発明の対価について訴訟が生じだしたのは2000年代に入ってからである。最初の訴訟を起こしたのはオリンパスの元従業員がビデオディスク装置の特許を巡って会社を訴えた事件で、最高裁が03年4月に「会社が決めた報奨額が発明の対価に満たない場合は、従業員は不足額を求めることができる」としてオリンパスに約230万円の支払いを命じたことがきっかけとされている。
最高裁の判決は最終的であり、原告も被告も不満があったとしても控訴できない。が、最高裁の判事も人の子であり、必ずしも正しい判決を下すとは限らない。このケースについて言えば、オリンパスの元従業員は「会社が決めた報酬額」について納得したうえで会社と雇用契約を結んでおり、会社が決めた報酬が不満だったら、発明に対する報酬が高い会社に転職すればよかっただけの話である。最高裁といえども、発明に対する対価を決める権利はない。もしあるとすれば、最高裁が、すべての発明や特許に対する従業員の権利を事細かく定めるべきである。そんなことが許されるならば、の話だが…。
どの会社にも、職種に応じた処遇の制度はある。もちろん、必ずしもフェアだとは限らない。上司の査定によって不当に能力や実績が低く評価されたりするケースはどの会社でもありうる。そうしたケースは、まず社内で救済を求める権利があり、会社が取り上げなかった場合は訴訟に訴える権利はあると思う。
中村修二氏の場合、同情すべき余地がまったくなかったとは私も言わない。いったん会社に認められた研究が、経営者の交代によって否定されアングラ研究を余儀なくされた中で、20世紀中は不可能とされていた青色ダイオード(現在はLED)の量産技術の開発を成し遂げた業績は、従来のノーベル物理学賞の基準からは外れていたとしても、高く評価されるべきだと私も考えている。とくに、ノーベル賞受賞後に明らかになったことではあるが、限られた電波帯域の壁を破る光波通信の可能性にまで広がろうとしていることは、もし実現すれば革命的な功績とも言えると思う。
が、氏の発明に対する対価の請求はあまりにも常識外れだった。氏が勤務していた日亜化学工業が青色ダイオードの事業化によってどれだけ利益を上げたかは知らないが、東京地裁が会社に対して発明の対価として200億円の支払いを命じた(04年1月)のは、裁判官の裁量の範囲を大きく逸脱していた。結局約8億円で和解が成立したが、この額も私に言わせれば常識外れの金額だ。が、中村氏はこの和解条件にも納得せず「日本の司法は腐っている」と捨て台詞を残してアメリカに戻った。
私が問題にしているのは、中村氏が青色ダイオードの発明にどれだけ、自らリスクをおかしたかについての司法の判断である。その判断を司法はしていない。中村氏が自費を投じ、完全に会社員としての勤務外の時間(はっきり言えば休日)を使い、研究場所も会社ではなく自宅で行った研究だったなら、特許
の申請も自分で行い、特許の使用権利をどの会社に売ろうと自由かもしれない
(会社が副業を認めている場合)。
が、特許法によれば「発明を行ったものが特許を受ける権利を有する」と認めているため、法人名で特許を申請することができない。したがって通常の職務発明の場合、発明者個人単独の出願にはならず、しかるべき会社の責任者との連名による出願という形式をとる。そういう意味では科学論文と似た形をとるのが通例である。
問題は中村氏の場合、アングラ研究ということもあって会社の責任者との連盟での出願ではなかったのかもしれない。これは権利の所在について非常に重要なことなのに、メディアはその詳細を報道していないし、ネット検索でも不明だ。東京地裁が高額な支払いを命じたり、また8億円という莫大な金額で和解したのも、ひょっとしたら特許権が中村氏単独に帰属する形式になっていたからかもしれない。だとしても、研究自体がアングラ研究として会社の費用で、勤務時間を使って行われていたとしたら、個人の権利より会社の権利のほうが大きくなるのは当然である。
中村氏は受賞後、都内で朝日新聞のインタビューに応じて、社員が発明した特許を「会社のものにする」ための特許法改正には「猛反対だ」と主張したようだ。朝日新聞も20日付の社説で『従業員の発明 報酬切り下げはダメだ』と題し、特許法改正に反対した。
現行の特許法は、04年「中村裁判」を受けて政府が改正したもので、発明の対価について社員側に有利な制度にした。その結果、日本企業の技術開発力が国際的にみて強化されたのかどうかが、この改正に対する評価を決定する。法律も制度も、すべて結果で判断される。結果に耐えられない法律や制度はちゅうちょなく改正されなければならない。(続く)
最高裁の判決は最終的であり、原告も被告も不満があったとしても控訴できない。が、最高裁の判事も人の子であり、必ずしも正しい判決を下すとは限らない。このケースについて言えば、オリンパスの元従業員は「会社が決めた報酬額」について納得したうえで会社と雇用契約を結んでおり、会社が決めた報酬が不満だったら、発明に対する報酬が高い会社に転職すればよかっただけの話である。最高裁といえども、発明に対する対価を決める権利はない。もしあるとすれば、最高裁が、すべての発明や特許に対する従業員の権利を事細かく定めるべきである。そんなことが許されるならば、の話だが…。
どの会社にも、職種に応じた処遇の制度はある。もちろん、必ずしもフェアだとは限らない。上司の査定によって不当に能力や実績が低く評価されたりするケースはどの会社でもありうる。そうしたケースは、まず社内で救済を求める権利があり、会社が取り上げなかった場合は訴訟に訴える権利はあると思う。
中村修二氏の場合、同情すべき余地がまったくなかったとは私も言わない。いったん会社に認められた研究が、経営者の交代によって否定されアングラ研究を余儀なくされた中で、20世紀中は不可能とされていた青色ダイオード(現在はLED)の量産技術の開発を成し遂げた業績は、従来のノーベル物理学賞の基準からは外れていたとしても、高く評価されるべきだと私も考えている。とくに、ノーベル賞受賞後に明らかになったことではあるが、限られた電波帯域の壁を破る光波通信の可能性にまで広がろうとしていることは、もし実現すれば革命的な功績とも言えると思う。
が、氏の発明に対する対価の請求はあまりにも常識外れだった。氏が勤務していた日亜化学工業が青色ダイオードの事業化によってどれだけ利益を上げたかは知らないが、東京地裁が会社に対して発明の対価として200億円の支払いを命じた(04年1月)のは、裁判官の裁量の範囲を大きく逸脱していた。結局約8億円で和解が成立したが、この額も私に言わせれば常識外れの金額だ。が、中村氏はこの和解条件にも納得せず「日本の司法は腐っている」と捨て台詞を残してアメリカに戻った。
私が問題にしているのは、中村氏が青色ダイオードの発明にどれだけ、自らリスクをおかしたかについての司法の判断である。その判断を司法はしていない。中村氏が自費を投じ、完全に会社員としての勤務外の時間(はっきり言えば休日)を使い、研究場所も会社ではなく自宅で行った研究だったなら、特許
の申請も自分で行い、特許の使用権利をどの会社に売ろうと自由かもしれない
(会社が副業を認めている場合)。
が、特許法によれば「発明を行ったものが特許を受ける権利を有する」と認めているため、法人名で特許を申請することができない。したがって通常の職務発明の場合、発明者個人単独の出願にはならず、しかるべき会社の責任者との連名による出願という形式をとる。そういう意味では科学論文と似た形をとるのが通例である。
問題は中村氏の場合、アングラ研究ということもあって会社の責任者との連盟での出願ではなかったのかもしれない。これは権利の所在について非常に重要なことなのに、メディアはその詳細を報道していないし、ネット検索でも不明だ。東京地裁が高額な支払いを命じたり、また8億円という莫大な金額で和解したのも、ひょっとしたら特許権が中村氏単独に帰属する形式になっていたからかもしれない。だとしても、研究自体がアングラ研究として会社の費用で、勤務時間を使って行われていたとしたら、個人の権利より会社の権利のほうが大きくなるのは当然である。
中村氏は受賞後、都内で朝日新聞のインタビューに応じて、社員が発明した特許を「会社のものにする」ための特許法改正には「猛反対だ」と主張したようだ。朝日新聞も20日付の社説で『従業員の発明 報酬切り下げはダメだ』と題し、特許法改正に反対した。
現行の特許法は、04年「中村裁判」を受けて政府が改正したもので、発明の対価について社員側に有利な制度にした。その結果、日本企業の技術開発力が国際的にみて強化されたのかどうかが、この改正に対する評価を決定する。法律も制度も、すべて結果で判断される。結果に耐えられない法律や制度はちゅうちょなく改正されなければならない。(続く)