小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

皇位継承問題についての有識者会議は「皇室典範は違憲」と答申できるか?

2021-03-29 00:50:51 | Weblog
3月23日、皇位継承の在り方を議論する政府の有識者会議の初会合が首相官邸で行われた。
メンバーは男女3人ずつの計6名。その中から前慶應義塾長の清家篤氏(経済学者で専門は労働経済学)が座長に選任された。他のメンバーは大橋真由美(上智大法学部教授=専門は行政法)、冨田哲郎(JR東日本会長)、中江有里(タレント・作家)、細谷雄一(慶応大法学部教授=専門は国際政治史)、宮崎緑(千葉商科大教授=専門は国際政治学)の各氏。
これらのメンバーにケチをつけるつもりはさらさらないが、天皇の地位は憲法1条に「(天皇は)日本国民統合の象徴であり、この地位は、主権の存在する日本国民の総意に基づく」とあるのに、メンバーの中に法学者2人のなかに肝心の憲法学者が含まれていないのはどういうことか。皇位継承問題について憲法との整合性が問われるのを避けたいためか?
有識者会議の方々には、まず皇室典範と憲法との整合性を検証していただきたい。

●憲法と皇室典範の非整合性
現在の「皇室典範」は戦後の1947年5月3日、現行憲法の制定と同時に一般の法律として施行された。その第1章1条に「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」とある。いわゆる「男系男子継承」論の根拠であり、自民党に限らず日本会議の超党派会員議員が重視する保守的主張である。
一方、憲法24条にはこうある。

婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

 いわゆる「男女平等」の原則を定めた条文である。また憲法14条にはこういう規定もある。「法の下での平等」をうたった重要な条文だ。

すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

 皇室典範が定めている「男系男子の皇位継承権」と、憲法24条及び14条が定めている「男女平等」や「法の下での平等」との整合性を無視した皇位継承問題についての議論はいかがなものか。
保守派が主張するように、「男系男子継承は皇室の伝統」というなら、皇室典範の規定は明らかに憲法に違反している規定だから、憲法を改正して憲法24条及び14条の条文に「但し、皇族に関しては、この規定の限りにあらず」という但し書き条文を付記すべきだろう。あれほど自衛隊の存在を憲法9条に書き込むことに執着した安倍前総理が、憲法より一般法律の皇室典範を重視する根拠をまず明らかにしてもらいたい。
 さらに皇室典範を優先するにしても、ハードルは極めて高い。保守派は「男系男子」としか言わないが、皇室典範によれば皇位継承権は嫡出子(正妻の子)にしか与えられないことになっている。皇室典範がなかった時代は「男系男子」継承の伝統を守るために庶子(妾の子)も皇位継承権を持ったが、それでも出生順ではなく正妻に男子が生まれなかった場合の特例であり、現在の皇室典範は天皇と言えど妾を持つことは認めておらず、嫡出子にしか皇位継承権はない。保守派が「男系男子」としか強調しないのは、皇室典範という法律が認めていない庶子にも継承権を認めさせようという魂胆があるからか。
 言っておくが、一般法律は国会でいくらでも改定できるが、憲法の改定は衆参両院で3分の2以上の賛成と国民投票で過半数の賛成を得なければならないことくらいはご存じだろう。

●強大な抵抗勢力 「日本会議」
 各種世論調査を見ると「女性天皇」「女系天皇」の存在を支持する人の割合は70~85%に達している。また次期天皇として愛子さまを期待する世論も80%を超えている。なお、愛子さまが次期天皇になられた場合、愛子さまのお子様が天皇になる場合を「女系天皇」という(この場合は男女を問わない)。
 実際問題として「男系男子」を前提にした場合、現実的な継承者は悠仁さましかおらず、悠仁さまが次期天皇になられて男性のお子様が生まれなかった場合、皇統に属する男系男子嫡出子の皇位継承者は数百年さかのぼる必要があるようだ。もうとっくに民間人になっているし、そういう方を皇位継承者として私たちが、現天皇や皇族の方たちに抱いているような敬愛の念と「国民統合の象徴」としての信頼感を抱き続けることができるだろうかという根本的な疑問が生じる。はっきり言わせてもらえば、私には無理だ。
 国民の多くが望み、また憲法との整合性もとれるように「女性天皇」「女系天皇」を容認するように皇室典範を改正すればいいのだが、実はそう簡単にはいかない日本独特の政治事情がある。日本会議という政治団体の存在が大きいからだ。

 日本会議は「“誇りある国づくり”を目指し、美しい日本を守り伝える」ことを趣旨とする政治団体で、自民だけでなく維新や新立憲も含め国会議員の約4割を擁する超党派の一大政治勢力である。趣旨とする抽象的概念はとくに異を唱えるほどのことでもないが、同会議が掲げる具体的な政治目標はかなり復古的なものである。
 具体的には憲法改正、現行皇室典範維持、男系維持のため旧皇族の復帰(ただし女性宮家には反対)、選択制夫婦別姓阻止、先の戦争の評価に関する歴史教科書の記述問題(いわゆる「自虐史観」の否定)、総理大臣の靖国神社正式参拝などが主な主張である。ただ、安倍政権下における集団的自衛権行使を容認するための安保法制を日本会議が強く支持したため、旧立憲の会員がかなり離脱したようだ。
 この超党派の復古的政治団体が「女性天皇」「女系天皇」に猛反対しており、有識者会議のメンバーには日本会議系と目される人は含まれていないようだが、たとえ有識者会議が「皇室典範を改正し『女性天皇』『女系天皇』を容認すべき」と答申したとしても、国会で簡単に皇室典範の改正が行われるとは限らない。

●皇室典範こそ、日本最大のジェンダー差別規定
 復古派は「男系男子」を皇位継承の「伝統」と主張する。が、「女性天皇」自体は第33代の推古天皇に始まり、第117代の後桜町天皇まで10人を数えている。ただし、これらの女性天皇は本来の男系男子の継承者がまだ幼く、天皇としての地位に伴う権力の行使が可能になるまでの、言うならリリーフ役であった。だから本来の男系男子の継承者が成人したら天皇の地位を譲ってきた。
 が、それは皇族ゆえの特別な伝統というわけでは決してない。皇室に限らず、家父長制が日本の家族構成の基本だったからだ。たとえば、武家政治の原点を築いた源頼朝以降、将軍職は男系男子が継承するのが伝統であり、その原則は皇室以上に厳しかった。実際、足利、徳川と将軍職に女性が就いたことは一度もない。はっきり言えば、皇位継承の伝統なるものは、武家社会以下のいい加減なものだったのである。
 皇室を含む貴族社会や武家社会の男系男子継承の伝統は商家などにも引き継がれていた。それが家父長制度である。実際、徳川時代においては男系男子の継承者がいない大小名は例外なく「お家断絶」(取り潰し)の目にあっている。取り潰しを免れるための方策として「養子縁組」という欧米ではありえない方策も編み出された。 
実は私の母親も、小林家の分家の長女から本家の養女になった。父親はもともとは佐々木姓だったが、小林家に婿入りして小林姓になった。私は次男だったから、父系の佐々木家に男系男子の相続者がいなかったら、おそらく佐々木家の養子になり佐々木姓を名乗ることになっていただろう。だが、そうした継承関係は、せいぜい本家と分家の間くらいが限界だと思う。5代も6代もさかのぼって親族を探し出してまで男系男子と養子縁組することはありえない。そのため、正妻に男子が生まれなかったら、裕福な家は妾を囲って男の子が生まれるのを待った。
ただし、妾が男子を生んでも、その後に正妻が男子を生んだ場合は正妻の子が継承者になる。そうした優先順位は現在の相続制度にも反映されており、庶子の相続分は嫡子の相続分の2分の1でしかない。明らかに日本の法律はいびつである。
それでも一般人は自由恋愛の結果として婚外子が生まれた場合、庶子にもそれなりに権利が生じる。が、婚外性交は犯罪ではないが、皇族にはそうした自由がない。昔だったら男子が生まれるまで妾を囲うことができたが、現在の皇族にはそういう自由がない。
しかも、いまはジェンダー差別は憲法24条、14条の規定にも違反している。そういう観点から考えれば、男系男子にしか皇位継承権を認めていない皇室典範は明らかに憲法違反であり、ジェンダー差別の最たるものと言わざるを得ない。
憲法違反の法律である皇室典範を「皇室の伝統」なる虚構の論理を駆使して違憲状態を維持し続けるのか、それとも憲法との整合性を確保して皇室典範のジェンダー規定を改定するか、日本人の良識が問われている。有識者会議の方々は、そうした問題意識を持って皇位継承問題を考えていただきたい。
 
 





緊急事態宣言解除の目的は東京オリンピックのためか?

2021-03-22 00:40:57 | Weblog
21日、東京・神奈川・埼玉・千葉の首都圏を対象とした緊急事態宣言が75日ぶりに解除された。2か月半に及ぶ閉塞状況はとりあえず終止符を打つことになった。
菅総理が宣言解除を正式に発表したのは18日午後7時。この日、NHKは『ニュース7』枠を拡大し、『ニュースウォッチ9』まで含めて3時間にわたってニュースを続ける異例の体制を取った。
が、果たして宣言を解除できる状況まで、日本はコロナ禍を封じ込めることに成功したと言えるのだろうか。多くの専門家(感染症専門医)や国民、メディアは疑問をぬぐえないようだ。

●神奈川県・黒岩知事の判断ミスが招いた神奈川県の危機的状況
菅総理が宣言解除を発表した18日の首都圏の感染者数は東京323人、神奈川160人、埼玉115人、千葉122人で計720人だ。
1週間前の11日の感染者数は東京335人、神奈川125人、埼玉126人、千葉122人で計708人。強いて言えば「微増」の範疇に入るかもしれないが、感染状況が収まったとは言えない。
さらに緊急事態宣言を2週間延長した直後の、2週間前の4日の感染状況を見ると東京279人、神奈川138人、埼玉123人、千葉103人で計643人。感染者数で77人、増減比では12%も増えている。この感染増は、いくら総理でも「微増」とは言えまい。
民放テレビ局が東京・小池知事と神奈川・黒岩知事のバトル(小池氏はさらなる延長を主張、黒岩氏は予定通り中止を主張したらしい。かつて大阪府知事、大阪市市長を務めた橋下氏は黒岩氏を支持したようだ)は、この数字を見る限り、明らかに小池氏に軍配は上がることになる。
黒岩氏が小池氏に噛み付いたのは7日(日)のフジ『日曜報道 ザ・プライム』での生出演でのことだが、確かに神奈川の感染者数は4日138人、5日の130人に比べれば6日113人、7日119人と「激減」とまでは言えなくても、かなり感染者数は減ってはいた。で、黒岩氏は神奈川は感染拡大を完全に封じ込めたと思い込んだのだろうが、黒岩氏の判断ミスで直後の10日(水)から神奈川県が感染防止の手を抜き始めたせいか、徐々に感染が再拡大をはじめ、9日間で一気に60人も感染者が増えた(9日の感染者はジャスト100人)。この間の増加率はなんと60%に達している。黒岩氏は「知事失格」の烙印を押されてもやむをえまい。
愛知県では2019年8月に開催されたあいちトリエンナーレ『表現の不自由展』を巡って、今頃馬鹿げたリコール運動を始めたアホどもがいて天下の笑いものになったが、私もこうした政治的主張が明確な展示会の開催に県民の税金を使うのはいかがなものかとは思っているが、そうした展示会を県が後援しようがしまいが、それで死者が出るわけでもないし、県民の健康問題に大きな影響を及ぼすわけでもない。が、黒岩知事の判断は、明らかに神奈川県民の命にかかわる重要な判断ミスであり、黒岩氏が責任を取って辞任しなければ、神奈川県民は直ちにリコール運動を起こすべきだと考えている。

●論理的思考の重要性
私がなぜ、このブログの冒頭で黒岩知事の判断ミスを告発したか。私は黒岩氏と会ったこともないし、今回の黒岩・小池バトルが生じるまで、黒岩氏に対するいかなる悪意を持ったこともない。政治権力の持ち主が、何を基準に政治判断をしているのかを、私のブログの読者に問いたかったからだ。
国家権力は総理にあるし、都道府県の権力は知事にあるし、市区町村の権力は市区町村長にある。彼らが国民や都道府県民。市区町村民の利益を最重要視した政治判断をしているか否かは、民主主義の根幹にかかわる問題だからだ。
もちろん、彼らが行使する権力が対象とする民の利益はすべて同一ではない。
たとえば沖縄の普天間基地の辺野古移設問題でも、国家権力者が重視する「国民の利益」、沖縄県知事が重視する「沖縄県民の利益」、普天間基地地域や辺野古地域の市区町村の権力者が重視する「地域住民の利益」も、同一ではない。普天間基地の存在によって仕事や商売が成り立っている地域住民にとっては基地移設は生活基盤を失うことになるし、移設先の辺野古地区住民にとっては利益が期待できる人も少なくない。
原発問題も同じで、原発のおかげで利益を被る住民もいれば、利害関係がない住民も少なくない。
多数決原理を基本とする民主主義制度にとって悩ましいのは、政治が国民、都道府県民、地域住民の多数の利益を重視するとは限らないことだ。ある政策が受益者と利害関係がない国民や住民の相反する声をどう反映するかは、民主主義制度の成熟度にかかわってくる。その政策によって利害が得られる人たちは政治家にあらゆる手段を使って働きかける。逆に利益が得られない人たちは政治家に働きかける手段がないから、デモなどの抗議活動で政治を変えようとする。そういう場合、権力者の政治判断に対する監視機能と民主主義の砦となるのがジャーナリズムだと、私は考えてきた。そういう観点から、緊急事態宣言解除についての国家権力者や都道府県知事が、何を基準に政治判断を示したのかを検証したかった。
私のブログ記事はしばしば左翼思想の方からは右翼とみられるし、逆に保守層からは左翼思想の持ち主とみられる。実際、辺野古移設に反対したり、原発にも反対したりしているから、そういう主張は左翼の方たちの主張と一致しているかもしれない。一方、尖閣諸島を実効支配すべきだとか、アメリカに自衛隊基地をつくるべきだという主張に至っては極右思想と思われる方も多いと思う。が、いずれの主張も、私にとっては思想的立場によるものではなく、あくまで論理的帰結としての主張なのだ。
たとえば尖閣諸島問題に関していえば、政府が古来からの日本領土であり、中国との間に領土問題は存在しないと主張しながら、なぜ尖閣諸島の実効支配に踏み切らないのかという、おそらく小学生にでもわかる論理を基準に主張しているだけだ。たびたび外務省にその疑問をぶつけたが、外務省の見解は「日本が実効支配している。だから領海侵犯する中国公船には警告を発している」である。
が、いまや中国は公船ではなく武力行使ができる海警船が毎日のように領海侵犯をしており、日本の漁船に対して威嚇的な行動すらしている。日本政府は米大統領が変わるたびに「尖閣諸島は安保条約5条の対象だ」という言質を取り付けるのに必死だが、米政府の言質はあくまでそのときの大統領の口約束に過ぎない。その言質を公文書にしてくれと要求もしないし、大統領の口約束が有効なうちに尖閣諸島を実効支配しようともしない。尖閣諸島近海が日本の領海域だと言うなら、これだけ頻繁に領海侵犯している中国公船・船艦を撃沈する権利は国際的に認められている。それができないというなら、日本はもはや主権国家ではないという論理的結論に達せざるを得ない。
私がアメリカ本土に自衛隊基地を作れと主張しているのも同じ論理だ。そう主張できる根拠はトランプが与えてくれた。トランプは「アメリカ人は日本が他国から攻撃されたら血を流して日本を防衛する義務を負うが、日本人はアメリカが攻撃されてもソニーのテレビを見ているだけだ」と安保条約の片務性を非難した。
安倍前総理は安保法制を成立して集団的自衛権行使を容認した。アメリカが攻撃されるような事態が生じたら、当然、日本も存亡の危機になる。で、あれば、「集団的自衛権を行使するために自衛隊基地をアメリカに作る。もちろん自衛隊基地の設置場所は日本が決めるし、基地協定も結ばせてもらう。自衛隊基地維持のための思いやり予算も計上していただく」と、なぜ言わないのか。アメリカの大統領の要請に応じるわけだから、だれにも文句は言わせない。が、日本政府がトランプの「要請」に応じたら、アメリカが喜んでアメリカ本土に自衛隊基地を作らせるか。そんなことはありえない。結果として日本の米軍基地は日本防衛のためではないことが明々白々になる。
日本政府が主権国家としての誇りがあるなら、どうしてトランプ発言を「これ幸い」と反撃に出ないのか。「アメリカに自衛隊基地を」などと言う主張は、極右ですらできない。そういう意味では、私は超極右ということになる。
この論理、お分かりかな? 「そんな馬鹿な」と一笑に付す方が多いと思うが、論理とはそういう思考法を意味する。お分かりかな?

●菅総理が「宣言解除」発表でついたウソ。
本筋に戻る。菅総理つまり国家権力者は、なぜ今の時点で緊急事態宣言解除を決断したのか。誰の利益を重視した決断だったのか。菅総理は宣言解除の発表でこう述べた(要旨 朝日新聞19日付朝刊より)。

埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県について、3月21日をもって緊急事態宣言を解除する。飲食店の時間短縮を中心にピンポイントで行った対策は成果を上げている。1都3県の(新規)感染者数は1月7日から昨日までに8割以上減少した。目安とした基準を安定して満たしている。
しかし、感染者数は横ばい、微増の傾向がみられ、リバウンドが懸念されている。変異株の広がりにも警戒する必要がある。
解除にあたり、感染再拡大を防ぐための5本の柱からなる総合的な対策を決定した。
第1の柱は「飲食の感染防止」。1都3県では午後9時までの飲食店の時間短縮を継続し、1日4万円の支援を行う。
第2の柱は「変異株への対応」。国内の監視体制を強化し、航空便の搭乗者数抑制により入国者総数を管理するなど水際措置も強化する。
第3の柱は「感染拡大の予兆をつかむための戦略的な検査の実施」。無症状者のモニタリング検査を順次、主要な大都市で大幅に拡大し、来月には1日5千件の規模とする。
第4の柱は「安全・迅速なワクチン接種」。6月までに少なくとも1億回分が確保できる見通しで医療従事者、高齢者に行き渡る十分な量だ。
第5の柱は「医療体制の強化」。感染者が効果的に療養できる体制を作る。

宣言解除の具体的根拠は「1都3県の(新規)感染者数は1月7日から昨日までに8割以上減少した。目安とした基準を安定して満たしている」だけである。本当だろうか。
数字はウソをつかないが、都合のいいデータを援用することで、あたかも政策の効果があったかのような主張をすることはできる。例えば安倍第2次内閣が始めた「デフレ不況脱却のためのアベノミクス」。消費者物価指数を2%上げることを目標としたが、物価上昇率は1%にも満たなかったのに、「株価が上昇した」「従業員の平均給与が上がった(これは厚労省の忖度によるねつ造データ)」と、アベノミクスの成果を強調した。
さて、今回の緊急事態宣言は2回延長された。確かに緊急事態宣言を発出した1月7日の新規感染者数は2459人で、17日の新規感染者数724人は7割減だ(菅総理は「8割減」と1割さばを読んだが、政治家や官僚が発言するときはウソ発見器を常設したほうがいい)。問題は、2回目の延長に入った3月7日以降の新規感染者数の増減である。7日の首都圏の新規感染者数は592人、総理が基準にした17日の新規感染者数は724人だ(宣言解除発表日の18日は720人)。感染者数にして132人増え、増減率は+22%に達している。これがウソ偽りのない新型コロナの感染実態である。
緊急事態宣言を再延長したにもかかわらず、感染者数も増減率も大幅に増大している。総理が解除理由として強調した「目安とした基準を安定して満たしている」と言えるのだろうか。安倍さんにしても菅さんにしても、権力者が自分にとって都合がいい数字だけを援用して実態とはかけ離れたウソをつくから国民の政治不信が高まる。ドイツ首相のメルケル氏が、日本より厳しい感染状況にありながら、率直に実態を国民に明らかにして感染抑止のための協力を要請したのと、あまりにも違う権力者の姿勢だ。

●リバウンドは必至。ガースーは責任を取るか?
2回目の宣言延長以降、かえって感染者が増えたのは、テレビでも連日報道されていたように、若者を中心に繁華街の人出が増えだしたことに大きな要因があったと、私も思う。時短要請を無視して深夜まで営業する店も増えたし、そういう店では夜遅くまで満席状態が続いていたようだ。
「もう政治では打つ手がなくなった」
そう政府が無力感を抱いたことも、理解できないわけではない。が、そういう時政府が示す姿勢はどうあるべきか。日本では欧米のようにロックダウン政策は取れないと言われているが、ロックダウンができない法的根拠は不明だ。ドイツのメルケル首相のように、国民に真実を明らかにして「あなたたちが感染抑止に協力してくれないと、その付けはあなたたちだけでなく、あなたたちの子供や孫に必ず回る」と、なぜ訴えないのか。
国会で新立憲の蓮舫議員が菅総理に「いま宣言を解除して大丈夫か」と質問したのに対して、総理は「大丈夫だと、お・も・う」と答弁した。なぜ「大丈夫だ。もしリバウンドが生じたら、私が責任を取る」と、なぜ言えないのか。つまり政策決定について「責任は取りません」と宣言したのと同じなのだ。蓮舫議員も、「思うだけか。リバウンドが生じたとき、総理は責任を取るつもりがないのか」となぜ追及しなかったのか。
そんな茶番劇をやっているから、国会中継を見ていても、映像から緊張感が伝わってこない。
さらに宣言最終日で、しかも雨が降り続いているのに、21日の首都圏の人出はもう宣言解除されたと思えるほど多かったようだ。
「無理が通れば道理引っ込む」か。検証する。

●世界の世論は「中止または延期」という調査結果
20日、組織委員会、日本政府、東京都、IOC、IPC(国際パラリンピック委員会)の代表5人がオンライン会議を行い、東京オリンピック・パラリンピックへの海外からの観客の見送りを正式に決めた。
じつは日本側とIOCの水面下の協議はずっと続いていて、16日にIOCのバッハ会長が「海外からの観客受け入れ禁止措置をやむを得ない」と認めた。IOCは東京オリンピックの放映権を持っている米テレビ局NBCと放映権料の支払い義務について交渉を続けてきたはずだ。その結果、IOCは海外からの観客なしでの開催を受け入れたと思われる。
組織委の橋本会長は五輪相だったとき、海外からの選手団・関係者・観客のコロナ感染対策として1万人の医療従事者を確保すると国会で答弁した。日本に感染症の専門医を中心とする医療従事者がどのくらいいるのかは不明だが、前にもブログで「日本のコロナ患者治療に携わっている医療従事者が、自分たちが治療している患者を放り出してオリンピックのために働くことなどあり得ない」と何度も書いた。「もしそんな医療従事者がいたら、二度と日本で医療行為に携わることは不可能になる」とも書いた。
さすがに橋本氏も五輪相時代の発言がいかに非常識であったかに気付いたようだ。で、海外からの来日者の感染対策までは日本は責任を負えないとIOCに伝えたと思う。それに対するバッハの回答が「海外からの観客受け入れをやめてもいい」ということになり、政府は感染防止から「何が何でも東京オリンピック開催」に舵を切ったのが、18日の総理発表の舞台裏だったと思う。
が、実はもっと大きな問題が残っている。いったい、何か国が東京オリンピックに参加するだろうか、という問題だ。とくにアメリカが参加するという保証は、実はない。もしアメリカが「参加しない」となったら、不参加国が雪崩現象で急増する。そういう事態を政府、組織委、東京都は想定しているのだろうか。極めて疑問に思う。
実際、20日に公益財団法人「新聞通信調査会」が海外5か国の国民を対象に、東京オリンピック開催の是非を問うアンケート調査の結果を発表した(調査時期は不明)。その結果は、「中止または延期」と答えた比率はアメリカ74.4%、フランス70.6%、中国82.1%、韓国94.7%、タイ95.6%だった。調査国がちょっと偏っている感じはするが、アメリカの74.4%が気になる。

●すべてのカギはアメリカが握っている
アメリカはオリンピック大国というだけでなく、アメリカにとってスポーツは特別な存在である。言うまでもなくアメリカは人種のるつぼであり、奴隷制度を含めて人種差別の歴史を引きずってきている国である。アメリカのあらゆる社会を構成するシステムが白人優位を基本にしており、いまだにその汚点を消せない。
そうしたアメリカ社会の中で唯一といってもいい人種差別のない世界がスポーツなのだ。この意味の重要性は同じ連邦国家であるイギリスとの違いを見ればわかる。日本でも盛んなスポーツの源流の大半はイギリスとアメリカである。テニスやサッカー(フットボール)、ラクビー、ゴルフはイギリスが発祥。野球やアメフト、バスケットはアメリカが発祥。両国でともに盛んなプロスポーツはテニスとゴルフだけ。このことは何を意味するか。テニスとゴルフは個人競技であり、団体競技ではない。
アメリカとイギリスは世界中でもっとも強固な同盟関係にある国だが、団体競技ではイギリス発祥のプロスポーツはアメリカでは人気が出ないし、アメリカ発祥のスポーツはイギリスは受け入れない。さらにイギリスでは個人競技のスポーツの世界大会ではイギリスとして参加するが、団体競技は州単位でしか参加しない。一方アメリカはイギリスと同様の連邦国家でありながら、団体競技でもアメリカ合衆国として参加する。スポーツだけは人種差別が入り込む余地がなく、記録だけがすべてだからだ。ただし、テニスやゴルフ、水泳などは競技場そのものが人種差別しているところもあり、オリンピックのロス大会で新しい競技種目として採用されることになっていたゴルフが急遽中止になったのは、競技場に予定されていたオーガスタが黒人排除のゴルフ場だったためだ。タイガー・ウッズがオーガスタでプレーできるのは母親がアジア系ということで特別扱いされたためである。
アメリカが州の独立性が高いのに、有事の際には星条旗のもとに一致団結するのは、団体プロスポーツ(バスケット、アメフト、野球の3大スポーツ)が人種の壁を越えているからである。一方、人種の壁がないイギリスの団体競技(サッカー、ラクビー)は州の対抗意識が強く、州を超えて(つまりイギリスとして)世界大会に参加することはない(オリンピックだけ例外)。
そうした国の在り方が、アメリカのスポーツ大国を支えてきたとも言える。だからプロスポーツで成功した選手の収入は日本では考えられないほどの高額である。プロ選手でもオリンピックなどの世界大会には、カネにならなくても「名誉」を重視して参加する日本選手とは違い、アメリカのプロ選手は名誉より賞金額を重視する。ましてコロナ禍の中で、リスクを冒してアメリカの一流プロ選手が東京オリンピックに参加する可能性は極めて低いと考えざるを得ない。アメリカの一流選手が出場しないオリンピックということになると、アメリカは果たして大金を投じて大選手団を日本に送り込んでくれるだろうか。
万一、アメリカが不参加ということになると、NBCも放映権を返上してしまうだろうし、「アメリカが参加しないなら」と不参加国が次々に現れる危険性がある。組織委は、そうなる可能性を考慮しているのだろうか。

21日の『NHKスペシャル』が久しぶりにディベート番組を生放送した。「令和未来会議」と銘打った番組で、おそらく今後も生放送のディベート番組を継続すると思われる。この日のテーマ・タイトルは『あなたはどう考える? 東京オリンピック・パラリンピック』だった。
東京オリンピックを開催する意義や安全・安心対策について忖度なしの白熱した議論だったが、成功・失敗のカギを握っているのはアメリカだが、そうした観点での議論はまったくなかった。
日本の組織委や政府はこれまでIOCの意向ばかり気にしてきたが、アメリカに対する根回しはおそらく、まったくしていないと思う。何度も繰り返すようだが、アメリカ抜きのオリンピックはありえない。しかもある程度は一流選手の参加を取り付けないと、まったくしらけたオリンピックになってしまう。私の危惧が杞憂に終わればいいのだが…。



政治主導が「三権分立」を破壊した――民主主義とは何かが、いま問われている㉓

2021-03-08 06:36:16 | Weblog
私は子供のころから妙な性格で、つまらないこと(と、大半の人が思っていること)に何故かふと疑問を持ってしまう。で、「理屈っぽい」と嫌がられることがしばしばある。が、生まれついての性分なので、多分死ぬまでこのいやらしさは治らないだろう。
で、今もふと疑問に思ったことからネットでいろいろ調べだした。民主主義の基本原則とされている「三権分立」についてである。三権分立は言うまでもなく、フランスの啓蒙思想家モンテスキューが1748年に『法の精神』で唱えた民主主義政治の基本原則で、立法権、司法権、行政権を分権させることで独裁権力を防ぐことを目的とした制度である。

●日本の「三権分立」とは?
私たちも子供のころ(小学校高学年くらいだったと思う)、日本も民主主義国家で、「三権分立」の制度です、と教えられてきた。が、最近の政治と官僚の関係を見ると、本当に日本は「三権分立」の国だろうか、と疑問に思いだした。「政治主導」の名のもとに、事実上「行政権」が失われつつあるのではないかと思えるのだ。
私はこの三権分立制度を政治システムとして最初に確立したのはフランス革命(1789年)で宣言された「フランス人権宣言」が最初だと思っていたが、ネットで調べてみると、フランス革命の2年前の1787年にアメリカで、立法権は連邦議会、行政権(執行権)は大統領、司法権は裁判所が有する制度を世界で初めて確立したようだ。アメリカの三権分立制度は徹底しており、行政権者の大統領は連邦議会(上院・下院)に出席すらできず、法案提出権も議決権もない。また議会は大統領を辞めさせることも出来ず、大統領が犯罪を犯した場合のみ上院で3分の2以上の賛成で弾劾裁判を行うことができる。また議会が優越的な権利を持つことを防ぐために、大統領は拒否権を行使できる。
アメリカと違って日本は議院内閣制である。つまり、立法府である国会で行政府の長である内閣総理大臣が選出され、総理大臣が内閣(行政府)をつくる(組閣)。一般には「政府」と故障しているが、正式には「行政府」である。
で、日本では議院内閣制と「三権分立」についてどう位置付けているのか、再びネットで調べてみた。首相官邸のホームページにはこう記載されている。

昭和22年(1947年)5月3日に現行憲法が施行され、また、同時に「内閣法」が施行されて、現在の内閣制度が確立した。すなわち、国民主権の下で、立法、行政及び司法の三権分立を徹底させるとともに、議院内閣制という基本的枠組みの下で、内閣は行政権の主体として位置付けられることとなった。
【日本国憲法下の三権分立 】 内閣総理大臣に「内閣の首長」たる地位が与えられ、内閣を代表するとともに、内閣の統一性と一体性の確保のために、その閣内における地位も高められ、権限も強化された。ただし、その権限も、国務大臣の任免権あるいは国務大臣の訴追に対する同意権など単独の権限であるものを除いては、閣議にかけて行使するのが原則である。
また、憲法上、行政権は内閣に帰属するものとされており、その意味で、国の一切の行政事務の遂行は内閣の責任に属するが、その具体的な行政事務は内閣自らがすべて行うというのではなく、内閣の統轄の下に内閣府及び11の省が設置され、さらに、これらの府又は省の外局として設置されている委員会又は庁などが分担管理するものとされている。

つまり、日本では立法府に行政府が設けられていることになる。そのおかしさは、裁判所に国会が属していると位置づけられたら、だれでも「そんな馬鹿な」と思うだろう。しかし裁判所は犯罪(刑事事件)や金銭的な争いなど(民事事件)だけでなく、法律や憲法解釈についての最高決定機関であるから、そういう意味では立法府の国会での立法権を裁判所の管轄下においても理論上はおかしくないことになる。
と考えたら、実は日本は「三権分立」制度の国ではなく、「二権分立制」の国で、「二権分立」を「三権分立」と説明するなら、本当は【裁判所→国会→行政府】という一元体制でないとおかしいということになる。
実は私は民主主義政治の基本制度としての「三権分立」はもはや制度疲労を生じていると考えており、これまでの『民主主義とは何かが、いま問われている』シリーズで何回となく主張してきたから、私の考え方をご存知の方もいると思うが、改めて私が主張してきた「六権分立」について整理しておく。
議院内閣制の下での「三権分立」の非整合性についてはすでに書いたが、とりあえず「立法」「行政」「司法」の三権に加え、「捜査・逮捕・起訴」(警察・検察)、「金融政策」(中央銀行=日本銀行)、「公共放送」(NHK)を従来の三権から独立した権限を持たせるべきというのが、私の「六権分立」論だ。ひとつずつ、その理由を書く。

●警察・検察の捜査・逮捕・起訴について
まず警察・検察を独立した権力機構にすべきかは、「黒川事件」を思い起こせば理解できるはずだ。言うまでもないが、黒川事件は当時東京高検検事長だった黒川弘務氏を検事総長に昇格させるために、黒川氏の定年を無理筋で延長しようとした問題。理由は当時の安倍総理がモリカケ問題や「桜を見る会」前夜祭問題をもみ消すため、政権に近いとみられていた黒川氏の定年を延長したものの、たまたま「文春砲」が黒川氏の新聞記者たちとの常習的賭け麻雀をスクープしたため、黒川氏は引責辞任して安倍氏の悪だくみは泡と消えた。
政治権力による検察人事への政治介入は過去にもたびたびあり、なかでも有名なのは「ミスター検察」と呼ばれ、ロッキード事件で田中元総理を逮捕、リクルート事件の捜査・指揮、佐川急便からの金丸信・自民党副総裁への5億円やみ献金事件の捜査で辣腕を振るった故・吉永祐介氏を検事総長の座に就けることを自民党幹部が阻止しようとしたケースなど、数えきれないほどある。
こうしたことからも、警察・検察機構を政治権力から切り離して、法の正義の番人として独立した権限を持たせるべきだと、私は考えている。ただし、警察・検察の捜査・逮捕・起訴権を司法権に組み入れるのであれば、それでもいい。要は警察・検察に対する政治介入を防ぐことが重要なのだ。その点は、政治介入を絶対に許さない韓国の検察制度を見習うべきだ。韓国で大統領が辞めた後次々に逮捕され汚職などが暴かれることに、日本でも批判はあるが、それは日本の権力者も後ろめたいことがあるからだろう。自分に後ろめたいことがなければ、なにもお友達を無理筋で検事総長にする必要もないはずだ。
とくに政治家の汚職などを扱う東京・名古屋・大阪の地方検察庁に設けられている特別捜査部(特捜)の捜査権限を妨害したり、あるいはしようとしたりした場合も、そうした行為自体が犯罪行為として厳しく罰せられるようにすべきだとさえ、私は考えている。たとえば犯罪を隠すための口裏合わせなどを重罰にすれば、口裏合わせそのものが不可能になる。

●日銀の金融政策について
次に金融政策である。アメリカのケースと比較すればよく分かるのだが、アメリカの中央銀行であるFRBは政府から完全に独立して金融政策(主に政策金利)を決めている。実際、トランプ大統領が景気対策としてFRBにしつこく金融緩和を要求しても、パウエル議長は頑としてトランプの要求を撥ねつけてきた。ただし、コロナ禍で先進国の中で一人勝ちだったアメリカ経済に陰りが見えてきてからはFRBも金融緩和に踏み切っている。
一方日本の場合は、日銀・黒田総裁が安倍前総理と「二人三脚」で金融緩和・国債大量買入れによるマネーサプライ(通貨供給量)増大・株式大量購入による株価操作など、アベノミクスの見掛け上の「成功」を演出してきた。この稿では詳しくは触れないが、財務省や日銀はMMT(現代通貨理論)ではないと主張しているが、黒田総裁は「いくらでも国債を買い入れる」と公言しており、事実上のMMT宣言と私は理解している。
MMTについては以前もブログで書いたが、「独自通貨を発行できる国はハイパーインフレにならない限度までいくらでも国債を発行しても財政破綻は生じない」というバカげた理論で、この理論の前提は、自国通貨が国内での決済手段としての機能しか見ていない点に致命的欠陥がある。
為替が変動相場制に移行して以降、通貨は決済手段としての機能だけでなく、金融商品としての機能も持つようになった。ギリシャがデフォルトを起こしたのもそのためで、為替相場の動向によって通貨価値が一気に下落してハイパーインフレが生じるリスクをMMTはまったく無視しているのだ。高橋洋一氏などMMT信者は、通貨の二面性に全く気付いていない。MMTを可能にするには変動相場制をやめて固定相場制に戻すか、貿易をやめて鎖国経済にするしかない。
実経済では、需要と供給の関係は机上の計算通りにはならない。「豊作貧乏」という言葉があるが、供給量が2割増えたら机上の計算では価格は2割減になるはずだが、実際には2割減では収まらない。半値以下に暴落することもある。例えば最近の例だと、コロナ対策のマスクだ。一時ドラッグストアやスーパーの店頭から消え、転売ヤーがオークションに出品して落札価格が暴騰したことがある。オークション出品が禁止されるや、ネット・ショッピングで高価格販売していたが、供給量が増えすぎて値崩れを生じ、いまは送料込みでもドラッグストアで買うよりはるかに安価で買えるようになっている。
また供給量が増えて価格が安くなったことで、かえって需要が増大して価格が維持あるいは多少アップすることさえ実社会ではある。
逆に供給量が2割減ったら価格が2割上昇するかというと、そうもならない。2倍に高騰することもあれば、昨年のサンマ不漁でサンマ価格が供給量に応じて高騰したかというと、そうはならなかった。消費者が買い控えたため需要が減少し、スーパーでの店頭価格はそれほどには高騰しなかった。
これが現実の経済であり、MMTは単純に机上の計算で、過度のインフレにならない限り財政破綻しないという、砂に絵を描くような理論に過ぎない。こういうのを「学者バカ」という。

●公共放送の在り方について
最後に公共放送だ。日本の場合、NHKがそれに相当するが、公共放送の使命とは何か、どういうコンテンツが公共放送として必要かと考えたら、現在のNHKを公共放送局として認めるには相当の無理がある。
私が子供だった頃、まだ家にはテレビがなく娯楽手段といえばラジオしかなかった時代、NHKの紅白歌合戦や素人のど自慢、プロ野球や大相撲の中継、落語や講談、浪曲、漫才は貴重な娯楽手段だった。
NHKがジャーナリズムであるべきか否かについては議論があるとは思う。ジャーナリズムの使命は権力の監視と民主主義の砦という2大機能だと私は考えているが、政治的に公平・中立が義務付けられているためNHKはジャーナリズムの2大機能を果たすことは困難かもしれない。そうなると公共放送はいま必要なのか、という疑問すら生じる。
NHKは公共放送の必要性について「大災害が発生したとき、いち早く国民に情報を提供できる機能」をつねに持ち出すが、民放もそうした機能を今は拡大している。それとも大災害時の情報機能をNHKに集約するというのであれば、放送法を改正して大災害時にはすべての民放番組やスマホにNHKの放送を強制的に割り込ませるようにすべきだろう。
事件や火事がしょっちゅう起きるわけでもないのに、警察署や交番、消防署が要所要所に配置されているのは、突発的な事件や火事に対処するためだ。NHKもそうした機能に徹するべきかもしれない。全国の警察署か消防署内に1部屋借りて、非常時の時の取材要員だけ配置しておけばいいことになる。そうなれば、公共放送というより国営放送の方がふさわしくなる。
が、いまのNHKが放送しているコンテンツは、ドラマ・スポーツ・バラエティが3本柱だ。民放との差はまったく見いだせない。あえて民放との差を指摘すると、民放が報道系番組にいま力を入れており、かつ政権に対してかなり厳しい監視機能を重視しているのに対して、NHKの報道番組も少なく、また報道内容もかなり政権寄りと言わざるを得ない。
実際、ニュース番組は共同通信や時事通信、ロイター、ブルンバーグといった通信社から配信されたニュースをアナウンサーが棒読みすれば十分。つまりNHKに記者など全く必要ない。
実際、知る人ぞ知る話だが、森友事件は朝日新聞のスクープということになっているが、実際にはNHK大阪放送局の記者だった相澤冬樹氏が追っていた事件だった。が、相澤氏のスクープ記事に激怒した報道局トップが相澤氏を考査部と称する窓際部門に異動し、怒った相澤氏は辞表をたたきつけてNHKを辞めた。なお相澤氏は現在、大阪日日新聞の編集局長兼一記者である。
すでに述べたように、公共放送はジャーナリズムであるべきではないという考え方もあり、私は必ずしも否定しない。が、そうであれば記者は不必要だし、報道局は通信社が配信する記事からニュースとして報道すべき記事だけを選択し、その記事をアナウンサーが棒読みすればいいだけの話だ。ただし、アナウンスするとき「〇〇通信によれば、……」と情報源を明確にしておくこと。政治介入はそれで防げる。
またドラマ・スポーツ中継・バラエティ部門はNHKから分離独立させて民営化したらいい。こういうコンテンツの制作に、税金に近い性質の受信料を使うべきではないからだ。
NHKをそのように改変すれば、政治圧力を受ける心配もなくなるし、NHKも政権への忖度を働かせる必要もなくなる。そのうえ、おそらく9割以上の人員削減もできるし、所有する不動産(放送局ビル)を貸しビルにすれば、受信料を取らなくても悠々やっていけるはずだ。「スクランブルにしろ」といった批判も完全に封じることができる。とにかくNHKに記者は必要ない。NHKでは、記者として生き残るためには政治家がらみの取材は厳禁で、絶対に手を出してはならない。相澤氏のケースでも、NHKの労働組合(日放労)ですら相澤氏を救済しようとすらしなかったのだから。

●日本企業の従業員が会社へのロイヤリティを失った理由
民主主義を一歩前進させる手段として私は「六権分立」論を書いたが、日本の現状は「三権分立」ですらない。事実上、行政権などないからだ。
かつて日本が高度経済成長を遂げ、GDPでアメリカに次ぐ世界2位に躍り出たころ、日本の官僚は世界中から賞賛の的だった。実際、戦後の政治は官僚主導で行われ、官僚主導で奇跡の経済成長を成し遂げてきた。
本来「三権分立」制度では立法機関の国会議員が法案を作成・提案・採決・成立しなければならないのだが、日本の場合は官僚が原案を作成し、自民党政策調査会、総務会を経て国会に提出する流れになっていた。そのため「省益あって国益なし」と言われたほどで、野党やメディアからしばしば「官僚主導」と批判されていた。霞が関が力を持ちすぎたせいもある。
で、旧民主党政権が誕生したとき、民主党は「政治主導」を標榜した。が、実際に政治主導で立法できるかというと、政策実現のための法律作成に向けて官僚との関係構築のノウハウの蓄積もなく、国民の間に不満が広がった。当時の民主党幹事長代理・枝野氏(現・新立憲代表)は「与党がこんなに忙しいとは思わなかった。政治主導などと迂闊なことを言った」と愚痴ったくらいだった(11年11月14日)。
が、民主党政権の失敗から官僚の動かし方を学んだのが、皮肉にも自民党だった。14年に内閣府に人事局を設置して官僚人事を掌握したのだ。
じつは日米貿易摩擦が激化していた時期、アメリカの企業経営者や経営評論家たちは「日本型経営から学ぶべきこともある」といった主張もあった。「日本の従業員はどうして会社に強いロイヤリティを持つのか」という疑問が彼らの根底にあった。が、日本型経営を学ぶといっても、ロイヤリティがどういう人事システムから生まれるかまでの考察ができなかった。
ちょうど日米構造協議が行われていた時期、私はアメリカに進出していた大企業をいくつか取材した。そのとき、日本から派遣されていた現地工場のトップに取材して、日本人従業員とアメリカ人従業員はロイヤリティの対象が違うだけだということを知った。
日本では「年功序列終身雇用」制度の下、従業員の雇用と処遇については会社(人事部)が責任を持っている。が、アメリカの場合は雇用や待遇、解雇に至るまで直属の上司が権限を持っている。だから上司に恵まれたら、上司にロイヤリティを示していれば、上司の出世と一緒に自分も出世できる。ただし、自分より能力が高そうな人は絶対に採用しない。いつ、自分にとって代わろうとするかわからないからだ。
そういう意味では織田信長は人事の天才でもあった。一人のナンバー2を置かずに、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、明智光秀など数人を横並びでナンバー2的ポジションに配置し、相互にけん制させ合うことで自分に対する忠誠心を競わせた。自分自身が織田家で権力を争奪する過程で血も涙もないやり方をしてきたから、いつ自分が同じ目にあうかもしれないと危惧していたのだと思う。そうした状況下で明智光秀が信長を討てたのは、ほかのナンバー2的ポジションにいた武将たちが信長から遠くの戦場で戦っていたことが大きなチャンスになったのだろう。光秀が反逆した理由については諸説あるが、信長を討つチャンスはそうはなかったはずで、そういう意味では信長の油断が招いた結果と言えなくもない。
それはともかく、いま日本でも大企業で「年功序列終身雇用」の雇用関係が崩れつつある。富士通やトヨタ、川崎重工といった大企業も年功序列型雇用関係を見直しつつある。従業員のほうも、とっくに終身雇用など当てにしていない。そのうえ年功序列まで奪われたら、会社に対するロイヤリティなど維持できるわけがない。

●日本は「三権分立」の国ではない
ところが、日本には特殊な世界が存続している。霞が関村だ。この村にだけは依然として「年功序列終身雇用」の雇用が維持されている。いまのところは、だが。
が、内閣人事局ができて、今まであまり波風が立たなかった霞が関村に、おかしな風が吹き出した。省内の上のほうだけ向いて仕事をしていればよかった村人が、内閣人事局というお代官様の顔色を窺わないと将来が約束されないという空気が生まれたのだ。
たぶん、いまでも大学を卒業して入省したときに聞かされる訓示は「国のため、国民のために奉仕する気持ちを忘れないように」だと思うが、ホンネは「政府のために仕事をするという気持ちを忘れないように」だ。だから入省して間もない若手官僚の退職率が最近極めて高いようだ。それも優秀な若手ほど、早めに見切りをつけて辞めていくという。
そうなると、「行政権」はどこに行ってしまったのか、ということになる。たとえばコロナ・ワクチン。すでに医療従事者への接種は始まっているというが、対象の医療従事者はコロナ患者を受け入れている病院だけではない。
歯医者や整形外科、耳鼻咽喉科や美容整形まで優先的ワクチン接種の対象に含まれている。それも医師や看護師だけでなく、患者の治療には一切タッチしない、つまり医療業務の資格すら持っていない受付窓口の人まで「医療従事者」の範疇と位置づけ、優先的にワクチン接種の権利があるという。
何故か。医師会が自民党の重要な票田だからだ。
政治主導という名において行われている行政の実態とは、そういうものなのだ。いったい、どこに「行政」の独立性があるのか。
はっきり言う。日本は「三権分立」の国ではない。立法と行政が一体化し、いちおう独立性を維持している司法と合わせて「二権分立」の国だ。イギリスも「二権分立」の国なので、一概に「二権分立」を否定するわけではないが、私たちが子供のころにならってきた民主主義制度としての「三権分立」についての記述は、子供たちが大人になったとき混乱することになるだけだから、削除すべきである。




踏み止まれる人と、踏み止まれない人の差の大きさを考えてみた。

2021-03-01 08:27:52 | Weblog
2月25日午後9時からのNHK BSプレミアム『フランケンシュタインの誘惑(4) 夢のエネルギー“常温核融合”事件 20世紀最大の科学スキャンダル』を見て、言い知れぬ衝撃を覚えた。
というのは、この“事件”が世界に衝撃を与えた1989年7月、私は『核融合革命』と題する単行本を上梓したからだ。同書の「まえがき」のさわりを転記する。

ノーベル賞100個分に相当する大発見かもしれないといわれている常温核融合――。そもそも人類究極のエネルギーと言われる核融合は、太陽のエネルギー源を地上で作り出そうというものだ。公害の心配がなく、かつその資源も海水中に無限に含まれている。核融合エネルギーを人類が手に入れることができれば、石油や石炭、天然ガスなどの化石エネルギー資源が地球上から枯渇しても、エネルギー問題で悩まされることは二度とない。
さらに核融合は、地球温暖化や砂漠化の進行もいっきに食い止めてくれる。いま世界各国で反原発運動が盛んだが、実は火力発電も大きな問題を抱えており、地球温暖化の原因である炭酸ガスや、砂漠化の原因である酸性雨の発生源となっているのである。
ところが、この核融合エネルギーを地上で手に入れることが、また至難のワザなのだ。重水素や三重水素を1億度以上の高温に加熱し、磁場の力などを利用して容器の壁に触れないよう空間に閉じ込めなければならない。日欧米ソはその研究にしのぎを削っているが、実現は早くても40~50年後と予測されている。(中略)
そんな矢先に1989年の春、降って湧いたように飛び出したのが、常温核融合という“大発見”であった。常温で、しかも中学生の電気分解実験装置に毛が生えた程度の道具立てで核融合が生じるというのだ。世界中の科学者や産業界、マスコミが大フィーバーしたのも当たり前であった。(後略)

●突然変異的現象は物理現象でも生じるという事実
いま。新型コロナの変異株のすさまじい増え方に人類は直面している。従来のウイルスはワクチンや治療薬が開発されることに対抗して、より強力な変異株が生まれるというのが常識だった。警察と詐欺犯の関係のようなもので、詐欺の手口は警察力に対抗して巧妙化していくのと同じだ。が、いまのコロナの変異株はワクチンや治療薬が開発される前に、そのさらに先を行く変異を繰り返している。おそらく人類が初めて経験するモンスター・ウイルスと言って差し支えないだろう。
が、いずれ人類は遺伝子解明の進歩によって、ウイルスが変異する前にどのように変異するかを科学的に予測し変異を防ぐ手段を開発するだろうと、私は信じているが、おそらくそのときはウイルスは人類の科学的予測を裏切る変異を遂げて、人類をさらに悩ますことになるのではないかとも考えている。
実は遺伝子技術は世界の歴史で日本人が最も早くから培ってきたと、私は思っている。米や果実の品種改良は日本人がもっとも古くから取り組んできたことであり、様々な品種の植物のかけ合わせや、突然変異で生まれた新しい品種を接ぎ木したり育てたりして自然環境の中で遺伝子操作を意図せずに行ってきた。同じような遺伝子操作を試験管やフラスコの中で行うのが今の品種改良技術だが、なぜそうした遺伝子操作によって品種改良した食物に日本人の多くが拒否反応を示すのかが、私には分からない。
それはともかく、突然変異的現象は植物や生物だけでなく、時に化学現象や物理現象でも生じる。そういう突然変異的現象が生じる条件を見つけることができれば、再現性が確認されて、科学技術の進歩に大きな足跡を残すことができる。
常温核融合の場合は、本当に試験管の中で核融合が生じたのか、それとも世界の科学誌上に大汚点を残すインチキだったのか。NHKの番組は“大発見”の「その後」を徹底的に追跡した1大ドキュメントだった。

実は、もう50年近く前になるが、私の長女が大やけどをしたことがある。妻が東芝製の蒸気アイロンを使っていたとき、突然注水口から熱湯が噴出し、その前で遊んでいた長女の足に熱湯がかかって皮膚がベロっと剥けたのである。当時の開業医はほとんどが内科で、皮膚科や形成外科のクリニックなどはなく、妻はとりあえず風呂場で冷水をかけて皮膚を冷やし近所の内科医に抱きかかえて連れて行き、応急手当てをしてもらった。
その事故が起きたときは私は不在だったが、帰宅して妻から事情を聴いて東芝に電話した。その日だったか翌日だったか、東芝の社員が2人来て状況を妻から聞いたが、「注水口を下に向けなかったか」とか、扱い方の失敗ではないかという態度がありありだった。「アイロンを持ち帰って調べる」との申し出だったが、それまでの対応から不信感を抱いたので東芝には預けず公的な試験所に検査を依頼することにした。
試験所では何度もテストを繰り返し、正常な操作でも注水口から熱湯が噴き出すことがあることを確認し、試験所は記者会見を開いて発表した。が、記者たちの前でテストをした時は何回やっても熱湯が注水口から噴き出すことはなかった。が、テストをしていた時に熱湯が噴出した瞬間を撮った写真を記者たちに配ったため、社会面で大きく取り上げた新聞もあった。
蒸気アイロンの注水口から熱湯が吹き出すという現象は明らかに物理現象だが、どういう条件下なら必ず同じ現象が生じるかの解明はそれほど容易ではない。アイロンから熱湯が噴き出すといった物理現象は、仮に再現可能な条件を発見できたところで科学技術の進歩に大きな貢献をするわけでもないから、妻のアイロンの扱い方のミスではないことを東芝も認めて治療費や慰謝料を払ってくれたので問題は解決したが、常温核融合の問題はその後も尾を引いた。

●核融合の原料・三重水素(トリチウム)は放射性物質
「地上の太陽」と言われる核融合だが、太陽で行われている核融合は、4個の水素原子核が融合してヘリウム原子核になるとき、原子炉で行われている核分裂をはるかに上回る巨大なエネルギーを放出している。そのため核融合炉を開発することが出来れば、原子炉のような汚染物質も排出しないし、水素は無限に存在するから人類は永遠にエネルギー問題から解放されるというわけだ。
しかし地上で4個の水素原子を融合させることが不可能なため重水素と三重水素(トリチウム)の原子核を融合させてヘリウム原子核をつくるという方法が当時は研究されていた(現在はほとんど諦めているようだ)。
トリチウムは福島原発事故で一躍有名になったが、原発では必ず派生する放射性物質である。いま東電はこのトリチウムを薄めてタンクに貯蔵しているが、原子炉内の核分裂が続く限り増え続け、その処理が大きな問題になっている。
現実的な処理方法としては通常の原発で処理しているように大量の海水で薄めて海洋に放出する方法と、スリーマイル島原発事故で行われたように高温で蒸発させて大気中に放出するという方法が考えられているが、福島原発事故で排出されたトリチウムの量が多すぎるため海洋や大気の放射能汚染に韓国などが反対し、いまだ処理方法についての国際的理解が得られていない。
私自身は科学者ではないが、湖と違って海水は潮の流れによって世界中に拡散しており、希釈して海洋に放出する方法が最も現実的だと思っているが、反原発主義者たちの感情的反発が大きく、下手をすると国際問題になりかねないため容易ではない。とりあえず、一気にすべてを処理するのではなく、1年間に生じるトリチウムを半年かけて少しずつ海洋に放出する方法を採用するしかないのではないかと思う。現在は10年分のトリチウムを薄めてタンクに貯蔵しているが、それをさらに希釈して20年かけて海洋に放出するという方法だ。一度に処理する方法を考えようとするから無理が生じると思う。

SF作家として知られる豊田有恒氏は原発擁護者としても原発村のスポークスマンとして活躍しているが、スリーマイル島の事故の後で書いた著作『原発の挑戦――足で調べた15か所の現状と問題点』で、こう書いている。

●豊田有恒氏の「原発絶対安全」論の破綻
日本では、原発が故障すると、すぐ事故と書き立てる。機械というものは必ず故障するものなのである。絶対に故障しない機械があったら、お目にかかりたい。ただし、原発はいくら故障しても、放射能が外部に漏れないように設計されている。
スリーマイル島の事故は、逆に、原子力発電の安全性を証明する形になった。ああいう事故が、日本でも起こりうるかというと。ノーという答えしか出ない。アメリカより日本の方が危機管理が、数段進んでいるからだ。

もちろん豊田氏のこの著作は福島原発事故のはるか前に書かれたのだが、福島原発後、豊田氏が宗旨替えしたという話は聞いていない。というより、いまでも原発絶対安全論者のようだ、ネットで調べた限り…。
ま、ひと言でいえば、豊田氏は日本の「原発安全神話」に大きく貢献したことだけは間違いない。なぜ政府は豊田氏に国民栄養賞を授与しないのだろうか。
福島原発事故の後になって政府は「安全神話によりかかりすぎた」と“反省”の姿勢を一応示すようになった。が、「絶対ということは絶対にありえない」のだ。いわゆる「安全神話」なるものも、言うなら確率の問題であって、自然界の大変動がいつ生じるかも確率の問題でしかない。
たとえば野球選手の場合、3割バッターは確率論的には10回の打数のうち3回は安打を打つことを意味するが、例えば電車が時刻表どおりに運行しているように、必ず10回打席が回れば、そのうち3回はヒットを打つということを意味しているわけではない。電車の運行も、確率的には時刻表どおりに運行する率はおそらく90%を超えると思うが、これも絶対ではない。
原発の安全性を高める方法は技術的な改善は別とすると、リスクの存在が解明されたとき、直ちに対策を講じることと、絶え間ない反対運動の継続によって常に緊張感をもって安全チェックを怠らないことしか「安全確率」を高めることができない。福島事故の場合、この両方が欠けていたということが原因であり、「安全神話」によりかかっていたために生じた事故ではない。
巨大な津波が生じうるリスクは福島原発の場合、警告はすでに出されており、備える計画もあった。どんな津波が来ても大丈夫と思って備える必要性を認めなかったとしたら、それを「安全神話」という。備えを講じる必要性を認めていながら、後回しにしてきたのは人為的なサボタージュであり、「安全神話によりかかった」せいではない。
 政治家のごまかし「反省」にメディアはいとも簡単に騙されるのが常だ。メディアとしての使命感に欠如しているとしか言いようがない。

●「地上の太陽」を夢見た結果…。
さてなぜ常温核融合の夢が泡と消えたか。NHKの番組では触れなかったが、1986年、科学界を揺るがす大発見があった。それまでは電気の絶縁体と考えられていたセラミックが、摂氏マイナス百数十度の液体窒素で冷やせば突然、電気抵抗を失って超伝導体になることが発見されたのである。
 超電導現象を初めて発見したのは1911年、オランダの科学者カメリン・オンネスで、ある種の金属や合金を絶対零度(マイナス273.15℃)近くまで冷却すると電気抵抗がゼロになることを発見したのだ。こうした現象を示す金属系物質はその後約3000種類見つかっているが、産業化は夢のまた夢であった。
 が、1986年1月、IBMチューリッヒ研究所のミューラーとペドノルツがマイナス243℃で超電導現象を示すセラミックを発見、それがきっかけになって世界中で超電導セラミックの新発見フィーバーが生じた。この騒ぎの時も私は『アメリカが日本の超電導14社に恐怖する理由』と題した著作を上梓したが、まだ超電導フィーバーが消えていなかった1989年3月、超電導セラミックの発見をはるかに上回る衝撃的な発見が発表された。常温で「地上の太陽」の核融合が実現したというのだ。セラミック超電導物質の発見以上に世界中で大騒ぎが生じたのは当然だった。
 この常温核融合を発表したのは米ユタ大学のスタンレー・ポンズ教授と英サウサンプトン大学のマーチン・フライシュマン教授のふたり。彼らは試験管の中で重水素を電気分解して核融合反応を生じさせ、入力エネルギーの4~8倍の出力エネルギーを得たと発表したのだ。「どんぐりコロコロ どんぶりこ おいけにはまって さあ大変」と大騒ぎになった。
 セラミック超電導物質探しの大フィーバーを上回る研究が世界中で始まった。が、再現実験に成功したと発表した研究者もいたが、多くの学者は再現できないと主張した。とくに原子物理学の専門家にとっては、常温で、しかも電気分解で核融合が起きるという話は、千夜一夜のお伽噺に近いものだった。彼らは「ポンズとフライシュマンの実験は核融合なんかではなく、単なる化学反応に過ぎない」「大量の熱を発生したというが、電気分解の時に生じるジュール熱ではないか」「核反応の証拠である中性子を検出したというが、宇宙から降り注いでくる中性子を誤ってカウントしたのではないか」「もし本当なら、大量の中性子放射で二人とも死んでいるはず」といった批判が殺到するようになった。マサチューセッツ工科大学の著名な原子物理学者ロナルド・パーカー教授に至っては「ユタ大学の実験はイカサマであり、こんな連中は科学界から追放すべきだ」とまで非難した。

●試験管での電気分解で核融合は起きるのか?
 フライシュマンはサウサンプトン大学の電気化学科教授で英国ロイヤル・ソサエティの会員である。同大学はウィキペディアによれば「英国の主要な研究主導型大学の一つであり、国内外から常に高く評価されている。設立以来、サウサンプトン大学は、教育と研究の両面で優れた評価を受けている。特には医学、社会科学、電子工学、コンピューターサイエンス、電気工学、船舶科学、航空学などの工学系の分野で高い評価を得ている」とのことである。
 一方、ポンズはフライシュマンの弟子で、彼の指導の下で博士号を取得、その後、母国のアメリカに戻ってユタ大学の教授になった。ユタ大学は、やはりウィキペディアによれば「ユタ州の旗艦大学として、医学、化学、人文科学、経済学、教育学、工学、芸術等の分野で100以上の学部専攻と92の修士・博士専攻を提供している総合研究大学」とのことだ。
 2校とも超1流とまではいかないが、そこそこ権威が認められている大学と言ってもいいだろう。なぜ、この二人が「電気分解で核融合反応ができるのではないか」といった突拍子もないアイデアに取り組んだのかはわからない。研究自体は他愛もない装置で行った。陰電極にパラジウム、陽電極にプラチナを使い、重水を満たした大きめの試験管に浸しただけである。両電極間に電流を流すと、重水が電気分解され、陰極のパラジウムに重水素が吸収される。パラジウムは電子同士が格子状の結合をしている金属だが、その格子の隙間に水素や重水素の原子が入り込むのだ。
 この実験はポンズが担当したが、数か月後、ポンズが夜中に研究室をのぞいてみたところ、試験管が割れて中身が散乱し、床は水浸しになっていたという。翌朝、ポンズがガイガー・カウンターで調べたところ、自然界の3倍以上の放射能が検出された、で、ポンズはてっきり核融合反応で生じた高熱で試験管が壊れたと思い込んでしまった。ポンズは直ちに師のフライシュマンに報告、フライシュマンも追試を始めた。
 実はそのころ、フライシュマンらと同じ発想で電気分解で核融合反応が生じるのではないかと実験を始めていた科学者がいた。米プリガムヤング大学のスチーブン・ジョーンズ准教授である。同大学はやはりウィキペディアによれば「末日聖徒イエス・キリスト教会(通称 モルモン教)が運営するアメリカの名門私立大学。モルモン教の中心地であるユタ州プロボに設置されている。様々な分野で非常に優れた教育を施し、多くの人材を送り出してきた」とある。ジョーンズはフライシュマンらのような電気化学の専門家ではなく、核融合の専門家で、地球の深部でも太陽と同様の核融合が行われているのではないかと着想し、ポンズと同様の実験に取り組んでいた。ポンズの実験と違うのは陰電極にパラジウムだけでなくチタンも使用したり、陽電極には金を使い、電解液は重水だけでなく硫酸鉄、塩化ニッケル、塩化パラジウム、炭酸カルシウムなどを溶かした。その装置で電流を流したところ、陰電極に重水素が吸収され、中性子の発生も確認した。で、ジョーンズも電気分解装置の中で核融合反応が生じているに違いないと確信する。
 こうして全く別々の実験で核融合反応らしき現象が生じたという研究論文の発表で、世界中の科学者たちが色めきだったのだ。直ちに全世界で追試競争が始まった。が、だれも再現に成功しない。で、電気分解で核融合反応が生じたという研究データそのものへの疑問が噴出し始めた。
 NHKのドキュメントによれば、フライシュマンもポンズも学会から追放され、その後は失意の人生を送ったようだ。

●小保方晴子のSTAP細胞「つーくった」はウソだったのか?
 常温核融合事件から25年後の2014年、今度は日本から「ねつ造研究」事件が世界中を大騒動に巻き込んだ。理化学研究所の小保方晴子氏が作製したとされたSTAP細胞である。
 この事件について私が初めてブログに書いたのは14年3月13日、タイトルは『小保方晴子氏のSTAP細胞作製はねつ造だったのか。それとも突然変異だったのか?』である。その記事の書き出しの箇所を転記する。

 昨日NHKの『ニュース7』の報道で初めて知った。びっくりした。ニュースをご覧になっていた方は、皆さんびっくりされたと思う。理化学研究所のユニットリーダー・小保方晴子氏が世界で初めて作製したとして世界中の話題になったSTAP細胞が捏造だったという疑惑が持ち上がったというのである。
 STAP細胞とは、あらゆる細胞に分化させることができる「万能細胞」の一種で、今年1月30日、小保方氏のグループがマウスの細胞の作製に成功したと、世界でも最高権威とされているイギリスの科学誌『ネイチャー』に発表したもので、自分の細胞の一部から自分の皮膚やあらゆる臓器を作れる究極の医療革命と話題になっていた。昨年はips細胞の発見で京都大学の山中伸也教授がノーベル賞を受賞したばかりなのに、STAP細胞はips細胞よりはるかに簡単な方法で作成でき、しかも細胞がガン化する可能性も低いと世界を驚愕させた研究成果だった、はずだった。

 STAP細胞疑惑を最初に明らかにしたのは、こともあろうに小保方氏の共同研究者で、ネイチャー論文にも名を連ねた山梨大学の若山昭彦教授だった。NHKの取材に対して若山氏は「研究データに重大な問題が見つかり、STAP細胞が存在する確信がなくなった。研究論文に名を連ねた研究者たちに論文の取り下げに同意するよう働きかけている」と述べた。このブログを読んでいただいている方も記憶に残っているだろうから、その後の経緯については省く。ただ小保方氏が「私は200回以上再現に成功している」と豪語しながら、小保方氏も加えた検証実験でも再現できなかった。
 私はもちろん科学者ではないから、常温核融合事件もSTAP細胞事件も、科学的見地でものを言う資格はない。が、蒸気アイロンの熱湯噴出が事実であることは1000%の確信を持って言えるし、そういう単純な物理現象でも再現性が常に担保されるわけではないことも承知している。
 だから常温核融合現象も、STAP細胞も、ひょっとしたら現実に生じていた可能性は否定できないと私は考えている。もちろん、試験管が壊れたのも、STAP細胞的現象が生じた原因も、別の要因によるものだったかもしれない。とくに常温核融合事件の場合は、3人の研究者が、ひょっとしたら電気分解で核融合が生じるかもしれないと考えて実験をしていたのだから、試験管が壊れて電解液で床が水浸しになったのを見て、「やった」と思ったとしても。人間心理としてありうる話だと思う。STAP細胞事件も、同様に解明不可能だったほかの要因でSTAP細胞と勘違いするような現象が生じた可能性は否定できない。
 科学者、研究者が、そうしたケースで陥りやすいのは、功名心に奔ってしまうためだ。そうなると、試験管の中で核融合が生じることを「証明」するために、データの改ざんに手を染めてしまう。小保方氏の場合も、「私は200回以上STAP細胞の作製に成功した」などとウソをつかざるを得なくなってしまう。
 
 彼らは決して最初から研究をねつ造しようとしたわけではない。ねつ造は必ずバレる。そんなリスクを冒さなければならない状況に追いつめられていたわけでもない。どうして、どこかで踏み止まれなかったのだろうか。バレたら、すべてを失うことが分かっていたはずなのに。
 こうした過ちは誰でも犯しやすい。総務審議官という事務次官級ポストについていた山田真貴子氏(現首相広報官)をはじめとする総務省幹部が東北新社から過大な接待を受けていた事件もそうだ。すべて許認可に関する重要な関係を有する地位にあった幹部ばかりだ。「利害関係者とは知らなかった」などと言う言い逃れが国民から受け入れられると思うほど、国民はアホだとでも思いこんでいたのだろうか。
 山田氏の7万円超の接待は論外としても、全員2万円以上の接待を受けていた。どこかで踏み止まろうとした人は誰もいなかった。誰でも人間、間違いを犯すことはある。気が付いたとき、踏み止まれる人間と、踏み止まれず流されてしまう人間の差は、私たちが考えているよりはるかに大きい。
 山田氏は接待を受けた金額を返済し、自ら月学給与の6割を返納するらしい。
それで、何もなかったことにできるのであれば、日本は「犯罪天国」の汚名を永遠に返上することができなくなる。
 公務員倫理規定は、確かに法律ではない。だから違反したとしても犯罪ではない。
 山田氏をはじめ、総務省の高級官僚はそううそぶいて、「人のうわさも75日」で禊は済むと思っているのだろうか。公務員としての倫理観を完全に失った人を、どういう理由かはわからないが首相広報官にとどめている総理が、国民から見放される日は遠くない。少なくとも高級官僚を接待した側の東北新社は社長が辞任し、関係者の処分も厳しく行っている。
 日本の古くて良き精神的規範だった「恥」は死語になったのか。