神原ワールド稽古場日誌

神原ワールドが繰りひろげる劇の世界・公演のお知らせ・稽古場の模様を皆様にお届けします♡

大晦日

2016-12-31 21:57:17 | 演劇

 サラリーマンでも役者でも、お巡りさんでもやーさんでも、皆々平等に大晦日は来ます。晦日とは月末。その年の最後の月末だから大晦日。

 先ほどAKB48が紅白で歌っているのを見ました。誰一人ひとの影に隠れようとはしない、人に合わせようなんてこれっぽっちも思っていない(振りは合わせるけどね)、「我こそは」と目立とうとするその姿は天晴!やっぱりあのやり方は正解なのかね、秋元さん。面白れえなぁ。

 楽器を奏でない音楽家がいないのと同じく、なんぼ役者やと言うても、芝居を打たなければただの人。今年も4本舞台に立てました。あと何年役者ができるかわかりませんが、板に立てる限りは立とうと思います。皆も同じ気持ちだと思います。ゴールは考えません。だって演じることは生きることなのですから。でもご見物に見せられないようなものになってしまったら、そこで終わるのでしょう。その時までは、力の限り遊ばせてもらいます。

 来年も、劇団 浮狼舎、神原組、そして新旗揚げ劇団もよろしくお願いします。

 では、皆さまよいお年を (⋈◍>◡<◍)。✧♡

                                                       

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2016-12-26 22:21:41 | 演劇

  私は悲しい場面で、涙を流そうとはしない。まず悲しむ。そして堪える。さすれば涙は体の芯より湧き出る。人によってその手法は様々だが、私は感情が「そうなる」ようにすればいいと思う。そのために何が必要かはケースバイケース。「その時」までを丁寧に積み重ねることが肝要。そうして耐える、堪える。悲しみはこらえることが必要。悲しみは受け入れ難いものなのだろう。だから受け入れてしまえば、もう泣くしかないのだ。そして解放される。カタルシスだ。舞台の人間が先に解放されてはいけない。観客との根競べだ。たまにしっかり捉まえている確信があるときに、涙が先行することはある。舞台は物語が連続しているからそういうことができる。映像はそうはいかないかも。アプローチが変わるだろうな。それもこれも台本(ほん)が読めてこそ。  ・・・励まねば。

                                                   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Xmas 

2016-12-25 20:08:09 | 演劇

 今日はクリスマス。我が劇団ではクリスマスパーティーを毎年この時期やっています。今日がそう。飯を食い、安宅姉妹手作りのケーキを食べ、プレゼント交換をします。かわいいささやかな会です。一種の忘年会ですな。

 我らはさておき、世間さんはというと、クリスマスイヴと今日の区別があるのでしょうか。ハロウィーンの方が知名度高くなってきていますかね。今年の巷のクリスマスは、心なしか地味な印象を持ちました。いつものように浮かれているようですが、静かに終わろうとしているようにも思います。ま、どんなであってもクリスマスはクリスマス。今日までの平安を感謝して祈るのみ。

 年が明ければ、3月公演「屋根の上の猫」の顔合わせ。7月には新劇団の旗揚げ。福井の芝居仲間が来年も受け入れてくれれば、新しい態勢で9月に福井公演が打てる。11月はWFで神原組かな。首尾よく4回、公演なりましたらご喝采。さて来年も頑張ろう!

 

              go ahead make my day     

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花に嵐のたとえもあるさ

2016-12-21 19:30:43 | 演劇

 生涯で、親友と呼べる友人を幾人持つことができるだろうか。そのひとりを一昨日なくしました。まだ54。

 大学時代の友人からメールの一報があった。繁華街を歩いている時。頭の芯が凍った。何とか詳細を知りたくてあちこちに尋ねた。友は郷里に帰ってしまっていて久しい。携帯以外ちゃんとした連絡先も知らない。それでも昨夜、友の母上と話ができた。病床で彼は思い出の地、京都に行きたがっていたと。懐かしい皆に逢いたいと言っていたらしい。母上は「あんたが逝ったら私が連れて行ってあげる」と言うと、穏やかに頷いたそうだ。

 親族の死に匹敵するショックを受けました。知らせを聞いてから、何かが欠けたような感じが抜けないのです。

 母君は「来春、京都に連れて行きますから、その時お別れしてしてやってください」と。 皆で送ってやろうと思います。

 

 花に嵐のたとえもあるさ さよならだけが人生だ                      

                                                                                              

  久しぶりに芝居と無縁のことを書かせていただきました。                        

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

演劇学校

2016-12-16 18:47:08 | 演劇

 私はピッコロ演劇学校の5期生でした。「バイオレンスの5期」です。生徒もわりとバイオレンスでしたが、何よりお師匠さんがバイオレンスでした。こう書くと「何を失礼な」とお叱りを受けそうですが、私の中ではそうだったのです。

 よく「演劇に学校なんかいるのか」「芝居なんて学校で教わるものじゃない」と言われます。芸事という点では一理あります。しかしながら、そう仰る方は、学校は教え教わる場だと考えておられるのでしょう。大体「学校」や「学習」って何なんでしょうね。

 何かを身につけるためには「執着」が必要です。それが、学ばなければという意識でも、学びたいという意識でもいいと思います。学校は、知ったりわかったり感心したりするところでもあると思います。何も誰かに何かを教えてもらう必要はないのではないでしょうか。大概の学校は目に見えて内容がわかるようにカリキュラムやシラバスがありますが、それが全てではありません。「学ぶ」は「真似ぶ」という考え、私は好きです。真似て、やってみて気付いたり、わかったり発見したりする。学校ってそんな場所だと思います。権威は学ぶ側をその気にさせるには有用ですが、たいした意味はありません。元々その昔、「教師」などという者はいなかったのです。いたのは「知りたいと思う者」であって、その者が求めた先に「教えられる者」がいただけなのです。弟子が先に存在していて、師匠は後から生じるのです。その道のスペシャリストが自ずと「先生(師匠)」となるのです。学びたい者が集えば、そこは「学校」となり、学舎ができる。

 しかし、伝えたいという欲求もありますね。もったいないじゃないですか。せっかく何十年もかかって身につけたものが、たかだか十年そこらで消えてしまう。なんか残念ですね。我らは遠からぬ未来、死んでしまいますから。我らの芸も一代限りなんかなぁ。誰か盗んでくださいな、我らの芸を。そうすれば、また新しいものを生み出さざるを得なくなって、面白くなるのに。もう少し楽しませてくれないかなぁ。

    「誰ぞ、ある。」              

                            

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする