小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

統一地方選で立候補者が有権者に訴えるべき本当のことは何だったのか…?

2015-04-27 07:22:35 | Weblog
 統一地方選の後半戦がようやく昨日終了した。予想通りというか、予定通りというべきか、有権者の多くがこのバカバカしい選挙にソッポを向き、各地で投票率は史上最低を記録した。なぜ立候補者たちは、いま日本とくに地方が直面している問題から目をそむけ、絶対に効果のない少子化対策のための保育所作りや、絶対に不可能な高齢者福祉の充実といった公約を掲げ続けるのか。
 私のブログが立て続けに炎上してしまったため、更新ができず賞味期限切れになってしまった記事が少なくない。この記事も4月初めにワードで書き上げていたのだが、より緊急性を要する問題が生じたため「お蔵入り」していた。が、統一地方選が終わった今、多少加筆して投稿することにした。
 政府は4月3日労働基準法の改正案を閣議決定した。法律の改正だから、閣議決定しただけで発効するわけではない。改正案を国会に上程し、衆参予算委員会で集中論議を重ねて可決し本国会で採決を経なければ、いまの段階ではまだ一つの「案」にすぎない。が、野党もメディアも安倍内閣の「案」のデタラメさにまだ気づいていないようなので、この際私が問題点を指摘しておきたい。
 閣議決定された「案」は現行の労働基準法で定められている時間外手当(残業や休日出勤などに対する割増賃金)の法律を改正して、労働者が働いた時間の長短に関わらず労働の成果に対して賃金を決めるという「案」だ。
 実はこの「案」は約1年ほど前から政府内で浮上していた。メディアも「残業代ゼロ政策」(成果主義賃金制度)として大きく取り上げてきた。私も昨年5月21日から3日間にわたり『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結びつけることができるか』と題したブログで問題点を指摘してきた。
 政府が閣議決定したこの「案」は正式に「高度プロフェショナル制度」と命名された。この原案の作成は安倍総理が直々に座長を務めた「産業競争力会議」で昨年つくられたものだ。このときの「案」では、時間外手当を支給しなくてもいい従業員について原則年収1000万円以上の社員を対象とするが、高給取りでなくても労働組合との合意があれば、年収にとらわれず対象に加えてもいいというものだった。ただし、成果主義賃金の受け入れには本人の同意が必要という「救済策」がいちおう盛り込まれていたが、会社vs従業員との力関係を考慮すると、会社側が同意を求めたのに対して従業員は事実上拒めないのではないかという指摘もされていた。この「案」に労働組合側は一斉に「サービス残業が増える」と反発し、メディアも「残業代ゼロ政策」と批判した。
 私自身は原則としてこの「案」に賛成してきた。昨年5月21日に投稿した第1回目のブログで私はこう書いた。
「私は基本的に、その方針については賛成である。が、どうして安倍総理はいつも方針(あるいは政策)が中途半端なのだろうか。総理の頭が悪いのか。それとも取り巻きのブレーンの頭が悪いのか。あっ、両方か…」
 日本人は優秀だ、と日本人は勝手に思い込んできた。戦後の荒廃から短期間で経済の立て直しに成功し、世界第2位の経済大国にのし上がったからだ(今は中国に抜かれた第3位)。
 が、OECD(経済協力開発機構)の調査によれば、2012年度の日本人の労働
生産性は加盟34か国中21位にとどまっている。とりわけショックだったのは先進7か国中に限れば、日本人の労働生産性は19年連続最下位に甘んじているということだ。
 なぜ高学歴社会の日本で、労働生産性が低いのか。おそらく机に向かう時間をだらだらと長くすることで、あたかも一生懸命仕事をしているかのように見せかける習慣が日本の労働現場に定着してきたからだろうと思われる。いま大卒でも理系の場合は引く手あまたで、とくに主に工学・技術系の専門教育を行っている5年生の高等専門学校(高専)卒業生の就職率はほぼ100%に達している。いっぽう文系の場合は就職難が続いている。正規社員として就職できずフリーターになったり、非正規社員として不安定な就業生活を送っている若者たちは少なくないはずだ。
 なぜ文系大卒者にとって不利な状態が続いているのか。事務系の仕事の多くがIT化されて、ルーチンな仕事はほとんどパソコンが処理してしまうようになったからだろう。その結果、民間企業の事務系社員の採用数が激減してしまった。その救済機関として機能しているのが、事実上役所である。私自身の経験を語る。高齢者ということもあって、高額医療費の還付を受けることがときどきある。たかだか2~3000円の還付金を受け取りに区役所の健康保険課まで出向かなければならない制度になっている。あまりにもバカバカしいので、市長に抗議文をFAXで送りつけた。その一部を転記する。

 私は高齢ですから、持病もいろいろ持っています。入院・手術などをした場合は還付金も高額になると思いますが、通常かかる医療費は還付金が生じる場合も少額です。なぜ区役所の職員の仕事を確保するために高齢者が交通費まで自己負担して区役所まで申請に出向かなければならないのでしょうか。
 区役所の保険課に電話をして、保険料を自動引き落としにしている銀行口座に振り込んでほしいとお願いしましたが、「できません」の一点張りです。「できない理由」を聞いても「そういう手続きはしていません」という答えしか返ってきませんでした。確かに区民の利便性を優先していたら区役所の職員の仕事が減ります。何が何でも自分たちの仕事量を確保するのが、この制度の本当の目的ですから、口が裂けても本当の理由を区民に教えるわけにはいきませんよね。
 で、「では還付金請求は2年間可能だから、2年後私が生きているかどうかは分からないけど、とりあえず少額還付が続く間は申請を保留する。ついては、現在保険金は銀行口座からの自動引き落としにしているが、集金に来てほしい」とお願いしました。ところが係の方は「集金はしていません。集金するということになると、職員を増やさなければならなくなりますし、市民の負担が大き
くなりますからね。自動引き落としを止める場合は銀行かコンビニでのお支払
いになりますが、ご高齢の方のようですからその都度足を運ぶのも大変でしょう」という、大変思いやりのあるご返事をいただきました。
 そこまで高齢者に気遣いをしてくださるのなら、なぜ還付申請のために高齢者に足を、銀行やコンビニよりはるかに困難な区役所まで足を運ばせる必要があるのでしょうか。区独自のやり方なのか、市の方針なのかわかりませんが、市長は民間企業の経営を手掛けて来られた経験の持ち主ですからお分かりだと思いますが、民間企業は事務系の仕事をIT化によってどんどん合理化を進めているのに、官公庁(中央も地方も)だけはIT化はするけど職員の仕事の合理化には手を付けないという理由をよくご存じのはずです。

 この皮肉たっぷりの抗議文をFAXしてからほったらかしにしていたが、半年ほどたってから還付金支給方法を銀行振り込みに変えてくれた。こんな程度のシステム変更にも半年かけるのが役所という組織なのだ。日本人の労働生産性の低さは、この一例でも証明されたと言えよう。
 私自身はすでに述べたように、賃金形態を成果主義に変えることには基本的に賛成である。現在の労働時間を基準にした賃金体系の下では、はっきり言って無能な従業員ほど高額の給料を手にすることができるからだ。たとえば、同じ成果を出すのに有能な従業員なら5時間の労働ですむが、10時間かけなければ同じ成果を出せない無能な従業員は、労働時間が倍になるから労働時間を基準にした賃金体系の下では、有能な従業員よりかえって高給取りになる仕組みになっている。
 そういう意味では成果主義(専門的には「裁量労働制)という)を賃金体系の基本にすることによって、有能な人の働く意欲をさらに高め、労働生産性も飛躍的に高まることが考えられる。最近テレビのニュースで見たが、昼寝自由というIT関連の企業の話が紹介された。社長の話では「眠いのに目をこすりながら机に向かっても、仕事の能率は上がらないしミスも犯しやすくなる。ちょっと昼寝をすれば、頭も活性化するし、かえって仕事の能率は上がる。アイディアも出やすくなる」というのが目的らしい。従業員が昼寝をしやすいように、椅子もリクライニングに変えたという。
 私がシアトル郊外にあるマイクロソフトの本社を取材で訪問したことがある。ビル・ゲイツをはじめ幹部数人へのインタビューが目的だったが、驚いた風景を見た。まだ勤務時間内なのに、広々とした芝生の庭で多くの社員が、中には歓談したり、本を読んだり、昼寝をしたりしていた。私はマイクロソフトのやり方にはかなり手厳しい批判もしてきたが、ここまで徹底して裁量労働制を採用していることには「さすがに」と感嘆した。
 マイクロソフトの従業員はすべて個室を与えられており、周囲の雑音に気をとられることなく精神を集中して仕事ができるようにしている。いちおう個室のドアはすべてオープンにしており閉塞感が生じないように気を遣ってはいるが、それでも孤独な環境になりがちだ。解放感に浸りたくなったり、アイディアに行き詰まったりした時、芝生の庭で寝転んで空を見上げて雑念を追い払うのも効果的だと思う。同僚と雑談するのも、気がまぎれるし、雑談の中からアイディアのヒントが得られるかもしれない。

 成果主義賃金は、このように「同一労働・同一賃金」制度をベースにしないと本当の効果は生まれない。賃金の支給基準を年齢や学歴、性別、労働時間などをベースにした年功序列体系を持続させたままで導入しても、逆効果になりかねない。だから安倍さんのやり方は中途半端だと私は言うのだ。
 翻って、これからの日本をどうやって支えていくのかを考えても、思い切って賃金体系を年功序列型から同一労働同一賃金型に大転換する必要があると私は思う。それが辺野古移設問題ではないが、「唯一の解決策」ではないか。
 私は今年、後期高齢者の仲間に入る。私たちの世代は高度経済成長時代、低賃金で必死に働き、2階で年金生活をしていた高齢者たちの生活を支えてきた。その私たちの世代が、今2階に上がり年金生活を送っている。私たち世代は、現役時代に2階に住んでいた高齢者の生活を支えてきただけに、そういう意味では私たちの世代は1階に住む現役世代の人たちに支えられ、悠々自適の生活を送れる権利がある、はずだ。
 が、現実は厳しい。1階の現役世代が2階の高齢者の生活を支えきれない状態になっているからだ。その理由は二つある。一つは高度成長時代と異なり、現役世代の収入が2階の住民を支えられるだけの余裕がなくなりつつあること。もう一つは、医学の進歩などによって日本人の高齢化が進み、2階の住民が増えすぎたことによる。はっきり言えば「定員オーバー」だ。
 さらに深刻なのは、まだ1階に上がっていない地下の住民が減少していることだ。いま1階で、何とか2階の住民である私たち高齢者の生活を支えてくれている現役世代も、いずれは2階の住民になる。そのとき、地下に住んでいる子供たちが1階に上がり、現役世代になったとき、果たして2階の高齢者の生活を支えることができるだろうか。絶対に不可能だ。政治が、そしてメディアは、その逃れようのない現実からの逃避をいつまで続けるのか。
 すでに述べたように、私は今年後期高齢者の仲間入りをする。その私が言うのだ。高齢者が、自ら権利を放棄しない限り、日本の将来はない、と。日本は
すでに人口の減少時代に突入してから4年になる。高齢者の寿命が延びながら人口が減少しているということは、日本の高齢化は幾何級数的に進むことを意味している。日本の少子化には、どうやっても歯止めはかけられない。
 厚労省の調査によれば、合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に産む子供の数)は、地域の人口に反比例して減少している。ブロックごとの出生率は、沖縄・九州・東北が高く、南関東・北海道・近畿が低い。人口が多い地域ほど出生率は低くなる傾向が明確であり、特に東京都23区においてはすべての区で出生率の単純平均は1を割り込んでいる。
 政令指定都市の中でも東京都に続いて出生率が低かった横浜市は10年ほど前から出生率を高めるための実験を行ってきた。保育所を増設して、母親の育児環境を整備することにしたのである。そしていったん、待機児童ゼロを達成した。その結果、出生率は高まったか。横浜市が公表しているデータによれば、2010年の出生率1.30が13年には1.31と0.1ポイント増えた。その間、全国平均は1.39から1.43に0.4ポイント増えている。横浜市が10年かけて行った「待機児童ゼロによる出生率向上作戦」は成功したと言えるのか。なお、子供一人増やすために必要なコストは全国平均で2,780万円かかるという(厚労省の試算)。私は、横浜市の壮大な実験は失敗に終わったと考えている。待機児童ゼロ作戦のために投じた税金は、もっと別のことに使うべきだったのではないだろうか。
 いずれにせよ、保育所の増設は出生率向上には何の役にも立たなかったという現実を、政治家やメディアはなぜ明らかにしないのか。もちろん、育児環境の整備によって、女性の社会進出の機会が増えたという効果を私は否定しているわけではない。いかなる政策もメリットもあればデメリットもある。が、政策はやみくもに行うものではなく、ある目的を達成するために行われる。その目的とは別の結果が生じたのなら、その是非は改めて市民や国民に問うべきだろう。言っておくが、女性の社会進出の機会が増えれば増えるほど、出生率はかえって低下するだろうことは子供でも分かりそうなものだが…。現に、女性の社会進出の機会が日本より多い欧米では、白人系女性の出生率は激減し、黒人系やアラブ系、アジア系移民の女性の出生率だけが増えている。
 私は女性の社会進出を否定するわけではない。女性であろうと男性であろうと、国民一人ひとりが自分の能力を社会のために活かせる社会になることはいいことだと思っている。が、安倍政権が掲げる女性が輝く社会の建設と出生率の向上は、絶対に両立しえない二兎を追う行為だという真実を、国民に明らかにするのが政治であり、メディアの使命ではないのか。
 二兎を追うことが不可能なら、日本の国づくりをどう進めるべきかを改めて国民に問うべきではないか。
 少子高齢化とひとくくりにして言われるが、少子化と高齢化は切り離して対策を考えるべきだと私は考えている。
 少子化に歯止めがかけられないなら、高齢化対策に政策の軸足を移さなければならない。いま、政府は高齢化対策として年金を減らし、高齢者の健康保険負担を増加させようとしている。昨年4月から前期高齢者の健康保険負担を2割に増やした。やり方が間違っている、と私は考える。
 テレビのニュースで見ていると、統一地方選の候補者たちはいずれも「高齢者福祉の充実」を訴えている。私には中身が空っぽの「玉手箱」をばらまこうとしているようにしか見えない。高齢者福祉を充実させるための財源をどうするのかを考えずに、ひたすら高齢者の票を獲得せんがための空約束でしかないからだ。いつまで有権者も、そうした空っぽの「玉手箱」に期待して投票してしまうのか。アリストテレスやプラトンが、あの世で「そら、見たことか」と腹を抱えて笑っているのが目に見えるようだ。

 これからの日本を考えると解決策はこの方法を実行するしかない。
 ひとつは、中途半端ではあるが、安倍政権が発足したとき、私がブログで提案したことの一部はすでに行われているが、それを徹底することだ。当時私がブログで提案したのは贈与税と相続税の関係をひっくり返して、贈与税を軽減化し、反対に相続税を重くすることだった。なぜそんな提案をしたのか。
 私の周りにもいっぱいいるが、大金をため込んでいる高齢者はカネを増やすことしか考えず、消費に回して日本経済の活性化に寄与しようなどとは考えていないからだ。裕福な高齢者はすでに必要なものはすべて持っており、消費に回すカネはせいぜいゴルフくらいだ。ついでにゴルフ利用税は70歳になるとかからなくなるが、その目的は健康増進のために制度化されたと思うが、いまどきゴルフに興じることができる高齢者はかなりの富裕層だから、むしろガッポガッポ税金をとったほうがいい。その代わり、本当に健康増進のためにスポーツジムなどに通っている高齢者に対しては、何らかの支援策を考えるべきだと思う。スポーツジムの会員会費など月額で1万円そこそこでしかない。
 ちょっと話が横道にそれたが、要は「死にカネ」を「生きカネ」に変えることが私の提案の狙いで、相続税を高くして贈与税を軽減化すれば、高齢者の富裕層は子供や孫にどんどん贈与するようになる。現役世代や子供たちは欲しいものがたくさんあるから、「死にカネ」が一気に「生きカネ」に代わる。安倍内閣も多少、そうした考え方をするようになっているが、私に言わせればまだまだ中途半端だ。相続税を重くしたことは無条件に支持できるが、贈与税の軽減化には孫の教育費とか子供が家を購入することに限定している。それでは贈与したカネは学習塾や不動産業者にしか渡らない。従来の税制の考え方にとらわれているからだ。
 現在の税制では贈与税は贈与した側に、相続税は相続を受けた側にかかるようになっている。そのシステムを変えなければならない。贈与税も相続税と同様、贈与を受けた側にかけるようにしたら、贈与税の軽減化に使途条件を付ける必要もなくなる。いずれにしても、「死にカネ」が「生きカネ」となって市中に出回って消費を刺激しない限り、円安によって自動車や電気など輸出大メーカーは史上空前の利益を計上できても、円安による物価高は消費者とくに高齢者の生活を直撃しており、消費者に景気回復の実感がわかないのは当然である。
 次に日本経済が抱えている構造的問題、すなわち少子高齢化にどう政策的に立ち向かうかである。少子化に歯止めをかけられないなら(※少子化は移民の多い国を除いて先進国共通の現象である)、高齢化に歯止めをかけるしかない。
もちろん年齢の上限を決め、上限年齢に達したら強制的に安楽死させるなどといった非人道的な方法は採れない。健康保険制度を「改悪」するしか方法はない。これこそ少子高齢化問題を解決する「唯一の解決策」である。
 実は、この構想は少子高齢化が社会問題に浮上し始めたころから、ひそかに温めてきたアイディアである。が、社会がこのアイディアを受け入れざるを得ない状況に達するまでは公表するつもりはなかった。「何でも平等」が日本型民主主義であると国民が信じ込んでいる間は、猛烈な反発を食うだろうと思われたからだ。が、時代が変われば民主主義の概念も微妙に変化していく。私は最近メディアの方たちや遊び仲間たちに、このアイディアをぶつけ始めた。数年前は反発する人たちが多かったが、最近はむしろ賛成してくれる人のほうが多くなってきた。そのため公表することにした。
 私は少子高齢化問題の対策は健康保険制度の「改悪」しかない、と書いた。それが「唯一の解決策である」とも。
 具体的には、年金生活に入った人たちには健康保険をすべて1割負担にする。ただし年金受給年齢に達した人でも収入が現役世代並みにある方は現役世代と同様3割負担をしてもらう。
 が、ここが味噌なのだが、健康保険医療の1割負担の方たちの保険適用医療範囲を思い切って限定してしまう。医療費が高額の高度先進医療は保険適用外とする。一方、3割負担の方たちには高度医療は出来るだけ保険を適用するようにして、現役世代や若い人たちが高度医療技術の恩恵を受けられるようにする。ただし、1割負担の高齢者が高度医療を受ける場合は、自己負担を原則としながらも何らかの形で支援策を講じる。たとえば国か地方自治体が医療費の3割を援助するといった方法を考えてもいい。またアメリカの保険会社のように、掛け金に応じて高度医療費を保険会社が負担する制度を導入するのもいい。収入は年金しかないが、カネはたくさん持っているという富裕層は、高度医療を受けるために高い保険料を支払っても医療保険に加入するだろうし、それは自由だ。
 もう一つ、延命治療は年齢にかかわらず、すべて保険適用の対象外とする。人間の尊厳を失い、回復の見込みがきわめて少ない場合は、破綻に瀕している
保険財源の負担を少しでも軽減化するために延命治療はすべて自己負担にすべきだと思う。医師会など医療関係者は猛反対するだろうが、すべての国民が平等に保健医療の適用を受けられる時代は終わった。健康保険制度そのものが破綻に瀕しているからだ。
 最近日本の医療技術は世界をリードするまでになった。まだ実験室の中ではあるが…。京都大学の山中伸也教授が作り出したips細胞は世界に医療革命をもたらす可能性を秘めている。世界中で一斉によーいドンで研究開発競争が始まっている。が、ips医療が実際に実用化段階に入ったとき、日本がいまの保険制度を継続する限り、研究の主導権はアメリカに奪われてしまうだろう。実用化段階に入ったとき、ips医療の実施にどれくらいの金がかかるのかはまだ不明だが、相当高額になるだろうことはほぼ間違いないと思われる。日本の健康保険制度でips医療を保険対象医療にすれば、健康保険料をかなり引き上げる必要が生じる。国民がその負担増に耐えられるか。同一労働同一賃金の原則を導入しない限り、若い人たちとくに非正規社員やフリーターにとっては耐えきれなくなるのは目に見えている。
 アメリカは一応「オバマケア」が導入されたが、きわめて不評らしい。「何でも自由」「何でも自己責任」というのも困るが、健康の維持は基本的に自己責任というアメリカ社会の大原則からすれば、そうした責任を果たそうとしない人たちまで保険で救済するのはいかがなものか、と多くのアメリカ人は考えているようだ。確かに難しい問題だが、日本がアメリカ人の健康保険の考え方に口を挟むべきでもない。
 もしips医療が日本では保険適用外医療となったら、ips医療に携わる研究者たちは一斉に海の向こうに移ってしまうだろう。せっかく世界のトップレベルに達した日本の医療研究は途絶してしまうことになる。日本はこれまで医療関係の研究開発では、常にアメリカやヨーロッパの後塵を排してきた。日本人研究者の能力が低かったためではない。日本の「国民皆保険制度」が高度な医療関係の研究開発者の研究意欲をそいできたからだ。いくら研究しても、日本では高度で高額な医療費がかかる医療や医療機器は保険対象にならない限り市場が生まれないからだ。自由診療が原則だったアメリカでは、新しい医療技術や高度医療機器の市場が一気に生まれる。高度医療に限らず、市場が生まれないところに研究開発の芽が育たないのは当り前だ。
 せっかく日本から生まれた医療革命の芽が、日本で育てられなかったら、それこそ日本人の恥だ。国際社会から「アホな国だ」と冷たい目で見られるようになるだろう。そうならないためにも、混合医療への転換と健康保険制度の見直しは絶対に不可欠だ。医師会などビジネスとして医療を行う側からは、「国民皆保険制度を守れ」の大合唱が続いているが、自分たちの仕事と優雅な生活を守るためのきれいごとにしか、私の耳には聞こえない。
 私は安倍政権の政策に反対することがしばしばあるが、何でもかんでも反対
しているわけではない。まだブログでは書いていないが、農業政策の大転換には大賛成だ。妥協せずに、日本の農業を本当に強くするためにあらゆる努力をしていただきたいと考えている。実際私は1991年11月に青春出版社から上梓した『日本が欺(あざむ)く米 ブッシュが狙うコメ』と題する本で日本の農政を批判し、日本の農業を強くするためには保護をやめる以外に方法がないと主張している。ヨーロッパには「獅子は子を千尋の谷につき落とす」ということわざがあり、日本にも「可愛い子には旅をさせよ」ということわざがある。いずれも、過保護は子のためにならないという教えだ。同様に農業を強くするには、過保護を止める以外にない。過保護を続ける限り、日本の農業は先細りするだけだ。自民党にとって大きな票田のひとつである農業団体を敵に回してでも農政の転換を図ろうとしている安倍農業改革政策には、私はもろ手を挙げて支持したい。ただ、やるなら徹底的にやるべきだ。中途半端が一番よくない。「虻蜂取らず」ということわざが当てはまらないことを期待したい。
 安倍農業改革にとって幸いなことは、突然火を噴きだした海外の日本食ブームだ。円安で海外からの観光客が急増し、日本食の素晴らしさを実感したのが、海外での日本食ブームを呼んだらしいが、おかしな日本食が海外に出回らないように、政府が海外におけるホンモノの日本食店に何らかの方法で「お墨付き」を与えることも考えた方がいい。いたずらに「日本食」を名乗る日本食店がアメーバ―のように広がると、かえってマイナスになる。そうなってしまってからでは、取り返しがつかない。いま直ちに政府は本物の日本食店の海外展開を後押しする方策を講じるべきだと思う。

 少子高齢化問題を論じる予定だったが、話が横道にそれすぎたし、またブログも長くなりすぎた。何か中途半端な終わり方で申し訳なかったが、今回のブログはこれで終える。「走りながら考える」という言葉があるが、私はその典型で、「何を書くか」というテーマだけ決めたら「どう書くか」は書きながら考える習性がある。そのため話がしばしば横道にそれる。読者にはご迷惑をおかけすることになるが、わき道にそれた話も本筋からつながる大切な話なので、あえて削除せずにそのまま掲載することにしている。いずれ安倍農業改革については本格的な検証をしたいと思っている。

緊急問題提起――バンドン会議における安倍総理の演説の意味を問う。

2015-04-24 08:54:27 | Weblog
 安倍総理が今年8月の終戦記念日に発表する『安倍談話』の構想が見えてきた。安倍総理が22日アジア・アフリカ会議(バンドン会議)で行った演説が、戦後70年を迎えての『安倍談話』の基本構想になることは間違いない。
 アジア・アフリカ会議は60年前、当時のインドネシア・スカルノ大統領がアジア・アフリカの途上国に呼びかけて開催されることになった。日本にとっては戦後10年に当たる年で、まだ戦後の荒廃状態からようやく回復しつつあった時代で、「貧しさ」という点では会議に参加した諸国と肩を並べていた。言うなら「国際的弱者連合」が手を携えて先進国に追い付こうというのが目的だった。
 安倍総理が、この会議の演説で発した最初の言葉は「共に生きる。――スカルノ大統領が語った、この言葉は、60年を経た今でもバンドンの精神として、私たちが共有するものであります」だった。「その精神の下、戦後、日本の国際社会への復帰を後押ししてくれたのも、アジア・アフリカの友人たちでありました。この場を借りて、心から感謝します」。その言葉の謙虚さが安倍政権の政策に現れていれば、中国や韓国との今日のような歴史認識を巡る対立には発展していなかったはずだと思うのだが…。
 安倍総理はこうも語った。「強いものが、弱いものを力で振り回すことは、断じてあってはなりません。バンドンの先人たちの知恵は、法の支配が大小に関係なく、国家の尊厳を守るということでした」
 この言葉の重みを、肝心の安倍さん自身が本当に噛みしめているのだろうか。ふと疑問に思った。そのことは後で述べる。安倍総理はこうも続けた。
「ともに立ち向かう。私たちは今また世界に向かって強い結束を示さなければなりません」「その中で、日本はこれからも、出来る限りの努力を惜しまないつもりです」 
 その言葉が、空疎に聞こえる。私なりに翻訳すれば「アジア・アフリカの諸国は結束してアメリカの力による支配を支持し、アメリカによるアメリカのための平和と安全にできる限りの協力をしようではないか」という呼びかけにしか思えない。安倍さんはこうも続けた。
「『侵略または侵略の脅威、武力行使によって、他国の領土保全や政治的独立を侵さない』『国際紛争は平和的手段によって解決する』――バンドンで確認されたこの原則を、日本は先の大戦の深い反省とともに、いかなる時でも守り抜く国であろう、と誓いました」
「アジア・アフリカはもはや日本にとって『援助』の対象ではありません。『成長のパートナー』であります」――その言や良し。
 が、それが安倍さんの心からの真意であるならば、なぜ「アジアとアフリカの平和と安全は、アジアとアフリカの諸国、国民の手で守ろうではありませんか」と、呼びかけなかったのか。「日米強化の目的は、アメリカの極東支配のた
めに日本が手助けすることだ」と勘違いしている安倍さんから出る言葉にはふ
さわしくない。そもそも安倍さんはすでに引用したように「強いものが、弱いものを力で振り回すことは、断じてあってはなりません。バンドンの先人たちの知恵は、法の支配が、大小に関係なく国家の尊厳を守るということでした」と『バンドン精神』を誇らしげに語ったことを忘れてもらっては困る。
 いま普天間基地移設問題をめぐって、政府(国家権力――力の象徴)が、世界一危険とされている普天間基地の移設先は県外にという沖縄県民の総意を、力でねじ伏せようとしている。一方で力による支配を否定していながら、他方では力による支配を強行しようとしている。そういうのを「二枚舌」という。
 総理は翁長・沖縄県知事との対話は継続すると口先で入っているが、辺野古移設計画を変更するつもりはまったくないようだ。「条件闘争」に持ち込み、おいしい餌を知事の鼻先にぶら下げて知事を翻意させようと考えているようだが、翁長知事はその手には乗らない。もし乗ったら、沖縄全土で知事に対するリコール運動が激発する。沖縄県民の普天間基地移設計画に対する拒否反応は、そのくらい大きいようだ。
 やっていることと、口先が、これほど大きく違うと、いくら政治に疎い国民でも安倍内閣に対する信頼が薄れることに、そろそろ総理も気付いていいころだと思うのだが…。

 ただバンドン会議での演説から「謝罪」の言葉が消えた。「侵略」という言葉はバンドン会議で確認された文章を引用することで間接的な表現にとどめた。先の大戦における日本については「深い反省とともに、いかなる時でも(バンドン会議で確認された原則を)守り抜く国であろう」という表現にとどめた。
 韓国や中国は、一字一句、村山談話を継承することを望んでいるようだが、私はその表現で十分だと思う。日本軍が犯した戦争犯罪については私たち戦争世代だけでなく、これからも日本人のすべてが忘れてはいけないと思うが、歴史認識基準がいつまでも「勝てば官軍、負ければ賊軍」でいいのかという思いはある。日本は戦後、「世界の奇跡」と呼ばれた経済成長を成し遂げていく過程でODAなどを通じて貧しい国のインフラ整備などに貢献してきた。日本の犯罪はいつまでも責められ、日本がアジアとアフリカの貧しい途上国のために国民の税金を使ってきたことはなかなか評価してもらえない。口惜しい思いがある。

民主主義とは何かがいま問われている⑫--安倍・翁長会談で普天間基地移設問題の何が明らかになったか?

2015-04-20 07:47:29 | Weblog
 政府と沖縄県の対立が深刻になっている。今日から統一地方選挙の後半戦も始まった。前半戦は投票率こそ最低を記録した地方選挙が多かったが、現職の強みがやはり証明された選挙でもあった。自民が議席を維持し、先の総選挙に続いて共産が議席を大幅に伸ばした。事なかれ主義(現状維持派)の有権者と、変化を求める層に大きく分かれたという意味では、先の総選挙ときわめて似通った結果になった。
 共産が議席を大幅に伸ばしたことについて、共産も誤解はしていないだろうが、日本の左傾化を意味しているわけではない。変化を求めながらも、民主も維新も積極的には支持できないという、選挙民の「消去法による選択」によって多くの票が共産党候補者に流れただけだ。
 実は私は、今回の統一地方選挙は「中央集権か地方分権の拡大か」が最大の争点になると思っていた。私は4月6日に投稿したブログ『民主主義とは何かがいま問われている⑪――安倍政権は中央集権政治へ突き進むつもりか?』と題した記事を投稿している。とりわけ地方分権を主張する維新は、沖縄県民の民意を踏みにじって、あくまで普天間基地の辺野古移設を強行しようとする安倍政権に対して、「民主主義の破壊だ。沖縄県民の意志を無視するなら統一地方選挙などやる必要がない。すべて地方行政機関は中央の出先機関にして、地方の民意は中央政府に従った場合のみ受け入れるというのが安倍政治の本質だ」と、なぜ主張しなかったのか。民意を問う意味をまったく理解していない政治家たちに、有権者たちがソッポを向いたのは当然と言えば当然のことだった。大阪都構想だけは大阪府民の民意を問うと主張しながら、沖縄県民が名護市長選・沖縄県知事選・総選挙で示した県民の民意は無視してもいい、と言わんばかりの選挙戦を戦って勝てるほど、日本の有権者はバカではない。
 統一地方選の後半戦で野党が、有権者に対して「中央集権政治」か「地方分権の拡大」かが問われる選挙だ、と主張すれば必ず勝てる。もっとも私は予想屋ではないので、統一地方選から離れる。
 17日、安倍総理がようやく重い腰を上げて、翁長・沖縄県知事との初の会談に応じた。予定の30分を少し超えたようだが、政府と沖縄の溝は一歩も埋まらなかった。トップ会談でも両者の溝が埋まらなかったということは、事態をかえって悪化させる結果になったとさえ言えよう。
 総理は「辺野古への移設が唯一の解決策だ」と従来の姿勢を変えず、翁長知事は「沖縄の米軍基地は県民が差し出したものではない。強制的に県民の土地を奪っておきながら、嫌なら(辺野古以外の)代替案を出せというほど理不尽な話はない」と、これまた強硬な姿勢を貫いた。
 翌18日、全国紙5紙はこの会談についていっせいに社説を書いた。要点を辺野古移設支持派の順から転記する。今回は各紙の主張に論評は一切加えない。そのあとで普天間基地の移設問題について私の見解を述べる。

産経新聞…「世界一危険とされる普天間の危険性を除去し、沖縄の基地負担軽減を進める。さらに日米同盟の抑止力を保ちながら安全保障を確かなものにする。この3点が課題であることは変わりようもない」「3点を実現できる案として、政府が苦慮した末に見出したのが、辺野古移設なのである」「沖縄の基地負担は、日本やアジア太平洋地域をはじめとする世界の平和に役立っている。政府や国民が、そのことを十分認識し、負担軽減に努めるのは当然だ」「中国が奪取を狙う尖閣諸島のある県の首長として、翁長氏には基地負担を通じ、平和に貢献している意識も持ってほしい」

読売新聞…「相手を批判するだけでは、沖縄の米軍基地負担の軽減という共通の目標は進展しない」「沖縄周辺では、中国が軍事活動を活発化させている」「在沖縄米軍の重要性は一段と増した。抑止力の維持と住民の負担軽減を両立する辺野古移設は、現実的かつ最良の選択肢だ」「沖縄では28年度までに、計1048ヘクタールにも上る県南部の米軍施設が順次返還される予定だ。仮に辺野古移設が停滞すれば、この計画も大幅に遅れかねない」「政府は、辺野古移設の意義と重要性を地元関係者に粘り強く説明し、理解を広げねばならない」

日本経済新聞…「会談で首相は名護市への移設を『唯一の解決策』と説明した。現実を踏まえれば、人口が比較的少ない辺野古への移設によって危険性を低減させる日米合意は妥当といえるだろう」「1996年に普天間返還で米政府と合意した橋本龍太郎首相は、当時の沖縄県知事だった大田昌秀氏と短時間に20回近くも会った。大田氏は結局、普天間代替施設を県内につくることに同意しなかったが、橋本氏の真摯な姿勢は県民にも評価する声があった」「安倍政権もこうした共感を沖縄県民の間に生み出すことができるか。知事を説得するにはこうした地道な努力が欠かせない」

朝日新聞…「安倍首相は26日から訪米を予定している。戦後70年の節目に日米同盟の深化を世界に示す狙いがある。沖縄県知事と会談することで、政権が普天間基地問題に積極的に取り組んでいる姿勢を米側に伝えられる、という目算も働いたのだろう」「だが、今回の会談を、政権の『対話姿勢』を米国に印象づけるための演出に終わらせてはいけない」「首相は打開の糸口を見いだせない現状を直視し、翁長知事が求めた通り、オバマ大統領に『沖縄県知事と県民は、
辺野古移設計画に明確に反対している』と伝えるべきだ」「翁長知事は…米軍による土地の強制収用や戦争の歴史に言及した。この言葉が含む史実の重さを、首相はどう感じただろうか」「政権が本気で『粛々』路線から『対話』路線へとかじを切るというなら、ボーリング調査をまず中断すべきだ。そうでなければ対話にならない」

毎日新聞…「首相は『これからも丁寧に説明しながら理解を得る努力を続けていきたい』とも語った。政府が辺野古移設をどうしても進めるというなら、口で言うだけでなく、最低限、沖縄への丁寧な説明を実行すべきだ」「沖縄からは安全保障上の必要性に対する疑問も出ている」「政府は、沖縄県の尖閣諸島をめぐる対立など中国の海洋進出をにらみ、抑止力を維持するために辺野古移設が必要というが、沖縄の人たちは必ずしも納得していない」「政府と沖縄の間には、全閣僚と知事が米軍基地問題や振興策について話し合う沖縄政策協議会があるが、翁長知事になって開かれていない。協議会の再開を含め、政権と沖縄が定期的に話し合う仕組みを早急に動かすべきだ」

 実は普天間移設問題は、地方の民意を国政にどう反映させるべきかが問われている問題でもある。最高裁は1票の格差の根源は小選挙区制を導入した際、(※どさくさに紛れて自民党が党利党略のため)設けた一人別枠方式にあると断定した。私は『民主主義とは何かがいま問われている』と題したブログ・シリーズで、民主主義の最大の欠陥は多数決原理にあると何度も書いてきた。その欠陥は別に私が発見したわけではなく、アリストテレスやプラトンなどの大哲学者が「民主主義政治は愚民政治だ」と、とっくに指摘している。が、民主主義に代わる別のよりベターな政治システムを人類が発明できるまでは、「一歩後退二歩前進」あるいは「一歩前進二歩後退」を繰り返しながら、遅々とした歩みであっても、民主主義をより成熟化していく努力を続けていくしか方法がない、と私は書いてきた。そうした民主主義についての考え方は、たぶん私のオリジナリティではないかと自負している。
 そういう意味では、私に言わせれば一人別枠方式は地方の少数意見を国政に反映させるための、考えようによっては民主主義の欠陥を補う一つの実験ではなかったかとさえ考えている。地方に多くの票田を持つ自民党の党利党略的要素は別として、でだ。だから一人別枠方式をなくしたら、1票の格差は少なくなるだろうが、大多数の人口を抱える大都市中心の政治に傾くことは疑いを容れない。そういう意味では一人別枠方式は、多数決原理の欠陥を補う可能性を秘めた選挙制度であることも私は否定しない。たとえ最高裁がどういう判決を下そうとも、論理的には私の考え方のほうが正しいと私は信じている。
 が、一人別枠方式の廃止に悲鳴を上げた地方選出の自民党議員が、「地方の声が国政に届かなくなる」と主張するなら、いま政府に反旗を翻している沖縄県民の声に、どう向き合うべきかを考えてほしい。もし沖縄県民の声より政府が決めたことのほうを重視すべきだと考えるなら、地方の声を国政に反映させるための一人別枠方式も否定するのが筋だろう。その一点を抜きにして、普天間基地問題をメディアも政治家も語る資格がない。

 次に沖縄の米軍基地が本当に日本にとって抑止力になっているのかも、論理的に考えてみるべきだ。ソ連が崩壊して以降、日本にとっての安全保障は飛躍的に高まった。そもそもソ連が、極東進出を狙っていた時代に、アメリカは日本防衛のために北海道に米軍基地を集中配備していたか。ソ連の脅威がなくなってから、米軍基地を北海道から撤去した史実があったか。アメリカはキューバがミサイル基地を建設しようとしたときは、ミサイルをキューバに持ち込もうとしたソ連に対し、核戦争をも辞さずという強硬姿勢を貫きソ連を屈服させたが、アメリカの国益にならないことで日本のために血を流してくれるなどと考えていたら、アマちゃんもいいところだ。沖縄の米軍基地は、日本のためではなく、アメリカの国益のためにあることを日本人は理解しておく必要がある。
 さらに、いま日本が直面している最大の脅威は尖閣諸島問題ではない。中国が本気で尖閣諸島を奪おうと考えているなら、現在行っているような見せかけの挑発行為にとどまっていない。現に中国は南シナ海南部に存在する南沙諸島(無数の島・岩礁・砂州の総称)に着々と進出している。南沙諸島は広大な排他的経済水域(EEZ)の海洋・海底資源だけでなく、アジア東南海地域における大きな軍事的要衝でもあり、中国・台湾・ベトナム・フィリピン・マレーシア・ブルネイなどが相互に領有権を主張し合って譲らない。
 その南沙諸島で、海洋資源開発のために中国は埋め立て事業を強行しており、滑走路まで建設中であることが判明している。なぜ南沙諸島に滑走路が必要なのか。単に海底資源を発掘して運搬するだけだったら滑走路など必要ないはずだ。滑走路建設の目的が軍事的拠点のためだということくらい、軍事的知識がゼロの私にも容易に理解できる。が、アメリカはウクライナ問題と同様、口では非難するが軍事力でロシアや中国に正面から阻止しようとはしない。軍事的衝突がアメリカにとって、かえって自国の国益を損ないかねないからだ。アメリカが自国の国益を損なっても、日本のために血を流してくれることを期待しているほど安倍総理もアマちゃんではあるまい。
 安倍総理が現行憲法の枠組みにとらわれず、アメリカのために血を流せる「軍
隊」に自衛隊を変えようとしたり、アメリカのためにアジア東南海地域におけるアメリカの支配力強化を手助けするために普天間基地の辺野古移設を強化しようとしているのは、アメリカに媚(こび)を売っておけば、いざというとき米軍が日本のために血を流してくれると思っているからだろうが、たとえその時の米大統領がその気になったとしても議会が日本防衛の義務(日米安保条約では日本防衛は在日米軍の義務ということになっている)を果たすことを認めるかどうかは保証の限りではない(※安保条約にもそのことは明記されている)。
 オバマ大統領は尖閣諸島について「日米安保条約5条の対象地域だ」と明言してくれているが、大統領が後退すれば、そんなリップ・サービスは無効になる可能性は高いと考えておいた方がいい。現に竹島についても、日本独立の際にはアメリカ政府は日本の要請に応じて「竹島は日本の領土だ」とリップ・サービスを贈ってくれたし、日本政府が米政府に「竹島に在日米軍基地を作ってほしい」とまで要請してアメリカもいったん承諾したが、米議会で承認されなかった。岩だらけの島を平坦地にして基地を建設するには膨大な費用がかかり、「費用対効果」の観点から「止めた」と日本との約束を破棄してしまった。
 言っておくが、予定されている辺野古基地の建設費用は日本側がすべて負担しているが、それ以外の基地建設費用はすべてアメリカが負担して作ってきた。幻と消えた竹島基地建設計画も、敗戦直後の日本には建設費用を負担できる経済力がなく、「アメリカの金で基地を作ってくれ」という虫のいいお願いだった。日本が独立を果たして以来、韓国が李承晩ラインを設定して竹島を実効支配してしまったが、日本は手も足も出せず、アメリカも見て見ぬふりを続けている。尖閣諸島も、中国がアメリカの国益にかなう何らかの提案を米政府にした場合、アメリカ議会(上下両院)は日本を棚上げにして中国による実効支配を見て見ぬふりをする可能性は低くない。
 日本が本気で竹島や尖閣諸島を自国の領土にするためには、大きな犠牲を覚悟して実力の行使による実効支配に踏み切る以外に手はない。外務省は竹島を返してもらうために平和的努力を続けていると言うが、そんな平和的努力は何百年続けても効果はない。では自衛隊による実力の行使に踏み切れるかというと、間違いなくアメリカが韓国のための防波堤になって、自衛隊の実力行使に「待った」をかける。アメリカのパワー・ポリティクスの戦略とはそういうものだということを、日本政府もそろそろ理解してもいいころだと思うのだが…。

NHK『クローズアップ現代』の「やらせ」疑惑について考えてみた。

2015-04-13 07:58:41 | Weblog
 NHK『クローズアップ現代』が昨年5月14日の放送した『追跡“出家詐欺”~狙われる宗教法人~』で、週刊文春が「やらせ」があったと報じた件で、NHKが9日に公表した中間報告書の全文を読んだ。
 このいわゆる「やらせ」事件についてはスポーツ報知が4月2日6:00に配信した記事がある。比較的客観的に報道しており、その記事を要約引用させていただく。(以下関係者の敬称は略す)

 この番組に出家詐欺にかかわるブローカーとして出演した大阪府内の男性(50)が1日、NHKの聞き取り調査に応じたのち大阪市内の弁護士事務所で記者会見を開き、「番組内でやらせ演出があったことを認め、NHKに訂正報道を求める申し入れ書を提出した」ことを明らかにした。男性Aは飲食店の店長で「自分は放送されたようなブローカーをしたことはない」と主張した。
 Aは寺で修行した経験があったことから、多重債務者と称していた知人のBからNHKの記者を紹介され3人で会った。このときAは記者から番組への出演依頼を受け、記者からブローカー役を演じてほしいと依頼された。Aは再現映像の撮影だと思い応諾したが、クローズアップ現代の番組を見た親族から指摘され「まるで犯罪者であるかのような放送がされ、精神的ダメージを受けた」とNHKに対して訂正報道をするよう申し入れたという。

 こうした経緯を経て、NHKは調査委員会を設置、取材・制作を担当した職員11人と外部スタッフ3人から聞き取り調査を行い、録画されていた内容と取材メモ等の資料を調べ、9日に中間報告を公表した。NHKの中間報告書の内容を要約引用する。

 出家詐欺とは、多重債務者を出家させて名前を変え、金融機関から多額の住宅ローンをだまし取るという手口で、最近そうした被害が金融機関に広まっているらしい。NHKの大阪放送局の記者が、26年2月に発生した大津市の寺を舞台にした出家詐欺事件を取材中、8~9年前から知り合いだったBから耳寄りな情報をつかんだ。多重債務を抱えて苦しんでいたBが、「出家する方法について近くAに相談する」というのだ。記者はBにその場面を撮影したいと申し入れ、Bは即答を避けたが、その後「Aの了解を得た」と記者に連絡、撮影当日の4月19日午後、記者とBはタクシーに同乗してAの自宅に向かい、AおよびBと大阪市内のホテルのカフェで15分ほど打ち合わせをした。通常こうした撮影前の打ち合わせについては録音・録画はしない。したがって、この打ち合わせの場で記者がAとBにどういうやり取りをしてほしいと依頼したかどうかは不明である。調査委員会の中間報告も、3人から聞き取り調査を行い、各人の
言い分を併記しているだけだ。3人の主張を中間報告書から要約引用する。

A 記者から「ブローカー役をAが演じ、多重債務者役をBが演じてほしい」と依頼された。
B 記者から演技を依頼されたことはない。
記者 AやBが視聴者から特定されないように音声を変え、映像も加工する(※顔はモザイク処理すること)と説明したが、AにもBにも演技の依頼はしていない。

 クローズアップ現代の番組ではBがAに出家相談する場所について記者が「看板の出ていない(この)部屋が(出家詐欺グループの」活動拠点でした」とコメントしている。その点についてBと記者はこう述べている。

B Aから撮影の許可は得たが、「場所はBが用意してほしい」と言われ、自分が撮影場所を決めた。その撮影場所は知人が借りていた部屋で、カギは私が預かっていた(その知人も調査委の聞き取りに対して「ブローカーの活動拠点ではない」と証言している)。私が撮影場所を決めた経緯については記者はあずかり知らない。
記者 撮影場所がどういう経緯でBから提案されたかは聞いていない。ただ、Bに「その部屋はブローカーの活動拠点と位置付けていいか」と尋ね、Bが「Aに確認する」といったん返答したのち「それでいい」との連絡があったので「ブローカーの活動拠点」とコメントした。

 撮影場所が決まった経緯について調査委は「相談場所の設定に記者の関与は認められないが、「活動拠点」とコメントしたことは誤りであり、裏付けが不十分だった」としている。肝心の撮影場所はBの知人が購入した分譲マンションの1室で、登記簿も所有者はBの知人名義になっていることを調査委は確認している。

 調査委は撮影場所の設定についてB任せにした点について「裏付けが不十分だった」としているが、この程度のミスで記者を責めることはできない、と私は思う。調査委の中間報告で不十分なのは、そうした撮影場所に関する些細なミスではなく、AやBの出家詐欺話を、どういう経緯で記者が知ったかという点の解明がされていないことである。
 報告書によると、Bは「数百万円の多重債務がある」と記者に話しており、実際Bが調査委に提供した債務関係の資料をNHKの職員弁護士が点検したと
ころ「多重債務者と言える」という判断のようだ。またBは記者に頼まれたわ
けでもなく撮影場面でAに経済的困窮の解決相談をしたようだ。
 ただ、テレビの場合、難しいのは映像で事実を報道しなければならないという宿命的なハンディを背負っていることだ。活字媒体の場合、たとえば政治家などが情報源を明かさないという約束で裏話をリークする場合もあるが、そうしたケースの場合は「政府高官筋の話によると」などと記事化する。いったいどこまでが真実なのか、政治家にはリークする目的が当然あるはずで、リークされた話の信憑性は記者も確認できないことが少なくない。新聞記者もリーク話をすべて記事化するわけではなく、それなりに信憑性が高いと判断できた場合に、情報源を特定せずに「政府高官筋の話によると」などと表記することがしばしばある。
 が、新聞記者が自分の頭の中で勝手に想像したことを、裏付けが取れないために「政府高官筋の話によると」などと裏話自体をでっち上げるケースもしばしばある。こうした場合、その裏話なるものが事実なのかどうかを読者は確かめる方法がない。読者が新聞社に問い合わせたところで、「情報源については明かせません」と言われておしまいになるだけだ。
 そのため私の場合は、基本的に情報源を特定できない裏話は採用しないことにしている。自分の頭の中で論理的に想像したことは「と思われる」「ではないか」などといった表記をすることにしている。が、テレビの場合はそういった手法が取りにくい。基本的に映像で(音声を変えたり顔にモザイク細工を施したりしても)流さなければならない。
 もう一つ問題なのは、雑誌(週刊誌も含めて)などの活字媒体はあらかじめ編集者が怪しげな情報に飛びついて、裏も取らずにテーマを決めてしまうことがしばしばあるという点だ。こうしたケースはテレビの場合も同様で、編集者があらかじめストーリーを決めてしまうことがある。が、編集者が掴んだ怪しげな話に飛びついて記者やジャーナリストが取材してみると、裏が取れないどころか怪しげな話自体がまやかしでしかないことが明らかになってしまうケースがある。
 たとえば私の経験で言えば、『宝島』という雑誌の副編集長から依頼されて日本の宇宙産業の国際競争力について書いたことがある。副編集長からは「これで結構です」という返答を貰ったが、その後電話で「編集長が自分の意図と違うので別の人にリライトさせたいと言っている。原稿料は約束通り支払いますので」と言ってきた。私は面倒くさかったので「いいですよ」といったが、原稿料は4割もカットされ、あまつさえ出来上がった雑誌すら送ってこなかった。
私は本屋で買う気もしなかったので、私が書いた原稿がどういじられたのか、私の名前がどう扱われたのかも知らない。
 実は私が執筆活動を自分から辞めた理由について『私がなぜブログを始める
ことにしたのか』で書いたことがある。私のブログの読者はほとんど目を通されていると思うが、改めてその部分を転記する。

 雑誌は月1冊発行の月刊誌でも編集者が10人前後いて(※活字離れが急速に進んでいる現在は編集者の数も相当減っていると思うが)、あらかじめ編集会議でテーマからどういう主張をするかまで決めてしまう。その後、それぞれのテーマにふさわしい筆者を選び原稿依頼するのだが、たとえば私が依頼されたとして、実際に取材すると、編集部が決めた狙い通りの原稿が書けるとは限らない。で、私は自分が取材した結果に基づいて私の考えで原稿を書く。ところが雑誌の編集者は自分たちのほうが著者より上位に位置していると考えているらしく、著者に断わりもなく勝手に原稿を改ざんしてしまうのである。あまりにもひどかったケース(※先に書いた『宝島』のケースではない)では私はその雑誌の発行差し止めの仮処分申請をしようと考え、知り合いの弁護士に相談したことがあるが、弁護士の「裁判で勝つ可能性はかなり高いが、そうなると小林さんはこれから出版界全体を敵に回してしまうことになりかねない」というアドバイスに従わざるを得ず、その代わりに2度といかなる雑誌の執筆依頼にも応じないことにした。

 本題に戻る。AとBはなぜNHKに出家詐欺の話を持ち込んだのか。クローズアップ現代は記者が出家詐欺の取材を進めていく過程で、Bから情報を聞き出したかのような放送をしたようだが、特ダネは「犬も歩けば棒に当たる」ように簡単に手に入るものではない。が中間報告書はこう書いている。

 番組は、26年2月、大阪放送局と京都放送局の取材チームが、大津市の寺を舞台とした「出家詐欺」事件を取材する中で、企画・提案された。
 このうち大阪放送局の記者が、関係者取材を進めていたところ、知人で多重債務者であるB氏より、「『出家する方法』について、近くA氏に相談に行く」と聞かされた。
 B氏によれば、以前A氏から、袈裟を着て首から数珠を下げたA氏本人の写真を見せられ、「出家」を誘われたことがあったという。
 これを聞いた記者は、B氏がA氏の相談する場面を撮影できないかと考え、B氏を通じて打診したところ、B氏から「A氏の了解が得られた」との連絡があった。
 4月19日、大阪市内のビルの一室で、まずB氏がA氏の相談する場面、続いてA氏のインタビュー、B氏のインタビューの順で撮影が行われた。
 記者によれば、B氏とは8,9年前に知り合ったという。B氏が事業に失敗し
て多額の負債を抱えるようになったのちも「事情通」として付き合いを続けていた。
 記者は、25年10月頃、B氏から「寺関係の事情に詳しい人物」としてA氏を紹介された。
 その後、記者は、番組の撮影当日までA氏に会っておらず、連絡も取っていない。撮影の打診などのやり取りはすべてB氏を通じて行ったという。

 中間報告書によれば、相談場面の映像の中でAは「得度」「度牒」「僧籍」などの専門的な用語を用いながら、出家による名前変更の方法や費用、家庭裁判所における手続きが必要であることなどを説明している、という。さらに単独インタビューでは、Aは「われわれブローカーは」と自ら出家詐欺行為への関与をほのめかし、また出家詐欺の舞台となる寺や住職の見つけ方や勧誘方法、多重債務者を説得する際の言葉の使い方などを詳しく説明したようだ。
 Aがインタビューで話した上記の内容から、記者がAを出家詐欺のブローカーと思い込んだのはやむを得ない。のちにAは「自分がインタビューで話したことは数年前、知人の重職に支持して寺に出入りしていた時に見聞した知識や、十数年前に知人から聞いた出家詐欺についての話で、自分自身はブローカーではなく、記者から犯罪者扱いされた」と主張したようだ。が、Aがそう主張するなら、伝聞話として話すべきであり、伝聞話であることが記者に分かったら、記者もNHKもそんな伝聞話を根拠にした番組を作るはずがない。
 こうした経緯から推測すると、たどり着ける論理的結論は一つしか考えにくい。もう読者自身が推測されているように、NHKから情報提供料をせしめようと考えたAが、記者と付き合いがあるBを通じて出家詐欺ブローカー話をでっち上げて売り込もうとしたのだろう。が、NHKの場合、そうしたケースに対して情報提供料を支払うシステムそのものがないようだ(※NHKふれあいセンター上席責任者による)。情報提供料については、中間報告書はこう述べている。ちょっと意味不明な感じもあるが、原文のまま転記する。

 A氏は今年3月に週刊誌で報じられる直前に「『記者が口止め料を払うと言った』とB氏から聞かされた」としている。
 これについてB氏は、「話が週刊誌に出ると騒ぎになると思ったので、『足代を払うから止められないか』とA氏に電話したのは確かである。私が払うのは変だから、『記者が払う』という言い方をしたかもしれない。私の独断であり、
記者は関係ない」と述べた。
 記者は、「B氏にそのようなことは頼んでいない」と口止めの依頼を否定した。
 さらに(週刊誌によれば)記者とB氏が27年3月1日に大阪市内のホテルでA氏と面会した際、記者がA氏に「シラを切ってください」と報じられている。
 これについて記者は、「A氏から『自分が番組に出たことが人に知られた』と言われたが、音声や映像を何重にも加工したので特定されるはずがないと思い、取材源を守る意味で、『シラを切ってください』とお願いした。“やらせ”を否定してくれという意味ではない」と話している。

 もしAの主張が真実であったとしたら、これは「やらせ」どころの話ではない。出家詐欺のブローカーではないことを記者が知りながらAにブローカー役を頼んだとしたら、明らかにねつ造番組である。ドラマならいざ知らず、NHKの報道部門がそのようなねつ造番組を作ろうはずがない。
 週刊文春は、Aからこの話を持ち込まれたとき、裏をとらずに記事化したと思われる。週刊誌が売れさえすれば、どんなまやかし話でも記事にすることが、週刊文春編集部は「言論の自由」とでも考えているのだろうか。
 私はSTAP細胞問題を追及したとき、科学論文には著作権がないと断定した。もちろん文科省の著作権課にそのことを確認するため電話をしたが、文科省著作権課の職員は私の主張を否定した。科学論文にも著作権はあると言うのだ。
「冗談も休み休みにしてほしい」と私は反論した。著作権は言論の自由を保障する、さまざまな権利の中でも最大といってもいい重要な権利である。が、「権利」というものは、その大きさに比例する大きな「責任」を、当然のことながら伴う。「責任」を伴わない、いかなる「権利」も存在しえない。
 私は、STAP騒動が生じた当初は、ひょっとしたら突然変異の可能性があると考え、NHKが3月10日のニュース7で、山梨大学の若山教授が『ネイチャー』に投稿・掲載された論文の取り下げを呼びかけたことを報じた翌日のブログで書いた。が、4月に、それまで雲隠れしていた小保方晴子が記者会見を行い、「STAP細胞はあります。自分は200回以上作製に成功している。しかしSTAP細胞を作製するためにはレシピとコツが必要で、そのレシピとコツは特許申請との関係で今は明らかにできない」と主張した時点から小保方を犯罪者扱いしてきた。
 小保方の論文作成の指導者である笹井芳樹についても同じ4月に記者会見を開き、「自分は論文作成の最終段階から関係しただけで、研究データはまったく見ていない」と言いながら、記者たちの「ではSTAP細胞を前提にしないと説明できない現象があると言った根拠は?」という質問に対して、STAP細
胞の存在を自ら検証していない限り言えないような反論を行った。私はその翌日から笹井も小保方と同様犯罪者扱いしてきた。
 結局STAP現象はねつ造であることが明らかになったが、若山教授やハーバード大医学部教授のバカンティ教授など論文に名を連ねた共著者13人は全員著作権者としての責任を回避したままだ。著作物に対して責任を持たない「著者」に果たして著作権という大きな権利が与えられるのか…私は赤子のような素朴な疑問を抱かざるを得なかった。
 映像の世界については、私は権利・義務・責任の関係について詳しくないが、活字の世界では出版権・編集権・著作権といった権利が複雑に絡み合い、しばしば問題化することがある。
 出版権は、たとえば単行本の初版を出した出版社が他社にその権利を譲渡することができる。もちろん著者の承諾が必要だ。他国が翻訳出版する場合も同様で、初版を出した出版社が権利の譲渡による対価を得る。考えようによっては著作者の権利(印税収入)のピンハネと言えなくもない。
 編集権は、タイトル(題名)や見出しをつける権利で、多少著者の原稿に手を入れることも許されている。ただ、この権利は法的に認められている権利ではなく、日本では慣行として行使されているだけのようだ。単行本の場合は題名については著作者の承諾が必要だし、見出しなどはゲラを読んで著作者が変更を編集者に要求できる。が、雑誌などの場合は、ゲラを著作者が見るケースはほぼ皆無といってよい(連載小説は別)。私が初めてのブログで書いたのは、黒を白と言い換えるような著作者の権利を無視したケースであり、雑誌・週刊誌の編集者は特別の権利を持っているとでも錯覚しているようだ。
 著作権は、著作物に関して最大の権利者である。ということは、著作物について最大の責任を負う義務も生じるということだ。STAP論文に関して言えば、責任を負わなくて済む共著者が13人も存在したということであり、最初に研究疑惑を指摘した若山教授も共著者としての責任を免れ得ない。科学論文の場合、共著者が責任をとらなくてもいいことが明確になった以上、著作権は発生しないというのが私の考えだ。そうした指摘に対して文科省著作権課の職員は反論できなかった。

 本題に戻る。AからNHKの「やらせ疑惑」の話が持ち込まれた週刊文春の編集部は、NHKに裏付け取材をしなかったようだ。裏付け取材をしていれば、NHKはAとBへの取材の過程を明らかにしていただろうし、放映されなかった録画のすべてを週刊文春の編集者に明らかにしていたと思う。この事件の本質は、週刊誌が売れさえすればいいと考えている週刊文春編集部の傲慢さにある。私はNHKに対し、週刊文春編集長を告訴する義務があると考える。それが視聴者に対する責任の取り方だとも考えている。
 ただ、NHKの中間報告書にも問題がないわけではない。Aのでっち上げ「出
家詐欺」話を記者が信じた事情はやむを得ないと思うが(ウラをとるにも限界がある。このケースの場合、ウラをとらなかったことで記者を責めることは過酷すぎると私は思う)、あくまで記者が出家詐欺取材を進めていく過程でつかんだスクープとして扱っていることだ。
 真実は、私がこのブログの初めのほうで書いたように、AがNHKから情報提供料をとれると思い、記者と付き合いがあったBを通じてNHKに「自分が出家詐欺のブローカーだ」というでっち上げ話を持ち込んだのではないか。が、NHKはそうした経緯をなぜか隠したかったようだ。ために、取材とは無関係の国谷裕子キャスターが視聴者に謝罪しなければならない羽目になったし、かえって「やらせ」疑惑を深めてしまう結果になってしまった。NHKが視聴者の信頼を回復するためには、取材に至るプロセスをすべて明らかにし、週刊文春を告訴することだ。それ以外に信頼回復の手段はない。
 

民主主義とは何かがいま問われている⑪--安倍政権は中央集権政治へ突き進むつもりか?

2015-04-06 07:33:41 | Weblog
 前回(3月23日)投稿したブログが炎上してしまった。未だに燃え広がり続けているのだが、昨日(5日午前)に菅官房長官が沖縄返還記念式典に菅官房長官が出席し、その後那覇市内のホテルで翁長知事と約1時間にわたり会談した。
 そのことが明らかになったのは4月1日で、NHKはニュース7で武田アナウンサーが「普天間基地移設計画に反対する翁長知事」とアナウンスした。
 私は直ちにNHKふれあいセンターの上席責任者に抗議の電話をした。翁長知事は「世界一危険な基地」と言われている普天間基地の移設に反対したことなど一度もない。翁長知事は普天間基地の移設先について、県外に移設してくれと言ってきただけだ。
 もちろん「普天間基地移設計画に反対する」という武田氏のアナウンスは彼独自の判断によるものではない。武田氏はあらかじめ用意されていた原稿を棒読みしただけだ。NHK報道局の政府寄り姿勢が改めて明確になった報道だった。
 すでに菅・翁長両氏の会談内容は読者の方はご存じのはずだ。会談の席上、菅氏は「日米同盟の抑止力維持を考えたとき、辺野古移設に協力してほしい」と、無理を承知で申し入れた。翁長氏は「辺野古への移設は絶対に認められない。それが県民の意志だ」と、これも分かりきった返答をした。
 菅氏はなおも「抑止力、普天間飛行場の危険除去を考えたとき、辺野古移設は唯一の解決策だ」と迫った。「辺野古への移設が不可能になると、普天間基地の固定化につながる。関係法令に基づき、環境などに配慮しながら、粛々と続ける」と、沖縄県民に対する事実上の「宣戦布告」を通告した。
 70年前、沖縄県民の4分の1が当時の日本政府の方針によって犠牲になった。沖縄県民の4分の1を直接的に殺したのは米軍だが、今度は日本政府が自衛隊を動員して沖縄県民を相手に戦争をするとでも言うのか。もちろん沖縄にアメリカの州兵のような軍隊はない。軍事力と言えるかどうかは別だが、多少の防衛力を持っているとしたら沖縄県警機動隊だ。もし安倍政権があくまで実力で辺野古移設を強行しようとしたら、翁長知事は沖縄県警機動隊に実力で阻止する命令を出すだろう。
 翁長氏は会談の席上、昨年の名護市長選や知事選、総選挙のすべてで辺野古移設反対派が勝利したことを踏まえ「県民の圧倒的な反対の意思が示された」と反発、「危険除去のために『沖縄県で負担しろ』という話をすること自体が日本政治の堕落ではないか」と政府の姿勢を批判した。
 普天間基地の移設問題についての話し合いを今後も継続することについては、両氏はいちおう合意したが、どう考えても落としどころはない。安倍政権が辺野古移設を断念する以外、日本政府と沖縄県の対立は絶対に解けない。
 翁長知事はすでに3月23日、辺野古基地建設作業の停止を防衛省沖縄防衛局に指示している。この知事の決定に対して政府は、林芳正農林水産相が防衛局の申し立てを認めて知事指示の効力を止める決定を行い、建設作業を強行する姿勢を明らかにしている。
 が、もし自衛隊が「粛々と」建設作業を強行するために出てくるようなことがあったら、おそらく翁長知事は建設作業阻止のために、沖縄県警機動隊に出動命令を出すだろう。安倍総理は、翁長知事がそこまで腹をくくっていることを覚悟しておいた方がいい。
 私は、3月3日に投稿したブログ 『民主主義とは何かがいま問われている⑩――沖縄の声がなぜ国政に反映されないのか?』 でこう書いた。

 たとえば普天間基地の移設問題。沖縄県民の総意は先の総選挙でも県知事選でも明確に示された。が、政府は沖縄県民の声に耳を貸そうともしない。せめて調査会(※衆議院選挙制度に関する調査会=衆院議長の諮問機関。座長は佐々木敦・元東大総長)の「9増9減」案に悲鳴を上げた自民党の地方選出議員だけでも、地方の声を国政に反映させるべく、政府の強硬姿勢に猛反発してくれないか。
 私は沖縄県民ではないが、私が沖縄県民だったら「日本国からの分離独立」を主張する。もともと沖縄県民は琉球王朝を繁栄させてきた独自の民族である。いまは完全に日本人(大和民族)と同化しているので、私も本気で沖縄の分離独立説を唱えたいわけではないが、少なくともそのくらいの声を上げることによって沖縄県民は「特別自治県」としての地位を獲得すべきだとは思っている。
 沖縄は気候や自然に恵まれ、特別自治県としての地位を獲得すれば米軍基地に伴う需要や政府からの経済援助に頼らなくても、観光と自由貿易圏として経済的に十分独立してやっていける。地方自治の拡大を唱える人は多いが、沖縄の基地問題についてはほとんど口をつぐんでいる。地方自治の拡大を唱える以上、民主主義の在り方についても問われていることを自覚してもらいたい。

 NHKは毎月最初の土日に政治意識に関する全国世論調査を行う。今月の場合は4,5の2日にわたって電話での調査を行うはずだったが、11,12の来週に延ばしたようだ。もちろん菅・翁長両氏の会談の結果が明らかになるまで調査を見送ることにしたと思われる。5日のニュース7でも、きわめて公平に政府と沖縄の対立を扱った。
 紙メディアはどう扱ったか。朝日新聞は1面トップの報道だけでなく、「時々刻々」と社説でも大きく扱った。朝日新聞は社説の書き出しでこう書いた。
「積もり積もったものを吐き出さずにはいられない。これまでの政府の対応を『政治の堕落』とまで言い切った翁長雄志沖縄県知事には、そんな強い思いがあったのだろう。 菅官房長官との初の会談に臨んだ翁長氏の言葉を、国民全
体で受け止めたい」
 さらにこうも書いた。「戦後70年間、沖縄の米軍基地撤去のために、政府がどれほどの努力をしてきたのか。日本の安全保障政策はつねに基地負担にあえぐ沖縄の犠牲の上で成り立ってきた現実を、いまこそ国民に見つめてほしい。翁長氏の指摘は、そんな重い問いかけだととらえるべきだ」
 一方読売新聞は単に会談の内容を報道しただけだった。それどころか、会談が行われる前の3~5日にかけて全国世論調査を行った。調査結果は辺野古移設を決めた安倍内閣の方針を「評価する」とした人は41%で、「評価しない」の41%と拮抗した。あえてNHKすら見送った会談前の世論調査を、会談前に行った読売新聞の姿勢が浮き彫りになったと言えよう。

 安倍内閣は、民主主義政治の大原則を踏みにじろうとしているかに見える。それどころか、中央集権政治の時代に日本を先祖帰りさせようとしているかにさえ見える。すでに統一地方選は火ぶたを切った。自民党から立候補した人たちは苦戦を強いられることになる。
 安倍さん、分かっているのだろうね…。