兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

次郎長お目付け役博徒・安東の文吉

2024年03月03日 | 歴史
安東文吉は駿河国府中(現・静岡市駿河区)に一家を構えた二足草鞋の博徒である。別名「暗闇の代官」「日本一の首つなぎ親分」と呼ばれ、その評価はさまざまである。

(博徒名) 安東文吉 (本名) 西谷文吉
(生没年) 文化5年(1808年)~明治4年(1871年)4月8日 享年64歳 府中の自宅で病死

安東文吉は駿河国安倍郡安東村(現・静岡市葵区)の豪農である西谷甲右衛門の子として生まれる。大柄で力もあるため、弟の辰五郎とともに江戸相撲の清見潟部屋に入門したが、途中で力士を弟辰五郎ともにあきらめ故郷に戻った。故郷に戻った兄弟はそろって博打打ちの仲間に入り、自ら無宿となった。

その後、問屋場人足相手に博打を打つ間に、博徒仲間の借金のもつれから、地元博徒の炭彦親分と斬り合い事件を起こす。この事件以降、度胸の良さから、子分も集まり、勢力を拡大し、地元博徒の顔役となっていった。

当時の甲州、遠州博徒の勢力拡大から、治安維持に苦慮した駿河代官は、文吉、辰五郎兄弟に十手縄を預け、代官の手引きの二足の草鞋を履かせ、博徒の騒乱を抑え、治安維持安定を図った。同時に文吉は、箱根関所と新居関所の公用手形の交付権限を与えられ、富士川と大井川の間の区域で大きな権力を持つようになる。文吉は二足草鞋を履くようになってからは、賭場はすべて子分に任し、自らは博打をしなかったという。

文吉は次郎長より12歳年上で、次郎長が若い頃、サイコロ博打でイカサマをしたとき、文吉の子分に捕まったが、次郎長は文吉に命を助けられている。以後、次郎長は事件を起こし、三州、尾張方面へ逃亡する際も、文吉に迷惑をかけないように、常に清水港から久能山街道の海岸を通り、府中内の東海道を避け、掛川宿から東海道に戻るコースを使用したと言われている。

次郎長が保下田久六を殺害して、大場久八と敵対した際も次郎長を庇い、上州一派との和解に努めている。それゆえに「博徒は木綿を着て絹を着るな。素人衆には道を譲れ。街中では駕籠に乗るな」等の清水一家の規律は文吉ゆずりといわれる。

文吉は、「好んで兇状持ちになる者はいない」と言って、兇状持ちの博徒に関所通行手形を交付し、その逃亡を助けたことも多々あった。そのため博徒仲間では、「日本一首つなぎ親分」の別名がある。

一方で、遠州の国領屋亀吉は、幕末のやくざ社会の様子を尋ねられた際に、「清水次郎長、長楽寺清兵衛、堀越藤左ヱ門、大和田友蔵、雲風亀吉・・・・みんないい顔だったよ」と名を挙げているが、「文吉さんはどうでしたか?」と聞かれたとき、土地の方言を使って、「あの人はオッカネエー(恐ろしい)人だ。ただのやくざではねぇ」と死んだ文吉を恐れたという。別名「暗闇の代官」と呼ばれた意味もわかるような気がする。明治4年4月8日、府中の自宅で死去。64歳。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社


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次郎長の兄貴分博徒・津向文吉

写真は安東文吉の墓。法名は「心善院法山日櫻信士」静岡市駿河区池田 本覚寺にある。
台石の正面に「安文吉」とある。この字は相良の富吉の軍師で、元加賀藩前田家剣道指南役・小泉勝三郎の筆による。彼は文吉に命を助けられ、文吉一家に寄宿した。相良の富吉は、関東岩五郎が相良に殴り込みがあった時、「田沼候定紋入り陣幕使用事件」を起こし、江戸で文吉に捕縛され、牢死した。
左右に長谷村の勇吉、安西五丁目の吉五郎、柳新田の政蔵、瀬名村の権次郎、安西一丁目の石音など主だった一家の名が刻んである。


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