質なら、そもそもジャーナリストとしても失格だったのではないかと当裁判所も断定せざるを得ない。
 事がそれほど重大で、当人に小林紀興氏との会話の内容を正確に確かめる必要があったのなら、当人にプレッシャーをかけることができない第三者委員会を、読者センターとは利害関係がまったくない外部の有識者でつくり、その委員会に真偽の確認を依頼すればいい。内部の調査(事実上の査問)に対して当人が「申し訳ありません。小林紀興氏がブログで書いたことは事実です」などと本当のことが言えるわけがないことくらい、自分自身が同じ立場になったらどう答えるか考えれてみれば一目瞭然であろう。
 小林紀興氏は昨年、似たケースにぶつかったという。ネット・オークションで○○会社の株主優待券を落札したが、落札代金を振り込んでも肝心の落札した株主優待券が届かない。出品者はくろねこヤマトのメール便で発送したことは事実で(メール便の場合、補償はないが「追跡番号」がつくため、どこで紛失したかがわかるようになっている)、氏も出品者もヤマト運輸に確認の電話をしたという。氏の自宅にヤマト運輸の○○支店の副支店長が来て「間違いなく○○支店に届き、配達人に届けさせた。配達人に確認したが、小林さんのお名前を確認してポストに投函したと言っている。だから当社には責任がない」と、最初は言い張っていた。が、氏の理路整然とした氏の主張に「つい、身内の者の証言を無意識に信用していました。身内意識で考えてはいけないということがわかりました。ただ、配達人がネコババしたという証拠もありませんし、メール便の場合補償ができませんので、申し訳ありませんが配達人の担当地域を変えることでお許し願いたいのですが」と、頭を下げたので氏もそれで納得したという。
 ヤマト運輸のメール便の配達人は社員ではなく、ヤマト運輸と契約している個人事業主である。かなりたちの悪い人間がいるという話はその後、小林紀興氏もいろいろなところで聞いたという。が、普通郵便の場合、発送したという証拠が残らない。そのため出品者は発送したという証拠が確実に残るメール便を利用したくなる。で、出品者のほうは「メール便の場合、補償がありません」と商品説明のなかで書くことが多くなってきたようだ。
 最近小林紀興氏の住所を管轄する郵便局で不祥事が相次いだ。誤配(他人あての郵便物が氏のポストに投函され、差出先に氏も心当たりがあったので開封してから誤配に気づき郵便局に連絡して取りに来てもらったという)、氏が在宅しているのに速達を玄関まで持ってこずに集合ポストに投函したうえ投函した時間までデタラメを報告したケース、不在連絡票にデタラメな郵便番号を記入するという小学生でも考えられないような初歩的なミスなどである。あまりにも不祥事が続いたので、氏も責任者を呼びつけて局員の意識を改善するよう求めたというが、責任者との雑談の中で「自分も郵便物を配達した時期がありましたが、封筒を外から触るだけで中身が普通の手紙か、あるいは現金や金券類かがわかりました」という。当然プロの配達人であるヤマト運輸の契約者も茶封筒(金券類の出品者は100円ショップで25枚くらい買える茶封筒を利用することが圧倒的に多い)を外から触っただけで中身の想像がつく。だから、その事件があって以降小林紀興氏は集合ポストに施錠するようにしたという。そのうえ二重に安全策を講じるため、出品者に「封筒代を別に支払うからA4サイズの大型封筒に新聞紙か週刊誌に挟んでメール便で発送してほしい」と頼むことにしているという。それ以来メール便の事故はなくなったという。
 氏の経験で後日談があったようだ。ある商品を着払いの宅急便で送ってもらったとき、配達人が伝票に「着払い」の記載漏れがあったため、配達料を取らずに帰っていった。出荷者が氏に気を使って配達料を負担してくれたのかと思って問い合わせたところ「配達料は着払いで送りましたよ。ヤマト運輸のミスでしょう。私もヤマトには痛い目に会っていますから放っておいていいですよ」という返事だったという。だが、翌日玄関ポストに「配達料をいただくのを忘れていました。後ほどいただきに伺います」といったメモが投函されていた。氏は当然「過去にこういうことがあった。私は支払う義務はないと考える」とヤマト運輸の○○支店に電話した。その時の副支店長は新任の女性社員だったが、「前任の副支店長から事情は聞きました。今回は私どものミスですから配達料は頂きません」という折り返しの電話があったという。
 氏が管轄の郵便局の責任者から聞いた話だが、「ヤマト運輸は都市部は自分たちで配達するが、寒村や離島などの過疎地への配達はその地区担当の郵便局までは持ってくるけど、あとは郵便局に丸投げです。そういうケースはヤマトにとっては丸損になるはずですが、都市部で稼げばいいと考えているのでしょう」ということだった。
 で、小林紀興氏は考えた。株主優待券や金券類などは普通郵便を街中のポストに投函するのではなく、最寄りの郵便局で、宛名を書き切手を貼った封筒のコピーに日付入りのはんこ(消印のようなもの)を押してもらうようにすれば、発送者は発送した証拠が残るし、郵便局の場合は配達人は原則として局員だから、先に述べたような不祥事はあっても、ネコババの類の被害は100%とはいえないまでも(警官でも犯罪を犯すケースがあるから)かなり避けることができようというものだという。
 それはグッドアイディアだと、当裁判所も賛成したい。
 クロネコヤマトのメール便や郵便局の不祥事にかなりの文字数を割いたため、判決理由の続きは明日の繰り延べるが、今日のメディア最高裁判所としては、すべての組織が組織内人間の意識改革を行おうとする場合(対象が個人とは限らない。当該郵便局のように組織的に局員の意識改革を相当の時間をかけても行わなければならないケースもありうる)、まず身内意識を捨てることから始めないといけない。
 小林紀興氏はかつて自分の子どもが中学生のころ、万引きの癖が何度叱っても治らないので、学校(私立)に退学届けを出すと同時に子どもを警察署に連行したという。警察は「少年鑑別所に入れたら、もっと悪くなる」と別の未成年者の性格矯正施設を紹介してくれ、そこに入所させたという。自分の子供に対してすら行った氏の毅然とした姿勢を見た学校の校長は「退学届は私個人がしばらく預かります。お父さんのお気持ちは十分わかりましたから、とにかくお子さんが立ち直させることを最優先に考えましょう。施設が『もう大丈夫』と判断したら、その時点で復学していただきます。学校も一生懸命にやります。お父さんも頑張ってください」と言われ、氏は校長の温情に涙したという。
 今回の判決理由後半の続きは明日述べることにする。
 

読売新聞読者センターとの最終決戦レポート――日本最大の新聞社の卑劣さを暴く④

2014-02-21 07:41:48 | Weblog
 前回(昨日)の判決理由の最後に小林紀興氏が主張している「失われた20年」の間に何が変わったのかという問題について当裁判所としての見解を述べる。この問題は直接読売新聞の卑劣さを証明することではないが、少なくとも読売新聞記者連中の無能さを証明することになるので、メディア最高裁判所としても無視できないと考えたためである。
 小林紀興氏の主張は二点である。日本の雇用関係に重大な変化が生じたこと、インターネットが社会のすべてのシステムを変えたという二点である。
 まず日本の雇用関係の変化についてだが、日本政府の公式見解によれば、バブル景気は1986年(昭和61年)12月から1991年(平成3年)4月までの54か月の長期にわたる資産価格の上昇と好景気の時期を指す。小林紀興氏は92年11月には早くも日本の雇用関係が崩壊することを見抜いていた(祥伝社から上梓した『忠臣蔵と西部劇』)。
 バブル期、世界とくにアメリカの産業界には「日本の経営から学ぼう」という空気が横溢していた。特に日本人の企業に対するロイヤリティの高さはアメリカ企業の経営者にとって羨望の的だった。まだバブルに突入する前の1979年にアメリカの社会学者エズラ・ヴォ―ゲルが書いた『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が70万部を超える大ベストセラーになり、米産業界の主要なメンバーが集団で「日本的経営」なるものを学ぶために来日したくらいである。彼らが重視したのは日本人のロイヤリティの高さで、どうしたらアメリカでも従業員のロイヤリティを高めることができるのか、とまじめに考えたほどである。そしてアメリカにも「日本的経営」を実践して成功している会社があるとして、経営コンサルタント集団マッキンゼーのスタッフ、トム・ピーターズとウォーターマンが書いた『エクセレント・カンパニー』(翻訳が大前健一氏)が取り上げた超優良会社の代表はIBM、GE、ウォルマートなどであった。これらの超優良企業とされた中で、今日もそこそこ頑張っているのはウォルマートだけである。なぜか。すでに小林紀興氏は『忠臣蔵と西部劇』でこう検証している。その個所の見出しは「日本人のロイヤリティは、果たして高いか」である。なお、バブルがはじけたとはいえ、小林紀興氏が『忠臣蔵と西部劇』を上梓した時点では日本型雇用形態の「年功序列・終身雇用」の建て前はまだ崩壊していなかったことを付け加えておく。

 プロローグで、時代劇と西部劇の違いについて書いたが(※本判決理由の③に転記してある)、『忠臣蔵』がアメリカ人に理解できないのは、目的さえ正しければ手段は問わない、という日本の社会的通念だけではない。大石ら赤穂浪士が示したロイヤリティ(忠誠心)の性質もアメリカ人にとっては理解の外である。赤穂浪士の行為は、ロイヤリティの見返りがまったく期待できない破滅型のものだったからだ。
 ひと昔前の日本人論に、日本のサラリーマンは企業へのロイヤリティが非常に高い、というのがあった。この日本人論と『忠臣蔵』大好きな日本人像がオーバーラップされると、アメリカ人の目には「日本人は国や企業のためなら、どんなことでもやりかねない危険な民族」と映ってしまう。
 この対日警戒感が、アメリカではいまだに強い。
 だが、日本人は本当に、民族的特質としてロイヤリティが高いのだろうか。確かに企業の発展のために、あえて法を犯すサラリーマンが後を絶たず、そのたびに「日本人は組織のためには自らを犠牲にする人種だ」といった日本人論が繰り返される。
 しかし、それが日本人の民族的特質だとは、私にはどうしても思えないのである。というのは、サラリーマンが示す企業へのロイヤリティの度合いは一律ではないからだ。
 ロイヤリティの度合いは、勤続期間と労働条件に比例する(※この指摘は「小林紀興の法則」と命名してもいい)。トヨタや松下(※現パナソニック)のような超一流企業は、給料やボーナスがいいだけでなく、社宅や持ち家制度など福利厚生も充実しており、定年まで勤め上げれば退職金や企業年金で優雅な老後が約束されている。しかも、これらの給料以外の“報酬”は、勤続年数が長ければ長いほど自動的に膨れ上がっていく。終身雇用と年功序列が続く限り、超一流企業のサラリーマンのロイヤリティは、勤続年数に比例して高まる仕組みになっている。
 しかし、給料も安ければ給料以外の“報酬”も多くは期待できない中小企業や、給料は高くてもサラリーマン使い捨ての販売会社の営業マンのロイヤリティはけっして高くない。
 そして、海外で米欧人が接する日本人の多くは、一流以上の企業のサラリーマンである。彼らが、日本のサラリーマンのロイヤリティの高さに違和感を抱くのも当然といえよう。
 一方、アメリカのサラリーマンは、IBMやGMのような大企業に勤めている場合でも、企業に対するロイヤリティはそれほど高くない。不況になればすぐにレイオフされたり、賃金をカットされたりするからだ(その心配がないエリート層のロイヤリティは比較的高いが)。
 半面、アメリカのサラリーマンは直属の上司(ボス)に対しては高いロイヤリティを示す。アメリカでは、ボスが部下の昇給や昇格、雇用などの人事権を握っているからである。だからアメリカのサラリーマンは、ボスに気に入られようと涙ぐましい努力をする。
 そのためアメリカでは、部下が優秀だとボスがクビにしてしまう。部下が育ってくると、自分自身が自分のボスからクビにされてしまうからだ。アメリカのサラリーマンは、自分がボスにとっていかにかけがいのない部下であるかをアッピールすると同時に、ボスに対してはトコトン忠実で、決してボスの椅子を狙ったりしない人間であることを立証し続けなければならない。
 ところが、日本では上司は部下に対する人事権を持っていない。部下が気に入らないからといってクビにすることはできないから、せいぜいのところつまらない仕事を押し付けたり、査定を低くするくらいの嫌がらせしかできない。そのうえローテーションで同じ上司に使える期間は長くない。だから日本では、組織に対するロイヤリティは高くても、上司に対してはアメリカより低いのだ。ただし日本でも、役員になった途端、ロイヤリティはアメリカ型になる。会長もしくは社長が、役員に対する絶対的な人事権を持っているからだ。

 実際、日本の企業戦士は、「終身雇用・年功序列」の雇用形態が崩れた途端、いみじくも小林紀興氏が明らかにしたようにロイヤリティをどんどん失っていったことは当裁判所も認めざるを得ない。読売新聞の読者センターに配属されている社員の多くはそれなりに記者としてのキャリアはあるが、ラインから外れた50歳代の社員で占められており、とくに年齢が高い社員ほど「読売新聞の主張はすべて正しい」と本当に思い込み、来週からの判決理由の後半で明らかにするが、読売新聞社のためならどんなウソでもつくことをためらわず、自分たちのことは棚に上げて、小林紀興氏に自己批判を迫るという卑劣な連中である。そういう社員を育ててきた読売新聞社とはいったいどういう会社なんだろうかと、当裁判所もつい豊田商事と比較したくなってしまう。
 さて「失われた20年」の間にもう一つ大きな変化があった、と小林紀興氏は指摘する。それはインターネットが社会のあらゆるシステムを変えつつあるという事実である。氏は漫画ブームによって自著の初版部数が1万部を切った時点で活字の世界と縁を切ったという。「印税収入では元が取れない」という純然たる経済原則が最大の理由だが、単行本にこだわらなくても小林紀興氏ほどの実績があれば週刊誌や雑誌などの仕事はいくらでもあったはずだが、氏はそういう仕事も一切断ってきたという。当裁判所はその理由を聞いたところ、氏はこう答えた。
「週刊誌や雑誌は編集者が、週刊誌なら20人前後、雑誌でも7~8人はいる。その編集者たちが編集会議で記事のテーマから内容に至るまで決めてから、執筆者に取材や原稿を依頼する。ところが、私が依頼を受けて取材すると、編集者たちが机の上で考えた筋書とは違う事実を知ることが少なくない。私は筆者の良心として事実と違うことは書けないので、取材した事実に基づいた原稿し
か書かないことにしている。事実がそうなら仕方がない、と原稿どおりに活字
にしてくれるのなら問題ないのだが、編集部は最初に編集会議で決めた方針を変えようとしないことがしばしばある。私もある程度は編集権を容認してきたが、白を黒と書き変えるほど私の原稿をめちゃめちゃに書き変えられ、しかもゲラを見せもしない。ある一流雑誌でそういうことがあり、弁護士に雑誌の販売停止の仮処分を裁判所に申し出てほしいとまで頼んだことがある。弁護士も私の原稿と雑誌に私の名前で掲載された記事を読み比べたうえで、これはちょっとひどすぎると認めてくれた。そのうえで、雑誌の記事の場合、編集権もあるが、著作権のほうがはるかに重い。これだけ改ざんされたら裁判所も著作権を重視して雑誌の発売停止の仮処分を出す可能性は高いが、そうなった場合、小林さんは活字の世界から完全に締め出されます。それでもいいですか、と言われた。著書はまだそこそこ売れていたころだったので、やむを得ず私は泣き寝入りすることにした。が、それ以来、雑誌や週刊誌の仕事は一切受けないという私なりの意地を貫き通してきたんです」
 その強い小林紀興氏の信念には当裁判所も深い感銘を受けた。で、インターネットが社会をどう変えたのかを小林紀興氏から聞きただし、氏の考えを氏に代わって当裁判所が判決理由の中で書くことにした。もちろん、その内容には氏も目を通し、「これで結構」ということであった。
 小林紀興氏が活字の世界から離れたのは1998年3月である。最後の著書『西和彦の閃き 孫正義のバネ』を上梓したときだ。すでに述べたが、この本が小林紀興氏の著作物の中で初めて初版1万部を切ったケースだったという。
 ちょうどこの年、マイクロソフトがウィンドウズ98を出した年で、小林紀興氏はインターネットが社会のあらゆるものを変えていくと予感したらしい。氏自身、まだ50代後半で、老い込む歳ではなかった。
 氏は、自らの体験から様々なアイディアを生む特性を持っているようだ。実は最近も自転車事故で大けがを負い入院手術したときの経験からビッグアイディアを思いついており、当裁判所判事もそのアイディアに非常な興味を持ったが、現段階で明らかにはできないということなのでこの判決理由文では残念ながら書くことができない。が、1998年に浮かんだアイディアについては書いてもいいということなので、書くことにする。氏によればアイディアは二つあったようだ。

 一つは急速に進む活字離れから浮かんだアイディアだという。まだ少子高齢化は社会問題になってはいなかったが、若い人たちの新聞離れの現象は新聞社自体が厳しく受け止め始めたころである。
 実は新聞の購読理由の一つにスーパーなどのバーゲンチラシが欲しいという理由がある。大きなスーパーなどは1紙だけでなく複数の新聞にチラシを入れ
るが、零細商店などは1紙にしかチラシを入れられないというケースもある。新聞販売店は、新聞販売の手数料より折り込みチラシの配布料(1枚あたり3~4円と言われている)のほうがはるかに大きい。都心近郊の住宅地など、木・金・土の3日は毎日40枚前後の折り込みチラシが入ってくる。が、新聞販売店によれば配布するチラシの数も、新聞購読者の減少に伴って減少しつつあるようだ。
 折り込みチラシが減少すれば、新聞販売店にとっては死活の問題になる。そのため読売新聞は最大発行部数を維持するため、新規購読者(再購読者も含む)に対するサービスが、他の新聞に比べて圧倒的にいい。本来、新規購読者に対するサービスは発行部数が少ない新聞ほどよくするのが自由経済の原則なのだが、新聞販売の世界では違う。発行部数が多い新聞ほど新聞販売店の折り込みチラシの配布料収入も多くなり、読売新聞は「殿様商売」をかなぐり捨てて販売店に潤沢な新規購読者獲得のための販促手数料をばらまく方針をとっている。
 数年前までは、読売新聞も朝日新聞も新規購読者獲得手段はビール券が中心だったが、ビール券を一番たくさんばらまいたのも読売新聞だった。この習慣が、母体である読売新聞にとっては大きな負担になっていた。そのため読売新聞は朝日新聞と談合して販促用にビール券を使うことをやめた。どっちが先に悲鳴を上げたのかは不明だが、当時の読売新聞読者センターの責任者である佐伯氏は私に電話で「朝日さんもカタログに変えたようですね」と答えたことをはっきり覚えている。つまり購読契約期間に応じてカタログから好きな商品を選んでもらう、というのが読売新聞と朝日新聞の談合で決まったのである。佐伯氏はさすがに「談合で決めた」とは口が裂けても言えなかったが、川下の販売店には正規の社員(アルバイトも含む)とは別に、どの販売店にも属さず購読新聞を交代させることで販売店から販促料をせしめるプロの販促員もいる。そういう販促員の戦略は、読売新聞と朝日新聞を半年ずつ交互に購読させることで、その都度販促料を両方から獲得することだった。読売新聞と朝日新聞がビール券を販促に使うことを止めたことで、一番困ったのがプロ販促員だった。
 が。この談合は1年も絶たずに事実上崩壊した。今でもビール券を販促用に使うことは販売店から禁止されているが、新聞配達も行っている正規の社員やアルバイトもビール券の代わりにビールの現物を販促商品に使うようになったからだ。ただし、販売店から販促商品として使うビール(発泡酒も含む)の数量は制限されており、販促員はその制限を超えたサービスを自腹で行うこともしばしばある。自腹を切っても販促手数料収入のほうが大きいから、まさに市場原理が働いた結果でもある。
 ところが談合したのは読売新聞と朝日新聞の本体だけではない(他の新聞は購読したことがないので、どんなサービスをしているかは知らない)。販売店同士が談合しており、ビール券の配布は禁止したままだが、ビールや発泡酒のサービス量の制限を決めている。販売員はその制限を超えても新規購読者を獲得したいため、裏事情を明かしたうえで「店(販売店のこと)から電話で問い合わせがあったら、貰ったのは淡麗350を1ケースだけと言ってください」とまで頼まれたこともある。実際には2ケース貰ったのだが…。
 そうした販促活動の厳しい現実から思いついたのが、いっそのこと折り込みチラシをネットで配信したら、というニュービジネスだった。ちょうどビジネスモデル(ビジネスアイディア)特許制度が生まれたころで、出願すると同時に実際に新宿に拠点を構えて営業マン数人を雇いニュービジネスを始めた。が、時期が早すぎた。ウィンドウズ98がネット社会の幕を開けたのは間違いなかったが、ネットに飛びついたのはまだ若い人たちだけで、中高年が主体の商店主にとってはネットは宇宙の彼方のような存在だった。「折り込みチラシをネットで配信する」ということの意味を理解してもらえなかったし、雇った営業マンも吹けば飛ぶようなちっぽけな会社に職を求めるような連中だったから、私の説明を聞いて分かったようなふりはしていたが、実際に商店主を説得する能力がなかった。「経営者とは人を使いこなすことなり」ということを、その時初めて肌で知ったのである。いま、ネットでチラシを配信するビジネスは凸版をはじめ、タウン誌も紙媒体と連動して行っていて大成功している。
 もう一つのアイディアはネットで生命保険の設計を加入者自身が行うというアイディアだった。インターネットの特徴はいくつかあるが、十分に活用されているとは言い難いことは。ネットで相互に情報のやり取りをしながら、いろいろな分野の基本設計を、プロの知識を利用することで利用者自らが行えるという利便性である。そうした方法で生命保険の設計を、保険会社の営業マン任せにするのではなく、自分自身で納得がいく設計を行えるようにすれば、保険料は格安になるし、個々の加入者にとって最も有利で自分自身も納得できる保険を加入者自身が設計できるというシステムであった。
 いま、ライフネットをはじめネットで生命保険を販売している会社はたくさんあるが、それらのネット専業生保会社が生まれる前に小林紀興氏は加入者自身が生命保険を設計できるシステムのアイディアを思いついて、やはりビジネスモデル特許を出願した。はっきり言えば、氏は特許事務所に食い物にされたのだが、このニュービジネスはさすがに個人でできるようなスケールではなく、大企業数十社のトップに「事業化しないか」と持ちかけたが、やはり高齢者の理解は得られなかった。
 しかし、いま多くあるネット生命保険の会社は、いくつかのプランを用意して、そのプランの中から好きなのをお選び下さいといった販売方法で、いわばネットを利用した通信販売行にすぎない。つまり、従来の生保会社の販売方針であるセールスウーマンが販売するのをネットに変えたのと、商品の選択肢を増やしただけという代物でしかないのである。ネットの利便性を最大限に利用して加入者が、自分の条件(年齢、収入、家族構成などの個人情報)を入力し、そのうえで、たとえば自分に万一のことがあった時残された家族のためにいくらくらい残せばいいか、あるいは病気になった時の収入をどのくらい保証してもらいたいか、などの保険加入の目的とその目的を果たすための保険料の予算などを考慮しながら、ネットと対話しながら自らの保険の設計を行うというシステムで、これはまだどこも実現していない。
 この方法はこれから様々の分野で広がっていくと思う。たとえば、家を建てたいと考えた場合でも、建築設計事務所があらかじめプロの設計者の知識をサーバーに入力しておけば、家を建てたいという人が、敷地の状態や家族構成(二世帯家族も含む)や予算(ローンも含む)などの基本情報を入力して、あらかじめ設計事務所のサーバーに入力してある設計情報を利用しながら基本設計を自分で行い、詳細設計はプロの設計者にしてもらうというシステムを構築すれば、設計費は大幅に安くできる。
 新聞社もそうだ。全国紙が全国各地に支局などの情報拠点を設けるなどといったバカげたことをやめて、地方紙と連携して地方の情報は地方紙からメールで送信してもらい、その代わり中央や海外の情報は全国紙がやはりメールで地方紙に送信するようにすれば、今の体制よりはるかに合理的で必要な情報を全国紙と地方紙が共有できるようになる。
 安倍総理はデフレの原因を円高だけと見ているようだが、円高はデフレの一つの要因に過ぎない。ネット・ショッピングと100円ショップが価格破壊の大きな要因になっており、スーパーやコンビニもネット・ショッピングや100円ショップの影響を相当受けて販売価格を抑えざるをえなくなっている。スーパー自らがネット販売に乗り出さざるを得ない状況にすらなっており、考えようによっては自ら自分の首を絞めるような事態になっているのである。デフレは金融政策だけではどうにもならないということを、金融関係の専門家がなぜ安倍総理にアドバイスしないのか。

 この辺で、判決理由の4回目を終える。ここまでが判決理由の前半で来週から読売新聞読者センターの卑劣さを暴く後半に入ることにする。

 

















読売新聞読者センターとの最終決戦レポート――日本最大の新聞社の卑劣さを暴く③

2014-02-20 09:23:06 | Weblog
 次に安倍内閣の経済政策についての評価と無定見な支持を読者に押し付けた罪についての判決理由を述べる。
 安倍内閣は発足早々「アベノミクス」なる経済政策を打ち出した。具体的内容は「3本の矢」として示された。3本の矢のスローガンは ①大胆な金融政策 ②機動的な財政政策 ③民間投資を喚起する成長戦略である。ただこのスローガンだけでは具体策は何も見えない。もちろん安倍総理もそのことは重々承知で具体策を次々に打ち出してはいる。
 そもそもアベノミクスは第2次安倍内閣が打ち出したものではなく、第1次安倍内閣の経済政策として命名されていた。第1次安倍内閣が打ち出した経済政策であるアベノミクスを、現在のアベノミクスが継承しているのであれば、とくに区別して意図的な作為を問題にしたりする必要はないのだが、実は180度転換したと言っても過言でないほど中身が異なっている。
 第1次安倍内閣が打ち出した経済政策であるアベノミクスは、小泉構造改革路線を継承し、財政出動を削減して公共投資を縮小し、規制緩和を強力に進めることで民間主導の経済成長を図ろうというものだった。が、第2次安倍内閣が声高に叫んでいるアベノミクスは事実上「亡霊」となっているケインズ経済政策に頼ることでデフレ不況脱出を図ろうというもので、小林紀興氏は何度もアベノミクスの欠陥を指摘し具体的提案もしてきた。とりあえず第2次安倍内閣のアベノミクスの中身を具体的に見ていこう。
 まず金融政策では、アベノミクス経済政策の断行に欠かせない日銀総裁に黒田東彦氏を起用した。そのため当初はアベノミクスにやや冷ややかな目で見ていた読売新聞は「安倍総理の言いなりになる人事」と揶揄していたくらいだった。だが、アベノミクスを理解するということと、安倍総理の言いなりになるということは、結果は同じでもまったく評価の視点が違う。
 それはともかくとして安倍総理が黒田氏に求めたのは金融政策による「円安誘導→日本製造業の競争力回復→国内産業の活性化→従業員の給与アップ→内需の回復による2%のインフレ目標の達成→景気回復の長期的持続→税収増加による財政再建」であった。そのストーリーを現実のものにするため低金利政策の継続と無制限の量的緩和を黒田氏に求めたのである。そこまでは、確かに黒田日銀政策は安倍総理の「言いなり」と見えた。だが、その後の安倍内閣の打ち出した政策はむしろ黒田氏の描いた内需拡大のための税制改正ではないか、と私には思えて仕方がないのだ。
 黒田氏は元々は財務官僚の出身で、主に国際金融と主税畑でキャリアを積み、「ミスター円」と呼ばれた榊原英資の後任として財務官に就任した経歴の持ち主である。日銀総裁のポストはほぼ日銀プロパーと財務官僚(旧大蔵省・現財
務省の事務次官経験者)が交互に務めてきた。そういう意味では財務官僚が日
銀の金融政策を批判することは、事実上タブー視されてきた。にもかかわらず、黒田氏は前任の白川方明氏の金融政策に対して歯に衣(きぬ)を着せない批判をしてきた。
 確かに白川前日銀総裁の金融政策は失敗の連続だったと言っても過言ではない。就任直後にリーマン・ショックによる金融危機、東日本大震災によるダメージ、ギリシャに端を発したヨーロッパ金融危機など、どれをとっても一人の肩に背負うには重すぎる、極めて困難な問題に直面してきた。そういう事情はあったにせよ、日本経済の足元がぐらついているときに適切な金融政策をとってきたとは言い難いことが、結果的に黒田総裁の金融政策と比較することで明白になった。
 白川氏は5年間の総裁在任時代を振り返り、自分の金融政策は間違っていなかったと反論しているようだが、基本的考え方として「ゼロ金利政策、量的緩和政策は景気・物価対策として必ずしも有効ではない」とかねてから主張しており(京大教授時代の著書『現代の金融政策』による)、回数としては15回の金融緩和を行いはしたが、対策が後手後手に回った事実は否定できない。実際、黒田総裁が「物価上昇率が2%に達するまで無制限の量的緩和を行う」という極めてリスキーな金融政策を打ち出したことで、日本経済に対する海外の期待が高まり円安、株高への急転換が始まったことを考えると、白川氏がどう弁解しようと彼の金融政策が海外から不信感を買い、円高・デフレ・株安という三重苦を招いたことは否めない。
 日本は2月初めまで、日経平均の対前年比が戦後最高水準に達していると浮かれていた。確かに黒田総裁の手腕によって日本経済の前途に光明が灯ったことは疑いようのない事実だが、それでも日経平均は1万6千円前後で足踏みしたあと急落し、ましてバブル崩壊前の水準には遠く及ばない。一方リーマン・ショックの震源地であるアメリカの株価は史上空前の高値を追ったこともある。この日米の落差をどう説明できるのか。
 そもそも日本のエコノミストの頭脳のレベルが低すぎる。たとえば昨年末には大納会まで9日間連続で上昇した株価が新年を迎えた大発会にいきなり382円も下落した時、「いったん利益を確定しようということで、売りが出たのではないか」とエコノミストたちは一様に説明した。だいたい学者や評論家、ジャーナリストたちは結果解釈で解説するのが常だ。最近外れっぱなしの天気予報より予想の的中率は低いのではないか。そもそも12月に入って、ちょっと値を下げたら「株の売買利益の源泉税が現在の10%から20%にアップする。源泉税が10%のうちに売ろうという動きが出て年内は株価上昇は期待できない」とほざいていたのは誰だ。その予想が当たっていたら、年末の9日間連続アップはありえなかったはずだし、年を越して源泉税が20%にアップしたのに「とりあえず利益を確定しておこう」などと考える投資家がいるわけがないだろう。むしろ「利益を確定するために売る」のだとしたら、源泉税が10%の昨年中に売っているはずだ。自己矛盾にすら気が付かないほどのアホが、でかい面をしてのさばっている連中は読売新聞にもごまんといる。
 裁判官といっても人間だから、判決理由を書いていて頭に来ると、ちょっと平静心を失いかけることもある。その点は反省するとして先に進めよう。エコノミストでもなければ経済学者でもないのに彼らをはるかに凌駕する思考力の持ち主である小林紀興氏は、日銀総裁が日本経済のかじ取り能力を喪失するようになったのは澄田智総裁の時からだと主張している。氏の分析はこうだ。
 澄田氏は大蔵省銀行局から事務次官に昇り詰めた異例のケース(通常、事務次官コースは主税局の出身者のゴールと言われている)で、そういう意味ではもともとは優秀な人材として期待されていた。が、東大卒という学歴から見ても、過去にあった例を参考に豊富な知識を武器に問題を解決しようとする典型的な東大タイプの総裁だったため、過去に参考とすべき事例がないようなケースにぶつかると、頭の中がたちまち真っ白になってしまうという遺伝子だけはしっかり受け継いでいた。
 不幸なことに澄田氏が総裁になった時期(1984年12月)は日米貿易摩擦と円高圧力という、過去に例を見ない難問が待ち受けていた。読売新聞に東大出身者が多少でもいれば、この時期、アメリカではジャパン・バッシングの嵐が吹き荒れ、デトロイト(米自動車産業のシンボル的都市)では日本車がハンマーで粉々にされたり、米国内で日本に対して「安保ただ乗り」批判が渦を巻いていたことを記憶している人がいないはずはなく(東大卒の連中が全員記憶力があるとは限らないが)、当時のアメリカ人の対日感情は今日の中韓両国の対日感情とそっくりだったということに気づいてもいいだろうと思うのだが…。
 その時代に思いを馳せれば、安倍総理(だけではないが)が強調する日米「同盟」論の欺瞞性をだれかが指摘してもいいはずなのに、それができないのは思考力だけでなく記憶力もほとんど皆無の記者ばかりという結論に小林紀興氏が達したのも無理はない。
 澄田氏が総裁に就任した翌年には米プラザホテルで先進5か国の中央銀行総裁会議(G5)が開かれ、世界各国の為替レートが自由相場制に移行し急速な円高を迎えることになった。戦後世界経済の常に中心にあったアメリカが、ニクソン・ショック(米ドルと金の交換停止措置)以来、日本を標的とした経済制裁ともいうべき強権を初めて発動したのである。小林紀興は反米主義者ではなく米国との友好かつ対等な関係を築くことを常日頃から主張しており、氏のこの指摘は当を得たものと当裁判所は判断する。
 この、いわゆるプラザ合意以降、円は投機マネーの標的となって一気に高騰する。そのため自動車など日本の輸出産業は大打撃を受け、輸出に力を注いできた製造業は海外に生産拠点を移さざるをえなくなっていった。アメリカの産業空洞化はすでに生じていたが、日本メーカーは「アメリカの技術は海外移転ができるほどレベルが低い。日本の技術は簡単に海外に移転できるようなレベルではない」と高をくくっていたが、「背に腹は代えられぬ」とはこのことで、日本のメーカーも生産拠点を海外(当時は韓国が主な進出先)に移していく。
 当然のことながら技術開発は生産現場から生まれる。最初に実例を示したのが半導体であった。今の若い人は知らないだろうが、日本はかつて半導体王国だった。生産拠点を韓国に移しても、研究開発拠点を日本に残しておけば、日本の半導体技術は世界に君臨し続けるに違いないと自負していた。その視点でNHKスペシャル『電子立国日本の自叙伝』を制作し、1992年には芸術選奨文部大臣賞を受賞した大物ディレクターが相田洋氏だった。が、相田氏の作品がいまから考えると日本半導体産業へのレクイエムを奏でる結果になったのは皮肉と言えば、そう言えなくもない。
 技術開発は生産現場から生まれる(「からしか生まれない」とまでは極論していない)という経験則が実現し、今では日本の半導体産業は壊滅状態にある。いずれにせよ、日本産業界が陥った苦境に手をこまねいたのが澄田総裁だった。この難局を打開する経験則がなかったからだ。プラザ合意で投機筋がどう動くかがすでに見えているのに公定歩合を据え置いて円高にますます拍車をかけたのである。こういうのを「不作為の罪」という。読売新聞の記者にはこの意味が分からんか ? 分からなかったら刑法の易しい解説書で調べなさい。これ以上説明するのは面倒くさい。
 澄田が重い腰を上げてやっと金融政策の大幅緩和へと大きく舵を切った。が、舵を切りすぎた。この時期日本はバブル景気に突入しつつあった。誰が言いふらしだしたのかはネット検索でも分からなかったが、「東京がニューヨークに並ぶ世界の金融センターになる。そうなると世界中から企業が東京に集結し、ビルが不足する」といった流言飛語が飛び交い、「地上げ」が始まったのである。あとから分かったことだが、この時期、東京のビルの空室率はかなり高かったようだ。言い出しっぺが誰かは推測の域を出ないが、短絡的に考えれば流言飛語を根拠に「地上げ」に奔った不動産業界のように思えるが、小林紀興氏は金融業界ではないかと推測している。
 日銀の金融政策の大転換で、困ったのはだぶついた資金の運用先を探す必要に迫られた金融機関だった(優良企業は金融機関からの間接資金調達から増資や社債発行による直接資金調達に移行していた)。そのため金融機関は何とかして「運用先を作る」必要があった。目先感覚で、だれが最も利益を得るかと考えるのではなく、利益を求める中間業界を「育てる」ことによって間接的に利益を得ることが出来たのは誰か、と考えると小林紀興氏の見方はあながちうがちすぎとは言い切れない。その場合、当然その世界の手先となって流言飛語を必死になって広めたものがいるはずで、その手先になったのは長谷川慶太郎とかいう自称「経済評論家」であり、彼を神様のように持ち上げたマスコミでもあった。当然マスコミ界最大の読売新聞はその責を負わねばならない、というのが小林紀興氏の主張である。
 たとえばゴルフの会員権。バブル期はどんなぼろコースも週末はおろか、平日でもコンペで大変流行っていた。その状況を見てみんな(小林紀興氏も含めて)ゴルフ人口に比してゴルフ場の数が少なすぎると思い込んでしまった。だからゴルフ場開発業者には銀行は無制限に開発費用を融資したし、新設ゴルフ場の会員権は売り出した途端に羽が生えたようにあっという間に売り切れてしまった。またまともな事業を経営していた会社のトップもゴルフ場のオーナーになることが大きなプレイタスでもあった。実は取材などを通じて知り合った、そうした企業の社長から小林紀興氏も勧められていくつかのゴルフ場の会員権を買っている。何しろ縁故募集で売り出した会員権の「念書売買価格」が1か月で3倍になるほどだったから、小林紀興氏が錯覚するのも無理はなかったと言えよう。銀行マンも買い漁ったし、読売新聞などマスコミ関係の人たちも「縁故募集」の声がかかったら喜んで飛びついたはずだ。不動産担保の金融機関の融資基準は地価の7割が一般的な上限基準だが、この時期はゴルフ会員権に対しては提携ローンは頭金なしの全額ローンが当たり前だった。読売新聞の記者たちも銀行マンの口車に乗せられて、ローンを組んで会員権を買ったと思う。そのこと自体は、そういう時代だったから「先見性がなかった」と責めることはできない。が、自分の失敗経験から何を学ぶかがジャーナリストには問われている。が、読売新聞の紙面からは「バブル経済とはなんだったのか」という自省を込めた検証作業がなされたとは到底思えない。
 いま小林紀興氏は自省の念を込めて、バブル期のゴルフブームの実態なるものを論理的に検証している。確かにバブル期に比べてゴルフ人口が激減したことは間違いない。しかしバブル期に新設されたゴルフ場の数はせいぜい全体の0.5%程度である。ゴルフ人口が仮に半分に減ったとしても、需給関係の反映かを基準に考えるとゴルフ会員権の平均価格はバブル期の4割程度に収まっていなければおかしいということになる。もちろん一時的には、振り子の原理で針が大きく振れすぎることはある。「豊作貧乏」などということはそうした一時的現象を意味した言葉であり、その時期を過ぎれば自然に需給関係を反映する価格帯に収まるのが自由経済の原則である。実際多くの実需商品はいったん大きく振れた需給関係のアンバランスも、多少の時間差を置いて落ち着くべき水準に落ち着いている。たとえば土地の価格も失われた20年の間いったん大幅に
下落したものの、下落幅は少しずつ縮小し、今はバブル経済に入る以前の水準には戻っている。株価も、バブル最盛期の日経平均4万円まであとちょっと、というレベルには程遠いが、少なくともバブル経済以前の水準には戻っている。
 だが、ゴルフの会員権だけは依然として下落が続いており、回復の見込みはない。なぜか。実はバブル期のゴルフ会員権高騰は実需ではなかったのだ。プレー目的ならば会員権は一つか、せいぜい二つもあれば十分だろう。ところが、当時最も有利な投資商品だったのがゴルフ会員権だったのである。だから、多くの人は、ゴルフをやらない人までも、リクルートの江副氏がばらまいたリクルートコスモス株よりもはるかに有利な投資商品として買い漁ったのが、ゴルフ会員権高騰の原因だった。小林紀興氏が会員権業者から聞いた話として「ローンで100以上もの会員権を買い漁って、バブル崩壊で破産した人もいた」と言っている。つまり、バブルによってゴルフ場が大いに儲かったのは、ゴルフ人口が増えたことは事実だが、会員権の多くを一握りの富裕層が投資商品として買い集めた結果、実需(ゴルファーの総数)に対して供給(ゴルフ場の数)が少ないと見誤ったのがゴルフブームの最大の原因だったのである――というのが小林紀興氏の論理的結論である。確かに単純な論理だが、よく考えてみるに当裁判所も小林紀興氏の見解の正しさを認めざるを得ない。
 実はバブル経済を生み出したのは消費税導入だった、と考えている人は小林紀興氏しかいない、と当メディア最高裁判所は考えている。氏の主張には説得力がある。非常に単純だが、「なるほど」とうなずかざるを得ない。氏の主張とはこうである。
 氏はバブル経済を発生させたのは竹下内閣の消費税導入(1989年)であると指摘する。竹下内閣は、日本の累進課税率は先進諸外国に比して厳しすぎる、諸外国並みに課税率を引き下げ、それによる税収減を消費税で穴埋めする、という税制「改正」案で、それを真っ先に支持したのが読売新聞だった。このバブル経済を本格的で持続的な経済成長につなげて財政再建を果たそうとバカな発想で、高額所得者の課税率を最大50%(所得税40%、地方税10%)に引き下げ、税収減を補うために消費税を5%にアップしたのが橋本内閣であり、この時も読売新聞は消費税値上げのお先棒を担いだ。
 実はこの政府説明はまったくの虚構であったことを安倍内閣がばらしてしまった。日本の名目課税率は確かに諸外国に比して高かったが、実は日本の課税対象所得額は実収入額から相当減額されているのである。給与所得控除、基礎控除、社会保険控除、扶養家族控除などが、日本の場合、実収入から減額されて課税対象所得が算出されているのである。通勤のための交通費実費支給などは収入にすら計上されていない。
 なんでも自己責任を基準にするアメリカなどは、どこに住むかは個人の自由であり、その結果家賃やマイホーム購入が安上がりの郊外遠隔地に住居を構えるのも個人の自由なら、長時間と高額の交通費をかけて会社に通うのも自己責任と考えている可能性が高いのではないかと小林紀興氏は推測している。読売新聞などは主要国に総局や支局を構えており、当然現地人の従業員も雇用している。国によって税制が異なるのは当然で、現地雇用の従業員に対し日本型給与体系は適用できない。だからアメリカではどういう給与体系になっていて、収入からどういう名目の控除が行われているかわかっているはずなのに、「欧米並みに課税率が引き下げられれば、ナベツネと呼ばれているような高額給与所得者が喜ぶだろう」と、読売新聞の記者たち(編集委員や論説委員も含む)と考えたのだろう。
 とりあえず安倍内閣は給与所得控除だけをやり玉に挙げて高給取りの増税を図ることにしたが、他の名目の控除については諸外国がどうしているか説明していない。読売新聞は先の消費税導入時の政府説明をうのみにして高額所得者に対する優遇税制を支持したことをいまだに自己批判していない。あとで詳しく述べるが、小林紀興氏に対して読売新聞読者センターのバカがいわれのない非難をし、あまつさえ自己批判まで要求した。悪質、という言葉はそういう行為のためにある。小林紀興氏に対し「有象無象の読者の輩」と、電話での発言は「公での誹謗中傷にあたらないから日本では名誉棄損で訴えることが出来ない」ということだけ知っている悪知恵の持ち主も読者センターにはいる。
 ついでに小林紀興氏は、ヨーロッパ諸国の付加価値税の高さについて読売新聞が子どもでも気づくはずの疑問をどうして持てないのか不思議に思っている。スエーデンなどは確かに社会福祉が非常に充実してはいるようだが、日本で20%もの消費税にしたら目を疑いたくなるような大不況に陥ることくらいは分かるはずだ。なぜ20%近い高率の付加価値税を課してもヨーロッパの景気が落ち込まなかったのか、ヨーロッパ諸国の総局や支局に勤務している記者はその理由を本社に情報として上げていないのだろうか。もし誰もそうしたことを疑問に思わないような記者だけを海外に出しているとしたら、アホを海外勤務にするという人事方針のせいなのだろうか。それともナベツネさんのために、そういうナベツネさんにとって都合の悪い情報は本社に上げないというヒラメ人間集団が読売新聞の体質なのか。

 小林紀興氏の多少八つ当たり的批判には「もう少し頭を冷やすように」と忠告するにやぶさかではないが、当裁判所が氏の主張をむげに退けるわけにはいかないのは、当時も今も変わらぬ金融機関のお行儀の悪さを読売新聞は意図的か、あるいは無能集団の故に批判できなかったのか、どちらかであることは間違いない。バブル期、大銀行の支店長や行員がデベロッパーやゴルフ場開発業者の「営業マン」になって土地やゴルフ会員権を売りまくっていた事実もある。そして金融機関の営業にまんまと乗せられたのが、消費税導入と引き換えに大幅に減税され可処分所得が爆発的に増えた高額所得者や資産家だった。
 これはその一つの例だが、バブル期ゴルフは空前のブームだった。そのためゴルフ場のメンバー(会員)であっても、なかなか予約が取れないという状態が、ぼろコースでも見られた。それを金融機関は実需が供給量を上回っていると見たようだ(最大限、善意に解釈しての話だが)。だからゴルフ場開発業者には惜しみなく融資したし、また新設ゴルフ場の会員権を銀行マンが自ら富裕層に売りまくったのだ。でも、子供でもわかると思うのだが、1千万円を超える会員権を買える人でゴルフをする人なら、すでに会員権の一つや二つくらい持っているのではないかと、なぜ考えなかったのだろうか。読売新聞の幹部記者連中(論説委員や編集委員も含む)も銀行マンから勧められてかなり高額のゴルフ会員権を買ったのではなかろうか。実は小林紀興氏自身、友人関係で新設ゴルフ場の会員権をいくつか買ったことを当裁判所に明らかにしている。そのゴ
ルフ場開発業者を活字にしたことはないということなので、「お前もアホだった
じゃないか」と言うしかないが、氏はこの「儲け話」に浅ましくも乗ってしまったことへの反省から、以下のようなバブル商品の本質的解明を行っている。
「資産的価値としてのゴルフ会員権は、他の投資(あるいは投機)対象の商品とは明らかに違う特性を持っている。他の商品は株にせよ先物にせよ、絵画と違って商品を維持するための費用はかからない。株などは、株価が値下がりしてもその会社が倒産したり赤字になったりしない限り配当を貰える可能性が高い。が、ゴルフの会員権はゴルフ場の利用価値しか本来ない性質の商品で、従って利用目的がなくても会員資格を維持するために相当額の年会費を支払わなければならない。似たような商品に不動産があるが、不動産はゴルフ会員権と同様利用しなくても固定資産税がかかるが、土地転がしによる利益獲得を防ぐための一定の法的整備がされており、利用目的がないのに不動産を購入するといったケースはゼロとまでは言わないが、そう多くはないと考えられる。
 そもそも新設ゴルフ場の会員権の縁故募集(特別縁故といったバカげた会員権もバブル期には乱発された)の金額は、基本的に預託金が90%を占めていた。たとえば1000万円の売り出し会員権であれば、900万円が預託金(一定の預託期間が過ぎれば無利息で返還することを会員権購入者に約束した金額)で、残りの10%は入会金という名目で徴収した販売代理店への手数料であった。
 ところが、よく考えてみれば新設ゴルフ場の会員権販売で集めた金が金庫の中で眠っているわけではない。すべて土地購入費(あるいは借地料)やゴルフ場造成費、クラブハウスの建設費などに費消されてしまっているのである。だから預託期間が来て会員が預託金を返せと要求しても返せないのである。ゴルフ場に限らずレジャー施設もまったく同じ預託金制度を採用しているところが大半で、バブル崩壊時には預託金返還請求の告訴が相次ぎ、被告側のゴルフ場やレジャー施設側の弁護士は常に『会員権は株と同様値上がり期待で購入したのだから、値下がりリスクは購入者が負うべき』と主張したが、そんなご都合主義的な被告側主張を裁判所が認めるわけがなく原告(会員権購入者)がすべて勝訴した。勝訴はしたが、すでに述べたようにゴルフ場会社が集めた金はすべて土地や付帯施設の購入・造成・建設費として費消されており、返したくても返せない。預託金返還請求されたゴルフ場がバタバタ倒産したのは論理的に考えれば当然至極な結果だった。そもそも、考えようによっては限りなく詐欺的行為に近い預託金ビジネスを、野放しにしてきた国に責任はないのだろうか」と。――そう主張する小林紀興氏の国家犯罪告発に対して当裁判所は権限外の事案ではあるが、氏の主張にそれなりの合理性があると認定せざるを得ない。
 さて澄田総裁の無能な金融政策によって日本経済のバブル景気は最高潮に達
していくが、政府もまた加熱したバブル景気に対してまったく有効な手を打と
うとしなかった。その点に関して当裁判所は小林紀興氏が告発した通り、日銀の金融政策、金融機関の非倫理的営業姿勢、金融機関の不健全さに付け込んで詐欺的ビジネスを展開した地上げ業者やゴルフ場開発業者、レジャー施設開発業者、そして最終的にはバブル景気が日本経済に与えることになる大打撃の結果を見るまでバブル景気の過熱を抑え込もうとしなかった日本政府の無能さには呆れるしかない。
 澄田総裁の無定見な金融政策は、大蔵省銀行局出身であったことと無関係ではない、とさらに小林紀興氏は指摘している。氏の主張の根拠はこうだ。
 官僚は自分が管轄する産業の育成、支援をしなければならないと勝手に思い込んでいる。その基本的姿勢がすべて間違っているとまでは言わないが、自分が管轄する産業が肥大化しさえすれば何をしてもいいという考え方は根本的に改めなければならないと氏は強調しているのである。確かに氏は手段と目的との関係について卓越した主張をかつて行っている。氏は自らのブログにおいてもしばしばその考えを述べているが、体系的に論じたのが『忠臣蔵と西部劇』(1992年11月に祥伝社から上梓)である。同書のまえがきを転用する。

 日本経済摩擦には、二つの側面がある。 
 一つの側面は、言うまでもなく貿易摩擦である。増える一方の日本の対米貿易黒字をどうするかという問題だ。
 もう一つの側面は、もっと根が深い。いわゆる日本的経営や行政、さらには日本社会そのものが問われているからである。
 日本社会の底流には、目的さえ正しければ手段は問わない、という考え方が横たわっている。ロッキード裁判で有罪判決を受けた全日空の若狭得治名誉会長に、同情票が集まったり、社内での人望が揺るがないのも、「会社のためにやったこと」(若狭)だからである。つまり「会社のため」という目的の“正当性”によって、賄賂という手段の“反社会性”が塗り込められてしまったのである。
 一方アメリカは目的の“正当性”より、手段の“正当性”を重視する傾向が強い。アメリカ人の目に、日本社会の構造が「米欧社会とは異質なアンフェアなもの」と映ったのはそのためである。
 こうした日米のパーセプション・ギャップ(認識のずれ)は、忠臣蔵と西部劇に象徴的に反映されている。忠臣蔵は主君の仇を討つという目的の“正当性”によって、無防備状態の敵を闇討ちにするという行為が美化された物語である。
 一方、西部劇では、目的の“正当性”だけでなく、手段の“正当性”が厳しく求められる。この、日米二つの社会の底流に横たわる価値観の対立が、日米経済摩擦の深層部を形成していると言えよう。

 実は小林紀興氏は、西部劇の世界で厳しく求められる手段の“正当性”をまえがきで明らかにするかどうかで祥伝社の故伊賀弘三良編集長とかなりもめたという。氏は明らかにしておかないと、読者が興味を持ってくれないのではないかと考えたが、編集長はまえがきで種明かしをしてしまうと買ってもらえないと主張、結局氏が折れてまえがきでは西部劇の世界で厳しく求められる手段の“正当性”については書かないことにした。本文で氏はこう書いている。

 アメリカの西部劇は、日本の時代劇と同じくストーリーは単純な勧善懲悪が多いが、西部劇には、日本の時代劇には見られない厳然たるルールが二つある。
 ●うしろから撃ってはならない
 ●丸腰の男を撃ってはならない
 この二つは、相手を殺すという目的の正邪とは関係のない、戦い方のルールである。このルールを無視すると、それだけで卑怯者、アンフェアな男、という烙印を押されてしまう。

 実は小林紀興氏は、この著書を書いた時点では対外関係においてもアメリカはフェアネスのルールを尊重していると考えていたようだ。しかし、その後のアメリカの対外経済政策、とくにTPP交渉にみられるアメリカの国家エゴともいうべき利己主義丸出しのスタンスを見ると、アメリカのフェアネスは国内だけのルールで、海外との関係においてはこのルールは無視してもよいと考えているようだ、と厳しく批判するとともに、『忠臣蔵と西部劇』を執筆していた時点ではそこまで見抜けなかったと猛反省されているようだ。読売新聞の記者たちは氏の爪の垢を貰って煎じて飲んだ方がよいと当裁判所は考える。
 それはともかく、澄田総裁の後を継いだ三重野康総裁は、澄田総裁に輪をかける金融政策の大ミスを犯す。三重野氏は日銀プロパーで、澄田総裁の下で副総裁を務めた人間である。副総裁として三重野氏はバブル過熱を懸念し、澄田総裁に何度も公定歩合の引き上げによる金融引き締めを提言したようだが、受け入れられず、1989年12月に総裁に就任したことで念願のバブル退治に乗り出した。バブル退治は当然すべきだったが、それこそ慎重に行わないと大きな問題が生じる。現実に生じた。
 三重野氏が行った金融引き締めだけだったら、その後の「失われた20年」はなかったであろうが、大蔵省(当時)と連携してとんでもない舵切をやったのが間違いの元だった。つまり日銀は公定歩合を大幅に引き上げつつ金融引き締めに舵を切り替えた。同時に大蔵省は「総量規制」と言う大ナタを振るって加熱したバブル景気を一気に冷やそうとした。
 総量規制とは、大蔵省銀行局が90年3月に金融機関に対して行った行政指導
で、不動産向けの融資を厳しく規制するものである。「土地は増えないが、土地に対する需要は伸び続ける」という「土地神話」が地価の高騰を招いたと見た大蔵省は、銀行のお行儀の悪さを「総量規制」という大ナタで封じ込めようとしたのだ。
 この時期、経済のことが何もわかっていない佐高信とかいうバカな評論家が日銀の三重野総裁を「平成の鬼平」と持ち上げたが、バブル経済を強制着陸ではなく軟着陸で退治することに成功していたら、その功績は金融引き締めを強行した三重野氏ではなく、「総量規制」によって金融機関のお行儀の悪さにメスを入れた大蔵省銀行局の土田正顕局長にこそあった。ただ金融引き締めと総量規制のダブルパンチで、バブル景気は一瞬で吹き飛んでしまった。「日銀の独立性」がある意味では逆効果になった典型である。
 その結果、日本経済を「失われた20年」が襲い、その間に日本企業の雇用関係と、インターネット社会の急速な進行によって社会のあらゆる分野での激変が生じたと小林紀興氏は分析している。
 が、この判決理由が長文になり、昨日は休廷を余儀なくされたくらいなので、この続きは明日述べることにする。

読売新聞読者センターとの最終決戦レポート――日本最大の新聞社の卑劣さを暴く②

2014-02-18 11:12:40 | Weblog
 引き続き当メディア最高裁判所は、メディア最高検察庁が起訴した第2の犯罪「安倍総理の誤解に基づく集団的自衛権行使のための憲法解釈変更を支持し、国民を欺く主張を行った罪」に対する判決理由を述べる。

 中国が領土領海拡大の野心を持って国際社会の了解を得ず軍事力の強化、とくに海上・航空攻撃力を強化しつつあることは、直接の脅威にさらされている当事国の日本、フィリッピンなどを含む東南アジア諸国にとって看過しがたい状況にあることは事実として認めるが、読売新聞が今年元日の朝刊3面の社説『日本浮上に総力を結集せよ――「経済」と「中国」に万全の備えを』は、主張の趣旨は理解できるとしても、「主張を正当化するために捻じ曲げた国連憲章解釈」を読者に強いた罪はゆるがせにできないものがあると言わざるを得ない。
同社説はこう主張している。

「日米同盟の深化(※強化と書くべき)によって、中国をけん制することも重要だ」「米国は尖閣諸島に対し、日米安保条約の対日防衛義務を定めた条項が適用される、という立場を変えていない。この条項が確実に機能するよう、米国との間で日本の役割も増強しなければならない」「安倍政権が今年末に、日米防衛協力の指針(ガイドライン)を見直すのは時宜にかなっている」「平時から有事へ、危機の拡大に応じた継ぎ目のない日米共同対処ができるよう、自衛隊の米軍支援の拡充、尖閣など離島防衛での米軍の関与拡大を打ち出したい」「集団的自衛権の行使を可能にする憲法解釈の変更に踏み切ることも、避けて通れない」「政府・自民党は。自衛のための『必要最小限の武力行使』に、集団的自衛権の行使も含める、とする新しい解釈を検討している。安全保障環境の悪化を受けて、『必要最小限』の範囲を広げるのは、十分理解できる」「集団的自衛権とともに、個別的自衛権の議論も深めたい。たとえば、偽装漁民による離島占拠という武力攻撃に至らない段階で、自衛隊は、どう対処するのか。こうした『マイナー自衛権』の武器使用の問題も詰めておく必要がある」

 小林紀興氏が展開した「集団的自衛権論」の骨子はこうである。
「集団的自衛権は国連憲章51条が国連加盟国に対して認めている『自衛のため
の固有の権利の一つ』というのが氏の主張である。国連憲章51条ではもう一つの自衛のための固有の権利として個別的自衛権も認めている。そもそも国連憲章は国際平和の実現を目指し、その第1章において、すべての国連加盟国は国際紛争を平和的に解決すること、武力による威嚇又は武力の行使を慎まなければならない、という大原則を明記している。しかし、かつて永世中立宣言が国際会議で承認されながら中立を維持するための武装をしていなかったため(非武装中立)、他国から簡単に侵略占領されたケースもあったため、国連憲章第6章で安保理に『非軍事的措置』として軍事力によらないあらゆる手段(経済制裁やスポーツも含むあらゆる分野での「村八分」政策など)を行使する権限を与えている。しかしそうした非軍事的措置でも平和に対する脅威を排除できなかった場合を考慮して、国連憲章第7章は安保理に『軍事的措置』を行使する権限を与えることにした。しかし国連安保理15か国のうち米・英・仏・ロ・中の常任5か国は拒否権を与えられているため、多数決で非軍事的措置も軍事的措置も行使できないことがありうるため、第7章の最後に51条を設けて、侵略を受けた場合に自国を防衛するための『自衛権』として、個別的又は集団的自衛の固有の権利を認めることにしたのである。日本が他国から侵略されたとして、この『自衛権』の行使について、もう少しわかりやすく書くと、まず個別的自衛とは自衛隊の出動・軍事力による抵抗の権利を意味し、集団的自衛とは自衛隊だけでは防ぎきれない場合は他の国連加盟国に支援を要請できる権利を意味している。日本の場合、集団的自衛権は日米安全保障条約によって既にいつでも行使できる状態にあり、政府の従来の解釈『密接な関係にある他国が侵略(攻撃)を受けた場合、日本が侵略(攻撃)を受けたと見なして反撃する権利』というのは明らかに間違っている」
 さらに小林紀興氏は「日本政府やマスコミはアメリカを同盟国と見なし、勝手にそう位置づけているが、同盟関係とは本来双務的な関係であり、日本が攻撃を受けたときだけアメリカに支援を要請できる権利を擁し、アメリカが攻撃されてもアメリカは日本に支援を要請する権利を持てず、日本も支援する義務を負わない、などというご都合主義的な同盟関係などありえない。アメリカにとって日本は単なる『パートナー』(キャロライン・ケネディ駐日米大使)の一つに過ぎず、ときには日本より中国との関係を重視することがあるのはそのためである。現に、アメリカが沖縄に米軍基地を集中しているのは日本防衛のためではなく、中国の領土領海拡大政策を封じ込めるための一大軍事拠点と位置付けているからである。さらに、尖閣諸島に関してはアメリカは日本の領土として認め防衛する意向を現在は示しているが、それが現時点におけるアメリカの対中関係の反映に過ぎず、いつアメリカのスタンスが変化するかは予断できない。その証拠に、日本固有の領土である竹島が韓国によって実効支配されていてもアメリカは知らんぷりだし、日本も日米安保条約に基づいて竹島奪還のための共同作戦の要請をアメリカにしていない。仮に要請してもアメリカが絶対応じないことを日本政府はよくわかっているから、下手な動きをすると日米安保条約によってアメリカが日本のために血を流してくれるときは、そうすることがアメリカの国益になるときだけだという冷厳な事実が国民の目にあからさまになってしまうことを恐れているからにほかならない。アメリカにとって間違いのない同盟国はイギリスだけであり(ひょっとするとイスラエルもそうかもしれない)、だから日本が真の同盟関係をアメリカとの間に構築するには憲法を改正して国連憲章が定める加盟国(真の独立国家)としての権利と義務を有することを明確にする必要がある」
 
 政府は日本の教科書に尖閣諸島、竹島を日本の領土と明記することを定めた。それは当然である。だが、1953年以降、竹島は韓国軍によって実効支配されている。日本政府はたびたび韓国に対して抗議を行い、国際法にのっとり領有権を国際司法の場で決めようと提案しているが、韓国側は「領土問題は存在しない」として国際法にのっとった解決を拒否している。逆に尖閣諸島については日本側が中国に対して「領土問題は存在しない」と主張して中国の主張を撥ね付けている。また北方四島についても過去ロシア(ソ連時代から)は「領土問題は存在しない」という基本的立場を崩していない。が、シベリアの資源開発には日本の協力が絶対に欠かせない状況から、ロシアのプーチン大統領が軟化の姿勢を匂わせ、安倍総理も従来の「北方四島」という呼称をやめて「北方領土」と言い換えている。
 領土問題は、このように一筋縄では解決しないのである。尖閣諸島に関しては、先に述べたようにアメリカがいまのところ「尖閣諸島は日米安保条約の対象だ」と言っているため、中国も強硬手段に出れない状態だが、竹島については「われ関せず」の姿勢だ。北方四島についてはアメリカは2010年11月2日、フィリップ・クローリー国務次官補が記者会見で「アメリカは北方領土に対する日本の主権を認めている」としたうえで、北方領土に日米安全保障条約が適用されるかについてに質問に対しては「現在は日本の施政下にないため適用されない」と語っている。
 これら三つの領土問題について検証作業を行うことは小林紀興氏も難しいとしている。ただ言えることは、竹島はかつて朝鮮犯罪人の流刑地として使用されていたが、本国との往来が困難で使用をやめたという「事実」が少し前まではウィキペディアに掲載されていた。が、この記述が、現在のウィキペディアにはない。なぜ削除されたのか、ウィキペディアも政治的独立性を維持できなくなったのかもしれない。そうなると、ウィキペディアでいろいろなことを調べることが困難ということになりかねない。ウィキペディアが「事実でないことが分かったから削除した」というなら、そのことをきちんと明記してほしい。そうでないとウィキペディアの信頼性が大きく損なわれる。ウィキペディアへの投稿は自由だが、投稿内容は厳しく審査され、問題があると思われる投稿にはその旨注意書きがされている。それだけ慎重な基準を設けていながら、竹島についての極めて重要な記載が無断で削除されたことに私はウィキペディアのために悲しむ。
 尖閣諸島については中国の言いがかりとしか思えない。確かに江戸時代、薩摩藩が幕府の了承を得て沖縄を占領して薩摩藩の版図に組み入れたことはよく知られている。当時沖縄は琉球王朝であり、中国の属国として中国の支配下にあったこと、薩摩藩の侵攻を受けた琉球王朝が中国に応援軍の派遣を要請したが、国力が弱っていた中国が、この要請を無視したことも日本人の多くが知っている。
 いま中国が、かつて琉球との往来の際に尖閣諸島を航海
の目印にしていたからと、実効支配の理由付けをするなら、大航海時代にはヨーロッパの海洋国が航海の目印にしていた場所はすべてその国の領有するところになる。そもそも朝鮮も沖縄(琉球王朝時代)もかつては中国の属国であったし、実際豊臣秀吉が大軍(日本の歴史上はじめての「日本軍」と位置付けてもいいだろう)で朝鮮侵攻を試みたとき、朝鮮の要請に応じて日本軍と戦火を交え、朝鮮を防衛したのは中国だった。かつて属国だった沖縄への渡航の目印にしていたからという屁理屈を並べるなら、朝鮮や沖縄に対し「かつては中国の属国だったのだから、現在も中国の領土だ」と国際司法裁判所に訴え出ればいい。議論の余地もなく門前払いされるだけだが…。
 北方領土についてはもっとひどい。先の大戦時、日本はソ連との間に日ソ中立条約を締結していた。日ソ両国の条約締結の背景についてはすでにブログで書いたので繰り返さないが、国益が一致したことによって条約締結に至ったことだけは覚えておいてほしい。国際条約というのは、基本的にそういうもので、国益が一致しなくなったら紙くずになってしまったケースは歴史上数知れない。「信義」とか「信頼」などという言葉は、条約においては事実上意味をなさない言葉だということを日本は戦争の最大の教訓として学ばねばならない。
 実際、日本の要請を拒絶してソ連が日ソ中立条約の延長を拒否したのは1945年4月5日で、同日、期限切れと同時に日ソ中立条約を破棄する旨を通告した。この通告により条約の自動延長(日米安全保障条約も1960年以降改訂されず自動延長が続いている)は行われず、46年4月25日に失効されることになった。そして日本が正式にボツダム宣言を受諾して連合国に無条件降伏を回答したのは8月14日である(日本の終戦記念日は、その翌日、「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」という玉音放送が行われた15日になっている)。そしてソ連は日ソ中立条約破棄を条約失効前の8月8日に条約日本に通告して対日宣戦布告をした。この条約破棄と宣戦布告は国際法上無効だと日本政府は主張している。なおその翌日9日にはアメリカが広島に原爆を投下しており、その情報をアメリカがソ連に伝えていた可能性はかなり高いと考えて不自然ではない。
 日本は9日の深夜に御前会議を開き、10日午前2時半、国体維持を条件にボツダム宣言受諾を連合国に通告した(国内では極秘)。ただしこの通告がソ連に対しても行われたかは不明。14日再び御前会議を開き、ボツダム宣言≪無条件降伏)受諾を回答。翌15日に昭和天皇が正午を期して終戦の「玉音放送」をラジオで流した。ゆえに8月15日が終戦記念日とされた。
 なお占領軍の進駐に備えて日本の内務省は18日、地方長官に占領軍向けの「性的慰安施設」の設置を命じている。また慰安婦は公募であり(応募したのは職業的娼婦と考えられる)、一般の妙齢の女性は丸刈り男装を命じられたという話も私は母親から聞いた(公的記録はない)。こうした事実が、先の大戦時の慰安婦問題の歴史的背景にあり、大阪市前市長の橋下徹氏やNHKの籾井会長の発言が歴史的事実を述べたにすぎないという証拠でもある。
 国際法上は「白旗」を揚げた時点で戦争は終結したと見なされており、「白旗」を掲げているのに攻撃を続けるのは国際法上も違法行為であることが認められている。実際、ソ連軍を除いて連合国軍は、日本政府のボツダム宣言受諾回答と同時に攻撃停止しており、占領軍の第1陣は8月28日、何のトラブルもなく日本上陸を果たしている。日本政府が米軍艦ミズリー号の甲板上で降伏文書に調印したのは9月2日。連合国側で調印したのは米・英・仏・オランダ・中国・カナダ・ソ連・オーストリア・ニュージーランドであった。ソ連もこの時点で日本の降伏文書に調印していたことに留意してほしい。
 さてソ連が日ソ中立条約を国際法に違反して日本の同意を得ずに一方的に破棄し、対日宣戦布告したのは、すでに述べたように8月8日である。その時点ではまだソ連軍は対日戦争の準備を終えていなかったようで(アメリカによる原爆投下で急きょ対日宣戦布告だけ、とりあえずしておこうということだったと考えられる)、実際にソ連軍が国境を侵犯して南樺太に侵攻したのは8月11日である。そして日本政府が正式にボツダム宣言受諾を連合国に回答したのは14日である(以前のブログで述べたようにボツダム宣言はドイツ郊外のボツダムで米トルーマン・英チャーチル・ソ連スターリンの三首脳によって作成され米トルーマン・英チャーチル・中国蒋介石の三首脳連名で日本に通告された)。
 が。ソ連はボツダム宣言受諾回答後も南樺太への侵攻を続けて25日には南樺太を占領、さらに28日から9月1日までに北方領土の択捉・国後・色丹を占領、9月3日から5日にかけて歯舞群島も占領した。こうした歴史的経緯からして北方四島が国際法に照らせばソ連(現ロシア)による違法占領地域であることは疑いを容れず、アメリカが尖閣諸島については安保条約の範囲と声明を出しながら、北方四島については口出ししないのは、日本との「同盟」(同盟関係にあると考えているのは日本人だけでアメリカは日本を同盟国とはみなしていない)より自国の国益次第では、日米安全保障条約の適用条件も変えることが明確になった。
 そうした日米関係の真実を明らかにせず、北方領土に関するアメリカの煮え切らない態度に対して、アメリカに抗議もせず、教科書に記載することがどう
いうことを意味するのかまで踏み込んだ主張をしない(するだけの知的能力が
ない ?)読売新聞の非見識ぶりが改めて明らかになったとする小林紀興氏の論理的主張には、当メディア最高裁判所もまったく同感の意を表するに躊躇する必要はないと考える。
 

読売新聞読者センターとの最終決戦レポート――日本最大の新聞社の卑劣さを暴く①

2014-02-17 06:58:48 | Weblog
 今日から、日本最大の発行部数を誇る読売新聞の読者センターとの戦いのすべてを書く。場合によっては、私は読売新聞から「名誉棄損」で告訴されるかもしれないが、私は読売新聞読者センターとのやり取りについては事実しか書かない。ま、告訴してくれれば私にとってはかえって好都合なのだが…。このブログを連載することは読売新聞の社会部に今日FAXする。どんなに圧力がかかっても私は屈しない。
 私は2012年12月、読売新聞社コンプライアンス委員会あてに、それまでブログで告発してきた読者センターとのやり取りのすべてのコピーを送付した。私はブログはワードで書いて貼り付け投稿し、ワードで書いた原本はプリントアウトしている。結果、コンプライアンス委員会はさすがに無視できなかったようで、読者センターのスタッフを総入れ替えしたようだ。おそらく責任者は部下の監督責任を問われて左遷されたと思う。お気の毒ではあるが、やむを得ない。
 昨年1月26日に投稿したブログ『読売新聞読者センターはついに「白旗」を挙げた!!』ではこう書いた。当時私は読売新聞読者センターと朝日新聞お客様オフィスにはブログ原本をFAXしていた(今は馬鹿馬鹿しいからしていない)。そのブログの内容である。
「前半は読み飛ばしていただいて結構です。4ページ目以降をお読みください。私がブログでウソを書いたのか、それとも読者センターの方2名がウソをついたのか。改めて検証願います。私にはウソを書く動機がありませんが、読者センターのお二人にはウソをつく動機があります。身内の「弁解」を信じたふりをすることは政治家だけにしていただきたいと願っています。今日午後8時過ぎNHKのクローズアップ現代を見た後電話します。どなたが電話に出られても対応できる体制をとっておいてください」
「実際8時過ぎに読売新聞読者センターに電話した。電話口に出た方はまったく聞き覚えのない若い方のようだった。私が名前を名乗った途端『FAXは読みましたが、過去のことについてはお話しできません』といきなり私の要請を拒否された。『なぜか』と聞きただしたが、『記事についてのご意見があれば伺いますが、過去の問題についてはお話しできません。記事についてのご意見がなければ電話を切らせていただきます』と、一方的に電話を切られた」
 このやり取りが、すべてを物語っている。その後の読売新聞読者センターとのやり取りの経緯をこの連載ブログですべて明らかにする。その前に、いかに読売新聞が(読売新聞だけでなくマスコミすべてだが)いかに新聞に対して読者が抱いているイメージ(たとえば「社会の木鐸」といった)とはかけ離れた存在でしかないことを証明しながら連載ブログを、裁判形式で検証しながら書くことにする。

 読売新聞に対して、小林紀興氏の告発を受けてメディア最高検察庁が起訴した内容は多岐にわたっており、当メディア最高裁判所としては検察が起訴した理由を証拠に基づき個別に検証し、個々の犯罪に対する判決理由を述べる。よって主文は最後に言い渡す。
 まず読売新聞に対して検察が起訴した第1の犯罪「軽減税率の適用を厚かましくも要求した罪」に対する判決理由を述べる。

 新年早々の1月8日、読売新聞の経済部記者・寺本暁人容疑者(44歳)が児童虐待・児童ポルノ禁止法の疑いで逮捕され、寺本は容疑を認めている。罪を認めているのに「容疑者」と書くのは、警察が犯行の動機とか、どのようにして犯行に至ったのかなど調べて容疑を固め、容疑が確定できたと判断すれば検察にバトンタッチする(送検という)。検察が再調査し、罪名と犯した犯罪に対する相当な刑罰(懲役や罰金など)の決定を求めて裁判所に起訴した時点で、「容疑者」から呼び方が「被告」に変わる。さらに裁判で懲役刑や死刑などの刑罰の判決が下されて確定し、刑務所に収監された時点から「囚人」となる。
 買春などの性的犯罪などはごまんとあるのに、すべてが明らかにされるわけではない。警察が明らかにするのは公務員(議員職も特別公務員である)や報道機関の社員、超有名企業の社員、有名人(俳優、歌手、タレント、小説家を含む著述業など)である。
 寺本容疑者を逮捕した碑文谷署によると、東京・新宿の歌舞伎町にあるラブホテルで16歳の女子高生にわいせつな行為をし、現金3万5000円を渡したという。元オリンピック金メダリストの内柴正人がカラオケ店などで酒を飲みすぎて泥酔状態になった女子大生(22歳)都政行為に及び、準強姦容疑で逮捕・起訴され懲役5年の実刑を受けたケースでは内柴被告(判決が確定するまでは「被告」、判決が確定して刑務所に収監されて以降は「懲役囚」と肩書が変わる)は「合意の上」と主張したが認められず弁護側の主張はことごとく退けられたことは読者もご存じだと思う。内柴と比べ寺本容疑者は明らかに合意の上の買春であり、悪質性ははるかに低い。が、先に述べたような理由で警察署が公表する。ま、運が悪かったと言えば言えなくもないが、44歳で読売新聞の記者ともなれば大人の分別くらいつきそうなものなのに、と思わざるを得ない。
 それにしても、寺本容疑者が女子高生に支払った3万5000円、それにホテル代も当然寺本容疑者が支払っているだろうし、一晩の快楽のためによくそんな大金が払えたものだと思う。
 これで一気に苦境に立たされる結果になったのが読売新聞だ。読売新聞は昨年春ごろは消費税増税に反対していた。「景気の腰折れ」を懸念してのことだったはずだ。だが、安倍総理が景気回復の足取りが固そうだと判断してのちは、いちおう消費税増税を容認し(読売新聞が容認しようと否認しようと、そんなことは政策に何の影響も及ぼさないのだが)、食料品などの生活必需品の軽減税率を求める主張に転換した。それはそれで自由だが、公明党などが求める軽減税率要求に便乗して、ちゃっかり「新聞も」とお上にお願いしてきた。
 だが、44歳のサラリーマンと言えば、普通に家庭があれば子供の教育費や家族全員が文化的生活を営めるための出費で懐はかなり汲々としているはずだ。それが、一晩の快楽を得るために5万円近い大金を消費できるほどの給料を、
読売新聞はこの社員に支払っていたということになる。それだけの給料を支払
えるほど儲かっている会社が、「自分たちにも軽減税率を」と、ようぞまぁ恥ずかしげもなく主張できたものだと思うのは私だけではあるまい。
 読売新聞が「新聞にも軽減税率を」と願い出たには「盗人にも三分の理あり」というべき口実はあった。15~20超%の高率付加価値税を課しているヨーロッパ諸国が付加価値税導入に際し新聞などを軽減税率対象の品目に入れているからだ。だが、その理由と現在の状況について読売新聞は報道したことがない。誰も知らないと思っているし、もし知ったら主張の根拠が崩れることがわかっているからである。それだけ、考えようによっては極めて悪質というしかない。
 ヨーロッパではなぜ付加価値税というのか。言っておくがアメリカは消費税である。政府はもちろん先進諸外国の税制を調べている。そしてアメリカの場合、消費税は州税で、州政府が税率を決めている。だから高額商品を購入する時は、自分の州で買わずに税率が安い州まで買いにゆくことすらある。そんなこと、わざわざアメリカに行って調べるまでもなく、ネット検索すればすぐわかる。私は机の前でネット検索でマスコミが自分たちの利益のために隠してきた事実を調べて読者に提供し、事実の中から何を読み取るべきかの思考方法を、おこがましい言い方をあえてさせていただくならば。教えて差し上げている。
 付加価値税と消費税の最大の相違点は消費税が基本的に税率が一律であるのに対して、付加価値税は特定の商品に対しては軽減税率を設けることが出来るという点だ。もともと付加価値税はフランスで考案され1954年から実施され、現在は世界150か国ほどが採用しているという。EU(欧州連合)が成立したとき、加盟国すべてに導入が義務付けられた。現在は付加価値税採用のすべての国に1~2種類の品目に限って軽減税率(下限は5%)の採用が認められている。
 そこで読者の皆さんに考えてほしいことは、ヨーロッパで付加価値税が導入された時代である。どういう時代だったかを頭の片隅に入れて、フランスが付加価値税導入の際に新聞を軽減税率にして優遇したかということを考えていただきたいのだ。
 ここで私は「テレビ」というキーワードでネット検索をかけてみる。まだ結果は分からない。が、おおよその見当はついている。事実として確認するためにネット検索をする。この方法を身に付けていただきたい。
 結局、やはりウィキペディアに頼ることになったが、残念ながら私が最も知りたかったテレビの歴史の嚆矢が、「テレビ」で検索しても出てこない。
 1936年 イギリスが世界最初に白黒テレビの放送を開始(この事実は「テレ
  ビ」で検索してもわからない。イギリスの公共放送「BBC」で検索しな
  いと分からない)
 1941年 アメリカで白黒テレビの放送開始
 1953年 日本で白黒テレビの放送開始
 1954年 アメリカでカラー放送開始(NTSC方式)
 1960年 日本でNTSC方式によるカラー放送開始
 1967年 ヨーロッパで独自のPAL方式によるカラー放送開始
 この年表から分かる重要なことがある。1960年に日本はアメリカで作られたNTSC方式を採用したカラー放送が開始されているのに、ヨーロッパはNTSC方式を採用せず独自のPAL方式でアメリカからは13年、日本からも7年遅れてやっとカラー放送を始めたという事実である。私は、そこでこのテレビの歴史の裏には映画文化の歴史が隠れているのではないかと考えた。で、「映画」でネット検索することにした。
 残念。やはりウィキペディアで調べるしかなかったが、映画文化の歴史を知ることはできなかった。で「フランス映画」で検索をかけてみた。かなり分かった。やっぱりね、と思った。
 ウィキペディアによれば、映画というメディアの創成期において、フランス映画の技術は世界一を誇っていた。フランスが映画を発明したためということだった。映画を発明したのはエジソン、とばかり思い込んでいたが、いろいろなキーワードで検索すると訳が分からなくなってしまった。
「フランス映画」の項目ではウィキペディアの解説は1895年にリュミエール兄弟が「シネマトグラフ」を発明し、同年リュミエール兄弟が世界初の映画作品をパリで公開したと記載しているが、「エジソン」をキーワードにして検索すると、同じウィキペディアにエジソンが1887年に動画撮影機「キネトグラフ」を発明した(実際には部下のウィリアム・ディックソンが発明)と記載されている。
 ま、発明者がどっちかは本筋の話ではないので映画史の検証作業は興味を持たれた読者にお任せするが、とにかく映画時代の黎明期から、第2次世界大戦後の全盛期への道はフランス映画が先導したのは事実のようだ。その輝ける映画史をヨーロッパが引きずってきたことが、ある意味ではヨーロッパがテレビ時代への流れに乗り遅れてしまった最大の要因になったのではないかと思う。
そう考えるとヨーロッパにおける白黒テレビの歴史が判然としなかった理由も説明がつくし、おそらく白黒テレビの世界はアメリカ勢に席巻されたであろうことは容易に想像がつく。で、日本がまだ自力でテレビ技術を開発する力をつけていず、GHQの占領下時代を経てアメリカが開発したテレビ技術を導入して受像機の生産を始め、おそらくヨーロッパに先行してテレビ放送を始めたのではないだろうか。実際、カラーテレビの歴史をそういう目で見るとアメリカから13年も遅れ、しかもアメリカが開発したNTSC方式を採用せず独自のPAL方式を開発した理由も想像がつく。1960年代には日本が高度経済成長時代に入り、NHSC方式のカラーテレビの技術開発力がどんどん向上していった時代で
もあり、ヨーロッパが遅れてNTSC方式でカラー放送をはじめたらアメリカ勢
や日本勢に市場を席巻されてしまうといった危機感を持った結果、時代の流れに竿を指してまで独自のPAL方式にこだわった理由もわかるような気がする。
 だとすれば、フランスが世界に先駆けて付加価値税を導入した1954年という時代背景が垣間見えてくる。つまり当時、ヨーロッパにおける世論に大きな影響力を持つメディアは新聞や雑誌類しかなかったのではないか。どの国でも、新税の導入や増税を国民が喜んで受け入れるなどといったことはありえない。世論の反発を抑え込むためにはメディアの協力が不可欠である。
 日本の例を見てもわかる。日本で最初に消費税導入を図ろうとした大平内閣、次いで中曽根内閣時の売上税構想を潰したのはマスコミによって形成された世論だった。今回の安倍内閣による消費税導入が、おそらく世界史上初めて国民の支持を得たのも、野田政権が「命を賭けている」とまで言って訴えた「社会保障と税の一体改革」にマスコミが国民を説得する側に回ったことの影響も小さくなかったと思う。消費税増税の支持率の中身をマスコミ各社は公表していないが、年代別にみると、おそらく若年層から高齢者に向かって右肩上がりの支持率になっているはずだ。
 フランスが付加価値税を導入した際、国民の反発を抑えるために、世論形成に大きな影響力を持つ新聞・雑誌などの活字メディアのご機嫌を取るために行ったのが、軽減税率の導入だったのではないか。生活必需品でも何でもない新聞・雑誌類に導入する軽減税制の「正当性」を政府とメディアが一体になって「文化を支えるものだから」などという詐欺まがいの口実をでっち上げたというのが、ヨーロッパにおける付加価値税制体系の筋道ではないか。フランスが付加価値税導入に、そうした手法で成功したのを見て、他のヨーロッパ諸国も付加価値税導入の際のお手本にしたと考えるのが合理的である。
 その状況証拠もある。新聞社の経営を支えているのは新聞購読料だけではない。新聞によって多少の差異はあるだろうが、広告料収入が相当部分を占めているはずだ。また新聞販売店の経営を支えているのも、新聞社からキックバックされる販売手数料より、折り込み広告の配布手数料収入のほうがはるかに大きいはずだ。またテレビやインターネットだって、というよりテレビやインターネットのほうが現代社会では国民への文化的影響力が大きくなっているが、そっちのほうには軽減税率を要求せず、新聞代金だけ軽減税率の対処品目にしろというのは、いくら何でも手前勝手すぎないか。
 よってメディア最高検察庁が起訴した第1の犯罪「軽減税率の適用を厚かましくも要求した罪」は日本最大の発行部数を誇る新聞社としてあるまじき行為と断定せざるを得ない。

自転車の走行規制から2か月余。左側走行を義務付けても事故は減らない。

2014-02-14 10:25:14 | Weblog

 まずは羽生結弦選手のフィギュアスケート(男子)ショート・プログラムでの快挙を喜びたい。世界最高の実力をだれからも認められながら、周囲の期待の大きさとオリンピックという重圧に押しつぶされた高梨沙羅選手と違い、重圧を見事に吹き飛ばした。19歳と17歳。この2歳の年齢差が二人の明暗を分けたと言っていいかもしれない。社会人になってからの年齢差、大学生の年齢差、高校生の年齢差、中学生の年齢差、小学生の年齢差、未就学児の年齢差は、それぞれ同じ2年の年齢差でも等しく見ることはできない。スポーツの世界には“たられば”は禁句だが、オリンピックが2014年ではなく2016年に開催されていれば、高梨選手は前人未到の記録で金メダルに輝いていただろう。
 そう思わせるような羽入選手の快挙だった。フィギュア(男子)のショート・プログラムで、世界の一流選手のだれもが夢見た100点の壁を軽々と超える101.45という、とてつもない大記録でトップ通過した。彼は周囲の期待とオリンピックという大舞台を、重圧と感じず、むしろ自分が楽しむための舞台を用意してくれた、と受け止めていたのかもしれない。「記録は破られるためにある」というが、101.45点という壁は、その壁を作った羽入選手は別として、彼を追う立場になった世界レベルの選手にとってはとてつもない高い壁になるだろう。羽入選手はまだ19歳。自分が作った壁が、今度は羽入選手自身が挑戦する大きな目標になった。その壁に挑戦した時、彼は初めて自分が成し遂げたことの意味を理解するだろう。

 自転車事故の急増対策として道交法が改正され、罰則付きで路側帯の自転車左側走行規制が昨年12月1日から実施された。違反に対する罰則は3か月以下の懲役または5万円以下の罰金である。この量刑に、私は何となく違和感を覚えた。そのため私が抱いた疑問を道交法改正が実施される前にブログ原稿を書いておいたのだが、さまざまな問題が発生し、その当時はブログの毎日更新はしていなかったので、投稿の機会を失い「お蔵入り」していたのだが、昨日民放のニュースショーを見ていて自転車走行のルールやマナーが守られていないことを知り、改めて問題提起することにした。当時の文体である「ですます」調のまま投稿する。

 もともと自転車は道交法で「車両」に区分されていますから、今までは罰則がなかっただけで左側走行がいちおう義務付けられていました。しかし、一方人は右側歩行がやはり道交法で義務付けられています。
 大半の人はご存じないと思いますが、私が小学校の4年生の時だったと思いますが、「車は右、人は左」から突然「車は左、人は右」に変わったのです。サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立を回復したのは1952年4月28日ですから、その2年ほど前に交通ルールが変更になったのです。これは想像ですが、おそらくGHQが日本占領体制が近いうちに終わることを見越して交通ルールを日本が敗戦する前の状態に戻したのではないかと思います。
 GHQは日本を占領下においていた時代、ほとんどすべてのルールをアメリカ式に代えてしまいました。交通ルールもそうで、実際沖縄では日本に返還されるまでは「車は右、人は左」だったことはかなりの方がご存じだと思います。もちろん、今は沖縄も「車は左、人は右」になっていますけどね。
 そんな昔話はどうでもいいと言えばどうでもいいことですが、今回の自転車の走行を罰則付きで取り締まるというなら、人に対しても右側歩行を罰則付きで取り締まらないと合理性に著しく欠けるのではないかと私は思っています。
 実は今回の道交法改正の目的について警察庁の広報に確認したのですが(※実際に道交法改正を担当しているのは警察庁ではなく国家公安委員会なのですが、国家公安委員会だけでなく都道府県の公安委員会にも絶対に電話ができません。いちおう電話帳には公安委員会の電話番号も載っているのですが、警視庁や道府県警本部の代表番号と同じで、その番号に電話しても交換がつなぐのは広報で、絶対に公安委員会にはつないでくれません)、やはり若い人の無謀な自転車運転に対する抑止力として左側通行に違反した場合は罰金を取ることにしたようです。
 私は実は70歳の誕生日を迎えた日(運転免許証の更新期限――実際には1か月の猶予期間がありますが)に運転免許証を警察署に返納しました。その理由と高齢者の免許更新制度の改善方法の提案を2年前の2008年5月10日に国家公安委員会あてに文書にして送りました(宛先に住所は警察庁の住所です)。かなりの長文なので、その部分だけを抜粋します。

 (私が満70歳になったら免許の更新をしないことを決めた理由は)健康のために通っているフィットネスクラブでのエアロビクス・レッスンに若い人のようにはとてもついていけないことから、たとえば路地から子供が飛び出したような時に、急ブレーキをかけるか、急ハンドルを切って電柱に車をぶつけても子供を避けられるかといった、とっさの正確な判断と、その判断を下す反応スピードについて自信が持てなくなったからです。
 さらに昨日娘の家に行き5歳の孫と遊んでいてまたショックを受けました。任天堂が発売して大ヒットし、テレビゲーム機の王座をソニーから奪い返したWiiのことは多分ご存じでしょう。そのWiiで遊ぶゲームでやはり大ヒットしたのがWiiフィットです。バランス・ボードの上に乗っていろいろな種類のフィットネスをする運動ゲームで、48種類ものフィットネス・プログラムが入っています。その中のバランスゲーム(8種類)が実に優れモノなのです。というのは5歳の孫がバランス・ボードの上でぴょんぴょん跳ね回り、「じいちゃんもやってごらん」と言われ挑発にのってしまったのですが、全然ついていけないのです。バランスゲームという名前から単純にバランス感覚を養うためのゲームだろうと思っていたのですが、エアロ以上に反応速度と判断の正確さが試されるゲームなのです。
 で、私の提案ですが、任天堂と共同で判断力や反応速度を3分くらいで測定できる装置を開発し、70歳以上の免許更新時には、視力だけではなく、とっさのときの反応スピードと判断力を検査項目に加えられたらいかがでしょうか。
 現在70歳を超えた人が免許の更新をする場合は民間の教習所で3時間の講習を受けなければなりませんが、本当に必要なとっさのときの反応スピードや判断力の検査は行われていません。実際に最寄りの教習所に聞きましたが、講義以外には乗車検査もあるようですが、実態は「15分ほど乗ってもらうが、ハンドルを握らせることはしていない。運転操作は教習所の教習員がする」ということでした。
 いま私の手元には交通安全白書19年版に記載された「道路交通事故」件数の推移の資料がありますが、それによると高齢者が起こす自動車事故は平成元年の3倍に達しています。一方全年齢層の事故総数は35%も減少しています。このことは飲酒運転の撲滅とともに全国の警察組織が全力で取り組むべき課題であることを意味してはいませんか。高齢者の免許更新制度の抜本的見直しを行っていただきたいと思います。

 結論から言えば、公安委員会は高齢者事故防止のための対策は何もしていません。一つだけ、高齢者講習で高齢者に実際にハンドルを握らせるようにしたことだけです。少なくとも、高齢者は運転歴が長い人が大半ですから、3時間もの長時間をかけて交通法規の講義を行う必要などまったくありません。70歳未満の人が警察署で更新手続きをする際に見る30分程度のビデオで新しい法規などの説明をすれば十分です。第一高齢者が起こす事故の大半はとっさのときにブレーキとアクセルを踏み間違えたり、ギアチェンジを間違えたりするケースです。そうした類の事故は、いくら交通法規をおさらいさせても防げるわけではないのです。こうした講義は、警察官OBのアルバイトのために続けているとしか考えられません。私が5年前に提案したように、高齢者の免許更新については判断力や正確な反射神経が維持されているかどうかをテストすべきです。そうすれば、高齢者の事故は激減することは間違いありません。

 では今回の自転車事故対策としての「罰則付きで左側走行」を強制したら、自転車事故は減るでしょうか。
 絶対に減りません。
 なぜなら、若い人たちの無謀な自転車走行は左側走行であろうと右側を走行しようと関係ないはずだからです。むしろ左側走行を強制すれば、スピードを出す若い人は後方から走行してくる車の追突を避けるために、かえってスピードを上げると思います。心理学者に意見を聞けば、間違いなくそうなると答えると思います。国家公安委員会は、無謀なスピード走行をする若者の心理を一度でも考えたことがありますか。若い人たちのクルマ離れが進んでいるなかでの道交法改正については、心理学者の意見を聞く必要があります。そもそも、そういった当たり前の発想を国家公安委員会の人たちが持っていないことが私にとっては不思議でなりません。
 さらに、もし歩行者にも「罰則付きの右側歩行」を強制するのであれば、常に自転車と歩行者は向かい合うことになりますから(歩道がない場合です)、自転車を走らせている若者も歩行者も、ぶつからないように相手を避けることが出来ますが、歩行者が左側を歩いている場合自転車は歩行者の後ろから追いかけて走ることになりますから、自転車の人は前方の同じ方向を歩いている歩行者は避けられますが(※歩行者がまっすぐ歩いている場合です)、歩行者は後ろから来る自転車には気付きませんからちょっと横にはみ出したりしたら後ろから走って来る自転車に激突される可能性は常にあります。つまり歩行者が道路の右側でも左側でも自由に歩ける状況が続く限り自転車の走行方向を罰則付きで規制しても、あまり意味がないのです。
 むしろ私が車を運転していた時代、一番事故の危険性を感じたのは前方を猛スピードで走る自転車でした。一直線に走っていれば問題ないのですが、道路の左側帯に車が駐車していた場合など、自転車はその車を避けるために道路の中央側にはみ出してきます。幹線道路などは自転車が車道を走るとそういう危険が高くなるので自転車の歩道走行を認めるようにしているようですが、肝心の歩道を歩行者は双方向から歩いてきますから、どのみち自転車が歩行者の背後から追い抜く事態は左側走行であろうと右側走行であろうと危険性は全く変わりません。
 そもそも国家公安委員会はなぜ「車は左、人は右」という交通規則ができたのかをまったく理解していないことが今回の道交法改正でよくわかりました。この規則ができた当時は道路に歩道が設置されていなかった時代です。いまでも地方に行けばかなり広い道でも歩道が設置されていない道はたくさんあります。車や人の通行量がそれほど多くないから歩道を設置しなくても事故は生じないと地元の自治体が考えているのでしょう。
 この交通規則ができたのは、車の走行方向と歩行者の歩行方向を対向させることによって、双方が前方から走ってくる車と歩行者を視覚に入れて、自ら自分の身を守ることが出来るようにするためでした。だから自転車だけを左側走行にしても歩行者が左側であろうと右側であろうと自由に歩いている状況では自転車事故の危険性は変わらず、かえって自転車と自動車間の事故が増えることになることは論理的に考えれば必然的な結論です。
 自転車事故を考える場合、自転車走行者が加害者になるケースだけを考えるのではなく、自転車走行者が被害者になるケースも含めて総合的に自転車事故を防止する対策を考えるべきだと思います。
 まず加害者になるケースは原因が若い人たちによる無謀走行が大半です(すでに述べたように警察庁の広報は道交法改正の目的がそうであることを認めています)。しかし、すでに述べたように歩行者が必ずしも右側歩行のルールを守らず警察官も取り締まったり注意したりしていない以上、自転車だけに左側走行を規制しても効果はありません。
 次に被害者になるケースは背後から走行してくる自動車に追突されるケースが圧倒的に多いのですが、その場合は自転車が左側走行しているケースがほとんどです。すでに述べたように、私が自動車を運転していたころ、一番怖い思いをするのは前方をよろよろ走る自転車を追い抜くときでした。いま車を運転されている方もそうだと思います。実際フィットネスクラブの友達と今回の道交法改正について話し合ったことがありますが、皆さん私の考えに同意されました。前方を走行する自転車に追突しそうになってヒヤッとした経験をお持ちだからです。
 こうした事故を減らすには自転車は「車両」(厳密には「軽車両」)という概念を見直し、「人」と同一視してむしろ右側走行を指導したほうが間違いなく事故は減ります。実際、70歳以上の高齢者や子供を乗せた自転車は歩道走行が許されており、すでに「人」扱いされていますし、70歳未満でも片側2車線で自動車交通量が多い幹線道路などは自転車の歩道走行が可能になっています。そうした現実的な対応を含めて総合的に考えると、自転車は人と同様右側走行を原則にしたほうが自転車事故は激減するはずです。
 そもそも自転車を車両とみなすなら、自転車にも車と同様な走行方を認めなければ論理的につじつまが合いません。具体的には信号のある交差点で右折する時、自転車は人と同じ右折方が義務付けられています。つまり前方の信号が青であれば車は対向車の走行を妨げない限り1回の青信号で右折できますが、自転車はいったん交差点を直進し、信号が変わってから右折(自転車自体はやはり直進)することになります。
 では前方が赤信号の時はどうしたらいいでしょうか。自転車はいったん停止し、信号が赤になってから交差点を渡り、また信号が変わるまで待って右折しなければならなくなります。つまり信号が変わるのを2回待たなければならないということになります。もちろん前方が赤信号の時は自転車をいったん降りて押しながら横断歩道を渡るのであれば「人」とみなされますから(オートバイも同じです。ただしバイクの場合はエンジンを切らないとダメということになっていますが、エンジンを切らずに押して歩道を渡っても取り締まる罰則はありません)信号で停止している車の前の横断歩道(道路の右側になります)を渡り、信号が変わったら、やはり自転車を押しながら道路を横断(この場合も道路の右側になります)することになります。こんなバカげた通行方法を自転車に乗る人がするわけがありませんよね。
 では実際に自転車が加害者になる事故を減らすためにはどうしたらいいか。左側走行を規制しても事故は減らないことはすでに説明しましたから、現実的な方法を考えてみたいと思います。
 左側走行であろうと右側走行であろうと、繁華街での自転車のスピード違反の取り締まりを、それこそ重い罰則付きで行うことです。すでに私が乗っている電動アシストの自転車にはスピードメーターがついていますが、すべての自転車にスピードメーターの装着を一定の猶予期間(2年くらいが妥当だと思います)を設けたうえで義務付け、歩行者で混雑する駅付近の道路や小学校の通学路で徹底的に自転車の速度違反を取り締まるようにすべきです。もちろん2年間の猶予期間の間は取り締まっても厳重注意にとどめ、速度違反した自転車走行者にはスピードメーターを早急に装着するよう説諭するのが妥当だと思います(16インチ以下の子供用の自転車は別です)。もちろん自転車メーカーは新規開発の自転車からスピードメーターを取り付けることを義務付けるのは当然で、同時に自転車にサイドミラーも装着させるようにすべきだと思います。
 実は警察庁の広報と話し合ったときに、私が「車が左側帯に車が駐車していた場合、自転車走行者は後ろから走ってくる車に追突される危険を避けるにはどうしたらいいか」と左側通行規制に疑問を呈したら「後ろを振り向いて背後を確認すればいいでしょう」とバカなことを言いました。自転車を止めて後ろを確認するならいざ知らず(そんなことをする人はまずいません。とくに登り坂では絶対に自転車を止めたりしません)、前方不注意の自転車走行をしろと言っていることを意味します。自転車の左側走行はそういう危険な走行が増えるだけです。
 法律はいったん決めたら、かえって事故が増えても「はい、すぐ変えます」とはなかなかいかないのです。実際法律ではありませんが「ゆとり教育」が実施された1980年度(小学校の場合。中学校は81年度から、高校は82年度から)の時点ですでに子供たちの学力低下を危ぶむ声はかなりありましたが、「ゆとり教育」の見直しに30年もかかっているのです。道交法改正もいったん実施してしまったら、そのくらいの期間は再改正は不可能になることを考えておくべきです。

 以上が、当時書いていながら「お蔵入り」になっていたブログ原稿である。私自身自転車事故(自損事故)を起こして、自転車は乗っている人間にとっても「走る凶器」であることを痛感した。そして「凶器」は車も自転車も「もろ刃の剣」であることも強く認識した。私が乗っているのはすでに述べたように電動アシストの自転車である。重いバッテリーを積んでいるうえ、車体自体がかなり重いのである。高い値段で売るため車体も頑丈にして高級感を出している。当然上りの急坂ではアシスト機能を使っても漕ぐのがかなりしんどい。逆に下り坂では想像以上のスピードが出やすい。クルマもそうだが、重いクルマ(重い自転車も)は下り坂では加速度がつく。そのことを理解しておかないと急な下り坂では、事故が起きやすい。
 今回の事故で痛感したことは、電動アシストメーカーも商品を高額化する方法ばかり重視するのではなく、車体重量が重くなれば、上り坂ではアシスト能力を十分に発揮できず、一方下り坂では重大な事故を起こしかねないということを知っていただきたいということと、自転車にもサイドミラー(右側だけでいい)を標準装着するようにしてもらいたい(オプションではサイドミラーがあるようだが、サイドミラーを装着した自転車を見たことがないので法律で義務付けたほうがいいと思う)。
 いずれにせよ、自転車事故を防止することは、クルマ離れが進み自転車族が増える中で重要な課題であることは間違いないので、ただ道交法改正で自転車の左側通行を規制するといった対処療法的対策は、あまり意味がないことだけ指摘しておきたい。







  
 
 

従軍慰安婦問題を解決するための安倍総理の責務は何か?(前回ブログの続き)

2014-02-13 10:33:58 | Weblog
 昨日のブログは中途半端な終わり方で申し訳なかった。今日で従軍慰安婦問題に対する決着をつけたいと思っている。
 なお昨日投稿のブログで書き漏らしたことがある。済州島での日本軍による200人の婦女を性奴隷として自ら強制連行したと告白した吉田清治氏の著書類はすべて捏造であったことが、その後、複数の済州島住民(当然だが韓国人である)によって明らかにされた。どういう意図で吉田氏が捏造までして韓国人の反日感情に火をつけようとしたのかは不明だが、彼の捏造話を真に受けて韓国人の反日感情を煽り立てた朝日新聞は、その責任をどのようにとったか。この問題はきわめて重要だが、その検証作業を続けると長くなるので、とりあえずNHKの報道問題について補足しておきたいことがある。吉田氏の捏造問題についてはそのあと続けたい。
 昨日投稿したブログは11日に書いた。いったん書き終えた後、NHKの午後6時からの10分間の総合ニュースを見て、正直戸惑った。わずか10分という短い時間の総合ニュースでかなりの時間を割いて取り上げたぐらいだからNHKの報道部門は相当重要視したはずだ。だが、その後のニュース7でもニュースウォッチ9でも在日米軍兵士の性犯罪事件についての報道はなかった。
 ところが、12日のよみうり・オンラインによれば、米軍のアンジェレラ司令官が発表した声明文がNHKの報道と微妙に違うのだ。NHKは声明文を読み上げるアンジェレラ司令官の映像まで放送しているが、情報の入手先は両方ともAP通信である。どう違うか、読者に読み比べてもらおう。
 NHK「不適切な行いに対する申し立ては真摯に受け止め、被害者のプライバシーを守りながら法律に基づいて加害者に責任を負わせている」
 よみうり「我々は被害者のプライバシーを守り、法に基づいて犯罪者に責任を課しながら、すべての不適切な行動に対する容疑を深刻に受け止めている」
 念のためAP通信の報道によると、AP通信が情報公開請求によって得た在日米軍兵士の性犯罪に対する申し立ては2005年から去年前半までに473件に上ったが、このうち米軍が軍法会議にかけたのはわずか116件で25%以下と、軍全体での割合に比べて大幅に低いことが判明した。また性犯罪で処分を受けた米軍兵士の中で詳細が分かった244人のうち3分の2は収監もされず罰金や降格、除隊などの軽い処分で済ませており、在日アメリカ軍兵士の性犯罪に対する処分は甘く、判断に一貫性もないと厳しく指摘している。
 このAP通信の報道内容についてはNHKも読売新聞も作為した形跡は感じられない。が、アンジェレラ司令官が発表した声明文の翻訳は、NHKと読売新聞ではまったく違う。特に後半部分でNHKは「法律に基づいて加害者に責任を負わせている」と、AP通信の指摘を真っ向から否定している。それに対し読売新聞は「法に基づいて犯罪者に責任を課しながら、すべての不適切な行動に対する容疑を深刻に受け止めている」と、AP通信の指摘を認めている。なぜNHKはアンジェレラ司令官声明の最後の部分をカットしたのだろうか。
読売新聞がアンジェレラ司令官の声明文の最後の部分を勝手に付け加えることはありえないから、NHKが何らかの理由で配慮したとしか考えられない。
 私が検証できるのはここまでで、なぜNHKがアンジェレラ司令官の声明の最後「すべての不適切な行動に対する容疑を深刻に受け止めている」(読売新聞の訳)をカットしたのかは読者自身の推測にお任せするしかない。

 吉田清治氏の「慰安婦強制連行」捏造問題に戻る。
 吉田氏がはじめて捏造著作を上梓したのは1977年で『朝鮮人慰安婦と日本人 元下関労務動員部長の手記』(人物往来社から出版)であった。「日本軍人が朝鮮女性を強制連行して慰安婦にし、自らも軍令で済州島で強制連行に加わった」という衝撃的な内容だった。このような自らの犯罪行為を、自ら進んで告白した場合、だれもが信用したくなるのは人情としては分かるような気がする。吉田氏自身が「自白」によって得るものは何もないと考えても不思議ではない。私自身、当時同書を読んでいたら、「吉田氏は立派だ」と思ったかもしれない。またいわゆる進歩的文化人は「よくぞ書いた」と激賞したようだ。
 さらに吉田氏は5年後の82年に在韓コリアンの樺太残留者帰還請求訴訟でも、済州島の朝鮮人奴隷狩りを証言している。また翌83年には『私の戦争犯罪―朝鮮人強制連行』(三一書房)を上梓し、同年自費で謝罪碑を建てるため訪韓すらしている。朝日新聞は83年11月10日の朝刊「ひと」欄で吉田氏の謝罪碑活動を紹介、そのころから韓国でも吉田氏の著作についての裏付け調査が始まったようだ。そして肝心の慰安婦狩りの舞台とされた済州島では現地の韓国人による否定証言が多数出た。
 このとき、朝日新聞はことさらかどうかは分からないが、現地で沸き起こった吉田証言に対する疑問の声をまったく無視してしまった。そのため、当時のマスコミは吉田氏の告白を「真実の証言」と思い込み、争うように吉田氏への取材を通じて「従軍慰安婦強制連行」の捏造証言を積み重ねていく。吉田氏の活動を全面的にバックアップしたのが朝日新聞と日本共産党機関紙の赤旗だったことは偶然の一致だろうか。
● 91年5月22日、朝日新聞大阪版が吉田氏の「木剣ふるい無理やり動員」
  発言を掲載
● 91年10月10日、朝日新聞大阪版が吉田証言「慰安婦には人妻が多く、し
  がみつく子供を引きはがして連行した」を掲載
● 92年1月23日、朝日新聞で連行した朝鮮人女性は950人と証言
● 92年1月26日、赤旗で連行した女性は1000人以上と証言
● 92年5月24日、朝日新聞で男女6000人を強制連行と証言
● 92年8月8日、ニューヨークタイムズは吉田氏の「2000人の朝鮮人女性
  狩り」証言を報道
● 92年8月12日、毎日新聞は吉田氏が1000人徴用したと報道
● 92年8月15日、読売新聞は100人の朝鮮人を海南島に連行と報道
● 92年11月14日、赤旗は吉田氏が最低950人、多くて3000人の朝鮮人女
  性を強制連行したと報道
● 97年3月31日、朝日新聞は吉田証言の真偽は確認できないと報道(ただ
  し朝日新聞はいまだに訂正記事を出していない。訂正記事を出せば、読者
  の信頼を失うとでも思っているのだろうか。それとも訂正記事を出すと責
  任問題で社内が大混乱に陥るからなのか。ま、いろいろなことが考えられ
  るとしか言いようがない)
 朝日新聞が吉田証言を「真実」と錯誤して「ひと」欄で吉田氏の謝罪碑建立活動を報じたのは83年11月10日である。朝日新聞の従軍慰安婦問題についての誤報はこれだけではないが、とりあえず吉田「証言」についてのみ検証した。
 吉田氏の著作や朝日新聞の報道は韓国でも大きく報じられた。吉田氏の著作が韓国で翻訳出版されたのは89年だが、同年8月14日には済州島の地方紙「済州新聞」が現地住民の取材によって吉田氏の「従軍慰安婦狩り証言は事実無根」と報じている。この記事の中で済州島の郷土史家も「83年に日本で出版されて以来数年にわたって追跡調査したが、吉田証言は捏造である」と断定し、「この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」とこき下ろした。
 が、済州新聞による吉田証言に対する否定記事は、92年になって日本の歴史学者が現地の図書館で発見し、日本に紹介するまで日本で知られることはなかった。朝日新聞や赤旗は現地取材で吉田証言の真偽を確かめるというジャーナリズムとして絶対欠くことができない基本的スタンスを放棄して吉田証言をあたかも真実のごとく振りまき、韓国人の反日感情をあおり続けた。朝日新聞には韓国人読者が多いからだろうか。
 これはいわれのない朝日新聞に対する「嫌味」ではない。私は何人かの朝日新聞お客様オフィスの社員に「もし、先の大戦時、報道の自由が保障されていたとして、朝日新聞が大本営発表に対する批判記事を掲載し、日本軍が苦戦していることを報じていたら(※日本軍が苦戦しており、大本営発表がウソだらけだということは朝日に限らず新聞社は外電で分かっていた)、朝日新聞はどうなっていたか」と尋ねて見たことがある。「仮定の質問には答えられません」という返事が多かったが、かなりの社員が「読者(当然日本人)から見捨てられ朝日は廃刊になっていたかもしれませんね」と本音を漏らした。私はかつてブログで「スポーツには“たられば”は禁物だが、歴史検証には絶対に“たられば”の視点を欠かしてはダメだ」という趣旨のことを書いたことがある。この“たられば”の視点を持たずに先の大戦における新聞が果たした役割を検証すると「軍部の圧力に屈した」という責任回避の「自己批判」になる。実際には軍国主義思想に染まりきった日本国民の「愛国心」に新聞はおもねただけなのだが、肝心の新聞記者が“たられば”の視点を持たないから、いまだにどうやったら読者におもねる記事を書くかだけしか考えていないのだろう。
 念のため、先の大戦で読者におもねて、国民全体の愛国心や軍国主義の風潮を育ててきたのは軍部ではなく新聞社だった(ラジオは当時庶民にとって高根の花だった)。歴史家やマスコミは日本が軍国主義一色に染まったのは2・26事件が嚆矢と解釈しているが、たとえそうだったとしても2・26事件を起こした青年将校たち(反乱部隊の指導者)は全員死刑に処せられている。その犯罪者たちを「愛国者」と報じ、英雄視したのはどこの誰だっけ…。
 そもそも日清・日露戦争に勝利しながら、戦後賠償として獲得した領土の一部を、欧米列強の干渉によって返還した政府を「弱腰外交」と決めつけ、日本国民に広く軍国主義思想を根付かせていったのはどこの誰だったか。
 言っておくが、日清・日露戦争当時も、2・26事件(1936年)も報道の自由は完全に保障されていたし、日本を代表するプロレタリア作家・小林多喜二氏の代表作『蟹工船』が発表された1929年には、その作品を題材にした演劇が帝国劇場で公演されたほどだった。この辺で大新聞の「表の顔」と「裏の顔」についての検証はとりあえずやめておく。話がどんどん横道にそれていくからだ。
 
 さて吉田清治氏の捏造証言と、それを真に受けた朝日新聞の報道によって韓国国民の間で次第に従軍慰安婦問題を巡って反日感情が高まっていく。火種をまいた吉田氏が自ら自著のねつ造を認めたのは1995年になってからである。その2年後にようやく朝日新聞はすでに述べたように「吉田証言の真偽は確認できない」との記事を掲載したが、訂正記事はいまだに出していない。
 2007年に安倍晋三首相(第1次内閣)は国会で「虚偽と判明した吉田証言以外に官憲の関与の証言はない」と答弁したが、韓国側はいまだに吉田証言を根拠に謝罪と賠償を求めている。
 韓国政府がいつまでもこの問題を蒸し返して国民の反日感情をあおり続ける
のは、それなりの国内事情があるのだろう。すでに述べたように吉田証言が捏
造であることを暴いたのは韓国・済州島の地元紙である(89年8月14日)。にもかかわらず92年7月31日に韓国政府が発表した「日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書」でも吉田氏の著書を証拠として採用し、その後も修正していない。96年の国連クマラスワミ報告(女性への暴力特別報告書で日本軍による従軍慰安婦強制連行問題も報告された)でも吉田証言は証拠として採用されている。さらに今世紀に入っても朝鮮日報は12年9月5日、吉田氏の著書を取り上げ「この本一冊だけでも日帝の慰安婦強制連行を立証するのに十分」と主張した。
 こうした状況の中で、日本政府は韓国側の誤解を解く努力はほとんどしていない。それどころか、いわゆる「河野談話」の先触れとして宮沢首相が92年1月に訪韓した際も、吉田氏の著書が捏造であったことを知ってか知らずか分からないが首脳会談でひたすら謝罪し「真相を究明する」と約束までした。そしてその約束を実行したのが翌93年8月4日に宮沢内閣が発表した『いわゆる従軍慰安婦問題について』という報告書であった。この報告書を発表する際に、河野洋平官房長官がコメントを出した。それが後々まで問題になった「河野談話」である。その全文を掲載するのも煩わしいので、問題になった部分だけを要約する。
「調査の結果、軍当局の要請により長期かつ広範に慰安所が設置され、多くの慰安婦が存在した。慰安婦の募集については軍の要請を受けた業者が主として担当したが、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、官憲等が直接加担したこともあった。また慰安所における生活は強制的な状況下で痛ましいものであった。当時の軍の関与の下に多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」
 この河野談話について「事実に基づいていない」という批判は当時から提起されていた。従軍慰安婦の存在自体を否定する主張はさすがにほとんどなかったようだが、問題は「軍の関与」を巡っての激しい批判が飛び交った。河野談話には「軍当局の要請により」とあるが、その証拠となるもの(軍が発行した要請文の類)が実は見つかっていないのである。さらに「軍」とはどの単位を意味するのかという問題も指摘された。少なくとも「軍当局」と表現されると日本軍の最高司令部門である「大本営」を意味すると解釈されても仕方がない。
 沖縄の集団自決問題もそうだが、読売新聞の調査によれば沖縄駐留部隊が点在した多くの町村の中で、部隊によって(部隊長か部隊の一部の兵士の勝手な行動だったのかは確認しようがないが)集団自決を強制されたのは2件だけだったという。
 こうした問題は、「個」と「全」という古くからの哲学の分野での未解決な関係の問題でもある。この問題は古くから「個人主義」思想が根付いてきた西欧で常に問題にされてきたことで、日本人の考え方にはあまりなじみがないということも背景にはある。だから河野氏はあまり深く考えずに、反省と謝罪の念を強く示そうとして「軍当局」といった「組織的行為」を意味する言葉を使ってしまったのだろう。
 実際には、当時の日本軍は兵士の行動に対して極めて厳しい規律を求めてい
たようだ。当時の戦争には略奪とレイプはつきものだったが、日本軍兵士の行動についてはそうした海外からの非難はまったくない。
 実はネット検索すると、なぜか米兵の性犯罪行為のケースばかりが出てくるのだ。すでに述べた直近のAP通信による在日米軍兵士の性犯罪に対する処分が他国での性犯罪に対する処分に比べ著しく甘いといった指摘もそうだし、先の大戦でヨーロッパの戦局を大きく動かしたとされる米海軍によるノルマンディー上陸作戦の成功後、米軍兵士が敵国ではないはずのフランス女性をレイプした事件が多発し、米兵による買春も公然だったという事実を米ウィスコンシン大学のメアリー・ロバーツ教授が明らかにしている。
 また日本政府がボツダム宣言を受け入れて無条件降伏し、連合国軍(実態は米軍)が日本を占領した際、妙齢の女性は断髪して男装したという話もある。もちろん米兵のレイプから逃れるためだが、これも日本政府が妙齢の女性たちにそうした指令を出したという記録は残っていないから、なんとなく町内会などの単位で広まった行為だったのではないかと思う。
 このとき日本政府が米兵の性犯罪防止(というより日本女性の保護)のためにとった政策として、連合軍兵士のための慰安所を設立したことは明らかになっている。「特殊慰安施設協会(RAA)と称し、最盛期には7万人、閉鎖時にも5万5千人の女性が慰安婦として米兵による性犯罪の防波堤になった。それでも米兵による性犯罪は生じ、米軍の上陸直後の1か月間だけでも最低3500人以上の女性が米兵による性的被害を受け、その後も194年に283人、48年265人、49年312人の被害届が確認されている。当時の状況から考えると、被害届を出すということはよほど特殊なケースで、一般女性はほとんど泣き寝入りしたと思われる。
 そうしたもろもろの状況を考えると、あるいは大本営が日本軍の占領地で日本兵がレイプなどの性犯罪に走るのを未然に防ぐため、証拠として残らないような形で(口頭など)慰安所の設置を暗黙に認めていた可能性は否定できない。その場合、売春女性がもともと多い都市部などでは、おそらく慰安婦公募は日本側のより取り見取りだっただろうし、たまたま寒村部に配置された部隊にとっては慰安婦を集めることは容易なことではなかったと思う。そうした場合、あるいは朝鮮女性を兵士たちが無理やり連行し、部隊長も見て見ぬふりをしただろうことは容易に推測がつく。
 実際問題としては慰安婦になった朝鮮女性たちの証言はいろいろあり、「日本
人は金払いがいいから儲かった」と証言する女性もいれば、「日本兵士に強制連
行されて性の奴隷にされた」という証言もある。なかには進んで慰安婦になっていながら賠償金目当てに「強制連行された」と言い張る元慰安婦もいるようだ。こうした類の「証言」は本人か、真実を知りうる立場にいた人間にしかわからない。
 最近大きな話題になったケースでゴーストライターだったと名乗り出た人がいる。桐明学園大学音楽学部の非常勤講師の新垣隆氏で、「現代のベートーベン」と称賛されていた「全ろう」の「作曲家」佐村河内守氏の作品はすべて新垣氏の手によるものだったことが明らかになった。佐村河内氏の「全ろう」や「作曲家」としての才能を疑っていた人もいたようだが、新垣氏が「私が作っていました」と名乗り出るまで18年間にわたり20曲以上を彼は佐村河内氏のために作曲してきたという。ほんの直近まで、多少疑いの目を向けていた人はいても、確たる証拠もないのに「おかしい」と指摘することは非常に難しい。
 つい最近までもそういうウソがまかり通っていたくらいだから、慰安婦問題の真相はいつまでたっても闇のなかだろう。日韓首脳会議で胸襟を開いて従軍慰安婦問題を解決したいと願う安倍総理としては、まず韓国側に吉田清治氏が捏造した「事実」を根拠にするのはやめていただきたいということをはっきり主張すべきだろう。そのうえで1965年に締結した日韓条約には反映されていなかった、つまりその時点では明らかになっていなかった諸問題については従軍慰安婦問題に限らず、事実が明らかになった時点で新たに日本が負うべき責任があるとすれば、日本政府は誠意をもって問題解決に当たると約束してほしい。いつまでも「賠償問題は解決済み」という姿勢では朴大統領も、韓国の国内事情から「はい、そうですか」とは言えないことくらいは安倍総理も承知しているはずだ。
 もう一つ、日本軍の一部の部隊や兵士たちの不法行為は、日本政府も犯罪行為とみなしており、もし当時そういう不法行為が見逃されていたとしたら今からでも可能な限り調査して、しかるべく措置をとると約束すれば、朴大統領の顔を立てながら「日韓ののど元に突き刺さったとげ」を引き抜くことができるのではないか。事実を明らかにすることはもちろん大切だが、差し当たっては従軍慰安婦問題は日本にとっても深刻な問題であり、何年かかろうと真実を明らかにして償うべきは償う、という姿勢を見せれば、韓国の反日感情はウソのように消えていくと思う。それが安倍総理の最大の責務だ。