兵藤恵昭の日記 田舎町の歴史談義

博徒史、博徒の墓巡りに興味があります。博徒、アウトローの本を拾い読みした内容を書いています。

一揆鎮圧に協力した博徒・小川幸蔵

2024年08月06日 | 歴史
幕末から明治にかけ、武蔵国多摩郡の博徒に、小金井小次郎と小川幸蔵の二人がいた。だが、小川幸蔵は世間によく知られた博徒ではない。北島正元長の著書「幕藩制の苦悩」には当時の博徒について次のような記述がある。

「博徒の本場と言われた上州には、国定忠治、大前田英五郎(勢多郡大前田村)・栄次(勢多郡月田村)・三木文蔵(新田郡世良多村)・高瀬仙右衛門(邑楽郡上高島村)などの貸元がおり、下総の飯岡助五郎・笹岡繁蔵、武州の小金井小次郎、府中の田中屋万吉、高萩の鶴屋万次郎、小川幸蔵などの親分連中が全国に名を響かしていた。」と名前が出る。

しかしこの中で名は出るが、小川構幸蔵は所詮、小悪党である。とても、全国に名を響かせる程の博徒ではない。唯、資料に名前だけはよく出てくる博徒である。

小川幸蔵は、慶応2年(1866年)6月武蔵国秩父郡名栗村(現・埼玉県飯能市)で発生した大規模な百姓一揆の鎮圧に参加して、幕府に恩を売った。しかし一方では、地元百姓から金銭を無理借りするなどあまり評判の良くない博徒であった。

(博徒名)小川幸蔵  (本名)小山幸蔵
(生没年)天保2年(1831年)~明治17年(1884年)  享年54歳
     八王子警察署に服役中、病気で牢死。

小川幸蔵が住んでいた武蔵国多摩郡小川村は、江戸近郊の新宿と青梅を結ぶ青梅街道の中間に位置し、江戸時代初期に新田開拓された村である。青梅街道は、以前、江戸への石灰需要を支える動脈である。その後は、江戸向けの野菜や薪炭を運ぶ街道として、幕末には上州、甲州と並ぶ養蚕地として多摩地方から横浜への生糸運送の動脈として発展していった。生糸による貨幣経済成長とともに、同時に博徒の根拠地ともなった。

小川幸蔵はもともとは土地持ち本百姓の出身である。しかし、父親の小川幸八が無宿博徒となってから、その子供の幸蔵も父親同様に無宿の博徒となった。

天保15年(1844年)、小川幸蔵の父親・小川幸八は、小金井小次郎との抗争で、小次郎は江戸佃送りに、幸八は八丈島送りとなった。幸八は、八丈島で17年、流人として暮らす。幸八は万延元年(1860年)仲間30人とともに島抜けを図るが、失敗する。その際、八丈島樫立村の名主兵吉を殺害し、追い詰められ自殺している。

小川幸蔵は26歳のとき、近くの村の神社の祭りで仲間とともに百姓らに対して傷害事件を起こす。韮山の役人の追及を逃れるため、幸蔵は小川村から脱走し、無宿となる。しかし、姿を隠したのは表面上で、現実は村内で茶屋渡世を営みながら、博徒の勢力を維持していた。

その当時、秩父郡名栗村から始まり、関東一円に拡大した百姓一揆(武州世直し一揆)が発生した。一揆の鎮圧部隊として編成されたのが、秩父郡田無村名主下田半兵衛が率いる田無農兵隊である。幸蔵一党は、この田無農兵隊と連携協力して、一揆鎮圧に成功する。一揆鎮圧での幸蔵の行動は、名主らに高く評価され、幸蔵の帰村が許された。

明治2年(1869年)、新政府の警察権力の空洞を埋めるため、幸蔵は、韮山県から一揆における功績もあって、治安維持の役目を受ける。しかし、幸蔵は、自分自身は直接悪事を実行しないが、配下の50人程の子分を使って相変わらず、無法行為を行っていた。

地元の百姓も遂に我慢できず、県に訴えた。明治4年(1871年)4月、品川県に捕縛され、5年間の流刑を受ける。その後、賭博の罪で懲役4年の刑を受けた小川幸蔵は、八王子警察署服役中の明治17年6月、肋膜炎兼肺炎で死去する。享年54歳であった。
(参考)「アウトロー・近世遊侠列伝」高橋敏著・敬文社


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写真は多摩の小金井小次郎と小川村幸蔵が大喧嘩した現場である二ツ塚稲荷(東京都小平市玉川上水近くにある)

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