前回、尾張藩の廻船「督乗丸」の漂流について述べた。江戸時代には多くの千石船が漂流した。それは鎖国政策により遠海航海できる船の建造が禁止され、沿岸航路の船しか建造されなかったため、嵐に会うと簡単に難破、漂流した。
漂流の原因に、千石船自体の構造的欠陥があった。
ひとつは甲板が水密性がないこと。そのため大波を被ると船内が水浸しとなり簡単に水船になること。二つは船底に隔壁がないこと。船内の水が自由に移動するため安定性に欠け沈没の可能性を高めること。三つ目は船の楫が固定されていないため、楫が簡単に破損した。そのため、多くの船が難破し、海難事故が発生した。
江戸時代のおもな漂流は下記のとおり。(資料 「日本漂流記」 川合彦充著)
①尾張国知多郡大野村(愛知県常滑市大野)の権田孫左衛門船(15人乗り 沖船頭 次郎兵衛)
寛文8年(1669年)11月5日、三河渥美半島大山沖で漂流。12月6日バタン島に漂着。3人死亡。1人は現地に残り、11人が手作りの船で清国を経由、寛文10年6月24日に長崎に帰還。
②阿波国海部郡浅川浦(徳島県海部郡海南町浅川浦)の勘右衛門船(7人乗り 船頭 勘右衛門)
寛文9年(1669年)12月6日、志摩半島安乗沖で漂流。1670年2月20日小笠原諸島 母島に漂着。船頭勘右衛門死亡。6人は小船で八丈島を経由して、1670年5月7日伊豆半島洲崎に帰還。
③伊勢国松坂(三重県松坂市)の七郎兵衛船(15人乗り 船頭 七郎兵衛)
寛文12年(1672年)12月24日遠州灘で漂流。1673年7月5日エトロフ島に漂着。全員がクナシリ島、十勝、松前経由して、9月8日江戸に帰還。
④伊勢国度会郡神社村(三重県伊勢市神社)の太兵衛船(12人乗り 直船頭 太兵衛)
貞亨元年(1684年)12月26日、三河渥美半島大山沖で漂流。1685年2月5日マカオ島近くの小島に漂着。
1685年6月2日サン・パウロ号にて長崎に帰還。
⑤伊勢国白子村(三重県鈴鹿市白子)の彦兵衛船 神昌丸(17人乗り 沖船頭 大黒屋光太夫)
天明2年(1782年)12月13日、駿河沖で漂流。1783年7月20日、アリューシャン列島アムトチカ島に漂着。
ロシア、イルクーツクに到着も、13名が死亡、庄蔵、新蔵が残留する。光太夫、磯吉2名は根室経由で、1793年9月15日江戸に帰還。
⑥尾張国知多郡小野浦(愛知県知多郡美浜町小野浦)の樋口源六船、宝順丸(14人乗り)
天保3年(1832年)10月11日、遠州灘で漂流。11人が漂流中に死亡。岩吉、久吉、音吉3人が1833年末、北アメリカのワシントン植民地フラッタリ岬付近に漂着。ハワイ、ロンドンを経由してマカオにて肥後船の漂流者圧蔵ら4人と合流。アメリカ商船モリソン号で送還されたが、東京湾で砲撃を受け、帰国を断念。7人はマカオ、香港、上海に居住して異国で通訳をしながら一生を送った。
⑦三州高浜(愛知県碧海郡高浜町)の栄三郎船 竹久丸(15人乗り 直船頭栄三郎)
嘉永3年(1850年)1月8日青ヶ島に漂着。4月16日八丈島に到着。
漂流船の母港は江戸から西の太平洋沿岸の地域が多い。紀州伊勢、尾張知多地域は船乗りの最大の供給地であり、江戸と大坂を結ぶ重要ルートである南海路の菱垣廻船が多く行き来していたためである。遭難すると一気に黒潮に乗り、日本から離れてしまうためである。
日本人漂流記研究の基礎を築いた川合彦充氏によると、江戸時代の漂流民の漂着先は下記のとおりである。
八丈島199件、青ケ島12件、鳥島11件、小笠原諸島2件、南太平洋パラオ諸島7件、琉球5件、朝鮮33件、中国44件、台湾6件、バタン諸島4件、フィリピン13件、香港1件、マカオ2件、ミンダナオ島1件、ベトナム3件、沿海州5件、樺太1件、千島列島4件、カムチャッカ半島4件、アリューシャン列島4件、アラスカ1件、カナダ1件、北アメリカ5件、ハワイ諸島1件、最も遠いのは南アメリカペルー1件となっている。
当時の千石船は本土沿岸部の輸送が中心で、遠距離輸送を想定していない。そのため、帆も一枚帆がほとんどで沿岸沿いから離れることは少ない。遭難の時期は冬の12月から2月に集中する。冬の時期は本土の山を越えた北西の風が吹き、太平洋に流されやすいからである。
下記に参考記事があります。よろしければ閲覧ください。
漂流記 池田寛親「船長日記」
写真は復元された千石船。今でいうと約150トン、全長29m、幅7.5m、平均定員15人乗り。大坂から江戸まで早ければ6日で行く。
中小船の場合は弁財船とも言われた。350石が主流である。
漂流の原因に、千石船自体の構造的欠陥があった。
ひとつは甲板が水密性がないこと。そのため大波を被ると船内が水浸しとなり簡単に水船になること。二つは船底に隔壁がないこと。船内の水が自由に移動するため安定性に欠け沈没の可能性を高めること。三つ目は船の楫が固定されていないため、楫が簡単に破損した。そのため、多くの船が難破し、海難事故が発生した。
江戸時代のおもな漂流は下記のとおり。(資料 「日本漂流記」 川合彦充著)
①尾張国知多郡大野村(愛知県常滑市大野)の権田孫左衛門船(15人乗り 沖船頭 次郎兵衛)
寛文8年(1669年)11月5日、三河渥美半島大山沖で漂流。12月6日バタン島に漂着。3人死亡。1人は現地に残り、11人が手作りの船で清国を経由、寛文10年6月24日に長崎に帰還。
②阿波国海部郡浅川浦(徳島県海部郡海南町浅川浦)の勘右衛門船(7人乗り 船頭 勘右衛門)
寛文9年(1669年)12月6日、志摩半島安乗沖で漂流。1670年2月20日小笠原諸島 母島に漂着。船頭勘右衛門死亡。6人は小船で八丈島を経由して、1670年5月7日伊豆半島洲崎に帰還。
③伊勢国松坂(三重県松坂市)の七郎兵衛船(15人乗り 船頭 七郎兵衛)
寛文12年(1672年)12月24日遠州灘で漂流。1673年7月5日エトロフ島に漂着。全員がクナシリ島、十勝、松前経由して、9月8日江戸に帰還。
④伊勢国度会郡神社村(三重県伊勢市神社)の太兵衛船(12人乗り 直船頭 太兵衛)
貞亨元年(1684年)12月26日、三河渥美半島大山沖で漂流。1685年2月5日マカオ島近くの小島に漂着。
1685年6月2日サン・パウロ号にて長崎に帰還。
⑤伊勢国白子村(三重県鈴鹿市白子)の彦兵衛船 神昌丸(17人乗り 沖船頭 大黒屋光太夫)
天明2年(1782年)12月13日、駿河沖で漂流。1783年7月20日、アリューシャン列島アムトチカ島に漂着。
ロシア、イルクーツクに到着も、13名が死亡、庄蔵、新蔵が残留する。光太夫、磯吉2名は根室経由で、1793年9月15日江戸に帰還。
⑥尾張国知多郡小野浦(愛知県知多郡美浜町小野浦)の樋口源六船、宝順丸(14人乗り)
天保3年(1832年)10月11日、遠州灘で漂流。11人が漂流中に死亡。岩吉、久吉、音吉3人が1833年末、北アメリカのワシントン植民地フラッタリ岬付近に漂着。ハワイ、ロンドンを経由してマカオにて肥後船の漂流者圧蔵ら4人と合流。アメリカ商船モリソン号で送還されたが、東京湾で砲撃を受け、帰国を断念。7人はマカオ、香港、上海に居住して異国で通訳をしながら一生を送った。
⑦三州高浜(愛知県碧海郡高浜町)の栄三郎船 竹久丸(15人乗り 直船頭栄三郎)
嘉永3年(1850年)1月8日青ヶ島に漂着。4月16日八丈島に到着。
漂流船の母港は江戸から西の太平洋沿岸の地域が多い。紀州伊勢、尾張知多地域は船乗りの最大の供給地であり、江戸と大坂を結ぶ重要ルートである南海路の菱垣廻船が多く行き来していたためである。遭難すると一気に黒潮に乗り、日本から離れてしまうためである。
日本人漂流記研究の基礎を築いた川合彦充氏によると、江戸時代の漂流民の漂着先は下記のとおりである。
八丈島199件、青ケ島12件、鳥島11件、小笠原諸島2件、南太平洋パラオ諸島7件、琉球5件、朝鮮33件、中国44件、台湾6件、バタン諸島4件、フィリピン13件、香港1件、マカオ2件、ミンダナオ島1件、ベトナム3件、沿海州5件、樺太1件、千島列島4件、カムチャッカ半島4件、アリューシャン列島4件、アラスカ1件、カナダ1件、北アメリカ5件、ハワイ諸島1件、最も遠いのは南アメリカペルー1件となっている。
当時の千石船は本土沿岸部の輸送が中心で、遠距離輸送を想定していない。そのため、帆も一枚帆がほとんどで沿岸沿いから離れることは少ない。遭難の時期は冬の12月から2月に集中する。冬の時期は本土の山を越えた北西の風が吹き、太平洋に流されやすいからである。
下記に参考記事があります。よろしければ閲覧ください。
漂流記 池田寛親「船長日記」
写真は復元された千石船。今でいうと約150トン、全長29m、幅7.5m、平均定員15人乗り。大坂から江戸まで早ければ6日で行く。
中小船の場合は弁財船とも言われた。350石が主流である。