兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

平井一家3代目 博徒 原田常吉№2

2013年07月23日 | 歴史
清水一家と平井一家の和解

原田常吉は弟の善六を殺した斧八一家の用心棒を殺害した以降、徐々に一家の勢力も戻ってきた。明治6年、常吉は赤坂宿の旅籠こい屋にて、以前の盟友清水の次郎長と密かに面会した。二人は懐古談のなかで和解の糸口を見つけ、明治13年6月、浜松の料亭島屋で手打式が行われた。その和解の経過は次のとおりである。

明治12年、名古屋の稲葉地一家の日比野善七という者が、清水一家に逗留した際、大政から和解の仲裁人に適当な人はいないかと聞かれ、「名古屋で両者の仲裁ができるのは津坂音吉以外はいない。」と答えた。名古屋の音吉に声をかけたところ、ぜひこの大役を引き受けたいと音吉は大いに乗り気で、懇意な地元大親分の鈴木富五郎を訪ねた。

鈴木富五郎が平井亀吉にこの話をすると、亀吉は、「和解は望むところだが、仲裁が津坂では承知できない。今でこそ大きな顔をしているが、もとは名古屋奉行所の岡っ引き上がりだ。どうしても頼むなら、他に頭の重い親分を一人、二人引き出さなければ駄目だ。」と承知しなかった。

翌年、明治13年、亀吉は木曽福島まで用事で行ったおり、信州まで足をのばして、昔からの兄弟分の相川平作(又五郎)の墓参りをした。相川一家は平作の倅の平三が跡目を継いでいたが、まだ若いため、後見人として身内の倉吉が仕切っていた。

清水との和解の話を聞いた倉吉は、「雲風の親分、平作親分の死後、見る影もない相川一家ですが、その仲介の役を平三にやらせて下さい。」と頼んだ。亀吉は平作への供養になるのならばと思い、「俺には異存はない。だが清水の意向を確かめねばならぬ。」と答えた。倉吉はすぐに清水に飛び、次郎長の了解を取った。

しかし、最初に話のあった津坂音吉の顔をつぶすわけにもいかず、丁度その頃、鈴木富五郎のところに富五郎の兄弟分で、浜松の斉藤善五郎が滞在していたので、津坂音吉を呼び、斉藤善五郎を通じて話をした。

名古屋、浜松の大親分の手前、音吉も納得して、相川平三、斉藤善五郎、津坂音吉の3人の仲裁役が決まった。回りまわった手続を経て、やっと手打ちまでたどり着いたのである。

手打ちの場所は遠州浜松に決まり、警察に許可求めたが、何百人の博徒が繰りこむと聞いて、警察も尻込みをした。しかし、祭礼の日にまぎれてやるのならばと許可が出た。手打ち式当日集まった博徒は、両方で千人。これだけの、親分、顔役がそろったのは未曽有のことであると「常吉実歴談」に書き記されている。


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平井一家3代目 原田常吉№1

博徒・間ノ川又五郎という人

写真は原田常吉が弟の善六を殺した形の原斧八一家の用心棒を待ち伏せ殺害した東海道御油宿入口の御油橋である。

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