兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

土佐の長平・鳥島漂流12年

2020年07月17日 | 歴史
土佐船長平の漂流は吉村昭の小説「漂流」で世に知られるようになった。高知県香南市赤岡町港町の商人・松屋儀七は藩の米を回送する仕事を請け負っていた。親父(航海長)源右衛門、水主・長平、長六、甚兵衛の4人は、天明5年(1785年)1月30日の夕方、船頭・儀七を奈半利で下船させ、近くの港に船を回送する途中、安芸市八流れ沖で大西風に吹かれた。14日漂流の末、2月13日鳥島に漂着した。

この時、長平は24歳。鳥島に漂着した翌年、天明6年、高齢の源右衛門が死亡した。そして長六、甚兵衛が相次ぎ死亡した。これから2年近くの長平の独りぼっちの孤独な生活が始まった。乗組員の死亡はアホウドリの干物ばかり食べた結果、脚気、壊血病と運動不足に原因があったと言われる。

土佐の長平が漂着して3年後、天明8年(1788年)2月1日、54日漂流した肥前船・大坂北堀備前屋亀次郎配下の11人乗り(800石積、船頭・儀三郎・忠八)が鳥島に漂着した。漂着時、海が荒れて、繋いでいた綱が切れ伝馬船、本船とも流失した。

肥前船に船頭が二人居るのは、大坂備前屋亀次郎にチャーターされた船で、仙台荒浜から城米を江戸に運ぶため奥州へ向かっていた。東日本の海路に詳しい忠八を追加の船頭として雇った。そのため乗組員は東北から九州まで広い地域の集まりで、乗組員は多様な人材がいた。従って備前船とも大坂船とも言われる。浦賀を出航して、銚子犬吠埼沖で北風に吹かれて難破した。

長平を含めて12人となった彼らは新しい小屋を作るため島内を踏査した。彼らは一つの洞窟を発見する。そこには原型をとどめない鍋と釜が置かれていた。船頭の一人の忠八が板切れ二枚を発見する。「江戸堀江町宮本善八船17人乗組」もう一枚には「遠州新居筒山五兵衛12人乗」と書かれていた。洞窟の中には船釘が5,6貫(約20㎏)を見つかった。白骨化した二つの遺体も発見した。

肥前船(大坂船)が漂着して更に2年後、寛政2年(1790年)1月29日日向国志布志中山三右衛門船・住吉丸(6人乗り、船頭・栄右衛門)が漂着した。住吉丸は瀬戸内海備中玉島(現・岡山県倉敷市)から綿花を購入して、日向国志布志(現・鹿児島県志布志市)に戻る途中、日向灘沖で激しい西風に吹かれた。20日ほど漂流後、伝馬船に乗り換えて鳥島に上陸した。上陸後、伝馬船、本船ともに暗礁にぶつかり破船した。

住吉丸6人が仲間に加わり、漂流者は18人となった。住吉丸の6人は、鏨(のみ)、斧、のこぎりなど大工道具を所有していた。大工道具で新たに三つの洞窟を作り、洞窟は全部で九つとなった。18人のうち3年余りの間に4人が死亡、14人が残った。本人の希望から4人は火葬され、墓も作られた。

漂流者の人数が増え、行動力のある若い者も多くいた。住吉丸が持ち込んだ大工道具もあり、これで船を作り、帰還を目指したいという機運が出てきた。実質的船作りを開始したのは寛政6年(1794年)ごろと思われる。3年余りかかり寛政9年(1797年)に船は完成した。

造船は流木集めから始まる。住吉丸の所持していた大工道具は、なた、曲尺、のこぎり各1本、やすり2個、のみ3本、斧2本、脇差1本である。住吉丸の水主の一人はフイゴの製法を知っており、鉄を溶かすフイゴを作った。これで古釘を溶かし、くぎ抜き、金づち、きり、新しい釘などを作った。

出来上がった船は、長さ約11m、幅約2m、かなりの大きさだ。板を寄せ集めたつぎはぎだらけの船である。板の間は貝殻の石灰で「漆喰」を作り塗り固めた。島の樹木の皮で綱、糸を作り、帆は皆の衣服を縫い合わせた。造船の過程は近藤富蔵「八丈実記」に詳しく記載されている。これより前に遠州新居船も鳥島から船を作り、八丈島に戻っている。遠州船は八丈島に着くと同時に破船した。その意味では、かなりしっかりした船だ。

寛政9年半ば、長平が漂着して12年の歳月が過ぎていた。14人はこの船を「伊勢丸」と名付けた。島で死んだ7人の骨の一部を墓から掘り出し箱に詰め、船に乗せた。島を出発して5日目、青島にたどり着く。当時、青島には島民が居住していた。島民二人の案内で、青島から60キロ離れた八丈島に到着する。八丈島の宗福寺に6人の骨を供養したと言われる。

八丈島で2か月近く滞在、島役人の調査を受けたのち、江戸に送られた。12年余りの漂流生活した土佐の長平の噂は江戸中に広まり、長平は何人ものの大名屋敷に招かれ、体験を語る忙しい日々を送った。翌年寛政10年(1798年)1月、許可がおり、江戸を出発して、故郷土佐に戻ることができた。長平は故郷に戻り、23年暮らし、文政4年(1821年)4月8日死亡した。享年60歳。

帰国した14人のうち、長平以外の水主で記録が残っているのは5人しかいない。志布志船・住吉丸では、現在の宮崎県串間市福島今町出身の重次郎と甚右ヱ門の2人。帰国後、地元高鍋藩に漂流生活を説明した記録がある。

肥前船(大坂船)では、出雲出身の清蔵は地元(現・島根県松江市美保関)に帰り、渡し船の船頭をしながら生涯を終えた。儒学者・桃西河は清蔵の漂流記を聞き、「坐臥記」を残した。奥州八戸出身の三之助は「鳥島鴨助」と名を改め、天保9年(1838年)6月28日死亡した。享年70歳。能登出身の市之丞は現在の石川県輪島市門前町鹿磯に戻り、文政4年(1821年)9月5日死亡した。享年68歳。


ブログ内に下記関連記事があります。よろしければ閲覧ください。

江戸時代鳥島漂着の歴史

八丈島流人・近藤富蔵


写真は高知県香南市香我美町にある長平像。隣に見えるのは記念碑と長平の墓。



長平像の隣にある記念碑(左)と長平の墓(右)。墓には「無人嶋・文政四巳年・野村長平・四月八日」と刻まれている。
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