遠州見附宿の博徒・大和田の友蔵を知っている人は少ない。幕末の遠州で日坂の栄次郎、都田吉兵衛、堀越藤左ヱ門と並ぶ博徒である。温和な性格で、喧嘩はあまり得意ではなかった。遠江国大和田(現・磐田市大原)の百姓・庄兵衛の次男に生まれた。相撲取りのような体格で、米二俵をぶら下げて歩くほど力持ちだった。遠州博徒・山梨の巳之助の所に出入りし、徐々に勢力を広げた。
石松を都田吉兵衛が謀殺したことによる次郎長一家と都田一家の対立は、次郎長の吉兵衛殺害の「駕籠屋(かごや)事件」を発生させた。この事件は吉兵衛の兄貴分である伊豆本郷の金平と次郎長との抗争へと発展。赤鬼の金平と兄弟分の丹波屋伝兵衛は、抗争拡大を心配して、仲裁に入る。伝兵衛は妻の弟である増川仙右エ門を次郎長へ手打ちの使者として送り込んだ。
仙右エ門は、手打ちの場所は菊川宿、斡旋人は丹波屋伝兵衛、金平側仲人・日坂の栄次郎を挙げ、次郎長側仲人の意向を次郎長に尋ねた。このとき、次郎長が名前を挙げたのが大和田の友蔵である。当時、次郎長は友蔵と親しい関係ではなかったが、友蔵は親黒駒派ではなく、無色透明の立場が幸いした。この時から友蔵と次郎長の兄弟分の付き合いが始まった。
菊川宿の手打ち式は、金平側から黒駒の勝蔵、箱根の二郎、下田の栄太郎、都田常吉が出席、次郎長側は寺津の間之助、大政以下の子分が出席、総勢400人の博徒が集合した。殺された吉兵衛の実弟の常吉は本心から手打ちに納得せず、手打ちは形式的で、その後も両者の抗争は継続した。
これ以降、文久元年頃より、遠州の博徒は二つに分かれ、清水次郎長派と黒駒勝蔵派に分断された。次郎長派は、大和田友蔵、気子島の新吉、四角山の後継の南新屋の常吉である。一方、黒駒勝蔵派は、堀越藤左ヱ門、国領屋亀吉、日坂の栄次郎らである。
文久2年6月13日、富士山のふもと増川(現・富士市)で、増川仙右エ門の父・佐太郎(佐治郎ともいう)が比奈の民蔵、力蔵一味に殺される事件が起きた。その頃、手打ち式の使者の役目を立派に果たした力量に感心した次郎長は、仙右エ門を清水一家の客分にしていた。その後、仙右エ門は次郎長の子分となる。
文久2年暮、黒駒勝蔵が遠州の絹商人を殺し、金を奪い、信州に逃亡した事件が起きた。勝蔵は再び遠州に戻って来た。大和田友蔵は中泉代官所より、十手捕縄の役を受け、勝蔵捕縛の命が出た。その役は避けたかった。しかしお上の命のため、引き受けざるを得ない。その後、勝蔵が気子島の新吉を斬りつける事件、森の新屋の虎造が勝蔵の子分の大岩、小岩に殺される事件が発生、友蔵は勝蔵と対決せざるを得なくなった。
文久3年5月、黒駒勝蔵は友蔵にケンカ状を送付した。友蔵は清水次郎長に応援を依頼、天竜川河畔の子安の森で対決する。清水一家24人、石重の重蔵12人、総勢80人近くを集め、勝蔵側も80人近くが鉄砲を携え、夕方より対峙した。しかし翌朝になると、勝蔵側は逃亡、もぬけのカラだった。友蔵には中泉代官所のバックがあり、黒駒側は大事となることを恐れたためである。
以後、次郎長と勝蔵との対決は本格化し、清水次郎長と黒駒勝蔵との抗争は慶応年間まで6年間続き、荒神山騒動、慶応2年末の富士川水神の森の決闘など大きな喧嘩が発生する。慶応4年正月、黒駒勝蔵は四条家の公家侍となり、官軍に入隊し、戊辰戦争を戦うことになって、その対立は終了した。
大和田友蔵は、明治15年(1890年)10月25日、病死した。墓は磐田市の金剛寺に妻とともに葬られた。
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悪者された勤皇博徒・黒駒勝蔵
清水一家の平井亀吉・黒駒勝蔵襲撃事件
写真は大和田友蔵の墓。正面に戒名「凌雲亥霜居士」隣に「雪顔貞操大姉」覐位とある。墓は磐田市見附の金剛寺にある。
石松を都田吉兵衛が謀殺したことによる次郎長一家と都田一家の対立は、次郎長の吉兵衛殺害の「駕籠屋(かごや)事件」を発生させた。この事件は吉兵衛の兄貴分である伊豆本郷の金平と次郎長との抗争へと発展。赤鬼の金平と兄弟分の丹波屋伝兵衛は、抗争拡大を心配して、仲裁に入る。伝兵衛は妻の弟である増川仙右エ門を次郎長へ手打ちの使者として送り込んだ。
仙右エ門は、手打ちの場所は菊川宿、斡旋人は丹波屋伝兵衛、金平側仲人・日坂の栄次郎を挙げ、次郎長側仲人の意向を次郎長に尋ねた。このとき、次郎長が名前を挙げたのが大和田の友蔵である。当時、次郎長は友蔵と親しい関係ではなかったが、友蔵は親黒駒派ではなく、無色透明の立場が幸いした。この時から友蔵と次郎長の兄弟分の付き合いが始まった。
菊川宿の手打ち式は、金平側から黒駒の勝蔵、箱根の二郎、下田の栄太郎、都田常吉が出席、次郎長側は寺津の間之助、大政以下の子分が出席、総勢400人の博徒が集合した。殺された吉兵衛の実弟の常吉は本心から手打ちに納得せず、手打ちは形式的で、その後も両者の抗争は継続した。
これ以降、文久元年頃より、遠州の博徒は二つに分かれ、清水次郎長派と黒駒勝蔵派に分断された。次郎長派は、大和田友蔵、気子島の新吉、四角山の後継の南新屋の常吉である。一方、黒駒勝蔵派は、堀越藤左ヱ門、国領屋亀吉、日坂の栄次郎らである。
文久2年6月13日、富士山のふもと増川(現・富士市)で、増川仙右エ門の父・佐太郎(佐治郎ともいう)が比奈の民蔵、力蔵一味に殺される事件が起きた。その頃、手打ち式の使者の役目を立派に果たした力量に感心した次郎長は、仙右エ門を清水一家の客分にしていた。その後、仙右エ門は次郎長の子分となる。
文久2年暮、黒駒勝蔵が遠州の絹商人を殺し、金を奪い、信州に逃亡した事件が起きた。勝蔵は再び遠州に戻って来た。大和田友蔵は中泉代官所より、十手捕縄の役を受け、勝蔵捕縛の命が出た。その役は避けたかった。しかしお上の命のため、引き受けざるを得ない。その後、勝蔵が気子島の新吉を斬りつける事件、森の新屋の虎造が勝蔵の子分の大岩、小岩に殺される事件が発生、友蔵は勝蔵と対決せざるを得なくなった。
文久3年5月、黒駒勝蔵は友蔵にケンカ状を送付した。友蔵は清水次郎長に応援を依頼、天竜川河畔の子安の森で対決する。清水一家24人、石重の重蔵12人、総勢80人近くを集め、勝蔵側も80人近くが鉄砲を携え、夕方より対峙した。しかし翌朝になると、勝蔵側は逃亡、もぬけのカラだった。友蔵には中泉代官所のバックがあり、黒駒側は大事となることを恐れたためである。
以後、次郎長と勝蔵との対決は本格化し、清水次郎長と黒駒勝蔵との抗争は慶応年間まで6年間続き、荒神山騒動、慶応2年末の富士川水神の森の決闘など大きな喧嘩が発生する。慶応4年正月、黒駒勝蔵は四条家の公家侍となり、官軍に入隊し、戊辰戦争を戦うことになって、その対立は終了した。
大和田友蔵は、明治15年(1890年)10月25日、病死した。墓は磐田市の金剛寺に妻とともに葬られた。
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写真は大和田友蔵の墓。正面に戒名「凌雲亥霜居士」隣に「雪顔貞操大姉」覐位とある。墓は磐田市見附の金剛寺にある。