小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

東京オリンピック開催を喜ぶだけでいいのか。体罰指導の根本的解明が先ではないのか。

2013-09-11 06:22:25 | Weblog
 東京オリンピックの開催決定に反対しているわけではない。だが、手放しで喜ぶ気にもなれない。理由は二つある。
 一つは元々東京オリンピック構想は石原前都知事がぶち上げた構想である。石原氏は「東京にカジノを」構想もぶち上げていた。
 石原氏のこの二つの構想は、「東京を世界有数の一大観光都市にする」ことが目的だった。はっきり言って無責任極まりない発想である。カジノを目的に東京を訪れる外国人と、オリンピックを見に東京に足を運ぶ外国人の目的は全く相容れない。石原氏は、どんな目的でもいい、とにかく外国人が東京に来て、金を落としてくれさえすればいいと考えていたのだろう。
 石原氏の後を継いだ猪瀬都知事は、カジノ構想については無視した。見識ある都知事と評価していいだろう。だが、東京オリンピックについては石原氏の発想とは違う、という猪瀬構想が私たち国民の耳に届いていない。これから考えるというのであったら、あまりにも世界をバカにした話ではないか。
 私ならこう考える。日本の体育指導界にはびこってきた「体罰指導」を根底から覆す絶好の機会として、合理的な科学的指導法を確立するためのオリンピックだと。
 日本になぜ「体罰指導法」が定着してきたのか。
 その根底には精神主義があったからだ、と私は考えている。「やる気があればできる。できないのはやる気がないからだ」――精神主義とは単純化すればこの一言に尽きる。「やる気」を出させるためには体罰が必要だ――こうした考え方が日本の伝統的な体育指導法の根底に根強く培われてきた。
 だから柔道や剣道、空手、相撲をはじめ日本の伝統的な体育指導には「しごき」が常に付きまとってきた。野球は日本の伝統的スポーツではないが、明治時代に日本に紹介され、瞬く間に大衆的スポーツになった。だから野球の指導法にも精神主義的要素が持ち込まれた。戦前から日本に入ってきた海外のスポーツも野球以外にあったが(テニスやゴルフなど)、本格的に大衆化するようになったのは戦後の民主主義教育が導入されて以降である。サッカーやラクビー、水泳、陸上競技など戦後に大衆化したスポーツには、ごく少数の例外を除いて精神主義的指導法は行われていない。
 桜宮高校のバスケットボール部での体罰指導は例外的である。どの学校でもバスケットボールで体罰が行われていると考えるのは勘違いである。というより桜宮高校という学校そのものが通常の高校と違う異質な学校だったことに、このケースの背景があったと考えるべきだろう。
 私は桜宮高校でのバスケットボール部のキャプテンが、顧問教諭の体罰を苦に自殺した事件を契機に日本のスポーツ指導の在り方について批判してきた。が、マスコミがスポーツ指導の在り方という視点で体罰問題と正面から向き合うことが少なく(「少なく」と書いたのは多少は私の視点に近い批判を行っていたスポーツ評論家や過去・現役の有力スポーツ選手などもいたし、彼らの主張を紹介したマスコミもあったからである)、改めて体罰問題について考えてみたい。
 まず私のスタンスを明確にしておく。
 私は体罰の全否定論者ではない。必要な体罰もある、と考えている。もっと言えば、効果を発揮する可能性が高い体罰と、明らかに効果がないのに効果があると勝手に思い込んで行う体罰は、分けて考えるべきだと私は考えているからだ。
 まず、効果がないのに、あると思い込んでいる人たちが多いのはスポーツの指導者たちだ。
 スポーツには個人競技と団体競技がある。日本で盛んなスポーツについて考えてみたい。
 団体競技に属するのは、野球やサッカー、ラクビー、バスケットボール、バレーボール、アイスホッケーなどがある。ほかにもあるかもしれないが、スポーツ分野にそれほど詳しくないのでいま思いついたスポーツ競技だけを取り上げたにすぎない。
 一方個人競技に属するのは柔道、剣道、空手、相撲、レスリング、水泳、陸上、テニス、ゴルフなどがある。ほかにもたくさんあるだろう。
 また個人競技ではあるが、団体戦が競技種目として行われているスポーツも少なくないし(柔道やゴルフなど)、団体競技でありながら一人一人のポジションが決まっていて、そのポジションに応じた練習方法が個別に存在するスポーツもある(その典型は野球やサッカー)。
 スポーツの指導方法は、基本的には競技の形態に応じて行われるべきで、一律に体罰が全否定される風潮は、必ずしも健全とはいえない。団体競技で、全選手が足並みをそろえて頑張らないといけないスポーツでありながら、なげやり・無気力な練習態度で、他の選手の足を引っ張ってチームワークを乱すようなケースもあり、そうした選手に対する指導には限度のある体罰が必要な場合もありうる。
 ただ問題は体罰の適正な限度に基準を作るのは不可能、という点にある。指導者の個人的判断にゆだねるしかないのが否定できないのが現実である。だから、いま問われるべきは「体罰は是か非か」ではなく、指導者が自分自身の感情をコントロールできる能力を、指導者を育成する過程で培っていくことが重要視されるべきではないかと思う。
 今年の日本体育大学の入学式で、学長が「体罰による指導はいかなる場合も
行ってはいけない」と訓示したが、その訓示は私に言わせれば本当に指導能力のある指導者の育成が、日本体育大学にはできないという告白をしたようにしか聞こえなかった。
 体罰「教育」は実は家庭でも日常的に行われている。まだ小さい子が親の言うことを聞かないとき、親が子供に体罰を行うことはどの家庭でもある。私の娘が息子に行う体罰を私も何度も見てきて、黙って見ているときもあるが、私が娘を叱るときもある。黙って見ているときは、娘が感情に走っての体罰ではなく、限度をわきまえた範囲で、かつ必要性を認めたケースである。だが、時には、明らかに娘が感情に走って体罰を行うときもあり、そういう場合は「おい、そんなことで手を出すな」と叱る。娘はしばしば「言うことを聞かないから頭に来たんだ」と弁解する。
 実は私は子供に一度も体罰を加えたことがない。粗相をしても言葉で言って叱ることはあっても、体罰は絶対に加えたことがない。妻は、子供が粗相をしたとき体罰を行うこともあったが、私は「子供が粗相をするのは当たり前だ。言って聞かせろ。言葉で教えられないのはお前の教育の至らなさだと思え」と言ってきた。そうした育て方をしてきたからか、私たちの子供は反抗期を迎えることがなかった。だから私は娘にこう諭す。「お前たちが反抗期を迎えなかったのはなぜか。そのことを考えなさい。そうすれば、お前が感情に走って子供に体罰を加えることが逆効果になることがわかるはずだ」と。
 体罰について考えるとき、常に指導者が念頭に置くべきことは、本当に指導方法として有効かどうかを自らの指導経験や、他の指導者の指導経験に照らし合わせて追体験する習性を身に付けることの重要性を認識することだ。日本体育大学が、そうした指導者育成を放棄するなら、もう大学そのものを閉鎖したほうがいい。読者の皆さん、どう思われますか。
 スポーツ指導に関して言えば、個々の生徒や部員に対する指導目的はふたつある。専門家でもないのに、と言われるかもしれないが。私はどの分野も専門にしてきたことはない。専門分野がないため、専門知識にとらわれず、専門分野の常識も無視できる。そのことが、実はジャーナリストとしての私にとっては最大の武器になったのである。
 たとえば、私の処女作『徳洲会の挑戦』が、なぜベストセラー狙いの出版しか手掛けないことを社是としている祥伝社の編集長が「異例中の異例」とまで言って出版してくれたかというと、「医は仁術である」という伝統的な考え方を真っ向から論理的に否定したことを高く評価してくれた結果だった。「医は仁術である」という考え方の矛盾に私が気付いたのは、徳洲会病院の規律の厳しさに着目した結果であった。徳洲会病院には6つの規律があったが、その一つに「ミカン1個でも貰った医者・看護婦(当時の呼び方)は即解雇する」という、アメリカの公務員の倫理規定「1ドル規制」(仕事の関係者だけでなく友人であっても1ドルを超える接待や物品を貰ったら即解雇するという厳しい規律)以上の厳しい規律を設けていることの意味を私は深く考えた。著書で私はこう書いた。
「この贈り物謝絶の方針について宇治久世医師会は、島田宇治市市長の呼びかけで行われた昭和53年12月10日の3者会談(市、徳洲会、医師会)の席上、『徳洲会はミカン1個でも患者からはもらわないということだが、患者との人間関係まで破壊しようというのか。生活が苦しくても感謝の気持ちを込めて、たとえばシュークリーム10個を持ってきても、もらうとクビにするのか』と徳洲会に詰め寄ったが、このことの意味を深く掘り下げて考えることは、とりもなおさず、徳田が日本の医療をどういう方向に変えていこうとしているかを考えていくうえで、きわめて重要なポイントになるので、最終章で再び取り上げたい」
 いまでは、ほとんどの総合病院が「患者や家族の皆様へ――当院では医師や看護士などへの金品の謝礼は一切お断りしております。お気遣いなきようお願いします」といった貼り紙を目につく場所に貼っているが、当時の医師たちは患者からお礼をもらうことを当たり前と考えていた。
「みかん1個」問題は、私の目からうろこを落としてくれた。何気なく見過ごしてきたアメリカ映画でのシーンが脳裏に浮かんだのである。アメリカ映画には学校の授業が終わった時、教師が生徒に「サンキュー」と言って教壇を降りるシーンがしばしば登場する。また医師や弁護士が患者の診療を終えた後や法律相談に応じた後、やはり「サンキュー」と言う。『徳洲会の挑戦』の最終章で、私はこう書いた。少し長い転記になるので、行間を開けて転記する。

 真に患者中心の医療を実現するためには、患者自身が、積極的に医師との間に新しいモラルを確立すべく努力しなければならない。そして、そのための一里塚として位置付けられるのが「ミカン1個でも貰ったらクビ」という徳洲会の厳しい方針であろう。
 実際、この「贈り物謝絶」の方針は、医療側と患者側に大きなショックを与えた。それまで平然と貰い物を貰い続けていた医師たちの内部から、贈り物を貰うのはよそうという声が出てきた。少なくとも、贈り物をする側、貰う側の双方に後ろめたい感情が生まれつつあることだけでも、大きな収穫と言えるだろう。
 私の知り合いのある公立病院の勤務医は、「今まで何の抵抗もなく、当然のように贈り物を貰っていたことが恥ずかしい」と語っている。 
 今日まで医師が患者に君臨できたのは、需給関係が医師側に圧倒的に有利で
あったことにもよるが、患者が何の疑問も抱かずに「病気を治してもらうのだから」と医師の前に這いつくばってしまったことにも、大きな原因がある。だから、”お医者様天国”を支えてきたのが、ほかならぬ患者自身であったことへの痛切な反省が、医療革命に患者が主体的にかかわっていくための重要な前提条件となる。(中略)
 実は私は、一見、枝葉末節とも見える「贈り物謝絶」の方針にこそ、徳田が目指す医療革命の思想的原点がある、と考えている。すでに書いたように“革命”と呼ぶ以上、それは力関係の逆転を意味しなければならず、医療界における力関係の逆転は、医師と患者の間の関係そのものの力関係の革命的変化として現れるのでなければならない。そして贈答の慣習は、医師と患者の力関係を象徴するものなのである。
 従って、患者から医師への贈答の慣習を廃止しようということは、医者が患者に君臨する世界そのものの崩壊を意味する。徳田と徳洲会が推進している「社会運動」を、私が“医療革命”と規定し、その思想的原点を「ミカン1個でも貰ったらクビ」という贈答関係の廃止に求めたゆえんでもある。
 であるからこそ、徳洲会の贈り物謝絶の方針に対し、先にも触れたように、医師会側は「患者との人間関係まで破壊しようというのか。生活が苦しくても感謝の気持ちを込めてシュークリーム10個を持ってきても、貰うとクビにするのか」と悲鳴に近い抗議の声を上げたのである。まさに患者から医者への一方的な贈答の関係こそが、医者にとって“甘えの許される世界”の象徴だったのである。したがって、その関係が否定されることは、医師会の先生方にとっては耐え難いことに違いない。(中略)
 さらに、患者からの贈り物の大半は、感謝の気持ちの表れではない。はっきり言えば、医療の専門家に媚(こび)を売っているだけなのだ。命は一つしかなく、だからこそ自分にだけはいい医療を行ってほしいと願う心から出る媚なのだ。旅館に泊まる際、快いサービスを期待して仲居さんに包むチップと、本質的には変わらないのである。患者のほうは、贈り物をしておけば、いい医療を行ってくれるのではないか、と期待するからこそチップをはずむのである。だから医者に差し出すチップは、治療が終わって退院する時ではなく、治療(とくに手術)を始める前に差し出すのが習慣化されているのだ。
 繰り返す。患者から医者への一方的な贈答慣習の廃止は、従来の医者と患者
との「人間関係」を破壊した。その廃墟の跡に、どんな新しいモラルが形成されるかは、今のところ予断を許さない。
 おそらく徳田自身は、「贈り物謝絶」の方針を打ち出した昭和49年の時点では、それがこのようなすさまじい結果を生むとは、予想だにしていなかったのではなかろうか。
 というのは、贈り物をやめた動機について、「なぜかわからないけど、ちょっと心に引っ掛かるものがあったから」と徳田自身率直に語っているように、それほど深く考えてのことではなかったからだ。実際、もしうまくいかなかったら、その時は元へ戻せばいい、と彼は考えていた。
 ところが、貰い物をやめてみると予想外の結果が出た。「貰い物の分捕り合いがなくなったおかげで、医者や看護婦の間に平等意識が高まった」のである。
 ※「スクープというのは、ひた隠しにされていた権力者の不正を暴くことだけではない。私は「ミカン1個でも貰った医者・看護婦はクビ」という厳しい徳洲会の規律に着目し、その規律を設けた動機や目的、結果を、徳田氏が辟易するほど質問攻めにした。その理由は後で書くが、この時期徳洲会が茅ヶ崎市の医師会と市議会まで巻き込む“戦争”をしていたことは、マスコミ界でも大きな話題を呼び、『週刊現代』が数週間にわたって特集記事を組んだり、NHKが『NHK特集』で取り上げたり、全国紙がこぞって社説で取り上げたりしていた中で、「ミカン1個」問題が持つ意味の重要性に着目したのは私一人だった。マスコミの視点はほぼ「医師会の驕りに対する批判」の立場に立っていた。誰もが単なる“美談”の一つとしてしか見ていなかった些細なことから重要な意味を発見することも、私は「大きなスクープ」と考えている。
 日本では贈答の慣習は、両者の力関係を反映している。たとえば通常のビジネスにおける贈答の慣例は、売る側が買う側に贈り物をする、というのが通常である。商取引においては買う側のほうが一般的には力関係で上位に位置するからだ。ただし、時には通常の商取引においても売り手側が上位に立つケースもある。それは需給バランスが大きく崩れ、供給側が優位に立ってしまうケースだ。
 が、需給バランスとは無関係に贈答の慣例が逆転している世界がある。その一つが医療の分野だ。多少大げさに言えば、患者は医者に一つしかない自分の命を無担保で預けざるを得ない。患者がいい治療を行ってもらうために、担当医に贈り物をしてまで自分の治療に一生懸命になってほしいと願うのはやむを得ない。そういう世界であぐらをかき患者に君臨しているのが医者という職業なのだ。そういう逆転した世界でぬくぬくと優雅な生活をしている人たちの職業についている人は、一般的に「先生」と呼ばれる。たとえば、私のかつての世界もそうだ。売れるようになると、「先生」と呼ばれたり、また業界内では姓ではなく名前を音読みで呼ばれるようになる。名前を音読みで呼ばれるようになれば、業界で一流と認められたことを意味する。私のケースで言えば、呼ばれ方が「小林さん」から「先生」とか「きこうさん」(本当の読み方は「のりおき」なのだが)と呼ばれるようになる。また本が出版されたときは、いわゆる「打ち上げ」と称する接待がつきものだ。盆暮れには出版社から贈答品が届く。もちろん、そういう関係は、私の本が売れている間だけだったが。
 ほかにも、そういう世界はいっぱいある。政治家という職業もそうだし、学校の教師・教諭、弁護士、作曲家や作詞家、画家(画家の部類に入るのかどうかは知らないが漫画家までもだ)などがそうだ。芸能人ですらある程度の地位に上り詰めると「先生」と呼ばれる。
 こういう通常のビジネス関係が逆転しているのは、儒教精神が社会的規範になっている日本や韓国、中国などの国だけだ。そして、そういう世界に共通した職業的地位は「聖職」と一般的に考えられている(すべてではないが)。今、日本ではそういう世界は静かに崩れつつあるが……。
 平等の意識は言うまでもなく特権意識の否定の上に形成される。ということは、貰い物をやめることによって、患者に対し「診てやるんだ」といった態度もなくなっていくことを意味する。医者と患者との間の新しいモラル形成の萌芽がこうして生まれた。徳洲会の医療革命は、ミカン1個から起こったと言っ
ても過言ではないほどである。(中略)
 日本の医療は、いま大きな曲がり角に差し掛かっている。医者が患者に君臨する世界が、音を立てて崩れ去ろうとしている。明治維新前夜にも比肩すべき胎動が、医療界内部から澎湃(ほうはい)として生じたからである。(中略)
 東洋医学は伝統的に「医は仁術」を精神的支柱として形成されてきた。儒教の根本理念でもある「仁」は、思いやりやあわれみの心を意味し、日本人の精神構造の中に深く棲みついてきたといえる。それが、いいことであったかどうかは別として、徳川三百年を支えたこの精神的支柱は、封建の絆から日本人が解放されて一世紀以上たっているにもかかわらず、いまだ日本人大多数の絶対
的価値観として観念の世界で生き続けてきたのである。
 そのことが、実は日本において「医者が患者に君臨する世界」の構築に預かって、最大の力となった。「医は仁術だから金儲けを目的にしていない。だから医療は公共的事業なのである。そして医療が公共的なものである以上、企業や商店と同列にみなすのは間違いで、医師の特権的地位を保障すべきなのだ。それなのに、医師優遇税制をやめるというのなら、我々も保険医や学校医を総辞退して断固戦うぞ」というのが日本医師会の論理であり(※当時、厚生省=現厚労省=は医師優遇税制を抜本改革しようとしていた。当時は厚生省の抜本改革案に「まだ甘い」とマスコミは批判的だったが、いま開業医の廃業が続々と生じている)、一言で言ってしまえば「医は仁術」なる幻想を国民にばらまきながら、
実はパワーポリティクス(力の論理)で患者に君臨してきたのである。

 すでに書いたように、私は好んでジャーナリストになったのではない。この世界でのキャリアが皆無の私に、結果的に私の本名で処女作を出してくれた祥伝社の編集長の肩入れと、『徳洲会の挑戦』がベストセラーになっていなかったら、私の人生は全く異なったものになっていたはずだ。
 が、ベストセラーになっただけでなく、多くの評者が私の処女作を高く評価してくれたおかげで(当時、いわゆる『徳洲会もの』はかなり出版されており、すでに高名なノンフィクション作家も上梓されていたが、私の『徳洲会の挑戦』はそれらの中で格別の評価をいただいた)、雑誌や週刊誌、夕刊紙などから執筆依頼が相次ぎ、あれよあれよという間にこの世界での寵児になっていた(自分で言うのもおかしいが)。
 で、この世界に飛び込んでからジャーナリズムとは何か、どうあるべきか、ということを既成の権威書は一切読まず、自分自身で自らのスタンスを確立してきた。その姿勢が、このブログの背景にある。
 私自身のジャーナリストとしてのスタンスを改めて明らかにしておきたい。巨大マスコミに対する批判的スタンスをとってきた雑誌に『噂の真相』というのがあったが(2004年廃刊)、これはマスコミ界のスキャンダルを中心に編集されており、私は一切スキャンダルものには手を出したことがない。理由は簡単。いったん、スキャンダルものに手を出すと、必ず裏で金が動く。そういう世界には入り込みたくなかったからだ。
 その代わり、このブログの姿勢でも明らかなように、私は大マスコミ(とくに読売新聞や朝日新聞といった大新聞社)を今標的にしているが、批判のスタンスは、「私と価値観が違う」を基準には一切していない。私が批判する基準は、大マスコミの主張の論理的まやかしである。
 たとえば、読売新聞はしばしば政党や政府に対して「ポピュリズム(大衆迎
合主義)に走るな」と主張するが、私には、そうした主張自体がポピュリズム
ではないかと見える。読売新聞の論説委員たちは「ポピュリズムに走るな」と主張して政党や政府の政策を批判するが、それは自らの主張と異なるが故の「批判のための批判」の域を超えない。
 これまでもブログで何度も書いてきたが、衆議院議員制度改革について、読売新聞は一貫して民主党を批判してきた。民主党は、消費税増税に当たって「国民に犠牲を強いる以上、我々も血を流す必要がある」と主張して公務員の給与水準の引き下げと国会議員定数の大幅削減を主張してきた。その民主党の主張に対し、公務員の給与引き下げは歓迎し(私もそれは当然だと思っている)、国会議員の定数削減は「ポピュリズムだ」と批判する。ご丁寧に、他の先進国の国民総数に占める国会議員数の比率を調査し、「日本の国会議員数は先進国の中で少ない方だ。民主党の定数削減主張はポピュリズムだ」と批判する。だが、日本の国会議員が、先進国の国会議員に比べ、いかに優遇されているかの調査はしていない。おそらく実際には調査して分かっているはずだが(議員数の比率だけ調査して、税金で賄っている議員の歳費やもろもろの議員特権を調査していなかったとすれば、読売新聞はもはやジャーナリズムではない。巨人軍と自民党のための有料広報紙だ)、日本の国会議員がいかに優遇されているかの先進国との比較は一切発表していない。読売新聞の主張は明らかにポピュリズム手法を用いている。選挙制度改革と定数削減問題は別の問題として論ずべきで、選挙制度改革は議員自身には絶対できないから第三者機関で行うべきだと私は主張してきて、読売新聞は私の主張の一部を最近剽窃した主張を始めたが、まさに「恥」という日本文化の伝統を継承しないことが読売新聞社の社是のように思える。誤解を招くといけないので注釈を加えるが、「恥」という文化は日本の儒教精神に根付いたものであり、私は儒教を全否定しているわけではない。宗教と呼ぶべき範疇に入るかどうかの疑問はあるが、儒教には他の宗教には見られないモラルの高さや家族の絆を大切にする精神が宿っており、そういう部分すら今の日本から失われつつある現状を私は憂いている一人である。
 今回のブログのテーマから外れすぎた。日本に東京オリンピックを招致する資格があるのかという疑問を解明することが今回のブログの目的だった。日本の体育指導法としてなぜ体罰が根付いてきたのかの解明を放棄して、ただ体罰はやめようといった道義的反省だけで済まそうとしている状況で、オリンピックを開催する資格があるのかを私は問いたかった。
 私は目が悪いことと、高齢者になって人並みに運動反射能力の低下が避けられなくなってきたこと、70歳以上の高齢者は格安の定額料金でバスや公営地下鉄が乗り放題になるため(ただし乗降についての要件はある)、運転免許の更新をやめた。で、電車やバスに乗る機会が増えたことで気づいたことがある。学生や中年くらいまでの社会人が、優先席でのマナー違反を平気で行う無神経さや思いやりのなさである。
 まず、優先席では携帯電話の電源を切ることが義務付けられている。義務付けたのは運輸省(当時)で、学者たちによって構成された第三者機関の諮問を受けて、携帯電話が受発信する電波が心臓ペースメーカーへの影響を無視できないということを理由に禁止する通達を電車・バスなどの運営会社に出したためである。だが、世界中で、交通機関内での携帯電話の規制を行っているのは日本だけである(※携帯電話が受発信する電波は極めて微弱で、だから中継基地を広く張り巡らす必要がある。最近地下鉄の車内でも使えるようになったが、かつては電波が受発信できないくらい携帯電話の電波は微弱なのである。もし携帯電話が受発信する電波が心臓ペースメーカーに悪影響を与えるのなら、障害物がなければ日本海まで届くスカイツリーから出しているテレビ電波の心臓ペースメーカーに与える影響の方がはるかに大きいはずだ)。
 心臓ペースメーカーが、携帯電話の電波でダメージを受けるほど脆いものだったら、心臓ペースメーカーを体内に入れている人はコンクリートで囲まれた部屋から一歩も出ることができなくなるはずである。だから、私は交通機関内での携帯電話やスマートフォンの必要以上の規制は全く意味がないと、何度も国土交通省や民営鉄道協会に電話で申し入れ、電話に出た方は私の主張に分があることは認めたものの、「検討させていただきます」という返事が返ってくるだけで、実際に検討に入った様子はうかがえない。
 しかし、「悪法といえど法は法」と同じで、「無意味なルールといえどルールはルール」である。悪法は「悪法だ」と訴える自由はあるし、また国民の義務として訴えるべきだ。同様に携帯電話の規制は実際、無意味なのだが規制が解かれていない間はルールを守るのがマナーである。そのマナーを平気で無視し、私が注意しても知らんぷりをする若者を見ると、やはり体罰は必要だと思わざるを得ない。
 なかにはこういうケースさえあった。座席がいっぱいで、私も立っていたバスに杖をついたお年寄りが乗ってきた。で、優先席に平気な顔をして座っていた30台と思しきサラリーマン風の男性に「席を代わってあげていただけませんか」とお願いしたら「ここは専用席ではないでしょう」と反論が返ってきた。子供や妻にさえ暴力をふるったことがない私だったが、このときは本気でぶん殴ってやりたくなった。バスの優先席は運転手席のすぐそばにあるので、運転手に「このバカ者に優先席と専用席、一般席の区別を教えてやってください」と申し入れ、運転手も「その席は高齢者や障害者などのために用意されている席です。そういう方がいらっしゃらない場合はお座りになっても構いませんが、高齢者などが乗ってこられたら代わってあげてください」と声をかけ、周囲の乗客たちも「そうだ、そうだ、代われ、代われ」と声を上げたので、その若者はしぶしぶ席を立ったが、こんな連中を甘やかしてきた責任は家庭にあるのか学校教育の在り方にあるのか、それを私は問いたい。
 もちろん、スポーツ能力や学力が体罰で向上したりするわけがなく、とくにスポーツで体罰による指導が従来一般的に行われてきたのは、日本の伝統的な精神主義にあることを私はブログで何度も書いてきた。たとえば「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」などという非論理的な精神論が、日本の伝統的な武術稽古の流れを左右してきた。その流れが、日本の伝統的なスポーツである柔道や剣道、相撲などに継承され、さらに海外から入ってきたスポーツ指導にも
波及していったのである。そうした経緯を理解しないと、ただ倫理観だけで「体罰はけしからん」と言っても、スポーツ指導者が混乱するだけである。混乱状態はどういう形で現れるかというと、選手や部員を甘やかすという、振り子の原理がもろに出ることが目に見えている。ではどうしたらいいか。
 まずこれまでの指導方法を根底から見直す必要がある。と言っても、現在の指導者たちに自分たちの指導方法のどこが間違っていたのかという原因を究明させることは、はっきり言って不可能である。
 日本のスポーツ指導の在り方を根本から変革するには、アメリカやフランスなどに指導者を派遣してスポーツ指導の方法を学ばせることが大きな意味を持つと思う。私はスポーツ界の事情はほとんど知らないので、私が知っている情報の範囲でしか書けないのだが、まず柔道については、今や日本のお家芸ではなくフランスのお家芸になってしまった。柔道はもちろん嘉納治五郎が世界中に広めたのだが、フランスはどういう指導方法で世界に君臨する柔道王国を築いたのか、彼らの指導方法を徹底的に学ばせることだ。またアメリカでは団体スポーツの野球の指導方法を学ばせる。元巨人軍の桑田投手もPL学園時代、相当しごかれたようだが、「体罰は私の技術向上に何の役にも立たなかった」と証言している。プロの世界で一流を極めた人のこの言葉は重い。アメリカでは科学的指導法を行っていると聞くが、指導者が自らアメリカで、その科学的指導法を学ぶことによって、効果を検証する必要がある。そしてフランスやアメリカで学んできた指導法を自分が属する世界だけでなく、他のスポーツ界にも波及させる必要がある。また日本にいても学べる方法がある。サッカー界だ。スポーツそのものも国境の壁を超えているが、指導者も世界を股に渡り歩いている。日本のチーム(日本代表も含め)にも海外から指導者を招いているケースが少なくない。サッカーで、選手や部員に体罰的指導を行っているという話は聞いたことがない。
 結論的に言うと、人間性を育てるための、ある程度の体罰は必要である。だが、人間性を育てるためと言いながら、実は自分の感情を抑制できず体罰を行うことは厳に慎むべきだ。
 スポーツ技能向上のための指導においては、体罰は何の意味も持たない。選手や部員に恐怖心を植え付けるだけだ。もちろん一般の学問の分野での能力向上も同じである。
 もとろん精神力がある程度、能力の発揮(向上ではない)に影響することは確かである。スポーツではなくても、一般的な学問の分野においても、普段ならすらすらとけるような問題が、たとえば入学試験などでは上がってしまって頭の中が混乱してしまい、本来持っているはずの能力を発揮できなくなってしまうケースもある。
 野球でも、通常の打率とは別に「得点圏打率」という指数がある。走者が2塁や3塁の得点圏にいるときの打率は、一般的には通常の打率より高くなるのだが、逆に低くなったり、ほとんど差がなかったりする選手もいる。得点圏に走者がいる場合は、はっきり言って投手のほうが不利になる。「打たれたら点を与えてしまう」というプレッシャーもかかるし、走者の動きにも気を使わなくてはならない。とくに走者が3塁にいる場合は、投手はワンバウンドしてワイルドピッチになる確率が高いフォークボールは投げづらい。精神的には投手のほうがはるかに打者より不利だ。が、そういう打者にとっては絶対有利な場面で、かえって萎縮してしまい、チャンスをものにできないバッターもいる。そういう選手はしばしば「チャンスに弱い」と言われるが、「何が何でも走者を返さないと」と、投手以上に精神的に追い詰められてしまうタイプの選手である。そういう選手には、どんなに素質があっても、チャンスが回ってくる確率が高いクリーンナップは任せることができないと監督は判断せざるを得ない。
 投手についても同じことが言える。たとえば中盤までほとんど走者を出さず、絶妙なピッチングをしていた投手が、たった1球のきわどい球をボールと判定されフォアボールで歩かしてしまった途端、それまでの好投はなんだったのかと思えるようにガタガタっと調子を崩してしまうケースがある。これもピンチに弱いケースで、やはり精神力の弱さによると考えていいだろう。
 では、そういう選手の精神力を鍛えるために体罰を加えたら効果があるか。ありっこない。その「ありっこない」ことをやってきたのが、これまでのスポーツ指導の方法だったのである。精神力の強弱は、ある程度持って生まれた要素であり、精神力を高める方法は、少なくとも今はない。スポーツ選手によっては、オフシーズンに禅寺にこもって精神修行に励む人もいるが、効果が明らかであれば、精神修行は爆発的にはやるはずだ。また精神力を強化する、と称するノウハウ本もこれまで何冊も出版されており、爆発的に売れた本もあるが、一時的な現象で終わっている。まして体罰で心の問題を解決できようわけがなく、また体罰でスポーツ能力にせよ、一般的な学力向上にせよ、成功するわけがないことくらい子供でも分かる話だ。それなのに、スポーツ指導者が体罰に走るのは、精神力を鍛えるという口実のもとに、実際には自分の指導力の未熟さを選手や部員に責任転嫁しているだけである。「体罰はいけない」という道徳的な反省だけで終止符を打ったら、日本のスポーツはただの遊びになってしまう。もちろんただの遊びだけでスポーツを楽しむ人も少なくなく(むしろ大多数がそうだろう)、遊びは遊びの世界でのルールやマナーが重視されなければならない。たとえば私はフィットネスクラブでいろいろなレッスンに参加しているが、それぞれ参加するレッスンには目的を持って参加している。たとえば水泳ではクロール、平泳ぎ、背泳ぎのレッスンに参加している。レッスンに参加するようになった理由は、私が子供のころに教わった泳法と、今の泳法は天地がひっくり返るほど違っており、最初のころは子供時代におぼえた泳法で勝手に泳いでいたが、ふと隣のコースで行っていたレッスンを見て興味を感じたのがきっかけだった。たとえば、平泳ぎでいえば、昔は泳いでいるときは顔を水面上に出して常時呼吸をしながら「カエル泳ぎ」のようなスタイルで泳いでいた。ところが今の泳法は、呼吸をするときしか顔を水面上に出さないし、手のかき方、キックの仕方、ターンの仕方に至るまで全く違うのである。私に言わせれば、天地がひっくり返るほどの差異を感じた。水泳のレッスンに参加するようになったのは、それからである。
 スポーツをする目的は、当然人によってそれぞれ異なる。それを同一の目的にしようというのが許されるのはプロの世界だけである(アマチュア競技であっても、オリンピックや世界選手権出場を目指す競技に関してはプロと同一視してかまわない)。だが、そのためには体罰を使っても許されるというのは理屈が通らない。まして、桜宮高校のように、キャプテンだからと、他の部員に対する戒めを目的として体罰を行うのは、もはやスポーツ指導の域を超えて刑事事件の対象となる「暴力行為」である。
 私はこのブログの冒頭で、体罰の全否定論者ではない、とお断りした。ということは、体罰を行う以外教育指導の目的を達成できないケースもある、と私は考えている。バスの中での出来事については、このブログで書いたが、少子高齢化に歯止めがかからない中で、子供に対する厳しいしつけを家庭が放棄しているからさまざまな問題が生じている。学校の教諭・教師には重たい荷物を背負わされることになるが、学校は学問を教えるためだけの存在ではない。子供といえど、家や学校から一歩出れば社会の中で生活することになる。だとしたら、社会の中で生活して行くためのルールや、弱者に対する思いやりの気持ちの尊さ、自由・権利・義務・責任の相互関係を認識させることなども、これからの学校教育の重要な課題となる。そういう目的を達成するための、たとえば「いじめっ子」に対する体罰は、口で言っても効果がない場合はあえて行う必要がある、と私は考えている。つまり、自分自身が痛い思いをすることによって、自分がいじめてきた子の気持ちをわからせることは教育方針の一環として必要だと、私は思う。もちろん、そうした目的の体罰であっても、許容される体罰の限界はあるが。
 読者の皆さん、もう一度「体罰の是非」について、いったん頭の中を空っぽにして考えてみませんか。日本の将来を担う子供たちを、担える人間に育てるために、どういう教育方法が必要かを……。そして東京オリンピック開催決定を単純に喜び祝い合うだけでなく、オリンピックを契機に日本の体育指導法を根底から覆す機会にすべきではないかということを……。
 


 
























































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































++

社説読み比べ――消費税増税問題になぜ朝日新聞と産経新聞は沈黙するのか。

2013-09-06 04:56:35 | Weblog

 安倍首相は今月中に結論を出すらしい。もちろん14年4月から予定されている消費税率3%のアップを予定通り行うか、それとも先送りするかについての結論のことである。
 政府は消費税増税の是非について広く有識者から意見を聞くための会議(集中点検会合)を設置して、いろいろな立場からの意見を集約するため60人という、この種の有識者会議としては異例とも言える人たちから意見を聴取した。
 日本はこれまで2度にわたって消費税を課税・増税してきた。最初に消費税を導入したのは1988年の竹下内閣時であった。その時の消費税率は3%で、導入理由は「他の先進国に比べ日本の累進課税率(所得税プラス住民税)は高額所得者に対して苛酷なまでに厳しすぎるため課税率を低減化したい。そのために生じる税収不足を消費税で幅広く徴収して補いたい」ということだった。
 戦後の日本は基本的に占領下において導入されたシャウプ税制の考え方を踏襲してきた。シャウプ税制の大きな特徴は、複雑だった日本の税制をできるだけ簡素化し、かつ荒廃した戦後経済を回復するため所得の格差をできる限り縮小することで、高額所得者の税負担を重くする一方、低所得者の税負担を軽減化して内需が拡大するような税制にすることで経済の復興を図ることにあった。このシャウプ税制の基本的理念を、消費税増税を論じる場合、いま一度考慮する必要があるのではないだろうか。
 戦後の日本経済の世界史的奇跡とまで言われた復興をもたらした要素はどこにあったのか。専門家と称する経済学者たちは朝鮮特需(朝鮮戦争による特需)や池田内閣の所得倍増計画を上げる方が多い。あるいは吉田内閣の経済政策である傾斜生産方式(当時の日本の二大基幹産業であった鉄鋼業と石炭産業に重点的に財政出動し、この二大基幹産業を軸に周辺の産業への波及効果を期待した政策)を重視する経済学者もいる。そういう経済学者はかなり見識のある方と私は評価している。 
 ただ、私が知る限り、戦後経済復興にとって最大の効果を発揮したのはシャウプ税制にあったと考えている経済学者はいない。もちろん経済政策としての傾斜生産方式や、偶然の幸運としか言いようがない朝鮮特需を私は無視しているわけではない。まず吉田内閣の傾斜生産方式で日本の基幹産業が立ち直っていなかったら、日本は朝鮮特需にありつけなかったであろうし、日本の奇跡的な経済復興も不可能だったかもしれない。だが、朝鮮特需で復興への足掛かりをつかんだ日本が、それを足場に着実に回復への道を歩めたのはシャウプ税制によって所得格差が「世界一少ない国」と言われるほどに縮まったことによって、低所得層の購買力と購買意欲が爆発的に拡大して内需が一気に増大したことが、高度経済成長の連鎖を生んだというのが戦後経済史を語る場合の基本的視点に据える必要があると考えている。
 では池田内閣の所得倍増政策はなんだったのかということになる。私に言わせれば、「アジビラ的スローガン」以上でも以下でもない。池田首相は所得を倍増させるための具体的政策は何も実行していないからである。「所得倍増」をスローガンにした人が「貧乏人は麦を食え」とか「中小企業の一つや二つ潰れても」などと言えるわけがないはずだからである。池田首相は、官公庁が高速道路などの公共事業の予算を要求する際に需要を過大に見積もり、結果的に大幅の赤字事業を増大させたのと同様の手口で、過去のGNP(※当時の国民総生産の呼称。いまはこの概念はなくなり国民総所得としてGNIという呼称が使われるようになっているが、一般的には国の経済力を示すGDP=国内総生産を経済指標として使うのが通例になっている)の増加傾向から導き出した経済予測を「所得倍増計画」と向こう受けするスローガンに仕立て上げただけである。そんな計画が予測道理に実現したためしはない。実際池田内閣の「所得倍増計画」は見事に失敗した。
 経済学者の100%が「池田内閣の所得倍増計画は大成功だった」と考えているが、そういう思考力の持ち主が大学の経済学教授になっているのだから、嘆かわしいとしか言いようがない。
 実際にはGNPは池田首相の予測を超えて「計画」の半分の期間で倍になった。私に言わせればイギリスのブックメーカーの賭け率が事前予想の倍になったという程度の話に過ぎないのだ。
 現になぜ池田内閣の予測が外れたのかの経済学的検証した学者は私が知る限り一人もいない。もしいたとしたら、「所得倍増計画」は計画と言えるようなものではなく、単なる予想でしかなかったことが分かったはずだからである。その予想が、たまたまいい方に外れたというだけの話で、だから池田内閣の所得倍増計画の検証作業はだれもしていない。否、検証しなければ、という単純な発想すら日本の経済学者は持っていないようだ。再び言うが、嘆かわしいの一言に尽きる。
 いずれにせよ、日本が壊滅的な打撃を受けながら、戦後急速に経済復興できた大きな要因の一つに「世界一所得格差が少ない国」と言われ「社会主義経済のモデル」とまで評された、高額所得者にとってはきわめて過酷な累進課税制度があったことは疑いを容れない。それに戦後の国際経済がドルを基軸通貨とした固定相場制によって、日本が経済復興を遂げていながら終戦直後に決められた1ドル=360円という、日本の輸出産業にとって最高に恵まれた状況が長く続き、その恩恵を輸出産業がモロに受けてきたことが日本人の所得を増大させ、内需が倍々ゲームさながらに拡大していったことも大きな要因の一つである。
 もちろん、そのほかにもたとえば航空機の開発・生産がGHQによって禁止され、航空機の開発に携わっていた技術者たちがいっせいに自動車開発に移ったことをはじめ、戦前戦中の軍需産業の技術者が民需商品の開発研究に転向したことも民需商品の性能・品質でいち早く世界のトップレベルに到達できたこと、GHQが「個別的自衛権までは否定しない」と言っていながらマッカーサー総司令官の意向を事実上受け入れて日本の軍事力を完全に解体し、結果的には国家の財政出動を民需産業に100%振り向けることができ、GHQの占領政策の誤りに気付いた米政府がその後日本に再軍備を何度か要請しても吉田首相が頑として首を縦に振らず、経済再建に総力を傾注したことなど、細かく検証していけば日本が奇跡的な経済復興を成し遂げることが可能になった複合的要因が明らかになっていくが、その検証作業は私の視点で専門家の経済学者のどなたがやっていただければいい。
 いずれにしても消費税問題を考える場合、近視眼的視点で考えるのではなく、少子高齢化に歯止めがかけられない状況の中で、私たちの子孫に付けを回さず私たちの世代で解決への基礎だけは固めて置く義務が、私たち世代にはある、という視点から、改めて野田総理が政治生命をかけた「税と社会保障の一体改革」をどう実現していくのかという視点を軸に考えなければならない。
 だからといって、私は消費税増税の3党合意を何が何でも守れと言っているのではない。日本という国の形を私たちの子孫に安心して受け継いでもらえるよう、消費税増税だけでなく社会保障を支えるための税体系の全般的見直し、TPP交渉を成功させるために何を犠牲にして何を国益として守っていくかの政策、憲法改正問題など山積する課題を複眼的視点から見据えながら消費税問題も考えるべきだと言いたいだけなのだ。
 現段階(このブログを書いている今日は9月1日。したがって投稿するまでに追記していくと思う)では、社説で消費税問題を取り上げているのは読売新聞(8月31日)と毎日新聞(9月1日)だけである。
 まず読売新聞だが、主張の是非はともかく書き方にはかなり好感が持てるようになってきた。かつての「何様だと思っているのか」と言いたくなるような傲慢さがかなり影をひそめてきた。その分、読んでいて不快感が増幅するようなことはなくなってきた。
 さて同紙の主張だが、要するに「来春の増税は見送り、15年10月に一気に10%の増税すべきだ」と提案している。実は私も2段階引き上げには疑問を持っていた。零細小売業者はその都度レジのプログラム変更などの経費負担が増えるだけだし、消費者が2段階引き上げを認めるかどうかの不安をぬぐいきれないからである。おそらく大手小売り御者は消費税込みで最初から5%分値上げして2回目の増税分は織り込み済みにする可能性が高いと思う。そういう意味では読売新聞の、2段階引き上げではなく一気に5%増税案には私も賛成するが、問題はどういうタイミングで増税するかである。
 そもそも消費税増税の2段階引き上げは民主党政権下での3党合意で決定したことだ。したがって、その案を撤回して14年4月の増税を見送り15年10月に5%増税に変更するなら、まず民主党の同意が必要である。民主党がその案を簡単に呑むかと考えると、容易なことでは説得するのは難しい。私が民主党の立場なら、政権をとったら約束を簡単に反故にするような政府に今後一切協力できない、と反発する。そうなると、TPP交渉をはじめ山積している課題が何一つ国会での審議が進まないということになりかねない。読売新聞の論説委員はそこまでは頭が回らなかったようだ。
 今回の消費税増税に限らず、重要法案をスムーズに成立させるには、最大野党に対する十分な根回しと、野党のメンツも立てる道も用意しておく必要がある。ところが民主党では先の参院選の最大の戦犯であるはずの輿石氏が事実上の最高権力者としての地位を維持しただけでなく、連合勢力の影響力がかえって増大する(議員総数ではなく、議員総数に占める連合系議員の比例)という結果を招いただけである。与野党の対立はむしろ激化すると考えた方がいいだろう。
 そうした状況下で、消費税増税を先送りするのであれば不足する財源確保については、ある程度民主の要求(どんな要求を出してくるか、まったくわからないが)を相当部分丸呑みする覚悟が必要になる。
 それはともかく、読売新聞が主張する来春の増税を先送りすべきだとする根拠が理解できない。そもそも読売新聞は3党合意に賛成していた。3党合意はデフレ不況の真っ最中で、増税できるような状況ではなかった。失業率も過去最高を更新し続けており、それでも私たち世代が作ってきた(もちろんその最大責任は政府と官公庁にあるが)巨額の財政赤字を、少子高齢化に歯止めをかけられない状況下で子孫に付け回すべきではないという苦渋の選択だったはずだ。もちろん消費税だけで財政赤字を穴埋めできず、国家公務員の給与削減、地方港公務員にも給与削減の要請をする、公共工事の大幅削減などそれなりに財政赤字を埋める手だても講じてきた。
 安倍内閣のデフレ脱却のための経済政策「アベノミクス」は3本の矢からなる。第1の矢は大胆な金融緩和による円安誘導だが、一時的には効果を発揮して円安・株高になったが、今はシリア情勢の不安定化などで原油価格が高騰、円高・株安に転じている。読売新聞はこう主張する。
「日本経済の最重要課題は、デフレからの脱却である。消費税率引き上げで、ようやく上向いてきた景気を腰折れさせてしまえば元も子もない」と。
 だが、経済は日本一国だけの事情でどうなるこうなるというものではない。不安定要素はいつでもある。確かにアベノミクスサイクルが定着したとは言えないが、「税と社会保障の一体改革」も待ったなしの状況にある。15年10月まで増税を先送りすれば、状況がよくなるという保証はまったくない。現に2010年12月に生じたジャスミン革命によってチュニジアで民主化革命が成功したのを契機に、民主化運動がアラブ全土に広がり(いわゆる「アラブの春」)、エジプト、リビア、イエメンと次々に政権が打倒されたが、一連の民主化の流れによりアラブ諸国の経済活動は一時的に大混乱に陥り、エジプトではクーデターによって軍部が政権を握って現政権派と大統領派の衝突が繰り返され、シリアでは政府と民主化勢力の衝突で、国連が禁じた化学兵器を政府側が使用したと米オバマ大統領が激怒して武力介入の構えを見せている。そうした状況を見据えたとき、果たして15年10月まで待てば日本経済のデフレ脱却が確実になり、消費税の5%大幅増税が可能になるという根拠を読売新聞は持っているのか。かえって不安定要素が増大している可能性を考えたことはないのか。
 どのみち不安定要素は常にある、という前提で考えれば与野党間の協力体制が崩壊するリスクを冒してまで増税を先送りする方が、政局の安定を欠き不安定要素がかえって増大し、アベノミクスの前進にブレーキがかかる可能性のほうが高くなるのではないか、と私は考える。どのみち読売新聞の論説委員室全員が総力を挙げても私一人の頭脳には勝てないことがこれまでに証明されており、もう少し論理的思考力に磨きをかけてから独自の主張をするならした方がいい。
 それより私が昨年末に投稿したブログ『今年最後のブログ――新政権への期待と課題』をベースに、消費税にとどまらず税体系の抜本的見直しに着手することを政府に提言された方がよほど説得力がある。
 それに15年10月に消費税を10%に引き上げる際の条件として「軽減税率を導入し、コメ、みそなどの食料品や、民主主義を支える公共財である新聞を対象とし、5%の税率を維持すべきだ」という主張は、エゴ丸出しとしか言いようがない。食料品への軽減税率適用はヨーロッパ方式をまねろと言っているにすぎないが、ヨーロッパが消費税(付加価値税)を導入した時代と現代は課税方法の技術進歩がまるで違う。
 たとえば別の例で証明するが、NTTは躍起になって従来のメタル回線からひかり回線への転換を進めようとしている。日本列島を縦断するひかり幹線を設置したのはNTTが民営化される30年以上前だが、当時の計画は通信量がますます増大すると考えられていた時代のことで、少子高齢化で通信量が減少することや携帯電話の普及で有線通信より無線通信のほうが需要が拡大することは想定外だった。が、日本列島縦断のひかり幹線が完成したあとNTTが始めたのは企業や家庭へのひかり回線の普及だった。インターネット時代の到来をチャンスと考えたのである。
 確かにパソコンに搭載されていたメモリの容量がキロ時代のことで(初期のXPまで)、今は4メガ、8メガが標準になっている。メモリの容量がそこまで増大すると、従来のメタル回線でもひかりと変わらない速さでインターネットができる。私は12メガのADSLを利用しているが、動画もきわめてスムーズで、コマ落としのような状態にならない。自分たちの世界のことしか視野に入れずに事業方針を決めるとそういう失敗を犯すことになる。
 私がひかりを例に出したのは、食料品をいまのIT技術を活用すれば、高級品と普及品に税率格差をつけることは赤子の手をねじる以上に簡単なことだということだ。たとえば牛肉でいえば4等級以上は消費税10&、3等級以下は税率5%にするなどといった課税格差をつけることはいとも簡単なことである。ヨーロッパが食料品を一律に低減税率にしたり非課税にしたりした時代は、高級品と普及品に課税格差をつける方法がなかったからだけに過ぎない。頭の悪い人がヨーロッパ方式を導入したほうがいいと考えるとNTTと同じ失敗をする。
 さらに自家撞着も甚だしいのは「民主主義を支える公共財である新聞」も5%に抑えろという主張だ。読売新聞に限ったことではないが、新聞は自ら民主主義を実行しているのか。新聞はすべて読者の投稿欄を設けているが、自らの主張に対する読者の批判的投稿を掲載したことが一度でもあるか。ヨイショの投稿しか掲載しないではないか。反対や批判の意見は一切封殺する、それが「民主主義を支える公共財」と胸を張って言えるのか。
 そういう批判をすると間違いなく返ってくる反論は、「読売新聞の主張に反対なら、ほかの新聞をとれ。どの新聞を購読するかの自由は読者側にある」と。では聞くが、読売新聞の社員は共産党のように一枚岩なのか。主筆の考えに批判的な社員はクビなのか。社内に発言の自由はないのか。もしそうでないなら、なぜ読者の意見に紙面を平等に割かないのか。言うこととやっていることがさかさまなことを「自家撞着」という。言葉の使い方を知らない自称ジャーナリストに教えておく。
 また本当に国家財政の悪化を真剣に憂うなら、読売新聞は特別消費税20%にして読者負担は据え置く、その代わり社員の給与は大幅カットし、企業年金も廃止する――そう宣言したら、読売新聞の購読率は一気に跳ね上がる。
 そもそも、若い人たちの活字離れに少子高齢化が進行して新聞の購読者は激減している。読売新聞も朝日新聞もペーパーの減少を補うため、最近は電子版に力を入れているが、コストがほとんどかからない電子版を高額にするのはなぜか。新聞購読者にはデジタル版を低額にしているが、新聞を購読するとネット配信のコストが安くなるとでも言うのか。そういうやり方で自分たちと販売店の生き残りを図ろうとしている自分勝手な金儲け主義の新聞がなぜ公共財なのか。今年の猛暑で何人のお年寄りが熱中症で亡くなられたか。高齢者が購入するエアコンの消費税は非課税にすべきだと主張するなら、おそらく反対するのは読売新聞以外にないだろう。「新聞は別格だ」という思い上がりは、キャリア官僚以上だ。ふざけるのもいい加減にしろ。
 つい、怒りが爆発したが、そういう思い上がりの精神が、読売新聞だけでなく日本の新聞の独りよがりを生んでいることだけは間違いない。そもそも戦中の報道姿勢についてしおらしく反省しているかのごとき主張をどの新聞もしているが、そもそも日本国民を軍国主義思想一色に染め上げてきたのは日清・日露戦争時の新聞報道ではなかったか。そのことをすっかり忘れたかのような顔をして、先の大戦で軍部に屈したかのような「反省」面をしても、国民は騙されない。先の大戦の最大の戦犯は軍部ではなく、日本中を軍国主義一色に染め上げてきた新聞社だ。そのことを忘れるな。
 新聞を特別扱いにするなどとんでもない話だが、消費税増税の最適な時期は神様に聞いても多分わからないだろう。1989年4月の竹下内閣時の初導入(3%)も、97年4月の橋本内閣時の増税(5%)の時も国民の反発は大きく、解散に追い込まれている。その当時に比べれば、現在は国民が消費税に対する拒否反応は世論調査によれば激減している。少子高齢化に歯止めがかからない状況の中で、社会保障を招来にわたって確実なものにしていくためには多少の負担増はやむを得ないと理解している国民のほうが多い。そのことも含めて増税時期は決めるべきだろう。
 確かに直近の状況を見れば、シリア情勢もあって原油が高騰し、円安とのダブルパンチで原材料の大半を輸入に頼っている加工食料品は大幅に値上がりしている。皮肉なことにこうして日本経済はデフレから脱却してインフレに入りつつあるが、その結果消費者の購買力は当然減少する。「脱デフレ」を読売新聞は錦の御旗のように掲げているが、経済活動はそんなに単純ではない。インフレ=景気上昇、という単純な図式で考えていると、とんでもない間違いを犯すことになる。むしろ国民の理解が得られているときが増税の最大の好機だ。かえって増税時期を早めた方がいいかもしれない。そういう可能性も視野に入れて増税時期を早く決めるべきだろうと思う。
 次に9月1日の毎日新聞の社説である。毎日新聞は読売新聞と違って増税時期についての主張はしていない。ただ、増税についてはヨーロッパ型の制度設計を主張しており、読売新聞と共通する点もある。
 両紙に共通しているのはヨーロッパを例にとり、新聞の軽減税率を要求していることだ。毎日新聞は新聞に加えて書籍、雑誌も軽減対象に加えている。毎日新聞によればイギリスが73年に付加価値税を導入したときからこれらにはゼロ税率を適用しており「知識には課税しない」という考え方が根付いているという。日本新聞協会も新聞への消費税増税に反対の声明を出しており、他紙が社説で読売新聞や毎日新聞と同様の主張をするかどうかはまだわからないが、立場としては横一線とみられるので、果たして新聞だけを特別扱いにすべきか否かについて検証しておこう。
 まず新聞業界は今大変な苦境に追い込まれていることを事実として考察する必要がある。一般市民への情報提供の手段は江戸時代の「かわら版」を嚆矢とするとされている。個別の配達ではなく、いわば有料号外のような形で人通りの多い街角で販売されていた。現在のような配達制度が始まったのは明治に入ってからである。当時は一般市民が情報を入手する手段は新聞しかなく、江戸時代から識字率が世界でも抜きんでていた日本では爆発的な新聞ブームが巻き起こった。当時は新聞の輸送手段が限られており(輸送手段は鉄道だけだった)、地方紙が全国各地で生まれていった。地方紙が今でも細々とではあるが生き残れているのは、各地方独自の文化や伝統を継承してきたことと、通信社(共同通信や時事通信。世界主要国の通信社が世界中に発信しているニュースは共同通信や時事通信が再配信している)があらゆる分野の情報を配信しているからである。
 スポーツ紙を除くと、全国紙5紙の中で独自の販売戦略をとっていたのは日本経済新聞だった。他の4紙が戸別配達に力点を置いて購読者の拡大を図ってきたのに対し、日本経済新聞はスタンド販売に力点を置いてきた(最近は戸別購読者の獲得に力を入れているが)。私が30~40代のころ、電車で新聞を広げる人たちの大半は日本経済新聞かスポーツ紙だった(朝の通勤時間帯。午後は夕刊フジや日刊ゲンダイのようなスキャンダル紙が多くなったが)。新聞を読まない人たちは文庫本かウォークマンでカラオケのための曲を繰り返し聞くのが通勤電車内の風景だった。
 通勤電車内の風景が一変したのは1980年代後半からである。漫画ブームが一種の社会現象になり、いい年をした大人が顔を赤らめることもなく『少年ジャンプ』や『サンデー』『マガジン』をむさぼるように読む(?)風景が当たり前のようにみられるようになった。今さら愚痴を言っても始まらないが、私を失業者に追い込んだのは彼らだった。
 漫画ブームが生じた背景には、ファミコンが生み出したテレビゲーム文化の浸透にあった。当時は携帯ゲーム機はまだ生まれていず(コンピュータ技術がまだ発展途上にあり、携帯ゲーム機の開発は不可能だった)、家庭でテレビゲームで育った子供たちが社会人になってゲームの代用品として漫画に飛びつき、それが燎原の火のごとく中年層にまで拡大したのだった。かくして多くの子供たちが将来の漫画家を目指すような時期が生じたが、それも一瞬の花火的なものでしかなかった。いま、私を失業させた漫画家たちが失業者になっている。
 漫画ブームは桜の花のようにパッと開いてパッと散ったが、漫画ブームを終焉させたのは携帯電話にiモードが搭載されたことによる。それまでの携帯電話は会話が目的で開発されたが、iモードが登場することにより携帯電話でインターネットやメールを楽しむ時代が到来したのである。と同時に携帯電話の開発競争の力点が小型軽量化から高画質化に移っていった。
 当時の日本のインターネットは定額制ではなく、電話料金と同じ通信時間料金体系だった。NTTが独占していたためでもある。そのことに疑問を挟んだジャーナリストは多分私が最初だったと思う。私が半ば失業状態になっていた1997年9月に光文社から上梓した『ウィンテル神話の嘘』のあとがきで私はこう主張した。

 パソコン通信を過去のものにしてしまったのは、第五世代のインターネットである。インターネットに接続してほしい情報を手に入れたり、ホームページを開いて自分の情報を不特定多数に提供できるようになった。このマーケットの出現は、今までの世代を通してパソコンに最も劇的なインパクトを与えた。だが、ここで大問題が生じた。いまの電話料金体系だと、日本は完全にインターネット時代の波に乗り遅れてしまうからだ。
 いまの電話料金体系は、市内と市外の体系に大きく分かれ、市内は3分間10円である(公衆電話は1分間10円だ)。つまりインターネットを使えば使うほど通信コストが膨大なものにつくのである。 
 アメリカは違う。マンハッタンとイリノイ州を除く大半の地域はフラットレート方式を採用している。基本料金は州や都市によって多少のバラツキはあるが、平均して月15ドル前後(日本円換算で約1700円)。この基本料金を払えば、市内電話は何回かけようと何時間かけようと、原則として通話料はタダだ。
 電話だけだった時代は、交換機が十分に対応できたが、パソコン通信やインターネットは何時間も電話回線を占領してしまうため(※当時はパケット方式がまだ発明されていなかったためパソコン通信は現在のメールとは違う)、とくに大都市にある電話局の交換機がいまパンク寸前になっている。そのため地域電話会社は何とかして基本料金プラス回線使用料をとろうとしているが、アメリカ市民のほうは既得権利だと反発し、妥協点が見つかっていない。
※アメリカは日本の旧電電公社が民営化された時、東日本と西日本に地域分割され(NTT)、さらにフリーダイヤルやナビダイヤルを全国規模で担当するNTTコミュニケーションズに3分割されたが(ドコモはNTTの子会社)、アメリカもそれに先立ち旧電電公社のように1社独占体制だったATTが遠距離通信を担当する新ATTと地域担当の小規模電話会社に分割されていたが、地域電話会社はその地域の独占状態になったが、独占事業も料金を自由に変えることができない。アメリカの自由競争主義は、独占権を付与された企業には消費者の同意がなければ勝手に料金を変えることができない。日本のマスコミはそうしたアメリカの自由競争社会における独占事業体に対する厳しい規制をかけていることを正確に報道していない。巨大な広告主に対する弱腰な日本のマスコミがなぜ「公共財」と自負できるのか。
 このフラットレート方式はアメリカのみの特殊な料金体系で、ヨーロッパは日本と同様、基本料金プラス通話料だが、大半の国の通話料は1回いくらで、時間は無制限である(※日本も私が学生だった頃は市内料金は1回単位で時間単位での課金制にはしていなかった)。
 実はNTTはこうした米欧の市内料金体系を調べていながら、社内に緘口令(かんこうれい)を敷いている。日本の利用者がそうした米欧の実態を知ったら、NTTに対する不満が爆発するのは必至だからだ。
 マスコミもだらしがない。大手のマスコミは海外主要国に支局を置いているし、少なくとも常駐特派員を世界中に派遣していて、海外の電話料金体系を知っていながら、NTTトグルになって隠している。情けない話だ。
 そこで私は提案する。
 パソコンを持っていない家庭の通話料金は今のままでいいが(かといって世界一高い電話料金を容認するつもりはないが)、パソコンを持っていてパソコン通信やインターネットを利用する人とは特別契約を結び、1通話30~50円で時間無制限にせよ、と。そうしなければ、インターネットの時代に日本は完全に取り残されてしまう。
 NTTや郵政省の中に、この程度のことが理解できる人がいることを期待したい。

 この本を上梓したのはインターネットが爆発的にブーム化するウィンドウズ98が発売される前年の97年9月、つまりインターネット時代の黎明期を開いたウィンドウズ95の時代だった。私がパソコンを初めて使いだしたのはウィンドウズ98が発売された以降だから、威張るわけではないが私の先見性が証明された一つの事例として明記しておく。なお韓国はまだ当時は発展途上の状態だったが、いち早くインターネットの重要性を察知して通信料金体系を大幅に変えた。そのため所得が低くパソコンを自前で買えない若い世代が低料金でインターネットを使い放題にしたネットカフェに殺到し、アメリカに次ぐ世界2位のインターネット大国にのし上がったことが、現在の韓国の先端工業製品が世界を席巻しつつあることの遠因になったと言えなくもない。
 いずれにせよ日本の新聞社が消費税増税で特別扱いを要求するなら、マスコミが果たすべき社会的使命を果たす体制を整えてからにしていただきたい。新聞がそれなりの社会的使命を果たすようになれば、若い人たちの新聞離れにもストップがかかるだろうし、日本の民主主義の成熟にも大きく貢献できるようになる。

 以上の文は9月1日に一気に書いたが、翌2日に日本経済新聞が社説を発表した。朝日新聞と産経新聞はまだだ。
 日本経済新聞の主張はさすがにいい線をいっている。経済問題に関する同紙の見識は朝日新聞と産経新聞は社説を書く際、大いに参考にしてほしい。日本経済新聞社には無断で全文を転記させていただく。ブログの読者にぜひ読んでいただきたいと思うからだ。日本経済新聞社説のタイトルは『消費増税の判断が遅れる影響は大きい』で、タイトルそのものは可もなし不可もなしといった感じだ。

 消費税増税の影響を検証する政府の集中点検会合が終わった。5%の税率を2014年4月に8%、15年10月に10%まで引き上げるかどうかの判断材料となる。
 安倍晋三首相は10月上旬までに引き上げ時期と幅を決めるが、予定が曖昧なままでは個人や企業も準備ができない。成長戦略や予算編成が遅れるのを避けるためにも、早く増税を固めるべきだ。
 6日間の会合では、各界の代表者60人に増税の是非を聞いた。景気対策などの条件付きも含めれば、予定通りの増税を支持する識者が大勢を占め、増税自体に反対する識者は少数にとどまった。
 増税そのものの必要性は認めるが、景気などへの配慮から時期や幅の修正を求める識者も目立った。①8%と10%に引き上げる時期をともに1年延期する②まず1%か2%、その後は毎年1%ずつ引き上げる③15年10月に一気に5%から10%に引き上げる――といった案が代表例だ。
 消費税増税は財政再建の重要な一歩だが、日本経済にある程度の負荷がかかるのは避けられない。「アベノミクスでせっかくつかんだデフレ脱却の芽をつぶしたくない」という声はあるだろう。
 しかし引き上げの時期や幅を修正すれば、財政収支の改善が当初の想定よりも遅れる公算が大きい。秋の臨時国会で新たな法律を成立させるのに手間取り、成長戦略の具体化を妨げたり、市場を動揺させるのが心配だ。
 小刻みの引き上げならば価格改定の手間がかかり、価格転化もしづらくなるとの懸念も出ている。こうしたリスクやコストの大きさを軽視することはできない。
 4~6月期の実質国内総生産(GDP)は前期比年率2.6%増と高めの成長率を維持し、7月の生産や雇用なども堅調だった。安倍政権は効果的な成長戦略の具体化にこそエネルギーを注ぐべきだろう。
 決断するのは早いほどいい。個人や企業は予定通りの増税を前提に、住宅や自動車などの購入・販売計画を立て始めている。無用な混乱を避ける配慮が必要だ。
 14年度の予算編成にも支障が出かねない。財務省が8月末に締め切った概算要求の総額は過去最大の99.2兆円となった。増税とその使途を確定させたうえで、水膨れした歳出に切り込まないと、財政再建の一歩を踏み出せない。

 消費税増税についての日本経済新聞の主張に文句は付けようがない。あえて付け加えるとしたら、少子高齢化に歯止めがかからない状況下で、消費税だけで財政再建や社会保障の水準維持を実現することははっきり言って困難だ。まして食料品など低所得者に打撃が大きい生活必需品を減税にすれば(※私がそのことに反対しているわけではない)、また近い将来消費税のさらなる増税を行わなくてはならなくなる。基本的に問題なのは、新聞社の論説委員たちが、まだIT技術が影も形もなかった時代に、やむを得ず作ったヨーロッパの付加価値税方式を金科玉条のごとくあがめていることだ。彼らの思考力の貧困さがよーく分かるではないか。
 現在だったら、IT技術を駆使すれば、同じ食料品でも富裕層しか買えない高級品と、低所得者が買う安い食料品を簡単に区別して税率格差をつけることができる。そういう中学生でもわかる方法をなぜ提案できないのか。そんな程度の思考力で、よくもまぁ「新聞は民主主義を支える公共財だ」などと胸が張れるのか。聞いて呆れるとはそういうことを言う。恥を知れ。
 食料品だけではない。衣食住のすべてに税率格差をつけるべきだ。そして富裕層にしか手が出せない高級品には30%くらいの高率消費税を課し、低所得者が買うような商品はすべて低率にすべきだ。一見画一的な消費税率(現行はそうだ)は公平のように見えるが、結果的には所得格差ではなく生活格差を拡大しているのだ。言っておくが、「生活格差」という言葉も考え方も私のオリジナルなものだ。別に商標登録などしないから自由に使用してくれてもいいが、私が作った言葉を捻じ曲げて使うようなことはしないでほしい。そういうことを勝手にする論説委員や佐高信とやら名乗っているエセ評論家がいるからね。

 とここまでは9月2日に書いたが、その後も朝日新聞と産経新聞は社説での主張はまだしていない(6日現在)。両紙は安倍首相が決断を下すまで主張を避けるようだ。現在掲載中のブログの閲覧者数も減少傾向に入ってきたし、私のほうも朝日新聞や産経新聞がいつ出すかわからない社説をいつまでも待つわけにいかない。で、今日このブログを投稿することにする。私の主張に読者がどう思われるかは、読者自身の消費税増税に向かい合う姿勢が問われる。