小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

日中韓3国外相会談で問題になった歴史認識に日本はどう向かい合うべきか。

2015-03-23 07:25:02 | Weblog
 日中韓3国首脳会談実現への一歩になったのか。21日、日中韓の外相がソウル市内のホテルで会談した。現在中韓は歴史認識問題で足並みを揃えて、対日批判の姿勢を崩していない。
 外相会談でも中国の王外相が口火を切って歴史認識問題を取り上げたようだ。「歴史を直視し、未来を切り開くことだ」と強く主張した。
「先の不幸な時代」(私はかつて「あの戦争」と書いていた。その後「先の大戦」という言葉が大半のメディアに定着したので私もその表現を採用することにしてきた)について、その不幸な時代で加害者の立場にあった国は強く反省しなければならない、と今でも思っている。
 そして日本がアジア、特に中国と韓国に対して行ってきた加害者としての行為は、中国や韓国の人たちの記憶に残っている間は少なくとも謝罪の念を強く抱き続ける必要があるだろう。
 確かに日本が併合した韓国で行ってきた教育政策などが、戦後の韓国の近代化の基礎を築いたことは間違いない。が、そのことと日本が韓国の人々に対して行ってきた様々な非人道的な行為が相殺されるわけではない。勘違いしている人たちが、とくに週刊詩やWillのような右翼雑誌にいろいろ書いているので指摘しておきたい。
 が、先の不幸な時代は当時の先進国、あるいは列強、大国が自国の利益のみを追求して植民地獲得競争を繰り広げ、その結果が世界的規模で2大勢力の激突として2度の世界大戦として火を噴いた時代であったことを忘れてはならない。が、日本は第1次世界大戦での行為が中韓や世界から非難されることはいまだにない。第1次世界大戦では日本は勝者の側だったからだ。

「勝てば官軍、負ければ賊軍」

 という言葉は、今でも生きている。私は村山談話は今後も継承すべきだと思っているが、いまの安倍総理の姿勢を見ていると、戦後70年の節目に当たる今年8月に発表される予定の「新談話」の内容に中韓が神経をとがらせるのも無理はないと思う。
 世界はいまだに自国利益最優先の姿勢を崩していない。民主主義は、エゴイズムの代名詞になったかのようにすら見える。
 たとえば、これまでアジアの途上国の経済発展を金融面から支えてきたのは世界銀行とアジア開発銀行、そして先進国が行ってきたODA(政府開発援助)だった。中国も日本のODA援助によってさまざまにインフラ整備を行い、先進工業国の仲間入りを果たすことができたことを忘れてもらいたくない。
 いま世界NO.2の経済大国にのし上がった中国は、アジアの金融活動の主導権
を奪おうとしている。中国が提唱しているアジアインフラ投資銀行設立の試みだ。中国が世界NO.2の経済大国としての責任を果たすためにアジアの途上国に対するODA援助を拡大したり、アジア開発銀行への出資比率を高めたいとするなら、私自身は大歓迎である。が、アジア開発銀行はこれまでは日米が主導してきた経緯がある。日米は中国の関与が大きくなることに警戒感を持っているのかもしれない。あの「不幸な時代」の経験から、世界の大国は何も学ばなかったのかもしれない。
 あの「不幸な時代」の先駆的役割を果たしたイギリスは、アヘンを中国に輸出する権利を維持するために戦争をした。日本も「不幸な時代」に大きな過ちも犯したが、アヘンを輸出するというような大義名分で戦争をしたりしたことはない。が、アヘン戦争の勝者のイギリスはいまだにあの戦争の誤りについて中国に謝罪していないし、その反動として中国は世界一麻薬犯罪に対して厳しい刑罰を科す国になってしまった。
 一方、広島・長崎に原爆を投下したアメリカはいまだにその非人道的行為を「戦争の早期終結のため」「米軍兵士のこれ以上の犠牲を出さないため」という口実で正当化している。日米戦争での地上戦は沖縄戦で事実上集結していた。その後も2,3の小規模な地域で小競り合いはあったようだが、米軍兵士の大きな犠牲は沖縄戦以降ない。
 日本領空の制空権を完全に制圧した米軍は日本本土への上陸作戦など毛頭考えていなかった。東京大空襲をはじめ、軍需産業などない地方都市にまで爆弾を雨あられと降り注いで民間人を虫けらのように殺しまくった。
 それでもアメリカは広島と長崎に原爆を投下して戦争を早期終結させる必要があった。それも一刻を争うほどに…。
 ソ連が対日参戦に踏み切ったからだ。アメリカは当初、ソ連に対日参戦に踏み切るよう要請していたが、ソ連軍の大半は東欧にくぎ付けになっており、ソ連が対日宣戦布告してくれさえすればいいと考えていた。が、東欧の共産化に思いのほか早く成功したソ連は、東欧に配置していた大軍を対日戦争に振り向けることにした。あわてたのはアメリカだ。もはや戦う戦力など皆無に等しかった日本政府が、本土上陸作戦などまったく考えていなかった米軍に対し「竹槍で戦え」とまで降伏を拒み続けたため、アメリカはソ連軍に日本が侵略されるまでに戦争を何が何でも早期終結させる必要が生じてしまった。それが広島・長崎に原爆を投下したアメリカ側のホントウの事情である。メディアは、なぜそのことにまだ気づかないのか。
 日本を代表する2大紙メディアは社説でこう書いた。

「戦後日本は、先の大戦への反省を踏まえ、一貫して平和国家の道を歩んでき
た。安倍政権は、そのことを国際社会に積極的に発信し、関係国の理解を広げ
る努力が欠かせない」(22日付読売新聞)
「この70年間積み上げた平和主義の蓄積こそ、日本が世界に誇るべき実績であり、今後のアジアと世界の安定・繁栄への貢献の道もその延長線上にある。安倍政権は、その歴史の重みを忘れるべきではない」(23日付朝日新聞)

 アホもいい加減にしてほしい。日本が平和だったのは、日本政府や日本人の努力の結果ではない。アメリカにとって、日本の安全を守ることがアメリカの国益上必要だったからにすぎない。
 日本がアメリカにとって重要な国ではなく、日本の安全を保障することがアメリカの国益にとって何の意味も無かったら、日本は自分たちで自分たちの国を守る必要が生じていた。そして日本にとって中国や北朝鮮の核が脅威だったら、日本の選択肢は一つしかなかった。現に先の不幸な時代に、国際会議で永世中立を宣言して国際社会から承認された国で、国民皆武装で他国からの侵略に備えたスイスを除き、非武装化した永世中立国はすべて他国によって蹂躙された。国際会議で永世中立を承認した国は、永世中立国が侵略された場合、その国を防衛する義務があったが、どの国もその義務を果たさなかった。
 先の不幸な時代を二度と繰り返してはならないとは、いちおう世界の共通概念となっている。さて日本が先の不幸な時代を二度と繰り返さないため、世界とりわけアジア太平洋の平和と安全のために戦後、どんな努力を重ねてきたというのか。何もしなかったことが、「一貫して平和国家の道を歩んできた」(読売新聞)「この70年間積み上げてきた平和主義の蓄積」(朝日新聞)なのか。
 

理研とNHKは解体的出直しをするべきだ。

2015-03-17 01:24:35 | Weblog
 怒りを通り越した、とはこのことだ。言うまでもなく理研とNHKのことだ。NHKに対して批判すると、サイバー攻撃されることは承知の上で書く。理研はサイバー攻撃したりしない。
 まず理研について書く。私は小保方と笹井は犯罪者だと一貫して書いてきた。日本には「死者に鞭打たず」という奇妙な倫理観が定着している。笹井は責任の取り方として、自ら「死」という選択をした。死ねば、自ら犯した犯罪の責任をとったということになると思ったのだろうか。
 一方、小保方はいまどうしているのだろうか。のほほんとしているのだろうか。私には現在の小保方の生活を知るすべもない。言っておくが、私は小保方に「死ね」と言っているわけではない。どういう責任の取り方をするかは、小保方自身が自分で決めることだ。
 問題は理研の対応だ。理研は小保方を刑事訴追することは止めたという。刑事訴追できるだけの明確な根拠がないからだという。しかし状況証拠は山ほどある。昨年4月に小保方は記者会見を開き、「STAP細胞はあります。私は200回以上再現に成功している」と証言した。200回以上再現に成功したという以上、理研の研究室に保存されていたES細胞を200回以上誰の目にも触れず取りざし、それをSTAP細胞の研究成果として誇ったということになる。そんなことが理研では許されているということを意味する。
 さらに、すでに小保方は理研を退職しているから、処分もできないという。退職している以上退職金もすでに支給されているのだろう。退職金の支払いは停止しているという話は一切メディアに出ていない。理研の野依理事長は小保方の退職について「将来のある若い研究者だ。退職を受け入れた」と記者会見で証言している。野依はノーベル賞学者だが、それは過去の栄光であって、小保方の処理について誤ったことが許されるわけではない。野依は理研の最高責任者としてSTAP問題の責任をとるべきだろう。
 一方、NHKの最高責任者である籾井は昨日(16日)、国会で追及された。1月2日に私的にゴルフに行った時使ったハイヤー料金をNHKに請求させた件だ。後日、その料金は会長秘書室に支払ったらしい。NHKはそういうことがまかり通る世界かと思った。国会での野党の追及によれば、籾井が秘書室にハイヤー代金を支払ったのは3月に入ってからだという。問題にならなければ、知らん顔をしていたと思われても仕方がない。
 いちおう念のため、NHKがそう言う組織かどうか「ふれあいセンター」に確認の電話をした。「あなたも私的な呑み代やタクシー代をNHKに請求させて、2か月以上も経ってからNHKに清算しているのか」と。「ふれあいセンター」の担当者は「自分たちにはそんな権利はありません」と答えた。と、なると会長だけに許されている特権と考えるしかない。
 私は「明日から視聴料支払い拒否が始まるぞ」と言った。「ふれあいセンター」の担当者は「そういうお叱りはたくさんいただいています」と素直に応じた。なおNHKは理研の問題もNHKの籾井会長の問題もニュースで一切報じなかった。「臭いものには蓋をする」と言う姿勢は変わっていないようだ。
 私の結論だ。理研もNHKもいったん解体して出直すしかない。理研という国のトップ研究機関はどうあるべきか、またNHKという公共放送の在り方はどうあるべきかは、国民が決めることだ。

曽野綾子氏の「移民政策」は人種差別以外の何物でもない。南ア大使が怒ったのは当たり前だ。

2015-03-10 07:26:25 | Weblog
 今日は6日のBSフジ『プライム・ニュース』でナマ放送された作家の曽野綾子氏と南アの駐日大使モハウ・ペコ氏の対談について書く。曽野綾子氏は知る人ぞ知る、櫻井よしこ氏ほどではないにしても、かなりナショナリズム思想の持ち主である。南ア大使との対談を仕掛けたBSフジは言うまでもなく産経新聞社系列のテレビ局である。
 問題になったのは産経新聞の2月11日に掲載された曽野氏のコラムの内容だった。曽野氏は日本の人口減に歯止めがかからないという前提で、大胆に移民を受け入れるべきだったと書いた。そのこと自体は問題になるようなことではない。ただ移民を受け入れる場合、日本人との居住地域を分けるべきだとコラムで主張した。曽野氏に外国人に対する排斥思想が強いとは断言できない。もしそうなら移民政策を大胆に進めるべきだなどとは主張しなかったかもしれない。が、とんでもないことを書いた。曽野氏の主張の要点を述べる。厳密な表現はBSフジのプライム・ニュースの録画がネットで確認できるので確認していただきたい。

 南ア・ヨハネスブルグのマンションの家族4人暮らしが標準の1部屋(原文では「1区画」とあるが、マンションである以上「区画」という表現自体が正確ではない)に20~30人の黒人が住み込んで、大量の水道水を使ったために住民が水道を使えなくなり(原文では「いつでも水栓から水が出なくなった」とある)、その結果、白人が逃げ出して住み続けたのは黒人だけになった。居住区だけは白人・アジア人・黒人というふうに分けて住む方がいい。

 この主張に、南ア大使がかみついた。南ア大使だけでなく、産経新聞の読者からも曽野氏に対する批判がかなり殺到したようだ。
 曽野氏の弁解は2点。①「このコラムに書いたマンションの事例が事実かどうかは分からない。噂(うわさ)話にすぎないのか、それとも本当なのかはわからない」②「自分は区別という言葉と差別という言葉を使い分けている。自分は一人ひとりを区別しており、差別という政治的表現は使っていない」。
 
 これがプロの作家の弁解として通用するとでも曽野氏は、本当に思っているのだろうか。まず南アの「マンション事件」の話を事実かどうかも確認せずに、人種ごとに居住区を分けるべきだという主張の根拠にしたこと。
 小説ならいざ知らず、移民政策についての提言である。作家だから「面白くする必要があった」などと言う言い訳が通用するなら、猪瀬直樹氏が「自分は
政治家ではなく作家だから政治とカネの問題に疎かった」という弁解を、自分の作家としての知名度を生かして大いに弁護したらどうか。
 作家であろうとジャーナリストであろうと、はたまた政治家であろうと、また法律家であろうと、何らかの提言なり主張をしようという場合には、論理的に説得力のある主張をするか、疑いを容れない事実を根拠に主張する以外は許されない。しかも曽野氏は、かつてブラジルに日本人が大量に移民したとき、ブラジル政府から移民日本人がどういう待遇を受けたかを知らないはずはないだろう。ブラジルだけでなく、日本人の大量移民を受け入れた国は日本人移民に対してきわめて過酷な隔離政策をとった。アメリカもそうだった。そもそもアメリカの黒人奴隷政策は、労働力確保のための強制的な移民政策だった。
 日本もまた日韓併合以降、貴重な労働力として朝鮮人を大量に移民させた。日本政府は移民朝鮮人に対して苛酷な隔離政策をとってきた。いまでは高校生でも知っている、そうした労働力確保のための移民・隔離政策を再びやれと言っているように、曽野氏の主張は思える。
 次に2点目の「区別」と「差別」の用語法だ。曽野氏は「差別」するためではないと主張しているが、では人種ごとに居住地域を隔離するのは、単なる「区別」なのか、それとも「差別」なのか。
「区別」というのは、たとえばレストランなどで「喫煙席」と「禁煙席」を別々に設ける程度の意味しか持っていない。いちおう名の通った作家として知られている曽野氏が、その程度の用語法すらわきまえていないということは、もはや作家としても失格だということを意味する。
 人種によって居住区を分けるということは、レストランでの席分けとはまるで意味が違う。かつてアメリカを略奪した白人種が、原住民のインディアンをペンペン草も生えないような僻地に強制的に隔離した。また黒人専用バスと白人専用バスを分けたりもした。曽野氏はコラムで「爾来(じらい)、私は言っている。人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし、居住だけは別にしたほうがいい」と書いた。運動におけるアメリカ社会の人種隔離の実態を曽野氏は知っているのか。ロス五輪でゴルフが正式種目に採用されることがいったん決まった。が、どうせなら全米1の名門ゴルフ場であるオーガスタ・ナショナルで行おうとしたが、黒人はプレー禁止というゴルフ場の方針により、ゴルフがオリンピック種目に加えられることはなかった。そうしたやりかたを、曽野氏は単なる「区別」として容認すべきだというのか。
 異なる文化や風習、慣習、宗教観を持った異なる人種を受け入れるということは、日本人がどうやってそういう価値観の差異を超えて移民と対等に付き合えるようになるかが試されていることでもある。実際単なる労働力の確保が目的で、イスラム教徒を移民として受け入れてきたヨーロッパ先進国が、いまイスラム過激派のテロに脅えている。移民の受け入れに際して、宗教観の差異を選別基準にするわけにもいくまい。まず日本人が多様な価値観に寛容にならないと、必ず問題が生じる。日本人がどこまで国際化できるかが問われている。ある意味では日本人が、移民政策に成功すれば、その移民政策が国際標準モデルになり、日本のフェアさが国際社会から評価されるようになるかもしれない。曽野氏ほどの見識のある人ならば、その程度のことは理解してほしい。



「民主主義とは何かがいま問われている」⑩--沖縄の声がなぜ国政に反映されないのか?

2015-03-03 08:34:24 | Weblog
 政策はつねに結果によって検証される必要がある。それも国民や地域住民(都道府県民・市町村民)の目に見えるような形で…。
 政治家はひたすら選挙に勝つために政策を訴えるのではなく、当選して政策を実行に移した結果について、政策を実行したときの目的が達成できたかどうかを有権者に明らかにする必要がある。それが無視されたら、民主主義政治の根幹をなす選挙制度が破壊する。政治家もメディアも、そのことを明確に自覚しているのだろうか。
 たとえば、横浜市が壮大な実験に取り組んだ。10年以上かけて全国有数の低出生率(厳密には一人の女性が一生の間に産む子供の数である特殊合計出生率)を克服するために「待機児童ゼロを目標にした保育所つくり政策」の結果の検証をきちんとして、市民に公表しているか。
 結果はどうだったか。横浜市の特殊合計出生率は、かえって下がった。市職員や林市長の支援者は「でも、女性の社会進出の機会が増えた」と抗弁する。本当にそうか。もし本当にそうなら、横浜市に住む女性の特殊合計出生率は下がり続けることになる。少子化対策どころか、中国のような「一人っ子政策」になる。女性の社会進出の機会が増えれば、そういう結果になることは中学生でもわかる理屈だ。
 政策の結果を誰の目にも見えるように検証することの重要性は、そのためにある。選挙のたびに、特に女性の立候補者は「少子化対策のために保育所つくりにまい進します」という。横浜市の壮大な実験の失敗を、まったく語らずにだ。ただひたすら集票のために一見聞こえの言い「公約」を掲げ、結果については説明責任を果たさないというのが「日本型民主主義」である。
 日本人の多くは、というよりほとんどは「日本は民主主義の国だ」と信じて疑わない。アメリカ人も同じだ。「アメリカは民主主義の国だ」と思っている。言っておくが、北朝鮮の国民も「北朝鮮は民主主義の国だ」と信じている。中国人もそうだ。日本人やアメリカ人がそう思っていないだけのことだ。
 民主主義に「これだ」という定型的なパターンは存在しない。為政者にとって都合のいい政治システムを、世界中のだれも真っ向からは否定できない「民主主義制度」と勝手に決めつけているだけである。日本の最高裁判事も、民主主義の欠陥が分かっていない。最高裁は1票の格差の限界を2倍以内とした。つまり1.99倍なら選挙は違憲状態ではなく、1票の格差は生じないというのが最高裁の判断だ。
 この最高裁判決を根拠に、衆院議長の諮問機関である「衆議院選挙制度に関する調査会」(座長=佐々木敦・元東京大学総長、以下「調査会」と記す)は、2月に小選挙区の数を「9増9減」にする案を取りまとめた。一般には「小選挙区定数」と言われているが、小選挙区から2人以上が当選することはなく、小選
挙区で当選する議員の数は小選挙区の数と同じく295である(前は小選挙区は
300だったが、民主党政権時代に小選挙区の数が0増5減されて295となった)。もしあえて「定数」という言葉を使うならば「小選挙区で選出される議員の定数は295」という言い方が正しい。些細なことにこだわるようだが、実はそうした言葉遣いのまやかしに今回の選挙制度改革案の限界が込められているからだ。
 わが国が、衆議院の選挙制度を中選挙区から小選挙区比例代表並立制に変更したのは1994年。アメリカ型の「政権交代可能な2大政党政治」を目指すというのがその目的だった。であるならば、完全に人口に比例した小選挙区だけにすればよかったのだが、そうすると共産党など弱小政党が姿を消すことになる。で、弱小政党にもチャンスを与えるために比例代表選挙制を抱き合わせることにした。
 しかし、何度も書いてきたように民主主義政治システムは「多数決原理による政策の決定」という致命的な欠陥を有している。で、その欠陥を完全に解決するには有権者全員が国会議員として国政に平等に参加できるようにすればいいのだが、そんなことは物理的に不可能だ。そのため私はかつて国論を二分するような政策の決定については衆参両院議員の一定数の同意(たとえば全議員の3割)によって、すべて国民が直接決定できる直接民主制を実現するための「国民投票法」を制定すべきだと考えているが、民主主義の欠陥の是正より1票の格差の縮小のほうが民主主義の前進につながるというのが最高裁の考えのようだ。
 その最高裁は1票の格差が生じる原因は「一人別枠方式にある」と断じた。1票の格差が生じる原因が「一人別枠方式」にあることは疑いを容れないが、人口が少ない地方の声もできるだけ国政に反映させるための方法と「善意」に受け止めれば、「一人別枠方式」は必ずしも選挙制度の致命的欠陥とは言えない。が、事実は地方に強い選挙基盤を持つ自公の党利党略によって作られたという見方もあり、先の総選挙でも自公の選挙協力によって自公政権は盤石になった。
 今回の調査会の案は、従来の選挙制度の欠陥をどう抜本的に改革するかの答えにはなっていない。実際調査会の案が示された途端、地方選出の自民党議員から「地方の声が国政に反映されなくなる」という悲鳴に近い反発の声が出た。考え方としては間違っているとは言えないが、すでに地方の声など政府は無視し続けているではないか。
 たとえば普天間基地の移設問題。沖縄県民の総意は先の総選挙でも県知事選でも明確に示された。が、政府は沖縄県民の声に耳を貸そうともしない。せめて調査会の「9増9減」案に悲鳴を上げた自民党の地方選出議員だけでも、地方の声を国政に反映させるべく、政府の強硬姿勢に猛反発してくれないか。
 私は沖縄県民ではないが、私が沖縄県民だったら「日本国からの分離独立」
を主張する。もともと沖縄県民は琉球王国を繁栄させてきた独自の民族である。いまは完全に日本人(大和民族)と同化しているので、私も本気で沖縄の分離独立説を唱えたいわけではないが、少なくともそのくらいの声を上げることによって沖縄県民は「特別自治県」としての地位を獲得すべきだとは思っている。
 沖縄は気候や自然に恵まれ、特別自治県としての地位を獲得すれば米軍基地に伴う需要や政府からの経済援助に頼らなくても観光と自由貿易圏として経済的に十分独立してやっていける。地方自治の拡大を唱える人は多いが、沖縄の基地問題についてはほとんど口をつぐんでいる。地方自治の拡大を唱える以上、民主主義の在り方についても問われていることを自覚してもらいたい。