小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

今年最後のブログーー消費税増税とアベノミクスの再検証

2018-12-30 03:11:58 | Weblog
 今年もいろいろあった。流行語大賞は昨年と同様、事前に予想されていた通り「そだね」になった。一方今年の漢字は、予想もつかないケースが目立った。とくに安倍総理の「転」にはびっくりした。
「転」は音読みすれば「転換」や「転機」の「てん」だが、訓読みすれば「ころ(ぶ)」である。今年、何が「転換」あるいは「転機」になったのか、いろいろ考えたが、何も変わっていない。景気が良くなったわけでもないし、あえて言えば3月に米トランプ大統領が始めた保護貿易主義まる出しの関税強化政策と、それに正面から対抗した中国との貿易戦争くらいしか思い浮かばない。とすれば音読みではなく、訓読みの「ころぶ」を意図した感じというのが私の結論だ。「わかっているなら、はよ転んでくれや」。
 あっ、消費税増税を決めたことか。「消費税増税の前にやらなければならないことが山ほどあるだろう」という正論もあるが、私自身は消費税増税は日本の財政状態から考えてやむを得ないと思っている。
 が、増税による景気後退を何とか食い止めるために様々な「景気対策」を打つという。
 そうなると、ちょっと待ってよ、と言いたくなる。
 安部さんはこれまで「アベノミクスは成功している」と言い続けてきたはずではなかったか。第2次安倍政権がスタートしたのは2012年12月26日。つまり丸6年になる。安部政権は「デフレ不況脱却」を経済政策の基本線に据え、黒田日銀総裁とタッグを組んで、これ以上は不可能といえるほどの金融緩和で景気を刺激しようとしてきた。確かに富裕層の潤沢な資金が株式市場に向かって、日経平均は一時、バブル崩壊以降の最高値を更新するなど、証券業界は大いに潤った6年間だった。
 また、これは安部さんだけの責任とは言えないが、東京オリンピック開催が決まって都心のマンションやホテル建設ラッシュで、崩壊寸前だった金融機関は一息ついたようだ。日銀のマイナス金利政策で悲鳴を上げ、店舗網縮小を打ち出していたメガバンクは、少なくとも現時点ではその動きをストップしている。しかしこの不動産バブルがいつまで続くことやら?
 なお安部さんと黒田さんが「デフレ不況脱出」の目安としてきた消費者物価指数(前年同期比)は、この6年間、一度も目標として掲げてきた2%に達したことはなかった。だから日銀もマイナス金利政策にストップをかけることができず、金融機関の融資先はきわめてリスキーな不動産関連融資とサラ金事業に前のめりにならざるを得ない状態が続いている。
 一方アメリカは今年に入って一度も消費者物価指数がプラス2%を割ったことがなく、米州貿易戦争のあおりで5~9月にかけて3%近い物価上昇率を記録、そのため物価安定を図るためFRB(アメリカの中央銀行)は10月までに3度の利上げを行い、11月の物価上昇率は安部さんもうらやむ2.2%と、理想的な水準に戻った。が、12月18日、FRBのパウエル議長は何をトチ狂ったのか、4度目の利上げを発表した。利上げつまり金融引き締めは景気を後退させる。パウエル氏は来年も利上げを行うというから、アメリカは下手をするとスタグフレーションに陥りかねない。パウエル氏はアメリカ経済の持続的景気を目的にするのではなく、トランプ政権打倒のための金利政策に踏み切ったとしか考えられない。アメリカの大統領は日本の総理大臣と違って強大な権力を有しており、トランプ大統領の気まぐれ政策に対して権力の中枢からも反発の声が次々に生じ、そのたびにトランプ氏は「モグラ叩き」を余儀なくされている。おかげでニューヨークダウは急速に下落し、連れションで日経平均も大幅下落した。
 アベノミクスが順調に成果を上げているというなら、2%程度の消費税増税でおたおたして景気の冷え込みを心配することはないだろう。軽減税率一つとっても、当初は生鮮食品など未加工食料品に絞るはずだったが、いつの間にか加工食品にまで対象を広げ、結果、大混乱を引き起こした。コンビニやスパーなどでのイートインは「外食に当たる」という判断から軽減税率の対象外としたことで大きな矛盾が生じる結果になった。つまり食べる場所が店内なら10%、店外なら8%ということで、そうなると宅配の鮨やピザは「配達」という店内飲食以上のサービスを伴うのに、軽減税率の対象になるということになった。これって、だれもおかしいと思わないのかな?
 まして零細業者を対象にポイント還元までやるという。安部さんに言わせれば「キャッシュレス化を進めるため」らしいが、なぜ消費税増税とくっつけてやるのか、説明は一切ないし、野党も追及していない。竹下内閣が行った消費税導入時は「年間売り上げ3000万円以下の店や個人は消費税をとらなくてもいい」ということにした(今は1000万円以下)。
 言っておくが、消費税は預り金であり、零細小売店や個人は「消費税を預からなくてもいい」という意味で、「預かった消費税をネコババしてもいい」という意味ではない。が、悪質な零細小売業者が少なくなく、消費税上乗せ名目で値上げしながら、客から預かった消費税をネコババするケースが後を絶たず、安部さんが無理やり消費税増税とキャッシュレス化を同時に行おうとしているのは「ネコババ」のあぶり出しが目的だからだ。キャッシュレス化を行うにはクレジットカードや電子マネーでの支払いができるレジスターの導入が必要になり、レジスター導入のコストの大半を政府が負担してまで強行しようというのは、そのためでしかない。
 もっとも小売業者のほうも、かなり悪質なケースが目立つ。橋本内閣が消費税増税時(3%→5%)に、小売業者に内税方式を義務付けた。つまり小売価格にあらかじめ5%分の消費税を含めて販売価格を表示しろというわけだ。その時メディアは一斉に将来の再増税をやりやすくするためと論じていたが、安倍内閣は8%増税時にその縛りを外してしまった。その結果、どういうことが生じたか。さすがに大手小売業者は小ずるいことはしなかったが、中小零細の小売業者(飲食店を含む)は、5%の消費税を含んだ従来の小売価格に8%の消費税を上乗せするというアコギなことをした。つまり、そういう店で客は実質13%の消費税を支払わされてきたのである。はっきり言えば、そうした悪徳小売業者(飲食店を含む)をあぶりだすことが、消費税増税とキャッシュレス化を同時に行う目的であり、そのためには一時的に逆ザヤになる5ポイント還元さえ辞さずというのが、ばかげた景気対策の実態なのだ。
 それならそれで、そうした目的を国民にはっきり言えばいい。そのうえで、時限立法的な5ポイント還元などというまやかしサービスで国民をごまかすのではなく、国がすべての小売業者(飲食店を含む)に同一規格のレジスター設置を義務付け、無償で貸与するようにすればいい。消費税のネコババ防止のためなら、それが一番効果的だ。まさか、貨幣の製造にかかるコストを削減することがキャッシュレス化の目的ではあるまい。
 さらに国民を愚弄した「景気対策」がある。プレミアム商品券と称するものだ。これは消費税増税が低所得層に与える打撃を緩和する目的で発行される金券で、1枚500円分の商品券を住民税非課税世帯と0~2歳の幼児を子育て中の世帯に限って最大500枚まで買えるという。子育て世代はこの金券で買い物をするのに抵抗感を覚えないだろうが、低所得の高齢者はかなりの苦痛を感じると思う。「私は貧乏人です」という看板を首にぶら下げて買い物をするようなものだからだ。悪評サクサクとなることは目に見えている。また、プレミアム商品券を買うにもかなりの抵抗があるはずだ。おそらく市役所とか区役所だろうが、利便性を考えて郵便局でも、ということにすると市役所なり区役所なりから送付されてくるだろう「低所得者証明書」を持っていかなければ購入できない。当然「近所の人の目」が気になる。
 私は前に書いたブログでも、低所得者には(子育て世帯を含めてもいいが)恒久的な給付金支給制度を設けて、消費税増税による負担増の軽減化を図るべきだと思う。
 また軽減税率の導入に関しては新聞は対象から外すべきだし、また加工食品(弁当など)については店内のイートインか持ち帰りかを基準にすべきではなく、飲食に伴う店側のサービスが行われるか否かを基準にすべきだと主張してきた。そうすれば、店側のサービスが一切ないコンビニやスーパーでのイートインは軽減対象にできるし、一方過剰サービスともいえる宅配は店外での飲食であっても軽減対象から外すことができる。イートインが軽減されずに宅配が軽減されることに、国民が納得するだろうか。極めて非条理な軽減税率システムと言わざるを得ない。官僚や政治家が机の上でだけ増税対策を考えると、こういうばかげた案しか出ないという格好のケースだ。言っておくが、寿司やピザ、ファミレスなどが提供している宅配サービスは例えば1500円以上とか金額の制限がある。貧乏人には無縁のサービスだ。また宅配ではなく、取りに行けば料金がサービスされる。もちろん同じ寿司であり、ピザだ。そういう下々(しもじも)の実情を、官僚や政治家はわかっているのかいな?

 次にアベノミクスは本当に成功したのかを検証する。これまでもすでに何度も検証作業は行ってきたが、今回は新しい視点を入れて再検証したい。その新しい視点とは、アベノミクスが行ってきた経済政策についての本質的な疑問についてである。
 安部第2次政権が誕生した時、安倍総理は「デフレ不況からの脱却」を基本的目標にした経済政策を打ち出した。当初の経済政策は「金融緩和による円安誘導で日本企業の輸出競争力の回復」と「大胆な財政出動(※ハコモノ公共事業を推進すること)で景気を刺激する」という2本柱だった。のちに「成長戦略」なるものが加わって「アベノミクスの3本の矢」と称するようになるが、最初は二つだけだった。
 まずデフレ、インフレについての経済認識基準であるが、過度のインフレやデフレを別にすれば、適度のデフレ状態は生産者にとっては困るが、消費者にとっては返って好ましい状態である。逆に適度のインフレ状態は生産者にとっては望ましいが、消費者にとっては(物価上昇率を上回る収入増がなければ)生活が苦しくなる。デフレは通貨の価値が高まり、インフレは通貨の価値が下落するからである。
 そこで、安倍総理はなぜ「デフレ脱却」を経済政策の柱にしたかである。はっきり言えば「経済成長至上主義」が安倍総理の思考法の原点にあったからだ。経済成長の指数は一般にGDP(国内総生産)によってあらわされるが、なぜGDPを上げ続けなければならないのか、という基本的な問題に安倍総理は答えていない。論理的根拠を抜きにしたGDP神話の信奉は、宗教と何ら変わるところがない。
 翻って安部第2次政権が発足した時期も今も、日本経済を支える基幹的要素は変わっていない。というより、より悪化しており、今後も改善に向かう可能性はほぼゼロといっていい。その基幹的要素とは「少子高齢化」の波である。
 私は高度経済成長時代もバブル時代も経験してきたが、私たちの年代(現在、後期高齢者)の進学率は極めて低かった。私の小学校のクラス(40数人だったと思う)のうち4年制大学に進学したのは男子生徒で7~8割いたが、女子生徒は一人だけだった(当時専門学校はまだなかったと思う)。大学に進学した女生徒はとくに学力優秀だったというわけではなく、親が地元で有数の資産家だった。小学校は、いまでは都内でも有数の高級住宅地とされている世田谷区深沢である。
 私たちの世代がバリバリの現役世代だったころ、日本は高度経済成長時代に突入した。中卒で就職した人たちは、東京では大田区を中心とした工業部品メーカーに就職し、関西では東大阪市の部品メーカーに就職した。彼らは「金の卵」と呼ばれ、日本の高度技術製品の信頼性を底辺で支えてきた貴重な人材だった。日本の金型の精度は世界一と高く評価されていたが、それは「金の卵」の技能者たちの血と汗の経験のたまものだった。今「金の卵」は死語と化している。日本経済の高度成長により一般家庭もそれなりに豊かになり、子供たちの高学歴化が急速に進んで中卒で就職する人が激減したためだ。
 そうした傾向は女性のほうにより顕著に表れた。今年度の4年制大学進学率は男性51.1%、女性47.8%と、男女差はわずか3.3%でしかない。短大まで含めると大学進学率は男性52.1%、女性57.3%と、完全に逆転している。一時は女性の間で、就職には4大卒より短大卒のほうが有利という状況もあったが、いまは企業も優秀な女子社員を求める傾向が強くなり、有能な女性は短大より有名4大を目指すようになっているという。
 かつて高度経済成長時代、「男はバリバリ仕事をして金を稼ぎ、女は結婚したら家庭に入って子育てに専念する」という風潮があった。実際、これは偶然だが、私が結婚してアパートに新居を構えた時、そのアパートが新築だったこともあって全6世帯がすべて新婚で、奥さん方は全員仕事を辞めて専業主婦になった。また女子社員は20代半ばを過ぎると上司から「寿退社の相手はまだいないの?」と、やんわり肩をたたかれる時代でもあった。戦後のベビーブームもあって若い働き手が余っていた時代でもあった。
 いま核家族化が急速に進み、小さい子供の世話をしてくれる祖父母が近くにいないということもあり、ただでさえ女性にとって子育ては大変な重労働になっている。しかも女性の高学歴化に合わせて、社会も女性の活用を求めるようになり、女性が子育てや家庭を守るといった社会的風潮は今や過去のものになっている。女性の高学歴化とともに、社会も女性労働力の活用を要求するようになり、女性がかつての男性と同様、仕事や社会の中で新たな生きがいを求めるようになるのは当然の帰結である。ということは、今後いかなる政策をとっても少子化の流れは止められないということを意味する。
 そういう時代の流れがわかっていたら、保育園づくりについての考え方も考え直す必要があることは中学生でもわかるだろう。少なくとも保育園を増やせば増やすほど、女性の新しい生き方や価値観を支援することになり、少子化はますます加速することを。女性が新しい生き方を求めることを私は非難するわけではないが、「自分の生き方のために税金を使ってくれ」というのは、いかがなものかと思う。民放の報道番組によれば「企業内保育所」の不備が今問題になっているようだが、女性が安心して子供を預けられるような企業内保育の環境を整えることが、ひいては女性の活用を高めることになることに企業は理解を深める必要があるだろう。
 いずれにせよ、少子化に伴う労働力不足は今後、ますます増大する。そこで、私たちはこれからの日本という国の在り方はどうあるべきかを、国民全員で考えるべき時に差し掛かっているのではないか。労働力不足が続く中でなおGDP神話にしがみついて経済成長至上主義の政策を継続すべきか、それとも身の丈にあった国づくりに方向転換すべきかの曲がり角に、いま日本は来ているのではないか。与野党もメディアもそうした問題提起や議論をまったくしていないのはどういうわけか。アホばっかりそろっているからか…。
 経済成長至上主義の政策を続けるのであれば、私が12月10日に投降したブログ『外国人労働者受け入れで、日本がどう変わる?――人手不足の対症療法で日本の国のかたちが変わることも…』で書いたように、日本が日本でなくなる日が来る可能性も否定できない。「それが新しい日本になってもいいではないか」という考えがあってもいい、とは私は考えているが、そういう大事なことを当面の人手不足対策の対症療法政策で決めてしまってもいいのか。
 アベノミクスのそもそもの間違いは、金融緩和で通貨の価値を下落させれば、通貨の価値がさらに下落する前にものに替えようという需要が増えてデフレから脱却できると短絡的に考えたことにある。しかし、日本の家計金融資産総額1829兆円(8月14日発表の日銀レポートによる)の大半は高齢者富裕層に集中しており、そういう富裕層は自らの金融資産の下落を回避するため、株や不動産に投資しただけで肝心の消費は上向かない。高齢者富裕層は欲しいものはすでに持っており、金融緩和によって通貨価値が下落しても、いまのうちに消費生活をより豊かにしようなどとは考えてくれない。
 だから私は、第2次安倍政権が誕生した時に、ブログ『新政権への期待と課題』で、相続税と贈与税の関係を逆転させて、高齢者富裕層がため込んでいる金を子供や孫への移転を促進すべきだと書いたのだが、やることがせこくて中途半端だから効果が十分に表れない。
 そもそも日本が相続税を軽くして贈与税を重くしてきたのは、明治維新以来日本の産業を近代化、高度化するために国民に貯蓄を奨励し、産業界への資金供給するための政策の一環だった。そのため日本は、おそらく金融機関の総店舗数(国民1人当たり)が世界で突出するほどの数に達しているはずだ。すでに日本の金融機関は国民から産業界が必要とする資金を集めるという役割を終えているのに、いまだに店舗網の集約になかなか踏み切れない。年功序列終身雇用という、いまや幻と化した日本型雇用形態にしがみついているためだ。
 そうした日本の置かれている状況を十分理解できずに、経済成長至上主義の政策を続けることが日本の国益にかなうと考えたのがアベノミクスの悲劇であった。

 年の終わりで、私も何かと忙しい。この辺で今年最後のブログを終えるが、マティス国防長官を辞任に追い込み、パウエルFRB議長の解任に躍起になっている米トランプ大統領政権に新名称を授与する。
「モグラ叩き政権」
 どうですか。なかなかいいネーミングだと思いませんか。

【追記】今日(30日)、アメリカ抜きに日本など11か国でTPP(環太平洋経済連携協定)がスタートする。日本の工業製品の輸出は増えることが期待されているが、その一方、海外の農産物や畜産物は輸入が急増して供給過多になる可能性がある。需要が供給を上回れば、その分野ではデフレ状況になる。最悪の場合、デフレによる物価下落と生産者の淘汰が進むというデフレスパイラルに陥る危険性もある。昔から「豊作貧乏」という言葉もあるではないか。豊作ではなくても、輸入による供給過多は同じ現象を生む。
 政府は日本の農家や畜産家を守るといっているが、どうやって守るのか。関税を引き下げてもセーフガードで輸入制限すれば、他のTPP諸国から非難が殺到することは間違いない。
 いかなる政策もプラスの面だけではなく、マイナスの面も不可避的に伴う。とくに経済政策は利害が相対する生産者と消費者のどちらに軸足を置くかで、有利になる側と不利になる側が必然的に生じる。にもかかわらず、政治家はそのことを正直に国民に説明しない。メディアもまた、わかっているのかわかっていないのか不明だが、そうした深刻な問題には目をつむる。こうして肝心の国民が置いてけぼりにされた政治が進む。
 
 読者の皆さん、今年も有難うございました。では、あまり期待できそうもない新しいお年を。あっ、私のブログだけは期待してください。

 

東名あおり事故判決ーー横浜地裁も世論に迎合したのか?

2018-12-17 11:12:17 | Weblog
 韓国の大法院(日本の最高裁に相当)が下した、いわゆる「徴用工判決」が,日本では「反日世論に迎合した」と厳しい目で見られているが、横浜地裁が14日に下した「東名あおり運転事故判決」もまた厳しい量刑を望んだ世論に迎合した内容だった。
 あらかじめ言っておくが、私は石橋被告を擁護するつもりは毛頭ない。量刑自体としては、犯行の悪質性を鑑みてもっと重い量刑を下してもよかったとさえ考えているくらいだ。
 最高裁でも、世論に迎合する判決を下したことがある。すでにブログで書いたが、「オウム事件裁判」のことだ。最高裁は最後の13人目の被告に死刑判決を下し(今年1月)、すでに全員が死刑に処せられた。7月6日に13人の死刑囚のうち6人が一度に死刑に処せられた後、私は9日に投降したブログでこう書いた。

 私がオウム裁判について疑問に思うのは、最高裁判事までもが世論に迎合したと思えることだ。死刑判決の基準としては、長い間「永山判決」が重視されてきた。この判決で最高裁が下した死刑判決の基準は9つある。難しい裁判用語は避けて、多少正確性を欠くかもしれないが、要点をまとめる。
① 犯行の方法(残虐性など)
② 犯行の動機(身勝手さ、同情できる余地の郵務)
③ 計画性(殺意の程度)
④ 被害者の数(犯行の重大性)
⑤ 遺族の被害感情(幼い子供の親とか配偶者などが抱く感情)
⑥ 社会的影響(メディアの取り上げ方)
⑦ 犯人の年齢や学歴、生育環境
⑧ 前科の有無と事件内容
⑨ 犯行後や逮捕後の態度(自首、反省の態度)
これらの9項目に合致するオウム死刑囚は13人のうち何人いたか。私ははなはだしく合理性に欠けると思わざるを得ない。
決定的なのは、犯行の実行者であり、かつ明確な殺意があったか否かの認定である。犯行の実行者というのは、実際に殺害行為を行った人物でなければならない。凶器となったサリンを車で運搬した行為が共同正犯に相当するのか。こうした解釈が最高裁で認められるということになると、いわゆる「共謀法」より恐ろしいことになる。今度の事件で、オウム事件の判例に従い「凶器を運べば、即共同正犯」という解釈が正当化されかねないからだ。(中略)
オウム判決は、共謀法より恐ろしい判例となりうることへの警鐘を、だれも鳴らさないことへの強い憤りを私は抱いている。
最高裁判決は、ほとんどの人が正しいと思っている。とんでもない。オウム事件に関しては、一種の魔女狩りを求める空気が社会に醸成されていた。そうした空気に、最高裁も逆らえなかったのか、あるいは判事自身がそうした空気に呑み込まれていたのか。
この判決が今後、権力に対する市民の抵抗運動に対する弾圧を正当化する基準になりうる危険性を、私は最後に指摘しておく。

横浜地裁の判決(23年の懲役求刑に対して18年の懲役刑)に、私はオウム判決との共通性を強く感じる。この事故の後、とくに民放の報道番組があおり運転のケースを多く取り上げるようになり、その結果世論も石橋被告のあおり運転の悪質性に厳しい憤りを抱いたことが、この判決に反映されなかったとは言えない。とりわけ裁判員に与えた心象は大きかったと思う。
確かに石橋被告に対して同情すべき余地は全くない。高速道路のサービスイリアでの駐車違反場所でタバコを吸うため車を止めて注意されたことに腹を立て、執拗にあおり運転を繰り返し、あまつさえ追い越し車線上で無理やり被害者の車を停止させ、事故を誘引した行為は同情すべき余地は全くない。が、行為と結果との因果関係について石橋被告に殺意に相当するほどの故意を認めることは、私は困難だと思う。とくに石橋被告がやむを得ず車を停車した被害者の胸ぐらをつかんで車から引きずり出そうとして「殺してやろうか」と脅した行為が、車を停車させた行為が結果を予測していなかったことを明白に物語っている。
被告側が控訴するか否かは現時点では不明だが、私がこの裁判で最も重要視していることは、なぜ自動車事故に関してだけ「特別法」にしているのかということだ。そもそも道交法は何のためにあるのか。
道交法は基本的に、危険な運転や交通の妨げになるような走行や駐車を違反行為として罰則を定めている。だから道交法に違反した場合は罰金か免許停止・取り消しなどの処分が下される。
問題は道交法に違反した走行や駐車違反によって人的・物的損傷事故を生じた場合である。かつては自動車走行による人的事故は一般刑法の業務上過失致死傷罪(5年以下の懲役または50万円以下の罰金)を適用していた。が、その量刑の最高限度が軽すぎるということで危険運転致死傷罪が作られた(2001年)。こうした対策が、そもそも問題だった。
よく知られているように、危険運転致死傷罪は東名高速道路で飲酒運転したトラックが乗用車に追突、炎上させ、後部座席の二人の幼い子供を焼死させた事件(1999年11月)と、無免許の建設作業員が飲酒したうえ神奈川県座間市で検問を猛スピードで突破し、歩道に突っ込んで大学生2人を死亡させた事件がきっかけで生まれた。最高量刑は20年と大幅に強化されたが、危険運転と認定できるためのハードルが極めて高く、一種の「無用の長物」扱いされてきた。
そのため2007年には一般の業務上過失致死傷罪の中で特に自動車事故については自動車運転過失致死傷罪(最高懲役7年)が設けられた。が、それでも危険運転と自動車運転過失との量刑の差が大きすぎ、また危険運転に問うハードルが高すぎるため大半の事故裁判では、最長懲役7年の自動車運転過失致死傷罪を適用する状態が続いていた。
その後しばらく社会問題になるような大きな自動車事故が生じなかったが、11年4月に栃木県鹿沼市でてんかんの持病を隠して運転免許を取得した人がクレーン車で事故を起こして児童6人を死亡させたり、12年4月には京都府亀岡市で無免許運転の少年が集団登校の列に突っ込んで生徒と保護者が死傷するといった事故が発生し、被害者や遺族が危険運転致死傷罪に問えるよう声をあげ、またメディアもその声を支持したため、13年11月に「自動車運転死傷行為処罰法」という法律(あくまで罪名ではない。つまりこれまでの量刑の隙間を法律で埋めるという小手先のごまかし)を成立させた。この法律の施行により危険運転致死傷罪の適用範囲が多少拡大され、また過失運転致死傷アルコール等影響発覚免脱罪(最長12年の懲役)が設けられた。
この、ことあるたびに行われてきた対症療法的対策に対して、私は14年1月10日から17日まで5回にわたってブログ『法務省官僚が世論とマスコミに屈服して、とんでもない法律を作った』を連載した。そのブログの最終回で私は死刑問題にも触れた。
日本で最高の量刑は言うまでもなく死刑だが、死刑の次に重いのは無期懲役である。勘違いしている人が少なくないようだが、無期刑は終身刑とは違う。無期とはあくまで期限を定めないという意味で、一定の年月、模範囚として刑に服していれば、仮釈放という形で社会復帰できる。死刑と無期懲役の間のギャップは危険運転致死傷罪と自動車運転過失致死傷罪のギャップよりはるかに大きい。死刑に処せられた被告には、仮生還など不可能だからだ。
ちなみに宗教観が違うせいもあるが、欧米では死刑という制度を廃止している国が多く(アメリカは州法で量刑を決めているため死刑廃止の州と存続の州がある)、日本にも死刑廃止論者もいるが国民の80%は死刑存続派である。が、死刑と無期懲役のあいだに「仮釈放なしの終身刑」という刑罰を設けたら世論はどうなるか。おそらく死刑廃止論者が多数を占めるのではないかと、私は思っている。
法律用語に「未必の故意」というのがある。裁判小説(法廷小説とも)の読者ならご存知だと思うが、故意ではないが事故を起こす可能性を認識していながら行った行為によって生じた事故に適用される。欧米ではかなり広く解釈されているようだが、日本では危険運転のハードルより高い。「事故を起こすかもしれないという認識があった」ことの証明は極めて難しい。今の日本の裁判のやり方では、この証明を検察や被害者側がするのは極めて困難である。
しかし、「クルマは走る凶器」とは、車を運転するひとには常識である。少なくとも運転免許を取得する過程や免許更新時の講習や講習代わりのビデオで散々聞かされているはずだ。そういう自覚を持っていない人はそもそも自動車を運転する資格がない。
そしてすでに述べたように、道交法は危険運転(飲酒、薬物、、信号無視、スピード違反など、駐車違反も場所によっては単なる交通の妨げにとどまらず危険な場合もある)を防ぐことが最大の目的である。つまり道交法に違反した運転をして事故を起こせば、その時点で「未必の故意」が成立すると考えることはきわめて合理的である。
その考えに立てば、何も自動車事故に限って一般刑法とは別に特別法で自動車事故関連法を設ける必要はなくなる。事故の内容により、「未必の故意による殺人罪」「未必の故意による傷害罪」「未必の故意による器物損傷罪」で起訴できるし、運転の悪質性によって限りなく「故意による殺人罪」の量刑に近づけることもできる。

ついでに増え続ける高齢者事故についてひと言(ひと言ではすまないが)。
私は70歳になった時免許を返上した。その1,2年前に当時5歳くらいだった孫からウィ・フィットというテレビゲームで挑戦され、とてもかなわなかったことから、高齢者になればとっさの時に正確な運転操作や判断力に自信が持てなくなるだろうと考えたため、かわいい孫を悲しませたくないという一心で免許を返上することにした。
私は論理的思考力についてはまだ若い者には負けないという自負を持っているが、間違いなく認知症は進行しており、大切なものをどこにしまったのか忘れて困り果てることなどしばしばある。私は高齢者の事故原因の多くが認知症にあるとは考えていないが、10年ほど前に警察庁長官と国家公安イン会委員長あてに高齢者免許制度改革について提案したことがある。ウィ・フィットのようなとっさの判断力と操作技術を簡単に検査できる方法を導入すべきだという提案だったが、完全に無視され、代わりにばかげた認知症検査を義務付けることにした。
私がもし免許を返上せず事故を起こして起訴されたら、裁判官に対して「私を起訴するのはお門違いだ。起訴すべき相手は、私のような運転不適格者に免許更新を認めた(都道府県の)公安委員長か警察本部長を起訴すべきだ。私が免許を更新できていなかったら、当然事故も起きていないはずだ。一般の自動車事故は減り続けているのに高齢者の事故だけが増え続けているのは、公安委員長と警察本部長の怠慢による」と主張する。
自動車を高速道路の、しかも追い越し車線で被害者のクルマを停車させた行為は「危険運転に相当しない」という認識を示しながら、その直前のあおり運転との因果関係を重視して危険運転致死傷罪を適用した横浜地裁の裁判官は、私のような高齢者が事故を起こした場合でも、運転不適格者に免許を更新させた責任者との因果関係を重視して公安委員長か警察本部長を処罰してくれるだろう。「きわめて画期的な判決であり、これで高齢者の事故も減るに違いない」と、国民やメディアは拍手喝采してくれるだろう。


「外国人労働者受け入れ」で、日本がどう変わる?--「人手不足の対症療法」で日本の「国のかたち」が変わることも…。

2018-12-10 01:03:06 | Weblog
 今日10日に閉会する臨時国会で、与党側の数の力にものを言わせた強行採決が続いた。野党の足並みも乱れ、6日には「命のインフラ」とさえいえる水道の民営化を促進するための改正水道法が成立した。8日午前4時過ぎには出入国管理法(入管法)改正が参院本会議を通過し成立した。いずれも拙速といわれるほどの短時間の審議で、与党側が強行採決に持ち込み成立させた。
 水道法に関してはコストダウンのためと説明されているが、公営で赤字事業の運営を民間に委託すれば黒字化するという論理が、最後まで分からなかった。ボランティア事業を目的とする企業がどこにあるのか。公営で赤字垂れ流しの運営を民間に任せれば黒字化するというなら、公共事業体そのものの体質改善が先ではないか。上下水道量の検針作業など、いくらでも合理化できる方法はある。そうした抜本的対策を尽くしても、赤字体質を改善できないというなら、水道事業そのものを国営化したらいい。水道水で何らかの事故が生じた場合、「あそこの水は危ない」という風評が流れたら、その地域の住民の大半はおそらくほかの地域に移り住んでしまうだろう。水道は「命のインフラ」だからだ。民営化すれば、確かに地方自治体の赤字は減少するだろうが、民間企業が赤字事業を引き受けるわけがなく、当然ツケは利用者である地域住民に回る。「国民の命を守る」――それが政治の根幹だったはずでは?…。
 6日には参院法務委員会に安倍総理が出席して改正入管法を強行採決した。総理は委員会で「現下の人手不足に対応するため新たな受け入れ制度を早急に整備する必要があり、来年4月のスタートを目指している」と一歩も引かない姿勢を見せた。「現下の人手不足」は昨日今日始まったことだったのか。衆参合わせて40時間にも満たない議論で「十分」といえるほど問題が少ない法改正なのか。あらかじめ言っておくが、少子高齢化に歯止めがかかることは今後もありえず、政府が経済成長主義をベースに続ける限り、単純労働分野での人手不足は永遠に続く。外国人の日本での労働期間を、政府は特定技能1は滞在期間を5年と限定するから移民政策ではないと主張しているが、単純労働でも経験による作業の効率化を考えたことがあるか。また外国人も5年間、日本で暮らせば日本語も上手になるだろうし、職場環境への順応性も高まるのは当然だ。そうした外国人労働者を、「5年たったから帰国してください」という処置をとれば、外国人労働者を雇用してきた事業者は猛反発する。その時政府は間違いなく事業者の要求にこたえて滞在期間を延長する。いつか彼らは日本に骨をうずめることになり、その家族も日本に永住することになる。つまり事実上の移民政策になることは必至だ。滞在期間の制限を設けず家族の滞在も認める特定技能2の労働者が日本人への帰化を要求したらどうする?
 後でも改めて書くつもりだが、私は移民政策に必ずしも反対ではない。かつては日本も人余り状態になっていた時期があり、南米などに日本人を積極的に移民を促していた時期もある。しかし人余りの時期には「海外で一旗あげてください」といった移民政策をとり、人手が足りなくなったら屁理屈をつけて外国人労働力を受け入れようといったご都合主義的政策が、海外の人たちから「日本は信頼できる国だ」という評価を受けられるだろうか。
 また国会で、「人手不足に対する対症療法」という点では、実は本質的議論ぬきにして、与野党ともに基本的スタンスは変わらない。野党が執拗に追求した外国人の技能実習生の「失踪問題」についても、法務省入国管理局が失踪者から聞き取り調査したとされる「失踪理由」のデータごまかし問題もあったが、審議は衆参合わせて40時間にも満たず、なぜそんなに急ぐ必要があるのかという疑問は与党内でも生じている。
 実際、野党も外国人労働者の受け入れについてはほぼ前向きである。なぜ外国人労働者を受け入れる必要があるのか、受け入れた結果、日本社会がどういう変貌を遂げるのかという本質的な問題をまったく議論せずにだ。日本という「国のかたち」を変えるかもしれない重要な法案が、国民的議論を経ずに「対症療法だから」で成立させてしまっていいのか。私は怒りを通り越して、憤りさえ感じる。
 実は私自身は、移民政策に必ずしも反対ではない。ただし、そういう大事なことを国民にいっさい問わず、政治家が国会だけで決めるというのはいかがなものかと思っている。

 日本は明治維新以降、戦後の一時期も含めて移民政策ととってきた。ただし、この移民政策は「人余り」を解消するために、主に農地開拓民として海外に移住させるという移民政策だった。先の大戦中は逆に労働力不足を補うため朝鮮人を徴用し、炭鉱などでの過酷な肉体労働に従事させた。戦後もそのまま日本に残った朝鮮出身者は姓名を変えて日本に帰化した。いま、飛ぶ鳥も落とす勢いの孫正義氏もそうした出自の持ち主で、実際、彼の父親は日本姓を名乗っていた。彼自身は自らの姓に誇りを持ち、米留学中に知り合った日本人女性と結婚して新しく戸籍を作ることになった時、役所で「孫」姓は日本にはないことを理由に日本人姓への変更を求められたことがあるくらいだ。やむを得ず孫氏は結婚によって孫姓になった妻にまず戸籍を作らせ、そのうえで役所に日本人として孫姓を認めさせたといういきさつもあった。
 
 しかし、政治というのはいつまでもご都合主義的な対症療法の政策を続けるべきではない、と私は考えている。日本の50年後、100年後、あるいはさらにその先のことを見据えて、「日本の国づくり」あるいは「日本という国のかたち」はどうあるべきかを国民とともに議論をし尽くしたうえで大きな枠組みを作り直すべき時期に来ていると思う。そういう意味では憲法改正問題と同様、国民の合意なくしてなし崩し的に外国人労働者を受け入れるやり方そのものが、改めて問われるべきではないかと思っている。
 政府は現在の人で不足を補う必要から、労働力が不足している産業を中心に外国人労働者を受け入れると主張している。が、受け入れる労働者は移民ではなく、一定の期間が過ぎたら帰国してもらうという(特定技能1の場合)。こういう考え方を、ご都合主義と言うのではなかったのか?
 少子高齢化に悩んでいるのは日本だけではない。欧米先進国はおろか、長い間「一人っ子」政策を続けてきた中国ですら、複雑な人口問題を抱えるようになっている。中国ではよく知られているように、戸籍差別政策が行われている。都市戸籍と農村戸籍で、相互の移転は容易ではない。中国で食糧難問題が生じたとき、人口減少のため「一人っ子」政策をとった。が、その後、中国が「世界の工場」といわれるような近代産業の発展に成功した結果、都市部を中心に「一人っ子」政策の付けが生じた。都市人口が不足するようになったのだ。
 実は都市と農村の生活格差は中国だけの問題ではなく、日本を含め先進国共通の問題でもある。しかも戸籍差別政策をとっている中国と異なり、自由主義国家では人口の移動は自由である。どの国でも交通インフラをはじめ生活の利便性が格段に高い大都市への地方からの人口流入が激しく、しかも大都市住民の高学歴化とりわけ女性の高学歴化が急速に進んだ。先の大戦後、先進国は勝手に海外の紛争に武力介入してきたアメリカや旧ソ連を除き、平和を享受しながら経済発展を遂げ、都市住民の生活水準は世界史に例をみないほどのペースで向上した。生活水準の向上とともに、人々の生活の多様化も進み、特に高学歴化した若い人たちは3K(きつい・汚い・危険)と呼ばれた現業の肉体労働を忌避するようになり、特に高学歴女性は子育てや家庭を守るといった過去の価値観から脱皮し、社会生活の中での生きがいを強く求めるようになった。核家族化の急速な進行によって、子育てを祖父母に頼めるという環境も減少した。少子化はこうして生じた社会現象であり、先進国共通の問題でもある。
また科学技術の発展は工業製品にとどまらず医療分野でも急速に進み、食生活の改善も伴って長寿化も進んだ。つまり高齢化現象だ。
こうした大きな社会の流れは、もはや止めることはできない。少子高齢化による労働力、とりわけ3Kの肉体労働者不足は先進国共通の問題であり、だから途上国の若い労働力は奪い合いの状態になっている。「選ぶより選ばれるようにならないと」といった議論が出てくるのもそのせいだ。
改めて言っておくが、少子高齢化の波は絶対に止められない。ということは、これからも日本は経済成長至上主義路線を継続すべきかどうかという、明治維新以来の大問題に直面していることを意味する。これからの日本の「国づくり」「国のかたち」をどうすべきかという大問題なのだ。
政策はしばしば真逆の結果を生む。政治家やメディアはそのことに早く気が付いてほしい。
例えば「子育て支援」と称する保育園増設政策。本当に「子育て支援」になっているのか、「少子化対策」になっているのか。実は、「子育て支援」なるキャッチフレーズは最近、保育園増設政策を正当化するために作られた言葉で、当初は「少子化対策」が目的だった。幼い子供の面倒を見てくれる祖母が近くにいないため(核家族化による)、保育園で幼い子の面倒を見ますから、せっせと子作りに励んでくださいというのが行政の狙いだった。が、その政策は完全に裏目に出た。高学歴化した女性は、二人目、三人目の子供を産み、育てることより、子育てを保育園に任せ、自らは社会の中での生きがいを求めるようになったからだ。
よーく考えなくても当たり前で、私たち世代の男性は仕事に生きがいを求め、家庭を顧みないのが当たり前という時代を送ってきた。「男が生活費を稼ぎ、女は家庭を守る」のが当たり前という社会通念もあった。
いま高学歴化した女性が、社会の中でかつての男性と同様に、仕事や仕事仲間たちとの交流に新しい生き方を求めるようになっても、それは当然のことである。そう考えれば、保育園増設政策は「子育て支援」や「少子化対策」のための政策ではなく、「女性の生き方支援」のための政策になっていることも、私たちはきちんと見極めなければならない。そのうえで、そうした政策のために税金を投入することが必要か否かを、地方選挙で政治家は地域住民に堂々と問うべきだろう。少なくとも男性は「男性の生き方支援」など受けてこなかった。私自身は女性の社会進出を歓迎しているが、女性が社会進出を目指すなら、それは自己責任で行うべきことだと考えている。
同様に、いま人手不足だからと、対症療法的な政策でやみくもに外国人労働者を受け入れることが、将来どう言う禍根を残すか、50年先、100年先を見据えながら考えるべきではないか。
政府は国会審議で最後まで「入管法改正は移民政策ではない」と主張してきたが、事実上の移民政策になることは特定技能2の対象者については滞在期間に制限を設けず、しかも家族にも同様の権利を与えるという。彼らが国籍を日本にしたいと正式な手続きを経て申請すれば、法務局は拒否できない。
15年2月11日、作家の曽野綾子氏が産経新聞にコラムを書いた。内容は日本の少子化と人口減には歯止めがかからないという前提に立ち、将来生じる労働力不足の解消策として大胆に移民を受け入れるべきだというものだった。そういう問題提起自体はどんどんしていただきたい。国民的議論を巻き起こすきっかけにもなるからだ。
問題は曾野氏がそのコラムで、移民を受け入れる場合、日本人との居住地域を分けるべきだと主張したことだった。その箇所を転記する。
「南ア・ヨハネスブルグのマンションの家族4人暮らしが標準の1区画に20~30人の黒人が住み込んで、大量の水を使ったために、いつでも水栓から水が出なくなった。その結果、白人が逃げ出して住み続けたのは黒人だけになった。居住区だけは白人・アジア人・黒人というふうに分けて住むほうがいい」
 曾野氏は敬虔なクリスチャンと聞いていたが、キリスト教の教えに合致しているとは到底思えない主張だ。南アの駐日大使が産経新聞社に抗議文を送るなど曾野氏の主張に怒りをぶつけ、言論界でも大問題になった。BSフジが3月6日の『プライム・ニュース』で曾野氏と南ア駐日大使の対談を生放送したくらいの騒動になった。私はこの番組を見た直後からブログを書き始め9日に脱稿、10日未明に投降した。ブログの全文を15年3月10日までさかのぼって探すのは読者にとっても消耗な作業だと思うが、グーグルかヤフージャパンで【曽野綾子 移民】で検索すれば検索結果の2番目に私のブログが出てくる。
 すでに安部政権が盤石になっていた時期であり、この「移民政策」騒動をきっかけに与野党で今後の国の在り方や国づくりの方向について議論を重ね、メディアを通じて国民的議論を引き起こして国民の合意が形成されていれば、この政策が将来に禍根を残す可能性をかなり少なくできたはずだ。
 が、そうした努力を一切せず、むしろヘイト・スピーチなど外国人排斥運動が激しさを増しているような状況で、経済界からの具体的要請があったのかどうかは知らないが、あまりにも思い付き的に基本設計ともいえないようなアイディア・スケッチ・レベルのような法改正をいま喫緊の課題として成立させる必要性があったとは、どうしても思えない。
 安倍総理の発想は、常に期限ありきで、憲法改正問題もそうだったし、改正入国管理法も、「議論など、尽くす必要がない。とにかく来年4月からの実施に間に合わせるよう法改正を強行しろ」という強権体質がもろに出たケースでもあった。
 日本人には「郷に入れば、郷に従え」という移住に伴う「和」の気持ちが、いいか悪いかは別にして精神的規範として定着している。が、そうした精神的規範を持っていない外国人が、日本の地域社会である程度の集団としてまとまると、その地域にはその人たちの精神的規範をベースにした「租界社会」が生まれる。こうして生じる「租界社会」と地域社会との軋轢がどうしても生じる。例えばごみの出し方ひとつとっても、「郷に入れば、郷に従う」という考え方そのものを「個人の自由を縛る」という論理で拒否されたら、地域社会と「租界社会」との軋轢は暴力沙汰や外国人排斥運動にまで発展しかねない。
 外国人労働者を受け入れる場合、そうした事態をあらかじめ回避するために、草の根からどのように外国人を受け入れるべきかを議論し、私たち日本人も多様な文化や生活習慣との共生をどう作り上げていくか、地域社会での議論を積み重ね共生方法を工夫していく必要がある。
「今、目の前にある労働力不足をとりあえず解消する」といった対処療法的法改正で、50年後、100年後にまで影響し、日本という国の在り方、国のかたちを根本から変えてしまいかねないことを、こんな無責任なやり方でやられてはたまらない。
 私は20回に及ぶ連載ブログ『民主主義とは何かが、いま問われている』で、一貫して訴えてきたことがある。
「民主主義の最大の欠陥は多数決原理にある」と。
 数さえ多くを占めることができたら、何でも問答無用で決めてしまう。燃料税の増税で暴動騒ぎを起こし、マクロン大統領を追い詰めて増税を撤回させたフランス人が、私にはまぶしく見える。

徴用工問題ーー日韓どっちに分があるか? 日本政府はかつて個人請求権を認めていた!! 

2018-12-01 01:12:32 | Weblog
「勝てば官軍、負ければ賊軍」という格言がある。格言といっても、それほど古くから定着してきた格言ではないようで、旺文社の『成語林』によれば明治維新の時に生まれたようだ。
 意味は誰も理解しているように、戦争で勝ったほうが常に「正義」であり、負けたほうは常に「不正義」だということだ。似た格言に「敗軍の将、兵を語らず」というのもある。この格言の語源は『史記』にあり、負けたほうは言い訳を一切してはいけないという意味のようだ。
 いま日韓の関係が戦後かつてないほどぎくしゃくしている。文大統領になって以降、そうした傾向に拍車がかかっているが、文氏が韓国で最初の革新派の大統領というわけでもない。革新系という意味では最初の金大中大統領の時代には、日韓関係は決して悪くなかった。日本の資金的・技術的援助で韓国は急成長しており、韓国内の対日国民感情もそれほど悪くなかったと思う。
 では、なぜ急に韓国人の対日感情がこれほど悪化したのか。韓国はいま国民生活が疲弊しているといわれる。そうした状況はリーマン・ショック以降、いまでもひきずっているらしい。とくに若い人たちの就職難はひどいという。産経新聞の18年2月5日付記事にはこうある(一部転載)。

「大学は出たけれど」。就職できない大卒者の姿を描いた小津安二郎監督(1903~1963年)による1929年公開の映画だが、これをほうふつさせるのが今の韓国だ。2017年の大卒以上の高学歴者の失業率が高校卒の失業率を上回ったという。文在寅(ムン・ジェイン)政権は雇用の創出を重要な政策課題としているが、就職難は悪化の一途。「ヘル(地獄)朝鮮」と自虐的に語られる韓国の若者の生きづらさは隣国の日本からみても痛ましい。
 「家に一人でいると、ふと『こんな生き方でいいのだろうか』と思う」。中央日報は、昼夜が逆転した生活が1年以上続き、鬱病と診断された26歳の大学生の声を伝えている。
 同紙によると、韓国では20代の鬱病患者が12年の5万2793人から16年は6万4497人と22.2%増えた。60代以上の増加率(20%)より高い。
 症状が悪化し、自ら命を絶つ人も増えているようだ。20代の死因で最も多いのは自殺で、16年の全体の自殺率は低下したが、20代は横ばいだった。
 そもそも韓国の自殺率は03年から経済協力開発機構(OECD)加盟国中ワースト1位で、1日平均36人、年間1万3092人(16年ベース)が命を絶っているという。
 これ以上、韓国若者たちの悲惨な状況をお伝えしたくない。若者たちが絶望になり、怒りの矛先を何かにぶつけたくなるのもやむを得ないとは思う。こうした場合、政権が国内に渦巻く不満のはけ口を国外に求めるのは政権維持のための常とう手段でもある。その矛先が、いま日本に向けられている。その格好の材料にされたのが慰安婦問題であり、徴用工問題ではないか。そう考えるのが文理的であろう。
 私は慰安婦問題にしても、徴用工問題にしても、当時の日本軍や日本企業を支持するつもりもないし、弁護するつもりもない。つもりはないが、やはり歴史の検証は「負ければ賊軍」「敗軍の将、兵を語らず」でいいのか、という疑問はこれまでも呈してきた。歴史の検証だけは、感情を優先せず、あくまでフェアに行うべきだというのが、私の唯一のスタンスである。
 まず慰安婦問題。これまでも書いてきたが、軍が慰安所を設置したのは事実である。なぜ、軍は慰安所を設置したか。
 誤解を恐れず書くが、占領地における日本軍兵士の性犯罪を防止するためだったと、私はかなりの確信を持って考えている。これは宗教観の相違によるが、日本人の精神的規範には仏教の教えが強く根付いている。神道を宗教と考えている人もいるが、神道は宗教ではない。宗教には絶対不可欠な戒律が神道にはないからだ。仏教の教えには「殺生をするな」という絶対的戒律がある。だからかつての僧侶には肉食が禁じられていた。また妻帯も禁じられていた。カソリックの神父や修道士・修道女も同様だ。そこで問題が生じるのは、若い僧侶(尼僧も含む)はどうやって性欲を処理していたかということだ。男色あるいは尼僧との性関係、そうした機会に恵まれない状況にあると、必然的に性犯罪に走ることになる。カソリックも同様だった。だから今では両方とも妻帯を認めることにした。
 宗教の戒律には必ず性問題が含まれている。キリスト教では不倫(婚外の性関係)を罪悪とみなしているため、例えばアメリカには日本のソープランドやそれに類する性風俗店は認められていない。そのため、アメリカの売春婦はストリートガールと呼ばれる。つまり街中で男をひっかけるわけだ。
 問題は戦地に送られた兵士たちの性欲をどう処理するかである。アメリカなど不倫は絶対悪とみなしている国では、兵士たちの性欲を処理するための施設(つまり慰安所)を政府や軍が設置するなどというのは論外である。そのため戦地での性犯罪はアメリカ人兵士が最も多いといわれている。実際ノルマンディ作戦でドイツ軍を撃破し、ドイツの占領下にあったフランスを解放した米軍を歓迎したフランス女性は彼らの性欲の犠牲になった。
 日本でも軍本部や政府が最も苦慮したのは、戦地での日本兵士の性処理問題だった。彼らが戦地や占領地で性犯罪に走らないようにするためには、性欲処理のための慰安所を設置する以外に方法はなかった。だから基本的に慰安所での慰安婦は「募集」という形で集められた。そしてかなりの規模の都市部では、慰安婦はおそらく簡単に集めることができたであろう。が、「自発的な慰安婦」を十分に集められないような地域では、募集の依頼を受けた業者が「日本軍の命令だ」と称して強制的に集めたり、あるいは兵士が上官の命令を無視したり、また上官も見て見ぬふりをしたりして慰安婦を強制的に集めただろうことも十分考えられる。軍本部や政府がそうした行為を禁じる文書を各方面軍や傘下の部隊に配布・通達していれば、今頃になって慰安婦問題が国際化することはなかった。また慰安所設置や慰安婦募集についての原則を正式な文書で通達していれば、やはり慰安婦問題は生じていなかったであろう。やはり当時の政府や軍本部に、慰安所設置や慰安婦募集を公然と行うことへの後ろめたさがあったためかもしれない。
 右寄りとされるメディアは、自ら慰安婦に応募して大金を稼いだケースなどを取り上げて、慰安婦問題がなかったかのような主張をしているが、そうした主張もまたフェアな歴史認識方法とは言えない。「樹を見て森を語る」とは、そういう主張の在り方をいさめるための格言である。慰安婦問題には様々な事実があり、その一つひとつはジグゾーパズルのピースに過ぎない。いくらピースを集めても、集めるだけではパズルを組み立てることはできない。またピースがすべて揃っているわけでもない。ピースを組み合わせながら欠けているピースを想像力で埋めていくのが最もフェアに近い方法だ。だから、そのとき働かせる想像力には、きわめて論理的な方法が要求される。そうやって歴史の真実に迫るのが、正しい歴史認識の方法論である。全世界に共通の「勝てば官軍、負ければ賊軍」や「敗軍の将、兵を語らず」といった価値基準を歴史認識の方法に持ち込み続けていると、世界から戦争をなくすことはできない。
 徴用工問題も同様だ。おそらく韓国人の徴用工は、日本人労働者に比べ、かなりひどい扱いを受けていただろうことは、いまの外国人技能実習生に対する雇い主の扱いを見ても、想像に難くない。ただ慰安婦問題と異なり、徴用工問題はもっと複雑なようだ。
 日本の朝鮮統治時代についての韓国および韓国人が被った損害賠償についての日韓交渉は1965年に決着し、日韓請求権協定が結ばれた。その第2条1項にはこうある。
「両締結国(※日韓のこと)は、両締結国及び国民(法人を含む。)の財産、権利並びに両締結国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する。
 ただし、実は2項で「最終的解決」から除外されるケースが記載されていて、除外対象は「1947年8月15日から協定発効までの間、(日本に)居住したことがあるものの財産および利益」(要約)とされている。ここで記載された1947年8月15日がどういう日だったのかが、日本史年表でも韓国史年表でも実は不明なのだ。米ソが38度線を占領境界としたのは日本の敗戦翌日の1945年8月16日であり、大韓民国の樹立は1948年8月15日である。ネットで考えられる限りのキーワードで検索してみたが、終戦から2年もたった日を基準に「未解決」とした意図が全く分からない。
 その疑問は置いておくとして、実は「個人の請求権は未解決」という判断は、実は韓国大法院よりはるかに前に日本の国会答弁で行われていた。1991年8月27日、当時、外務省条約局長だった柳井俊二氏(のち安倍総理の私的懇談会で、「集団的自衛権」の合憲化の理論構築を図った安保法制懇の座長に就任)で、参院予算委員会において「請求権協定は個人請求権に影響を及ぼさない」と答弁している。この国会答弁をきっかけに韓国で個人請求権を根拠とする訴訟が相次ぐのだが、その一方、韓国では2005年にノムヒョン大統領が「徴用工問題は解決済み」と表明している。ところが、その後、日本が「個人の請求権問題は解決済み」と解釈を転換したのに対して、今度は韓国が「個人の請求権は未解決」という解釈転換をする。日韓両国とも請求権問題についての解釈がご都合主義的すぎるのではないかという感じがする。そもそも柳井氏がこの協定のどの部分を指して「請求権協定は個人の請求権に影響を及ぼさない」という解釈を国会で明らかにしたのか。柳井氏は現存しているのだから、メディアはなぜ柳井氏の真意をただそうとしないのか。大昔の話だから覚えていないでは済まない。