兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

関東取締出役を翻弄した博徒・石原村幸次郎

2017年02月02日 | 歴史
武州熊谷石原村(現・埼玉県熊谷市)の無宿幸次郎という博徒をご存じであろうか?

石原村幸次郎は、嘉永2年(1849年)、武蔵国熊谷宿あたりに突如出現し、武装したアウトロー集団を結成、次々と殺人、強盗、拉致傷害などしたい放題、挙句の果てに逃亡、甲州から駿河と、行く先々を荒らし回り、甲州に舞い戻り、信州までわがもの顔で横行して、悪の限りを尽くした博徒一味の頭目である。

最後は、甲州勤番に捕縛され、江戸小塚原の刑場の露となった博徒である。この騒動は、幕府の治安警察力を蹂躙し、その組織の弱点を露呈させた。しかし、無宿幸次郎の名はほとんど知られていない。

(博徒名)石原村幸次郎  (本名)石原村無宿幸次郎
(生没年)文政5年(1822年)~嘉永2年(1849年)  享年28歳
     江戸小塚原刑場で獄門

関東取締出役が、石原村幸次郎一味の悪行を把握したのは、嘉永2年8月のことである。幸次郎は、熊谷宿の絹商人を襲って300両を強奪、道案内の板井村の八五郎を恐喝して金を奪い、熊谷宿髪結い林蔵の女房さくを拉致するなど、悪党ぶりを見せつけた。一味の総勢は21人、長脇刀、槍、鉄砲まで携帯、武装し、電光石火のごとく犯罪を起こし、神出鬼没、逃げ足も速い。

嘉永2年は関東取締出役とって大変な年であった。この年、下総利根川流域では博徒・勢力富五郎一味が大暴れし、その捕縛に必死であった。関東取締出役の手勢だけでは幸次郎一味を捕縛は困難である。そのため関東取締出役の指揮、命令下にある各村の自衛組織の「改革組合」を利用した。

幸次郎一味捕縛のため各村に改革組合の動員をかけ、川越藩の協力も得て、総勢4,000人余りの体制を引いた。しかし、人数は多いが農民等素人の集まりで、お祭り騒ぎ的捕りものでは、費用のみ掛かり、成果は殆どなかった。

幸次郎一味21名は、包囲網を逃れ、武州を南下する。甲州鰍沢で博徒の目徳を殺害、駿州一本松新田(現・沼津市)の質屋源兵衛から35両強奪、遠州相良の博徒富五郎を襲撃など次々に事件を起こす。

一方、伊豆、駿河支配の韮山代官江川英龍は、捕縛のため最新鋭ドントル銃を持たせた手代を派遣し、幸次郎一味と激突、2名捕縛、1名射殺するも、幸次郎本人は取り逃がした。

信州東山道山岳地帯に逃げ込んだ幸次郎一味は、中之条代官の必死の捜索で、信州岩村田宿(現・長野県佐久市)、長久保宿(現・長野県小県郡)で子分たちを捕縛し、遂に、嘉永2年9月2日、甲州勤番が幸次郎をお縄にした。

まさに幸次郎と関東取締出役の疾風怒涛の3ケ月間の戦いにより幸次郎一味は壊滅した。しかし、捕縛は、管轄外の韮山代官、中之条代官、甲州勤番の手に委ねられていた。これはいかに、関東取締出役の警察力が弱体化していたかを示している。

捕縛された14人の構成は、無宿9人、百姓4人、浪人1人である。幸次郎は江戸送り後獄門、5人は死罪、2人は吟味中牢死、残りの6人は不明である。この騒動は石原村無宿幸次郎・田中村無宿岩五郎連合と伊勢古市の伝兵衛一家・伊豆間宮の久八連合の博徒同士の抗争が背景にある。

石原幸次郎騒動があった時代は丁度、国定忠治が中風で倒れ、捕縛された時代である。また当時は関東取締出役と勢力富五郎と壮絶な抗争のあった時代で、博徒も鉄砲で武装しており、捕り手方・韮山代官江川英龍配下の柏木捻蔵隊もドントル銃で武装していた時代である。

江戸後背地の関八州は、御三家水戸藩以下、譜代、旗本の知行地、直轄領であるが、幕府に裁判権、警察権の権限のない分割支配地である。しかも相互複雑に錯綜しており、集中統一支配は困難を極めた。したがって、関東取締出役の警察力の拡充は最後まで未了のままに終わったのである。

国定忠治、勢力富五郎は東映映画でもヒーローとして知られている。しかし石原村幸次郎は同じ時代ながら、彗星のごとく登場し、瞬く間に走り去った博徒であり、人々の記憶にも残らない無宿渡世の英雄である。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社


(参照)関東取締出役との抗争で自決した勢力富五郎



写真は韮山代官江川英龍配下柏木捻蔵隊が保持した「ドントル銃」持ち運びに便利で連発式である。 

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