長兵衛は、幕末博徒の最長老で、次郎長はじめ多くの博徒が長兵衛の前では頭が上がらず、一目を置いた。「吉田中村の仏の長兵衛」とも、別名「人斬りの長兵衛」と呼ばれた博徒である。実際は温厚な親分で、生涯、人を斬ったこともなければ、喧嘩をしたこともない。それで「仏の長兵衛」と言われ、どんな博徒も、長兵衛には一目置いた。
人によっては、「人斬りの長兵衛」ではなく、「人食いの長兵衛」だと言った。その理由は、長兵衛の賭場の博奕で負けて、家財産を失い、娘から果ては女房まで売り飛ばす羽目に陥った者が多かったからである。
(博徒名)人斬り長兵衛 (本名)渡辺長兵衛
(生没年)天明4年(1784年)~文久2年(1862年)12月9日 享年78歳 病死
長兵衛は、下吉田村中村(現・山梨県富士吉田市下吉田)の名主・右近之助の息子である。若い頃、博奕の罪で流罪となる。のちに大赦になった。しかし生家では、流罪の長兵衛を迎えに行く旅費の都合がつかず、屋敷内の土地一部を、家の前の田辺という質屋へ、3両2分で売ったという。この長兵衛一家の三羽烏が、竹居の吃安、鬼神喜之助、大場の久八である。
大場の久八は、慶応4年2月「甲州ニセ勅使事件」で、小沢一仙に協力して、甲州を回り、軍資金を集めた。久八は、慶応4年6月8日、下吉田村で官軍に捕まって、投獄された。「ニセ勅使事件」とは、官軍東海道総督府から勅宣を受けていない草奔隊のニセ官軍鎮撫隊が、正月に甲府城へ入城した事件である。各地で税免除を約して、軍資金をを集めた。
小沢一仙は、静岡県賀茂郡松崎の船大工・石田半兵衛の倅で、甲府勤番家の養子となった。大場の久八は、小沢一仙と同じ伊豆出身で、黒駒勝蔵は吃安との縁で、久八とも結びつきがあった。そのため当時、京都にいた勝蔵から頼まれて、片棒を担いだと言われる。
「ニセ勅使事件」の参謀は、舘林藩の中老を務めた岡谷繁実である。岡谷繁実は「斯波弾正」の偽名を使い、当時まだ18歳の京都の公家・高松実村を担ぎ上げて、甲州までやってきて、失敗、挫折したものである。
「ニセ勅使事件」の8年前、舘林藩浪人・犬上郡次郎、舘林の江戸屋虎五郎などが甲州入りして、黒駒勝蔵を追い出し、吃安を捕らえた事件が起きている。甲州と舘林とは奇妙な因縁がある。舘林藩主・秋元但馬守の祖先は、3代で70年以上、甲州郡内領主として君臨した関係もあるだろう。
長兵衛は文久2年(1862年)12月9日死亡した。富士吉田市にある長兵衛の菩提寺・福源寺過去帳に「遊侠・中村長兵衛」と記されている。福源寺に長兵衛の墓はなく、過去帳のみが残っている。
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品川台場建設に貢献した博徒・大場久八
竹居安五郎と祐天仙之助、甲州博徒の抗争
写真は人斬り長兵衛の菩提寺・山梨県富士吉田市の福源寺。荘厳な山門は市の観光スポットである。
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(生没年)天明4年(1784年)~文久2年(1862年)12月9日 享年78歳 病死
長兵衛は、下吉田村中村(現・山梨県富士吉田市下吉田)の名主・右近之助の息子である。若い頃、博奕の罪で流罪となる。のちに大赦になった。しかし生家では、流罪の長兵衛を迎えに行く旅費の都合がつかず、屋敷内の土地一部を、家の前の田辺という質屋へ、3両2分で売ったという。この長兵衛一家の三羽烏が、竹居の吃安、鬼神喜之助、大場の久八である。
大場の久八は、慶応4年2月「甲州ニセ勅使事件」で、小沢一仙に協力して、甲州を回り、軍資金を集めた。久八は、慶応4年6月8日、下吉田村で官軍に捕まって、投獄された。「ニセ勅使事件」とは、官軍東海道総督府から勅宣を受けていない草奔隊のニセ官軍鎮撫隊が、正月に甲府城へ入城した事件である。各地で税免除を約して、軍資金をを集めた。
小沢一仙は、静岡県賀茂郡松崎の船大工・石田半兵衛の倅で、甲府勤番家の養子となった。大場の久八は、小沢一仙と同じ伊豆出身で、黒駒勝蔵は吃安との縁で、久八とも結びつきがあった。そのため当時、京都にいた勝蔵から頼まれて、片棒を担いだと言われる。
「ニセ勅使事件」の参謀は、舘林藩の中老を務めた岡谷繁実である。岡谷繁実は「斯波弾正」の偽名を使い、当時まだ18歳の京都の公家・高松実村を担ぎ上げて、甲州までやってきて、失敗、挫折したものである。
「ニセ勅使事件」の8年前、舘林藩浪人・犬上郡次郎、舘林の江戸屋虎五郎などが甲州入りして、黒駒勝蔵を追い出し、吃安を捕らえた事件が起きている。甲州と舘林とは奇妙な因縁がある。舘林藩主・秋元但馬守の祖先は、3代で70年以上、甲州郡内領主として君臨した関係もあるだろう。
長兵衛は文久2年(1862年)12月9日死亡した。富士吉田市にある長兵衛の菩提寺・福源寺過去帳に「遊侠・中村長兵衛」と記されている。福源寺に長兵衛の墓はなく、過去帳のみが残っている。
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