小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

加計学園問題を解くカギはこれだーー野党議員やメディアが見過ごしてきたこと。

2018-05-29 05:58:10 | Weblog
 これから述べる推論は、ほぼ99%当たっていると思う。
 2015年2月15日、安倍総理が加計孝太郎氏と面談し、愛媛県今治市に国際水準の獣医学部を新設したいという計画を聞き、「いいね」と賛同したことは99.99%事実だろう。
 そのこと自体は犯罪でもなければ、総理が加計氏の計画に賛同したからといって、そのことが直接その計画に便宜を計らったということも意味しない。
 愛媛県は前知事の加戸氏の時代から、四国に獣医師が少ないこと、何とか愛媛県に新しい獣医学の大学を誘致したいと考えて国(厚労省や文科省)に嘆願してきたことも事実として明らかになっている。が、獣医師の増加による過当競争を恐れた獣医師会と、その圧力を受けた政治によって、愛媛県の要望はつねに跳ね返されてきた。
 愛媛県は獣医学系大学の新設について、当然事業者にもあたりをつけていた。すでに加戸氏の国会での発言から明らかになっているが、たまたま愛媛県の担当者が加計学園の実力者と懇意で、その関係からとんとん拍子で加計学園が愛媛県に獣医学部を新設するという計画を立てた。が、獣医学系大学の新設には国の承認がいる。大学には税金が投入されるからだ。そして獣医師会の不当な圧力によって、この計画は何度も頓挫させられてきた。言葉が妥当かどうかは知らないが、「岩盤規制」によるとされている。
政治の力に対抗するためにはそれに上回る政治力を利用するしかない、と加計氏が考えたのは事業家として当然の発想である。加計氏が、アメリカ留学時代からの「刎頚の友」である安倍総理に、藁をもつかむ思いで助力を願い出たとしても、そのこと自体を責めることはできないと思う。
愛媛県と今治市は、過去、獣医系大学の新設について構造特区の制度を利用しようと考えてきた。が、安倍・加計会談の直後から、愛媛県と今治市は計画を変更する。構造特区から国家戦略特区の適用申請にかじを切り替えたのだ。国家戦略特区プロジェクトのトップは安倍総理自身だ。この会談のとき、総理が加計氏に「構造特区から国家戦略特区に切り替えたらどうか」というサジェッションがあったかどうかは不明だが、それに近いアドバイスはあったと思う。その程度のことは、友人関係にあろうとなかろうと、それほど目くじらを立てるほどのことでもあるまい。
問題はその直後に生じた。5人の総理秘書官の中で国家戦略特区のキーマンである柳瀬秘書官(当時)が、「面談したのは加計学園関係者だけ」と国会で述べている。国家戦略特区プロジェクトは特区(特定の地域)を指定して新しい産業を育成しようというプロジェクトで、アベノミクスの目玉経済政策の一つだ。経産省出身の柳瀬氏がキーマンになったのは、そのためだ。
柳瀬氏が乗り出すまでは、愛媛県は構造特区を利用しての獣医学系大学誘致計画しか考えていなかった。が、柳瀬氏が乗り出したことによって愛媛県はかじを切り替え、国家戦略プロジェクトへの申請を目指す。
ここでメディアや野党がほとんど関心を払ってこなかった、極めて重要なポイントを書いておく。柳瀬氏は国会で、このプロジェクトの関係者と3回面談したと発言している。問題は、柳瀬氏の念頭には加計学園関係者のことしかなく、加計学園関係者との面談の席に愛媛県や今治市の職員がいたことは気付かなかったと再三にわたって述べていることだ。
前にもブログで書いたが、国家戦略プロジェクトの主体はあくまで地域である。「こういう新しい産業を興して地域経済を振興したい」という地域の申請を受け、内閣府のプロジェクト担当部門で妥当かどうかを検討する。もちろん、認定するときには新産業の担い手である事業者についても裏付けや十分な資格があるかを慎重に検討するだろう。が、あくまで国家戦略特区プロジェクトの主体は地域であり、いきなり事業者がプロジェクトのキーマンと面談してアドバイスを受けるといったことは、本来ありえない話だ。
が、キーマンの柳瀬氏の念頭には事業者の加計学園担当者のことしかなく、3回も面談していながら肝心の事業主体である地域(愛媛県と今治市)のことは頭の片隅にもなかったという紛れもない事実がある。そのことは柳瀬氏本人が口を酸っぱくするほど語っているのだから、少なくとも柳瀬氏にとっては「加計ありき」であったことは否定の仕様がない。
そして柳瀬氏と加計孝太郎氏をつないだのも安倍総理であることがはっきりしている。例の内輪のバーベキュー・パーティが、おそらくそのために設けられたのだと思う。そして、そのときから柳瀬氏の念頭には「加計ありき」がこびりついたのだと思う。柳瀬氏の念頭から肝心の事業主体である愛媛県や今治市のことがすっぽり抜けていたという事実が、そのことを何よりも雄弁に物語っている。
柳瀬氏が、彼の記憶によれば「加計学園関係者との最初の面談は15年2月か3月」ということだ。しつこいようだが、同席した愛媛県や今治市についての記憶は彼にはない。
2度目の面談は4月20日。この時も同席した愛媛県や今治市についての記憶はない。
1回目と2回目の面談で、柳瀬氏は愛媛県や今治市の担当者にではなく、加計学園関係者にどういう話をしたのか。そのことを野党は国会で追及しなかったようだ。野党議員の頭には「加計ありき」を何とか証明したいということしかなかったからではないか。
99%以上の確信をもって推測するが、1回目の面談で柳瀬氏は国家戦略特区申請の手続きについて説明したと考えられる。本来国家戦略特区プロジェクトへの申請は愛媛県なり今治市が行うことであり、一事業者に過ぎない加計学園が行う話ではない。が、この時点で柳瀬氏の頭の中には、加計学園の獣医学部新設計画をどうやって国家戦略特区プロジェクトに押し込められるかということしかなかったのだろう。
2回目の面談は4月20日。おそらく愛媛県と今治市は国家戦略特区プロジェクトへの申請書類を作成して、柳瀬氏の指導を仰いだと考えられる。ただ、いつの時点からかは不明だが、少なくともこの時点では愛媛県も今治市も表舞台から降りることを決めていたと考えられる。愛媛県や今治市という地域が表舞台で正面突破するより、加計学園を主役にして計画を進めたほうが得策と考えたと思う。この時点で愛媛県や今治市が筋を通していれば、その後の混乱は最小限にとどめることが出来たのではないか。
6月愛媛県と今治市は国家戦略特区プロジェクトに正式申請する。この前後に柳瀬氏は加計学園関係者と3回目の面談を行ったという。加計学園側からすると、ここまでこぎつけられたのは柳瀬氏のおかげという意味を込めた「お礼もうで」だったのだろう。ここに至っても、柳瀬氏の念頭から地域主体という国家戦略プロジェクトの本来の在り方が、すっぽり抜け落ちていたと思われる。
12月、広島県・愛媛県今治市が国家戦略プロジェクトの第3次認定に合格した。このブログで、これ以上書く必要はあるまい。


日本の国益重視の対北朝鮮外交を考えてみた…アベさんのトランプ・ベッタリは間違いだ!

2018-05-26 06:24:10 | Weblog
 米朝会談の行方が不透明になった。
 トランプ米大統領はこれまでも北朝鮮・金委員長を持ち上げて見たり、罵倒してみたり、主にツィッターで北朝鮮との交渉で様々なブラフを操ってきた。「正直」であることを美徳としてきた日本では、メディアや政治家がこうしたブラフをまともに受け止め、その都度右往左往してきた。
 ブラフは通常、言うなら「振り上げたこぶし」である。あるいは日本刀の「鯉口を切ったり、締めたり」といった行為に近い。振り上げたこぶしは、頭上で
振り回して相手を威嚇したり、少し緩めて相手の譲歩を引き出そうとしたりすることで交渉を有利に進めるための駆け引きである。鯉口も切ることで相手を威嚇し、交渉を有利に進めようとする行為だ。
 だが、振り上げたこぶしも、鯉口を切る行為も、そこまでがブラフの限界だ。振り上げたこぶしを打ち下ろしてしまったり、刀を抜いてしまったら、ブラフによる交渉は終わりで、「俺に従うか、それとも戦うか」という最後通告、あるいは宣戦布告に代わる。打ち下ろしてしまったこぶしや抜いた刀は、相手が服従しなければ、実際に戦いで決着をつけるしかなくなる。
 24日、トランプ大統領が、とうとうブラフの限界を超えた。6月12日にシンガポールで開催を予定していた米朝会談の中止を金委員長に文書で通告したのだ。はたせるかな、いったん北朝鮮はトランプ文書に猛烈に反発したが、25日になって態度を急変させ、トランプ大統領に翻意を「懇願」した。
 米朝トップ会談は、もともと北朝鮮側の念願だった。北朝鮮にとっての最大の政治的懸案は金体制の安定と継続である。それを確保するには「内敵」と「外敵」による体制崩壊を未然に防ぐことが最重要な課題となる。「内敵」は国内の政権に目障りな重要人物の粛清や反体制派への弾圧でつぶすこと。これは共産主義体制の国に限らず、アメリカの同盟国でも独裁国家の常套手段である。「アメリカの同盟国でも」と、わざわざ書いたのは、アメリカがしばしば人権問題で他国を非難する場合、アメリカと敵対関係にある国や非友好国(アメリカの同盟国と敵対関係にある国を含む)に限られている。アメリカの友好国の場合は、人権無視の独裁体制でも知らんぷりだ。実際、ベトナムで独裁体制を築き、人権無視の反体制派弾圧を繰り返してきたゴ・ジェンジェム政権を守るために、アメリカは自国兵士の血を大量に流したこともあった(ベトナム戦争)。

 ここで私の立ち位置をはっきりさせておく。私は北朝鮮の独裁体制を擁護するつもりなど毛頭ないし、北朝鮮の核やミサイルが日本の安全保障上の問題にならないようにするためには、そしてまた拉致問題の完全解決を実現するには、日本政府はどういう政策をとるべきかを最重要視している。
 そのうえで、トランプ大統領の「米朝会談中止決断」を支持し、賛意を示した日本政府は、本当に日本の国益を最優先しているのかという疑問を呈さざるを得ないと考えている。
 もし、本当に「ブラフ交渉はもう終わりだ。力で決着をつけよう」というトランプ大統領の最後通告(もっとも、交渉再開の最後のチャンスは与えていたから、宣戦布告にまでは至っていないが)に北朝鮮がそれまで強がっていたように、金体制の存続をかけて「核戦争辞さず」の態度に出る可能性は無視できなかった。日本がかつてアメリカの最終的ブラフの「ハルノート」を最後通告と解釈して無謀な対米戦争に突入したように…。
 幸い、金委員長は旧日本陸軍のようにバカではなかった。北朝鮮側のブラフが通用しなくなったと判断して対米交渉の姿勢を大きく転換した。金委員長はまだ若いが、トランプ大統領が評価しているようにかなり頭がいいようだ。そもそも平昌オリンピックを契機に一気に南北融和の機運を作り、文・韓国大統領との首脳会談を実現して南北融和への道を開いた外交力は、世界各国の首脳の中でもトップクラスと評価してもいいだろう。
 日本のメディアは二人の親密な関係の演出ばかりに目を奪われているが、実はそれ以上に金委員長の手腕で驚嘆すべきことがあった。それは南北首脳会談に自分の身内だけでなく、軍の幹部二人を連れて行ったことだ。先に独裁政権にとって「内敵」をいかにつぶすかが重要なテーマであることは書いたが、金委員長は権力の座を脅かしかねない(脅かそうとしていなくても、将来その可能性が否定できない)重要人物は、肉親ですら粛清したり暗殺したりして排除してきた。あと残るのは「反体制派」である。そして最も怖いのは軍が反対制になることだ。いまのところ軍は金体制に忠実であり、クーデターの心配はないと思われるが、金政権が従来の対韓・対米政策を大きく転換した場合、それまで対韓・対米のためにひもじい思いをしながら戦意を高揚させてきた軍が、一気に不満を爆発させる可能性を金委員長は恐れたのだと思う。だから軍のクーデターを未然に防ぐために、あえて南北融和への道筋を作る南北会談に同行させ、トップ級会談にも同席させて南北融和進展の責任を一緒に負わせることにしたのではないか、と私は推測している。
 そこまで周到な金委員長だったが、それでも計算を間違えることもある。対北強硬派のペンス・米副大統領を無能呼ばわりして、トランプ大統領から譲歩を引き出そうとしたことだ。これが、トランプ大統領を一気に硬化させてしまった。
 金委員長にしてみれば、韓国の文大統領を引き寄せ、中国の強力なバックを得ることにある程度成功したことで、米朝会談を有利に進めることが出来ると計算したのだろう。その場合、最大の障害になる可能性があったペンス氏の力をそぐことで、米朝交渉を一気に北朝鮮ペースに持ち込もうとしたのだろう。それが裏目に出た。アメリカが今年中間選挙を控えており、トランプ氏が大統領再選を果たすには中間選挙での攻防は極めて重要である。トランプ大統領にとっては、何がなんでも米朝会談を成功させノーベル平和賞の候補になることで、なかなか上向かない支持率を一気に引き上げるために、ある程度譲歩に応じるだろうと読んだのだろう。
 実際、その作戦はある程度成功しつつあった。北朝鮮側に「核とICBMの即時完全廃棄」を絶対条件にしていたトランプ氏が、北朝鮮の条件(段階的廃棄)を条件付きで認めることを示唆しだしたからだ。
 残る大きな対立点は二つある。
 一つはアメリカが(日本も尻馬にのって)「北朝鮮の非核化」を要求しているのに対して、北朝鮮は一貫して「朝鮮半島の非核化」を主張して譲らないことだ。韓国は、日本と同様、核は持っていない。韓国駐留の米軍基地に配備されていた核も、いちおう撤去されたことになっているが、実態は不明だ。北朝鮮は米軍基地にまだ核が配備されていることを疑っているか、あるいは諜報活動によって配備されていることをキャッチしているのかのどちらかだと思う。そう北朝鮮が考えても無理はないと思える要素もある。本当に韓国の米軍基地に核が配備されていないのなら、トランプ大統領も北朝鮮の「朝鮮半島の非核化」に同意しても差し支えないはずなのに、また文大統領も同意しているのに、頑として「朝鮮半島の非核化」には同意しない。やっぱり韓国の米軍基地にはひそかに核が配備されているのか、という疑問を私も持たざるを得ない。
 もう一つの懸案は「金体制維持の保証」である。これは米朝交渉の大きな壁として表面化しているわけではないが、私が金委員長だったら、という仮定で論理的に考えてみた。トランプ大統領は「核の完全かつ不可逆的な廃棄」と引き換えに金体制の維持を保証すると主張している。北朝鮮が核を完全に不可逆的に廃棄すれば、本当にアメリカは(ポスト・トランプ後も)金体制の維持を保証してくれるのかという不安を、金委員長が持つのは自然である。私が金委員長だったらアメリカに「金体制維持の不可逆的保証」を、「核の完全かつ不可逆的廃棄」との引き換えに要求する。この問題は、まったく表面化していないが、おそらく水面下では厳しい駆け引きがあるのではないか。
 この二つさえ着地点を見いだせれば、米朝会談は間違いなく大成功に終わるし、日本にとっての安全保障上の最大の懸案も一気に解決する。日本には「北朝鮮がICBMを廃棄しても中短距離ミサイルがある以上、日本にとっての安全保障上の問題は解決しない」などとしたり顔で主張する向きもあるが、ミサイルに搭載される核がなければ、ミサイルは爆弾を搭載していない爆撃機と同じ単なる飛行体に過ぎない。むしろ日本が必要以上に北朝鮮や中国の軍事力を安全保障上の脅威と騒ぎ立てて、「戦争が出来る条件を緩和」(集団的自衛権の行使容認のこと)したり、それを口実に自衛隊の攻撃的(防衛的要素を超えた)軍事力を強化すれば、それは直ちに近隣諸国にとっては安全保障上の脅威になり、かえって彼らに軍事力増強の口実を与え、その結果日本の安全保障上の脅威が高まるという非条理が、安倍政権にはまったくわかっていないようだ。

 私は前にも書いたが、経済面における安倍外交は高く評価している。日本産業界の営業本部長のごとく世界各国を飛び回り、日本経済の発展に努力してくれていることには感謝すらしている。
 が、アメリカべったりの安倍政治外交にははっきり言って疑問を抱いている。少なくとも米朝交渉でアメリカの尻馬に乗ることは、日本の安全保障上も、また拉致問題の解決にとっても百害あって一利がない。日本にとっての安全保障を、アメリカの安全保障より優先するのであれば、「朝鮮半島の非核化」と「金体制維持の不可逆的保証」をアメリカに要求すべきではないか。日本の政府要人からも「いざというとき、アメリカが核の傘で日本を守ってくれるという保証はない」という発言が公然と出ているくらいだ。すでに述べたように、アメリカにとって敵対国や非友好国の人権問題には軍事力の行使もいとわない介入をするアメリカだが、同盟国や友好国の非人道的行為には見て見ぬ振りが出来る国だ。日本の政府要人がいみじくも語ったように、アメリカが自国の国益に反してまでも、日本を核の傘で守ってくれるなどと期待することは大甘だ。アベさんも、アメリカべったりの外交姿勢を示すことで、アメリカの核の傘の威力を高めることを考えているのだろうが、果たしてそれが日本の安全保障にとって最善の道か。
 前にも書いたが、第2次世界大戦後、国際間の状況は一変した。かつての、いわゆる「帝国主義」「植民地主義」による他国への侵略行為はまったく不可能になった。かつてだったら、尖閣諸島はとっくに中国によって軍事侵略されていただろうが、そういうことは、いまの世界情勢では不可能だ。オバマ前大統領やトランプ大統領が「尖閣諸島は日米安保条約5条が適用される」と言ってくれてはいるが、そんなのは単なるリップ・サービスでしかない。尖閣諸島が軍事拠点になりうるようなら、中国に侵略されたらアメリカにとって大きな軍事的障害になるから自衛隊と一緒に尖閣諸島防衛に相当の力を注いでくれるだろうが、その可能性は全く考えられず、いちおうリップ・サービスをした手前の程度の協力はしてくれるだろうが、せいぜいそこまでだ。
 別に国益最優先は、アメリカだけではない。あらゆる国が国益最優先である。それが間違っているとまでは、私も言わない。
 マルクスはかつてこう書いた。「一人はみんなのために、みんなは一人のために」。この言葉のために、私は学生時代を過ごした。その過去を、私は後悔しているわけではない。むしろ、自らの生き方として、その言葉のために生きた時代を誇りにすら思っている。
 ただ現実を考えた時、その言葉のむなしさを涙が出るほど悔しく思うしかない。そして今、私の価値観の大半を占めていることは、自分のためにすることが他人のためになればいいな、自国の国益になることが他国の国益になるような政治になればいいなと、外野席から蟻の歩みほどの貢献でもできたらと考えているだけだ。
 そういう視点から、北朝鮮問題について、過去にも何度も書いたが、日本の国益にもなり、かつ北朝鮮の国益にもなり、ひいては世界平和に貢献できればいいではないか、という取り組み方を改めて提案する。
 北朝鮮との関係を考える場合、これまでは拉致問題と安全保障という二つの問題が重視されてきた。そのこと自体を否定するわけではないが、同時に解決しようというのは、はっきり言って無理がある。現に、日ロ関係も(旧ソ連時代から)平和条約締結と北方領土問題を同時に解決しようと日本政府は努力してきたが、一歩も前進しなかった。やはり優先順位をつけるというか、一つを解決することで残った問題の解決にも近づけるという考え方が必要なのではないかと、私は思う。
 話があまり拡散しても読者が混乱するだろうから、北朝鮮との関係に絞る。私は、たとえアメリカが不愉快になろうと、まず北朝鮮との平和条約締結に向けて最大限の努力を払うべきだと考えている。平和条約を締結して、日本が技術・資本の面で協力して北朝鮮の産業近代化を支援して、友好関係と経済的互恵関係を強めることだ。経済的互恵関係が強まれば、それは双方にとっての最高の抑止力にもなる。
 抑止力というと、リベラル志向が強い朝日新聞ですら「相手の軍事力に対抗する軍事力」と解説しているくらいで、「抑止力=軍事力」と思い込んでいる政治家やジャーナリストが大半だが、現代における最大の抑止力は経済的互恵関係の構築と、それによる友好関係の強固化である。戦後、なぜ日米関係が、たびたび経済摩擦を生じながらも強固な友好・同盟関係を長期にわたって築いてこれたのかを考えてみればわかる。アメリカも日本も、もし軍事的に対立するようなことがあったら、双方が自ら自国の国益に反する行動をとることを意味するからだ。
 そういう関係をできるだけ多くの国と構築することが、日本にとって最大の抑止力になる。安倍総理が世界中を飛び回って多くの国と経済的互恵関係を構築しようとしていることは、単に日本の産業界の発展のためだけではなく、実は安倍さん自身気付いていないようだが日本の抑止力を高めているのだ。
 そのことに安倍さん自身が早く気づいてくれれば、北朝鮮との関係についても、どういう外交方針をとることを最優先すべきかが分かるはずだ。
 日本が北朝鮮との間に平和条約を締結して経済支援(技術及び資本)を行って(できれば韓国と足並みを揃えて行うことが望ましい)、北朝鮮の産業近代化が進み、国民生活が向上すれば、日本と北朝鮮との経済的互恵関係が強くなる。
 日本は少子化が進み、今後も労働力不足が当分続く。AIが労働力不足を完全に補えるようになるまでにどのくらいの時間がかかるかは私にはわからないが、少なくとも最も近い国である北朝鮮の労働力を日本企業が活用できるようになれば、日本にとっても北朝鮮にとっても大きなプラスになる。そうなれば経済的互恵関係が深まり、両国の友好も強まる。互いに相手の軍事力を脅威に感じる必要もなくなる。そうなったとき、黙っていても拉致問題も解決するだろう。
 国益重視の外交とはどうあるべきか、頭を冷やして考えてもらいたい。

アベさん、とうとうバレちゃったね。忖度と片想いは違うよ。そのくらいは常識!

2018-05-22 00:05:23 | Weblog
 NHKが昨夜(21日)7時のニュースで、愛媛県が参院予算委員会の求めに応じて国会に提出した新文書の内容をスクープ報道した。
 愛媛県や今治市の職員との面会を「記憶にない」と最後までしらを切り続けた柳瀬元総理秘書官は、今頃頭をかきむしっているかもしれない。柳瀬氏が「記憶になかった」ことを証明するためには、しかるべき医療機関の診療を受けて若年性認知症患者であることを明らかにするしかない。その場合、もちろん官僚の重職は務まらないから、自主退職を経産省に願い出る必要があるだろうが。
 柳瀬氏より、もっとピンチに陥ったのは安倍総理だ。野党は、安倍総理の証人喚問を要求すべきでは…。総理大臣の証人喚問は、おそらく前代未聞だろう。
 愛媛県は新文書を公開はしていないが、NHKは独自のルートで文書(すべてかどうかは不明)を入手したようだ。NHKが入手した文書には、愛媛県が加計学園側から受けた報告として「平成27年2月25日、理事長が首相と15分程度面談。理事長から獣医師養成系大学空白地帯の今治市に設置予定の獣医学部では、国際水準の獣医学教育を目指すことなどを説明。首相からは『そういう新しい獣医大学の考えはいいね』とのコメントあり」と記載されているという。
 さらに、3月には学園と今治市が協議した結果として「加計理事長と安倍総理の面談を受けて柳瀬氏から資料を提出するよう指示があった」とも記載されているという。
 また4月2日に愛媛県と今治市の職員が加計学園責任者と一緒に柳瀬総理秘書官(当時)と面会した際、柳瀬氏から「獣医学部新設の話は総理案件になっている。何とか実現を、と考えているので、今回内閣府にも話を聞きに行ってもらった」との発言があったと記載されているという。

 安倍総理はこれまで国会答弁で「加計学園の獣医学部新設の計画を知ったのは、学園が国家戦略特区の事業者に選定された去年(17年)1月20日だ」と繰り返し説明してきた。この説明が、まったくの嘘っぱちだったことが、愛媛県が国会に提出した文書で明らかになった。
 今治市が最後の国家戦略特区に指定されたのは平成27年(15年)12月15日である。実は、この時指定されたのは広島県・今治市という広域であった。それが、何の説明もなく、いつの間にか広島県がすっぽり抜け落ちて今治市ONLYになった。内閣府とは不思議な世界だ。そもそも最初の広域指定のときの最大の目的は観光開発だった。周知のように、広島県尾道と愛媛県今治の間には、世界一風光明媚といわれる本四架橋(しまなみ海道)がある。私はIR法には必ずしも賛成ではないが、この地域に海外から観光客を呼ぶための目玉として観光事業を進めるのであれば、それなりに意味はあるかもしれないと、かつてブログに書いたことがある。
 が、内閣府は国民に何の説明もせずに、特区から広島県を外し、しかも事業目的も観光から獣医学部新設にすり替えた。総理の意向を忖度するためだったら、何でもあり、ということか。
 忖度があったかもしれない、と安倍総理が国会で初めて認めたのは柳瀬氏が今月10日に衆参予算委員会で15年4月2日に総理官邸で加計学園関係者と面会したことを認めた時、2月か3月にも、さらに今治市が国家戦略特区に応募した6月4日前後にも、やはり総理官邸で加計学園関係者と面会したことも明らかにした。
 読者が混乱するといけないので、時系列で整理しておく。
15年2月25日 安倍総理、加計氏から今治市に獣医学部新設計画を聞く。
  2or3月 柳瀬氏、1回目の面会。
  3月 今治市から愛媛県に報告書(柳瀬氏からの指示)。
  4月2日 柳瀬氏、2回目の面会。
  6月4日 今治市、国家戦略特区に応募。
       この前後、柳瀬氏、3回目の面会。
  12月15日 広島県・今治市が国家戦略特区に指定。
17年1月20日 加計学園、特区事業者の指定を受ける。
        安倍総理、加計学園の獣医学部新設計画を初めて知る。
 つまり、安倍総理は15年2月25日に、刎頚の友である加計氏から今治市に獣医学部新設の計画を打ち明けられ、「いいね」と賛意を示しておきながら、そのことをすっかり忘れていたようだ。かつて田中角栄氏は頼まれごとを持ち込まれると「よっしゃ、よっしゃ」と二つ返事で引き受け、ちゃんと覚えていて約束を守ったと言われているが、安倍さんは柳瀬氏と同様若年性認知症患者のようだ。あ、安倍さんはもう若年とは言えないか。

 すでに書いたように今年5月14日、安倍総理は集中審議の答弁で「忖度があったかもしれない」と、初めて認めた。ちょっと読みにくいかもしれないが、その発言を文字化しておこう。
「忖度されたか否かは、される側にはですね、例えば私のことを忖度していると言われているんですが、される側にはわかりにくい面があるわけでありまして、私としてはなかったと、こう言い切ることは、もちろんできないわけであります」
 おい、忖度は片想いとは違うぜ。
 誰かを自分に片想いさせるなどということは、いかなる権力をもってしても不可能だが、忖度は意図的にさせることが出来るし、忖度する側も忖度したことを相手に分かってもらえなかったら、せっかくの忖度が意味を持たなくなってしまう。
 前回のブログでも書いたが、森友学園の籠池氏は財務省の官僚に忖度させるために、ことさらに昭恵夫人との関係を官僚に見せつけてきた。籠池氏は、あたかも財務省官僚が勝手に忖度したかのような言い方をしたが、そんなことはあり得ない。
 が、いかに忖度させようとしても、もっと大きな別の要因が作用していた場合には、相手の腹の内が全然読めないふりをして逃げる。外国メディアの特派員が「忖度」をどう英語に翻訳したらいいのか困ったようだが、これは日本人が外国人のブラフを本気にとってしまうのと同様、外国人に理解してもらうのは難しいかもしれない。
 ま、外国人に理解してもらわなくてもいいが、安倍さん、日本人だったら忖度と片想いの違いくらい分かってよね。いや、ほんとは分かっているんだよね。わからないふりをしておかないと、この場合やばいからね。
 だって、安倍さん、ことあるごとに加計氏との刎頸の仲であることを官僚たちに周知させてきたじゃないですか。奥さんの昭恵さんまで使ってSNSで仲のいいところをアップさせ、挙句に「男たちの悪巧み」などと、官僚に対して「悪巧み」への忖度を強要してきたじゃないですか。
 安倍さん、総理秘書官は5人くらいいるようですね。あなた、そう言ってましたから。5人もいる秘書官のうち、加計学園関係者や今治市と愛媛県の職員が、どうして柳瀬氏がキーマンであることを知ったのですか。誰が教えたのですか。 
 あ、そういえば、別荘でのバーベキュー・パーティ。確か安倍さんの説明では参加者は20数人でしたよね。ものすごく内輪のパーティですよね。
 そりゃまぁ、総理の仕事は大変だから、たまには気晴らしもしたいですよね。仲のいいお友達ばかり集めてね。籠池氏がいなかったのは残念ですが、加計さんはしっかり参加していましたよね。でも、その身内のパーティになぜ柳瀬氏を呼んだんですか。それとも秘書5人を全員、日ごろの労をねぎらうために呼びましたか? 柳瀬さんだけですよね。しかも、そういうパーティの写真を昭恵夫人にSNSで明らかにする。それを見て加計さんや柳瀬さんに忖度しない官僚なんかいませんよね。もちろん、加計さんや柳瀬さんに対する直接的忖度は、安倍さん、あなたに対する間接的忖度が最終的な目的だということくらいお分かりの上で、あれだけ手の込んだ演出をしたんですから…。
 それを「(忖度)される側にはわかりにくい面があるわけでありまして」とは、まぁ、おとぼけもお上手なこと。

【追記】安倍総理は22日朝、番記者の囲み取材で愛媛県の新文書で明らかになった加計学園の今治市での新しい獣医学部新設計画を15年2月25日には知っていたはずという「事実」を全面的に否定した。総理は「当日の官邸の記録を調べたが、加計孝太郎氏との面談は確認できなかった」と、全否定の根拠を述べた。自民党の二階幹事長も「総理を信用している」と援護射撃を行った。
 安倍総理が全否定したため、私も一応愛媛県の新文書で明らかにされたこの件に「事実」と鍵カッコを付けたが、総理の全否定にはやはり無理があると思う。
 まず愛媛県の新文書には、総理と加計氏との面談の場所が「官邸で」とは記載されていない。安倍総理は自身の行動予定について、手書きの手帳に記録しているのか、あるいはスマホなどに電子記録しているのかは不明だが、愛媛県の公式記録を全否定するなら自らの当日の行動予定記録をオフレコでもいいから記者たちに公開すべきだ。そうすれば、総理の全否定も説得力が生じる。
 また、二階氏が、この件で総理を支持するのも筋が違う。二階氏は自民党の幹事長であり、総理を援護するのは自民党内に動揺が広がるのを防ぐことが目的としか考えられない。実際、これだけ国民に疑惑をもたれ、自民党内どころか政府内にも「真実を明確な根拠をもって明らかにすべきだ」という声が広まりつつある現在、官邸の記録(おそらく訪問者が紙に記載する氏名・訪問相手・アポの有無・訪問目的など)をもって「証拠」と主張するには無理がありすぎる。そんな紙の記録はすべて電子化していない限り、現在残っているわけがない。国民を愚弄するのもほどほどにしてほしい。
 こういう総理援護の声もあった。「総理の番記者は四六時中交代で張り付いている。総理の自宅への出入りもチェックしており、番記者の目をくぐって総理が加計氏と会うのは不可能だ」というものだ。この主張もおかしい。総理が加計氏と面談したとされる15年2月ごろは、まだ今治市は国家戦略特区に指定されるどころか、国家戦略特区への応募すらしていない。番記者も総理が面会する人たちすべてに目を光らせているわけではなく、だいいち、柳瀬氏が官邸で3回も今治市職員・愛媛県職員・加計学園関係者と面談した事実も、メディアはチェックしていない。柳瀬氏が自ら明らかにしない限り、この事実も報道されることはなかった。
 さらにがっかりされたことは公明党・山口代表の総理応援コメントだ。公明党はかつて「もっともリベラルな党」として創価学会信者以外からも一定の支持を受けてきた。その面影は、いまは「初恋の人」になってしまったようだ。選挙のためなら、党の生命線すら投げ捨てるのか。そういうことが平然とまかり通ってしまうから、国民の政治不信がますます増幅するのだ。

エリート官僚が矜持を失った日…日本から民主主義の火が消えようとしている。

2018-05-14 01:41:48 | Weblog
 隠し玉は、一つもなかった。
 国会審議を2週間もボイコットして、柳瀬・元首相秘書官の証人喚問にこだわり続けた野党は、安倍忖度政治に不信を募らせていた国民の負託にこたえることができなかった。10日に開かれた衆参両院での予算委員会での質疑のことだ。
 私は当日、午前も午後もNHKの国会中継にくぎ付けになっていた。いつ野党のだれが「隠し玉」を柳瀬氏にぶつけて立ち往生させるのかを期待しつつだ。
 私は国会中継が終わった後、安倍政権に批判的な報道を続けているメディアの一つの電話をして、野党に対する憤懣をぶつけた。
「一体、何のために2週間も国会を空転させたのか」
 こうも言った。
「隠し玉は、事前に愛媛県や今治市への調査や聞き取りをしていれば、必ず見つかっていたはずだ。そうした調査をせずに証人喚問にこだわり続け、挙句の果てに何の新味もない質問に終始し、柳瀬氏は余裕すら見せていた。野党各党は、安倍政権への対決姿勢を自分たちが一番鮮明にしていることを、国民に訴えたかっただけだったのか」
 実際、翌11日には愛媛県の中村知事が記者会見で怒りの告発をした。4月2日には愛媛県と今治市の職員が各3名、官邸に柳瀬氏を訪れて名刺交換もし、面談ではメインテーブルに着席して地域の要望も伝えたようだ(※具体的な発言内容は明らかになっていないが、中村知事は「子供の使いではない」と明言、県や市職員が地域の要望を柳瀬氏に伝えていたことは間違いないと思う)。そういう情報すら、野党は入手していなかった。それなのに、なぜ頑なに証人喚問にこだわり、2週間も国会を空転させたのか。
 また、そのメディアに、私はゴールデンウィークに入る前、野党の国会対策に対する批判をそろそろ始めるべきだ、とも申し上げた。「政治部に伝えます」との返事だったので、記録に残っているはずだ。
 国民の野党批判が噴出しだしたのは大型連休終盤になってからだが、はっきり言ってメディアも野党も世論の動向に鈍感すぎる。
 国会の参考人質疑で柳瀬氏は、加計学園関係者と総理の別荘で1回、官邸で3回面談したことを明らかにした。氏はこれまで「私の記憶では、愛媛県や今治市の方とは会ったことはない」と明言していた。野党が執拗に愛媛県や今治市側との面談を追及していたからだ。さらに氏は「加計学園関係者との面談についてはこれまで聞かれなかったので、言わなかっただけだ」と虚偽回答はしていないことを強調する作戦に出た。
が、愛媛県や今治市側が県職員や市職員が同席していることを明らかにし、さらに各省庁からそのことを裏付ける文書があることが明らかにされた。いまさら柳瀬氏も「愛媛県や今治市の方と会ったことはない」とは強弁できず、「同席されていたかもしれないが、加計学園関係者の背後におられたのでわからなかったかもしれない」とやんわり前言を翻した。「しかし、名刺を探したが、見つからなかったので…」と、前言との矛盾を回避する手段にも出た。「私の記憶の限りでは」と逃げた発言に関しては、「私の記憶にも限界がある」と居直って見せた。
また加計学園関係者などとの官邸での面会について、「総理から支持を受けたこともなければ、報告をしたこともない」と、あくまで安倍総理に類が及ぶことを避けた。「忖度」の意味を、柳瀬氏は間違いなく理解している。
総理秘書という公的重職にある官僚が、自分が仕える総理に対して忖度を働かせないわけがない。だいいち、柳瀬氏は加計氏と総理が「刎頚の友」であることを十分認識しており、だから一民間法人の関係者と総理官邸で、それも1度ならず3度も面会している。参考人質疑では、柳瀬氏は加計学園関係者以外とは一切面会していないことも明らかにした。それほどに柳瀬氏にとって加計学園関係者との面会は、職務上の重要な要件だったのだ。だから、この面会について総理にまったく報告しなかったなどということは、柳瀬氏ほどに「忖度」の意味を理解していれば、あり得ないことだ。が、そのことをいくら追求しても、柳瀬氏か安倍総理が口を割らない限り証明することは不可能だろう。で、別の角度から加計問題を検証してみることにした。メディアも野党もやってこなかったことだ。

 本来国家戦略特区のプロジェクトの主役は加計学園という民間の一学校法人ではなく、岩盤規制に阻まれていた新規事業を地域活性化のために実現したいと願う地方が主役のはずだ。もし国家戦略特区の一環として愛媛県と今治市が獣医学部を招致したいというのなら、10何年も前から国に要請していて、その都度厚生省から跳ね返されてきた愛媛県と今治市が主役になるはずではないか。
 順序としてはこうなる。
①  獣医師がいま足りないのか。また今後足りなくなることが考えられるのか。
②  その場合、獣医学部を新設するとして、なぜ今治市なのか。
③  今治市に新設するとして、どの学校法人にお願いするのがいいのか。
 こうした段取りを踏んで計画が進んでいたとしたら、当然柳瀬氏との面会の主役は今治市であり、その事業を県としても全面的にバックアップするという姿勢を見せるために愛媛県が付き添った。そこまでが、いわば主演・助演の立場であり、「でも今治に獣医学部を作りたいと言う学校法人がいて、その学校がどういう計画を立てているのか」という段階になった初めて「わき役」として加計学園が舞台に登場するというのが、こうした国家プロジェクトを推進する場合の一般的なプロセスである。それが、3回もの首相官邸での面会で、主演・助演の存在すら記憶になく、わき役の加計学園関係者の存在しか頭になかったという柳瀬氏の思考方法はどうなっているのか。そもそも国家プロジェクトがどういうものかを、まったくご存じない御仁だったということか。それとも総理との「刎頚の友」である加計学園関係者との面談を重視するあまり、国家戦略特区の主役を特区の行政府ではなく加計学園と思い込んでいた結果、愛媛県や今治市職員のことは「記憶の外」になってしまったのか。「私の記憶の限りでは」愛媛県や今治市職員と面会したことを覚えていないということは、そういうことを意味する。

 安倍総理は昨日(11日)、「長期政権になって随所にいろいろな問題が出ている。心しなければならない」といった趣旨の発言をした。そういう自覚があるのなら、さっさと政権の座から降りていただきたい。
 将来の総理候補として期待されている小泉進次郎氏も「長期政権は必ず腐敗する」と、歯に衣を着せずに現政権批判をやってのけた。
 なぜ長期政権は腐敗するのか。すべての人が、とまでは言わないが、人は権力と金に群がるものだ。いまロシアでそういう状況が露骨に現れている。ロシアは大国だが、民主主義という面では、失礼な言い方だが後進国だ。いま、日本がロシアに近づきつつある。
 プーチン大統領と安倍総理の違いは、前者が力を見せつけることで権力の座を維持しようとしているのに対して、後者は支持率が下がり始めると途端に殊勝さを見せて国民の歓心を買おうとしている点だ。その差でしかない。
 ロシアのことを、このブログで語るつもりはないので、日本における長期政権がなぜ腐敗するのか、の検証もついでに試みておきたい。
 日本で「忖度」というほとんど死語と化していた言葉が突然流行語にまでなったのは、言うまでもなく森友学園・籠池理事長の国会での発言「多分忖度が働いたのだと思う」からである。まさに「言いえて妙」としか言いようのない言葉だった。
 この「忖度」について安倍総理は「忖度する側の心の中の問題で、忖度したかどうかを証明する手段はない」と述べた。バカ言っちゃいけない。
 この問題を巡って、前にもブログで書いたが、忖度する側にとっては「忖度しておきましたよ」ということを相手に伝えなかったら、忖度した意味がまったくない。日本には相手との関係で似たような言葉に「腹芸」というのがある。また「暗黙の了解」といった表現もある。そういう気持ちが相手に伝わらなかったら、伝え方が悪かったのか、相手に理解能力がなかったかのどちらかだ。「忖度文化」はそういう日本だけの特殊な世界で培われてきた。欧米人にはまったく理解不能な「文化」だ。
 籠池氏の場合、昭恵夫人の「関与」を何度も財務省理財局や近畿理財局の交渉相手にちらつかせたのは、交渉相手の役人に総理への忖度を働かせてもらいたいという計算があったからだ。言っておくが、役人が働かせた忖度は、昭恵夫人に対してではない。対象はあくまで安倍総理である。つまり、この場合、直接的忖度ではなく、間接的忖度ということになる。昭恵夫人に対していくら忖度を働かせても、直接の見返りは全く期待できないからだ。昭恵夫人も、高級官僚ならいざ知らず、森友学園側との直接交渉をしていた現場の役人について、夫の総理にいちいち「あの人はよくやってくれている。引き立ててやって」などと役所の人事に介入するようなことをするほどのバカではあるまい。
 また現場が公務員の服務規定に忠実で、忖度を働かせるような気が利かない人(残念ながら日本ではそういう尊敬すべき人を「あいつは気が利かないやつだ」という評価を受けてしまいがちだが…)に対しては、やむを得ず上から「こうしろ」という命令(形式的には「指示」)が来る。心ならずも、その指示に従って良心がとがめ、ついには自らの命を絶った人もいた。
 そういう人の無念さに寄り添うのがメディアであり、政権を批判する野党の基本的スタンスではないのか。
 今回の加計学園問題の場合、獣医学部の新設についてメディアや野党は「加計学園ありき」だったのではないかと追及してきた。だが、そのことを何らかの証拠を示して証明することは、はっきり言って不可能だ。「加計学園ありきだったのではないか」という世論を形成するのが、精いっぱいだ。

 もっとも重要なことは、獣医学部新設問題と国家戦略特区問題を切り離して考えることだ。10数年にわたって愛媛県は加戸知事時代から「四国には獣医師が不足している。大学の獣医学部を招致したい」と厚労省に懇願してきたという。が、その都度国から「岩盤規制」によって撥ね付けられてきたという。真相は、獣医学部新設問題に関しては獣医師会から猛反対があったようだ。「獣医師の数は足りている。ただ需要の多い地域に偏在しており、それは行政で解決できることだ」というのが、反対の理由だった。現状はそうかもしれない。あるいは獣医師会が自分たちの既得権益を死守するためだったのかも。
しかし、今後の日本を考えてみたい。
 幸いにして世界でいま日本ブームが広がっている。訪日観光客も増えているし、海外での日本食ブームも一向に陰る気配がない。このブームを一過性に終わらせないためにはどうしたらいいか。 
 和牛ブームもその一つだが、単に日本の銘柄牛の種を海外に持って行っても、日本の和牛の育て方は放牧ではなく、狭い牛舎に閉じ込めて運動不足の飼育方法だ。だから筋肉がつかず、肉質が軟らかい霜降りの牛を育てることができる。放牧に比べれば、残酷と言えば言えなくもないが、フランス料理のフォアグラも同じだ。
 和牛に限らず、農業・水産・畜産に関する日本の技術はおそらく世界最高水準にある。絶対においしいコメは作れないと考えられてきた寒冷地の北海道で、魚沼産コシヒカリより高レベルの米を作ることに日本は成功した。ということは、ほぼ世界中でおいしい日本米を作ることができるということだ。その技術力で世界に貢献しつつ、さらに日本食ブームを世界に根付かせない法はない。
 養殖魚もそうだ。高級魚のフグも、もう今年のシーズンは終わりだが、養殖フグの技術が向上したため、年中食べられ、しかもエサや養殖環境の改善によって天然フグよりかえってうまいという評判も耳にする。フグといえばちり(鍋)を連想しがちだが、ちりの代わりに焼フグという新しいメニューの開発も進んでいる。
 世界中に和牛料理を広めるという壮大な夢を描くなら、海外で本格的な和牛を育てる技術開発が必要になるかもしれない。病気だけでなく、飼育環境や海外での飼育に適したエサの研究など、従来の獣医学部ではできなかったことに、加計学園が挑戦してくれるのなら、その場所が別に今治でなくても本拠地の岡山でもよかったのではないか。
 今度は国家戦略特区の問題である。なぜ今治で、なぜ獣医学部の招致なのか。前愛媛県知事の加戸氏によれば、「四国に獣医学部を」の思いは10年以上前からの念願だったという。そんな昔から安倍総理と加計氏の「刎頚の友」関係を知っていたとは考えにくいし、仮に知っていたとしても今日の安倍一強時代の到来を予測できていたわけでもあるまい。だから加戸氏の思いはそれなりに純粋なものがあったとは思えるが、四国に獣医学部を作ったからといって四国の獣医師不足が解消するとは限らない。
 実際、他の専門職を養成する大学は全国にあるが、地方大学の卒業生が地元に定着するケースは少ないようだ。弁護士などの法曹家、医師や歯科医、薬学士、様々な分野の技術者・研究者なども、大学を卒業したら職場は大都市に求める。需要があり、生活の利便性も高く、さらに給与も地方より高い。四国に獣医師が不足しているなら、獣医師にとって魅力的な環境を行政の力で整えることのほうが先ではないか。そういう努力を重ねても、四国に獣医師が来てくれないという事情があるのなら、「四国出身者で、少なくとも10年間四国で仕事をすること」を条件に学費の優遇処置をとることも考えられる。その場合、四国に獣医学部を招致してもいいし、四国以外の大学への四国出身入学者に対しても、そういう配慮をしてもいい。行政は、もう少しゆとりをもってもいいのではないかと思う。

 モリカケ問題は、安倍総理がどこまで自身で関与していたかは永遠に解明できない。官僚が自身の将来の利益のために、権力者に媚を売る(それが忖度の本質だ)のは、やはり政権が長期化しすぎたことで権力が強大化した結果だと思う。民放のBS報道番組で片山さつき氏が、「自分が官僚だった頃は、政権の顔色ばかり見ているような官僚はいなかったと思う」と述べていたが、そうした官量の矜持が失われたとしたら、それが安倍一強体制のもたらした最大の「民主主義破壊行為」である。
 もともと民主党政権からバトンを受けた安倍総理に、強大な権力が備わっていたわけではない。血縁関係にある財閥をバックに持っているわけでもなく、田中角栄氏のように金力で派閥を強大化していったわけでもない。だいいち安倍総理が属する派閥は、最大派閥の細田派とはいえ、安倍総理自身が派閥の領袖というわけではない。なのに、いつの間にか自民党内に対抗馬がなかなか出てこない。力のある派閥の領袖を手なずける人心の妙を身につけているのかもしれない。とくに内閣の人事権を巧みに操る術にたけているような気がする。また問題をそらす術は歴代総理も舌を巻くだろう。
 たとえば改憲問題。前回のブログで書いたように、安倍総理が目指している改憲は自民党改憲論の正統派・石破氏とそう変わるものではない。が、いきなり9条2項を廃止して自衛隊を憲法に明文化するのは、現段階では国民の理解を得られないと考え、「自衛隊違憲論に終止符を打つため」と称して9条2項を残したうえで9条の2を新設して自衛隊を明記するという手品のような手法を考え出した。
 憲法学者の多くは確かに自衛隊は違憲だと考えているようだし、私自身も何度も書いてきたように「憲法を素直に読めば、自衛隊は合憲とは言えない」。が、日影者扱いされたこともあった昔と違って、「違憲だから自衛隊を解散しろ」などと主張する人はほとんどいない。むしろ災害時に命懸けで救難活動を行ってくれている自衛隊員に感謝している人のほうが圧倒的に多いだろう。共産党ですら、いまは自衛隊廃止論など掲げていない。
 むしろ、いま違憲論が盛んに言われているのは自衛隊そのものではなく、集団的自衛権行使を可能にした安保法制である。もし自衛隊が、安倍総理の言う「集団的自衛権」行使の軍事行動に出たら、国内は一気に違憲論争で燃え上がる。安倍総理の改憲目的の本音は、それを恐れて自衛隊を2項の範疇から外すことにあると、私は考えている。そういう、問題の本質のそらし方は、天才的とすら思う。
 いま日本が抱えている最大の政治課題は、一強体制の継続によって、官僚が政権に忖度することが当たり前の状態になっていることだ。官僚が政権に忖度するようになれば、行政は権力の意のままになる。つまり民主主義の最大の基本原則である三権分立体制が崩壊することを意味する。いや、もうすでに半ば崩壊している。行政にはびこった「忖度文化」が、日本の民主主義を滅ぼすことになるのではないかと、私は恐れている。
 今年の9月、自民党の総裁選が行われる。安倍晋三が3選を果たすようなら、日本には民主主義は結局根付かなかったと断定せざるを得ない。野党の現状に大きな期待が持てないことを考えると、自民党内部の自浄作用に期待するしかないのかもしれない。
「この問題は、与党も野党もない」と言い切った、自民党の総理候補青年将校のような議員が、雨後の竹の子のようにあちこちから芽を吹き出してほしいものだ。



【追記】 昨日(14日)もテレビにかじりついて衆院予算委員会を見た(午後から外出したので参院予算委員会は見ていない)。野党は国民民主党が玉木氏が質問した。参院では大塚氏が質問したようだ。衆参で両エースが安倍総理を追及した。一方、最大野党の立憲民主党は衆院で質問者を二人立てたが、まったく無名の議員だった。
 私は別に知名度を高く評価するわけではない。無名の議員でも、国民が「よくやった」と評価できるような追求をするのであれば、無名の議員にも修羅場を経験させる意味もあるだろう。が、一人に至っては自民党議員以上に安倍総理に気を使っているかのような質問の仕方だった。おそらく、あとで党内でも問題になったと思うが、修羅場を経験していない議員に経験を積ませるのであれば、事前に徹底的なテストをやって、「立憲民主党には人材がいっぱいいるな」と国民から評価されるような議員の育て方をなぜしないのか。むしろ、国民民主党に比べ立憲民主党はモリカケ問題を軽視しているのか、という思いを抱いた国民が圧倒的だったのではないか。
 また安倍総理は「国民の多くが、官僚が忖度したのではないかと思っている」と、行政にはびこっている「忖度文化」を認めながら、「私は忖度を頼んだこともないので、忖度されたかどうかは分からない」と逃げた。はっきり言って卑劣だ。官僚に忖度させるつもりがなかったら、自らと加計孝太郎氏との関係をこれでもかこれでもかというほどに、妻の昭恵氏にSNSまで利用して周知させたりしていない。だいいち、別荘でバーベキューやゴルフを楽しんだ件に関して言えば、わずか20数人ほどの招待者の中に加計氏と柳瀬氏を含めたということ自体、その意図は見え見えだろう。国民を甘く見てはいけない。

 
 

憲法の日に…改めて考えてみた。どう向き合うべきかを。

2018-05-03 14:28:53 | Weblog
 今年も憲法記念日がやってきた。5月3日という日は毎年あるのだから、憲法記念日は毎年必ず来る。そして昨年に続いて今年の憲法記念日も、あちこちで賑々しい。
 昨年は安倍総理が日本会議などが主した憲法改正集会にビデオメッセージを送り、憲法改正とりわけ9条改正への熱意を語った。同様の内容は同日の読売新聞に独占インタビューの形で掲載された。国会で野党議員から、安倍総理の憲法改正論を質問されたとき、総理は「読売新聞を読んでくれ」と答弁して失笑を買った。
 憲法9条改正論議がにわかに熱気を帯びだしたのは、それからである。総理の9条改正案は「戦争放棄」をうたった9条1項と、「戦力不保持」「交戦権否認」を明記した2項を残したうえで、「9条の2」を新設して自衛隊の存在を明記するというものだ。
「自衛隊は違憲かもしれないが、なにかあれば命を張ってくれというのはあまりにも無責任ではないか」というのが、安倍総理の自衛隊明記案の表向きの理由だ。「表向き」としたのは、もちろん裏があるからだ。裏は「本音」だ。
 総理の本音は、自衛隊の国防軍化だ。戦力の不保持と交戦権否認を明記した9条2項を削除して自衛隊(国防軍)の活動範囲の制約をなくし、他国の軍隊と同様の自由度を高めることにある。そういう意味では石破氏などの自民党改憲正統派と根本的に相容れないわけではない。ただ安倍総理の改憲案は二段階論なのに対して、石破氏などの正統派は「そういうやり方は姑息だ」と反発しているにすぎない。ただ、総理案が現実性を帯びてきたのは、「9条2項を残しておけば、自衛隊を明記しても自衛隊の活動範囲は変わらない」というおためごかしがある程度、世論への説得力を持ったからのようだ。
 今年4月に実施された主要メディアの世論調査の結果はかなりばらついた。読売の世論調査では安倍案は55%の支持を得たが、朝日は反対派が53%で賛成派の39%に14ポイントの差がついた。毎日はかなり拮抗して賛成27%、反対31%で、差は4ポイントだった。NHKは安倍案だけでなく2項削除案についても聞いた。結果は9条改正の必要なしが最も多く38%に達したが、安倍案の支持16%と「2項を削除して自衛隊を明記」という自民党正統案支持が30%に達して、事実上の9条改正派は46%となって反対派を上回った。
 
 現行憲法は、敗戦後の占領下において、旧憲法の改正手続きに基づき帝国議会で制定された。条文がGHQに押し付けられたか否かといったくだらない議論は、私は問題にしたことがない。ただ言えることは、戦争末期に作成された国連憲章が描いた世界平和の理想が、現行憲法の平和主義に強く反映されたという事実は否定できない。「国連憲章なくして日本憲法はあり得なかった」と言っても過言ではない、と私は思っている。
 国連憲章は言うまでもなく、国際間の紛争を武力で解決することを、国連加盟国に禁じている。が、実際に国際紛争が生じることはあり得るため、紛争が生じた際の解決方法についても憲章は規定している。要約すると、紛争が生じた際は国連安保理に、非軍事的および軍事的なあらゆる手段を行使できる権能を与えることにした。ただし加盟国が他国から武力攻撃を受けた時には、国連安保理が紛争を解決するまでの間に限って「自衛のための武力行使」を認めることにした。その際の自衛手段には、自国の軍事力と友好国に軍事支援を要請する権利が含まれている。もちろん、後者が「集団的自衛権」である。たとえば日本が他国から攻撃を受けた場合、自衛隊が自国の軍事力として防衛に任に当たるほか、日米安保条約に基づいてアメリカに軍事的支援を要請することができる。この場合、アメリカの軍事的支援はアメリカの「集団的自衛権の行使」ではなく、日本の要請に応じた、言うならば「ボランティア」である。国連憲章を隅から隅まで読んでも、国連憲章はいかなる国にも他国のために武力行使をする権利など認めていない。他国のために武力行使をする権利は、国連安保理しか有していない。
 ところで、日本国憲法はすでに書いたように占領下において制定された。過去の世界の歴史を見ても、被占領国を防衛する義務は占領国側にある。国際法で明文化されているわけではないが、それが人類の歴史の中で自然法として確立されてきた原理原則である。だから、占領下においては日本は自国防衛のための軍事力を整備する必要はまったくなかった(被占領国が軍事力を持つことが禁じられていたわけではない)。そうした状況下で国連憲章の平和主義の理想を強く反映したのが、日本憲法に貫かれている平和主義である。一部の人たちが妄想しているように、過去の過ちを悔い改めた日本政府(当時)が突然、平和主義に転じて憲法前文と9条を作ったわけではない。
 日本が占領下にあった時代は、それでよかった。旧ソ連が、朝鮮半島をアメリカと半分こしたように、日本の北海道も旧ソ連はアメリカと半分こしようとしたが、さすがにアメリカは旧ソ連の提案を蹴った。「樺太と千島列島の支配権を認めてやったのだから、あまり欲張りすぎるな」というわけだ。日本政府が尖閣諸島の領有権問題や拉致被害問題ではアメリカを頼っているのに、北方領土問題ではアメリカに頼れないのは、そうした経緯があったからだ。
 が、ソ連圏とアメリカ圏に分割された朝鮮半島で内戦が勃発した。金日成率いる北朝鮮軍が、突然、韓国に侵攻したのだ。軍隊の強弱は、個々の軍兵士を鼓舞する支配的価値観による。共産主義の理想に燃えていた北朝鮮軍は破竹の勢いで攻め込み、韓国軍をたちまち釜山まで追い詰めた。朝鮮半島が共産化することに危機感を抱いたアメリカが、どういう魔術を使ったのか国連軍を組織して内乱に介入し、圧倒的な軍事力で形勢を逆転させた。
 これは戦後世界史の最大の不思議と私は思っているのだが、国連軍は国連安保理が結成しなければ不可能なはずだ。実際、韓国政府から軍事的支援の要請を受けたアメリカは、国連安保理に韓国支援の国連軍結成を議題に乗せた。その採決の日に、ソ連は欠席した(中国はまだ国民政府が常任理事国だった)。つまり、ソ連は拒否権を行使しなかったのだ。なぜか。真相はいまだ不明である。ひょっとしたらこの時期、ソ連でスターリン政権が危機的状況にあったのかもしれない。朝鮮半島で勃発した軍事衝突に、スターリンは構っていられない状況だったのではないだろうかという気がする。
 いずれにせよ、第2次世界大戦で結成された国連軍以降、国連安保理によって承認された国連軍は、この時を最後に一度も結成されたことがない。
 が、日本にとって良かったのか悪かったのかはわからないが、朝鮮での軍事紛争ぼっ発でアメリカは日本の独立を急がざるを得なくなった。日本経済はまだ戦後の荒廃から回復していなかったが、日本防衛のために駐留していた米軍をアメリカ政府は根こそぎ朝鮮に送り込んでしまった。日本は丸裸になり、防衛力はゼロ状態になった。
 北朝鮮の核・ミサイル「挑発」で、「日本の安全保障環境は戦後、かつてない最悪の状態になった」と寝ぼけたことを言っている政治家がいるが、この時期の日本の安全保障環境のことを、彼らはまったくご存じないのだろうか。
 いずれにせよ、アメリカが日本の独立を急いだのは、占領国であるアメリカが日本の安全保障に責任を持てなくなったからに他ならない。だから、サンフランシスコ講和条約の締結と同時に、旧日米安全保障条約を締結し、アメリカは日本防衛の一方的な義務・責任を放棄することにしたというわけだ。また再独立した日本は、当然のことながら自国防衛の義務・責任をアメリカにのみ負わせることが不可能になった。こうして日本は警察予備隊→保安隊を経て自衛隊創設への道をたどることになる。
 
 占領下において日本が新憲法を制定したとき、9条の「戦争放棄」「戦力不保持・交戦権否認」に対して、当時の共産党や後の社会党は猛烈に反対した。「自衛のための戦力は保持すべきだし、自衛のための軍事力の行使は正しい」というのが、反対論の根拠だった。この批判に対して当時の吉田総理は「国家防衛のための戦争を認めることは有害である。近年の戦争は国家防衛権の名において行われていることは顕著な事実だ」「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する冒犯者として相当の制裁が行われることになっている」と答弁して、押し切った。なお、いまに至るも共産党の帝王である不破哲三氏は、井上ひさし氏との共著(対談)『新日本共産党宣言』(光文社・1,999年刊)の中で非武装中立論を展開したとき、吉田答弁と瓜二つの主張をしている。時代が変われば…。ま、人間だれしも多かれ少なかれご都合主義ではあるが。
 
 私は、日本が再独立を果たしたときに、現行憲法について国民に信を問うべきだったと思っている。現行憲法をそのまま継続すべきだと政府が考えたのなら、再軍備はすべきではなかったし、独立国家の責任として自衛手段を持つ必要があると考えるのなら、その時点で9条を改正しておくべきだった。第一、現行憲法は旧憲法の手続きに従って帝国議会で制定されており、国民の審判を仰いでいない。今日3日の朝日新聞社説は「そもそも憲法とは、国民の側から国家権力を縛る最高法規である」と主張しているが、現行憲法は、日本国民のあずかり知らない形で制定され、かつ日本国民の審判を仰いでいない。
 かといって、私は憲法を改正すべきだと主張しているわけではない。いろいろ問題はあったにせよ、現行憲法は国民生活に根付いているし、文字面だけになってしまったとはいえ、国連憲章の崇高な理念である平和主義を唱えた、世界に類をみない憲法である。私は、この憲法に誇りを持っている。
 確かに、かつては自衛隊が「日陰者」扱いされていた時期もあった。しかし、いまの自衛隊員は、自分たちを「日陰者」だと卑下しているだろうか。災害大国の日本では、自衛隊員たちの自らの命をも顧みないほどの献身的な救助活動に、感謝の気持ちを抱いていない国民は、おそらくいない。私も現行憲法を厳密に読めば、自衛隊は違憲だとは思う。だが、解釈改憲によって自衛隊と憲法のかい離をすさまじいまでにかい離してきたのはだれなのか。かい離してきた責任者が「違憲かもしれないが、なにかあれば命を張ってくれというのはあまりにも無責任」などと、よくもまぁ言えたものだ。

 最後に、憲法を改正するにしても、「日本という国の形」をどうしたいのかを、国民とともにまず考えることから始めてほしい。
 先の大戦以降、民族紛争や宗教対立から生じているテロはかえって頻繁に起きるようになった。が、国と国の戦争、とりわけ侵略戦争はほぼ不可能になっている。ただ大国の覇権主義はいまだ健在で、かつては覇権争いに奔走していたヨーロッパ列強に代わって、いまはアメリカと中国の覇権競争が激化している。が、アメリカも中国も武力によって決着をつけようとは考えていない。自分たちも破滅することが分かっているからだ。
 実際、現代世界は人類の歴史の中で、最も平和な時代を謳歌しているのかもしれない。そういう時代の中で、日本はかつて大きな過ちを犯しただけに、世界の平和のためにどういう貢献ができるのか、またいかなる貢献をすべきなのか、を「国の形」づくりの核に据えたいと思う。そのうえで、日本の自衛隊は「日本ファースト」のためにではなく、世界平和の実現のためにどのような活動をすべきかを、国民みんなで考えて結論を導きたいと思う。
 たとえばPKO活動にしても、その地域の平和と住民救済のためであれば、たとえ戦闘地域であったとしても、身の危険を顧みずに活動できるようにしたほうがいいと私は思う。他国の軍隊に守られながら、安全地帯で道路建設に携わることに、自衛隊員はほこりが持てるだろうか。
 憲法というものに、既成概念を捨てて、向かい合いたいと思う。