会津野は変わったなとしみじみ思うのです
私が古里只見からこの町に移住したばかりの頃はこの広い緑の圃場には細い流れの鶴沼川が蛇行して流れていました。その流れに添って4アール前後の小さな田んぼが並んでいました。川辺の堤にはカワセミの巣穴が掘られていましたし、今はまったく見えなくなった青色のきれいな鳥オナガがなどが群れていましたし、初夏の芦原にはヨシキリの群れが賑々しくてカッコウの声ものどかでした。蝶やトンボなどの昆虫もいっぱいいましましたし今はもう全く聞くことの出来ない自然のスズムシもいましたしホオジロやホオアカやカワラヒワなどの小鳥もいて賑やかでした。
まだ30数歳だった私は世間のことは何にも知らない若造でしたけどそれなりに生きていたようにも思います。ある日この流れで一人で釣りをしていました。浮きがゆっくりと動くのです、なんだろうと釣り竿を揚げて見ると大きなナマズ釣れていたんです。私の見たことのない魚です。古里只見にはナマズはいなかったのです。不気味な姿に見えて怖くなってテグスを切って離してやりそそくさと釣りをやめて帰りました。初めて見た大きなナマズに驚いてしまったのです。
そうそう、その頃の集落には子供達がいっぱいいましたね。小学校の子供たちが登校する朝は決められた場所に集まって6年生の子供の指導で30人か40人の子供達が一列になって3kmほどの道を歩って登校していました。
その頃は自転車は子供用の三輪車か大人用の自転車しかありませんから子供たちは三角乗りといって右脚をサドルの下の三角になったところに入れてペタルを踏んで乗っていました。そんな乗り方よく出来たもんだと今は思います。
竹馬を自分でつくって乗って遊びました。足をつける所を競って高くして遊びました。只見では竹馬を「さぎあし」なまって「さんぎゃし」と言っていました。サギの歩く姿に似ていたからでしょうね。
そうそう中学校を卒業した子供たちの集団就職というのがありましたね。中学校を卒業した者のうち高校に進学出来ない者は集団でSLの列車に乗って京浜方面に就職するために町を出て行きました。特別列車ですからたいてい夜の出発になりました。去っていく夜の列車を見送るお父さんお母さんの目は皆涙が浮かんでいました。なんか集団就職をする子供たちを金の卵なぞと言われていました。安い賃金で働かせることができるのでそう言われていたんですね、今考えるとほんとむごい話ですよね。
当時はほんとうに自然が豊かでした。空気が澄んでいましたから夜の星空は綺麗でした。銀河のながれ、北極星、オオグマ座・コグマ座・カシオペア・スバルなどなど時には流れ星なども見ることもできました。いま平地で見える星といえば宵の明星明けの明星の金星と火星くらいのものです、侘しいです。
当時の農家の人たちの仕事は楽ではありませんでした。まだ機械化はすすんでおらず家族同様になっていた馬や牛と人間の手作業で当時の農家の仕事は成り立っていたように思います。
田んぼの耕耘や代掻きは馬か牛をつかてしたでしょうけど、大事な田んぼの畦作りなどは三本鍬などを使って人の手でしなければならなかったでしょうし、田植えも田の草取りも稲刈りも脱穀も、畦の草刈りも全部人の手でした、用具と言えば鎌と鍬でした。使い道によっていろんな形の鎌や鍬がありましたね・・・運搬は馬か人の背かリヤカーでした。
仕事は昼間だけでなくて必要とあればよなべ(夜の仕事)もしたのです。むしろやかます作り・縄ない、わら草履・藁靴・蓑などを作ったりしたのです。
盆踊りの青津甚句に
「嫁に来るなら青津に来るな藍(あい)とからしに殺される」
というのがありました。藍は隣の集落青木の「青木木綿」の染料ですし「からし」は菜種油の菜の花です。厳しい蕽作業の様子が盆踊りの青津甚句に詠まれているんですね、 本当に当時の農家の仕事は辛かったと思うのです。
泥と汗にまみれて地面を這いずりまわって仕事をするのが当時の百姓でした。
でも昭和の中頃になると新進の農家のなかから農作業の機械化が始まったのです。初めて見た農業機械はは水冷式単気筒エンジン付きの耕耘機でした。エンジンの湯気を立てている耕耘機のうしろについて歩きながら操作して耕耘していましたけど馬を使った耕耘より早いし仕事も丁寧でしたからたちまち農家の間に広がっていきました。耕耘機はやがて改良発展して現在のトラクターになるのです。
現在のトラクターは接続機具をつけ変えることで耕耘・肥料や薬剤の散布散布・畦つくり・除雪などと何でも出来るし運搬にも使われる基本の農業機械になっています。
バインダーという機械が導入されました。稲を刈り取り結束する機械です。うしろについて歩行しながら手で操作する機械でした。これはやがて現在の大型コンバインに発展しました。
そのほかエンジン付きの草刈り機とか、リヤカーにエンジンがついたような運搬機(テイラーとかいっていたような記憶です)とかいろんな機械が導入され発展していきました。
馬や牛と一緒になって地べたを這いずりまわって仕事をした百姓の時代は終わってしっかりとした自立農家に進化したのです。
昭和の終わり頃か平成の始め頃だったでしょうか、世界の農業に伍して日本の農業が自立発展するためには大型の農業機械が導入されなければならない。そのためにはちまちました小さな田んぼの耕地ではなくてヘクタール単位の広い耕地にしなければという考えからでしょうね、各地で大かかりな耕地の基盤整備工事が数年計画で始まりました。
蛇行する川はしっかりとした堤防の堤のついた直線的な川に改修され、沼地は埋め立てられ、斜面になっている場所は段落のついた平地に変えられて広々とした平らな耕地になりました。
田んぼに添ってまがりくねっていた道は舗装された広くてまっすぐな農面道路になり、耕地の間を細く通っていた道は車が自由に通れるまっすぐな農道になりました。コンクリート製のU字溝にきれいな水の流れる用排水賂もできました。
来たり来ないだり 夏堰の水
いっそ来ないなら 来ぬが良い
盆踊りで歌われたの青津甚句です。古い時代の田んぼの用水は細い堰掘から別れた用水掘りをとおして配水されていました。晴天の日が続くと用水が来なくなるんです。水がこなければ田んぼは干上がってしまいます。ですから用水ポンプ場をつくったり、「どっこんすい」といわれる自噴水の井戸を掘ったりしたのです。今のように機械のボーリングなどありませんから「上総掘り(かずさほり)」と言われる方法で何日もかけて人手で掘り抜き井戸を堀ったのです。
そのようにして会津野はヘクタール単位の田んぼが広がる広々とした平らな圃場に変わりました。農面道路は国道の混雑をさけて通る車の交通賂になっていますし。農道には軽トラや大型農耕機械が走っています。コンクリート製U字溝の用排水賂は水の必要がないときは水は流れませんが必要なときは綺麗な水が豊かに流れます。もう用水の心配はないのです。でも今でも自噴しているどっこんすい井戸をみることがあります。草の陰に隠れていますけどもね。
それにつれて稲作栽培も進化し田植えが終われば機械で追肥・除草剤散布・殺虫剤散布をし。自走草刈り車で堤や田んぼの畦の草刈りをするだけで稲刈りを迎えるようになりました。広い圃場に人の姿は見えないのです。
このように昭和の末年から平成の時代にかけて会津の農業は大きな変革がなされました。広い圃場の稲作経営は大型のトラクター・田植機・コンバイン・軽トラをつかって熟年のご夫婦二人でできるようになりました。もう稲作農業にはかつてのような人の手は必要なくなりました。当然のように若者子供は激減しました。
一般の農家にには乗用車が2-3台以上あります。それは家族の人が町の会社や職場への通勤に必要だからです。
一般の農家の中には自分の家の田んぼは大型機械をつかって稲作をなさる専業農家の方に委託して耕作してる方が多くなりました。そして農業経営に携わる若者の姿はきわめて少ないようにみえます。サラリーマン化する農家が増えてきたのです。
いま稲作農業をなさっていらっしゃる熟年の方もやがては老いていきます。そして若者の姿が少ない現在の農村です。昭和末年から平成にかけての農業の大変革に続いて令和の大変革が起きるだろうと私は思うのですがどうなるんでしょうね?・・心にかかります。
心配することはない。工業を盛んにして安い食料を購入すればよい。食料の自給率39%といわれながらいまは食料はありあまっているじゃないか。心配することはない。今がよければいいんだ。みみずのたわごとみたいなこと心配するな・・・
そうかななあ・・・日本の農業のことなど心配いらない・・今が安定してよければそれでいいんだ・・そうかもしれませんね・・そうでないかも知れません。ボケ爺いのミミズのたわごとを一生懸命書きました。くだらんこと書いて少々つかれました。ごめんなさい・・
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