ケニアのナイロビでお世話になったスラム街で学校を運営されている早川さんの素敵なレポートがFBに掲載されました。
あまりに素晴らしいのでFB出なくても読めるように掲載しました。フレディーこんなルーツだったのですね?
https://www.facebook.com/chiaki.hayakawa1/posts/2311648365561600
タンザニアでの仕事を終えて1日だけの休暇を、ザンジバルでフレディマーキュリーの家に泊まって彼の人生に想いをはせました。
フレディマーキュリーが生まれ育った家を、老舗のテンボハウスホテルが買い取り、数年前から宿泊施設にしています。2ベッドルームのアパートが四軒ですが、そのうち1つが実際に彼が家族と住んでいた家だそうです。その部屋をリクエストして取っておいてもらいました。
フレディは本名ファルークバルサラ、1946年ザンジバル生まれ。両親はインドのグジャラーティーで、パールシー(ゾロアスター教徒)。
当時イギリス保護領だったザンジバル島で父親が植民地政府オフィスの会計係として職を得たので、ストーンタウンで生まれた。
彼はムンバイ郊外の英国式寄宿学校に行き、1963年にザンジバル島に戻ったが、1964年17歳のときにザンジバル革命が起こり、多数のインド人とアラブ人の死傷者が出たため、イギリスに避難した。
その後、クイーンが生まれるわけですね。
フレディの家のベッドルームからは、窓の外にストーンタウンの路地が見え、ちょうどラマダーン中で夜はいつまでも路地裏が賑やかで、窓から路地を眺めたり、居間でゴロッとなってくつろいだりすると、彼の幼少時代に見た風景や匂いや感覚が身近に感じられました。
ザンジバル革命において、5000から12000と言われる多数の犠牲者を出した凄惨な虐殺が発生したとのこと。若いフレディは何を見て何を感じたのでしょうか。
イギリスに移住してから彼ら一家は小さな家に移り住み、両親は郊外住宅の使用人として働いたのだそうです。様々な苦労や、精神的葛藤、差別なども経験したことだろうと想像します。
フレディの歌は、一般のロックとはまた一味違って、歌詞の内容や旋律も、情感があふれていて壮大なイメージがあるけど、やはりこのような彼のバックグラウンドは彼の音楽に影響を与えていたに違いないと、ザンジバルの路地裏を歩きながらつくづく思いました。
短いお休みの時間でしたが、自分の好きなことをして過ごせて嬉しかったです。
ローカルマーケットでザンジバル製のカンガをたくさん買いました。色合いやデザインがケニアのカンガとはまったく違う味わい深いもので、私は特にザンジバルの薄手のカンガが昔から大好き。たくさん買って、これからこれで何を作ろうかなとワクワクとしています。
ザンジバルはとても治安が良く、夜もブラブラと歩いて散歩を楽しむことが出来ます。
素晴らしく歴史と文化の深いザンジバル、平和な心の穏やかな人々。いつまでも変わらずにいてほしいです。