小金井小次郎は、武州多摩郡下小金井村(現・東京都小金井市中町・本町付近)を縄張りとして、数千人の子分を擁したと言われ、明治に刊行された戯作「落花清風慶応水滸伝」で有名になった博徒である。また、小次郎は、博打で島流しにもなったにも関わらず、明治のご赦免で帰還し、畳の上で生涯を終えた、世渡り上手な、幸運な博徒である。
(博徒名)小金井小次郎 (本名)関小次郎
(生没年)文政元年(1818年)~明治14年(1881年)6月9日 享年64歳
小金井小次郎の先祖「関家」は地元で代々名主、村役人を務め、村屈指の名家の出身である。小次郎も、子供の頃より相応の教育を受けていた。しかし、大人になるといつの間にか、府中の博徒「藤屋万吉」の子分となり、博徒の道を進む。
府中の万吉・小次郎の一派は、以前より対立関係にあった現在の東京都小平市付近を縄張りとする博徒小川幸八一派と、小平市の鈴木稲荷神社(通称・二塚稲荷)で一戦を交える。この喧嘩は万吉・小次郎側150人、幸八側80人と230人の博徒が参加した大喧嘩である。
この喧嘩によって、両方の博徒は、関東取締出役に目をつけられ、その後、藤屋万吉は三宅島、小川幸八は八丈島に遠島、小金井小次郎は「江戸石川島人足寄場」送りの処罰を受ける。
小次郎は、石川島人足寄場で、その後の人生に影響を与えた江戸町火消十番組頭である新門辰五郎と出会う。辰五郎は小次郎より18歳年上だが、小次郎は辰五郎の信頼を得て、二人は義兄弟の契りを結ぶ。
ある日、二人が数年を暮らした人足寄場が、江戸本郷から出火した大火事で、寄場の囚人も、一時解き放ちの扱いとなった。小次郎と辰五郎は、寄場に残って消火にあたり、種油が収納されている油蔵に火が及ぶのを食い止めた。2か月後、この大火での活躍が評価され、二人はご赦免となる。
ご赦免により小次郎は帰郷したが、親分の万吉は三宅島に遠島中で、藤屋万吉の縄張りを引き継ぎ、一家を構える。それから10年の間に、府中甲州街道から多摩川沿いの一帯まで、関東の大親分として、急速に勢力を拡大していく。一気に勢力を伸ばした要因には、後ろ盾としての、義兄弟・新門辰五郎の後ろ盾があったことは言うまでもない。
小次郎は、表面上は府中宿で煮売屋商売(飯盛旅籠)を経営していたが、実質は博打貸元を営む博徒である。しかし、安政2年(1855年)、急速に勢力を広げた賭博で目をつけられ、小次郎は、関東取締出役に捕縛される。江戸伝馬町牢屋敷入牢になった後、三宅島へ遠島の刑が決定する。
三宅島遠島になった小次郎は、生家や子分たちよりの仕送りがあったため、島の生活に苦労せず、流人にも関わらず、立派な屋敷まで借り、数人の博徒を子分に持ち、島の顔役的存在として、約12年間の島生活を送る。島流し中、小次郎が出した手紙によると、天草、炭、木綿の反物、絹糸など島の物産を扱う商売で、200両を動かす売買を行っていたという。
小次郎は、慶応4年(1868年)5月、ご赦免により品川に戻る。遠島中に、外部環境は大きく変化し、徳川の時代は終わりに、明治の時代が直前に迫っていた。しかし、三宅島から帰ってきた小次郎は、以前と変わらず多摩地域の大親分として明治を迎え、地元の発展とともに、飯盛旅籠商売から貸座敷へと商売を広げ、商売は順調に発展していく。晩年には、小次郎は、地元の神社に多額の寄付、奉納を行った記録が残っている。
多くの博徒が喧嘩や支配権力の手により命を落とすなか、小次郎は、明治14年、娘と子分たちに囲まれて、行年(満年齢)63歳の生涯を畳の上で終えている。国定忠治、清水次郎長のような派手な逸話はないが、江戸末期から明治を生き抜いた関東一の博徒である。
美談で作られた火消の頭・新門辰五郎
下の写真は小金井小次郎の墓。東京都小金井市中町 西念寺 鴨下家と関家の墓所となっている。
中央は小金井小次郎の追悼碑。碑に向かって右側が小次郎の墓である。
下の写真は小金井小次郎の墓。戒名は「大雄院致允徳居士」である。
(博徒名)小金井小次郎 (本名)関小次郎
(生没年)文政元年(1818年)~明治14年(1881年)6月9日 享年64歳
小金井小次郎の先祖「関家」は地元で代々名主、村役人を務め、村屈指の名家の出身である。小次郎も、子供の頃より相応の教育を受けていた。しかし、大人になるといつの間にか、府中の博徒「藤屋万吉」の子分となり、博徒の道を進む。
府中の万吉・小次郎の一派は、以前より対立関係にあった現在の東京都小平市付近を縄張りとする博徒小川幸八一派と、小平市の鈴木稲荷神社(通称・二塚稲荷)で一戦を交える。この喧嘩は万吉・小次郎側150人、幸八側80人と230人の博徒が参加した大喧嘩である。
この喧嘩によって、両方の博徒は、関東取締出役に目をつけられ、その後、藤屋万吉は三宅島、小川幸八は八丈島に遠島、小金井小次郎は「江戸石川島人足寄場」送りの処罰を受ける。
小次郎は、石川島人足寄場で、その後の人生に影響を与えた江戸町火消十番組頭である新門辰五郎と出会う。辰五郎は小次郎より18歳年上だが、小次郎は辰五郎の信頼を得て、二人は義兄弟の契りを結ぶ。
ある日、二人が数年を暮らした人足寄場が、江戸本郷から出火した大火事で、寄場の囚人も、一時解き放ちの扱いとなった。小次郎と辰五郎は、寄場に残って消火にあたり、種油が収納されている油蔵に火が及ぶのを食い止めた。2か月後、この大火での活躍が評価され、二人はご赦免となる。
ご赦免により小次郎は帰郷したが、親分の万吉は三宅島に遠島中で、藤屋万吉の縄張りを引き継ぎ、一家を構える。それから10年の間に、府中甲州街道から多摩川沿いの一帯まで、関東の大親分として、急速に勢力を拡大していく。一気に勢力を伸ばした要因には、後ろ盾としての、義兄弟・新門辰五郎の後ろ盾があったことは言うまでもない。
小次郎は、表面上は府中宿で煮売屋商売(飯盛旅籠)を経営していたが、実質は博打貸元を営む博徒である。しかし、安政2年(1855年)、急速に勢力を広げた賭博で目をつけられ、小次郎は、関東取締出役に捕縛される。江戸伝馬町牢屋敷入牢になった後、三宅島へ遠島の刑が決定する。
三宅島遠島になった小次郎は、生家や子分たちよりの仕送りがあったため、島の生活に苦労せず、流人にも関わらず、立派な屋敷まで借り、数人の博徒を子分に持ち、島の顔役的存在として、約12年間の島生活を送る。島流し中、小次郎が出した手紙によると、天草、炭、木綿の反物、絹糸など島の物産を扱う商売で、200両を動かす売買を行っていたという。
小次郎は、慶応4年(1868年)5月、ご赦免により品川に戻る。遠島中に、外部環境は大きく変化し、徳川の時代は終わりに、明治の時代が直前に迫っていた。しかし、三宅島から帰ってきた小次郎は、以前と変わらず多摩地域の大親分として明治を迎え、地元の発展とともに、飯盛旅籠商売から貸座敷へと商売を広げ、商売は順調に発展していく。晩年には、小次郎は、地元の神社に多額の寄付、奉納を行った記録が残っている。
多くの博徒が喧嘩や支配権力の手により命を落とすなか、小次郎は、明治14年、娘と子分たちに囲まれて、行年(満年齢)63歳の生涯を畳の上で終えている。国定忠治、清水次郎長のような派手な逸話はないが、江戸末期から明治を生き抜いた関東一の博徒である。
美談で作られた火消の頭・新門辰五郎
下の写真は小金井小次郎の墓。東京都小金井市中町 西念寺 鴨下家と関家の墓所となっている。
中央は小金井小次郎の追悼碑。碑に向かって右側が小次郎の墓である。
下の写真は小金井小次郎の墓。戒名は「大雄院致允徳居士」である。
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