兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

次郎長の喧嘩

2013年07月02日 | 歴史
※写真は平井亀吉のお墓、隣は亀吉の妻のお墓。(豊川市御津町下佐脇字堤願の川沿いにある。)


次郎長の舟を活用した喧嘩

清水一家として大きな喧嘩は三つある。三つしかない、三つもあると言うべきか。保下田久六殺害、平井亀吉襲撃、荒神山の喧嘩の三つである。清水一家の喧嘩の特徴は必ず相手方の本拠地に攻め込み喧嘩すること。地元清水での喧嘩はしていない。唯一例外は、森の石松を殺害した都田吉兵衛一家が清水一家のふぐ中毒騒ぎを聞き込み、清水に襲撃をかけ、返り討ちとなった事件だけである。移動手段はすべて船を利用している。ここに清水一家喧嘩の特徴がある。

博徒として売り出しの最中であった30歳代半ばの頃は、まさに次郎長にとって、危機の時代でもあった。その頃発生したのが保下田久六殺害事件。安政6年(1859年)6月、甲斐の親分祐典仙之助、猿屋勘助との抗争で、逃亡の旅の途中、お蝶が病死した。その際、恩義ある長兵衛を牢死させた久六への復讐のため、讃岐の金比羅に詣でたのち、久六を殺害した。

決戦前の金比羅詣は、実父の金比羅信仰を継いだもの。万延元年(1860年)、久六殺害の祈願成就に、森の石松を金比羅に代参させた、その帰路で、都田一家に石松が殺され、その仇を討って三河を勢力圏に収めた。この頃、甲州では黒駒の勝蔵が売り出しの最中であった。

甲州の山岳地帯から富士川、天竜川を筏に乗って下ってくる黒駒の機動力に対抗して、次郎長は、縄張りの外を転戦するプロの戦闘集団「清水二十八衆」を元治元年(1864年)に創出した。黒駒方の雲風亀吉との2回にわたる三河の抗争は、平井村の役(1864年)と呼ばれ、幕末の博徒抗争史上かつてない殺戮戦だった。

黒駒勝蔵が三河の平井村(現在の豊川市平井町)の雲風亀吉(平井亀吉)のところに滞在していること知った次郎長は、大政以下の中心的な子分を勝蔵、亀吉襲撃に送り込んだ。朝早く、豊川河口(現在の豊橋市梅藪町)前芝海岸に舟で乗り付けた襲撃隊は亀吉の自宅へむかった。勝蔵たちが昼間から酒盛りをしている最中を襲った。

油断しているところを襲われた亀吉と子分たちは必死で応戦し、親分の勝蔵と亀吉を逃がし、子分5人が討ち死にした。この時、酒盛りに一緒にいた亀吉の妾も一緒に殺されている。襲われた亀吉の自宅の座敷は、血だまりで染まっていたと言われている。勝蔵、亀吉の殺害には失敗したが、次郎長一家の名前は東海道に鳴り響いた。

東海道を名古屋までおさえた清水一家が伊勢路制圧に着手したのが、慶応2年(1866年)荒神山の喧嘩である。次郎長は、伊勢の神戸かんべ長吉と穴太徳あのうとくの縄張り争いで長吉側に味方をした。大政の戦闘団と甲斐信濃制圧に転戦する大瀬半五郎の別働隊は、三河の寺津で合流し、三河湾を舟で渡り、吉良の仁吉を大将にして荒神山へ向かった。この時の戦いで、吉良の仁吉は戦死する。

その後、吉良仁吉の報復に次郎長は千石船2隻をもって伊勢に上陸して、穴太徳とその後ろ盾・丹波屋伝兵衛を屈服させる。その時の武器調達は、国定忠治一家3代目・田中敬次郎の支援によるものである。

これらの喧嘩における船の利用は金比羅信仰による次郎長の海賊的性格がよく現れている。甲州山岳出身の黒駒の勝蔵とは違い、駿河清水港の稼業からスタートして、海道一になった次郎長の喧嘩は、まさに舟を最大限活用した闘いでもある。

しかし、明治維新の官軍、徳川内戦にぶつかってその動きは止まる。次郎長は、維新の最中、志士達にも協力する一方で明治以降、静岡に転居した徳川慶喜の身の回りの世話もしている。山岡鉄舟の東京での葬儀には、清水から子分を引き連れて参列したことは有名である。

維新後は実業家として、清水港の改修工事、富士山麓開墾、静岡茶を横浜に運ぶ蒸気船会社の設立などをやりながら、フランス渡航を夢見つつ、日清戦争の前年に死す。墓は清水の梅蔭寺。墓銘は榎本武揚の筆による。

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コメント (1)
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