小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

「北方領土」問題 解決はまたも先送りか? 日本が屈辱的外交を続ける理由の考察

2019-01-28 01:50:43 | Weblog
 北方領土問題が混とんとしてきた。1月22日、安倍総理はモスクワでプーチン大統領と第2次政権発足以降22回目の首脳会談に臨んだ。会談はこれまでで最も長い3時間に及んだが、メディアの報道によれば具体的な進展はなかったようだ。通常、首脳会談は事前に双方の担当官僚による水面下の交渉で、ある程度煮詰め、最終的に水面下での折り合いをトップ同士が確認し合うという儀式的要素が強い。だから未解決の問題を残したまま、トップ同士が3時間もかけて交渉しなければならなかったという事態そのものが異常といえよう。
 早くも日本のメディアでは「ロシアは結局歯舞、色丹の2島すら返すつもりがないのではないか」という悲観論が強まっている。
 会談後の記者会見では、安倍総理は領土問題には触れることもなく「交渉をさらに前進させるよう(河野外相に?)指示した」と述べるにとどまり、プーチン大統領も「双方が受け入れ可能な解決策を見出すための条件を形成するため、今後も長く綿密な作業(どんな?)が必要だ」と述べるにとどまった。

 この問題を論じる際、まず前提として押さえておきたいことがいくつかある。箇条書き的に列挙しておく。
① 日本側は歯舞・色丹の2島「返還」だけで国後・択捉はあきらめるのか。それとも国後・択捉の領有権はとりあえず棚上げにするということか。だが、棚上げは、おそらくロシアが「うん」と言わない。「棚上げ」にこだわったら交渉を続けることは時間の無駄であり、「実力」で「奪還」しない限り、日本には1島も返ってこない(「返る」と書いたのは、とりあえず日本側の主張を前提にしたため)。
② 平和条約締結と領土問題解決は絶対にセットでなければならないのか? 平和条約締結は日本にとって安全保障上の最優先課題であり、日本がロシアと友好関係を強めれば中国や北朝鮮との関係も良好な方向に向かうと、私は思う。ただし、平和条約締結は必ずしも日本側のロシアに対する経済的支援を意味しない。経済的支援は領土問題解決交渉の際の、有力なカードとして使ったほうが交渉を有利に進めることができるのではないか?
③ 日本は「返還」と言い、ロシアは「引き渡す」(日本語訳)と言っているが、「引き渡す」とはロシア語でどういう行為を意味しているのか? 日本が「返還」という表現にこだわり続ける限り、歯舞・色丹だけでなく国後・択捉も本来、日本領土であるという従来の解釈を変更しないことを意味する。もし領土問題解決が「2島返還(±α)」で決着した場合、事実上、これまでの解釈を変更することになるが、政府は国民にそうした事態をどう説明するのか? 論理的帰結は、「北方4島は日本領土ではなかった。だから、歯舞・色丹はロシアの好意により貰うことになった。その見返りとして、日本はロシア領土の国後・択捉の経済発展のために協力することにした」という説明以外ありえない。果たしてそういう論理で、国民は納得するだろうか?
④ 政府は教科書に竹島・尖閣は日本の領土と明記させたが、北方領土については教科書に何の明記もない。なぜか? 日本が抱えている領土問題は、3つのケースがそれぞれ異質である。例えば北方領土以上に日本の領土であることを国際的に表明している竹島(教科書の明記がそのことを意味する)が、韓国が「不法占拠」しているのに、なぜ自衛権を発動して「奪還」しないのか? 実は私は外務省アジア太平洋局に何度も電話で「なぜ竹島を実力で奪還しないのか」と聞いた。答えはいつも同じで「日本は平和的解決を目指していますから」である。日本の領土が「不法占拠」されているのに、実力で排除せず話し合いで解決できると考えているのなら、自衛隊の存在意義が根本的に問われることになる。日本は憲法9条で「戦力の不保持」と「交戦権の否認」をうたっている。だから歴代政府は事実上の軍事組織である自衛隊を「実力組織」という意味不明な位置づけで国民をごまかしてきた。が、その「実力」すら行使できないのなら、自衛隊の軍事能力は「張り子のトラ」にすぎないことしか意味しない。外務省はそのことをわかっているのか。
⑤ 国際紛争を解決する手段は3つある。一つは言うまでもなく国連憲章51条で認められている「自衛権」の発動だ。具体的には竹島の場合、「不法占拠」している韓国人を実力で排除することだ。当然、自衛隊と韓国軍の間でドンパチが始まる。そこで二つ目の手段である国際司法裁判所に「日本と韓国のどちらに帰属するか」の判断を求めて提訴する。ただし国際司法裁判が開かれるには当事国が双方とも同意する必要があり、少なくとも今日まで韓国は国際司法裁判所での解決に応じていない。その場合、最後の三つ目の手段である国連安保理に竹島問題の解決をゆだねることだ。国連憲章51条が認めている「自衛権の行使」はあくまで「国連安保理が紛争を解決するまでの間」であり、国連安保理が竹島問題を解決してくれるまでの間、戦闘行為を中断(要するに休戦)する。なぜ日本はそういう普通の国だったら当然行うべき、また国連憲章が認めている権利を行使しないのか? あっ、そうか。日本はアメリカの「属国」だから、実はアメリカに「この3つの手段を行使していいか」とお伺いを立て、アメリカから「やめとけ」と言われたのでやらないのか。それなら納得。「そだね!」

これらの諸問題について政府はこれまで、一度も国民に説明責任を果たしていない。また野党もメディアもこれまで、これらの諸問題について政府を追及したことは、私が知る限り一度もない。
こうした前提に立って、北方領土問題についての私の考察を述べたい。そのためにも、とりあえず、北方領土に関する経緯を年表的にまとめておく。この年表に記載した事実はすべて確認済みであることを付け加えておく。

1939年8月 独ソ不可侵条約

1940年10月 日独伊三国同盟

1941年4月 日ソ中立条約(相互不可侵・第3国との紛争は相手国を支援しない ※独ソ不可侵条約と同じ) 期限5年

6月 独ソ戦開戦

1945年2月 ヤルタ会談(米英ソ首脳会談 ソ連に参戦を依頼)

   4~6月 沖縄戦

4月 ソ連、日ソ中立条約不延長を日本に通告
 
5月 ドイツ降伏

6月 国連憲章成立(国際紛争の解決は安保理があらゆる権能を行使 ただし安保理が解決するまでの間、自衛権を容認) 国連発足は10月

7月 米英ソ首脳がポツダム宣言を作成(署名は蒋介石) 米英がソ連に国連憲章に基づいて対日参戦を要請

8月6日 広島に原爆投下

8月8日 ソ連、ポツダム宣言参加を宣言 連合国の対日参戦要請を受けて宣戦布告

8月14日 日本。ポツダム宣言受諾を連合国に通告 翌日、玉音放送

8月26日~9月5日(諸説あり) ソ連軍、アメリカの支援(艦船、武器、上陸訓練など)を受けて北方領土を占領

10月 国連発足 米・英・仏・中・ソの5か国が安保理の常任理事国に。

 こうした経緯から考えて、日本がポツダム宣言を受諾を連合国側に通告した時点(8月14日)で、連合国軍総司令官のダグラス・マッカーサーは連合国軍を構成している各国に「撃ち方止め」の指示を出していなければならない。ましてソ連は8月8日にはポツダム宣言の宣言国に加わっており、その時点でポツダム宣言国は米・英・中・ソの4か国になっている。日本がポツダム宣言受諾を通告した後に、すでにポツダム宣言国として名を連ねていたソ連が「戦争継続中」として北方4島を侵略・占拠した根拠を、日本政府は厳しく追及すべでではなかったのか。
 私は最近ある大手メディアにこういう提案をしたことがある。「メディア1社だけでは手に負えないだろうから、他のメディアにも呼び掛けて共同調査団を作り、アメリカ・イギリス・中国・ロシアなど関係国の公文書を調べるだけ調べ、ソ連がどういう経緯で日ソ中立条約を一方的に破棄し、対日参戦に至ったのかの経緯を明らかにしてほしい」と。とりわけロシアのラブロフ外相が河野外相との会談で、「交渉の前提として北方領土という呼称は使うな。歯舞・色丹・国後・択捉はロシア領であることをまず認めることだ」と、ちゃぶ台返しのようなことを言い出した意味と、その主張の「正当性」を関係各国の公文書で裏付けることを要求すべきだ。いたずらに日本の立場の主張を繰り返しても、議論は平行線をたどるばかりだ。
 議論は、個人間であっても組織間であっても、また国際間であっても、自分の主張を繰り返すだけでは絶対に解決しない。相手の主張に疑問を抱いたら、その主張の論理的根拠を、けんか腰にではなく誠実に求めるべきだ。「俺はそうは思わない」だけでは議論は平行線どころか、互いの距離がどんどん開いていくばかりだ。日本もロシアも、子供のけんかのような言い合いに終始するのではなく、「平和条約締結は両国にとってどういう効果をもたらすのか」「領土問題の解決は両国にとって、とりわけ日ソ両国の経済的相互依存関係の構築に計り知れない効果がある」「両国の経済的相互依存関係が深まることは両国の安全保障にも計り知れない効果がある」ことを、冷静に考えて双方が交渉に臨んでほしいと、私は願っている。

 なお昨日(27日)、『たけしのTVタックル』を見ていて感じたことがあり、テレビ朝日の視聴者センターに電話した。韓国の文大統領の大法院(日本の最高裁に相当)を受けての発言「日本は歴史についてもっと謙虚であるべきだ」についてである。前に私はブログで書いたが(昨年12月1日投稿の『徴用工問題――日韓どっちに分がある? 日本政府はかつて個人請求権を認めていた!』)で、1991年8月27日、外務省条約局長(当時)の柳井俊二氏(のち、安倍総理の私的懇談会の座長を務めて「集団的自衛権行使容認」の露払いをした人物)が、衆院予算委員会で「請求権協定は個人請求権に影響を及ぼさない」と答弁している。私はその事実を朝日新聞に伝え、朝日新聞は同月4日に「90年代には、韓国人の戦争被害者が日本で(賠償請求を)提訴し始めたが、政府は従来と矛盾する解釈は取れず、『個人請求権は消滅していない』との国会答弁を続け、訴訟でも『請求権協定で解決済み』とは抗弁しなかった」と報道した。
 その後、私はNHKふれあいセンターのスーパーバイザーに電話でそのことを伝え、「たとえ、一時的に国益に反しても、歴史認識の根幹にかかわる問題だから、柳井氏に取材して氏の発言の真意を含めて報道してほしい」と要請した。が、NHKはいまのところ沈黙している。報道局長の小池某が許可しないからかもしれない。
 私は現在、慰安婦にせよ徴用工にせよ、請求権協定で解決済みなのか、あるいは未解決なのかの判断はできない。私個人の調査能力を超えてしまっているからだ。あとはメディアの良心を待つしかないと思っている。
 ただ、文大統領の「日本は歴史に謙虚であるべきだ」という発言が徴用工問題に限らず、日朝併合によって生じたあらゆる事例を意味しているなら、文大統領にこう提案したい。
「韓国の国会で日本を併合するという決議を採択せよ。そして決議が成立したなら、日本政府に対して『過去を償わせるため、日本を併合することにした。日本政府は国会でこの韓国国会の決議を容認せよ』と公式に日本に要求を突きつけてごらん」と。
 言っておくが、日本が朝鮮を併合した経緯は、日本が朝鮮と戦争して軍事占領した結果ではなく、朝鮮の国会で「日本との併合」を決議した結果である。もちろん、私は朝鮮国民の自主的判断だとまで言いたいわけではない。日清・日露戦争の結果、朝鮮国内でそれまで従属関係にあった中国やロシアを当てにできないという事態から日本との併合を望む親日派が勢力を伸ばし、朝鮮側の求めに応じるかたち(あくまで「かたち」)で日本が朝鮮を併合することになったという経緯もある。実際、日本でも当時、朝鮮を併合することによって日本が被る負担の膨大さから併合に反対する勢力も少なからずあった(とくに経済界には反対派が多かったようだ)。が、朝鮮を足場にして大陸進出を目指していた軍部が反対派を押し切って併合容認に持ち込んだという経緯もある。
 実は日清戦争時も、日露戦争時も、日本は朝鮮に自主独立を勧めていた。そうした日本側の姿勢から、朝鮮国内で親日派が勢力を伸ばしてきたという事実もあり、常に大国の保護を求めてきた朝鮮民族の負の歴史が日朝併合の底流にあったことは紛れもない事実である。
 かといって、私は日朝併合は日本にとっても負の歴史であるという歴史認識は強く持っている。たとえ、時代がそういう時代だったとしても、やはり私たち日本は朝鮮の人々にぬぐい切れない屈辱を強い、彼らを虫けらのように扱ってきた事実は否定できないものがある。
 歴史認識は、「勝てば官軍、負ければ賊軍」「敗軍の将、兵を語らず」を基準にすべきではない、と私は何度もブログで書いてきた。歴史に「たら・れば」は禁句、と言われるが、「たら・れば研究」こそが、二度と同じ過ちを犯さないための絶対必要条件だと私は考えている。未来志向の新しい歴史を築くためには、「たら・れば研究」は不可避である。そこから新しい「未来志向の歴史認識」を生み出したい、と私は考えている。







いま日本が直面している諸問題(改憲・沖縄・アベノミクス破綻)について、私はこう考えた。

2019-01-21 00:04:47 | Weblog
 あの悪夢のような「国益至上主義」の嵐が再び世界を覆いつつある。
 どの国も、政治の根幹が国益重視にあることは、私も全否定はしない。が、自国の国益のみを考え、他国の国益を無視するような政治は憎悪と対立しか生まない。そのことを私たち人類は、二度にわたる世界大戦から学んだはずではなかったのか。だからこそ人類の英知ともいえる国連憲章を作り、その憲章をベースに国際連合を作り、国連の下で国際間の紛争を回避してきたはずだ。
 もちろん国連の安全保障理事会(安保理)は大きな欠陥を持っている。常任理事国5か国が拒否権を持っているため、核兵器の根絶はほとんど困難という問題だ。現に世界の大多数の国が「核兵器禁止条約」に賛成しているのに、核大国である常任理事国5か国が核不拡散条約で核の独占を図り、世界で唯一の被爆国である日本も、アメリカに同調して核兵器禁止条約に反対している。「日本はアメリカの核の傘で守られているから大丈夫」という幻想を信じ、「自国さえ安心なら他国のことなど知ったこっちゃない」と言わんばかりの姿勢だ。
 が、現実的にはありえないだろうが、もしロシアや中国と日本が抜き差しならない紛争を生じ、日本が核攻撃を受けたらアメリカはロシアあるいは中国を核攻撃するだろうか。絶対に、しない。そこまで日本と道連れになるつもりなど、アメリカ政府は毛頭考えていない。
 だから自民党の一部から非核三原則(もたず・つくらず・もちこませず)のうち「もちこませず」は廃止すべきだなどという議論も出てくる。「もちこませず」を廃止しようというのは、もちろん日本の自衛隊が保有するという意味ではなく、米軍基地に核配備することで日本の抑止力にしようという考えだが、確かに抑止力にはなりうるが、有事の際に米軍が実際に核を使用するかどうかはわからない。おそらく「張り子のトラ」程度の抑止力にしかならないだろう。
 かつては日本も核武装すべきだと真面目に主張した国会議員もいたが、さすがに相手にされなかった。
 もし、日本が核武装したり、米軍基地に核を持ち込ませたりしたら、近隣諸国にとっては重大な脅威になり、日本に対して敵視政策をとるだろうことは、子供でも分かる理屈だ。日本の核武装を唱えたり、核の持ち込みを主張したりする国会議員たちは、近隣諸国が保有する核に対する抑止力として必要だと考えているからだ。
日本だけがそういう発想をしてもいい、と他国は考えてくれるだろうか。日本が核武装したり、核を持ち込ませたりしたら、日本の核が近隣諸国にとって重大な脅威になり、日本の核に対する抑止力として「我が国も核武装しなければ」と考えるにきまっているとは、思わないのか。
だから私は前回のブログで軍事的抑止力には限界があり、最大の抑止力は近隣諸国との平和友好的な関係を構築することだ、と書いたのだ。

ところで日本にとって最大の抑止力とされている「日米同盟」だが、その根幹をなす協定が安倍総理の祖父・岸信介総理が1960年に強行成立させた日米安全保障条約である。が、この条約は日本に有利すぎるという批判がアメリカでは今日でも根強くあり、その批判の根幹をなすのが「アメリカだけが日本防衛の義務を負い、日本はアメリカ防衛の義務を負っていない」という片務性に対する指摘だ。
実は日本政府もそうした批判をかわすため「地位協定」という、米軍には日本の警察権が及ばないという屈辱的な協定も付帯されており、その最大の犠牲になってきたのが沖縄県民であった。しかも日本は米政府から「半従属国」とみられても仕方がない協定によって、米軍兵士の犯罪にも日本の警察権が及ばないというアメリカにとって極めて都合のいい状況を米国民に周知していない。
また沖縄県に集中している米軍基地は、実は日本防衛のためではなく極東地域でのアメリカの覇権を守るための存在である。政府は沖縄に集中している米軍基地について「日本にとって重要な抑止力だ」と主張しているが、沖縄の地政学的状況を考えた場合、沖縄を攻撃する国があるとは到底考えられないし、また沖縄方面を経由して日本本土を攻撃することもあり得ない。実際、過去、沖縄が戦場になったのは南シナ海方面の東南アジア諸国を支配下に置いていた日本軍を撃破して北上を続けた連合軍(実態は米軍)が、日本本土攻撃の最前線基地として沖縄を攻略する必要があったときだけである。
沖縄(旧琉球王国)は、徳川時代に島津藩に侵略されるまで、一度も他国と戦火を交えたことがない。いまさら沖縄県民も日本から独立して琉球国を再建しようとは考えていないだろうが、そうした過去の経緯からとくに沖縄県と県民に対しては、日本政府は格別の配慮を払うべきではないだろうか。具体的には沖縄県を「特別自治県」と指定して観光と自由貿易圏として経済的自立をバックアップするのが、過去から現在に至るまで国策として大きな犠牲を強いてきた沖縄県と県民に対する最大の責務だと思う。
私は過去にもブログで書いたが、安倍総理が従来の内閣法制局による解釈を変更して集団的自衛権の行使を可能にする安保法制を成立させたのは、日米安保条約を双務的な関係に近づけるためだと、私は思っている。それならいっそのこと、自衛隊基地をアメリカの要所に展開して、日本もアメリカを守るという姿勢を鮮明にしたほうがいい。もちろんアメリカには日本と同様の「地位協定」を結ばせる必要がある。「思いやり予算」もちゃんとつけてもらう。
「アメリカの戦争に巻き込まれるではないか」というばかげた批判が出るかもしれないが、アメリカを攻撃する国など世界のどこにもない。北朝鮮だけが依然として挑発的姿勢を崩していないが、本気でアメリカと戦争をするほど馬鹿ではない。そう考えれば、アメリカに展開する自衛隊は世界一安全な部隊ということになる。しかもそうすることによって、日米同盟は完全に双務的な関係になり、日米関係は米英関係より強固な同盟関係になる。日本の自衛隊がアメリカを守るために血を流す用意があることを、米本土やハワイなどへの自衛隊基地展開によって示せば、いまだに根強い「アメリカのために血を流してくれない日本のためにアメリカ人がなぜ血を流さなければならないのか」という批判も米国内から消滅する。こんないいこと尽くめの話は他にないと思うが…。日本の安全保障環境は揺るぎないものになり、ひいては世界平和にも貢献できる。安倍総理はいちやくノーベル平和賞候補の筆頭に躍り出るだろう。
 以上私の提案は、安倍政権の安全保障政策に対する批判でも冗談でも、ましてや嫌味でもない。世界で唯一、世界最強国のアメリカに、アメリカとアメリカ人を守るためにわが日本の自衛隊が血を流す覚悟で駐留することは、日本の国際的地位を格段に高め、韓国からバカにされるようなこともありえなくなる。いま、日本が世界中からなめられていることくらい、さすがに安倍さんもわかっているだろうから…。
 もちろん私の提案が非現実的であることは百も承知だ。アメリカ政府がアメリカ国内に自衛隊基地を作ることを容認するわけがないし、日本も現憲法の下では不可能なことは他人に言われなくてもわかっている。ただ安倍総理が「憲法改正の目的は、我が国もアメリカを守るために血を流す覚悟があることを国際社会に表明するためだ」と言えば、アメリカの世論も激変する。アメリカがなぜ沖縄に米軍基地を集中してきたことの意味について、「日本を守るため」という虚構を論理的に説明する義務も生じる。さあ、安部さん、どうする?

 私のブログはいつも長いので、今回はここまでにするつもりだった。上記までの原稿自体は12日には完成していたが、前回のブログ読者数が私の決めている基準をなかなか下回らないので投稿が延び延びになっていた。そうこうしているうちに厚労省が15日、重要な情報を公表した。16日付朝日新聞朝刊によれば厚労省が「初めて公表した2040年の労働人口の推計」ということだが、同紙によれば推計は「経済が停滞して仕事をする高齢者と女性の割合も今のままだと、17年より18.8%減って5460人になる」という。なお17年の労働人口は6720万人。したがって労働人口の減少数は23年間で1260万人、単純平均で毎年5万4800人ずつ減る計算だ。
 厚労省は今後の見通しについて、アベノミクスが成功して経済成長が進み、女性や高齢者の労働参加が進めば労働人口の減少に歯止めがかかり、2040年の労働人口は6195万人と、525万人減で済むという。が、朝日はこの見通しは甘すぎるという。
「その前提は安倍政権が成長戦略で掲げた政策がうまくいき、実質2%という高い経済成長が続くことだ。過去10年間で、実質2%超の成長を達成したのは10年度と13年度だけだ」(松浦裕子)
 ただ松浦氏が指摘した10年度は安倍政権時代ではない。
 私は朝日の記事にいちゃもんをつけるつもりはないが、高齢者の労働市場参加はいいとして、女性の労働市場参加の割合が厚労省の「甘い見通し」のように増えた場合(※朝日の記事ではどういう割合で女性の労働市場参加が増大するかの根拠は不明)、女性の合計特殊出生率(一人の女性が出産可能な15~49歳までに産む子供の数の平均)がどう変動するかが極めて重要な指数になる。
 合計特殊出生率は戦後のベビーブームが続いた1944年までは4%台をキープし、この前後に生まれた子供たちが高度経済成長を支える中核的役割を果たしてきた。が、1950年ころから出生率は減少に入り、52年には一気に2%台に突入、75年以降は1%台になる。特に95年以降は出生率の大幅減時代に突入、以降出生率が1.5%を超えた年はない。
 こうした少子化の原因は、私がブログで何度も書いてきたように、急速な核家族化の進行と、女性の高学歴化により、女性の「生き方」についての考え方や価値観が大きく変化したこと、また社会も高度な能力を有する女性労働力を必要とし、女性も仕事や社会での活躍に生きがいを求めるようになってきたことにある。だから政治家は選挙の時の女性票の獲得のために保育園づくりに一生懸命になっているが、それは「子育て支援」にはならず「女性の活躍支援」という結果しか生まない、と書いてきた。
 つまり、女性が労働市場に参加する機会を増やすには、さらなる「女性の活躍支援」を続ける必要があり、そうすれば必然的に合計特殊出生率は低下せざるを得ず、1%台を切るのも時間の問題ということになる。女性の労働市場参加が増えるということは、さらに少子化が進み、かえって労働市場に参加する女性の数は長期的には減少傾向に入ることを意味する。
 誤解を避けるためにあえて書くが、私は女性の労働市場参加に反対しているわけではない。女性の労働市場参加の機会が増大すればするほど少子化が進み、労働人口はかえって減少するという事実を指摘しているだけだ。

 しかし、朝日新聞が(朝日だけではないと思うが)、労働省の、頭のめちゃくちゃ悪い官僚たちが行った机の上での「労働人口の推計」を記事にしてくれたおかげで、私のこれまでのアベノミクス批判が論理的だけではなく、現実の数字によって裏付けられたことに感謝している。
 日本では個人消費(=個人需要の総量)のGDP(国内総生産)に占める割合が約6割とされている。政府支出や民間投資が約3割だ。借金してでも消費傾向が強いアメリカでも個人消費がGDPに占める割合は7割で、だから個人消費は「経済成長のエンジン」と呼ばれている。安倍総理がバブル崩壊以降の経済停滞を「個人消費の冷え込みによるデフレ不況」と位置付けてインフレ政策(金融緩和によって消費を刺激し、物価指数を上昇させることで購買意欲をさらに刺激するというケインズ経済政策)を続けているのも、実は労働人口が減少しなければ、という前提がなければ成り立たない理論なのだ。
 が、すでに述べたように、女性の合計特殊出生率は1975年以降2%を切っており、労働人口が減少する時代が早晩来ることは、ほんのちょっと頭を働かせれば誰にでもわかる話だ。杉田水脈なる国会議員が雑誌で「LGBTは生産性がない」と書いて「差別表現だ」と批判を浴びたが、杉田は子供を一人しか産んでいない。夫婦二人で子供を一人しか作らなかったら、「逆ねずみ算」式で人口は減り続ける。LGBTの方たちの生産性を問題にする前に、てめえの生産性について少しは考えろ、と私は言いたい。
 ま、杉田みたいなアホはほっとくとして、GDPの大きな割合を占める個人消費の大半は労働人口が占めている。年端のいかない子供たちが小遣いで消費する金額などたかが知れているし、私も含めて高齢者は買いたいものがあまりない。日本のエンゲル係数(総支出に占める食費の割合)の上昇が日本だけでなく先進国に共通の現象として見られているのはそのためだ。
 そういう状況の中で経済成長至上主義を経済政策の中心に据えてきたのが、金融緩和によるインフレ政策で「デフレ脱却」を目指そうとしたアベノミクスの正体なのだ。

 なお世界中で「日本人は貯蓄好き」という「神話」が罷り通っている。言っておくが、日本人は国民性として貯蓄好きなのではない。明治維新で政権交代を実現した明治政府は、欧米列強に追い付け追い越せと、「富国強兵・殖産興業」を国家建設の最大の柱にした。が、近代産業を起こして軍事力を強化するためには、当然のことながら「かね」が必要だ。国民からそのための資金を吸い上げるために、「二宮金次郎」神話をでっちあげて、あらゆる小学校に金次郎像を設置し。貯蓄を奨励したのが、「日本人は貯蓄好き」という日本人像が世界に広まった遠因である。
 そもそも徳川幕府時代、日本人は消費大好きだった。「無尽」という特異な金融システムが大流行したし、「江戸っ子は宵越しの金は持たぬ」というキップの良さを誇りにしていたくらいだ。あまりの急激な消費拡大は当然ながら悪性インフレを呼ぶ。デフレ・インフレは別に資本主義経済の時代に入ってからの経済現象ではない。「豊作貧乏」つまりデフレ岩礁は人間が経済活動を始めたときから生じていた。消費の過熱を抑え込むため、8代将軍・吉宗は「享保の改革」で質素倹約を庶民に命じたくらいだ。
 戦後も近代産業復興のために必要な資金を国民から吸い上げるために政府は「護送船団方式」と呼ばれる「弱者救済横並び」の金融機関保護行政を続け、おそらく大小金融機関支店網(対人口比)は世界に類を見ないほどの超過密状況になっている。ようやく日銀のマイナス金利政策で支店網の維持が過大な負担になってきた金融機関が支店網の整理縮小を始めようとしているが、そこで問題が生じたのは日本特有の「年功序列・終身雇用」の雇用形態だ。経団連が日本型の雇用形態の見直しを言い出したのは、金融機関のリストラ支援のためだ。そのくらいのことは、わかってよね。(以上16日記す)

【追記】 とうとう日銀黒田総裁が金融緩和政策の失敗を認めたようだ。18日付朝日新聞朝刊の記事を引用する。(18日記す)

「日本銀行の黒田東彦(はるひこ)総裁は17日、都内で開かれた主要20カ国・地域財務相・中央銀行総裁会議の関連シンポジウムで講演し、人口減や高齢化で潜在成長率(日本経済の基礎体力を示す数値)が低下すると、超低金利でも景気拡大が難しくなる「ゼロ金利制約」に直面するリスクが増すと指摘した。それでも金融緩和などで景気を刺激する方法は「伝統的金融政策とは異なる効果、副作用を伴う可能性がある」と語った」

 だが、いかなる政策も、私がブログでたびたび書いてきたように、メリットを受ける側とデメリットを受ける側が生じる。例えばTPPにしても前回のブログで書いたように、日本では工業製品のメーカーにとっては競争条件が有利になるケースが多いだろうが、農畜産業者にとっては極めて厳しい競争が強いられる。消費者vs生産者の関係でみれば、消費者は輸入農畜産物が安くで買えるようになるからメリットが大きいが、生産者は自分が属する産業分野によって利害が対立する。
 黒田総裁は金融緩和政策の「副作用」に、いまさらながら初めて気が付いたのか。もし、マジに今気づいたのだとしたら、彼の頭脳は中学生レベル以下としか言いようがない。薬にしても、非常に効果がある「劇薬」ほど副作用も大きい。アベノミクスを成功させるためのマイナス金利政策は、まさにそうした類の「劇薬」だったはずで、いまさら責任逃れのようなことは言ってほしくなかった。私はそうした「副作用」をとっくの昔から指摘してきたはずだ。日銀総裁の地位を俺に譲れ。

【さらに追記】 今朝(19日)のテレビ報道によれば、2月末に2度目の米朝首脳会談が行われることがホワイトハウスから発表された。この会談で太平洋の緊張が春を迎えるのか、あるいは極寒の冬に戻るのかはまだわからない。ただ気になるのは2度目の米朝首脳会談を発表したサンダース報道官は、北朝鮮の完全な非核化が確認されるまで圧力と制裁を緩めるつもりはないとくぎを刺したことだ。
 私は、昔だったら国交断絶の寸前と言ってもいいほど最悪な関係にある日韓関係について、韓国政府の対日姿勢に対して大半の国民と同様、怒りを覚えている。が、そうした感情を置いておいて、韓国・文大統領が米側に提案している「朝鮮半島の非核化と制裁緩和は相互的に行われるべきだ」という主張は支持する。もしサンダース報道官が北朝鮮に譲歩を迫るためのブラフなのか本気なのかは不明だが、「まず非核化ありき」では何回首脳会談を重ねても時間と経費の無駄になるだけだ。もし、文大統領の提案が非現実的だというなら、私が最も現実的な北朝鮮の非核化方法を提案してみよう。
 それは一定の条件付きで、北朝鮮が保有する核とミサイルを中国に預けることだ。そのうえでアメリカと日本を含め国連加盟国が北朝鮮に対する一切の圧力と制裁を解除した時点で、北朝鮮の核とミサイルを中国政府が買い上げ、国際社会が二度と北朝鮮に対して敵視政策をとらなければ、中国が北朝鮮から買い上げた核とミサイルは永遠に返さないことを国際社会に向かって約束することだ。
 また朝鮮半島の統一については、他国は一切干渉しないこと、朝鮮民族が自分たちの英知を絞って統一への道を歩んでいくことを、国際社会は温かく見守っていきたいと思う。

今年はどんな年? 選挙&憲法改正? 民主主義は前進OR後退?

2019-01-08 01:05:27 | Weblog
 今年の新年もいつもと変わらぬ風景が、そこかしこに見られた。私も近所の神社に「初詣」に行ったが、集まった人々の顔は例年と変わらず明るかった。それほど皆が幸せ感を抱いて新年を迎えたのだろうか。もっとも日本人のすべてが着飾って「初詣」に出かけたわけではないし、私も普段着で出かけた。
日産の独裁者だったゴーン氏は留置所の中でカップラーメンの年越しそばをふるまわれ、元日には形ばかりのおせちも出たという。ゴーン氏にしてみれば「一日にして天と地がひっくり返った」ような昨年だっただろう。自業自得だったのか、それとも検察の勇み足だったのかは、裁判の行方を見守るしかない。私自身は、おそらく検察がメディアにリークしたであろうゴーン氏の「悪業」の数々も、また日産経営陣の告発も、「眉唾」で聞いている。もしゴーン氏の言い分のほうに理があれば、あるいは理がなくても、検察と司法取引した西川社長をはじめ日産経営陣も、共同正犯とまでは言えないにしても、最低でも「見て見ぬふりをしてゴーン体制」を支えてきた取締役義務違反のそしりはぬぐえないだろう。

 昨年末の『今年最後のブログ』で、安倍総理の今年の漢字「転」をからかって「わかっているなら、早よ転んでくれや」と書いたが、残念ながらそう簡単には転びそうもない。
 私の漢字はつねに「問」である。「疑問」の「問」であり、いかなることも鵜呑みにはしないという、いやらしい性格の表れでもある。もっともジャーナリストが素直になったら、世の中はどうなるだろう。
世界には様々な情報が飛び交っている。情報の出どこの多くは要人の発言だ。たとえば年末から年初にかけて世界の株式市場や為替が大きく動いた。その原因は米FRB(アメリカの中央銀行)議長の発言と金利きき上げ、それに対する大統領の「解任発言」である。
 各国の中央銀行の金利政策は、基本的には自国の消費者物価指数の動向を最大に考慮する。日本を例にとれば、安倍総理が日本の経済状況を「デフレ不況」と決めつけた瞬間から日銀の金利政策はスタートした。日本経済は確かに停滞していたが、その根本原因を、アベノミクスを提案した経済学者の浜田氏すらわかっていなかった。前回のブログでも書いたが、デフレかインフレかは需要と供給のバランスが一方に傾いたときに生じる。日本の場合(日本だけではなく世界で先進国共通の現象でもあるが)、少子高齢化によって年々需要は減少せざるを得ないのは当然である。だから私は安倍第2次政権が発足した時に『新政権への期待と課題』と題したブログで需要を喚起するには相続税と贈与税の関係を逆転して、高齢の富裕層が貯めこんでいる金融資産を若い世代に移せと提案した。ま、孫の教育資金として非課税枠を増やしはしたが、それで経営状態が良くなったのは学習塾だけだろう。教育の範囲がどう定められたかは知らないが、ひょっとしたらスポーツや囲碁将棋の世界も認められたのかもしれない。若い世代が、どの分野であろうと育つことは私も喜んではいるが、その原因が非課税の教育資金贈与にあるとしたら、そう素直には喜べない。
 私が「問」を常に自らの思考回路のベースに置いているのは、そういう疑問を抱くことを常に心がけているせいだ。なぜ「デフレ不況」が続いているのか。その原因を論理的に追求せずして、金利政策によって需要を喚起しようとしてきたのがアベノミクスであり、その6年間の結果がどうだったのかを論理的に分析するのが経済学者でありジャーナリズムだと、私は考えている。

 かといって私は別に特定の党の支持者ではないから、政権交代させるために権力批判をしてきたわけではない。安部政権は民主主義の宿命的ともいえる致命的欠陥を、これ以上は不可能といえるほど巧みに操って一強体制を構築してきた。私はこれまでブログで20回にわたって『民主主義とは何かが、いま問われている』と題する連載記事を書いてきた。
 民主主義という政治システムは多数決原理に基づいている。この基本的原理を否定したら、民主主義という政治システムは成り立たない。
 なぜ民主主義の政治システムに多数決原理が導入されたか。政治に民意を反映させるためだろう。が、民意は権力者によって容易に操ることができる。だから北朝鮮も国名を「朝鮮民主主義人民共和国」として、国民の大多数は矛盾を感じていないようだ。金体制に逆らう人は「反逆者」あるいは「国家転覆謀略者」として、北朝鮮の「民主主義体制」から排除されてしまうから、「民主的」に独裁体制が構築される。同様なことは戦前に日本やナチスドイツでも民主主義の名のもとに行われてきた。
 民主主義政治が行われていると、大半の国民が思い込んでいる日本でも、実は民主主義の根幹にかかわるような選挙で、安倍総理は「独裁」に近いといえるほどの一強体制を構築してきた。言うまでもなく自公が衆参両院で圧倒的多数を占める状況では自民党総裁が総理の座に就くことは至極当然といえる。ところが、自民党総裁選が民主主義の原則を逸脱しているのだ(野党の代表選も同様だが)。
 第2次安倍政権が発足する直前、12年9月に行われた自民党総裁選では安倍、石破、石原の3氏が総裁選に立候補した。自民党総裁選はなぜか、党員選挙(あえて「党員選挙」と書く)と、国会議員選挙(あえて「国会議員選挙」と書く)の2段階で行われる。
 12年の総裁選では、党員選挙で石破氏が165票、安部氏が87票と2倍近い大差をつけて石破氏が勝った。党の総裁や代表は党所属の国会議員の代表ではなく、本来は党員の代表であるべきではないだろうか。国会議員であろうと、地方議員であろうと、一般党員であろうと、1票の重さは同じはずだ。それが民主主義政治の根幹をなす選挙制度だ。その党員選挙の結果を、国会議員選挙でひっくり返した。こういうやり方って、共産圏の国の選挙制度とそっくりじゃない?
 昨年の自民党総裁選の報道について私はNHKと朝日新聞に「地方票と議員票」という言い方はおかしい。自民党が総裁選のまやかしをごまかすために、そういう言い方をしてきた経緯があるのかもしれないが、では地方票には東京や大阪などの大都市の党員の票は含まれていないのか。「地方票」という表現や表記はやめて「党員票」とすべきだと申し入れてきた。
 NHKが私の提言を受け入れたのか否かは知らないが、総裁選についての報道では終始「党員票」「議員票」と位置付けるようになった。一方、朝日新聞は表記が混乱していた。記事の多くは「党員票」と表記されるようになったが、一部「地方票」という表記が混じっていた。で、その都度、私は朝日新聞の読者対応窓口の方に、表記を「党員票」に統一するよう申し入れてきたが、一向に改められない。で、9月13日、朝日新聞の表記の混乱についてブログで告発することを伝えたうえで、17日投稿のブログで書いた。びっくりしたのは総裁選翌日の21日の朝日新聞朝刊の記事である。1面トップから解説記事、「時々刻々」「社説」に至るまでものの見事に党員票を「地方票」という表記に統一してしまったのだ。そのことも17日投稿のブログに【追記】として書き加えた。
 次の総裁選では、私がまだ元気でブログを書くことができる状態にあれば、「党員票vs議員票」という選挙の構図の表記について、「党員選挙vs国会議員選挙」と改めるよう自民党本部やメディアに申し入れるつもりだ。そうすれば総裁選で国会議員の一票が国会議員以外の党員の2000倍を超える格差を有していることがだれの目にも明らかになる。自民党総裁選が、いかに民主主義を破壊した構図になっているか。最も自民党だけではないが…。
 自民党よりもっとひどいのは共産党だ。共産党の主張内容には支持できることも少なくないが、党の執行部は最終的には選挙結果の責任を取らなければならない。それが民主主義政治の原則だ。
共産党は17年11月の衆院選挙で惨敗した。「立憲野党に選挙協力したため」というのが敗北を正当化する理由だったが、その前の参院選では1人区で民主党と選挙協力した結果、民主党は惨敗したが共産党は躍進した。そのときの共産党の総括は「選挙協力という我が党の方針が正しかった」と、胸を張ったはずだ。整合性が取れない論理で選挙のたびに執行部の選挙方針を正当化し、そうした執行部に「おかしい」という疑問の声さえ出ない共産党の体質を、私は支持するわけにはいかない。結果に対して執行部が自ら責任を取らずに済む世界は、宗教だけだ。

今年は皇太子に皇位が継承されて新しい天皇が誕生するとともに、選挙の年でもある。4月には統一地方選挙があり、7月には参院選がある。すでに6月衆院解散・衆参同時選挙の声さえあちこちから噴き出している。もちろん衆院を解散するにはそれなりの大義名分が必要だ。メディアでは三度消費税増税の延期を行うために「国民に信を問う」という「大義名分論」もささやかれている。時あたかもアップルが業績の下方修正を発表したことで世界同時株安が生じたこともあったためだが、いわゆる「アップル・ショック」は一時的なものでしかない。安倍総理は「今度消費税増税を延期するとしたらリーマン・ショック級の事態が生じたときだ」と明言しており、リーマン・ショックとアップル・ショックは象とリンゴくらいの差がある(本当はリンゴとの比喩では果物を書きたかったが、私が知る限り最大の果物はスイカで、スイカと比べるならリンゴは大きすぎ、リーマン・ショックとアップル・ショックの差をスイカと比較するならせいぜい甲州ブドウくらいだろう)。リーマン・ショックの時はアメリカだけでなく世界中の金融機関が大打撃を受け、世界経済は大混乱に陥った。バブル崩壊後の一大金融再編成を経た日本の金融界は、リーマン・ショックの直接的被害はあまり受けなかったが、世界経済の大混乱のあおりを免れることはできなかった。仮にアップルが倒産するようなことがあったとしても、リーマン・ショックの時のような金融大混乱は絶対に生じない。
だから消費税増税の延期をいまさら国民に問うことは不可能だし、ありえないと私は考えている。もし衆院解散・衆参同時選挙がありうるとしたら、安倍総理が、何が何でも在任中に憲法改正を強行しようとしている場合だ。
元日、石破氏が「今度の参院選は危うい」と発言した。政治家の発言は額面通りには受け取れない。石破氏がどういう計算でそういう発言をしたのかを考える必要がある。言うまでもなく、石破氏は「ポスト安倍」を狙っている。憲法観は安倍総理とは「月とスッポン」ほど違っているが、この際、衆参同時選挙への道慣らしに協力して安倍改憲をとりあえずさせ、自分が総理になった時、新憲法の下での自衛隊の運用について自分の憲法観を反映させようと考えているのかもしれない。
だが、その前に通常国会があり、統一地方選挙がある。1月後半が予定されている通常国会で安倍内閣は憲法改正を最重要課題として取り組むはずだ。が、立憲民主党がメディアでのPRなどを含む国民投票法案の論議が先だ、と譲る姿勢を見せていない。今回だけは公明党が憲法改正に消極的で(もし公明党が憲法改正に協力姿勢を見せれば、支持母体の創価学会との亀裂が決定的になりかねないため)、その結果、通常国会で憲法議論が宙に浮いてしまった場合、統一地方選挙での自公選挙協力体制にひずみが生じかねない。
その時政界に大変動が生じる可能性が高くなる。つまり安倍自民が山口公明を切り捨て、維新や希望など憲法改正に協力的な第三野党グループとの政界再編成に乗り出す可能性が十分ある。その時、安倍総理は衆院を解散して衆参同時選挙を強行するだろう。もちろん衆院解散の大義名分は「自衛隊が違憲だと考えている憲法学者が7~8割いる。自衛隊違憲論争に終止符を打つことについて国民に信を問う」というものになる。
実はメディアの世論調査によれば、国民の大半(朝日新聞の場合は8割)は「自衛隊は合憲」と考えている。が、現行憲法9条の改正については国民の55%が「反対」である。
私自身は、厳密に憲法の条文に照らして解釈すれば、自衛隊は違憲だと考えている。おそらく憲法学者の大半も違憲だと考えていよう。だが、自衛隊違憲論争が盛んだったのは自衛隊創設時から砂川闘争までの頃であり、いまでは自衛隊という存在は国民生活の中に完全に根付いている。自衛隊違憲論争などという代物は、言うなら墓場に葬られているのが現実だ。だから国民は「自衛隊は必要であり、自衛隊の存在は認められるべきだ」という意味で「自衛隊合憲」と判断している。そう考えなければ、国民の8割が自衛隊は合憲としながら、憲法改正の必要性を認めない、という一見矛盾した世論調査の結果は生じない。
が、安倍総理の小ずるい点は、墓場の中に埋もれている「自衛隊違憲論争」を墓石の下から掘り起こし、あたかも今でも自衛隊員が日陰者扱いされているかのような妄想を振りまくことによって憲法改正論議の焦点にしようとしていることだ。だから、万一憲法改正案が国会で発議されたら、間違いなく国民投票で改正案は過半数の支持を受けてしまう。国民投票に向けて安倍政権は国民にこう訴えることは確実だからだ。
「自衛隊はいまだに違憲の存在だという憲法学者が多い。もしこの国民投票で改正案が否決されたら自衛隊は違憲ということになり、国民の命を守り、大災害の時に避難者を救済するために命懸けで取り組んでくれている自衛隊を、解散せざるを得なくなります。そうなって、いいんですか?」と。
 アメリカ高官筋から「何も今憲法を改正しなくても、集団的自衛権を行使できる安保法制も成立したし、これ以上リスクは冒してほしくない」という声が聞こえきても、安倍総理が意に介さず憲法改正にまっしぐらの突き進もうとしているのは、国会が改正案を発議して国民投票に持ち込めれば、絶対に勝てるという絶対的自信があるからだ。
 野党やメディアが、そうした安倍戦略をどこまで読み切るかが、間もなく始まる通常国会では問われる。すでに述べたように、私の漢字は「問」である。

 ちなみに私の憲法観。もちろん9条についてである。
 自衛隊が合憲か違憲かといった議論など、私はどうでもいいと思っている。すでに述べたように、現行憲法を素直に読めば、自衛隊が違憲であることは自明だ。9条2項で、日本は戦力の不保持と交戦権の放棄をうたっている。である以上、世界でも核を保持していないだけで有数の軍事力を有している自衛隊の存在が憲法に抵触しないという主張は論理的には成り立たない。
 が、過去の政権は鳩山野合政権や民主野合政党政権も含めて「自衛のための『実力(?)』を有することまで憲法は否定していない」と主張してきた。つまり9条解釈の根幹に横たわっているのは、日本の安全保障についての基本的理念である。私は過去の基本的理念を「抑止力神話」と呼んでいる。
 抑止力…とは何か。
「他国からの軍事攻撃や軍事的圧力を防ぐための軍事力」というのが、一般的解釈だろう。だから他国の軍事的脅威に対する抑止力として、自衛隊の「実力」は整備されてきた。中国やロシア、北朝鮮の核に対する抑止力として自衛隊が核を保持しようとしないのは、日本はアメリカの核に守られているという「核の傘神話」を政府もメディアも信奉しているからだ。ところで、そのアメリカの核は、日本にとって永遠に脅威にはならないのか?
 日米安全保障条約という同盟関係があるからアメリカの核は日本にとって脅威ではない、と本気で考えているのが政治家でありメディアだ。しかし日米が親密な関係を築いてきたのは、人類の歴史のほんの70ページほどでしかない。今後も数十年あるいは数百年にわたって続くという保証はあるのだろうか。アメリカが、例えば中国との関係を重視して米中の国益のために「日米同盟」を破棄するといったことは絶対にありえないと、だれが確信をもって言えるのか。歴史には、あらゆる可能性がありうるのだ。
 一方、第2次世界大戦以降、戦争はどこで起きたか。
 言っておくが、戦争とは国と国の軍事衝突の究極的な状態のことである。私の記憶にある限り「イ・イ戦争(イラン・イラク戦争)と「湾岸戦争」くらいしかない。イ・イ戦争はイスラム教の覇権争いから生じた戦争である。湾岸戦争のきっかけになったイラクのクウェート侵攻はクウェートとの軍事衝突はしていない。言うならイラクによる無防備な女性に対する「強姦」的侵略行為だ。だから誰もイラク・クウェート戦争とは呼ばない。日本がかつて朝鮮を併合した時も、日本は朝鮮と戦争をしたわけではない。だから日朝戦争という言葉はない。アメリカを中心とする多国籍軍が行った湾岸戦争はイラク軍vs多国籍軍のあいだでの紛れもない戦争だった。
 朝鮮戦争やベトナム戦争はどうか。朝鮮やベトナムがどこかの国と戦争をしたというのか。そんな歴史的事実はない。いわゆる「朝鮮戦争」は朝鮮共産党軍と大韓民国軍の権力争奪戦であり、その国内紛争にアメリカや中国が軍事干渉しただけだ。いわゆる「ベトナム戦争」も同じだ。では中国の覇権争いであった蒋介石軍と毛沢東軍の戦いを、なぜ「中国戦争」と言わないのか。中国が他国と軍事衝突した戦争ではないからだ。
 なぜ私が戦争の定義にこだわったかと言うと、「抑止力」の性質が第2次世界大戦までと以降とでは根本的に変わったからだ。第2次世界大戦までの戦争の目的は基本的に経済的権益をめぐる強国間の衝突が原因だった。そういう意味ではすべての戦争が当事者にとっては「自衛のための戦争」といえる要素を含んでいた。「盗人にも三分の理あり」といっても差し支えないほどの自分勝手な屁理屈であっても、例えば日中戦争にしても当時の日本政府には「ソ連軍南下の脅威を防ぐため」といった口実があった。
 いわゆる朝鮮戦争やベトナム戦争は、アジア全体への共産勢力の浸透を防止することがアメリカの国策だった。
 そういう観点で今日の世界を見るとき、もはや体制間の軍事衝突はありえない。ソ連や東欧共産圏は体制が崩壊したし、北朝鮮もアメリカと本気で戦争を始めるほど馬鹿ではあるまい。
 では、北朝鮮はなぜ逆立ちしても勝てっこないアメリカに対して、軍事的抑止力として核やミサイルを開発してきたのか。米韓関係が基本にあるためだろうが、アメリカは一貫して北朝鮮に対して敵視政策をとってきた。「テロ支援国家」「ならず者国家」「悪の枢軸」…すべて米大統領が北朝鮮に投げつけてきた言葉だ。現に日本が、日米安保条約がない状態の中でどこかの核大国からあからさまな敵視政策を受けたら、どういう抑止力を持とうとするか。北朝鮮の金委員長が「日本や韓国はアメリカの核の傘で守られているが、我が国は自力で核の脅威から守らなければならない」と核開発の正当性を主張したのは、ある意味正当である。もし、中国なりロシアなりが北朝鮮と安全保障条約を結んでいれば、北朝鮮も国民生活を犠牲にしてまで核開発に狂奔する必要はない。
 そうした北朝鮮の立場を考えたら、いたずらに北朝鮮の核やミサイルの脅威をがなり立て、かえって北朝鮮を挑発するような「抑止力」の強化に奔走する安倍政権の安全保障策が、私には理解できない。
 歴史は繰り返すというが、ある国の軍事的抑止力の強化は、その国にとっては他国の軍事的脅威から自国を防衛するためという理屈があっても、そうした軍事的抑止力の強化は同時に他国にとっては新たな軍事的脅威になるというパラドックスを、政治家もメディアも理解していないのだろうか。
 さらに言えば、兵器の技術的進歩によって戦争は自国の経済的権益の拡大を生むどころか、かえって払う犠牲の大きさや侵略後の新体制の維持にかかるコストを計算すれば、経済的には戦争によって(たとえ戦争に勝ったとしても)得るものより失うもののほうが大きいことに、多くの国は気付き始めている。現にアメリカが「大量破壊兵器を隠し持っている」といった妄想に駆られて起こしたイラク戦争で、結果的に大量破壊兵器などなかっただけでなく、フセインは殺害したものの、その後のイラク経営にかかるコストや宗教対立に巻き込まれるリスクを回避して、破壊するだけ破壊して「あとは俺たちの知ったこっちゃねぇ」と放り出してしまった付けが、現在の中東の混乱やテロの暴発を招いている。アメリカに対して「自分がやったことの責任くらい取れ」と、日本の総理はなぜ言えないのか。アメリカの最大の同盟国のイギリスですら逡巡していたイラク攻撃に、世界で真っ先に「やれやれ」とけしかけたのは日本の小泉総理だったはずだ。
 軍事的抑止力の強化が自国の安全保障にとっては効果を持たず、かえって他国との軍事的緊張を増幅するだけだという理由はお判りいただけたと思う。では、どうやって他国の軍事的脅威を取り除けばいいか。
 経済的・文化的な友好関係を構築することが、実は最大の抑止力になる。たとえば北朝鮮。日本政府が北朝鮮に対して「我が国がアメリカの敵視政策を止めさせるから、逆立ちしても勝てもしない相手に軍事力で対抗しようなどというばかげた政策はやめなさい。そんなことに国力を使うより、国民生活を豊かにするための経済活動の発展に力を入れなさい。そういう方向に政策転換するなら、日本が資金や技術の面で大いに協力してあげるよ」と、金委員長を説得することだ。拉致問題も、こうした方向で日朝関係が良化すれば。おのずと解決に向かう。日本がそういうモデル・ケースを世界に示せば、世界の安全保障環境は大きく変わるだろう。


【追記】産経新聞の速報によれば、現在無所属の細野豪志衆院議員(静岡5区)が自民党二階派と会合を重ね自民党入りを画策しているという。
「驚き木、桃の木、山椒の木」かいな。
 細野氏は言うまでもなく旧民主党の幹部であり、現東京都知事の小池氏と組んで「希望の党」結党に奔走したが、小池氏の「排除」発言で先の衆院選で大敗北を喫し、細野氏は希望の党を離れ無所属になった。
 そうしたいきさつは不問に付するとしても、少なくとも細野氏は自民党と対峙して自公連立政権に代わる政権交代を、彼自身の政治姿勢としてきたはずだ。
 その彼が自民党入党を模索しているという。産経新聞によれば地元の自民党静岡県連は猛反発しているというが。二階派は細野氏を受け入れる意向だという。こんなことが罷り通れば、国民の政治不信は募るばかりだ。
 そもそも細野氏のかつての政治姿勢は何だったのか。
「自らの政治信条を貫くために、政権交代の可能性が低い野党側で政治活動をするより、政権の懐に飛び込んで政権の改革をしたい」と、もし考えているというのなら、いったん議員を辞職してゼロから再スタートすべきだろう。
 細野のような若造は知らないのだろうが、かつて60年安保闘争が終焉した時、いわゆる「文化的進歩人」の代表格であった石原慎太郎氏が、政権の懐に入って改革を目指すと称して自民党入りをして。結局は「ミイラ取りがミイラになった」。ミイラになったどころではなく、自民党改革どころか自民党でも最右翼に転向した。そのことは私が1992年に祥伝社から上梓した『忠臣蔵と西部劇』に書いたが、その少し前石原氏は盛田昭夫氏(当時ソニー社長)との対談集『NOと言える日本』がアメリカで大問題になったことがある。石原氏は雑誌『文藝春秋』で「アメリカの人種差別問題を批判したため」と争点外しをしたが、そんなことでアメリカが怒ったわけではない。石原氏は日本の政治家として致命的なことを同書で書いた(実際には「発言」)。原文通りに引用する。
「要するに(アメリカの兵器は)日本の半導体を使わなくては精度の保証ができなくなってきており、彼らがどんなに軍拡を続けたところで日本が、チップを売るのを中止する、と言えばどうにもならないところまできている。
 仮に日本が、半導体をソ連に売ってアメリカに売らないと言えば、それだけで軍事力のバランスががらりと様相を変えてしまう。(日本が)そんなことを考えるならアメリカは日本を占領する、とあるアメリカの人たちは言っています。確かにそういう時代になってきているのです」
 この引用にはまったく作為をしていない。私はいわゆる「日米同盟」には疑問を持っているし、次回のブログで私の考えを述べるが(原稿はすでに完成している。ただ、いまのブログの読者が増大し続けているので、投稿のタイミングを考えているところだ)、なぜ石原氏の発言にアメリカが憤ったのかは、もはや説明に必要はないだろう。
 でもアホな読者のために多少解説を加えれば、同書で石原氏が「ソ連」と言っているように、まだ冷戦の真っ最中での発言である。当時日米間では貿易摩擦が最高潮に達していた時期ではあったが、こともあろうに日本が兵器の基幹技術ともいえる半導体を、同盟国のアメリカに売らずに敵対国のソ連に売るという発想は、日本の政治に責任を持つ政治家の言うべきことか。
 その石原氏が、その後東京都知事になり無謀というか、無意味というべきか、あるいは「そこまでボケたのか」と言いたい東京オリンピック招致に血眼になったことについて、メディアも一切批判していない。私は東京都都庁の広報室に確認したが、東京オリンピックの開催が決まって以降、東京都民だけでなく全国の国民から批判が殺到したようだ。オリンピック開催期間中は一時的に景気は浮揚するかもしれないが、オリンピック開催のために投じた金やハコモノは間違いなく大きな負のレガシーになる。
 基本的に人口減少が進み、しかも日本人の金融総資産が、金を使わない高齢者に集中している状況で、国内の総需要はいかなる金融政策をとっても回復はしない。外国人労働者を受け入れたとしても、彼らは稼いだ金を本国の家族に送金するだけで、日本在住の人口は増えても日本国内の総需要は増えない。そんなことも理解できずに物価指数の上昇率を対前年比2%というバカげたインフレ政策をとってきた責任はだれが負ってくれるのか。
 細野氏は自分では「ミイラ」になるつもりはないかもしれないが、石原氏の体たらくを、まずどう考えているのか、そのことから「転向」説明をしていただきたい。