兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

次郎長の秘書役・律儀な博徒・当目の岩吉

2023年02月13日 | 歴史
清水一家の大政が死に、一家の要である増川の仙右衛門が病気がちとなると、次郎長は何かことがあると「当目を呼べ」と言った。それ以前からも当目の岩吉は次郎長の秘書役兼参謀の役を持っていた。浜松の五社神社で撮影した荒神山手打ち式の写真にも、大政が後列でのんびり立っているのに、前列の次郎長のすぐ左隣に座っている。

岩吉は、志太郡東益津村浜当目(現・焼津市浜当目)の出身、次郎長より20歳ばかり年下である。頭が切れて誠実味のある男である。若い頃、焼津の漁師仲間と博奕を打ち、いつしか次郎長の子分となった。いつもは焼津港の近くの浜当目に居住した。次郎長が博徒狩りで逮捕された時は、増川の仙右衛門とともに捕縛され、静岡の井宮監獄に収監された。釈放も次郎長と一緒である。

(博徒名) 当目の岩吉   (本名) 久保山岩吉
(生歿年) 天保10年(1839年)~大正3年(1914年)4月9日 病死 享年75歳

岩吉が「当目」と呼ばれたのは、焼津浜当目の生まれであり、夜目、遠目がきくこと、物事の先の見通しがきくことから、そう呼ばれたと言う。本名は久保山岩吉。老後の次郎長やお蝶の面倒は、この岩吉が一番みた。何かことがあれば、焼津から日本坂を越えて、清水に小走りで駆けつけた。次郎長が死んでからは、清水に泊まり込みで清水一家やお蝶の面倒をつくした。

岩吉は病気がちになると、浜当目に引き込んで静養した。自分の死期が近づいたと知ると、「俺が死んだことは、姐さん(お蝶)には知らせてくれるな。姐さんを送らずに先にゆくほど不幸なことはない。親分にはあの世へ行って土下座してお詫びする」と家族に言った。そう言われても、家族は清水へ岩吉の病状を知らせた。駆けつけたお蝶を見て、布団の上に起き上がり、両手、両膝を揃えて、ボロボロと涙を流して、先立つ不孝を詫びたと言う。

義理堅い律儀な性格の岩吉は、大正3年4月9日、75歳で病死した。岩吉の墓は焼津市当目山麓の曹洞宗・弘徳院にある。法名「本来是空居士」である。毎年2月23日、「虚空蔵山達磨市」が開催され、だるま市で有名。岩吉の墓に近くには、ビキニ水爆実験の犠牲者・久保山愛吉の墓もある。

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写真は焼津市弘徳院の当目の岩吉の墓。正面「本来是空居士・奉岳妙翠大姉」右側面に明治42年10月1日・俗名まつ(妻)大正3年4月9日・俗名岩吉とある。妻と一緒に葬られ、立派な墓である。


写真はビキニ水爆の犠牲者久保山愛吉の墓。



写真は明治4年、浜松五社神社で行われた荒神山手打ち式での清水一家の写真。
前列の左から、増川の仙右エ門、桶屋の鬼吉、清水次郎長、田中敬次郎、当目の岩吉、小走りの半兵衛。
後列の左から、興津の盛ノ助、四日市教太郎、辻の勝五郎、大政、関東丑五郎、寺津の間之助、鳥羽熊、清水の周吉、三保の松五郎、小松村の七五郎、大瀬の半五郎、大野の鶴吉、伊達の五郎、舞阪富五郎、国定の金次郎。

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