小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

電通の新人女性社員の過労自殺を無駄死に終わらせないために。

2016-12-31 01:41:13 | Weblog
今年最後のブログを投稿する。
 12月24日の午後9時から放送のNHKスペシャルを見た。討論番組で、『私たちのこれから#長時間労働』というタイトルである。ご覧になった私のブログ読者も多いだろう。
 NHKのオフシャル・サイトでは、この番組の目的をこう書いている。

 大手広告会社・電通の新入社員だった女性が過労自殺した問題などをきっかけに、あらためて是正を求める声が高まる長時間労働。しかし長年指摘され続けながら解消されてこなかったことも事実だ。一体何が解決を阻んでいるのか? 国が10月に初めて公表した『過労死白書』では、先進国で最悪レベルにある正社員の長時間労働が変わっていない現状が示されたうえで、「残業が減らない理由」として「顧客(消費者)からの不規則な要望に対応する必要」が業種を超えて多く挙げられている。長時間労働に依存しながら利便性やスピードを求めてきた社会のあり方は? さらに長時間労働の是正は、人口減少時代での労働力確保や少子化対策という観点からも待ったなしの課題だ。番組では、是正を阻む「壁」とそれを乗り越える方策を、専門家・市民による徹底討論、そして生放送での視聴者の声を交え、具体的に探っていく。

 その意気やよし、と言いたいところだが、不完全燃焼or消化不良の番組だったと結論付けざるを得ない。
 安倍総理が成長戦略の柱と位置付けている「働き方改革」の一環として日本の賃金制度を「同一労働・同一賃金」に切り替えることを打ち出したのは今年の9月10日に開かれた「働き方改革実現会議」の席である。それ以前はサービス残業や長時間労働、正規・非正規の賃金格差などについては学識者・経営者団体・労働者団体などによる「労働政策審議会」(労政審)が中心になって議論を重ねてきたが、労政審を事実上形骸化して政府主導で作ったのが「働き方改革実現会議」である。
 実は2014年4月、政府の「産業競争力会議」(議長・安倍総理)が、成果主義賃金制(「残業代ゼロ」政策)の導入を経済界に働きかけたことがある。その政策目的は社員の賃金を労働時間の長短で決めるのではなく、労働の成果を基準に賃金を決めるという賃金政策の導入にあった。
 当時私は集団的自衛権問題にかかりきりになっており、この「新賃金政策」をブログで取り上げたのは5月21日から3日連続で投稿した『「残業代ゼロ」政策(成果主義賃金)は米欧型「同一労働同一賃金」の雇用形態に結び付けることができるか』という題名の記事が最初である。年末年始、暇を持て余している方は読んでいただきたいが、そういう方は少ないと思われるので要点を述べる。ただし、3回連続の記事の文字数が実数で2万字を超えており、要約するにしてもかなりの長文にならざるを得ないと思う。できるだけ簡略化するつもりなのでご容赦願いたい。

 現行の労働基準法によれば、1日の労働時間は原則8時間、週40時間以内と定められている。その労働時間を超えた時は残業代が発生する。時間外労働に対する割増賃金(残業代)の割増率は25%以上だったが、2010年4月から長時間労働を防ぐため月60時間を超えた残業に対する割増率は50%以上に改定された。いうなら企業に対する懲罰的割増率を労働基準局が設定したのである。が、悪徳企業はこれを逆手に取った。残業が月60時間を超えた場合、超過労働をサービス残業として、会社に申告する残業時間を月60時間以内に収めさせるというせこいやり方を取り出したのだ。電通の新人女性社員の過労自殺も、そうして生じた。
 安倍総理が直々「議長」として作り上げた産業競争力会議の「成果主義賃金制度」(残業代ゼロ政策)は、一応対象を年収1000万円以上の社員に限定しているが、年収が1000万円に満たない社員でも、労働組合の合意が得られれば残業代ゼロ社員の対象にするという。もちろん本人の同意が必要とされてはいるが…。
 欧米諸国は基本的に同一労働同一賃金制度を導入している。日本のような単一民族国家ではなく、多民族国家が圧倒的に多いからである。そのため民族間の格差を解消するために人種や性別・学歴・年齢・勤続年数を問わず「同じ労働価値を提供した労働者には同じ賃金を支払う」という制度が根付いたと考えられる。
 日本と同様単一民族の韓国は超学歴社会で、学歴によって一生が決まるとさえ言われている。日本もかつては学歴社会と言われていたが、欧米文化の浸透によって学歴社会はかなり影を薄めてきた。ただ、日本は高度経済成長時代を経て男女を問わず高学歴化が進み、バカでもチョンでも大学に入れる時代になってしまった。ただし、日本でも欧米でも超一流大学の学生の大半を占めるのは富裕層の子供たちである。その点だけは一致しているのだが、「超」とまではいかなくても一応有名大学への入学は、日本は狭き門であり、欧米とくにアメリカは比較的門戸を広く開けている。その結果、日本の高校生は受験勉強に必至で、青春を謳歌できるのは大学に入ってからである。一方とくにアメリカの有名大学は、入学は比較的容易でも、卒業するのは極めて狭き門である。そのためアメリカの若者たちが青春を謳歌するのは高校生時代であり、大学に入ったあとは卒業証書をもらうために猛勉強しなければならない。
 日本人の多くは欧米でも支配層の白人たちは高学歴社会を形成していると思っているようだが、とんでもない錯覚である。実は一流企業のエリートサラリーマンになったり、政府(州政府も含む)のエリート職員になれるのは、人種のいかんを問わずやはり一流大学の卒業者が大半を占めている。そして大学に入れなかったり(白人社会にも貧困家庭はある)、卒業する能力がなかった白人は工場や建設現場で肉体労働に従事している。当然その世界では白人といえども黒人やヒスパニック系労働者たちとのし烈な就職競争を勝ち抜かなければならない。「悪貨は良貨を駆逐する」のたとえは就職戦線でも同様で、同じ仕事なら低賃金で雇える黒人やヒスパニックが白人から仕事を奪うのは当然である。米大統領選で、トランプ氏が劇的な地滑り的勝利を収めたのは、トランプが大統領になれば、黒人やヒスパニック系労働者に奪われた仕事を、白人の肉体労働者に取り戻してくれるだろうとの期待が大きかったことを意味する。
 また一流大学出のエリート学生の育て方も日本とアメリカとでは大きく違う。日本は知識の詰め込みが教育だと思っている学校や教師が多い(小学校から大学まで)。私はかつてブログで『なぜ小学生に台数の面積計算式を覚えさせる必要があるのか』という記事を書いたことがある。計算式はこうである。
   (上辺+下辺)×高さ÷2
 こういうくだらない計算式を覚えさせることが学力の向上につながると文科省の知識偏重タイプの役人は考えたようだ。
 私なら、そんな計算式を記憶させようとはしない。こういう考え方をするように生徒を指導する。
 同じ大きさの台形が、頭の中に二つあると思ってごらん。そのうちの一つを上下ひっくり返し、二つの台形をピタッとくっつけてみよう。そうすれば平行四辺形(ひし形)ができるね。平行四辺形の面積は一辺(上辺でも下辺でもいい)×高さで、これは長方形の面積と同じだよね。だけど、この平行四辺形の面積は台形2個分だから、2で割らなければならない。そうすれば台形1個分の面積が簡単に計算できるよね。
 この考え方は、台形の面積計算式の論理的説明でもある。公式を覚えることより、公式が作られたプロセスを理解させることのほうが、どれだけ子供たちが論理的な考え方をするための訓練になるか。
 日本の教育方針は基本的に江戸時代からの継続である。江戸時代は、藩の教育施設(藩校)や庶民の教育施設としての寺小屋などが中心だった。いずれも儒教的精神によって運営されており、子供たち(多くは6歳以上から)に知識を教えることが目的だった。そうした教育施設が全国各地に網羅されており、江戸時代の日本人の識字率は世界でも群を抜いていた。
 こうした教育の目的が明治維新以降も継続され、尋常小学校から大学まで一貫した教育体制が作られたものの、「教師は知識を教え、生徒は知識を覚える」ことが教育の目的とされてきた。当然画一的な思考法と、それをベースにした画一的な労働力の育成によって明治以降の近代化は進められていく。敗戦後の日本でも、そうした教育方針は温存され、受験勉強もより多くの知識を身に着けることが重視され、その結果日本の学生は大学で何を学ぶかではなく、どの大学に入学できるかが受験勉強の最大の目的になってきた。日本の学生が青春を謳歌できるのは大学に入ってから、という状態になったのはそのためである。
 一方アメリカの場合は、「自分の頭で考える」能力の開発を教育の中心に据えてきた。そのためディベートという討論教育が高校時代から盛んに行われている。この教育制度は、論争に勝つことが目的であるためレトリック手法(屁理屈を考え出す能力)を身に付けることになりかねず、私はあまり評価していないが、アメリカ社会では人の目の前で殺人を犯しても「私はやっていない」と言い張ることが権利として認められており、そういう社会で生き抜くためにはレトリック手法を身に付けることが大切なのかもしれない。
 そうした日本とアメリカの教育についての基本方針の違いが、雇用・賃金の体系にも大きく反映されてきた。日本型雇用形態として重視されてきた「年功序列・終身雇用」の考え方の原点が、日本特有の知識重視の教育にあったことだけ、とりあえず理解していただきたい。もっとも、そうした画一的教育によって生み出された画一的労働力が、明治維新以降の日本の近代化の原動力になったことは否めない歴史的事実だし、敗戦後の「世界の奇跡」とまで言われた経済復興と高度経済成長を支えてきたことも否定できない。
 が、日本の高度経済成長時代、「世界の工場」の地位を揺るぎないものにした日本の画一的労働力も、その後韓国に「世界の工場」の地位を奪われ、そして中国がその地位につき、今では「世界の工場」はインドやタイ、ベトナム、ミャンマーへと拡散しつつあり、さらに南米諸国やアフリカ諸国にも拡散しようとしている。そうした時代の潮流の中で安倍総理が打ち出したのが「成果主義賃金制度」であった。
 だが、成果主義賃金とはどういう制度なのか、肝心の安倍総理が自ら議長を務めた産業競争力会議から具体的な説明は一切なかった。ために、マスコミをはじめ政党や労働団体から疑問が噴出した。
 たとえば朝日新聞デジタルは14年4月22日8時配信の記事で「仕事の成果などで賃金が決まる一方、法律で定める労働時間より働いても『残業代ゼロ』になったり、長時間労働の温床になったりする恐れがある」と指摘。自民と連立与党を形成している公明党も菅官房長官に「長時間労働の常態化につながりかねない」と懸念を表明。連合も猛烈に反発した。
 このあたりで成果主義賃金という、世界に例を見ない新しい賃金制度について説明しておく必要がある。成果主義賃金は「残業代ゼロ」制度だという誤解が生じた。確かにそういう誤解を生みかねない要素もあった。
 だが、成果主義賃金制度が目指したものは、年功序列型賃金から、労働の成果を基準に賃金体系を決めようというのが本来の目的だった。それなら、なぜ安倍総理は欧米型の「同一労働同一賃金」の賃金・雇用体系を導入しようとしなかったのか。安倍総理は、いきなり「同一労働同一賃金」制度を導入するとか経済界や労働団体から猛反発が生じるだろうと考えたのだと思う。しかし私は意味不明な成果主義賃金を持ち込むなら、日本型雇用・賃金体系を廃棄して、欧米型の同一労働同一賃金を日本に根付かせるべきだと考えた。言っておくが、安倍総理が成果主義賃金制度を持ち出した時点では、まだ「働き方改革」の「は」の字もなかった時だ。
 ここで「同一労働同一賃金」とはどういう意味なのかを整理しておこう。こんなわかりやすい言葉が、実は大きな誤解を生むことになったからだ。当時書いたブログの記事をそのまま引用する。

 ここで読者に理解していただきたいことは「同一労働」の意味である。アメリカにおける「同一労働」は労働の結果としての成果、つまり会社への貢献度が基準となっているということだ。つまりAさんが10時間働いて生み出した成果と、Bさんが5時間働いて生み出した成果がまったく同じならば、時間当たりの賃金はBさんはAさんの2倍になるということなのである。そのことをとりあえずご理解いただいて、日本の雇用・賃金体系はどうあるべきかについて考えてみたい」
 この年、大企業は9年ぶりにベースアップに踏み切った。安倍総理の要請に応じて、言うなら政経労の三者そろい踏みで実現したベースアップだった。
 このベースアップにメディアもそろって好感を示した。「憲法違反の賃上げ」だということを知りながら、その指摘すら行わずに諸手を挙げて支持した。「お前らアホか」と言いたい。「憲法違反の賃上げ」ということを知らなかったとしたら、もっとアホと言わなければならない。
 憲法に違反している法律は、言うまでもなく労働基準法である。労働基準法では、賃金の形態を「基準内賃金」と「基準外賃金」に分類している。
 基準外賃金のほうから説明しよう。その方がわかりやすいからだ。
 労働基準法で基準外賃金の対象とされているのは、主に三つだ。扶養家族手当、住宅手当、通勤手当、である。すべて「属人的要素」つまり個々の従業員の個人的な諸事情に対して支給されている手当で、会社で仕事をした労働力に対する対価として支給される賃金ではない。そういう意味では年齢・学歴・勤続年数を基準にした基本給は、本来「基準外賃金」である。これらの要素は「職務遂行に要する労働力の価値」とは無関係だからだ。
 これに対して基準内賃金は、基準外賃金を除くあらゆる名目の手当てを含む賃金を指す。労働基準法では、時間外労働(残業、休日出勤など)に対する割増賃金の割増率の基準になる賃金である。
 ところが今春9年ぶりに行われたベースアップは、本来の意味での基準内賃金の底上げではない。慣行として連合(旧総評系)などが容認してきたせいもあるのだろうが、日本におけるベースアップは基準外賃金の中の基本給(年齢・学歴・勤続年数)に物価変動を加味して自動的にアップすることにしたということである。こうしたベースアップは本来、労働基準法に違反している。
 が、日本の労働基準法は「使用者は、労働者が女性であることを理由として、賃金について、男性と差別的取り扱いをしてはならない」(第4条)としているだけで、年齢・学歴・勤続年数の「3基準外賃金」についての差別的取り扱いは認めている。はっきり言って憲法違反の法律だが、労働組合側も慣行として容認してきたし、輸出関連の大企業に対して安倍総理が要請したベースアップも、総理自身はそのことを百も承知で行っている。
 そう言い切れるのは、竹中平蔵氏が著書『日本経済の「ここ」が危ないーーわかりやすい経済学教室』で、「安倍晋三内閣(※第1次)で同一労動同一賃金の法制化を行おうとしたが、既得権益を失う労働組合や、保険や年金の負担増を嫌う財界の反対で頓挫した」と述べていることからも明らかである。

 成果主義賃金制導入の失敗で、再び安倍総理が第1次内閣時に法制化しようとして頓挫した同一労働同一賃金の法制化の試みを再復活させようとしていることが読者にもお分かりになったと思う。
 ここで明らかにしておく必要があると思うが、「基本給」という名目の賃金は欧米諸国にはない。日本の基本給は年齢・学歴・勤続年数によって自動的に決められており、ベースアップや時間外労働の割増賃金、賞与、退職金などの算出基準になっている。なぜ日本だけが「基本給」という賃金を認めてきたかというと、すでに述べたように画一的教育によって育成された画一的労働力を産業振興のベースにしてきたからだ。
 一方日本の労働基準法は、すでに明らかにしたように憲法違反の法律である。
安倍総理は第1次内閣の時から基本給制度を廃止して同一労働同一賃金制度を導入しようとしたこともすでに書いた。が、アベノミクスの最大目的として掲げた「デフレ脱却」のために日銀・黒田総裁に命じて円安誘導と金融緩和を行い、膨大な為替差益を生じた輸出関連の大企業にベースアップを要請した。だがベースアップは基本給のかさ上げであり、安倍総理が目指してきた同一労働同一賃金(すなわち基本給の廃止を意味する)と明らかに矛盾している。
 安倍・黒田ラインによる「円安誘導・金融緩和」はデフレ脱却によって日本の工業製品の国際競争力を回復することが目的だった。安倍・黒田ラインは、日本の工業製品の国際競争力が回復すれば、従業員の賃金が上昇するだけでなく、円安によって日本の工業製品の国際競争力が回復し、メーカーは生産力を増大するために設備投資を行い、それが下請け企業にも波及して再び日本は高度経済成長時代の活気を取り戻すだろうと夢見た。が、そうはならなかった。
 アベノミクスが失敗した理由は、今年9月1日と10日に2回に分けて書いた長文のブログ記事『アベノミクスはなぜ失敗したのか』に書いたので繰り返さないが、若者の自動車離れが急速に進み、家電製品の花形だったテレビはすでに全家庭に普及しており、国内需要が伸びたのはスマホだけという状況の中で、スマホの普及によってパソコンの需要も急激に減少するといった事態も生じ、日本メーカーはリスクが大きい輸出拡大のための設備投資には走らなかったためだ。結果、日本のメーカーは為替差益でぼろ儲けをしただけというのが、アベノミクスが招いた結果だった。
 そのことをいまだにわかっていない安倍・黒田ラインは、さらに金融緩和を進め「マイナス金利」という致命的な金融政策をとった。その結果金融機関はどういう方策に走ったか。不動産関連投資への節操なき融資である。昨年から今年にかけて金融機関が行った不動産関連投資は、バブル期の不動産関連投資を上回る規模にまで達した。その結果が、都心部や武蔵小杉などに林立したタワーマンションである。
 先日テレビの報道番組で見たが、給料がなかなか上がらないため、不動産投資に走るサラアリーマンや主婦が急増しているという。タワーマンションの部屋をローンで買って賃貸に回し、賃貸収入とローン返済の差額を小遣いの足しにするのが目的のようだ。が、少子高齢化で、賃貸物件の需給関係が崩れだした。投資家は期待していたほど家賃収入が得られず、ローンは返済しなければならず、自転車操業にもならない赤字になっているという。
 家賃収入を当てにして不動産投資に走った投資家は、当然ながら一部屋だけではなく、複数の物件をローンで買っている。彼らがローン返済に行き詰まって破綻(自己破産)するのは目に見えている。そのつけは無節操に不動産関連の融資を行ってきた金融機関が払うことになる。来年はバブル崩壊後の金融機関の危機的状況を上回る状態に、金融機関は陥る。日本の金融機関で生き残れるのはどこだろうか。メガバンクと言えども安穏とはしていられないはずだ。

 話がちょっと横道にそれすぎた。同一労働同一賃金の話に戻る。
 同一労働同一賃金についての私の基本的立ち位置を明らかにしておく。一刻も早く法制化すべきだ、というのが私の考えだ。今までさんざん安倍総理に対する批判をしておいて何事かと思われる方が多いと思う。
 私が安倍総理の賃金政策を批判してきたのは、彼には賃金政策についての確たる哲学がないことを証明しただけだ。
 少子高齢化は、いかなる政策によっても歯止めをかけることは不可能である。その理由は、これもさんざんブログで書いてきたが、少子高齢化が始まったのは大家族制が崩壊して核家族制に移行したこと。また女性の高学歴化が進み、女性の生き方・価値観が大きく変化したこと。この二つの要因が重なったことに尽きる。
 私が結婚した時代は、女性は仕事を辞めて家庭に入るのが通例だった。そのころすでに核家族化は始まっていたが、少子化も同時に進みだした。大家族時代には新しい子供ができれば、その子の兄や姉は祖父母が面倒を見てくれたが、核家族化の下では母親一人でたくさんの子供の面倒は見きれない。私の世代で、すでに女性の合計特殊出生率は2.0前後になっていたと思う。
 その後、女性の大学進学率が急上昇を始める。また当時は基本給に男女差があったが、男女雇用均等法の施行により基本給における男女差がなくなった。同時に会社の女性社員に対する扱いも大きく変化する。従来は女性社員は男性社員の補助的扱いをされていたが、女性社員にも男性社員と同様の権利と責任が生じるようになった。結果、女性は母親になって子供を育てることより、社会で自分の能力を高め、働き甲斐を強く求めるようになった。少子化の原因はそうした社会構造の変化による。
 だが、バカな政治家は保育園を作れば、保育園が祖父母代わりになって小さな子供の世話をして、母親が子供を作りやすくなるだろう考えた。理論的には、そうなる可能性も否定はできないが、実際には保育園に子供を預けることができた母親は次の子供づくりに頑張るのではなく、社会復帰して仕事にやりがいを求めるようになった。一人っ子家庭が増え、女性の合計特殊酒精率が1.5を切ったのはそういう社会構造の変化のためである。はっきり言えば、保育所を作れば作るほど合計特殊出生率は低下する。政治家は票のため、選挙のとき真逆の政策を訴えている。これはもうバカを通り越して詐欺と同然だ。
 さらに問題なのは、日本の労働生産性はOECD(先進国)で最低ランクに位置付けられていることだ。日本人の能力が他の先進国より劣るのであれば、労働生産性が低いのは当然だが、そんなことはない(と思いたい)。
 日本人は勤勉だといわれている。二宮尊徳以来、日本の教育方針の重要な一つに「勤勉さ」を重視するようになった。「勤勉さ」を測る尺度は労働時間しかない。机にしがみついて、仕事をしているふりをすることが「勤勉さ」の証明になる。そういう悪しき伝統が、知識重視型の教育方針と相まって日本社会に根付いてきた。
 そうした発想を転換させなければならない。安倍総理が第1次内閣以来の信念ともいえる同一労働同一賃金制度導入が、そうしたことを目的としたものなら、私は大歓迎である。が、だとしたら大企業にベースアップを求めた理由がまったくわからない。何度も繰り返すが、ベースアップは世界に例を見ない日本特有の年功序列賃金体系の根本をなす基本給の底上げを意味するからだ。その部分に手を付けずに同一労働同一賃金制度の導入はあり得ない。安倍総理に哲学がない、と決めつけざるを得ないのはそのためだ。
 電通の痛ましい過労自殺事件を契機に、日本の経営者や管理職は発想を大転換してもらいたい。机にしがみつく時間を基準にした「勤勉さ」を部下に求めることは罪悪だと考えてもらいたい。むしろ残業時間が多い部下を指導できない上司は「無能だ」という烙印が押されるような企業風土を構築してもらいたい。過労自殺した彼女の死を無駄にしないということは、単に会社の消灯時間を早めることではない。短い勤務時間内に密度の濃い仕事をやり、きめられた勤務時間になればさっさと退社する社員が大きな顔をできるような企業風土を構築することに、企業が本気で取り組めば、彼女の死は無駄ではなかったことになる。またそういう企業風土の構築に日本が成功すれば、本当の意味の同一労働同一賃金制度は、法律で制度化しなくても自然にそうなる。当然日本の労働生産性は世界一とまでは言わないが、世界のトップクラスに入れるだけの能力を日本人は持っている、と私は考えている。
 またそういう時代を迎えることができれば、正規・非正規の社員格差も自然消滅する。会社にとっても、正規・非正規に分けて社員を採用する意味がなくなるからだ。

 今年最後のブログが、当初考えていた以上に長くなってしまった。その上12月14日に投稿したブログ『緊急提言ーー「カジノ法」(IR法)に私は条件付きで賛成する。その条件とは…』の読者が2週間経っても増え続けており、なかなか更新できないでいる。最悪大晦日の早朝には強行更新するつもりだが、正月休みに「頭の体操」をするくらいの軽い気持ちで読んでいただければと願う。
 最後になったが、私のブログの読者に「よいお年を」。
 

緊急提言ーー「カジノ法」(IR法)に私は条件付きで賛成する。その条件とは…。

2016-12-14 11:02:42 | Weblog
通称「カジノ法案」と呼ばれている総合型リゾート(IR)法がきょう成立する運びになった。
この法案は議員立法であり、与党だけでなく民進など野党議員も加わっての立法だった。この法案の成立をもって、きょう14日に臨時国会は茶番劇の幕を閉じる。そして明日15日には安倍総理がロシア・プーチン大統領と、北方領土問題・平和条約締結・経済協力などを巡って胸襟を開いて(?)首脳会談に臨む。

野党もだらしなければ、ジャーナリスト(メディアの記者)もだらしがないこと、この上なし、と言いたいほどの低レベルだった。
私自身のIR法に対する姿勢を明らかにしておく。「条件付き賛成」である。その条件はあとで述べる。
問題はIR法が何を目的にしているのか、肝心なことを野党もジャーナリストもまったく問わなかったことだ。ただひたすら「ギャンブル依存症」の増加を憂うるかのごときスタンスで、反対派の議員(野党だけでなく公明にもいる)や「社会の木鐸」を自負するゴミのようなジャーナリストたちが、上から目線で批判しただけである。

IR法案を国会に提出した超党派の議員連盟がIR法の必要性をどう説明したかはよくわからない。メディアとくに新聞は立法の趣旨を読者に伝えることなく、法案の欠陥のみを重箱の隅を突くような姿勢で批判しているだけだからだ。
私自身はIR法の趣旨をこう勝手に理解している。これは「条件付き賛成」の条件の一部をなす重要な要素なので、そのことをブログ読者は頭の片隅に置いて読んでいただきたい。
いま日本では外国人の訪日が急増している。海外でも日本食ブームが生じており、外国人の目にはなぜか日本が輝かしく見えているようだ。そのことは日本人の一人として、私も喜ばしく思うし、多少誇りたい気持ちにもなる。スポーツの世界でも日本人の活躍が目立つ。フィギィアやスキーでも世界をリードするスターが続々と出現しているし、ゴルフや野球でも世界レベルの活躍をする選手が続出している。来年のプロ野球シーズン終了後には、べーブルース以来と本場アメリカでも評判の大谷選手が大リーグに挑むようだ。彼が世界の頂点に立つ日を、夢見ない日本人は一人もいないだろう。そういう意味では私は健全な「愛国心」を持っていると自負している。ま、安倍さんが国民に押し付けようとしているような「愛国心」ではないかもしれないが…。
IR法についての私の理解を述べる。
昨年まで続いていた中国人観光客の爆買いブームは去ったが、中国人も含め観光目的の外国人の訪日は依然として好調だ。が、爆買い目的ではないから訪日外国人の数は増えても、日本に落とす金は逆に減少しているのが実態だ。
そこで観光目的の訪日外国人に、せっかく日本に来てくれるなら、もっと金を使い、かつその使い方に満足してもらえるような総合型リゾート(IR)施設を作ろう、というのが「カジノ法案」の立法趣旨だと私は理解している。というより、そういう理解に立って総合型リゾート施設の建設と運営をしてもらいたいと願っている。
さて、ではどうしたらそのような運営ができるかを考えてみよう。これが私が「カジノ法案」に賛成できる条件である。
まず、客層のターゲットを観光目的の訪日外国人に限定する。具体的にはカジノ施設への入場は観光ビザを持った外国人に限定する。でも金をあまり使う機会がない日本人の高額所得者や富裕層(高額所得者ではなくても資産をたくさん持っている人)には、納税証明書や資産を証明できる公的書面(固定資産税の納税証明書や所有株式の配当や売買による利益に対する分離課税を証明できる書類等)の提示によってカジノ施設への入場を許可することができる。金持ちの日本人にもどんどん金を使ってもらいたいからだ。
こうしたカジノ施設への入場制限を加えれば、反対派議員や「社会の木鐸」を勝手に自負しているゴミのようなジャーナリストの心配、すなわち「ギャンブル依存症」の増加は完全に防げる。
次にカジノ施設でのギャンブルについてだが、世界一フェアな運営を行うことが重要である。私はラスベガスやマカオなどカジノ施設に入ったことは一度もないし、ギャンブルは現役時代に賭けマージャンを楽しんだくらいで、パチンコ、競馬、競輪などの公的ギャンブルに手を出したことは一度もない。が、カジノにはマフィア(あるいは暴力団)が裏で動いているという話はよく聞くし、実際多くのカジノ施設は客を食い物にしているようだ。
そこで、日本のカジノのディラーには準公務員の資格を与え、常に身辺のチェックを行い、暴力団関係者と絶対に接触できないようにする。そうすれば、外国人観光客から「日本のカジノは世界一フェアだ」という評判がSNSなどで世界中に拡散し、そうした効果によって観光目的の外国人の訪日がさらに増え、彼らがギャンブルだけでなく日本の文化や伝統に触れる機会や、日本食だけでなく日本人の平和志向精神にも触れる機会も増えることが期待できる。
こうした結果は、日本の安全保障にも間接的に大きな効果を持つことすら期待できるのではないかと思う。これが私の「条件付き賛成」の趣旨である。


憲法審査会が再開されたが、自民党草案は「改正」か「改悪」か? ⑤

2016-12-09 05:22:46 | Weblog
 今回は第3章「国民の権利及び義務」について、自民党「改憲草案」を検証する。
 日本国民が享有する基本的人権を保障した11条「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことの(※「が」とした方がいい)できない永久の権利として、現在および将来の国民に与えられる」という条文は、自民改憲草案においても基本的に踏襲されている。
 が、次の12条についての自民草案には問題がある。現行憲法はこうだ。
「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。また、国民は、これを濫用してはならないのであって(ここまでは自民草案も基本的に踏襲している)」「常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」とある。その後段の部分を自民草案はこう改ざんしている。
「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し」(※ここまではいい)「常に公益及び公の秩序に反してはならない」
 私自身、約8年前からブログを書いているが、ジャーナリストとして書いたことには当然責任と、自分自身の生き方としてブログで主張したことに反する行為をしないという意味での義務を負うべきことは自覚している。
 が、「公益」や「公の秩序」など考慮したこともないし、考慮する必要もないと思っている。だいたい、「公益」に反するか否かはだれが決めるのか。政府を批判したり、反政府活動を行うことが「公益に反する」とでも言いたいのか。
 さらに「公の秩序」は誰が決めるのか。確かにデモ活動などは交通の妨げになることはあるし、だから「秩序あるデモ」に抑え込むため機動隊が出動して規制している。これからは機動隊による規制だけでなく、デモ活動そのものを「公の秩序に反する」行為とみなし、犯罪者として取り締まろうとでも言いたいのか。
 憲法が保障する基本的人権とは、『広辞林』によれば「国家権力によって侵すことができない、人間が人間として当然持つべき基本的な権利。生存・身体・言論・信教の自由権、勤労の権利など」である。民主国家においては、あらゆる自由が保障されているわけではなく、自由の範囲に対する制約は憲法ではなく法律で定めるのが「立憲主義」の在り方だ。人を殺したり、物を盗んだり、飲酒など危険な状態で自動車を運転したり、といったことは「犯罪行為」として国家権力の一部である警察が取り締まればいいのであって、犯罪を防止する目的で法律を作るために国会という立法府が存在する。憲法によって基本的人権に制限をかけようというのは、独裁国家のやり方だ。

 次に問題なのは18条である。現行憲法にはこうある。
「何人も、いかなる奴隷的拘束も(※「を」のほうがいい)受けない。また犯罪に因(よ)る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
 この条文を自民草案はこう改ざんしている。
「何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。
2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない」
 現行憲法は、「いかなる奴隷的拘束」としているが、自民草案では「社会的又は経済的関係において身体を拘束されない」と、拘束されない条件を付けている。実はこの条文に先立つ14条において自民草案も現行憲法を基本的に踏襲しており、「すべて国民は、法の下に平等であって、…政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」としている。が、18条においては身体を拘束されないケースは「社会的又は経済的関係」としており、14条で差別を禁じた「政治的」行為は身体拘束の対象にされている。
 草案18条は、先の戦争で「政治的拘束」により反政府的活動を封じ込めてきた「大政翼賛会」をほうふつさせる条文である。自民党はどういう国づくりを考えているのか、党内から「おかしい」という声がなぜ出てこないのか。そこまで安倍総裁の独裁的権力が隅々まで浸透してしまっているのだろうか。

 現行憲法21条は、「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。 2 検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない」となっているが、自民草案は現行憲法の2項を3項に移し、2項として次の条文を挿入している。
「前項の規定に関わらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社することは、認められない」
 12条草案と同様、ここでも「公益及び公の秩序を害する活動や結社」を排除しようとしている。同じ批判を何度も繰り返したくはないが、政治権力が「公益や公の秩序を害する」と見なせば、権力に対する批判や安保法制に対する反対運動を排除できることになる。自民草案も一応21条の1項は踏襲しているが、「集会、結社および言論、出版その他一切の表現の自由」は、権力の維持を侵さない範囲に抑え込まれてしまう。というより、それが目的の条文としか考えにくい。

 現行憲法24条は婚姻についてこう定めている。
「婚姻は、両性の合意によってのみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」
 この条文に関して自民草案は新たに1項を加え、さらに3項(現行憲法の2項)を書き換えている。まず新設した1項はこういう条文だ。
「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は互いに助け合わなければならない」
 この条文自体は当り前のことを書いているだけのように一見思えるが、実は3項で書き換えられた文章に重ねると、とんでもない意味を持ってくる。現行憲法の2項では「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族」と記されている個所を自民草案は「家族、扶養、後見、婚姻及び離婚、財産権、相続並びに親族」と書き変えている。
 なぜそう書き換える必要があったのか。24条に続く25条の事実上の改変を正当化することが、実は自民草案の目的なのだ。現行憲法25条は表現などの自由を保障した21条と並び基本的人権を保障した2大要素のもう一つである国民の権利を保障している。現行憲法25条はこう記している。
「すべて国民は、健康で文化的な最低限の生活を営む権利を有する。
2 国はすべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」
 これは生活困窮者に対する「生活保護制度」の根幹をなす条文である。が、24条2項の書き換えによって「家族」や「扶養(兄弟や子供を意味する)」「後見(親族を意味する)」の義務化を目的にした改変である。で、厚労省のホームページで「生活保護制度」について調べてみた。厚労省のホームページによれば制度の趣旨と受給資格についてこう記している。
「資産や能力等すべてを活用してもなお生活に困窮する方に対し、困窮の程度に応じて必要な保護を行い、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、自立を助長することを制度です」
「生活保護は世帯単位で行い、世帯員全員が、その利用しうる資産、能力その他あらゆるものを、その最低限度の生活を維持するために活用することが前提でありまた、扶養義務者の扶養は、生活保護法による保護に優先します」
「預貯金、生活に利用されていない土地・家屋等があれば売却等し生活費に充ててください」
 この説明に若干の疑問を持った私は厚労省の生活保護課に電話して聞いた。明確な答えが返ってきた。
「皆さん誤解されているのですが、世帯全員(単身者でも)が居住している土地・家屋を所有していても、それを処分しなければならないということではないんです。ただ、アパートなどの家賃支払いがないので、家賃相当分の支給はありません」
 厚労省のホームページの記載を続ける。
「働くことが可能な方は、その能力に応じて働いてください」
 この説明についても厚労省の生活保護課に尋ねた。
「まだ働けるでしょうと、どんな仕事でもしてくださいなどとは言っていません。その方のキャリアや能力に適した仕事を探してもらうという意味です」
 扶養義務者の扶養について厚労省はこう説明している。
「親族等から援助を受けることができる場合は、援助を受けてください。そのうえで、世帯の収入と厚生労働大臣の定める基準で計算される最低生活費を比較して、収入が最低生活費に満たない場合に、保護が適用されます」
 この説明にも私は疑問を持った。「親族等とはどの範囲まで言うのか」と。厚労省生活保護課はこう答えた。
「扶養義務者を意味します。扶養義務者とは世帯全員の両親、子供、兄弟までです。おじとかおばとか兄弟の連れ合いなどは含んでいません」
 しばしばテレビの番組で、生活保護費の支給を受けた直後にパチンコ屋に直行する人たちがいることは私も知っている。パチンコに興じる人たちにとって、パチンコで遊ぶことが「健康で文化的な最低限度の生活」を享受する権利の範囲に入るのかどうかには私も疑問をもつ。また、正業に就かない暴力団の人が自分の生活状態を偽って生活保護を受けているケースもある。
 そうした状況をどうしたら改善できるのか。
 自民改憲草案の12条に「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない」とある。
 私は生活保護者のケースについて、生活保護を受ける権利には、責任及び義務が伴うことが必要だと考えている。
 生活保護の金銭的援助は、その前提として「働くことが可能な方は、その能力に応じて働く」ことが義務付けられている。が、「能力に応じて働く機会」を厚労省や、生活保護を認定し、保護費を支給する地方自治体の市町村(社会福祉事務所)は用意していない。
「働きたくても働けない」あるいは「働く機会がない」と思っている人が多い。その人たちに「働く機会をつくる」「社会が求める働きの能力を高める」…そういう機会をつくったらどうか。でも市町村単位では無理だ。都道府県単位で、言うならケアハウス(厚生施設)をつくり、そこに生活保護者を集めて共同生活をしてもらう。そしてケアハウスには生活保護者が自分の「働きの能力」を高め、「働く意欲」を生み出す施設を併設する。
 刑務所などの更生施設と違って、やりたくない仕事や作業技能を無理やり押し付けてはならない。あくまで本人の、どういう仕事をしたいかを最優先する。そして本人がしたい仕事について社会(企業)が求める能力を身に付けさせることに、社会復帰させるための最大の努力を払う。それが厚労省が生活保護者に対して行う本来の義務ではないだろうか。「健康で文化的な生活を保障する」ための金銭的援助を行うことより、生活困窮者が自助努力によって、その困難な生活状態から抜け出せるような施策を講じるのが「生活保護制度」の本来の目的ではないかと、私は思う。

 基本的人権に関する最後の大きな問題は「財産権」についての改ざんである。財産権について現行憲法29条はこう記している。
「財産権はこれを侵してはならない。
2 財産権の内容は、公共の福祉に適合するように、法律でこれを定める。
3 私有財産は、正当な補償の下に、これを公共のために用いることができる」
 この条文の2項を自民草案は次のように改ざんしている。
「財産権の内容は、公益及び公の秩序に適合するように、法律で定める。この場合において、知的財産権については、国民の知的創造力の向上に資するように配慮しなければならない」
 またしても「公益及び公の秩序に適合」させるという、基本的人権に対する国家権力による縛りができるように現行憲法を改悪している。
 先の戦争において日本の国家権力は武器・兵器の製造のために寺院の梵鐘はおろか、国民の財産である金属類を(いちおう「自主的」という形式は取ったが)事実上没収した。戦時中の国家権力が国民の財産権を「天皇や国家のため」という「公益及び公」の要請によって収奪したことを想起させる条文である。
 さらに知的財産権については、事実上「言論や報道の自由」に対して縛りがかけられる内容になっている。「言論や報道の自由」は憲法が日本国民に保障した基本的人権のなかでも思想・信条・信教の自由とともに最も尊重されなければならない自由であって、その自由の下に行使する個人または集団の行動が、旧オウム真理教のような他人の生存権をも奪うような犯罪行為を伴わない限り、国家権力が「国民の知的創造力の向上に資するよう配慮」を強要すべきことではない。現に、現行憲法の下でも徐々に「ポルノ解禁」は進められてきた一方、行き過ぎた行為に対しては今でも法律で十分に規制できている。
 国は賭博行為を基本的に禁じていながら、パチンコや競馬、競輪、競艇などの賭博行為を許容してきたし、わずか6時間の審議で「カジノ解禁」まで衆院を通過させてしまった。勤労者の所得税や消費税収入の伸び悩み、そのうえ法人税だけは引き下げるといったアベノミクスの失敗を補うための苦肉の策であることは明白だが、観光立国の引き金にしたいというなら観光目的で来日する外国人のみを出入りできるようにすべきだと思う。
 いずれにしても公認賭博業界(パチンコ、競馬など)を指導しているのは国家権力の執行者である警察だ。実際、そうした賭博業界の指導・監督を名目とした「公益法人」は警察官僚の天下り天国になっており、業者と公権力の癒着がはなはだしいことは周知の事実である。

 憲法は本来国家権力の乱用を防ぐために、国家権力の権能に制限を加えるのが目的のものだ。だから現行憲法は、「国民の権利を保障し、みだりに国家権力による国民の権利の侵害をさせない」ことが目的として作られている。この現行憲法の精神は、「アメリカに押し付けられた」などという口実で絶対に侵してはならないものだ。
 確かに現行憲法には、現実とそぐわない問題もあることは私も認める。だから現行憲法の三大原則である「主権在民・基本的人権の順守・平和主義」の精神を現代社会においても侵されないように一部を書き換えたり、あるいは「加憲」したりする必要はあるかもしれない。そういう問題については各政党や、憲法学者たちが提案し、国民的議論を経て現行憲法を修正する必要はあるだろう。私は憲法学者ではなく、一市民の目線で自民改憲草案の意味を読み解いているだけなので、それ以上踏み込むことは差し控える。(続く)

 

憲法審査会が再開されたが、自民党草案は「改正」か「改悪」か? ④

2016-12-06 07:46:01 | Weblog
 今回のブログでは現行憲法の前文と第1章「天皇」に関する自民改憲草案を検証する。
 現行憲法は旧仮名遣いで書かれているため、現代語に直す。とくに前文の主要な部分は
「主権在民」について述べた重要な条文である。

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由がもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を規定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理念を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に(※「を」とした方がいい)信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ(※「に陥ることなく」とした方がいい)、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いずれの国家とも、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって(※「自国のことのみに専念するのではなく、いずれの国家も無視してはならず」とした方がいい)、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と(※「いずれの国とも」とした方がいい)対等(※「な」を挿入したほうがいい)関係に立とうとする各国の責務であると信じる(※「立つことを誓う」とした方がいい)。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力を挙げてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う」
 
 この前文に続く第1章「天皇」の第1条及び第2条にはこうある。
「第1条 天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この(※「その」とした方がいい)地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」
「第2条 皇位は、世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」
 ところで皇室典範の第1章「皇位継承」の第1条にはこう定めている。
「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する」

 この現行憲法における「主権在民」と「天皇の地位」に関して、自民改憲草案は前文でこう記している。結論から言うと、アナクロニズムもいいところだ。
「日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権のもと、立法、行政及び司法の三権分立にもとづいて統治される。
 我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、いまや国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
 我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統とわれわれの国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」

 自民改憲草案は「主権在民」をいちおう謳(うた)いながら「日本国は…国民統合の象徴である天皇を戴く国家」としている。「戴く」とは『広辞林』によれば「敬い仕える」という意味であり、「天皇が国民に君臨する国家」ということになる。自民改憲草案はそのあとにとってつけたように「国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される」と記しているが主語がない。
「統治する」のは誰で、「統治される」のは誰か。少なくとも「天皇を戴く国家」である以上、天皇が統治されるわけがなく、統治するのが天皇でなければおかしい。そう解釈すると、天皇によって「統治される」のは国民以外に考えられない。それ以外の文理的解釈は憲法学者ではなくても文学者でも不可能だ。
 また「我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し」とあるが、「先の大戦」について触れるのであれば、まず当時の日本がアジアの諸国とその国民に多大な犠牲を強い、また日本国民を軍国主義思想に染め上げて貴い命を「天皇の名の下に」奪ってきた権力についての深い反省がまず述べられるべきだろう。それに、敗戦による「荒廃や幾多の大災害を乗り越えて」日本を「国際社会において重要な地位」に復活させたのは、ひとえにわが国民の努力のたまものであり、国家が主要な役割を果たしたわけではない。
 もちろん戦後の政府による経済政策や外交政策を全否定するわけではないが、それらの政策を成功に導いたのはわが国民の努力と英知のたまものであって、それなくして今日の日本はありえなかった。たとえば「絶対にうまいコメは作れない」とされてきた北海道で新潟産「コシヒカリ」や秋田産「あきたこまち」より高値で取引されるほどの銘柄米「ゆめピリカ」を作り出したのは、ほかならない北海道の米研究者と稲作農家の必死の努力のたまものである。
 日本人は遺伝子組み換え技術による食品(たとえば大豆など)を科学的根拠もなく拒否するきらいもあるが、コメに限らずタネなし果実(スイカやブドウなど)は事実上遺伝子組み換えの技術によって品種改良を行ってきた結果である。ただフラスコの中で遺伝子操作をするか、いろいろな品種の植物を自然環境の中で掛け合わせて遺伝子組み換えをするかの違いだけだ。私自身は遺伝子組み換えの大豆に対しても全く抵抗がない。
 いま京大・山中伸也教授が創り出したips細胞の研究が世界中で医療革命を起こすと期待されているが、これはフラスコの中で行われた遺伝子操作による。遺伝子組み換えによる大豆に拒否感を持つ人は、フラスコの中でips細胞によって作られた人工臓器の移植に対しても拒否するのだろうか。
 また東工大・大隅良典栄誉教授が発見した「オートファジー」という、細胞が不要なたんぱく質などを分解する仕組みが、将来パーキンソン病などの神経系病気の予防や治療法の開発に結びつくことが期待されているが、これもフラスコの中での遺伝子組み換え技術がなければ実用化に至らないが、遺伝子組み換えの大豆を拒否する人はこの治療も拒否するのだろうか。
 話が横道にそれたので、自民改憲草案批判に話を戻すが、要するに私が言いたいことは、いかなる既存の価値観や先入観にも捕らわれることなく、幼児のように白紙の状態から様々な問題に疑問を持ち、幼児のような素直さで物事をゼロから考える習慣を、私のブログ読者は身に付けてほしいと願っているだけだ。

 自民改憲草案には「日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り」という件(くだり)件(くだり)があるが、そんなことは憲法が国民に要請すべきことではない。
 憲法は権力を縛るものであり、国民(在日外国人も含む。当然在日米軍兵士も対象になる)を縛るのは法律である。そして国民を縛る法律は、基本的に犯罪行為から国民(在日外国人を含む。在日米軍兵士も対象)を守るために国民から選ばれた国会議員たちが作る(立法府である国会の務め)。まして自民草案にあるような「国と郷土を誇りと気概を持って自ら守る」といった道徳的なことは、憲法や法律が国民に要請すべきことではない。愛国心や郷土愛は、私は私なりに持っているつもりだが、その持ち方は人それぞれであって国が関与すべきことではない。一律の愛国心や郷土愛を国民すべてが持つことは、かつて軍部が支配していた時代を想起させるだけだ。もっとも安倍総理は、そういう時代に日本を先祖帰りさせたいのだろうが…。
 さらに自民改憲草案には空恐ろしいことも記載されている。「和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」という個所だ。
「和を尊び」は当り前のように一見見えるが、思想や意見の相違を認めないという意味に拡大解釈されかねない。この文の前に「基本的人権を尊重するとともに」という件があるが、基本的人権とは『広辞林』によれば、「国家権力によって侵すことができない、人間が人間として当然持つべき基本的な権利。生存・身体・言論・信教の自由権、勤労の権利など」である。基本的人権は「尊重されるべきもの」などではなく、国家権力も冒してはならない、人間が人間として当然持っている基本的な権利であり、「家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成」しなければならないとすること自体が、国家権力による基本的人権への重大な侵害である。
 国家のために国民が存在するのではない。国民のために国家が存在する。だから近代民主主義の大原則が「立憲主義」とされてきたのである。現に「国家のために国民が存在する」と考えている政府がある。中国や北朝鮮などの共産主義国だ。日本共産党は、中国や北朝鮮のような国づくりは目指していないが、国民の多くからそのような誤解を受けていることを素直に認め、いまの日本共産党が目指しているようなリベラル政党として党名変更も含めて再スタートすべきだろう。そうでないと野党間の選挙協力もなかなか実を結ばない。横道にそれすぎないため、次に移る。

 自民改憲草案はこうも述べている。「われわれは、自由と規律を重んじ…活力ある経済活動を通じて国を成長させる」と。「自由」と「規律」は基本的に相反する概念である。もちろん「自由」がいかに大切で重要な権利であったとしても、たとえば「人を殺す」自由など民主国家においては認められるわけがない。しかし「規律」(事実上、法律を意味する言葉。地域社会や企業・団体などの組織内規則もあるが、国家権力がくちばしを挟む対象ではない)は、個人に許される最低限の自由を侵害しないことが絶対条件になる。憲法が基本的人権の重要な要素である「思想・信条・宗教・言論」などの自由を保障するのは当然だが、「規律を重んじる」ことを国民に要請するのは事実上、国民の権利の侵害を意味しかねない。
 前文の最後の一文も問題だ。
「日本国民は、良き伝統とわれわれの国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する」
 冗談もいい加減にしろ、と言いたくなる。
 私たち現存する日本国民に課せられた最大の義務は、二度と戦争をしない国づくりを支え、平和な社会を後世に引き継いでいくことだ。そのためには、アメリカのようなエゴ丸出しの国の腰巾着になるのではなく、まず環アジア・太平洋の諸国、体制が異なる中国や北朝鮮とも友好的な関係を築き(もちろんアメリカも排除しない)、現行憲法前文にあるように(私が注釈を加えた内容で転記する)「われらは自国のことのみに専念するのではなく、いずれの国も無視してはならず、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、いずれの国とも対等な関係に立つことを誓う」ことで、環アジア・太平洋の平和と発展に貢献できる日本国の建設を成し遂げることが、現存する日本人の最大の責務でなければならない。憲法が、国民に要請できる最も重要な一点はそれだ。
 
 最後に天皇の地位に就いて簡単に触れておく。現行憲法では皇位の継承についてはまったく触れていない。現天皇が退位の意向を示されたとき、自民党内で憲法改正論が噴出した。が、現行憲法ではまったく触れていない皇位の継承問題を契機に、天皇の退位を認めるためには憲法の改正が必要だ、などというたわごとは、天皇の退位を無理やり改憲の口実にしようという意図が見え見えだった。結局、天皇の退位を改憲のきっかけにすることはいくらなんでも無理ということになり、退位を巡っての改憲論は影をひそめたが、問題は天皇の地位を大きく変えようという意図が自民改憲の目的に含まれている。
 その意図は、前文で「日本国は…天皇を戴く国家」というアナクロニズム丸出しの表現だけでなく、第1章「天皇」に関する条項でもあらわれている。
 現行憲法では「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって」と天皇の地位が定められているが、自民改憲草案の第1章第1条では「天皇は、日本国の元首であり、日本国および日本国民統合の象徴であって」と、かつての天皇制復活を想起させる条文になっている。『広辞林』によれば、元首とは「国家の主権者。国民のかしら。国際法上、外国に対して国を代表する者」という意味だ。
 しらじらしくも自民改憲草案では「天皇は、日本国の元首」と規定しておきながら、天皇の地位を明文化した後に続けて「日本国および日本国民統合の象徴」と、現行憲法での天皇の地位を踏襲している。まったく相反する天皇の位置付けである。論理的整合性をどう説明できるのか。
 それはともかく、皇位の継承についての皇室典範は時代錯誤だと言いたい。「皇位は、皇統に属する男系の男子がこれを継承する」という条文である。
 なぜ男系男子でなければならないのか。私は性別にかかわらず皇位継承権者の第1位は天皇の第1子とすべきだと思う。実際、日本の皇室が必ずしも男系男子によって継承されてきたわけでもないし、イギリスなど諸外国においても性別を問わず第1子に第1位の継承権が与えられているケースの方が多いのではないだろうか。おそらく国民の大多数は私と同じ意見だと思う。

 現行憲法においては日本国の「国旗」と「国歌」についての定めはないが、自民草案では第3条でこう定めようとしている。
「第3条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。
2 日本国民は、国旗および国歌を尊重しなければならない」
 この定めは明らかに国民の思想・信条の自由に対する国の規制を意味する。私自身は「日の丸」は世界一美しい旗だと思っているが、「日の丸」を仰いで国への忠誠心を抱くことはない。オリンピックなどで、「日の丸」が中央に高く掲げられると、素直に喜ぶが、それだけのことだ。
 ついでに「君が代」については天皇制を想起させる歌なので、あまり好きではない。もっと行進曲的な感じの国歌に変えた方がいいと思っている。(続く)