安政5年(1858年)8月、竹居の吃安(竹居安五郎)は、伊豆・新島の名主を殺して、島抜けに成功、甲州へ舞い戻った。吃安が50歳のときである。甲州の岡っ引きは皆、金をつかませられ、誰一人として、吃安を捕縛できなかった。そこで江戸屋虎五郎と高萩の万次郎の二人の岡っ引きに、吃安捕縛の密命が出た。
二人は甲州に乗り込み、練りに練った作戦で、まず吃安の一の子分黒駒勝蔵を甲州から追い出した。そして舘林藩浪人・犬上郡次郎を、巧みに吃安の用心棒に送り込んだ。それから約2年余り、歳月をかけた3人による捕縛作戦の結果、吃安は捕らえられた。捕縛された吃安は、石和代官所牢内で毒殺された。文久2年(1862年)10月6日、吃安、54歳だったrr
(博徒名) 江戸屋虎五郎 (本名) 岡安七五郎(岡安兵右衛門)
(生歿年) 文化11年(1814年)1月5日~明治28年(1895年)10月22日 享年83歳 病死れ
虎五郎の出生地は不明。邑楽郡舘林(舘林市)百姓源七の倅の説、武州新座郡岡村(埼玉県朝霞市)の出身、秩父の出身とも、三河の生れとも言われる。若い頃、草相撲の土俵上で、誤って相手を投げ殺し、舘林に逃げて来た。舘林荒宿(舘林市下宿)の香具師弥七を頼って、草鞋を脱いだという。
弥七のもとに居るとき、舘林連雀町の的屋・江戸屋こと岡安兵右衛門に見込まれて、娘の「ちか」と夫婦になり、江戸屋の跡目を継いだ。身の丈6尺の大男、目玉がギョロリとしていたため「目玉の親分」と言われた。縄張りは邑楽郡(群馬県南東部)全域、埼玉県、栃木県の一部まで及んだ。天保11年(1840年)虎五郎は26歳、遠州博徒・都田の源八を殺したという説もある。源八は森の石松を殺した都田吉兵衛の父親である。
江戸屋虎五郎となってからは、関東取締出役の道案内を務めた。役目柄、舘林に居るより旅暮らしが多かった。そのため子供もいなかった。吃安捕物の任務を果たした後は、舘林に戻り、豊次郎という養子をもらった。慶応3年、明治元年頃である。同時に、町内の島田庄次郎の二女「えい」を豊次郎の嫁にした。
明治を迎えて、岡っ引きは廃止された。虎五郎は生活のため博奕打ちとなった。明治5年壬申戸籍には、「正月脱籍当時尋ね中」とある。当時、虎五郎は手配され、失踪中と思われる。養子の豊次郎は「雑業」とある。豊次郎も定職は無かったと思える。そのためか、豊次郎夫婦は明治9年、正式に離婚している。
明治になって、博徒に対する取り締まりは厳しくなった。明治13年4月1日、虎五郎は自首して出てきた。すでに江戸屋の跡目も堀越喜三郎に譲り渡しており、虎五郎も67歳となっていた。
かつての親分の面影はなく、その日の生活にも困る状態であった。住居も転々と移り、最後は子分であった柴田三七の世話を受けていた。明治28年10月22日、ひっそりと息を引き取った。虎五郎は、次郎長より6歳年上である。国定忠治よりは4歳年下だが、45年長く生きた。
堀越喜三郎の呼びかけで、上州、武州の博徒百余名が協力して、堀越家の菩提寺である舘林市本町の大道寺に石塔、墓石が建立された。戒名「宝松院梅誉樹林居士」である。墓には妻の「ちか」とともに葬られている。
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次郎長を呼び捨てにした博徒・高萩万次郎
新島を島抜けした博徒・竹居安五郎
写真は江戸屋虎五郎の墓。向かって右側の墓。正面中央に戒名「宝松院梅誉樹林居士」右に「逝誉妙遊大姉」左に「切誉徳行信士」とある。
墓の台石には建立に協力した67名の親分衆の名前が刻まれている。「村山玉五郎」「吉田藤三郎」「関口刀太郎」などの名が見られる。
向かって左側面に、施主人として堀越喜三郎と岡安ナミの名が刻まれている。
二人は甲州に乗り込み、練りに練った作戦で、まず吃安の一の子分黒駒勝蔵を甲州から追い出した。そして舘林藩浪人・犬上郡次郎を、巧みに吃安の用心棒に送り込んだ。それから約2年余り、歳月をかけた3人による捕縛作戦の結果、吃安は捕らえられた。捕縛された吃安は、石和代官所牢内で毒殺された。文久2年(1862年)10月6日、吃安、54歳だったrr
(博徒名) 江戸屋虎五郎 (本名) 岡安七五郎(岡安兵右衛門)
(生歿年) 文化11年(1814年)1月5日~明治28年(1895年)10月22日 享年83歳 病死れ
虎五郎の出生地は不明。邑楽郡舘林(舘林市)百姓源七の倅の説、武州新座郡岡村(埼玉県朝霞市)の出身、秩父の出身とも、三河の生れとも言われる。若い頃、草相撲の土俵上で、誤って相手を投げ殺し、舘林に逃げて来た。舘林荒宿(舘林市下宿)の香具師弥七を頼って、草鞋を脱いだという。
弥七のもとに居るとき、舘林連雀町の的屋・江戸屋こと岡安兵右衛門に見込まれて、娘の「ちか」と夫婦になり、江戸屋の跡目を継いだ。身の丈6尺の大男、目玉がギョロリとしていたため「目玉の親分」と言われた。縄張りは邑楽郡(群馬県南東部)全域、埼玉県、栃木県の一部まで及んだ。天保11年(1840年)虎五郎は26歳、遠州博徒・都田の源八を殺したという説もある。源八は森の石松を殺した都田吉兵衛の父親である。
江戸屋虎五郎となってからは、関東取締出役の道案内を務めた。役目柄、舘林に居るより旅暮らしが多かった。そのため子供もいなかった。吃安捕物の任務を果たした後は、舘林に戻り、豊次郎という養子をもらった。慶応3年、明治元年頃である。同時に、町内の島田庄次郎の二女「えい」を豊次郎の嫁にした。
明治を迎えて、岡っ引きは廃止された。虎五郎は生活のため博奕打ちとなった。明治5年壬申戸籍には、「正月脱籍当時尋ね中」とある。当時、虎五郎は手配され、失踪中と思われる。養子の豊次郎は「雑業」とある。豊次郎も定職は無かったと思える。そのためか、豊次郎夫婦は明治9年、正式に離婚している。
明治になって、博徒に対する取り締まりは厳しくなった。明治13年4月1日、虎五郎は自首して出てきた。すでに江戸屋の跡目も堀越喜三郎に譲り渡しており、虎五郎も67歳となっていた。
かつての親分の面影はなく、その日の生活にも困る状態であった。住居も転々と移り、最後は子分であった柴田三七の世話を受けていた。明治28年10月22日、ひっそりと息を引き取った。虎五郎は、次郎長より6歳年上である。国定忠治よりは4歳年下だが、45年長く生きた。
堀越喜三郎の呼びかけで、上州、武州の博徒百余名が協力して、堀越家の菩提寺である舘林市本町の大道寺に石塔、墓石が建立された。戒名「宝松院梅誉樹林居士」である。墓には妻の「ちか」とともに葬られている。
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写真は江戸屋虎五郎の墓。向かって右側の墓。正面中央に戒名「宝松院梅誉樹林居士」右に「逝誉妙遊大姉」左に「切誉徳行信士」とある。
墓の台石には建立に協力した67名の親分衆の名前が刻まれている。「村山玉五郎」「吉田藤三郎」「関口刀太郎」などの名が見られる。
向かって左側面に、施主人として堀越喜三郎と岡安ナミの名が刻まれている。