小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

希望の党「大躍進」のはずが、大誤算に終わった最大の理由。

2017-10-28 08:22:18 | Weblog
 希望の党と民進党で、トップの責任が党内で問われている。
希望の党を立ち上げた小池氏は「私は創業者。創業者としての責任を全うするためにも代表は辞めない」としながらも、「国会での対応は党議員たちで代表を選出して共同代表制にしたい」と党内の権力にしがみついている。
一方民進党の前原代表は「政治は結果責任の世界。与党に3分の2以上の議席を与えてしまった責任をとり、一定の方針を定めたうえで代表を辞任する」と述べた。「一定の方針」とは民進党を解党せず存続させるということのようだ。
国民はおそらく、「前原は潔いが、小池はみじめったらしい」と思っているのではないか。だが、二人に共通しているのは、肝心の説明責任を果たしていないということだ。つまり、9月25日の3者会談で、何が話し合われ、なぜ民進党or民進党前議員・立候補予定者が希望の党に「合流」することになったのか、また小池氏は「合流」が決まった後で、大多数の民進党議員が戸惑うことになった踏み絵を「合流」の条件にしたのか。これは「後出しじゃんけん」なのか。私たち国民には納得がいかないことが多すぎるのだ。
3者会談としたのは、小池・前原会談に連合の神津会長が参加していたようなのだが、神津会長の責任論は連合内部で発生していないのか。実際、連合は衆院選挙で組合ごとに分裂支援(希望の党・立憲民主党・無所属の前民進党系)することになった。そうなら、連合も希望の党系、立憲民主党系、旧民進党系の三つに分かれたほうがわかりやすい。
連合のことはさておき、「小が大を呑む」ことは確かにありえないことではないのだが、希望の党と民進党とでは、あまりにも規模の差が大きすぎた。片っ方は生まれたばかりの国会議員数名の、風が吹かなくても飛んでしまうような小政党。もう一方は痩せても枯れても国会議員数100人を超える野党第1党の大政党。なぜこの両党の間で「小が大を呑む」ような「合流」が3者会談で合意されたのか。
前原氏が28日の両院議員総会で説明したのは、「民進党からボロボロこぼれていく状態で、党の将来に非常な危機感を持っていた」「自公と闘うには1対1の構図にする必要があった」ということだけだ。もともと前原氏は民進党の代表に選出された時点から、野党共闘についてぐらついていた。当初は「基本的政策が一致しない共産党とは共闘できない」と主張していたが、市民連合が推進してきた「政策合意抜きの、安倍一強打倒のための野党共闘」に少しずつ立ち位置を変えだした。そうした矢先に、突然出現したのが希望の党だった。

ここから先は私の推測である。事実は小池・前原両氏が明らかにすべきである。彼らが説明責任を果たそうとしないから、私が可能な限り論理的な推測をしてみる。
まず3者会談だが、お膳立てをしたのは細野氏か長島氏(あるいは二人)ではないか。小池氏を担いで希望の党を立ち上げたものの、二人に続く民進党からの離党者が出てきそうにない。で、民進党と希望の党との連携を実現する方法を模索して、前原氏と小池氏にトップ会談を持ちかけたのではないか。
前原氏と小池氏にとっても、この提案は渡りに舟だったはずだ。ひょっとしたら、前原氏か小池氏が、会談のセッティングを細野氏(または長島氏)に依頼したのかもしれない。連合の神津氏を会談に立ち合わせたのは前原氏であろう。小池氏には連合との接点がないからだ。神津氏を巻き込んだのは、言うまでもないことだが、「どういう連携なら連合が組織的な支援体制をとれるか」を探るためだったと思う。連合は民進党の有力な支持勢力であり、連合がソッポを向くような連携は難しいからだ。
前原氏が希望の党との連携に前のめりになったのは、もともと共産党との選挙協力には否定的だった立ち位置からしても、「選挙の顔」あるいは「人寄せパンダ」としても利用価値が大きい小池氏と組んだほうが選挙に有利だと考えたからだと思う。
そう考えると大が自ら小に呑み込まれた理由も納得できる。連携には選挙協力(つまり共闘)という方法もあるのだが、選挙協力では「選挙の顔」あるいは「人寄せパンダ」として小池氏を利用するのも限界がある。で、前原氏は民進党と希望の党との合併を構想していたのではないだろうか。
が、小池氏はそうした前原・民進党の足元を完全に見透かしていた。「対等合併なんかとんでもない。民進党が解党して希望の党に合流しなさい」と、連携の条件を突き付けたのではないか。連合の神津氏も、連合内部の複雑な事情を抱えており、選挙協力より二つの党が一緒になるほうが支援体制を整えやすいと考えたと思う。
問題はこの時点で希望の党が民進党を丸抱えするか否かの話がどの程度出ていたかである。小池氏は「最初から全員を受け入れるつもりはないと言っている」と主張し、前原氏は「ボタンのかけ違いがあった」としか言っていない。
少なくとも、この時点では小池氏は民進党からの受け入れについて、「安保法制容認」「憲法改正支持」という2枚の踏み絵は突き付けていなかった。もしこの時点で「合流」の条件として2枚の踏み絵を提示されていたら、いくら前原氏でも(彼自身の個人的考えは別としても)受け入れなかったであろう。民進党が完全に分裂することは目に見えているからだ。
では、なぜ「排除」「踏み絵」問題が生じたのか。ここではっきりしておくが、時系列的には「排除」問題が先で、「踏み絵」が後である。小池氏が民進党の特定の議員を「排除」するために、あとから設定したのが「踏み絵」を踏ませるという条件である。
さて「ボタンの掛け違い」のキーワードは、希望の党への「合流」について説明した民進党両院議員総会での前原発言にあった。
「名を捨てて実をとる」
この言葉にカチンときたのが小池氏。「私を“選挙の顔”“人寄せパンダ”として利用するだけ利用して、希望の党を丸ごと乗っ取る気なのか、と態度を硬化させたのではないか。それが「踏み絵」作戦につながったのではないか。そう考えれば、すべてつじつまが合う。
そもそも民進党の両院議員総会で、一部の議員から「全員が受け入れられるのか」という質問は出たようだが、前原氏の「排除されることはない。私に一任してもらいたい」という説明でシャンシャン拍手になったという。が、その翌日29日の定例記者会見の場で、日頃から小池氏に厳しいというフリージャーナリストから前原発言について問われ、小池氏が「排除しないことはない。排除する」と答えたことで、いっきょに「排除」問題が噴出した。なお「安保法制容認」「憲法改正支持」を含む政策協定書(踏み絵)の内容が明らかになったのは10月2日である。
もし両院議員総会の前に小池氏の口から安保法制容認や憲法改正支持の「踏み絵」を踏むことが条件として提示されていたら、前原氏の「合流」提案は総会で当然否決されていたはずだ。そもそも前原氏自身も3者会談での合意を白紙撤回していたであろう。
小池氏も、「名を捨てて実をとる」という前原発言がなければ、民進党が完全分裂するような「踏み絵」は条件にしていなかったのではないかと思う。最初から「安保法制容認」「憲法改正支持」を条件にすることを考えていたとしたら、完全なだまし討ちであり、卑怯卑劣極まりない政治家ならぬ「政治屋」でしかないことになる。そこまであくどい人とは思いたくない。
ただこれだけは間違いなく言えることは、小池氏と前原氏の「ボタンのかけ違い」(?)によって、国民の政治不信はかつてないほど高まったであろうということだ。とくに「踏み絵」を踏んで希望の党に入った人たちは地元の選挙区で有権者から「うそつき」呼ばわりされ、言い訳に困ったという。当たり前の話で、私は9月29日に投稿したブログ『争点が煙のように消えた総選挙――前回記録した戦後最低投票率更新の可能性も大に…』でこう書いている。

(民進党から希望の党に「合流」した立候補者が)安保法制を容認するということは憲法が定めた「日本という国の在り方」に関するポリシーを180度転換するということを意味し、そんなことが許されるなら国民の間に政治不信が沸騰することは間違いない。「名を捨てて実をとる」という範疇をはるかに超えた「転向」「変節」であり、選挙で当選するためなら悪魔とでも手を組む行為に等しい。
国民もバカではない。早晩、前原・民進党議員に対する愛想尽かしが急速に進むことは必至だ。また実際に、民進党議員が希望に公認要請した場合、「安保法制を容認するか」と踏み絵を突き付けられたとき、「はい、あの採決のときは党議拘束がかかっていたため、やむを得ず体を張って抵抗したけど、実は本意ではなかった」と胸を張って言える人がどれだけいるか。仮にいたとしても、地元の有権者にその変節をどう説明するのか。「実は本意ではなかった」などと言い訳をしたら、「この人は当選しても本意ではないことを平気でやる人だ」という烙印を押されること必至だ。
前原・民進党の「合流」方針は、国民の政治不信を極限まで高めるだろう。これは日本の政治に取り返しのつかない傷跡を刻むことを意味する。

このブログを投稿した日の午後、小池氏の「排除」発言が飛び出した。



総選挙を考える⑦ 自民圧勝、立憲大健闘の選挙結果から、政治家は何を学んだか。

2017-10-25 10:59:43 | Weblog
 自公政権与党が3分の2を超える議席を維持し、立憲民主党が予想以上の大躍進を遂げる一方、希望の党と共産党が大敗北を喫した選挙となった。ほぼ事前のメディアの情勢調査を裏付ける結果となった。
 投票日翌日のNHK『ニュース7』で政治部の岩田記者が「自民は逆風の中での選挙だった」と解説したが、「NHKのがん」と言われている、東京都知事と同姓の報道局長の指示だったのかどうかは分からないが、私に言わせればとんでもない解説である。一方朝日の記者は「安倍さんはいいブレーンがついているのか、本当に選挙上手だ」と私に個人的感想を述べた。
 私は今回の選挙について最初は「自己都合解散」と位置付けていたが、途中から「たなぼた解散」と改名した。「自己都合解散」としたのは、前回14年の総選挙もそうだったが、「いまなら勝てる」という判断で解散を決めたからだ。が、解散するにはそれなりの「大義名分」が必要になる。それは戦争も同じで、日本も先の戦争で「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」といった「大義名分」を立ててアジアへの侵略を行ってきた。
 安倍総理にとっては、なぜこの時期が絶好の解散タイミングになったのか。北朝鮮が8月29日、事前通告なしに北海道・襟裳岬上空を通過するミサイルを発射し、だれの指示によるかは知らないがJアラートを東北地方一帯にまで流して国民を恐怖感に煽り立て、NHKをはじめメディアも一斉に追随した。この事件でほとんど「死に体」に近くなっていた安倍政権が一気に息を吹き返す。
 メディアの内閣支持率調査によると、「モリカケ疑惑」や稲田防衛相の国会答弁問題で今春以降内閣支持率は下落の一途をたどり、7月にはとうとう不支持率が支持率を上回る事態となった。そうした状況の中で安倍総理は8月に内閣改造を行い、多少支持率は回復したが、再逆転には至らなかった。自民党内でも、それまでの「安倍一強体制」下で沈黙を余儀なくされていた反安倍派議員が公然と反旗を翻すようになり、事実上「安倍一強」は崩壊の瀬戸際に陥った。
 そうした中で一気に攻勢に出たのが野党。モリカケ疑惑や稲田答弁を巡って閉会中審査を要求、数度にわたって開催されたが、肝心の安倍総理が出席しなかったり、出席しても疑惑についての説明責任を果たさず、業を煮やした野党側が憲法53条の規定に従って臨時国会の開催を要求したにもかかわらず、憲法53条には開催時期の規定がないことから安倍政権は開催に応じず、メディアも世論も安倍政権への批判を強めていた。
 そんな時に安倍総理に、「たなぼた」的なプレゼントが北朝鮮から届いた。ミサイル発射という「朗報」である。というより、メディアが「朗報」にしてくれた。その結果、9月の内閣支持率はどうなったか。安倍政権始まって以来と言えるほどの空前のV字回復を遂げ、支持率が不支持率を再逆転したのである。安倍総理が解散を決断したのは、この瞬間だった。こうして永田町で解散風が一気に吹き出したというわけだ。
 結果的に、今回の選挙は野党側の足並みの乱れもあって自民が圧勝した。「無理が通れば道理引っ込む」選挙だったと言えよう。いま安倍総理をはじめ自民党幹部は合言葉のように「謙虚に」を連発している。「謙虚に」という言葉は、言葉遣いや顔つきを意味することではない。国民の声に本当に真摯に耳を傾けることでなければならない。そういう意味では、モリカケ疑惑の解明にどれだけ真剣に取り組むかが、まず安倍新内閣に問われる。その問題から逃げ回り続けたら、国民からのしっぺ返しが必ず来る。

今回の選挙は政治家にとっても、国民にとっても、考えようによっては有意義な面もあったと私は思っている。とくに野党側の政治家にとっては、自らの立ち位置が今回ほど有権者から厳しく問われた選挙はなかったと言えるからだ。
メディアの多くは、希望の党の代表である小池氏が、記者会見の場で「踏み絵を踏むことを拒否した民進党議員は排除するのか」と質問したのに対して、思わず「排除します」と応じてしまったことで、「排除」という言葉に有権者が拒否反応を示した結果だと報じた。
 小池氏自身は「確かにきつい言葉ではあったが、『排除』という言葉だけが独り歩きしてしまった」と悔いたが、有権者はそれほど単純思考で希望の党への拒否感を示したわけではない。「排除」であろうと「選別」であろうと、意味するところは同じで、希望の党への「合流」を認めなかった民進党議員を、メディアが一派ひとからげで「リベラル系」と位置付けたことが、有権者心理に大きく作用したと考えられる。
 小池氏が「排除」するために用意したのが「安保法制容認」と「憲法改正」という二つの「踏み絵」だった。小池氏は希望の党への合流条件としたのだが、有権者にとっては自らの投票行動への「踏み絵」になったのである。つまり安保法制を容認し、憲法改正を支持しない人は、希望の党に投票しなくていい、という意味だと多くの有権者は受け取った。
 そうなると、国民の目には希望の党は維新と同様「第2自民党」ではないかとしか見えない。都知事選や都議選では「都議会はブラックボックス」という小池マジックが都民の心をとらえた。だが、大勝利した都民ファーストから、小池都政実現の大功労者だった音喜多氏らが離党するなど、小池マジックの種が少しずつ見えてきた。
 そもそも、希望の党と自民党との違いは、安保法制容認や憲法改正で同一歩調をとる限り、どこにあるのかということになる。小池氏の口から出た言葉では「しがらみのない政治」しかない。「しがらみのない政治」を志すなら、別に自民党を離党しなくても、自民党の中で自らが実践して支持を集めればいいだけの話だ。言葉は、それなりに力を持つことはあるが、実践で裏付けなければ空疎なものになる。いま自民党は「謙虚に」を合言葉にしているが、本当に謙虚な姿勢で政権が抱えている諸問題に正面から取り組まなければ、国民から手ひどいしっぺ返しを食う。いま小池氏は、そういう局面に直面している。
 同様のことは、野党で独り勝ちした立憲民主党の枝野氏についても言える。枝野氏自身はリベラリストというより、リアリストという評価のほうが高かった。だから小池・前原会談で民進党の希望の党への合流計画にも、政権与党に対して1対1の対立構図に持ち込まないと選挙に勝てないという前原氏の主張を支持したくらいだった。
 が、小池氏側から踏み絵の条件を示され、そこまで屈辱的な姿勢は潔しとせずと、当初は無所属で立候補するつもりだったようだ。なぜ枝野氏が新党結成に踏み切ったのかは私の憶測だが、無所属でも勝てる大物ならいざ知らず(実際、岡田氏や野田氏などの大物は無所属で立候補して勝利している)、まだキャリアも浅く知名度も低い民進党議員から「枝野新党を立ち上げてほしい」という要請があったのではないかと思っている。
 そういう経緯で立憲民主党を結成したのだと思うが、選挙に際しては小池マジックと同様の枝野マジックを使った。立憲民主党の政策を訴えるより「枝野立て、という国民の声に背中を押された」という殺し文句がそれだ。これが、国民の声にそっぽを向き続けた安倍総理への反発を強めていた有権者の心を打った。立憲民主党の最大の勝因は、この殺し文句にあった。
 が、枝野氏が小池氏と違ったのは、選挙用に使った殺し文句を裏切ったら、立憲民主党に票を投じてくれた有権者はすぐに離れていくだろうことに気付いたことだった。国民の小池離れを目の前で見てきたから、その轍を踏んではならないという思いを強くしたのかもしれない。
 ある意味では、枝野氏が今回の選挙で一番多くのことを学んだのではないだろうか。メディアは無責任に立憲民主党を軸にした野党連携の可能性を論じているが、肝心の枝野氏は立憲民主党の両院議員総会でも「永田町の数合わせの論理にくみした途端、私たちの党は国民から見捨てられるだろう」と、野合を拒否する姿勢を明確にしている。
 ただ立憲民主党が現在の規模のうちはそうした姿勢を貫くべきだが、自公と政権の座を争うような事態が到来した場合は、きれいごとだけでは政権を獲得し、維持することはできない。自民党も極論すれば右から左まで包含した野合政党である。が、55年体制以降の長い歴史の中で、派閥が足の引っ張り合いをしながらも切磋琢磨して党としての一体性を維持してきた。そうした「大人の政党」への道も志向していく必要があるだろう。長く続いた自公政権に対する「受け皿」にとどまらず、国民が積極的に立憲民主党に政権をゆだねてみたいと思えるような政党に、これからどうやって育てていくかが、枝野氏の双肩にかかっている。
 とりわけ、臨時国会が始まれば、ただちに憲法改正問題と取り組まなければならなくなる。安倍総理は9条の1項、2項を残して3項に自衛隊を明記するという「加憲論」を提示しているが、それは公明党の支持を得るための方便に過ぎない。
 だが、肝心の公明党は「9条はいじる必要はない」としており、希望の党や維新の出方次第では改憲の方向性を「2項を書き換えて自衛隊を明記する」に変更する可能性もある。実際その方が、自民党内部はまとまりやすい。
 もし安倍政権が正面突破で改憲を打ち出してきた場合、公明党はおそらく「賛成も出来ず、かといって自公連立が誤和算になりかねない反対も出来ず」の板挟み状態になる。そうした時、立憲民主党がどういう論理で憲法改正問題に取り組むのか、国民はかたずをのんで見守っている。


総選挙を考える⑥ 選挙結果を「事前」総括する。自民大勝、立憲健闘の陰で希望と公明は?

2017-10-19 14:39:17 | Weblog
 今日は未明から小雨が降りだしたようだ。一日雨だという。投票日まであと3日。今度の選挙を天が嘆いた「涙雨」なのだろうか。
 もう選挙結果はもう目に見えているので、きょう19日の時点であらかじめ選挙総括をしておく。メディアは「現時点での選挙情報調査では自民圧勝の勢いだが、まだ投票態度を決めていない有権者が約4割もおり、その人たちの動向次第で不確実な要素もある」というが、投票率が前回の総選挙では52.66%であり、投票態度を決めていない約4割の大半が無党派層であれば、その傾向は従来と基本的には変わらない。これまでも直前まで投票態度を決めていないという有権者はつねに4割前後はいたし、結局「選択肢」がないまま投票日を迎え、投票を棄権した有権者が多かった。
 前回の解散に当たって安倍総理は、消費税増税時期の延期を解散の「大義」にする予定だったが、野党第1党の民主党がのってこなかったので仕方なく「アベノミクスの継続について国民に信を問う」と「大義」を変えた。が、アベノミクスの成果と言われても、輸出企業は為替差益をため込み株価は上昇したが、一般庶民の収入は一向に増えず、かといって野党も「アベノミクスは失敗だった」との主張も出来ず、有権者はしらけきった選挙であった。私は「選択肢のない選挙」と断じ、投票率の最低記録更新を予測した。
 今回の総選挙に際し、安倍総理は当初「消費税増税分の使途変更」を解散の「大義」にしようとしたが、メディアが「2年も先のことをいま決める必要があるのか。第一、2年後に消費税を増税できる経済情勢にあるかどうかわからないではないか」「大義なき解散だ」と批判し、その後安倍総理は「大義」を二転三転させた挙句、最終的には北朝鮮危機対策と少子高齢化対策を「国難」と位置づけ、「大義」を「国難突破解散」に変えた。まさに「解散のための解散」であり、「大義」は解散を正当化するための口実に過ぎないことをこれほど明々白々にしたことは、かつてなかった。「まだ投票行動を決めていない」という有権者は、今回の選挙にしらけきっているからだろう。前回記録した最低投票率新記録を、さらに更新する可能性すらある。
 なお、メディアは今回は投票日直前の選挙情報調査報道は行わないだろう。前回は直前に「自民300を超える勢い」と報じた結果、投票率が戦後最低を記録したと思ったからだろうが、直前だろうが1週間前だろうが、調査の時期によって有権者の投票行動に大きな変化が生じるわけではない。選挙の争点が明確になり、有権者がその争点に対して強い関心を持てば、調査時期とは関係なく投票率は高まる。小池都知事が巧みに争点を作り出した都議選が、そのことを証明している。小池氏は、さすがにメディアの出身だけのことはある。

 それはともかく、今回の選挙ほど有権者をバカにした選挙はなかった。国民の「政治不信、ここに極まれり」と言いたくなるような選挙になった。選挙後の当選者や政党の行動が、さらに国民の政治不信をあおるだろう。そうなることも、ほぼ間違いない。
 選挙で、国民の政治不信を招いた最大の「戦犯」は、民進党の前原代表と希望の党・小池代表だろう。
 選挙後に関してあらかじめ予測しておくが、公明党が憲法改正問題について、「平和の党」という党是をかなぐり捨てて自民党にすり寄るだろう。民進党の前議員で無所属立候補した当選者は、立憲民主党に入るだろうし、希望の党からも脱落者が相当出る。「政治家の志」とは何なのか、が問われることになるのは間違いない。
 まず小池氏の「犯罪」容疑から検証する。小池氏の側近・若狭氏が自民党を離党して「日本ファーストの会」をたった一人で立ち上げた後、民進党から細野氏や長島氏が若狭グループとの新党結成の協議に入った。政治家としてのキャリアから考えても、若狭氏は新党の主導権を細野氏に奪われるとの危機感を抱き、小池氏に出馬を要請した。こうして小池氏が新党・希望の党の代表になる。問題は希望の党の党是は、この時点では何もなかった。せいぜい「しがらみのない政治」という、肝心の政策の中身がないスローガンだけの新党だったことだ。この時点で小池氏が政策を明確にして「安保法制容認」「憲法改正」を打ち出していれば、さすがに民進党の前原代表も小池新党にすり寄ることはしなかったであろう。それまでの、体を張って抵抗した安保法制反対の政治姿勢は何だったのかが問われることもなかったはずだ。
 が、前原氏の頭の中には「安倍政権を倒す」という一点しかなかった。そのため小池氏がどういう政治思想で国政新党設立に乗り出したのかを考慮せず、「反安倍勢力になるだろう」というはかない期待感だけで連携しようとした。前原氏は「民進党を解党して希望の党に全員合流する」という決断をしたようだが、希望の党との連携には「選挙協力」という方法もあったはずだ。そういう選択肢は最初から頭の片隅にもなかったのだろうか。
 そもそも民進党は、民主党時代から野合政党だった。そのため一時は衆院で308議席という空前の議席数を有権者から与えられていながら、党内での足の引っ張り合いで何も決められない政権として国民から愛想尽かしをされ、野党に転落した経緯がある。その後維新の会の江田グループと合流して党名を民進党としたが、「屋上屋を架す」数合わせの野合復活であり、メディアの世論調査でも支持率は低下の一途をたどっていった。
 最大限善意に解釈したとして、民進党の代表としての前原氏には、なんとしても党勢を回復しなければという使命感があったのかもしれない。そのうえ都知事選や都議選でカッコよく自民と対決して大勝を収め、一躍政界の寵児になった小池氏が代表に就任した希望の党は、まぶしいばかりの輝きを放っているかに見えたのだろう。
 が、小池氏の政治思想は自民党在籍中から、かなり保守的な立ち位置にあった。総裁選で改憲正統派の石破氏の応援団になったり、明らかに民進党の主張(いちおう最大公約数的主張として)とは相容れないものがあった。小池氏が希望の党の代表に就任したとき、自民党との違いを「しがらみのない政治」としか言わなかったことにも、前原氏が錯覚した要因があったのかもしれない。
 しかし、許せないのは小池氏の策士ぶりである。前原氏との会談で、「合流」を持ちかけたのはおそらく小池氏のほうからだと思う。痩せても枯れても民進党は衆院90人(すでに希望の党入りしていた細野・長島両氏を除く)、参院64人、計154人の国会議員を抱える大政党である。生まれたばかりの議員数数人の希望の党に呑み込まれる力関係では、本来ない。
 が、小池氏の策士ぶりは、前原氏との会談の席で希望の党の政治理念を明確にせず(新保守政党ぐらいのことは匂わせた可能性はあるが)、前原氏の「反アベの受け皿」づくりの一念を利用して、希望の党への「合流」を呑ませてしまったことだ。前原氏が民進党の両院議員総会で少数政党に呑み込まれる「合流」について「名を捨てて実をとるためだ」と弁解したのも、そうした背景があったからだと考えられる。
 世論の小池離れが始まったのは、民進党議員の受け入れについて「安保法制容認」「憲法改正」の踏み絵を踏まない人は「排除する」と言ったことだとされている。確かに「排除」という表現はきついが、その一言だけで「かわいさ余って憎さ百倍」になるほど国民は単純ではない。国民の小池離れが生じたのは「安保法制容認」「憲法改正」という二枚の踏み絵を設けたことで、小池氏の政治家としての立ち位置が明確になり、その結果、小池支持派とアンチ小池派が二分され、アンチ派のほうが多数を占めたことによる。だから小池人気が完全に崩壊したわけではない。
 また都議会の自民党会派をブラックボックスと批判して都議選で大勝利した都民ファーストの会から、小池都知事誕生に貢献し、都民ファーストの会の初代幹事長に抜擢された音喜多氏らが、新代表の選出プロセスの不透明さを追求、「都民ファーストの会こそブラックボックスそのものだ」と批判して離党したことも、「小池氏なら淀んだ政界に新風を吹き込んでくれるのでは」という国民の期待が裏切られたことへの反発も大きく作用したと考えられる。
 いずれにせよ、有権者の「小池離れ」が始まった途端、民進党から希望の党に鞍替えした立候補者が立ち位置を変え始めた。そのことも有権者の政治不信を増幅させている。私は10月7日に投稿した『総選挙を考える』シリーズの1回目『メディアを混乱させたのは「解散の大義」か? それとも前原・小池両氏の誤算か?』と題したブログでこう書いた。

 前原氏に言わせれば「安倍政権を打倒するには、市民連合主導の野党共闘より、いま『日の出の勢い』がある希望の党と組んだほうが有利だ」と考えたのだろう。が、「アベ打倒」は、どういう目的を達成するための手段だったのか。憲法違反の安保法制を廃止するためだったはずだ。それが右寄りだろうと左寄りだろうと、総選挙での民進党の基本的方針だったはずだ。小池氏と「合流」について合意した後になって「こんなはずではなかった」では済まされない。
 いや、そもそも小池氏が「安保法制容認」「憲法改正」を、公認申請した民進党議員に踏み絵とするとした時点で、本当に体を張って安保法制に反対してきた民進党議員が、その踏み絵を踏むとでも思ったのか。もし、そうなら、前原氏自身が、選挙に勝つためなら志も何も関係ない「政治屋」でしかないことを意味し、また実際に踏み絵を踏んで希望の党の公認を得た人たちは、地元の選挙区で有権者に自身の変節・転向についてどう説明するのか。国民をこれほどバカにした政治行動を、私はかつて見たことも聞いたこともない。彼らの政治行動の結果は、22日、有権者によって容赦ない審判を下されるだろう。

 昨日(18日)当たりからメディアが、民進党系希望の党からの立候補者の「反党選挙活動」が続出している状況を報道し始めた。自分が自分の意志で踏んだはずの「安保法制容認」や「憲法改正」の立ち位置を翻し始めたのだ。「小池神通力」が不発に終わった今、地元の選挙区で有権者の反発にあって立ち往生したためのようだ。いまさら立ち位置を再び変えたところで、有権者の政治不信は回復しない。
 今日の朝日新聞の記事によれば、17,18日に行った世論調査では、比例区投票先について自民党は34%(3,4日実施の前回調査では35%)と堅調だったが、第2位には立憲民主党が13%(前回は7%)と躍進し、希望の党を逆転したという。選挙後、無所属で立候補した前民進党議員や、希望の党から立候補しながら希望の党に反旗を翻した前民進党議員が立憲民主党に入った場合、立憲民主党が一躍第2党になる可能性が出てくる。民進党が野合政党だったことを考えると、立憲民主党はリベラル系として筋が通った政党になる可能性も高く、有権者にとっては明確な選択肢が出来ることにつながれば、現在の政治不信状況はかえって「雨降って、地固まる」になるかもしれない。
 いずれにせよ、自民・維新・希望と改憲勢力が3分の2を超えることは間違いなく、世論調査では安倍政権の続投には否定的だが、かといって自民大勝の状況下で「安倍おろし」の声が自民党内に生じる可能性はほぼなく、「安倍一強体制」が復活するだろう。そうなると党内世論も「安倍改憲論」で一気に集約される可能性が高くなり、改憲に慎重な姿勢を示していた公明党が窮地に陥ることは必至だ。
 これまで政治の「安定」は自公連立によって支えられてきた側面は大きく、自民党も安保法制や「共謀罪」についても公明党に譲歩しながら成立させてきた経緯があった。が、改憲問題では安倍政権が「もう公明党に譲歩する必要はない」と見極める可能性が出てきたわけで、そうなると公明党の立ち位置が難しくなる。連立政権の地位を維持することを最優先すれば、「平和の党」という党是をどこまで維持できるか、危うくなる。支持母体である創価学会との関係もややこしくなるだろうし、だいいち選挙のとき、最も頼りになるはずの公明党員がこれまでのように献身的な活動を担ってくれるか。山口代表がかじ取りを一つ間違えると、民進党・前原代表の二の舞を踏むことになりかねない。

 当初、このシリーズで書く予定にしていた人づくり政策(高度プロフェショナル制度)とアベノミクスの検証は、まったく選挙の争点にならなかったので、これでシリーズを終える。
 だが、選挙が終わり国会が始まれば、重要な政治テーマとして浮上する。とくに黒田・日銀総裁の異次元の金融緩和政策によって、金融機関はいま大きな爆弾を抱えており、いつ爆発してもおかしくない状況にある。
 私はすでに「迫りつつある金融危機」の原稿をほぼ書き終えており、ブログ投稿しようとしていた矢先に唐突に解散風が吹き出したため、投稿のタイミングを失ったが、月末か11月初めには投稿したい。
 最後に、安倍自民党の大勝は、少なくとも米トランプ大統領にとっては朗報だろう。内外に難問を抱え、いまや国内に信頼できる友人を少なからず失ってきたトランプ氏にとって、安倍総理は絶対に裏切らない友人だからだ。

総選挙を考える⑤ 安倍総理の「たなぼた」解散成功で、改憲への歯車が一気に回りだすのか?

2017-10-17 02:15:24 | Weblog
 このシリーズも今回で5回目を迎えた。ほぼ1日おきにブログを投稿してきたが、今日のブログを含めてあと2回で投票日前のシリーズを終える予定だ。選挙結果がわかり次第、シリーズ最終編として選挙総括をする。
 
 選挙戦中盤の各メディアによる世論調査では、自民圧勝の情勢のようだ。安倍総理の「賭け」は見事に効を奏した感じだ。メディアは「まだ投票態度を決めていない有権者が4割いる。今後情勢が大きく変わる可能性もある」としているが、投票態度を決めていない人たちの大半は無党派層で、意思決定が出来ないまま棄権か白紙投票する可能性が高い。選挙結果は、ほぼメディアの調査を裏付けるだろう。が、自民が大勝しても、安倍総理の続投は望まないという声がかなりを占めている(毎日新聞)。安倍総理がそうした声を謙虚に受け止めるか、「国民の信任を得た」として「安倍一強体制」を復活させ、いったんはあきらめかけた2020年の憲法改正に向けてまっしぐらに突き進む 小林です。今日の朝日新聞の記事を貼り付けます。私がブログで予想したように前原氏の政治生命が危機的状況に追い込まれています。
 小池氏はおそらく都議選と同様、選挙が終われば希望の党の代表を降りると思います。都知事と国政政党の代表という「二足のわらじ」を履き続けることが不可能だというくらいのことは分かりきったことで、小池氏も若狭氏に頼まれて選挙中だけの「選挙の顔」「人寄せパンダ」に徹することにしたことくらい、だれにでも想像がつくことで、柳の下に2匹目のドジョウはいなかったことが明白になりました。都民ファーストの会も遅かれ早かれ分解するでしょう。

前原氏、誤算続き窮地 希望への合流決断、党勢失速
 衆院選で希望の党への合流を決断した民進党の前原誠司代表が、誤算の連続で窮地に追い込まれている。「排除」と分裂劇の末、政権交代に向けた一時の勢いは失速したまま回復する手立ては見つからない。民進の参院議員の間では選挙後の代表辞任を求める動きも出てきた。
 「希望との合流は、安倍1強政治を倒すためだ。今の政治の流れを変えていかなくてはいけない」
 前原氏は13日夜、東京都内の街頭演説で希望代表の小池百合子・東京都知事と並び立ち、民進出身者が希望に合流した意義を強調した。報道各社が希望の失速を報じる中、「政治を変えられるのはみなさんの一票です」と危機感を訴えた。
 前原氏は安倍晋三首相による「不意打ち解散」を逆手にとり、希望への合流を即断。小池氏の人気に乗じて「政権交代可能な二大政党」実現を目指したが、現実は誤算の連続だった。
 前原氏が9月28日の民進の両院議員総会で「誰かを排除するということではない」と説明したが、小池氏は翌日、「全員を受け入れることはさらさらない」と否定。代表代行だった枝野幸男氏は反発し、立憲民主党の立ち上げに踏み切った。
 公約も明らかにされない段階で憲法改正の支持などを盛り込んだ政策協定書にサインを迫るやり方に、公認を返上し無所属で出馬する前職も。前原氏は「小池氏の立場になれば、民進が全員来ると困る。それで政策を打ち出したら思わぬ反発が出た」と周辺に困惑の色を隠さなかった。
 小池氏の衆院選出馬に事態打開を託して直談判するも固辞され、党としての首相候補も定まらないまま選挙戦に突入。「政権打倒」に必須な与党候補との「1対1」で争う構図は果たせず、希望から立候補した民進出身者も「弁明から入る守りの選挙戦」(中堅の前職)を嘆く。
 ■参院民進に解任論も
 前原氏の方針が招いた3分裂の展開に、民進に残った参院側は反発を強める。
 前原氏は衆院選に立候補する前職らを先行して希望に合流させ、選挙後に参院議員や地方議員らも一体化させる方針を示してきた。
 だが、小川敏夫参院議員会長は「民進党を守り、再びリベラル勢力を結集する思いで頑張る」と宣言。参院側では、希望ではなく立憲と連携することで党を存続させる道が語られている。参院幹部は「前原氏が希望との合併を提案しても、参院議員が否決する。下手に抵抗したら解任だ」と断言。前原氏は13日、記者団から再結集の可能性を問われ「今は選挙で手いっぱいです」とだけ語った。(斉藤太郎)

か、自民党内の反安倍勢力の動向がカギとなる。
 今日のテーマは『安全保障(北朝鮮危機対策)と憲法改正』だ。このテーマだけで数回の分量になりかねないので、これまで述べてきたことを中心に、主なポイントに絞って書く。
 安倍総理は今回の解散を「国難突破解散」と命名した。総理による「国難」は二つで「北朝鮮対策」と「少子化対策(のち少子高齢化対策に変更)」である。すでに「少子高齢化対策」については述べたので、まず北朝鮮問題について、日本を国難状態に陥れたのは安倍総理自身であることを、このブログでは立証する。
 そもそも北朝鮮が核・ミサイル開発に暴走しているのは、アメリカの敵視政策(北朝鮮を「悪の枢軸」「テロ支援国家」「ならず者国家」と罵詈雑言を浴びせている)と、核を含む軍事力に対する恐怖からである。北朝鮮が、過去、他国に対して挑発的行動を行ったことは朝鮮戦争後、一度もない。むしろ北朝鮮の目と鼻の先で米韓軍事行動をどんどんエスカレートさせ、北朝鮮を挑発してきたのはアメリカだった。それでもカーター大統領の時代まではあからさまな北朝鮮に対する敵視政策をとったことはなかったが、ブッシュ大統領が初めて北朝鮮を「悪の枢軸」「テロ支援国家」「ならず者国家」と決めつけ、北朝鮮に対するあからさまな敵視政策をとるようになった。北朝鮮がキチガイじみた核・ミサイル開発に暴走するようになったのは、それ以降である。
 アメリカはだれしも認める、経済的にも軍事的にも世界最強の国である。だからと言って、アメリカの大統領が自分の気に食わない国や人々を排除する権利を持っていると思いあがっているとしたら、そのこと自体が世界の安定と平和にとって極めて危険な要素である。9.11同時多発テロ攻撃を行ったテロ集団を擁護するつもりなど毛頭ないが、彼らを自爆テロ行為に駆り立てたのは、イスラム過激派に対するブッシュ大統領の必要以上の過激な挑発的言動だった。
 たとえば、ユネスコという、国連加盟国間の教育・科学・文化の交流による国際平和と福祉促進を目的とした国連の機関がある。その機関からアメリカが来年末に脱退するという。アメリカの庇護下にあるイスラエルと敵対関係にあるパレスチナが、ユネスコに加盟したのが面白くないという理由のようだ。つまりアメリカにとって気に食わない国はすべて敵視し、排除したいというのが、アメリカという国の在り方なのだ。
 しかもアメリカの敵視政策は、アメリカよりはるかに弱い国に対してしか発動しない。北朝鮮に対する圧力・制裁の抜け道になっているロシアや中国に対しては、せいぜい「圧力強化に協力してください」とお願いするだけだ。「協力しないなら」と、ロシアや中国に対して軍事的挑発に出たりはしない。
 日米軍事同盟や米韓軍事同盟は、小国・北朝鮮にとっては極めて脅威である。ロシアや中国が北朝鮮と軍事同盟を結んで(いちおう中北同盟はあるが)、北朝鮮を中国に核の傘で守ってもらえるという保証があれば、国民生活を犠牲にしてまで核・ミサイル開発に狂奔したりはしない。
 米朝のどちらが相手に対して挑発行動を激化しているか、冷静に判断すればアメリカのほうだということが誰にでもわかる。米韓共同軍事訓練を北朝鮮の目と鼻の先で行ったり、最新鋭の戦闘機や空母を北朝鮮の領空海域に進出させたり、北朝鮮を暴発させるための挑発としか思えないようなやり方をしている。
 いくら北朝鮮が憎いからと言って、アメリカが核の先制攻撃に出たら、国際世論が「やりすぎだ」と批判の的になることは目に見えているから、アメリカが先に核を使うことは考えられないが、通常兵器で軍事衝突が生じたら、北朝鮮などアメリカにとっては赤子の手をひねるより簡単なことだ。だから北朝鮮にとっては、もしアメリカとの軍事的衝突が生じたら、核でアメリカを攻撃するしか方法がない。
が、北朝鮮にはまだ米本土を核攻撃する能力はないと言われている。トランプ大統領は北朝鮮が米本土に対する核攻撃能力を擁する前に、北朝鮮の軍事力を徹底的に破壊してしまいたいと思っているようで、最近の対北挑発言動には目に余るものがある。トランプ大統領の戦略は、挑発にのって北朝鮮が先に手を出すことを期待しているのかもしれない。そうすれば堂々と北朝鮮に対する軍事行動を正当化できるからだ。
 しかも、たとえ北朝鮮がすでに米本土に対する核攻撃能力を持っていたとしても、核ミサイルがアメリカに届くまでかなりの時間的余裕があるから、迎撃できる可能性は高い。が、東京にはおそらく数分で届く。実際、北朝鮮のミサイルが襟裳岬上空を通過した時も、Jアラートで住民に避難を呼びかけても避難のための時間はせいぜい1~2分しかなかったという。
 ということは、万一米朝間に軍事衝突が生じたら、真っ先にとばっちりを受けるのは日本と韓国ということになる。だから、安倍総理が日本の平和を最優先で考えるなら、何とか話し合いで米朝間の緊張を解きほぐすことに全力を注ぐべきなのに、安倍総理は真逆の外交を行っている。つまり「もう対話で解決すべき時期は終わった。さらに圧力と制裁を強化して北朝鮮に核放棄を迫るべきだ」と公言、かえってトランプ大統領の対北軍事的挑発をあおったりまでしている。これが、日本の総理のやることか。
 実際、そういう言動が北朝鮮をいたずらに刺激して、北朝鮮がアメリカだけでなく日本も敵国視するようになった。国難を招いたのは、ほかならない安倍総理自身だと私が断言したのはそのためだ。
 北朝鮮の暴走を止めるにはどうしたらいいか。安倍総理がトランプ大統領と会って、北朝鮮に対する挑発的言辞や軍事的威嚇行動をやめるよう説得し、その足で北朝鮮の金委員長と会って平和条約交渉に入る。拉致問題を棚上げしての平和条約締結は難しいかもしれないが、「私がトランプを説得して北朝鮮に対する先制攻撃はさせないから、当面、核・ミサイル開発計画を凍結してほしい」と要請したら、間違いなく北朝鮮は応じる。
 対中国への抑止力として核を開発したインド、そのインドに対する抑止力として核を持ったパキスタン。いま、この両国は核を放棄はしていないが、核開発競争の連鎖は生じていない。北朝鮮も、アメリカの脅威がなくなれば、核開発を続ける意味がなく、朝鮮半島の危機は遠のく。
 安倍総理が、対米・対北外交で朝鮮半島の危機的状況をストップできれば、ノーベル平和賞の対象になる。

 次に憲法問題だ。安倍総理は「憲法学者の7割が自衛隊は違憲だと言っている。だから憲法9条の1項、2項は残して3項を追加して自衛隊を明記する」と、改憲の目的を強調している。
 憲法9条の2項には、二つの制約が書かれている。一つは「戦力の不保持」であり、もう一つは「交戦権の否認」である。これまで政府は「自衛隊は戦力にあらず」として「実力」という意味不明な位置づけをしてきた。「実力」が「戦力」すなわち「軍事力」を意味しないのであれば、自衛隊は張子の虎あるいは竹光でしかないことを意味しているとしか解釈できない。
 その解釈が正しければ、安保法制による「集団的自衛権の行使容認」は、アメリカに対する詐欺行為を意味する。なぜなら、戦力でもなく軍事力も擁さない自衛隊に、戦闘中の米軍の周りをちょろちょろ動き回られたら、米軍にとってははた迷惑この上ないだろう。
 現行憲法を改正するなら、憲法審査会で野党の意見も誠実に聞き、その議論の中身が国民に見えるようにして逐次国民の声を審査会に反映させながら、改正すべき点を明確化したうえで、最後は民主主義システムの原則に従って多数決で改正案が衆参両院で3分の2以上に達した時に改正案を発議して、国民投票にかけるべきである。
 いまは野党の多くも、何が何でも憲法改正反対ではない。ちゃんと議論を尽くし、取り入れるべき要素は取り入れ、国民の多数が容認できるような憲法改正案を練り上げるのが、政治家の責務であろう。あらかじめ2020年と、改正時期を設定して、「改正ありき」の改正を強行しようとすれば、たとえ衆参両院で発議の要件を満たしたとしても、国民投票で葬り去られる。そういう結果になったら、憲法改正の機会は数十年の単位で訪れない。そんなリスクを冒す権利は安倍総理でなくても、だれにもない。
 今回の選挙結果がメディアの世論調査通りになった場合、「安倍一強体制」が復活する可能性が高い。安倍総理の性格からして、自民党内でも反対意見が多い「安倍改正案」を強行しようとするだろう。その場合、公明党が総理の強硬姿勢に膝を屈するか否か、「平和の党」を自任してきた党の生命線にかかわることになる。
 なおジャーナリストの田原総一郎氏が13日、日本外国特派員協会で記者会見し、安倍総理が昨年「集団的自衛権の行使を容認する安保法制が成立したことで、憲法改正の必要性がなくなった」と語っていたことを明らかにした。
 その意味を簡単に解説すると、すでに述べたように憲法9条の2項は「戦力の不保持」と「交戦権の否認」をうたっている。自衛隊については「実力」であって「戦力」ではないという詭弁を弄して繕い、「専守防衛のための武力行使は憲法も禁じていない」と主張してきた。
 実は憲法制定時の国会で、「自衛のための武力行使」についてはすでに議論されている。1946年6月26日の衆院議員で日本進歩党の原夫次郎議員の「自衛権まで放棄するのか」という質問に、吉田茂総理が「第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」と答弁している。
 さらに共産党の野坂参三議員が「戦争は侵略戦争と正しい戦争たる防衛戦争に区別できる。したがって戦争一般放棄という形ではなしに、侵略戦争放棄とするのが妥当だ」と主張したのに対しては、吉田総理は「国家正当防衛による戦争は正当なりとせられるようであるが、私はかくのごときことを認めることは有害であろうと思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名において行われたることは顕著な事実であります」と突っぱねている(6月28日)。
 また社会党の森三樹二議員の「戦争放棄の条文は、将来、国家の存立を危うくしないという保証の見通しがついて初めて設定されるものだ」という批判に対しては吉田総理は「世界の平和を脅かす国があれば、それは世界の平和に対する冒犯者として、相当の制裁が加えられることになっております」と答えている(7月9日)。
 つまり現行憲法が制定された時点では、政府見解として明確に、一切の戦力の不保持と、自衛権をも否定していたのだ。この憲法9条に関する当時の政府解釈についての議論が、その後行われたことは一度もない。吉田答弁を否定することもせずに、アメリカの要請によって次々に9条の空洞化が行われてきたのである。
 安倍総理は田原氏に「憲法を改正する必要がなくなった」根拠として、安保法制の成立で「米側からの要請がなくなったため」と説明したという。
 つまり、自衛隊は「実力」と言い繕ってみても、事実上の軍隊であることはだれも否定しようがない。だから現在の自衛隊をそのまま「国防軍」と改名すべきだという議論が自民党内でも主流になりつつあるのは当然と言えば当然だ。
 問題は、集団的自衛権行使を容認することにした安保法制によって、9条2項の最後の砦であった「交戦権の否認」すら、アメリカの要請によって空洞化したという事実が明らかにされたことだ。つまり安倍政権はアメリカの忠犬ハチ公だったということを、安倍総理は迂闊にも田原氏にばらしてしまったということになる。
 私は前に、現行憲法は大日本帝国憲法の定めに従って改定されており、いまだ国民の審判を得ていないという弱点を持っていることを指摘した。吉田総理は、日本独立時に現行憲法について、そのまま継承するか、あるいは改定するかを国会で議論し、国民の審判を仰ぐべきだった。そういう極めて大事な手続きを行ってこなかったことが、今日の憲法と現実とのかい離を生んでいる。
 憲法議論を行う場合、この反省からスタートしないと、また国民置いてきぼりの改定になりかねない。その危惧を、私は抱いている。

 最後に「抑止力」について考察しておく。抑止力というと、おそらく誰しもが「軍事的脅威に対抗する軍事的抑止力」を直反射的に思い浮かべるだろう。だが「軍事力による抑止力」効果は、かえって「軍拡競争」という負の連鎖を招きかねない。
 現に、安倍総理が北朝鮮の核・ミサイル開発暴走について、「もう対話の時期は終わった。圧力を強化する以外に方法はない」と、トランプ大統領の日本総代理人のような立ち位置を明確にして以降、北朝鮮は日本に対する敵視政策をあらわにし始めた。
 8月29日と9月15日、北朝鮮がミサイルを発射して襟裳岬上空を通過して太平洋上に落下して以降、安倍政権と安倍政権に追随した日本の全メディアが「挑発」と「脅威」を騒ぎ立て、我が国の「安全保障危機論」が急浮上した。「専守防衛だけでは日本を守れない。敵基地への攻撃を容認すべきだ」「日本の核武装はともかく、核持ち込み(米軍基地への核配備を意味する表現)の議論を始めるべきだ」といった発言が政府や自民党幹部から平然と語られるようになった。日本憲法の平和主義が、いま空前の灯と化しつつある。
 抑止力とは何か。脅威と見なした仮想敵国の軍事力に対抗できる軍事力を整備することで、本当に実効性ある抑止効果を持てるのか。そうした発想そのものが、仮想敵国をさらなる挑発行動に駆り立て、一触即発の危機を拡大するだけではないのか。
 いま一度、太平洋戦争について新しい視点で検証する必要がある。日本は「ハル・ノート」を最後通告とみなしてパールハーバーを奇襲攻撃した。この攻撃で太平洋戦争の火ぶたが切って落とされた。
 当時日本は欧米列強による石油禁輸などの経済制裁を受け、資源確保のため南方に進出していた。中国とは熾烈な戦争状態にあり、ソ連軍に備えて満蒙にも関東軍を配備していた。この時期すでに世界最強の軍事力を擁していたアメリカとは、絶対に事を構えたくなかったし、そんな軍事的余力もなかった。だからアメリカ大使を二人に増やして(野村・来栖氏)、24時間体制で対米交渉にあたらせていた。
 が、アメリカは日本政府の妥協案をことごとく拒否、日本が大陸の権益をすべて放棄して軍を即時撤退させよと迫った。それが「ハル・ノート」だった。アメリカはのちに「ハル・ノートは最後通告ではなかった」と主張したが、日本政府は最後通告と受け取った。もしアメリカが主張するように「ハル・ノート」が最後通告ではなかったとしたら、まぎれもなく世界史上最大の「挑発外交文書」である。
「挑発」とは前にもブログで書いたが、「相手(の感情)を刺激して事に及ばせようとする行為」のことである。弱者が強者に対して行える行為ではない。実際、当時の日本はアメリカとの交渉に際して「腫れ物に触る」ように神経を使っていた。アメリカと戦争をしても勝てるわけがないことを軍部も理解していた。が、日本が到底のめないような条件を「ハル・ノート」で突きつけられ、日本は「窮鼠、猫を噛む」対米開戦に踏み切らざるを得なくなった。アメリカがのちに弁解したように「ハル・ノート」は交渉のたたき台の一つで最後通告ではなかったとしても、その意図は日本を自暴自棄的行為に出させることが目的だったと言われてもやむを得ない内容だった。実際、東京裁判でパール判事(インド代表)は「このような文書を送られたら、非力なモナコ公国やルクセンブルク公国でもアメリカに武力で立ち向かうだろう」と判決書で述べている。
 安倍政権や日本のメディアは北朝鮮の暴走を「挑発」「挑発」と非難しているが、弱者が強者に対して挑発行動に出ることはあり得ない。そして弱者が強者の挑発に対する方策は三つしかない。
①無視して相手にしないこと。
②「空威張り」して、相手の挑発をさらにエスカレートさせてしまうこと。
③挑発に乗って無謀な「窮鼠、猫を噛む」行為に出ること。
いま米朝の「挑発ごっこ」がどういう状況にあるか、火を見るよりも明らかだろう。
私はすでに書いたように、現行憲法を一字一句変えるなと主張しているわけではない。ただ、いまのように米朝関係が極度に悪化し、安倍政権がメディアの「協力」を得て国民感情が高まっている時期に憲法9条をもてあそぶことは極めて危険である。
もちろん「日本の憲法9条が抑止力になっているわけではない」という議論は間違ってはいない。日本人がアメリカをはじめとする主要国の憲法の1か条も知らないのと同様、他国の人たちも日本の憲法9条のことなどだれも知らない。また憲法は自国の権力は縛っても、他国の権力を縛ることはできない。
が、私たちは過去の戦争の反省から、日本国憲法9条の平和主義の精神を、どうやって世界平和の実現、とりわけ北朝鮮危機の解決に生かすための行動をとるべきかを真剣に考えたいと思う。「抑止力」の名のもとにアメリカの軍事的挑発行動に同調したり、「脅威」を煽り立てて軍事力の強化や核持ち込み容認を図ることが、果たして平和主義の理念に沿っているのか、冷静に考えたい。 
もちろん理念だけで平和が実現するわけではないことは百も承知だ。そこで、日本にとっていかなる行動が、真の抑止力になるかを考えたい。
自衛隊を、国際災害救援隊に改組して、地球の裏側の国や体制の異なる国でも、自然災害などの災害が生じたら、真っ先に駆けつけて救助・救援活動を行うこと。また難民救済のために、ありとあらゆる活動を行うこと。もちろん難民受け入れにも積極的になること。また現地で武装勢力から難民を庇護するためには、最少最低限の武装は必要だろう。難民救援の活動が他国の軍隊に保護されながらでは、支援部隊の尊厳に傷がつく。
日本という「国の形」が世界からそう見えるようになれば、そういう日本を攻撃する国はない。「アメリカの核の傘」に守られなくても、日本にとって最大の抑止力になる。そういう議論を、真剣に進めてほしい。
そして日本のそうした「平和活動」が、最高の抑止力になることを立証できたら、世界中が日本の「国の在り方」を尊敬し、同じ道を歩むようになる。そのときNPTと核大国による軍事的威嚇で核拡散を防止しなくても、世界平和は現実のものになる。
 

総選挙を考える④ 少子高齢化問題は、付け焼刃的な対症療法では解決できない。

2017-10-14 01:37:49 | Weblog
「選挙落ちた。前原・小池、二人とも死ね」…そんなうめき声が希望の党に移った旧民進党立候補者から噴出するのは、あと1週間後だ。私が危惧した最悪のシナリオが進行している。
 希望の党が苦戦している原因は、ほとんどのメディアや政治評論家たちが解説しているような、小池氏が希望の党への「合流」の条件とした安保法制容認と憲法改正という踏み絵を踏まない旧民進党議員を「排除する」という発言ではない。確かに「排除」という言葉はきついが、それが原因ではない。
 最大の理由は、やはり私がこれまで何度もブログで指摘してきたように、それまで安保法制に体を張って抵抗してきた人たちが、選挙のために手のひらを返すように信念をかなぐり捨てたことへの、痛烈なしっぺ返しである。私は『総選挙を考える』シリーズの1回目(7日投稿)でこう書いた。
「踏み絵を踏んで希望の党の公認を得た人たちは、地元の選挙区で有権者に自身の変節・転向についてどう説明するのか。国民をこれほどバカにした政治行動を、私はかつて見たことも聞いたこともない。彼らの政治行動の結果は、22日、有権者によって容赦ない審判を下されるだろう」
 もう一つ、国民の小池離れを加速したのは都民ファーストの会の音喜多・内田両都議の離党騒動だ。二人とも小池都知事実現のために大奮闘した功労者で、とくに音喜多氏は都民ファーストの会の初代幹事長にも就いたほどの大幹部である。その二人が「都民ファーストの会はブラックボックスだ」と告発して離党した。小池氏の超ワンマンぶりが、この1件で明らかになった。これで有権者の小池離れが一気に進んだと言える。
 さらにダメ押しをすると、小池氏の「二枚のわらじばき」である。東京オリンピックや豊洲・築地の市場問題は都政の喫緊の課題である。それを放り出して国政に色気を出した。新党「日本ファーストの会」を立ち上げた若狭氏が、唐突な安倍総理の「自己都合解散」に慌てて、小池氏を都議選と同様「選挙の顔」として担ぎ出したというのが真相だと思うが、前原民進党代表の「1対1の選挙にしないと自公に勝てない」という「机上の計算」に乗り、踏み絵を踏んだ旧民進党議員を大量に抱え込んで、「政権選択の選挙」と舞い上がってしまったことへの、「思い上がりもいい加減にしろ」という国民の反発が重なった。
 メディアの世論調査で、希望の党が「予想外」の低支持率だったのは、こうした事情が重なった複合的要因による。「排除」という言葉に国民が嫌悪したからではない。ある意味では筋を通した枝野新党の立憲民主党が、「予想外」の支持を集めたのも、私に言わせれば当然の結果だった。実際12日のBSプライムで反町MCのしつこいくらいの挑発にも一切乗らず、早急に政権獲得を目指したりして旧民主党の轍は踏まないと言明、野合政党も野合政権も作らないと主張した。まだ有権者の約4割が態度を決めていないというから、立憲民主党の支持層はさらに拡大すると思われる。

 私はこれまで今回の解散劇を安倍総理の「自己都合解散」と命名してきた。が、今日から「たなぼた解散」と改名する。私のブログの読者はこの改名の意味はすぐお分かりと思うが、いちおう簡単に理由を説明しておく。
 安倍内閣の支持率はモリカケ疑惑や稲田防衛相の国会答弁問題で5~7月にかけて急落し、自民党内の反安倍勢力が公然とアベノミクス批判や安倍改憲論批判を始め、「安倍一強体制」の崩壊は時間の問題と思われていた。8月初めには内閣改造効果によっていったん支持率下落に歯止めがかかったかに見えたが、野党が要求していた閉会中審議が8月中に数回開催されたものの、肝心の安倍総理が出席しなかったりと、逃げ回っていた。当然9月の支持率調査では再び下落に転じて「安倍一強」にとどめが刺されると、私は内心思っていた。が、9月の世論調査で内閣支持率が一気にV字回復した。北朝鮮が8月29日、襟裳岬上空をかすめるミサイルを発射し、政府がJアラートを東北地方にまで流す大騒ぎをした挙句、これ幸いとばかりに「北朝鮮の脅威」をがなり立てた。
この事態をメディアが冷静に受け止めていれば問題は生じなかったが、NHKをはじめ安倍批判を強めていたメディアまで先を争うように「北朝鮮に対する圧力と制裁の強化」を主張した。まさに戦時中を想起させるほどで、こうした場合、政権への求心力が高まるのは歴史的必然でもある。9月の世論調査で内閣支持率が「たなぼた」的にV字回復したのはそのためで、安倍総理はこの千載一遇のチャンスに飛びつき、再び「安倍一強」を復活させるべく解散に踏み切ったというわけだ。
私はこの時メディアの報道姿勢に猛烈に批判した。私は一度も「北朝鮮の挑発」とブログで書いたことはない。私は一貫して米朝の「挑発ごっこ」と書いてきた。だいたい弱者のほうから強者に対して「挑発」を仕掛けるという自殺行為を行うことは、本来ありえない。TBSの『時事放談』で丹羽宇一郎氏が日本の対米開戦をたとえに「窮鼠、猫を噛む」危険性を指摘したことがあったが、これも私の主張のパクリではないかと思っている。
安倍総理が解散に踏み切るという事態になってメディアも報道姿勢を転換しだした。その結果、10月の世論調査では再び内閣支持率が急落し、私はブログで安倍総理は「(解散を)早まったと思っているかもしれない」と書いた。が、すでに述べたように、希望の党への民進党議員の「合流」で国民の政治不信が極限に達し、固い支持層に支えられている自民党の一人勝ちの選挙戦序盤となったのである。それゆえ私は今回の解散劇を、安倍総理にとって「たなぼた解散」になったと解釈することにしたというわけだ。

さて「国難は北朝鮮と少子化」として「国難突破解散」を宣言した安倍総理。北朝鮮問題が「国難」だというなら、その「国難」は安倍総理自身が招いた国難ではないか。そのことについては次回のブログで検証する。
 もう一つの「国難」の少子化。最近、安倍総理は「少子高齢化」と言い換えているが、高齢化対策については何ら具体的政策を提起していない。前回のブログで「まさか高齢者に生存定年制を設けるつもりではないだろうな」と揶揄したが、せっかく高齢者対策も「国難」に入れてくれたので、私が誰も考えもしなかった高齢者対策を提案する。
 私の提案をパクってくれてもいいが、中途半端なパクリ方はやめてほしい。私は断片的な政策や制度として提案しているわけではなく、様々な諸問題を総合的に解決するベターな方策として提案しているのであって、その一部だけを「この方法はいい」とご都合主義的に採用しても、効果はない。
 高齢者対策については後で書くが、まず少子化対策である。高齢化は食生活の向上や、高齢者自身の健康管理、医療技術に飛躍的進歩などの複合的結果であり、それが社会問題化したのは少子化つまり高齢者を支える基幹的制度である年金財源の危機と、医療費の高騰による健康保険財政の危機が目前に迫っているからだ。

 まず少子化問題から検証する。少子化が始まった原因から考察する。①核家族化が急速に進んだこと。②女性の高学歴化や男女機会均等法などにより女性の社会進出と活躍の機会が増えたこと。③女性の生き方や働き方についての価値観が大きく変化したこと(つまり子育て以外の、仕事や趣味、友人たちとの交流などを重視するようになったこと)。――こうした要因がとりあえず考えられよう。だから、少子化対策は、そうした要因に対する対策でなければ意味がない。はっきり言って安倍政権の政策は、ブレーンがしっかりしていないせいか、「付け焼刃」的な対症療法の域を出ないものが多い。
 実は②と③の要因には、実効性がある対策はない。女性労働力の活用は社会的要請でもあるし、女性の生き方や働き方についての価値観も時代の反映であり、政府が関与すべきことではない。そこで①に対する対策として保育園の活用を図ることを優先的に考えるのが、政治の目的でなければならない。
 で、私の提案を述べるが、いたずらに保育園を増やすことを目標にするのではなく(保育園増設を公約にすることは、女性票の獲得には有利な政策だが…)、第2子、第3子…を妊娠した女性の子供の入園を最優先することだ。
 大家族だった時代、女性が妊娠したら、子育て中の幼児の面倒は女性や夫の実家の父母が見るのが当たり前だった。が、核家族化と若い夫婦の大都市集中によって、「スープが冷めない」距離に自分たちの実家がないケースが圧倒的に増えている。女性が妊娠しても、子育て中の幼児を預けられる実家が身近にないこと、さらに高齢者もいまは高齢者同士の世界が地域社会に生まれており、孫の世話とは別の生きがいを持つようになっている。
 そうした現実に対する対策として、女性が安心して第2子、3子…を妊娠できるように、妊娠したら育児中の幼児を保育園があずかる優先枠を設けることだ。育児休暇中の女性の子供を排除するなど、とんでもない話だ。建前としての「公平性」をバカの一つ覚えのように適用しようとするから、少子化対策どころか、第2子、第3子…の妊娠を女性がためらうことになる。
 少子化対策とは、女性が安心して妊娠できる環境を整えることであり、そういう思想抜きにただ保育園を増やし保育士の待遇を改善すればいいという問題ではない。誤解されると困るので、私は保育園を増やすな、保育士の待遇を改善するな、と主張しているわけではない。「仏作って、魂入れず」のような政策を批判しているだけだ。

 次に高齢者対策である。これは少子化対策よりはるかに厄介な問題だ。なぜ安倍総理が「国難」の少子化に高齢化を加えたのかはわからないが、実は私は以前から高齢者対策について考えてきたことがあったので、この機会に問題提起しておきたい。
 少子化問題と同様に、高齢化社会によってどういう問題が生じ、政治の力でどう解決を図るべきかということからスタートする。
 高齢化によってどういう社会的問題が生じているか。①認知症「患者」の増加と介護の問題。②医療費の高騰による健康保険財政の破たん。③健康に加齢を重ねるための社会的整備の充実…などが考えられよう。
 高齢化社会の進行とともに、社会問題として急速にクローズアップされてきたのが認知症「患者」の増加である。患者に鍵カッコを付けたのは、認知症は病気ではなく、厚労省の定義によれば「いろいろな原因で脳の細胞が死んでしまったり、働きが悪くなったためにさまざまな障害が起こり、生活するうえで支障が出ている状態(およそ6か月以上継続)を指す」(厚労省ホームページより)症状で、端的に言えば「脳の老化現象」だからだ。だから認知症が進行すれば、自分の名前や住まいまで忘れてしまい、徘徊して行方不明になったりする。病気ではないから病院には入院できないが、老人ホームでの介護の対象にはなる。が、都市部では保育園どころか特養(特別養護老人ホーム)の数が圧倒的に足りず、民間の有料老人ホームに入れる経済力があれば別だが、そうでない場合は息子や娘が仕事を辞めて、親の介護にかかりきりという状態になりかねない。これは大きな社会的損失でもある。
 特養は規模的にも保育園とは比較にならないほどの施設が必要なので、ニーズを満たすだけの施設の拡充が困難なことは認めるが、「認可保育園」のように「認可老人ホーム」の有資格施設への入所については、国や地方自治体が生活保護並みの支援を行うようにすべきだと思う。
 次に高齢者の医療費増大による、健保財政の破たん問題だ。私も後期高齢者で窓口負担は1割組だが、「国民皆保険制度の見直し」が必要な時期に来ていると言わざるを得ない。具体的には窓口負担の割合に応じて、保険医療の適用範囲を制限してしまう。3割負担の人の保険適用の医療行為の範囲を仮に100とすると、2割負担の人は90,1割負担の人は80に限定する。その範囲を超える医療については原則自己負担とし、その代わり公共的な医療保険制度を設け、保険加入者には限度を超えた医療も3割負担で受けられるようにする。高齢者が負担する保険料は、資産や収入に応じるようにする。この方法以外に、健康保険財政を破たんから防ぐ道はないと思う。
 最後に健康に年を重ねるための自助努力、に対する公的助成制度を設けてもらいたい。いまゴルフプレーにかかるゴルフ場利用税が、70歳以上は無料になっている。70歳以上でゴルフができる人は、はっきり言って同世代でもかなりの富裕層と考えてもいい。高齢者の健康増進が目的だと思うが、富裕層に対するそういう支援の必要があるのだろうか。
 高齢者のゴルフ場利用税の非課税化を廃止して、一定の資格要件を満たしたジムやフィットネスクラブの利用料金について、70歳以上の低所得者への支援を行うようにしたほうが有効ではないか。若い人たちのゴルフ離れが激しい今、ゴルフ業界は猛反対するだろうが、政治は特定の業界のためにあるものではない。ただし、河川敷などに作られている公営ゴルフ場などについては、従来通り利用税の非課税を続けてもいいだろう。
 私も後期高齢者である。私たち世代が現役だった時代、私たちが親や祖父母の世代の年金生活や健康保険制度を支えてきた。私はしばしば世代間の違いを「地下1階、地上2階」の建築物に例えてきた。現役世代が地上1階の住民、2階はリタイアした年金生活世代、地下1階は社会人(現役世代)になる前の、幼児から学生までの若い世代だ。
 私たちが現役世代として地上1階の住民だった時代、私たちが2階の住民を支えてきた。その私たちが今2階に上がっている。私たちは1階の住民のとき2階の住民を支えてきたのだから、2階に上がった今、1階の住民によって生活を支えてもらう権利はある。権利はあり、いまはどうにか1階の住民によって生活を支えてもらっているが、その間に年金財政や健康保険財政はどんどん悪化している。
いま1階の住民が2階に上がった時、1階の住民になるのは、いま地下にいる若い人たちだ。そのとき1階の住民が、2階に上がった現在の現役世代の生活を、いまの制度を温存したままで支えられるだろうか。不可能なことは、政治家なら全員わかっているはずだ。分かっていて、いまやらなければならないことに目をつむっているのは、政治の怠慢と言われても仕方あるまい。1階の住民だった時代に、2階の住民の生活を支えてきた私が、権利に固執するのではなく、いま地下にいる若い人たちのために制度設計の見直しを要求しているのだ。その主張の重みを感じない人たちには、政治の世界から1日も早くリタイアしてもらいたい。

 これは今回の選挙のテーマにはなっていないが、生活保護についても一言言っておきたい。生活保護の申請・受給者が増え続けている。そのこと自体が政治の失敗の証明とも言えるが、国民の税金で生活保護を受けている人たちにも、憲法で保障された権利ではあるが、その権利には義務も伴うことを、十分理解してもらえるような制度設計が必要だと思う。
 具体的には自治体ごとに、生活保護者を収容する施設を作り、そこで社会復帰が可能な人には社会復帰するための様々なスキルなどを習得してもらう。刑務所とは違うから施設に閉じ込める必要はないし、自炊したい人は自炊すればいいし、食堂でみんなでワイワイガヤガヤしながら食事するのもいい。ただしパチンコ、競馬競輪などの賭け事は禁止にする。飲酒や喫煙もある程度制約する。一般の人たちの生活と隔離するのが目的ではないから、人里離れたところに施設を作る必要はない。もちろんすべて個室で、部屋には最低でも調理設備、冷蔵庫、テレビ、エアコンを標準設置する。快適で文化的な生活は保障する。
 その代り、社会復帰が可能な人には、社会復帰のための努力を最大限していただく。そうすれば、血税も生きてくるというものだ。
 いま社会はさまざまにひずみを抱えている。ある意味ではこれまでの政治がその場しのぎの対処療法的政策しか行ってこなかった結果でもある。本来メディアが、そうした政治の在り方に対するチェック機能を果たさなければならないはずなのだが、そうした機能を喪失しているとしか思えないのが残念だ。
 いま生じている社会のひずみを放置していると、ひずみはますます広がり、手の付けようがなくなっていく。多数決原理の民主主義政治システムにおいては、「政治のポピュリズム化」はどうやっても避けられない。メディアが政治と同様にポピュリズムに奔っていては、日本と日本人の未来は明るくならない。
 

総選挙を考える③ 今なぜ2年先の消費税使途を争点にしたのか。「大義のための大義」づくりが目的か。

2017-10-12 07:12:51 | Weblog
≪緊急告発≫ 昨日(11日)沖縄・東村高江の民間牧草地に、飛行中の米軍大型輸送ヘリコプターが出荷して緊急着陸して大破・炎上した。事故現場近くには約20人の村民が住む集落があり、小学校もある。小野寺防衛相は米軍に抗議して再発防止を要請したというが、沖縄県での米軍ヘリコプター墜落事故は戦後90回に及ぶという。北朝鮮のどんがらミサイル(核などの弾頭は搭載していない)が襟裳岬上空をかすめた程度でJアラートを東北地方にまで流して住民に緊急非難を要請した政府は、沖縄全土にレーダー網を張り巡らして、米軍ヘリが陸地上空を飛行中はJアラートを県内すべてに流して県民に避難を要請すべきだ。避難場所となる堅牢な建築物がない地域には、国の費用で堅牢な避難用建築物を直ちに作れ。

 いよいよ総選挙の争点の検証に入るが、その前に読売新聞が10,11日の両日全国世論調査を行い、総選挙序盤戦の状況を伝えた。読売の速報によれば、自民が単独で過半数(233議席)を大きく上回る勢いで、各委員会の委員長ポストを独占できる絶対安定多数(261議席)にも届く勢いだという。希望の党は伸び悩み、立憲民主党は躍進しているというが、私が危惧していた状況が現実化しつつあるようだ。私は9月22日に投稿したブログの末尾に「このブログの投稿日時を記憶しておいていただきたい」とまで書いた記事を改めて転記する。
「憲法改正が選挙の争点になった場合(99%そうなる)、民進党はどう出るか。前原代表は「受けて立つ」と強気の姿勢のようだが、おそらく民進党は「賛成」するわけにもいかないだろうが、かといって「反対」すれば確実に党が分裂する。さらに、民進党の出方次第では、これまで秋波を絶えず送り続けてきた共産党が民進党との選挙協力をあきらめる可能性が高い。
 そうなるとメディアに踊らされた(※北朝鮮のミサイル発射にキチガイじみた報道合戦を繰り広げたことによる)無党派層が一気に選挙で与党候補に投票する可能性もあり、そうなると与党は一気に「だなぼた」的大勝利を収める可能性もある」
 メディアの選挙情勢分析が、選挙直前に発表されたら、「逆アナウンス効果」によって無党派層の与党離れが生じる可能性もあるが、序盤戦の報道では無党派層の投票行動に影響はあまり与えないと思う。

 さて争点検証の最初のテーマは「消費税増税の可否と増税分の使途(少子化対策)」という、いきなり重い問題だ。
 いちおう法律では実施時期は19年10月となっており、いまから2年も先の、増税が出来る経済情勢にあるのかどうかの予測すら難しく、安倍総理が「自己都合解散」を正当化するために持ち出した「大義」とはいえ、ちょっと理解に苦しむ。実際、希望や維新も含め野党はこぞって「増税凍結」を打ち出した。
 ま、安倍総理としては民主党政権からの引き継ぎテーマとして「社会保障と税の一体改革」を推進するつもりで、社会福祉が高齢者重視に偏ってきたのを、全世帯型に転換し、幼児も含む若年層にも福祉の手を差し伸べようという、その考え方自体はだれも否定しようがない方針を打ち出し、政権基盤の磐石化を図ろうとしたのだろうが、方針としては理解できても、なぜ今消費税増税分の使途を国民に問う必要があるのか、「大義のための大義」としか言いようがない。
 「いや、いまのうちから検討していく必要がある」というなら、国会で十分審議して、野党と主張が割れたら、そのとき解散して「信を国民に問う」ことが政権の王道だろう。実際、小泉総理の「郵政解散」はそういうプロセスを踏んで国民に信を問うた。
 そのことはともかく、いまから考えると日本新党の細川総理が唐突に打ち出した「消費税を廃止して7%の国民福祉税を創設する」というアイディアは、そのときは総スカンを食ったが、細川氏の先見の明は評価せざるを得ない。細川案をつぶした張本人の武村官房長官は、今頃忸怩たる思いをしているに違いない(と思うのは武村氏を買いかぶりすぎか?)。
 また3党合意にこぎつけた野田総理も、「社会保障と税の一体改革」という重いテーマについて、大雑把でもいいから改革の具体的方向性を示しておくべきだった。とくに、税改革が安倍政権によってほとんど「消費税」に集約されてしまっている現実の責任の一端は、野田氏にあるといっても過言ではない(ただ野田政権は連合をバックにした輿石幹事長に足を引っ張られ、ほとんど何もできなかった悲劇の総理でもあったが…)。
 私は自公が政権の座に返り咲いた直後の12年12月30日に投稿した『今年最後のブログ……新政権への期待と課題』で、税改革を含む経済政策についてこう提言した。

「金融緩和が、果たしてデフレ克服につながるか、私はかなり疑問に思わざるを得ない」「銀行が二流、三流の中小企業や信用度の低い国民にじゃぶじゃぶ金を貸してくれるかというと、そんなことはあり得ない。優良企業が銀行から金を借りてくれなくなってからもう20年以上になる」「(銀行が融資する場合、担保や経営者の個人補償を要求するが)優良企業なら増資や社債の発行でいくらでも無担保で金を集めることが出来るからだ」「そもそもリーマン・ショックで日本のメガバンクが大打撃を受けた理由を考えてほしい」「金融緩和でだぶついた金の運用方法に困り、リーマン・ブラザースが発行した有価証券(※かつて日本のバブル期に流行った「抵当証券」のコピー)に大金をつぎ込み」「金融界の再編成に進んだ」「金融緩和で銀行に金がだぶついたら、また危険な投機商品に手を出しかねない」
 私も実は、まさかとは思いつつ5年前の安倍政権誕生直後に、こう書いた。その「まさか」が現実になりつつある。黒田・日銀総裁のマイナス金利政策で融資先に困った銀行が、不動産関連融資やサラ金まがいのカードローンにまで手を染めるようになった。不動産関連融資総額はバブル景気全盛期をすでに上回っており、不動産業界は「誰がババをつかまされるか」と戦々恐々のようだ。またカードローン破綻者の続出も懸念されており、財務省も目を光らせだした。実際、メガバンクの銀行マン自身が今非常に危機感を募らせているという。
 さらに私はこの安倍政権誕生直後のブログで、消費を活性化しない限り景気は回復しないと、大胆な税制改革を提案した。
「まず贈与税と相続税の関係を見直し、現行のシステムを完全に逆転することを基本的方針にすべきだ。つまり相続税を大幅アップし、逆に贈与税を大幅に軽減することだ。そうすれば金を使わない高齢の富裕層が貯め込んでいる金が子供や孫に贈与され、市場に出回ることになる(※消費が活性化するという意味)。当然内需が拡大し、需要が増えればメーカーは増産体制に入り、若者層の就職難も一気に解消される(※当時は空前の就職難時代だった)。そうすればさらに内需が拡大し、メーカーはさらに増産体制に入り、若者層だけでなく定年を65歳まで延長し、年金受給までの空白の5年間を解消できる」「その場合、贈与税の考え方そのものを一変させる必要がある。相続税は相続人にかかるが、贈与税は贈与人にかかる仕組みになっている。その基本的考え方を変えなければならない。相続税の支払いは相続人が支払うのは当然だが、贈与税に関しては被贈与人が収入(※一時所得)として確定申告するようにする」「また所得税制度も改革の必要がある。(以下要約)内閣府の『国民生活に関する世論調査』によれば、この調査を始めた1956年(昭和33年)には、中流意識の国民は約7割だったが、70年以降は約8割に達し、79年の『国民生活白書』では、国民の中流意識が定着した、と宣言した」(※現在、総理府は格差の拡大と貧困層の増加を認めている。数字の裏付けなしにだが…)「消費税増税はやむを得ないが、食料品などの生活必需品を非課税あるいは軽減税率にするのではなく、『聖域なき』一律課税にして所得税体系を大幅に変更し、所得税増税による中低所得層への負担増を軽減する」「少なくとも4人家族の標準世帯(年収500~700万)の所得税は非課税にして、年収1000万円超の層は累進的に課税を重くし、年収2000万円以上の高額所得層の所得税率を50%に引き上げる必要がある(現行の最高税率は40%)」

 その後、安倍政権は私の主張の一部をパクった。相続税を高くして高齢者富裕層の資産を若年層に移転させるために相続税法を改定したが、肝心の贈与税の抜本的改定を行わず「孫への教育目的の贈与についてだけ非課税枠を設ける」という中途半端な改革を行った。また所得税法も一部改定し、高額給与所得者の給与所得控除だけいじって事実上の課税強化を行った。が、思想なき税制改革のため、効果はあまり期待できない。
 安倍総理は選挙の争点として、消費税増税分の一部を若年層向けの援助(おもに教育費の国による負担増)に振り向けるという主張をしている。消費税増税が可能な経済状況であれば、安倍案に反対する人はまずいないだろう。だが、過去最長の経済成長をつづけた「いざなみ景気」(02年2月~09年3月の73か月間)をいま更新しつつあると安倍総理はアベノミクスの成果を誇るが、いざなみ景気もいまの「好景気」も高度経済成長期の「神武景気」や「いざなぎ景気」のときのような「好景気」の実感をほとんどの国民は持っていない。成長率が神武景気やいざなぎ景気に比べて低すぎるというだけでなく、「経済成長しているにもかかわらず消費は鈍化したまま」だからだ。経済成長の恩恵が富裕層に集中し、消費活動を下支えする一般庶民(中低所得層)の実質収入が増えないため、多くの国民は「好景気」を実感できない。
 安倍総理は一生懸命、アベノミクスの成果をGDPや大高卒就職率、求人倍率などの数字を持ち出して誇るが、株高や不動産バブルと関係がない庶民にとっては、「どこの世界の話だ」ということになる。
 そもそもアベノミクスが「デフレからの脱却」を目的にしたこと自体に、私は疑問を抱いている。デフレは庶民の消費活動にとっては、決してマイナスではないからだ。供給が需要を上回ることによって物価が下落する状況が「デフレ」だが、収入が減らない限りデフレはむしろ消費を刺激する。敢えて金融緩和によるインフレ政策をとらなくても、消費が拡大すれば需要が供給に追いつき、自然に物価は安定に向かう。
アベノミクスに対する評価・分析は争点検証の最後に行うので、このあたりでやめるが、私は消費税増税は「リーマン・ショック級の経済打撃」が生じない限り、断固行うべきだと考えている。ただ、増税時期までの2年間、果たして金融機関が持つだろうか、という疑問を実は私は持っている。もし、その間に不動産バブルが崩壊し、カードローン破綻者が続出するような事態になれば、それこそ「リーマン・ショック級」の大打撃が日本を襲う可能性があるからだ。
実は私はその可能性について、すでにブログ投稿すべく原稿を仕上げている。投稿しようと思っていた矢先に解散劇が始まり、いま「お蔵入り」させているが、選挙が終わり次第、時機を見て投稿する。
消費税増税に当たっては、もし増税が可能であれば、すでに書いたように「聖域なき」一律増税にすべきだ。消費税が逆進性の税制であることは私も否定しないが、公明党が主張するように食料品に限って「軽減税率」を適用するのは、国民の理解が得られない。たとえば富裕層にしか手が出せない高級和牛のひれ肉と、低所得層が買うオージービーフが同じ軽減税率になることに、国民の理解が得られるだろうか。低所得層に対する救済策は別途考えるべきで、例えば給付金制度を復活させるとか、ちょっと大変だが食料品購入や外食(コンビニの弁当も含む)のレシートで消費税を還付する制度を設けるなどの方法で対処すべきである。
確かに高率の付加価値税制度を導入しているヨーロッパ諸国の大半は食料品の非課税もしくは軽減税率方式を採用しているが、そもそもヨーロッパの間接税導入の歴史は古く、コンピュータなどない時代に導入されたこともあって、低所得者対策として採用されたという経緯がある。いまではヨーロッパでも低所得者対策の在り方の見直しが議論されており、課税の実質的負担の公平性を担保するという面から考えても、かえって「消費格差」を拡大しかねない軽減税率方式は導入すべきではない。
安倍総理は希望の党に対して「選挙目当ての野合」と批判しているが、自民党自体が選挙目当ての公明党案丸呑みをしているではないか。そういうのを「目くそ、鼻くそを笑う」という。
消費税増税分を若年層(幼児を含む)に対する福祉に振り向けるという政策については、次回のブログで検証する。ただ、安倍総理が命名した「国難突破解散」の国難の一つとして挙げた「少子化問題」は、保育所の増設や保育士の待遇改善で解決できるような問題ではないことだけ言っておく。
また最近は「少子高齢化」と言い換えているが、高齢者対策については何も言っていない。まさか、高齢者の生存定年制を設けるなどと考えているわけではないと思うが…。


総選挙を考える② 安倍総理の目論見は、なぜ狂ったのか?

2017-10-10 02:45:10 | Weblog
今日10日、衆院選の公示がある。今回の選挙は、有権者にとっては選択肢どころか争点すら「煙のように消えてしまった」とブログで書いたことがあるが、当初、小政党に留まると思われていた若狭新党(日本ファーストの会)に、都知事の小池氏がしゃしゃり出て希望の党に改組改称、代表に自らが就き、しかも民進党の前原代表とのボス交渉で民進党議員の大半(立候補予定者を含む)を抱え込んで「政権交代可能な保守2大政党」体制を目指したことによって、政界に大変動が生じたことは前回のブログでも書いた。8政党が乱立することになった17年総選挙の投票結果はどうなるか。少なくとも「安倍一強体制」の復活を目指した総理の目論みは、いまのところ頓挫したかに見える。
実際、日本記者クラブが開催した8党首討論会で、安倍総理は勝敗ラインを「与党(自公)で233の過半数議席数」と予防線を張ったうえ、自らの地位(もちろん総理の座)を死守することを前提に、「自民が50議席程度減らしても退陣する考えはない」と、自民が劣勢に陥っている状況にあることを認めた。
 衆議院議員定数は、最高裁判所の「違憲状態」という判決を受けて、議員定数を0増10減して465になった。解散前は、自民党だけで290議席を占め、解散前の議員定数475の半数を62議席も上回る絶対安定多数を占めていた。自分の権勢欲のために解散しておきながら、公明と合わせて233議席を確保できれば(公明党の獲得議席数は解散前で34議席。同党が解散前勢力を維持すれば、自民は199議席で与党は過半数になる)、安倍総理は「一強体制を国民が支持した」とでも強弁するつもりなのか。
今回の解散・総選挙について、当初安倍総理が「消費税増税分の使途変更について国民に問う必要がある」と解散の「大義」を主張した時、野党や一部のメディアが「2年も先に予定されている消費税増税の使途を、いまなぜ総選挙で国民に問う必要があるのか」と猛反発し、「大義なき解散」と批判した。
確かにいちおう法律で定められているとはいえ、2年後の経済環境はまったく不透明。はたして消費税増税が出来るかどうかも分からない時点で、消費税増税分の使途を国民に選択しろというほうが、土台無理な話だ。野党や一部のメディアが批判したのは当然である。
が、「大義なき解散」という批判も間違っていることを、私は何度も指摘してきた。「大義」のない解散はあり得ないが、「大義」があって総理は解散するのではなく、自らの政権にとって有利な状況と判断した時、解散・総選挙という「伝家の宝刀」を抜く。「大義」は、そうした「自己都合解散」を正当化するためにあとから考える名目に過ぎず、したがってその名目が世論やメディアに受け入れられなかったら、総理は直ちに「大義」も変更する。
実際、14年の総選挙のときも、当初安倍総理は「消費税の延期」を解散の「大義」にしようとしたが、野党の民主党が争う姿勢を全く見せず、解散時には「アベノミクスの継続について国民に信を問う」と「大義」を変えている。今回も、「大義」は二転三転した挙句、いくつもの争点を総花的に並べ立て、「国難突破」を最終的な「大義」にした。「国難」は北朝鮮危機と少子化だという。
解散にはしばしば冠言葉が就くことが多い。たとえば小泉総理のときには郵政民営化について民意を問うため「郵政解散」と命名された。このように解散の「大義」がそのまま解散目的に合致するケースもあれば、「追い込まれ解散」といった政権選択を意味する解散もある。最近では麻生内閣や野田民主党政権の解散が「追い込まれ解散」に相当するが、いずれも政権が交代した。
また基本的に解散権は「総理の専権事項」という解釈がまかり通っており(憲法7条は「天皇の国事行事」の一つとして「内閣の助言と承認により」衆議院の解散を定めた条文である。総理大臣は組閣の権限を有しているが、各省庁のトップ(大臣や長官)は総理の代理人ではない。総理大臣が閣議決定を経ず自由に解散してもいいとは、憲法のどの条文にも明記されていない。
そのうえ憲法学者もメディアも大変な誤解をしていると思われることもある。そもそも「内閣」は行政府(各省庁)の長で構成されている。総理大臣は行政府の最高の地位にある。そして国会は立法府であり、内閣総理大臣は国会で指名されるが、言うまでもなく立法府の長は両院の議長である。今回の解散も、9月28日に開会した臨時国会の冒頭で、大島衆議院議長が解散宣言を行っている。三権分立の建前からしても、三権の長である衆議院議長を無視して総理が独断で解散権を行使できるという慣習もおかしいし、閣議決定も経ずに総理の独断で解散権を行使できるという慣習もおかしい。
が、実際には世論調査などで政権が有利なときに、総理が独断で解散を行う権限が慣習として定着しており、今回もモリカケ疑惑や稲田防衛相(当時)の国会答弁問題などで内閣支持率が急落し、7月には内閣の危険水域とされる支持率30%台を割る事態にまで追い込まれた安倍総理が、北朝鮮危機をことさらに煽り立て、NHKをはじめメディアが総支援体制したため内閣支持率がV字回復し、再び「安倍一強」体制復活への絶好のチャンスと計算した安倍総理が、「この機を逃してなるものか」と伝家の宝刀を抜いてのが解散劇の真相である。
が、ことはそう簡単に総理の思惑通りにはいかなかった。メディアも安倍総理に「一強」体制復活のチャンスを意図せず与えてしまったことを反省したのかどうかは知らないが、「大義なき解散」という安倍批判のキャンペーンを急きょ張り出した。その結果、10月に入って内閣支持率は再び急落、選挙結果によっては再び「安倍一強体制」崩壊の瀬戸際に立たされることになった。この期に及んで、自民の議席数を100近く減らしても自公で233以上の議席を確保できれば国会で首班指名受けるのは当然だと居直ったのは、こうした事情による。
さらに、前回のブログで書いたように、民進党が事実上分裂し、希望の党から「安保法制容認」「憲法改正」という2枚の踏み絵を踏まなかった議員は排除され、枝野新党(立憲民主党)が新たに誕生、希望の党の支持層をかなり奪っている状況が明らかになった。野球ではないが、9回裏2アウトになってもまだ勝敗の行方は分からないような選挙になりそうだ。
いずれにせよ、議員定数が削減されたこともあって、立候補者にとっては今回ほど厳しい選挙はかつてなかったといってもよい。次回からの「総選挙を考える」シリーズでは、今回の選挙の争点について考察していく。
私が独断と偏見で絞った4つの争点は、
① 消費税増税の可否と増税分の使途(少子化対策)
② 安全保障(北朝鮮危機対策)と憲法改正
③ 人づくり政策(高度プロフェッショナル制度)
④ アベノミクスに対する評価と「ユリノミクス」
他にも「モリカケ疑惑隠し」や原発廃止を訴える野党もあるが、大きな争点にはなりそうもないので、今回は取り上げない。とくに野党の皆さんに言っておくが、この選挙で「モリカケ問題」は追及しないほうがいい。この問題を追及して選挙の結果自公政権が維持されたら、「禊(みそぎ)は済んだ」と選挙後の国会での追及をかわされてしまいかねない。モリカケ疑惑や稲田答弁問題で政権交代が可能になるような状況ならいざ知らず、結果的に国会での厳しい追及が困難になるような選挙戦術はとらないほうがいい。

最後に、「違憲状態」とした最高裁の判決に対して一言。
民主主義とは私たちにとってまことに「悩ましい政治システム」である。民主主義が「多数決原理」に基づいていることはほとんどの国民(日本だけでなく世界中の)が認めているが、そのことは「多数派のエゴ」を容認するということである。その結果、迫害された少数派が、多数派(宗教や民族)の権力に対抗しようとすると、そこにしばしば武力衝突が生じる。そうした事態は、民主主義という政治システムが引き起こす必然的結果でもある。
幸い日本ではそうした事態が生じる可能性はほとんどないが、いま生じている様々な国での政府軍と反政府軍の武力衝突は、「多数派エゴ」による多数派政権の少数派迫害や少数派の権利無視が原因のケースが大半である。私は17回にわたって『民主主義とは何か』というシリーズのブログを書いてきたが、このシリーズでも、改めて民主主義という政治システムについても考えていきたい。



総選挙を考える① メディアを混乱させたのは「解散の大義」か? それとも前原・小池両氏の誤算か?

2017-10-07 14:51:52 | Weblog
 ようやく主要政党のマニフェストが出そろい、選挙活動も本格化してきた。今回の解散・総選挙ほどメディアを混乱させたケースは、過去にはなかったと言ってもいいだろう。最初にメディアを混乱させた原因は、安倍総理が主張した「解散の大義」にあった。
 安倍総理は当初、解散に当たって「消費税の使途の変更」を大義にしようとした。その後、「大義」は二転三転するのだが、5日夜の民放の報道番組に出演した安倍総理は依然としてこの「大義」の正当性を主張していた。「前回も消費税延期をするにあたって、国民に信を問うべきだと考えて解散した。法律で明記されている消費税増税時期は2年後だが、増税分の使途を変更する場合、やはり国民に信を問うべきだと考えて解散することにした」と。
 こういうのを日本語では「詭弁」という。1年後には衆議院議員は任期を終える。否応なしに総選挙を行わなければならない。そのときに消費税増税分の使途を争点にしても十分間に合う。
 そのためメディアも混乱した。「2年先に、消費税増税が出来る経済環境にあるという保証はない。法律を変えて、増税時期を再延期せざるを得ない可能性も低くはない。増税分の使途を、いま決める必要などないのでは…」
 「大義なき解散」という定義がこうして生まれ、メディアも野党も喧伝した。さらに「総理の専権事項」とされる「解散権」についての疑問が、メディアから噴出した。こうした経緯について私がこれまでブログで書いてきたことを中心に、改めて整理しておきたい。

 まず「大義のない解散」はあり得ない、ということを私はしつこく書いてきた。あり得ないから安倍総理は2年も先のどうなるかわからない消費税の増税分の使途を国民に問うという「大義」を無理やり作ったというわけだ。
 はっきり言って解散が「総理の専権事項」である以上、総理が政権にとって最も有利な状況のときに、その「権利」を行使するのは当たり前である。もちろん例外もあり、自民・麻生氏や民主・野田氏のときのような「追い詰められ解散」もないわけではない。この二つのケースはいずれも政権交代に至っている。安倍総理が、この時期解散に踏み切った最大、というより唯一の理由は「いまなら選挙に勝てる。勝てば、死に体に近くなりつつある『安倍一強』体制を復活させることが出来る」という読みだ。つまり「解散ありき」の解散劇がこうして幕を開けた。
 ただ、そうした本音をむき出しにした解散が、いくら総理の「専権事項」といっても出来るわけではない。それなりに「解散のための口実」を、こじつけでもいいから作る必要がある。こうしてなけなしの知恵を絞って「創り」出したのが、「増税分の使途変更」だったのだ。
 メディアが混乱したのは、「大義になりうるか」ということと、「大義がない」ということを同一視してしまったことによる。
 実は前回14年11月の解散劇も、当初、安倍総理は解散の「大義」として「消費税増税の延期」を打ち出していた。「野合政党政権」だった民主党が、短期間で総理が鳩山・菅・野田と入れ替わり立ち替わりになり、結局何も決められず自公との「3党合意」(社会保障と税の一体改革の実行)を条件に政権を自公に「譲渡」するための解散に追い込まれたいきさつがあり、安倍総理としては「消費税増税の延期」を「大義」に解散すれば民主党が反対して十分選挙の争点になると読んだのだろう。が、当時の経済情勢から、民主党も消費税増税時期の延期に異を唱えることがなく、急きょ安倍総理は「大義」(つまり解散を正当化するための口実)を変えざるを得なくなった。そのときの解散劇について私のブログで検証する。まず解散の「大義」が変わることを確信した私は安倍総理の記者会見が行われる日(18日)の朝、このような記事を投稿した。
 「今日安倍総理は解散を宣言するようだ。『早まった』と後悔しているかもしれないが、ここまで来たら解散風を止めることは総理にも出来まい。『争点なき選挙』といわれてきた12月総選挙だが、アベノミクスの総括が最大の争点になることは必至だ。(中略)『争点は生じたが、選択肢がなくなった総選挙』と私は定義する」
 21日に投稿したブログの冒頭で、私はこう書いた。
 「安倍総理は解散表明後の記者会見でこう述べた。『今回の選挙で自公が過半数を取れなければ、アベノミクスが国民から否定されたことを意味する。私は直ちに退陣する』と(18日)。つまり与党が過半数を獲得すればアベノミクスは国民から支持されたことになる、といいたいようだ」
 安倍総理はモリカケ疑惑が浮上した時も「もし私や私の妻がかかわっていたら総理を辞めるし、国会議員も辞職する」と国会で答弁した。そんなに辞めたかったら、さっさと辞めればいい。誰も止めやしないよ。
 実はこの時期消費税増税の時期について、朝日新聞が奇妙な報道をしていた。それも27日に投稿したブログで検証しておく。
 「朝日新聞が社説で社会福祉政策を後退させないためにも、一時的には国民が痛みを受けても来年10月に消費税を増税すべきだと主張したことがあった(11月3日)。が、10日ほどたって、読者の投稿欄『声』に『大学講師』なる人物の社説批判の『投稿』を掲載し、その批判に応じるような形をとって増税強行主義をなし崩し的に転換しだした。(中略)社説に対する批判投稿を10日も経ってから、あえて『声』欄に掲載して社説の主張を転換することは、メディアとしては通常ありえない。私は『投稿』そのものに疑問を持っている。はっきり言えば『社内投稿』ではないかと…」
 
 政治家も平気で「大義」を転換すれば、メディアも平気で主張を転換する。これで有権者が混乱しなかったら、日本人はよほどの「ノー天気」と思われても仕方がない。
 『歴史は繰り返す』
 今回の解散・総選挙が前回を上回る体たらくになったのは、安倍総理が解散の「大義」を二転三転したことにもあったが、その原因は小池新党の旗揚げと、前原・民進党の「アベ打倒」という一点で小池新党への「合流」作戦の誤算、そうした政局に振り回されメディアの混乱による。
 若狭氏が自民を離党して新党(「日本ファーストの会」)立ち上げに動いたのは、間違っていたとは思わない。最低でも5人以上の参加者は集められるという確信があったからだろうし、それはそれでじっくり新党を育てていけばいいと私は思っていた。
 が、民進党代表の前原氏と気脈を通じていた細野氏や長島氏が若狭新党に加わることになって、政局が大きく動き出した。
 9月25日、小池都知事が記者会見を開き、自らが代表を務める新党「希望の党」構想をぶち上げ、27日には若狭新党が母体になって「希望の党」の旗揚げを正式発表するに至った。
 小池・前原会談が極秘に行われたのは26日の夜。この会談に連合の神津会長も立ち会ったとされている。この極秘会談を小池側が持ちかけたのか、前原側が持ちかけたのかはわからない。が、この会談で両者の認識に齟齬が生じたようだ。小池氏はこの会談で「民進党をすべて受け入れるつもりはない。公認申請者については希望の党側で選別させていただく」と明言したという。が、前原氏は「全員受け入れてもらえる」と思い込んでいた。そのため、「合併」ではなく、民進党が解散して全員が希望の党に「合流」することに小池氏と「合意」したと思い込み、民進党の両院議員総会で「名を捨てて実をとる」と自らの独断を正当化したと思われる。そう考えないと、生まれたばかりの吹けば飛ぶような小政党に、野党第1党の民進党が「対等合併」すらできない「合流」を受け入れたことは、ちょっと考えにくい。
 両者の認識の齟齬はともかく、このトップ会談で小池氏は完全に舞い上がってしまった。「国政を動かせるほどの力を持つようになった」と、錯覚したようだ。一方前原氏のほうも両院議員総会で「名を捨てて実をとる」とまで言い切って「民進党を解党して、希望の党に合流する」という方針を全員一致(? ※採決ではなく議員たち全員の拍手で、のようだ。議員たちは何も言える雰囲気ではなかったという)で承認を取り付けた手前、小池氏が記者たちの囲み取材で「全員を受け入れるのか」と質問されたのに対して「希望の党のほうで個別の選別する」と答え、さらに「前原代表との会談でもそのことは申し上げている」と、希望の党主導での「合流」であることを明確にした。
 この小池発言を知った民進党議員たちは疑心暗鬼に陥った。議員たちから詰め寄られた前原氏は「安倍政権を打倒するには選挙で1対1の構図を作らないと勝てない。自公与党勢力に対抗できる圧倒的勢力を結集することが重要だ。そのことは小池氏も了解しており、全員が受け入れられるように頑張る」と頭を下げた。
 もうこの時点で前原氏は政治家ではなく「政治屋」にすぎないことが明らかになったのだが、メディアは前原氏の変節にまだ気づかなかった。小池氏に手玉に取られた、ただの「お人好し」くらいにしか思わなかったようだ。だが、前原氏は代表選で枝野氏に勝った後、共産党との選挙協力について記者たちに「衆院選は政権選択の選挙だ。したがって選挙協力する場合、我々が勝った場合、連立政権を作ることを意味する。基本的政策で一致できない共産党との選挙協力は無理だ」と答えている。
 衆院選の位置づけは、確かに政権選択という意味を持つ。首班指名は参院でも儀式としていちおう行われるが、衆院の議決が優先するから、衆院選で多数を占めた勢力が政権の座に就く。そういう意味では前原氏の、共産党との選挙協力についての姿勢は基本的には正しい。が、安倍総理が「大義」そのものが問われる解散にこの時点に踏み切ったのは、モリカケ疑惑や稲田防衛相(当時)の国会答弁の問題(後述)で事実上「安倍一強体制」が崩壊しつつあった中で生じた米朝関係の悪化をことさらに強調することによって国民の危機感を煽り立て、メディアも読売や産経だけならいざ知らずNHKや朝日、毎日まで含めて一斉に「北朝鮮への圧力・制裁強化すべし」と主張して、日米協調を対北外交の基調とする安倍政権の姿勢を事実上支持したことで、9月に入って内閣支持率が一気に盛り返し、それを「一強復活」の絶好のチャンスととらえた安倍総理が仕掛けた大勝負が解散という「伝家の宝刀」を抜いた本当の理由である。
 実は安倍総理の「安保法制」にかけた執念を、メディアも国民も勘違いしていると思われるので、ここで明確にしておく。
 安倍総理がありとあらゆる屁理屈をこね、公明が主張した「緊急事態条項(我が国の存立基盤危機など)」の新3要件を丸呑みしてまで、集団的自衛権行使を容認する安保法制を成立させたのは、対米追随のためではない。
 集団的自衛権は、私が何度もブログで書いてきたように、国連憲章51条に規定された国連加盟国の「自衛のための権利」である。
国連憲章は、大原則として加盟国に「国際紛争の武力による解決」を禁じている。が、それでも加盟国が他国(加盟国とは限らない)から武力による攻撃を受けた場合は、国連安保理に紛争解決のためのあらゆる権能(石油や食料の禁輸などの武力行使を伴わない手段の行使、さらに原爆投下も含む武力行使)を付与している。
にもかかわらず国際紛争が生じた場合を想定して、安保理が紛争を解決するまでの間に限って「加盟国の自衛権行使」を容認したのが51条の「個別的または集団的自衛の固有の権利」である。国連憲章に51条が設けられた経緯(ここでは長くなるから触れない)や、「個別的または集団的自衛」という文章を素直に文理解釈すれば、「個別的」は自国の軍隊による反撃を意味し、「集団的」は密接な関係にある国(同盟国など)に自国防衛の応援を頼んでもいいよ、という意味にしか取れないことは火を見るより明らかなはずだ。
が、先の大戦後、米・旧ソが自国の支配下または同盟関係にある政権が、他国から武力攻撃を受けていないにもかかわらず、自国内の反政府勢力と武力衝突して窮地に陥った時に、その政権から要請を受けて行った軍事介入を「集団的自衛権の行使」と主張することで正当化してきた歴史的経緯がある。例えば朝鮮動乱やベトナム内戦へのアメリカの軍事介入、ポーランドやハンガリー、チェコスロバキアで生じた反政府運動への旧ソ連の軍事介入などが、そうした類の「集団的自衛権」行使だった。
こうした米ソ両大国における自己都合的解釈を丸呑みしてきたのが、従来の内閣法制局による「集団的自衛権行使」否定論だった。すなわち「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある他国が攻撃された場合、自国が攻撃されたとみなしてその国を防衛する」集団的自衛権は、わが国にも「固有の権利として認められているが、憲法の制約によって行使できない」という、世界にも類まれな非文理的解釈である。
実は集団的自衛権論争が巻き起こっていた時期、私はそうした主張をもっと緻密に何度もブログで主張し、共産党なら私の主張を理解できるのではないかと期待して党政策委員会に電話したことがある。が、私が説明を始めた途端「何をバカなことを言っている。もっと勉強しなさい」とけんもほろろに電話を切られた。「思い込み」の恐ろしさを、この時ほど痛切に感じたことはない。
実は私のブログを読んだと思われる憲法学者が何人か、この時期、内閣法制局の「集団的自衛権解釈はおかしいのではないか」という主張を恐る恐る始めた。「国連憲章51条は、あくまで自衛のための武力行使について認めた加盟国の権利であり、他衛権の容認ではない」という、私が日本でおそらく初めて言い出した主張のパクリである。
ま、私の主張をいくらパクってくれてもいいが、安保法制が違憲だと主張する場合、単に憲法9条2項の「交戦権はこれを認めない」に抵触するというだけでなく(それはそれで重要な指摘だが)、国連憲章が認めている「他衛権」の行使は、国連安保理だけの権能であることも明らかにしないと、「同盟国のアメリカが目の前で攻撃されているのに、自衛隊が指をくわえて見ているようなことになったら日米安全保障関係の根幹が崩れる」という安保法制容認論に抵抗できない。憲法解釈だけで安保法制に立ち向かおうとしても、無理がある。
 実は、このことは私も初めてブログに書くが、安倍総理の思いは単純な対米協調の深化だけではないような気がする。実際対ロ外交などでは、オバマ大統領時代から、アメリカの顔色ばかりうかがっての外交ではない。安倍総理は、彼なりに日本の国益を最優先した外交を行っているのではないか、と思える節がしばしば見受けられる。
 実際、安倍総理ほど、海外を飛び回り世界に日本の存在感を植え付けようと努力してきた総理は、かつていない。時には、日本産業界の営業本部長さながらの、海外への働きかけもしている。
 また沖縄への米軍基地の一極集中についても、彼ほど苦々しく、また屈辱感をかみしめている総理も、かつていなかったのではないかとさえ思える。安倍総理の安保法制にかけた執念も、日米関係を自分の時代に可能な限り対等な関係に近づけたいというのが、彼の胸の中の本当の思いではないかという気がする。彼の祖父の岸総理も、日米関係を対米従属から一歩でも対等な関係に近づけるために安保条約改定を強行した。岸氏の執念を隔世遺伝で受け継いだのが、安倍総理の対米政策の根幹にあるような気がしてならない。
 が、安倍総理の心情が仮にそうだとしても、私たちは重要な歴史的事実も直視しなければならない。
 それは、先の大戦以降、それまでのような他国に対する侵略戦争は世界中で一度も生じていないという事実である。唯一の例外といえば言えなくもないのが、フセイン・イラクによるクウェートへの侵攻だが、これはかつてヨーロッパ列強によって中東が分割支配されて、同じ民族が分断されたというイラク政府の主張にも一部の理があった。かつての植民地支配を目的にした、いわゆる「帝国主義」戦争は、先の大戦以降、完全に不可能になった。
 安倍総理は米朝関係の悪化に乗じ、かえってトランプ大統領をあおるような言動を弄して、政権への求心力を回復することに一時的には成功したかに見えるが、そうした言動が北朝鮮の反発を招き、かえって日本を危機的状況に陥れてしまったことに、早く気づいてほしい。
 実際、北朝鮮の「挑発」を口実に過剰なミサイル防衛体制を構築して、さらに北朝鮮の「対日敵視感情」をあおり、またそれを口実にさらなる軍事強化を図る…という悪循環に日本は陥りつつある。
 日本にとって最大の国益は、北朝鮮の金独裁体制を武力壊滅することではなく、米朝間の緊張をとき、日本国民が安心して暮らせる状態を回復することではないか。そのためには、安倍総理にはトランプ大統領との親密な関係をてこに、トランプ大統領に対して「北朝鮮を暴発に追い込むような挑発行為はもうやめてくれ。北朝鮮が暴発してもアメリカには被害はあまりないかもしれないが、日本と韓国は確実に大きなとばっちりを受ける。アメリカが北朝鮮に対して『これ以上の核・ミサイル開発は凍結するなら、アメリカも対北敵視政策を中断する』と呼びかけたら、北朝鮮は必ず交渉に応じる。北朝鮮にいま『核・ミサイルを放棄しなければ交渉に応じない』という頑なな姿勢を貫く限り、北朝鮮が暴発する危険性は高まるばかりだ」と、ひざ詰め談判で交渉することが、この地域の安全保障にとって最も有効な手段であることに早く気づいてほしい。
 また意外に思われるかもしれないが、安倍総理は歴代総理の中でもかなりリベラルな総理ではないか。実際、経済団体(経団連など)を相手に賃上げ交渉をしたり、非正規社員の正規社員化を促したり、また最低賃金の上昇率を正規社員のベースアップ以上にして、パート従業員の賃上げをバックアップもしてきた。現実にはパート労働力の需給関係によって、パート従業員の時給は大都市周辺では最低賃金をかなり上回る水準で推移しているが…。
 いずれにせよ安倍総理の功罪は、田中元総理と同様、いずれ歴史の検証対象になるだろうが、いま持たれている「タカ」派イメージは必ずしも妥当ではないと、私は思う。彼の政策を多面的に検証すると、タカ派的政策だけではなく、かなりリベラルな政策も実施しており、だから世論調査でもブレがかなり大きくなる。そのあたりを見極める必要がメディアにはあるだろう。

 「安倍論」はこのくらいにしておく。この時点で今回のブログの文字数は8,000字近くに達しており、この後はできるだけ端折って結論に導いていきたい。
 民進党・前原代表の、代表就任直後の野党共闘についてのスタンスの話に戻る。いったんは、市民連合主導の野党共闘(民進・自由・社民・共産)に否定的だった前原氏だったが、「そんな正論を言っていたら安倍政権を倒せない」という批判を党内から浴びて軌道修正を図りだす。で、市民連合主導の野党共闘路線への歩み寄りの姿勢にいったん転換するが、希望の党の出現で「立ち位置」を大きく変える。
 とくに都議選で民進党都議のかなりが離党して都民ファーストの会に合流し、民進党都議が大苦戦したことも前原氏の「立ち位置」転換に大きく作用したと考えられる。
 前原氏は再び市民連合主導の野党共闘に背を向け、希望の党との接近を図ることにした。その時点で「合流」まで考えていたかどうかは不明である。ひょっとしたら民進を軸に、希望・維新・自由の選挙協力による「新保守連合」を考えていたのかもしれない。が、3者会談で、話が一気に「民進解党→希望への合流」へと進んだ。連合・神津氏がそうした流れのフィクサー役を務めたのかもしれない。
 いずれにせよ、この日の会談で政局の潮目が大きく変わる。前原氏は民進全員「合流」を前提に「名を捨てて実をとる」という作戦を成功させたつもりだったが、小池氏が「安保法制容認」「憲法改正」という2枚の踏み絵を踏まない人は「排除する」と明言したことで、前原氏の「合流」作戦は「名を捨てて実をとる」から「名も捨て実も捨て」に変わってしまった。
 前原氏に言わせれば「安倍政権を打倒するには、市民連合主導の野党共闘より、いま『日の出の勢い』がある希望の党と組んだほうが有利だ」と考えたのだろう。が、「アベ打倒」は、どういう目的を達成するための手段だったのか。憲法違反の安保法制を廃止するためだったはずだ。それが右寄りだろうと左寄りだろうと、総選挙での民進党の基本的方針だったはずだ。小池氏と「合流」について合意した後になって「こんなはずではなかった」では済まされない。
 いや、そもそも小池氏が「安保法制容認」「憲法改正」を、公認申請した民進党議員に踏み絵とするとした時点で、本当に体を張って安保法制に反対してきた民進党議員が、その踏み絵を踏むとでも思ったのか。もしそうなら、前原氏自身が、選挙に勝つためなら志も何も関係ない「政治屋」でしかないことを意味し、また実際に踏み絵を踏んで希望の党の公認を得た人たちは、地元の選挙区で有権者に自身の変節・転向についてどう説明するのか。国民をこれほどバカにした政治行動を、私はかつて見たことも聞いたこともない。彼らの政治行動の結果は、22日、有権者によって容赦ない審判を下されるだろう。
 一方小池氏は、最高の戦果を手にする。選挙協力どころか、民進党保守系議員を、彼らの資金源とともに「たなぼた」的に手に入れることに成功したからだ。おそらく小池氏自身も想定外の戦果だったと思う。が、かえって小池氏も後に窮地に立つことになるが、そのことを書く前に書いておくことがある。
 この結果で窮地に立ったのは、前原氏だけでなく連合・神津氏も同様だった。民主党・野田総理時代に連合出身の輿石幹事長がかなりの権力を持ち、ほしいままに振る舞った経緯がある。その時代の再現を神津氏は願ったのか、市民連合主導の野党共闘より新保守派連合の結集を目論んだのかもしれない。実際、希望の党から排除された(公認申請せず、どうせ申請しても排除されるだろうと考えた人たちも含めて)民進党議員が、枝野幹事長が立ち上げた枝野新党「立憲民主党」が誕生しても、連合は旗色を鮮明にできず、各労組の自主性にゆだねることにした。もはや神津会長の権威は完全に失墜したと言えよう。今後、連合がどういう道をたどることになるのか、もし神津氏の首を飛ばせないような組織だったら、もはや連合の存在意義が問われざるを得ないと断じる。
 最後に、小池氏は今後どうなるか。私は前に小池氏が国政にも乗り出した時点で「二兎を追うものは一兎をも得ず」という結果になると、ブログで警告した。以前のブログでは小池氏に対して「のぼせ上った」とも酷評した。さらに加えて「何様になったつもりか」とまで書いておく。
 実際、足元の都民ファーストの会で、離党者が出るなど混乱が生じている。離党者は現在二人で、一人は小池氏が都知事選に立候補した時、真っ先に支持を表明し選挙運動でも奔走した音喜多氏。その勇気ある行動に感謝した小池氏から「ファーストペンギン」(リスクを恐れず新しいことに真っ先に挑戦する勇気ある人をたたえる米慣用語)と呼び、さらには都民ファーストの会の初代幹事長に抜擢したほどの小池都政実現の功労者だ。
 もう一人の離党者はもともとは地域政党の「自由を守る会」を創設して代表を務めていた内田氏で、やはり小池氏の都政改革に共感して都知事選で小池氏を応援、都議選では都民ファーストの会から出馬し当選していた。
 この二人が共通して問題視したのは、都民ファーストの会そのものが「ブラックボックス」化している現状。たとえば現在都民ファーストの会の代表に荒木氏が就くことになったときも、小池氏を含む幹部3人だけで決め、その選出プロセスも選出理由も党員に開示されず、新代表に荒木氏が就任したことがメールで知らされただけという。
 荒木氏は小池氏の公設秘書を長く務め、今年の都議選に都民ファーストの会から出馬して当選を果たしたばかりの新人政治家。小池氏にとってはいくら気心が知れたかわいい弟子とはいえ、55人もの議員を抱えた新政党のかじ取りは、そんなに容易なことではないはずだ。
小池氏にとっては音喜多氏や内田氏は、いわば外様党員であり、「希望の塾」から都議選に挑戦した直参党員のほうが信頼できると考えたのかもしれないが、新人議員だけならいざ知らず、すでに議員経験を重ねてきた党員にもメディアへの対応を禁じるなど、北朝鮮さながらの言論統制を行っている。都民ファーストの会は新人議員が多いだけに、党運営は確かに難しいことは私にもわかる。だとしたら、小池氏は当面、代表職は辞しても事実上のトップとして、新人議員の育成教育に全力を注がねばならない時期のはずだ。しかも都のトップとして都行政のかじ取りも、片手間にやれることではない。
ただでさえてんてこ舞いの状態にある時期に、こともあろうに国政にまで足を踏み込む。聖徳太子は両耳で二人の訴えを別々に聞き、適切に対応したというエピソードがあるが(10人の話に同時に耳を傾けることが出来たというエピソードもある)、小池氏は一つの体で都政のかじ取り、都民ファーストの会の運営、さらに国政政党・希望の党の運営と、三つのことを片手間ではなくやれるというのだから、これはもう聖徳太子以来、というより聖徳太子に勝るとも劣らない稀有の天才政治家のようだ。そんな人を、日本にしばりつけて置くのはもったいない。国連事務総長として、トランプ氏やプーチン氏、周近平氏、金正恩氏などを手玉にとって現代世界が抱えている難問の解決を図ってもらうのが、日本のためにも世界人類のためにも大切ではないかと思う。
これまでは比較的、小池氏に好意的な報道をしてきたメディアも、さすがに最近は小池氏に対して「独裁者になろうとしているのではないか」といった懸念の目を向け出したが、もはや小池氏のカリスマ性はほとんど失われたといっても過言ではない。音喜多氏と内田氏は「かがやけTokyo」なる新会派(かつても存在した)を立ち上げたが、今後も都民ファーストの会から離党して音喜多会派に合流する都議が続出するのではないかと言われている。小池氏は希望の党の「人寄せパンダ」にうつつを抜かしている場合ではなかろうに…。

前日(6日)までに主要政党のマニフェスト[公約]が発表された。14年の衆院選のときも「総選挙を問う」と題したブログのシリーズを7回連載したが、今回も同じシリーズの連載を始める。
久しぶりに1万字を超える長文のブログになった。最後までお付き合いいただき感謝する。 












希望の党・小池代表が排除する民進党系立候補予定者は、ホントウに「リベラル」派だったのか?

2017-10-02 15:45:07 | Weblog
 メディアはしきりに「小池氏率いる希望の党は民進党のリベラル派を排除」と報道しているが、本当にそういう事実があるのか。
 少なくとも私はテレビで報道される小池氏の発言(肉声)で、小池氏自身が「リベラル派は排除する」と語ったシーンを見たことがない。私が知っている限り、小池氏が排除するとした民進党前議員・今回総選挙民進党公認立候補予定者を希望の党が公認する条件として踏み絵にしたのは、憲法改正、安保法制容認の二つだけである。そのことは、小池氏が民進党代表の前原氏と初めて「合流」について話し合ったとき、明確に申し上げていると主張している(このことはテレビの肉声報道で確認している)。
 が、メディアによる「リベラル派排除」といった表現が蔓延したためか、民進党前議員の辻元氏(社会党のち社民党党首の土井チルドレンとして政界デビュー)は記者たちに「リベラルの力と重要性を信じている。だから私は(希望の党に)行かない」と、無所属で立候補することを宣言した(これも肉声報道を確認)。
 一方民進党代表選で前原氏と争った枝野幹事長は、小池氏が民進党からの受け入れに踏み絵を踏むことを条件にしたことに反発し、昨10月1日、新党結成に動き出したという。党名は民主党とし、赤松・辻元・阿部氏ら旧社民党系議員が集結するという。「三権の長経験者として排除された菅・野田両氏はまだ態度を決めかねてようだ(毎日新聞などの報道)。

 いったいメディアが一斉に報道した「リベラル派の排除」とはどういう意味を持っているのか。もともと日本にはあまり根付いた政治概念とは思えないのだが…。
 私が「リベラル」という政治概念について漠然とイメージしていたのはアメリカの民主党である。アメリカでは[共和党=保守][民主党=リベラル]というイメージで語られることが多いが、民主党自体は「リベラル政党」と位置付けられることに反発しているようだ。実際、共和党は選挙のとき民主党候補者に対して「リベラル」と批判することが多い。アメリカでは「リベラル」という言葉に嫌悪感を持つ人が多いのかもしれない(そうした事情は州によって異なるが…)。
 アメリカでは共和党と民主党との大きな違いは、「小さな政府vs大きな政府」という対立構造でもしばしば語られる。「共和党=小さな政府」は、国民や団体(企業なども含む)に対する政府の干渉は極力抑えて自由と自己責任を重視するという考え。一方「民主党=大きな政府」は社会の規律を守るために、ある程度国民や団体の自由を規制し、社会的弱者を保護することに政治の目的を置くという考え。
 そうした基本的政治理念の相違から、民主党は一貫して銃規制を主張し、共和党は「自分の身を守るための銃を規制すべきでない」「銃所有の権利は憲法で保障されている」と対立してきた。また日本のような健康保険制度がないアメリカで、民主党は民間の医療保険制度に加入できない低所得層のための健康保険制度の確立を悲願としてきた経緯があり、クリントン大統領時代にもヒラリー・クリントンが必死に法制度化しようと努力したが成功せず、オバマ大統領がやっと悲願を実現した(通称「オバマケア」)。そのオバマケアを、現大統領のトランプ氏は目の敵のように潰しにかかったが、肝心の足元の共和党からも造反者が続出して代替案も出せない状態になっている。
 ではアメリカにおける保守とリベラルとはどういう政治概念なのか。アメリカの政治風土に詳しい渡辺靖氏(慶応大学SFC教授)は「自由主義の枠内の中での『右』と『左』との違い、いわば『コーク』か『ペプシ』の違い」と喝破している。渡辺氏は共和党と民主党との争いは「コップの中の嵐」に過ぎないと言いたいようだ。

 保守とリベラルとの対立構造がその程度の差異ということであれば、私に言わせれば自民党と希望の党との対立は、いわば「コップの中のさざなみ」程度の差でしかない。憲法改正については自民の中でも、9条に3項と追加して自衛隊の位置づけを明記するというごまかし改憲派(その筆頭が安倍総理)と、そうした改正では2項との整合性が取れないと、2項そのものを書き換えるべきという正統改憲派(筆頭は石破氏)の対立が溶けない。
 そうした中で、憲法改正を踏み絵にした小池氏の、肝心の憲法改正論がいまだ見えてこない。希望の党への鞍替えを希望する民進党系立候補予定者に「憲法改正」を踏み絵にしながら自らの憲法観を明確にできないようでは、「キャッチフレーズだけの政治屋」と刻印を押されても仕方あるまい。
 ところで「リベラル」について言葉の意味を辞書やネットで調べてみた。おおよそこういう解釈でいいと思う。「政府による統治権限の行使を憲法や法律に基づいて防止・制限・抑制する」という考え方。とすれば、日本で「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄氏の「立憲主義論」が、日本ではリベラル派の原点になっていると考えてもいいだろう。朝日新聞編集委員の高橋純子氏が9月30日付朝刊で、『改憲の道理、主権者が吟味を』と題したコラム記事で素晴らしい問題提起をしているので、無断転載させていただく。もし著作権侵害で訴訟を起こされたら、私は無条件で認める。著作権に触れないように氏の主張のエッセンスだけをちりばめ、私の主張のごとく書くことは技術的には可能だが、私はそういう姑息な方法はとらない。

 「『ただ一貫したる道理によってのみ支配せられる。』これが立憲政治の精神である」(尾崎行雄「政治読本」)
 1890年の第1回衆院選挙で初当選した「憲政の神様」は、憲法に基づく政治は元来「道理」を離れて運用できないと喝破した。「政治は力なり」は専制政治の悪弊。勝敗や損得ではなく道理によって動く、それが立憲政治である、と。
 はてさてそれから1世紀、当世の政治を眺めれば、「無理が通れば道理が引っ込む」専制の世に回帰したかのごとくである。
 憲法53条に基づく臨時国会召集の要求を3カ月もたなざらしにした揚げ句、演説も質疑もすっ飛ばしての冒頭解散。三権分立をないがしろにし、議会制民主主義の根幹を揺るがす行状にみじんの道理も見いだせない。安倍晋三首相にも自覚はあるのだろう、「国難」を道理の穴埋めに利用している。
 目的のためには手段を選ばず。勝てば官軍負ければ賊軍、道理は後からついてくる――。そんな首相の政治観は、憲法を扱う手つきによく表れている。
 「国民の手に憲法を取り戻す」。憲法改正の要件を引き下げる96条改正を打ち出した時、こう胸を張った首相だが、批判を浴びるやスッと引っ込め、今度は「教育無償化」をあげて日本維新の会に秋波を送り、さらには歴代自民党政権が「合憲」としてきた自衛隊を「合憲化」するため、9条に明記すると言い出した。
 何でもいいからとにかく変えたい。そんな首相の情念に引きずられ、今回の選挙では憲法がかつてなく重いテーマとなる。さすればまずもって自覚すべきは、主権者は私たちひとりひとりであり、憲法は、公権力に対する私たちからの命令であるという基本だ。
 それがいつの間にか回答者席に座らされ、改憲に賛成か反対か、二つの札を持たされていることの不思議。「さあどっち?」と迫られるままつい札を上げてしまうようでは、主権者としていかにも怠慢である。
 そもそも変える必要があるのか。何を成すためにどこを変えねばならぬのか。改憲自体の道理をよくよく吟味しなければならない。道理が引っ込む世の中とは詰まるところ、力に屈服するしかない世の中である。それでいいのかが、究極的には問われている。
 立憲主義は、苛烈(かれつ)な主権者意識を抜きには成り立たない。自らの権利は自ら守る。そのための何よりの武器が、選挙権だ。

 ただ高橋氏のコラム記事で1か所だけ、違和感を覚えた個所があるので指摘しておきたい。これは実は憲法問題を語るとき、極めて重要な視点だと思うからだ。その個所は「憲法は、公権力に対する私たちからの命令であるという基本だ」という位置づけである。
 このことを指摘すると改憲派に絶好の口実を与えかねないので、これまで敢えて書かなかったことだが、国民の聡明さを信じて書くことにした(実は友人たちとは、私が1992年に『日本が危ない』という本を上梓して以降、何度も議論してきたことだが…)。
 その重要なポイントは、現行憲法はGHQの占領下において、大日本帝国憲法が定めていた憲法改正要件に従い、国会で制定された憲法だということである。つまり、一度も国民の審判を仰いでいないという弱点を持っているのだ。少なくとも、日本が独立を回復した時点で、当時の吉田内閣は独立国としての憲法の在り方について、現行憲法を継承するならするで、国民の審判を仰いでおくべきであった。そうしていれば、「押し付けられ」議論などが横行する余地はなかったし、高橋氏が主張するように「憲法は、公権力に対する私たちの命令」と胸を張って言えるのだが、残念ながら現行憲法は私たち国民不在の中で制定され、70年という長い年月の間に定着してきたにすぎない。私はむしろ、国民の間から、新しい視点での憲法論議が巻き起こることに期待したい。そして本当に「公権力に対する私たちの命令」と、私たち国民が公権力を縛れる力を持つ憲法を作り上げたいと思う。

 いずれにせよ、日本における立憲主義が、いわゆる「リベラル」であるとするならば、小池氏はなぜリベラル的な考えを持つ人たちを排除しようとするのか、私には疑問が残る。
ただし、朝日新聞のお客様オフィスに問い合わせたところ、小池氏自身は民進党の「リベラル派は排除する」とは言っていないようだ。実際、小池氏はリベラル派の主張と同じく「反原発」も党是として掲げており、またリベラル色が強い小泉元首相や細川元首相とも価値観を共有している部分が多い。となると、メディアはなぜ小池氏が排除しようとしている民進党の人たちを一派ひとからげで「リベラル派」と称することにしたのか、そこに何らかの作為がないと言えるのか、私は多少の疑問を感じざるを得ない。
ただ民進党が自民党離党者などの保守勢力から旧社会党(社民党)からの入党者などの寄せ集め(私は「細川政権は野合政権、民主党政権は野合政党政権」と呼んできた)であり、結局足の引っ張り合いで何も決められない政治を繰り返してきた歴史を小池氏は熟知しており、だから基本理念・政策を共有するという縛りをかけたのだと思うが、自民党にもリベラル志向が強い政治家は過去も現在もかなりいる。公明党も「平和の党」を党是としていたくらいで、本来はリベラル政党だったのだが、自民党との連立政権を長期にわたって維持してきたことから、リベラル色が次第に薄れてきた。が、独裁的権力を行使してきた安倍総理ですら、政策の立案については、公明党の顔色をかなり窺いながら進めざるを得ないのが現実だ。
 が、もし希望の党が今回の選挙で一定の議員数を確保できれば、選挙協力した維新の会とともに自民と競い合う保守二大勢力時代が訪れることになる。これがはたして政治に民意を反映させるべき「政権交代可能な二大政党体制」なのだろうか。むしろ二つの保守勢力が、互いに挑発し合って「どっちが保守本命か」と日本がどんどん右傾化していくことになるのではないかと、なにか、イヤーな予感がする。

 前回のブログ『消えた総選挙――前回記録した戦後最低投票率記録更新の可能性も大に…』の、現実性がその後の政局でかなり高まった。
 前回の総選挙では公示日の翌日に私はブログで「憲政史上空前の低投票率を記録することだけは間違いない」とブログで書いた。結果はどうだったか。戦後最低の投票率を記録した前々回の総選挙の投票率59.32%を大幅に更新する52.66%だった。私がなぜそう予測したか。有権者にとって選択肢がなかったからだ。そういう意味では「自公VS希望・維新連合」は、選択肢どころか争点すらなくなった。前回記録した戦後最低投票率さえ更新する可能性が高まったといえよう。
 そうなると、選挙の結果もおのずと見えてくる。書きたくはないが、与党の圧勝に終わる。そして安倍一強体制が復活する。日本は暗黒の時代に向かってまっしぐらだ。
 なぜそう言えるのか。実は内閣支持率は選挙と同じく無党派層の動向が大きく影響する。だから内閣支持率はメディアが行う世論調査の時期と、メディアの報道スタンス次第で大きくぶれる。9月に内閣支持率がV字回復したのは北朝鮮の核・ミサイル問題で政権が危機感を煽り立て、メディアが一斉に追随した結果だった。が、10月の内閣支持率はやはりメディアが「大義なき解散」と一斉に批判したためUターン的に急落した。無党派層はメディアの報道によって大きく左右される。メディアは報道に際し、そういう自覚と責任を持ってもらわないと困る。
 一方政党支持率はメディアによって多少数字のばらつきはあるが、世論調査のたびに急上昇したり急降下したりはしない。今回は希望の党が出現し、変化を求める無党派層の一定の支持を得て自民に次ぐ支持率の高さを記録したが、一方民進党の希望の党への「合流」作戦で有権者の政治不信は極限に達した。選挙で当選するためなら、政治スタンスを180度転換する厚顔無恥な政治家を目の当たりにして、「政治を信じろ」と言われても無理な話だ。今回の総選挙は、投票率の最低記録を更新するとともに、固定支持層を持つ自民・公明・共産だけが有利な選挙になる。
 そして与党(自民党+公明党)の支持率は40±5%程度で安定している。共産党はせいぜい3%前後だ。いったんは民進党がまるごと「合流」するはずだった希望の党への支援を約束した連合は、神津会長の独断専行に対して猛反発しており、おそらく神津氏の首は飛ぶ。連合が、枝野新党(党名は民主党が予定されているようだ)の支持母体になって、共産党や社民党などとの選挙協力を回復しても、いわゆる「リベラル」勢力は数十人程度にとどまるだろう。結果、現在の与党が国民から支持されたという形だけ残り、安倍一強体制はかえって強化される。そして国民の政治不信は、回復がおぼつかないほど深刻なものになる。
 今日まで、ヒチコック映画張りのどんでん返しの連続だった解散劇だが、私のブログがトリガーになって、もう一度どんでん返しが起きることを期待して今回のブログを終える。