小林紀興の「マスコミに物申す」

第三の権力と言われるマスコミは政治家や官僚と違い、読者や視聴者の批判は一切無視、村社会の中でぬくぬくと… それを許せるか

御嶽山大噴火の教訓…予知連絡会会長・東大名誉教授の「登山者自己責任」論に、被害者や遺族は納得するか?

2014-10-06 07:18:47 | Weblog
 4日午後7時30分からNHKが放送したNHKスペシャル『緊急報告 御岳山噴火~戦後史上最悪の被害』には、視聴者から大変な抗議の電話が殺到したようだ。ただしNHKに対する抗議の電話ではない。そのことはNHKふれあいセンターに確認済みだ。
 抗議の的になったのは、ゲストとして出演した火山噴火予知連絡会会長の藤井敏嗣氏だ。どういうわけか、藤井氏が登場したシーンに氏の肩書を示すテロップが表示されなかった。「火山噴火予知連絡会会長」としか表示されなかった(火山予知連絡会だったかもしれない)。連絡会が置かれている気象庁の名称も、藤井氏の本職である東京大学名誉教授の肩書も表示されなかった。NHKの放送では、異例の処置と言っていいだろう。藤井氏側からの要請があったと思われる。東大に火を付けかねられないと警戒したのかもしれない。
 午後8時13分までの放送時間中、藤井氏の顔が映し出された映像では、私がかけている「色眼鏡」のせいか、氏の表情は一見沈痛にみえた。歳をとったせいか、私の「色眼鏡」もかなり曇ってきたようだ。というのは、私の目には見えた氏の沈痛な面持ちとは裏腹に、氏からは被害者への謝罪の言葉も、遺族へのいたわりの言葉もいっさい、なかったからだ。いや、そもそも噴火を予知できなかったことへの責任感のひとかけらも、顔の表情とは裏腹に、言葉の端端から感じることができなかった。よくよく見れば、沈痛に見えた顔つきは無表情なそれだった。
 これからは私の記憶で書く。藤井氏の発言内容をNHKふれあいセンターに問い合わせたが、教えてもらえなかった。コミュニケーターから、「私が不正確なお伝えをしたら問題になりますから、メールで問い合わせてください」と言われ、メールで「ブログに書くため正確な発言を文字化して返送してほしい」旨を頼んだ。その返答がこうだった。
「番組の内容の文字化のサービスは行っておりません。またNHKからの回答は、みなさま宛のものであり、ブログ掲載など、内容を転用、二次使用することは固くお断りします」
 文字化のサービスをしていないというなら仕方ないが、武田キャスターの質問に対する藤井氏の回答発言は、NHKが著作権を持っているとでもいうのか。仮に著作権があったにせよ、批判や論評のための引用は著作権上認められている。そんなことも知らずに「内容を転用、二次使用することは固くお断り」する権利が、NHKにあるのか。それなら著作権法上の例外としてNHKが放送した内容に関しては、いかなる目的でも、またいかなるメディアにも、引用や転用、二次使用できないよう法律改正を要求すべきだ。もちろん、そうした行為が不可能なように、録画もできないよう映像にデジタル信号を張り付ければいい。そのくらいの技術はNHK技術研究所は持っているはずだ。宝の持ち腐れにならないよう、大いに活用したらいい。
 念のため、NHKふれあいセンターは2カ所あり、FAXやメールは東京・渋谷の本局で受け取っているが、新聞のラテ欄に掲載されている電話対応の組織は神奈川・川崎にあり、NHKとは別の下請け会社である。新聞社など、読者対応に定年退職者を臨時雇用するケースはあるが、組織そのものは当然本社内に置かれている。NHKは音声対応だけでなく電話番号も記録しており、それでも音声対応の組織を本局と切り離した別組織にしなければならない理由が何かあるのだろうか。スカパーが有料で再放送するというなら納得できるが、視聴料で運営しているNHKが有料のオンデマンドで二度稼ぎしたり、本来本局に置かれるべき視聴者窓口を別組織にして、しかも本局からかなり離れた川崎に置く必要がなぜあるのか、私には合理的理由が分からない。

 そういうわけで、藤井氏の発言については、私は少なくともねつ造するつも
りはないが、正確な情報を入手できないため、私の記憶に頼って書くことにする。もし間違いがあれば、遠慮なく指摘してもらいたい。私の人格に対する攻撃以外の批判やご指摘については一切削除しない。
 まず周知のこととして110ある日本の活火山のなかで御嶽山はリスク5段階のうち最小レベルの1(平常)にランクされていた(現在のランクは知らない)。その御嶽山が、戦後史上最悪の大災害を引き起こす噴火を生じた。なぜだ。
 御岳山は標高3000メートルを超える山ながら、北アルプスなどと違って急峻な山ではないため、この季節には比較的身軽な服装で登山する人も多いという。とくにこれから紅葉のシーズンが本格化するらしく、地元観光業界にとっては書き入れ時の期待も強かったようだ。それが、藤井氏の色眼鏡を曇らせた可能性は否定できないと思う。ただ、その可能性は山に詳しくない私の色眼鏡にしか見えないレベルかもしれない。
 実は噴火が生じた9月27日(土)の翌々日29日(月)には、気象庁が噴火の2週間ほど前から山頂付近を震源とする火山性地震が増えていたこと、また地下での活動があることを示すとされる体に感じない低周波地震も起きていたことは情報として掴んでいたことを明らかにしている。また、9月11日から3回にわたって火山性の地震が増加していることから、気象庁は「火山解説情報」を出し、火山活動の推移に注意するよう呼びかけていたようだ(9月29日のNHKニュース7による。なお、NHKは私を著作権侵害で訴えられるものなら訴えてもよい。その場合にはNHKの告訴窓口に私の個人情報を伝える)。
 気象庁による「噴火警戒レベル1(平常)」についての説明はこうだ。
「火山活動は静穏。火山活動の状態によって、火口内で火山灰の噴出等が見られる。(この範囲=火口内=に入った場合には生命に危険が及ぶ)」
 御嶽山の噴火警戒レベルは、噴火までレベル1(平常)に据え置かれていた。据え置いた責任はだれにあるのか。気象庁のトップなのか、それとも予知連絡会のトップなのか。また噴火の兆候だったと、現在では考えられている情報を無視した理由はなにか。地元の観光業界への配慮なのか。それとも、科学的に無視できるレベルと判断したのか。
 こうした、私たちが当然持たざるを得ない疑問に、藤井氏は一切口をつぐんだ。それどころか、被害者は「自己責任」と言いたいように見える責任転嫁さえした。自己責任とは、自分自身にも責任が幾分かの比率で合理的に認められる責任の度合いを言う。交通事故で過失割合が裁判で争われるケースが多いのは、生じた事故の原因について双方の自己責任の比率を合理的に裁定するためである。御岳山噴火事故の場合、登山者の自己責任というなら、気象庁が入手していたリスク情報のすべてを登山者に開示していたかどうか、開示していたとしたらどのような方法で開示していたかの誠実な説明が求められる。私は、気象庁が入手していたリスク情報の開示を、強権によってストップさせたのが予知連絡会ではなかったのかという疑問さえ持っている。
「噴火口の中に人間が入って調べることはできない」と、噴火を予知できなかった「理由」も口にした。誰が、そこまでやれと言っている。被害者や遺族も気象庁や予知連絡会に、そこまでの要求はしていない。それとも藤井氏のもとにそういった脅迫まがいの責任追及の声が寄せられたとでも言うのか。だったら、直ちに地元警察署に被害届を出すべきだ。「二次災害」(と言えるかどうかは分からないが…)を防ぐために、警察は藤井氏の身の安全を講じてくれただ
ろう。
 とにかく、誠意も謝罪の気持ちも、顔の表情を別にすると、いっさい視聴者に伝わらない言い訳と弁解、そして居直り…それ以外に言葉を探すのが難しい。
 理研の発生再生科学総合センターの笹井副センター長が組織防衛のために、自らの命を引きかえた行為を他人事のように思っている野依理事長と、その体質において変わらない。
 ネットに「予知検討会は必要なのか」という疑問が寄せられている。同感だ。というより、税金の無駄遣いとはこのことだ、と言いたい。
 むかしから、山火事が起きたら真っ先に動物たちが逃げ出すと言われている。沈みかけた船から真っ先に逃げ出すのは鼠だという話もある。ナマズの地震予知能力については本気で研究している学者もいるらしい。
 フランスの物理学者で思想家のパスカルは「人間は考える葦である」といった。一般的には、人間は動物としては弱い存在だが、知能という動物にはない武器を持っていると理解されているが、私は「人間は考えるしか能がない動物だ」と思っている。「考える能力」は大きな武器ではあるが、知識や経験則に頼りすぎると、突発的に生じる自然災害のような出来事に対してはかえって弱点になる。自然災害に備える最も重要な武器は、人間が失っていった「動物の本能」かもしれない。
 だとすれば、今後、火山噴火の予知に、「動物の本能」をどう活かしていくかということも、学者の沽券に掛かると反発されるかもしれないが、研究する必要があるのではないだろうか。
 火山噴火を予知できなかったのは、今度の御嶽山のケースだけではない。普賢岳の火砕流も、三原山の噴火も、専門家は予知できなかった。スポーツの解説者も「結果解釈」しかできない人もいれば、理論的な予測をする人もいる。その予測が必ず当たるとは限らないが、予測の根拠を明確に述べられる解説者は、外れた予測の理由についても理論的に解説できる。私は、あまり好きではないが、元巨人の江川卓氏などはまれにみる理論的解説者の一人だ。私が江川氏を「あまり好きではない」と書いたのは、彼の人間性のことではなく、私のひいきチームがいつも江川投手にやられていたからにすぎない。
 私がどのチームをひいきしていようがいまいが、そんなことはどうでもいいが、江川氏の優れた解説は投手や打者の心理にまで踏み込んで、こういう状況では投手はこう考えがちだ、一方打者はこう考えがちだ、ということを常に予測の原点に置いていることだ。私が、テニスの全米オープン決勝戦で、錦織選手にとって極めて不利な試合になると予測したのは、江川氏の予測手法と同じような方法で考えたからだ。
 昨日、錦織選手は日本オープンで優勝したようだ。全米オープン後のトーナメントで2連勝したという。おそらく錦織選手は、全米オープンの決勝戦で格下相手に3タテを食った苦い経験から、おそらく彼のテニス生活において最大のものを学んだのだろうと思う。
 その学んだものをどうこれから育てていくか、彼自身の自分との本当の戦いがもう始まっている。
 理研の野依理事長について、こうブログで書いたことがある。
 私が小学校のころから、プロ野球の世界では「一流選手、必ずしも名監督ならず」とすでに言われていた。そんな、子供にでも分かる理屈が、なぜ学者の世界では通用しないのか。
 野依氏にしても藤井氏にしても学者としては一流かもしてないが、組織のトップとして決断を下すべき時に然るべき決断を下せないようでは、組織のトップとしてふさわしくないのはスポーツの世界と同じだ。もちろん組織のトップとしての決断力に富んだ人物が、常に正しい決断を下すとは限らない。下した決断の結果には、想定外の事態が反映されることもあるからだ。が、大きな失敗でなければ、その失敗が新たな決断の確率を高める要素になるだろうし、大きな失敗だった場合には、潔く責任をとり、自らの失敗の教訓を後世に伝えることが大きな責任の取り方になる。
 藤井氏も、野依氏も、結果として決断できなかったことが組織に大きなダメージを与え、取り返しのつかない事態を生んだことを最大の教訓として、学者としての実績は三流であっても、組織のトップとして必要な能力には別の要素があることを身にしみて感じ、そうした能力のある人に後を任せてもらいたい。

 ついでのことに、今回の噴火を受けて先週中ごろ経産省の原発再稼働担当者に電話した。小渕優子氏が安倍改造内閣で経産相に就任したときの記者会見で、「安全が確認され次第、原発を順次再稼働していきたい」とした発言について、「今の自然災害に対する予知科学のレベルで規制委の判断で安全が確認できたと言えるのか。私は反原発でも脱原発でもない。日本のエネルギー事情から考えて日本の産業力や国民生活を維持するためにも環境保全の観点からも必要最小限度の原発の再稼働はやむを得ないと考えてはいるが、再稼働については政府が決めるということになると、人的事故は別として、自然災害による事故は政府の責任になるよ」と申し上げたところ、「いえ、事故が生じたら原因のいかんにかかわらず事業者の責任です」と言い返された。「だとしたら、政府が再稼働についての権限を行使するのは越権行為にならないか」と重ねて聞いたが答えは返ってこなかった。

 さらについでにもう一つ。日本産業界が安い人件費を求めて国境なき生産活動進出した先で次々に大きな問題を生じている。日本産業界の責任だけとは言わないが、中国が「世界の工場」となった結果、世界一環境汚染が激しい国にもなった。結果論と言われればそれまでだが、生産拠点を移すことによって、日本産業界は環境汚染も一緒に輸出しているのではないか。
 先の大戦から、日本は何を反省すべきか、という新たな視点をとりあえず提起しておく。自分さえよければいいという「国益」の追及が、果たして国際社会から尊厳をもって迎えられる新しい国づくりになりうるのか。安倍内閣の政策の危うさを感じるゆえんである。


オバマ大統領は「イスラム国」攻撃理由を個別的自衛権とした。安倍さんの集団的自衛権論の根拠が崩れた。⑤

2014-10-03 07:42:27 | Weblog
 ようやくメディアの一角ではあるが、少し分かりだしたようだ。昨日のテレビ朝日『モーニングバード』は、日本がアメリカ・オバマ大統領から「イスラム国」攻撃に参加しろという要請があったとしたら、という想定を立てた。
 番組では、現段階では不可能だが、閣議決定を受けて来年4月以降に関連国内法の改正が進むと、そういう事態は十分考えられるという結論で終わった。
 なぜ現段階では不可能という結論を出したかというと、閣議決定は「憲法解釈を変更する」ということにとどまっており、関連国内法を改正しないと現行憲法の制約上、アメリカの戦争に参加はできないだろうということだった。
 私が「少し分かりだしたようだ」と書いたのは、まだ本質的な問題が十分に理解できていないからである。
 まず、アメリカが現在行っている「イスラム国」攻撃は、アメリカにとっては「個別的自衛権の行使」(オバマ大統領の説明)であり、アメリカに協力して「イスラム国」攻撃に参加しているイギリスやフランスはアメリカの要請に基づいた軍事行動(集団的自衛権を行使したのはアメリカか英仏か)ということに対する論理的理解ができていないからである。
 すでに明らかにしたように、国連憲章51条に明記されている「個別的自衛権」とは、憲章の条文を縦から読もうと横から読もうと、あるいは逆さに読もうと斜めに読もうと、自国が他国から攻撃された場合に行使できる軍事行動についての権利である。自国が攻撃されていないにもかかわらず、気に食わないからといって他国に対して軍事行動を起こしたり、あるいは他国の内紛に軍事介入する権利など、いかなる国に対しても憲章は認めていない。
 だから日本の軍隊は「自衛隊」であり、自国が攻撃されたときにのみ実力を行使する「専守防衛」のための軍隊である。安倍内閣は、何をもって「憲法解釈の変更」としたのか、いまだ説明していないし、閣議決定を支持してはいるメディアもあるが、オバマ大統領が主張しているような「個別的自衛権の行使」に自衛隊が軍事的に協力するといった想定はいっさいしていない。
 英仏の参戦は、アメリカの「集団的自衛権の行使」に応じたのか、それともアメリカが要請してもいないのに英仏が勝手に「集団的自衛権を行使」してアメリカと共に「イスラム国」に対する軍事行動に出たのか、まずもって英仏が行った軍事行動の意味を理解しないと、問題の本質に迫ることはできない。
 言っておくが、国連憲章は先の大戦と、国際連盟が破たんしたことへの反省から作られた国際紛争についての決め事である。日本の「大東亜共栄圏」構想や「八紘一宇」は、日本が攻撃されていないにもかかわらず、アジアの諸国をヨーロッパ列強の植民地支配から解放するという大義名分のもとで行われた侵略戦争だった。オバマ大統領が主張する「個別的自衛権」は、アメリカ国民をシリアから退去させずに、在シリアのアメリカ人を守るためという大義名分で行っている「イスラム国」を名乗る集団への攻撃であり、かつての大日本帝国ですら、そのような「大義名分」を振りかざして侵略戦争を行ってはいない。
 まして英仏の参戦は、第1次世界大戦の際、日本が日英同盟を口実にドイツの宣戦布告し、ドイツが中国に持っていた権益を奪ったのと同じ論理でしかない。日本の歴史家は、あるいは司馬遼太郎氏のようなねつ造歴史小説家も、先の大戦は間違いだったとしているが、第1次世界大戦で日英同盟を口実に始めた戦争についてのフェアな歴史評価はしていない。逃げているのかな?
 第1次世界大戦は、1914年8月4日、ドイツ帝国陸軍が突如ベルギーに侵攻したのを受けてイギリスがまず宣戦布告し、ドイツ東洋艦隊の行動を封じ込めるため、日英同盟に基づいて日本に参戦を要請した。が、すでにアジアで強力な軍事力を保持していた日本が中国での権益の拡大を恐れ、日本の参戦地域を極東及び西太平洋に限定させる方針だった。が、日本はイギリスの足元を見て「参戦するからには戦闘地域の限定には応じられない」とイギリスの提案を突っぱね、交渉の結果イギリスが折れて日本は8月23日に対独宣戦布告した。
 このとき、大隅重信首相は御前会議を招集せず、議会の承認も取り付けず、軍統帥部の了解も得ず、緊急会議(※実態不明)で参戦を決定したようだ。大日本帝国陸海軍は破竹の勢いで中国山東省を軍事拠点としていたドイツ帝国陸海軍を撃破、9月までにドイツ帝国の植民地だった南洋諸島のうちマリアナ・カロリン・マーシャルなどの諸島を占領した。
 が、ドイツ帝国軍はヨーロッパ戦線では依然として優勢だった。そのためイギリスに次いで対ドイツ連合軍との戦争に参戦していたフランスやロシア帝国も、日本にヨーロッパ戦線への参戦を要請した。が、当時の日本政府は、この要請を何度も突っぱねている。払う犠牲の大きさに対して、得られる国益が定かでないという理由だった。
 どうしてもヨーロッパ戦線に日本を巻き込みたかったヨーロッパ連合国は1917年1月から3月にかけて山東省および赤道以北のドイツ権益を日本が引き継いでよいという条件を提示し、ようやく日本の説得に成功した。大日本帝国海軍は巡洋艦「明石」をはじめ駆逐艦数隻を地中海に派遣し、ドイツ帝国側についたオーストリア=ハンガリー帝国海軍の攻撃を受けて相当の犠牲を出した。
 が、ドイツ帝国から大きな権益を引き継いだ日本は青島のドイツ要塞を攻略後の15年1月18日、中国に対して「対華21ヶ条要求」を突き付け、ドイツから「継承」した権益だけでなく、新たな権益を要求した。最終的に中国の袁世凱政権は、この無法な要求を呑むが、これが中国国内の反日運動に火をつけ、五四運動をきっかけに泥沼化した日中戦争の引き金となり、アメリカに対日制
裁の口実を与える結果につながった。              
 米ルーズベルト大統領が、ソ連に対日参戦させるため北方領土を奪ってよい
というエサで、ソ連に参戦させたものの、東欧諸国のソ連圏への組み込みに成
功したソ連がヨーロッパ戦線に張り付けていた軍隊を大挙、対日本戦に投じたことでびっくりし、ソ連の快進撃を阻止するために広島・長崎に原爆を投下して日本の無条件降伏の早期実現に成功した。が、ソ連軍は日本がポツダム宣言受諾後も南下作戦を止めず、北方四島を占領、北海道まで攻め込む勢いを示しだしたことでアメリカが硬化、アメリカとの全面対決を避けるためソ連は北海道占領を諦めたという経緯があった。
「歴史は繰り返す」という言葉があるが、戦争というものは正邪とは無関係に、国益になることは何でもやってよいという「歴史的教訓」を国際社会は学んだはずだった。国連憲章も国際連合も、二度とそうした過ちを犯してはならないという「歴史的教訓」を生かすために作られたはずである。が、憲章の条文を自国の国益のために、どんなに非論理的であっても自由に解釈してよいということになると、もはや国連憲章は死文化したと考えざるを得ない。
 だから私は「勝てば官軍、負ければ賊軍」「敗軍の将、兵を語らず」を歴史認識基準にすべきではないと、これまで一貫して主張してきた。
 とりあえず、昨日の臨時国会で海江田民主党代表の質問に答えて安倍さんは、自衛隊の海外派兵のための関連法案成立後も「中東での戦争に『大規模』な参加はしない」と答弁した。
 ちょっと待ってよ、安倍さん。閣議決定した際には「湾岸戦争やイラク戦争のような戦争には参加しない」と言っていたではないか。その意味は「中小規模の参加はするが、大規模な参加はしない」ということだったのか。そんな説明は聞いてないぜ。ふざけるのも、国民をバカにするのもいい加減にしてもらいたい。公明党は沈黙しているが、そもそも自公交渉の過程で「湾岸戦争やイラク戦争のような戦争には参加しない」との公約の裏には「参加の規模の大小」についての密約があったのか。

 さてお約束の読売新聞、朝日新聞の「米軍の『イスラム国』攻撃」についての社説での主張を検証しよう。結論から言えば、「情けない」の一言しかない。これが日本を代表する2大メディアの論説委員たちの思考力の限界なのか、と唖然とする思いだ。
 野党もだらしがないが、せっかく海江田氏が「アメリカから要請があった場合、日本は『イスラム国』攻撃に参加するのか」と集団的自衛権行使の核心に迫る質問をしておきながら、安倍さんの「関連法案が成立しても『大規模な参加』はしない」との答弁に、それ以上噛み付けなかっただらしなさ…それすら
読売新聞も朝日新聞も不問に付した。25日付読売新聞の社説のタイトルはずばり『米シリア領空爆「テロとの戦い」に結集しよう』だった。要点を転載する。

 オバマ大統領は、「流血をもたらす過激思想を弱体化させ、壊滅する」と強調
した。オバマ政権は、イラク駐留米軍を撤収させ、国民を弾圧したシリアのアサド政権への空爆も見送った。だが、イスラム国の脅威が世界に広がるなか、中東への軍事関与を強める路線転換を迫られた。
 米国は、空爆について「自衛権の行使」と説明する。シリアのアサド大統領も「反テロの努力を支持する」として自国領内への攻撃を容認した。敵対勢力の弱体化を期待しているのだろう。米国は、シリアの穏健な反体制派を組織化し、軍事訓練を行って、イスラム国との地上戦の主体とするとともに、いずれアサド政権に代わる勢力に育てたい考えだ。
 安倍首相がイスラム国の蛮行を非難し、今回の空爆に「理解」を示したのは妥当である。日本も難民への人道支援などで、従来以上に積極的に貢献したい。

 読売新聞論説委員室は、オバマ大統領が「イスラム国」を称する集団に対して行っている空爆(人的被害を最小にとどめる地上戦の準備も進めているようだが)について「自衛権の行使」と説明していることを認めている。正確に言えば「国連憲章51条に基づく個別的自衛権の行使」が空爆の口実である。確かに残虐そのものであり、とうてい許される行為ではないが、「イスラム国」を名乗る集団(テロ集団とするには規模が拡大しすぎている)が虐殺したのは米ジャーナリスト2名である。オバマ大統領は、さすがにこの二人に対する報復行動を「個別的自衛権の行使」とは言えず、シリア在住のアメリカ人を保護するためと口実を加算している。ということは、アメリカはシリア在住の米民間人のシリアからの退去を命じず、「シリアにとどまれ」としているに違いない(これは事実を書いているわけではなく、そう理解しなければ個別的自衛権行使の口実になりえないからである)。
 ロシアが国連総会で「この空爆はシリアの国内紛争に対する軍事的介入だ。国連安保理で議論すべきだ」と主張しているのは、そのことを指している。少なくとも米国の「イスラム国」への空爆についてはロシアの主張のほうが正当である。中国もロシアの主張に同調しているようだ。
 日本がシリアの内紛から逃れた難民への人道支援を行うことについては、私は読売新聞の主張を支持するが、安倍さんがアメリカの勝手な口実での軍事介入を支持していることへの賛意を示すこととは全く別問題である。安倍政権が来年4月以降順次関連法を改正した場合、読売新聞は「自衛隊は中小規模での、イスラム国に対する攻撃をすべきだ」と主張するのだろうか。
 朝日新聞は28日の社説でこう主張した。タイトルは『国連演説 首相の重い国際公約』である。国連総会での演説と記者会見での発言を言質にしようというのだろうか。やり方としてはせこいが、自衛隊の行動に歯止めをかけようという意図は分かる。が、そもそもアメリカの「イスラム国」への攻撃は国連憲章上、正当性があるのかどうかの根本的問題は不問にした。

(国連総会での一般討論演説後の)記者会見では、難民や周辺国への人道支援など「軍事的貢献でない形で可能な範囲の支援を行う」と語った。日本は米国などの軍事攻撃には関与せず、あくまで非軍事の支援に徹する方針を国内外に示したことになる。
 米軍などのシリア領内での空爆について、首相の見解は「やむを得ない措置だったと理解している」というものだった。空爆に当たっては、シリア政府からの明確な要請も、国連安全保障理事会での決議もなかった。国際法上の根拠には疑問が残り、「支持」でなく「理解」にとどめたのだろう。
 集団的自衛権の行使容認を閣議決定した政権がどう振る舞うか。ここは国際社会での日本のありようが問われる。もちろん、閣議決定だけで自衛隊は動かせない。関連の立法措置が必要であり、自衛隊の活動の範囲を規定する歯止めなど具体的な中身は今後の国会論議にかかっている。
「イスラム国」との戦いは長期化が予想されており、米国が自衛隊の支援に期待する可能性もある。だが、首相自身が「軍事的貢献でない支援」と国際社会に約束した。そのことを忘れてはならない。日米関係は重要だが、国際的支援の在り方は各国がそれぞれ判断すべきことだろう。米国とは違う立場で、その個性を生かすべきではないか。

 まぁ、窮地に陥っている朝日新聞としては、これが精いっぱい書ける限界かという感じがしないわけではない。が、米軍の「イスラム国」空爆に対しては「国際法上の根拠には疑問が残り」とだけしか指摘できなかったのでは、読者は消化不良を起こす。一体、どういう疑問があるのか、メディアとしては私のブログ記事を盗用してもいいから、はっきりさせる責任があるだろう。(了)

オバマ大統領は「イスラム国」攻撃理由を個別的自衛権とした。安倍さんの集団的自衛権論の根拠が崩れた。④

2014-10-02 07:37:16 | Weblog
 このシリーズの1回目に私はこう書いた。
「イスラム国」は国家なのか。それとも国家建設を目指すグループなのか。
 そういう疑問を提出したのは、米オバマ大統領が「イスラム国」と称するグループ(あるいは集団)に対する武力制裁を正当化するために、「国連憲章51条に基づく個別的自衛権の行使だ」と主張したからである。
 私は国連憲章51条の論理的解釈について、私自身が「もう飽きた」と言いたくなるほど、このブログで書いてきた。私の解釈について、各メディアも首相官邸も、安保法制懇の連中も読んでいながら、いままで一度も反論・批判を返したことがない。私の解釈がおかしいと思うなら、コメントやトラックバックでいくらでも批判できる。実名でなくても私は一切削除しない。つまり反論や批判がないということは、私の論理を否定できないということを意味する、と私は確信を持って言える。
 実は私はブログで主張するだけでなく、各メディアに何度も電話で同じ論理の意見を申し上げてきた。すべてのメディアの読者・視聴者窓口の方は、私の論理が正しいことを認めている。ただ、それが紙面や報道番組に反映されないだけだ。反映すると、メディアの無能さを自ら明らかにせざるを得なくなるからだ。
 もう自分でも飽きた、と言いながら、また書かざるを得ない。
 国連憲章は国際の平和と安全を、2度にわたる世界大戦を教訓として、いかに実現するかという人類共通の課題のために作られた。国連はこの国連憲章をベースに構築された国際的組織である(憲章の決定は45年6月、国連の結成は同年10月)。
 国連憲章の目的は、国際(諸外国との関係)の紛争は武力によって解決することを原則として禁止することにある。実際に他国との間に紛争が生じた場合、憲章は、戦争という手段(武力の行使)によって解決するのではなく、話し合いなどの平和的手段(外交)によって解決することを国連加盟国に命じている。
 が、そうは言っても、ということが過去繰り返されてきたので、当事国間の外交交渉では解決できなかった場合、国連安保理が「非軍事的措置」についてのあらゆる権能(憲章41条)と、「軍事的措置」についてのあらゆる権能(憲章42条)の行使によって国際の紛争を解決してもいい、と決めている。
 が、国連安保理には常任理事国と非常任理事国があり、米・英・仏・中・露の5か国が常任理事国として特別の権限を持っている。それが拒否権であり、そのため実際に国連が国際の紛争を解決できたことは過去に一度もない。強いて言えばアパルトヘイト政策(人種差別)をとっていた南アフリカを国際社会から「村八分」にしたことはあったが、これは国際の紛争の解決のためではない。日本では湾岸戦争のときに結成された多国籍軍が有名だが、多国籍軍も国連憲章が想定していた「国連軍」ではない。
 このように、憲章41条、42条の規定にもかかわらず安保理が国際の紛争を解決できなかった場合に「のみ」、他国から攻撃された国は個別的自衛(自国の軍事力による自衛=防衛)又は集団的自衛(密接な関係にある国に軍事的支援の要請)を行う権利を認めたのが憲章51条である。
 この解釈は、憲章51条をどう、縦に読もうが横に読もうが、あるいは逆さに読もうが斜めに読もうが、変えることはできない。アメリカがどう解釈したとか、旧ソ連がどう解釈したとか、そんなことは一切関係ない。アメリカの解釈がすべて正しいとするならば、では日本は個別的自衛権を「イスラム国」なる集団に対してなぜ行使しないのか。
 言っておくが、憲法9条は、個別的自衛権の行使については行使の条件を一切付けていないというのが、これまでの政府の見解だ。

 オバマ大統領は、「イスラム国」を名乗る集団に対して、個別的自衛権を行使するとしている。理由はアメリカ人ジャーナリストが「イスラム国」を名乗る集団によって殺害されたこと、またシリアに住んでいるアメリカ人を守るため、としている。
 戦場で命を落とした日本人ジャーナリストも、21世紀に入ってから少なくとも5人が確認されている。
 最初の犠牲者は04年5月27日にイラクで取材中にバクダッド近郊のマハムディヤで銃撃を受けて殺害されたカメラマンの橋田信介氏と助手の甥・小川功太郎氏の二人。次が07年9月27日にミャンマー・ヤンゴンで反政府デモを取材中に軍の治安部隊がデモ隊に発砲した銃弾によって死亡した長井健司氏。3人目は10年4月10日にタイのバンコクで治安部隊と反政府デモとの大規模な衝突を取材していたカメラマンの村本博之氏。最後の一人が13年8月20日にシリア北部のアレッポで反体制派武装組織「自由シリア軍」の同行取材中に銃弾に倒れた山本美香氏。
 この5人の死は、それぞれの国の政府軍あるいは反政府勢力による銃撃によるものであろうと、「日本が攻撃された」と見なすことができるケースと言えるだろうか。そんなバカなことを言って、自衛隊に報復行為を政府が命じたとしたら、たちまち政府は倒壊する。
 が、なぜかアメリカではそういうバカげた論理がまかり通っているようだ。確かにイスラム過激派はアメリカに対して異常なほどの憎しみを持っているようだ。イスラム教徒が支配するアラブ諸国が対立しているイスラエルの背後にアメリカが存在しているという事実が、アメリカに対する憎しみの原点になっていることも間違いないようだ。
 が、日本政府はシリアに在住していた民間の日本人には国外退去を命じているはずだ。シリア大使館は閉鎖するわけにはいかないから最小限度の外交官や事務官は残しているだろうが、家族は日本に帰国しているはずだし、大使館員も外出の自由は相当制限されているはずだ。また緊急事態に対処するため、大使館にはかなりの食料や飲料水が備蓄されている。
 アメリカ政府は自国民に対してそうした配慮をしていないのだろうか。あるいはアメリカ人のシリアからの退去を、オバマ大統領が禁止しているとでも言うのだろうか。そうだとすれば、シリア在住のアメリカ人の安全を守るのはアメリカ政府の責任であり、シリア在住のアメリカ人の安全のための最小限の地上警備態勢を敷くのは当然だと思う。日本もシリア大使館の警備体制はそれなりに整えているはずだ。
 が、仮に日本のシリア大使館が「イスラム国」なる過激派に襲われたとしても、その襲撃を防ぐ義務はシリア政府にある。シリア政府から協力を要請され、自衛隊を派遣することになったとしても自衛隊の任務は大使館の防衛に限定され、「イスラム国」を名乗る集団に対する攻撃の権利はない。なぜなら「イスラム国」を名乗る集団は日本国を標的として攻撃して来ているわけではないのだから、憲章が認めている「自衛のための実力の行使」が行えるケースには、どう屁理屈を付けても該当し得ない。

 戦場におけるジャーナリストの死は「自己責任」とされている。日本の場合、先に述べた5人はすべてフリーランスのジャーナリストである。大手メディアは戦場に記者を派遣していないわけではないが(テレビの報道番組ではしばしば現地からの録画中継も行っている)、危険な地域での取材は絶対避けるよう指示している。フリーランスのジャーナリスト(とくにカメラマン)は、ある意味では生々しい現場の撮影映像を高いカネで売るために、自らの命に対するリスクを引きかえにしていると言えなくもない。
 そういうリスクをおかせ、と誰からも命じられたわけではなく、自らの意志でそうしている。もちろん、カネだけが目当てだと言っているわけではない。少なからず使命感に駆られて危険を顧みず、という方もいるだろう。が、そうであったとしても、やはり結果に対する責任は自らが負うしかない。私も、正直ここまで書いたらやばい、と思うケースもないではない。だから、このブログを書きだした時に私の個人情報は完全に秘匿している。住まいも変えた。電話も、IP電話か携帯しか使わない。局番から住居地が分からないようにするためだ。私がどこに住んでいるか、親族以外はきわめて親しい友人すら知らない。
 野村証券はかつて暴力団と手を組んで東急電鉄株の株価操作をしたことがある。麻生太郎元総理はかつて、その筋の人だった。私はスキャンダル・ライターではないが、ある意味ではスキャンダルを暴かれるより厳しい批判もしている。もっと若くて、さまざまなしらがみがあったら、ここまでは書けないかもしれない。
 シリアで無念の死を遂げたジャーナリスト、カメラマンはすでに二ケタに達しているとも言われている。彼らがなぜ大きなリスクをおかしたのかは、彼ら自身に聞かないと分からない。が、それは不可能だ。大分・普賢岳の大火砕流では消防団員や新聞記者など多くの殉職者を出した。彼らの場合は個人的な動機でリスクをおかしたとは言えないから、戦場におけるジャーナリストの死とは同一に論じることはできない。実際、普賢岳の火砕流の死者を超えた御嶽山の噴火では殉職者は出ていない。救難活動に従事する組織も、メディアも普賢岳の教訓から学んだことが多いと思う。
「イスラム国」を名乗る集団が、なぜそこまで残酷な行為に走るのか、イスラム教については学んだことがない私には、理解の限度を超えている。9・11事件もそうだが、あそこまでやるのは旧日本軍の特攻隊以来だろう。自爆テロはほとんどがイスラム過激派の行動だ。彼らの行為はリスクをものともせず、といったものではない。自らの死と引きかえに、何を得ようというのか。旧オウムの信者も、浅原彰晃の完全なマインド・コントロール下に置かれながら、自らの死と引きかえにテロを行ったりはしていない。
 9・11事件に対しても、米政府は勝手にアフガニスタンのタリバーン政権によるアメリカへの攻撃とみなすことにして、「個別的自衛権」を行使した。
 こういう笑えないジョークがある。「フランスは、フランス人さえいなければ世界一素晴らしい国だ」というのがそれだ。ご存じの方も少なくないと思う。その笑えないジョークにちなんで私はこういうジョークを考えた。
「アメリカは、アメリカ政府さえなければ、フランスに次ぐ世界で二番目の素晴らしい国だ」
 明日は、このシリーズの最終編として、読売新聞と朝日新聞の社説での主張を検証する。
 


オバマ大統領は「イスラム国」攻撃理由を個別的自衛権とした。安倍さんの集団的自衛権論の根拠が崩れた。③

2014-10-01 07:19:12 | Weblog
 日本人が国家権力によって危険にさらされたことがあった。戦後、唯一の事件である。イラク・フセイン政権による、いわゆる「人間の盾」事件だ。
 1990年8月2日、イラクが突如クウェートに侵攻して湾岸戦争が勃発した。このとき、フセイン政府は日本人を含む在イラク・在クウェートの外国人を人質として軟禁、国外移動を禁止した。フセイン政権によって人質にされた日本人は141人。大半は民間人だった。
 人質にされた日本人の、日本の家族や友人、会社の同僚たちは神に祈るような気持ちで彼らの無事を祈ったはずだ。御嶽山で、いまだ安否が気遣われている登山者の家族や友人たちの思いと共通したものがある。
 彼らは当時の海部首相にも、祈るような気持ちで人質救出のための最大限の努力を期待したと思う。私の家族や友人が、その時もし人質にされていたら、おそらく私は居ても立ってもいられず首相官邸に押しかけ、海部首相に会えなくても日本人救出に国の総力を挙げて取り組んでもらいたいと、必死の思いでお願いしていたと思う。
 が、海部首相はこのとき、わが国民の命のゲタをアメリカと国連に預けただけで、自国の責任で日本人を救出することは一切念頭になかった。もちろん外交ルートを通じて人質解放交渉はしたが、出口はまったく見えなかった。そうした状況下で、アントニオ猪木氏が動いた。猪木氏は12月1日、イラクで「平和の祭典」を行うと発表、このパフォーマンス「外交」に外務省は難色を示したが、猪木氏は自分のポケットマネーでトルコ航空機をチャーターしてイラクの首都・バクダッドに単身乗り込み、イベントを開催した。その後、フセイン政権は在留日本人と全人質を解放した。
 
 その6年後の1996年12月17日にペルーの首都・リマで日本大使公邸占拠事件が勃発した。武力占拠したのはペルー政府ではなく、武装したテロリスト集団だった。
 この日、日本大使公邸では日本の特命全権大使の青木盛久氏をホストに天皇誕生日祝賀レセプションが行われていた。宴たけなわの午後8時過ぎ、隣家の塀を爆破して覆面をしたテロ集団が乱入、まったく無防備だった公邸を完全制圧・占拠した。このテロ集団はわずか14人、各国のペルー大使とその家族、日本大使館員や日本企業のペルー駐在員とその家族ら約600人を人質にして公邸に立てこもった。
 テロ集団がペルー・フジモリ政権に突き付けた要求は「逮捕、抑留されている仲間全員の釈放と国外退去の保証」というものだった。もし同じような事件が日本で生じていたら、日本政府は直ちにテロ集団の要求に屈していただろう。赤軍派による日航ハイジャック事件のことは日本人からだけでなく、国際社会からも、「日本はいとも簡単にテロに屈する国」と烙印を押されてしまった事件だった。その後も、日本はテロに屈し続けている。もっとも私はテロに過剰反応するアメリカのやりかたを支持しているわけではない。
 ペルーの人質事件はテロ組織にとっても厄介な問題を抱えることになった。武装したテロ集団の人数はわずか14人。人質の数は約600人。人質は非武装であり、テロ組織は完全武装。が、どんなに広いパーティ会場でも600人を1室に閉じ込めて拘束することは到底不可能だ。結局、いくつかの部屋に分散して拘束するしか方法はない。が、テロ集団も重い武器を抱えて、何日も眠らずに人質を制圧し続けることなど不可能だ。まず女性や高齢者、子供たち約200人を解放、さらにアメリカ人だけを特別扱いして早期に開放した。アメリカの特殊部隊が、米人質のみを解放するための軍事行動に出ることをテロ組織が怖れたためと言われている。
 事件発生直後からフジモリ大統領は、武力突入作戦の検討を始めた。テロ集団に襲撃されたのがペルーの主権が及ばない日本大使公邸であったため、日本政府(橋本内閣)に打診した。「テロに屈する国」と国際社会から“称賛”を浴びていた日本政府としては、やはりテロに屈する国是に従うことにしたようで、「平和的解決」をフジモリ大統領に要請した。ために事件の解決が長引いた。
 事件発生から1か月もたち、さすがに国内外から批判が高まり、フジモリ大統領はペルー警察当局に実力による人質救出計画の策定を要請した。日本政府の了解なしに実力行使計画を練っていたとしたら、重大な国際法違反であるが、そのあたりの外交ルートを通じての日ぺの交渉については、現在も明らかにされていない。
「結果良ければ、すべてよし」という日本社会に根付いた精神的規範が国際社会からどう評価されるだろうか、などといった国際社会の反応は常に想定外の日本政府だから、事件発生から127日後にペルーの特殊部隊が密かに掘削していたトンネルから日本大使公邸に突入、最後まで拘束されていた日本人24人を含む71人全員を無事救出したことについても、重大な主権の侵害であったにもかかわらず、「結果良ければ、すべてよし」で不問に付すことにした。特殊部隊からは2人の隊員が犠牲になり、人質救出のため命を捧げた彼らには多くの日本人から義捐金が寄せられた。その後、日本の政府高官は訪ペルーの際には、必ず2人の墓前を訪れている。そういう行為を「恥知らず」という。
 メディアも、この作戦を美談として報じてきた。私も、自らの命を賭して人質救出を断行したペルー当局と特殊部隊の方々に、日本人の一人として感謝の気持ちは抱いている。が、そうした情緒的な問題と、日本の主権が日本政府の了解なしに侵害されたという事実は混同できない。日本政府は事件発生直後に「平和的解決」を要請しただけでなく、1か月以上たって事件がこう着状態になり、実力行使以外に事件解決の見込みがないと判断して極秘裏にトンネルの掘削作業を進めていたペルー当局は、カナダ・トロントで橋本・フジモリの首脳会談で強行解決の打診をしている。が、この会談でも橋本首相は「平和的解決」をフジモリ大統領に要請している。平和的解決のための具体的方法の提案すらできなかったくせに。
 事件解決後、日本政府は主権の侵害について沈黙したままだ。

 また日本人が直接巻き込まれた事件ではないが、世界を震撼させたテロ集団による人質事件もあった。「ミュンヘン・オリンピック事件」である。
 この事件は1972年9月5日早朝、選手村に「黒い九月」を名乗るテロ集団8人が自動小銃や手榴弾などで武装して侵入、イスラエル選手団宿舎を襲った事件である。彼らはユダヤ系アメリカ人選手とレスリング・コーチの2名を殺害し、「午前9時までにイスラエルに収監されているパレスチナ人234人(日本人の岡本公三も含む)の開放要求」声明を文書で発表した。この事件は6時20分頃から西ドイツでテレビの生中継が行われた。日本で言えば浅間山荘事件のようなケースで、西ドイツ国民は固唾をのんでテレビにくぎ付けになったという。
 むろんイスラエル政府は「黒い九月」の要求を拒否、事件の解決に国の威信がかかることになった西ドイツ政府は、テロ集団を刺激しないため軍ではなく、地元警察とオリンピック関係者による交渉を始めた。警察側はイスラエル当局と交渉中であると伝え、時間稼ぎをする一方、テロメンバーを射殺する準備を整え始めた。
 イスラエルのゴルダ・メイツ首相は西ドイツに対し、イスラエル軍特殊部隊による救出行動を西ドイツ当局に要請したが、西ドイツ側は「自国の主権にかかわる事件」として拒否(この要請はイスラエル国民に対するジェスチャーのためで、本気ではなかったという説もある)、しかし「黒い九月」には「イスラエル側と交渉中」と、要求をのむ可能性を示唆しながら時間稼ぎを延ばしに延ばし、午後5時頃には非武装のオリンピック関係者を人質の安否確認を口実に宿舎に入らせてテロ集団の人数を調べた。このときテロ集団の人数を5人と見誤ったのが悲劇につながる。
 結局、交渉を諦めたテロ集団は最後に飛行機でエジプトの首都カイロに脱出することを要求し、当局も合意、午後10時、テロ集団は人質を伴ってヘリコプターでフュルステンフェルトブルック空軍基地に向かった。西ドイツ当局は一人一殺を狙い5人の狙撃名手を配置した(多くの狙撃者を用意すると人質を誤射しかねないと考えたと思われる)。結果的には、テロ集団の人数を誤ったことで西ドイツ当局の作戦は失敗し、「黒い九月」のグループは8人中リーダーを含む5人は射殺できたものの、人質9人全員と当局側1名が死亡するという最悪の結果になった。逮捕されたテロ集団の残りの3人は、その年10月29日のルフトハンザ航空ハイジャック事件で解放された。
 この事件は、オリンピック選手村がテロ集団によって襲われるという異常事態ということもあって、世界中の注目を集めたが、国民の安全を守ろうとした国の政府の在り方と、国の主権を楯に自力解決にこだわった国の在り方について、現在の国際社会が(はっきり言えば国連が)まったく無力でしかなかったことを象徴するケースとなった。

 私は今日のブログで、国が国民の命を守るために何をなすべきか、何が国際社会の制約の中でできるのか、自国の憲法など法的制約の中で何ができるのか、そのことをメディアや読者に考えてほしいという願いで書いた。そういうことを国民的議論を経ずに、自衛隊が対処できる具体的事例として、公明党案を丸呑みし、従来の政府の公式見解である「集団的自衛権は、自国が攻撃されていないにもかかわらず密接な関係にある他国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する権利」という定義については一切不問に付したうえで、事実上「警察権」などで対応できるケースに限定しつつ、「憲法解釈の変更」という7文字だけを閣議決定で公明党にのませたのが安倍政権である。
「集団的自衛権」についての考え方が違う、として安保相就任要請を固辞した石破幹事長と、独裁政権を築きつつある安倍総理の対立を、単に権力闘争としか見ることができない日本のメディアの無能さを、つくづくと思う。
 何度もブログで書いてきたが、政府が「自国が攻撃されていないにもかかわらず、密接な関係にある他国が攻撃された場合、自国が攻撃されたと見なして実力を行使する」のが集団的自衛権であれば、個別的事例を100並べようが、200並べようが、どう憲法解釈を変更しても権利の行使は不可能である。(明日は戦場で殺害されたジャーナリストに対する報復行為が、果たして個別的自衛権の行使として国際社会が容認すべきか、について読者と考えたい)