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メシア再降臨準備時代ー1

2020年03月21日 18時21分17秒 | 学習

メシヤ再降臨準備時代

第五章 メシヤ再降臨準備時代

第一節 宗教改革期
第二節 宗教および思想の闘争期
第三節 政治、経済および思想の成熟期
第四節 世界大戦

メシヤ再降臨準備時代とは、西暦一五一七年の宗教改革が始まったときから、一九一八年第一次世界大戦が終わるまでの四〇〇年間をいう。 この時代の性格に関する大綱は、同時性から見たメシヤ降臨準備時代との対照において既に論述したが、ここで、もう少し詳細に調べてみることにしよう。復帰摂理から見て、更に、この期間は宗教改革期、宗教および思想の闘争期、政治と経済および思想の成熟期などの三期間に区分される。
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 第一節 宗教改革期(一五一七~一六四八)

(一)文芸復興
(二)宗教改革

西暦一五一七年、ドイツでルターが宗教改革の旗を揚げたときから、一六四八年、ウェストファリア条約によって新旧両教徒間の闘争が終わるまでの一三〇年の期間を、宗教改革期と称する。この期間の性格は、中世封建社会の所産である文芸復興と、宗教改革とによって形作られる。
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 神が中世社会を通して成し遂げようとされた摂理の目的を成就できなくなったとき、これを新しい摂理歴史の方向へ転換させて、「再臨のメシヤのための基台」を造成していくに当たって中枢的な使命を果たしたのが、正に文芸復興(Renaissance)と宗教改革(Reformation)であった。
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 したがって、これらに関することを知らなければ、この時代に関する性格を知ることができない。文芸復興と宗教改革が中世封建社会の所産であるとするならば、この社会が中世の人間の本性に、いかなる影響を与えてこれらのものを生みだすようになったのであろうか。
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 中世は、封建制度とローマ・カトリックの世俗的な堕落からくる社会環境によって、人間の本性が抑圧され、自由な発展を期待することができない時代であった。元来、信仰は、各自が神を探し求めていく道であるので、それは個人と神との間に直接に結ばれる縦的な関係によってなされるのである。
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 それにもかかわらず、法王と僧侶の干渉と形式的な宗教儀式とその規範は、当時の人間の信仰生活の自由を拘束し、その厳格な封建階級制度は、人間の自由な信仰活動を束縛したのであった。そればかりでなく、僧侶の僧官売買と人民に対する搾取によって、彼らの生活は一層奢侈と享楽に流れた。
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 したがって、法王権は一般社会の権力機関と何ら変わりない非信仰的な立場に立つようになり、彼らは国民の信仰生活を指導することができなくなったのである。このように、中世封建時代の社会環境は、人間の創造本性を復帰する道を遮っていた。
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 ゆえに、このような環境の中に束縛されていた中世の人たちは、本性的にその環境を打ち破って、創造本性を復帰しようとする方向へ向かって動かざるを得なかったのである。このようにして、人間の本性は明らかに内外両面の性向をもって現れたのであるが、その創造原理的根拠はどこにあるかを調べてみることにしよう。
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 創造原理によれば、人間は神の二性性相に対する形象的な実体対象としてつくられたのであるから、神の本性相と本形状に似ている。また、その性相と形状は、内的なものと外的なものとの関係をもっている。人間は、このような内的な性相と外的な形状との授受作用によって生存するように創造されたので、このように創造された人間の本性も、内外両面の欲望を追求するようになる。
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 それゆえに、神がこのような人間に対して復帰摂理をなさるときも、人間本性の両面の追求に対応する摂理をせざるを得ないのである。ところで、神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に内的な霊人体を創造されたので(創二・7)、再創造のための復帰摂理も、外的なものから、内的なものへと復帰していく摂理をされるのである。
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 既に、後編第一章で論述したように、堕落人間は、外的な「象徴献祭」をささげた基台の上においてのみ内的な「実体献祭」をささげることができ、ここで成功することによってのみ、更に内的な「メシヤのための基台」をつくり得るのであるが、その理由はここにあるのである。
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 したがって、堕落人間を復帰されるに当たっても、旧約前時代には献祭により「僕の僕」としての立場(創九・25)を、旧約時代には律法により僕の立場(レビ二五・55)を、そして新約時代には信仰によって養子の立場(ロマ八・ 23)を、成約時代には心情によって真の子女の立場を復帰する、という順序で摂理を運ばれたのである(後編第二章第三節(三)(2))。
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 また科学によって先に外的な社会環境を復帰しながら、続いて宗教を立てて内的な人間の心霊を復帰する摂理をなさる理由もここにある。天使と人間とが創造された順序を見ても、外的な天使長が先で、内的な人間があとであった。したがって、天使と堕落人間を復帰するに当たっても、先に外的な天使世界を立てて摂理なさることによって、人間の肉身を中心とした外的な実体世界を復帰なさり、その後続いて、霊人体を中心とした内的な無形世界を復帰するという順序で摂理をなさるのである。
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 「信仰基台」を復帰する、内的な使命を果たすべきであった法王たちの淪落によって、侵入したサタンを分立して、創造本性を復帰しようとした中世の人々は、その本性の内外両面の追求によって、中世的指導精神をカインとアベルの二つの型の思想の復古運動として分立させたのであった。
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 その第一は、カイン型思想であるヘレニズムの復古運動であり、第二は、アベル型思想であるヘブライズムの復古運動である。ヘレニズムの復古運動は、人本主義の発現である文芸復興を引き起こし、ヘブライズムの復古運動は、神本主義の復活のための宗教改革を引き起こしたのである。では、ヘレニズムとヘブライズムの流れが、どのようにして歴史的に交流され、この時代に至ったのかということを先に調べてみることにしよう。
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 紀元前二〇〇〇年代に、エーゲ海のクレタ島を中心としてミノア文明が形成された。この文明はギリシャへ流入し、紀元前十一世紀に至っては、人本主義のヘレニズム(Hellenism)を指導精神とする、カイン型のギリシャ文明圏を形成したのである。これとほぼ同時代に、神本主義のヘブライズム(Hebraism)を指導精神とする、アベル型のヘブライ文明圏を形成したのであるが、このときが、すなわち統一王国時代であった。
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 当時のイスラエルの王が「信仰基台」を立て、人民と共に神殿を奉ずることによってつくられる「実体基台」の上で「メシヤのための基台」を造成し、メシヤを迎えたならば、そのときにヘブライ文明圏はギリシャ文明圏を吸収して、一つの世界的な文明圏を形成したはずであった。しかし、彼らが神のみ意のとおりにその責任分担を遂行しなかったので、このみ旨は成就されなかったのである。
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 それゆえに、彼らはバビロンに捕虜として捕らえられていったが、帰還したのち、紀元前三三三年ギリシャに属国とされたときから、紀元前六三年ギリシャ文明圏にあったローマの属国となり、イエスが降臨なさるまでの期間は、ヘブライズムがヘレニズムの支配を受ける立場にあった時代である。
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 前章で既に論述したように、ユダヤ人がイエスを信奉して、彼を中心として一つになったとすれば、当時のローマ帝国は、イエスを中心とするメシヤ王国を実現したはずであった。もし、そのようになったならば、そのときにヘブライズムはヘレニズムを吸収して、一つの世界的なヘブライ文明圏が形成されたはずであった。
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 しかし、ユダヤ人がイエスに反逆してこの目的が成就されなかったので、ヘブライズムはそのままヘレニズムの支配下にとどまっていたのである。しかし、西暦三一三年に至り、コンスタンチヌス大帝がミラノ勅令を下してキリスト教を公認してからは、次第にヘレニズムを克服しはじめ、西暦七〇〇年代に至っては、ギリシャ正教文明圏と西欧文明圏を形成するようになったのである。
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 中世社会において、「信仰基台」を復帰すべき中心人物であった法王と国王たちが、もし堕落しなかったとすれば、そのときに「再臨のメシヤのための基台」がつくられ、ヘブライズムはヘレニズムを完全に吸収融合して、世界は一つの文明圏を形成したはずであった。しかし、既に論じたように、彼らの淪落によってヘブライズムを中心とする中世的指導精神がサタンの侵入を受けたので、神はサタン分立の摂理をなさらなければならなかったのである。
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 ゆえに神は、あたかもアダムに侵入したサタンを分立なさるために、アダムをカインとアベルに分立されたように、このときにもその指導精神を二つの思想に再分立する摂理をされたのである。それがすなわち、カイン型のヘレニズムの復古運動と、アベル型のヘブライズムの復古運動であった。そしてこれらはついに、各々文芸復興と宗教改革として現れたのである。
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 しかるにこの時代は、人本主義を主導理念とする文芸復興が起こるに従って、ヘレニズムがヘブライズムを支配する立場に立つようになったのである。そして、この時代は、メシヤ降臨準備時代において、ユダヤ民族がギリシャの属領となることにより、ヘレニズムがヘブライズムを支配した時代を、実体的な同時性として蕩減復帰する時代となるのである。
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 あたかもカインがアベルに屈伏して、初めてアダムに侵入したサタンを分立させ、メシヤを迎えるための「実体基台」が造成できるように、カイン型であるヘレニズムがアベル型であるヘブライズムに完全に屈伏することによって、初めて中世的指導精神に侵入したサタンを分立させ、再臨主を迎えるための「実体基台」が世界的に造成されるのである。

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(一)文芸復興
中世社会の人々の本性から生ずる外的な追求は、ヘレニズムの復古運動を起こし、この運動によって文芸復興が勃興してきたことについては既に論述した。それでは、その本性の外的な追求は何であり、また、どのようにして人間がそれを追求するようになったかを調べてみることにしよう。
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 創造原理によれば、人間は、神も干渉できない人間自身の責任分担を、自由意志によって完遂することにより初めて完成されるように創造されたので、人間は本性的に自由を追求するようになる。また、人間は、自由意志によって自分の責任分担を完遂し、神と一体となって個性を完成することにより、人格の絶対的な自主性をもつように創造された。
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 ゆえに、人間は、本性的にその人格の自主性を追求するようになっている。そして、個性を完成した人間は、神から何か特別の啓示を受けなくても、理知と理性によって神のみ旨を悟り、生活するように創造されているので、人間は本性的に理知と理性を追求するようになる。人間はまた、自然界を主管するように創造されたので、科学により、その中に潜んでいる原理を探求して、現実生活の環境を自ら開拓しなければならない。
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 したがって、人間は本性的に自然と現実と科学とを追求するようになるのである。
しかるに、中世社会の人々は、その封建制度による社会環境によって彼らの本性が抑圧されていたために、その本性の外的な欲望によって、上に見たような事柄を更に強く追求するようになったのである。
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 また上述のように、中世の人々は十字軍戦争以来、東方から流入してきたヘレニズムの古典を研究するようになったが、ギリシャの古代精神が、すなわち、人間の自由、人格の自主性、理知と理性の尊厳性と、自然を崇拝し、現実に重きをおいて科学を探求することなど、人間の本性の外的な追求によるものであったので、これらがそのまま中世の人々の本性的な欲望に合致して、ヘレニズムの復興運動は激しく勃興し、ついには人本主義が台頭するようになったのである。
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 「ルネッサンス」とは、フランス語で、「再生」または「復興」という意味である。このルネッサンスは、十四世紀ごろから、ヘレニズムに関する古典研究の本場であるイタリアにおいて胎動しはじめた。
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 この人本主義運動は、初めは中世の人々をギリシャの古代に帰らせ、その精神を模倣させようとする運動から始まったが、それが進むにつれて、この運動は古典文化を再生し、中世的社会生活に対しての改革運動に変わり、また、これは単に文化の方面だけにとどまったのではなく、政治、経済、宗教など、社会全般にわたる革新運動へと拡大され、事実上、近代社会を形成する外的な原動力となったのである。
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 このように、人間本性の外的な欲望を追求する時代的な思潮であった人本主義(あるいは人文主義)が、封建社会全般に対する外的な革新運動として展開された現象をルネッサンス(文芸復興)と呼ぶのである。

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(二)宗教改革
中世社会における法王を中心とする復帰摂理は、法王と僧侶の世俗的な堕落によって成就することができなかった。そして上述のように、中世の人々が人本主義を唱えるにつれて、人々は人間の自由を束縛する形式的な宗教儀式と規範とに反抗し、人間の自主性を蹂躙する封建階級制度と法王権に対抗するようになったのである。
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 さらにまた、彼らは人間の理性と理知を無視して、何事でも法王に隷属させなければ解決できないと考える固陋な信仰生活に反発し、自然と現実と科学を無視する遁世的、他界的、禁欲的な信仰態度を排撃するようになった。こうしてついに、中世のキリスト教信徒は法王政治に反抗するようになったのである。
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 このようにして、中世社会の人々がその本性の外的な欲望を追求するにつれて、その反面、抑圧されていた本性の内的な欲望をも追求するようになり、ついには、使徒たちを中心として神のみ旨のみに従った熱烈な初代キリスト教精神への復古を唱えるようになった。
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 これがすなわち、中世におけるヘブライズムの復古運動である。そうして、十四世紀に、英国のオックスフォード大学の神学教授ウィクリフ(Wycliffe 1324~1384)は聖書を英訳して、信仰の基準を法王や僧侶におくべきでなく、聖書自体におくべきであると主張すると同時に、教会の制度や儀式や規範は聖書に何らの根拠をおくものでもないことを証言して、僧侶の淪落と、その民衆に対する搾取および権力の濫用を痛撃した。
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 このように宗教改革運動は、十字軍戦争によって法王の権威が落ちたのち、十四世紀から既に英国で胎動しはじめ、十五世紀にはイタリアでもこの運動が起こったのであるが、それらはみな失敗に終わり、その中心人物たちは処刑されてしまったのである。
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 その後一五一七年、法王レオ十世が、聖ペテロ寺院の建築基金を募集するために、死後に救いを受ける贖罪の札であると宣伝して免罪符を売るようになると、この弊害に対する反対運動が導火線となって、結局ドイツにおいてウィッテンベルク大学の神学教授であったマルティン・ルター(Martin Luther 1483~1546)を中心として宗教改革運動が爆発したのであった。
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 この革命運動ののろしは次第に拡大され、フランスではカルヴィン(Calvin 1509~1564)、スイスではツウィングリ(Zwingli 1484~1531)を中心として活発に伸展し、イギリス、オランダなどの諸国へと拡大されていったのである。

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 このように、新教運動を中心として起こった国際間の戦いは百余年間も継続してきたが、ドイツを中心として起こった三十年戦争が一六四八年ウェストファリア条約によってついに終結し、ここにおいて新旧両教徒間の戦いに一段落がついたのである。
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 その結果、北欧はゲルマン民族を中心として新教が勝利を得、南欧はラテン民族を中心とする旧教の版図として残るようになったのである。
この三十年戦争は、ドイツを中心とするプロテスタントとカトリック教徒間に起こった戦いであった。
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 しかし、この戦争は単なる宗教戦争にとどまったのではなく、ドイツ帝国の存廃を決する政治的な内乱でもあった。したがって、この戦争を終結させたウェストファリア講和会議は、新旧両教派に同等の権限を与える宗教会議であると同時に、ドイツ、フランス、スペイン、スウェーデン諸国間の領土問題を解決する政治的な国際会議でもあったのである。

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第二節 宗教および思想の闘争期(一六四八~一七八九)

(一)カイン型の人生観
(二)アベル型の人生観

この期間は、西暦一六四八年ウェストファリア条約によって新教運動が成功して以後、一七八九年フランス革命が起こるまでの一四〇年期間をいう。文芸復興と宗教改革によって人間本性の内外両面の欲望を追求する道を開拓するようになった近世の人々は、信教と思想の自由から起こる神学および教理の分裂と、哲学の戦いを免れることができなくなっていた。
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 ところで、今まで後編で述べてきたように、復帰摂理は、長い歴史の期間を通じて、個人から世界に至るまでカインとアベルの二つの型の分立摂理によって成し遂げられてきた。したがって、歴史の終末においても、この堕落世界は、カイン型の共産主義世界と、アベル型の民主主義世界に分立されるのである。
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 そして、ちょうど、カインがアベルに従順に屈伏して初めて「実体基台」が成し遂げられるように、このときにもカイン型の世界がアベル型の世界に屈伏して初めて、再臨主を迎えるための世界的な「実体基台」が成就されて、一つの世界を復帰するようになるのである。
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 このように、カインとアベルの二つの型の世界が成り立つには、そのための二つの型の人生観が確立されなければならないが、この二つの型の人生観は、実にこの期間に確立されたのであった。

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(一)カイン型の人生観
人間本性の外的な追求は、ヘレニズムの復古運動を起こして人本主義を生みだした。そして、この人本主義を基盤にして起こった反中世的な文芸復興運動は、神への帰依と宗教的な献身を軽んじ、すべてのことを自然と人間本位のものに代置させたのである。すなわち、神に偏りすぎて自然や人間の肉身を軽視し、それらを罪悪視するまでに至った中世的な人生観から、理性と経験による合理的な批判と実証的な分析を通じて人間と自然を認識することにより、彼らの価値を高める人生観を確立したのである。
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 このような人生観は、自然科学の発達からくる刺激により、人生に対する認識と思惟の方法論において二つの形式をたどるようになった。そしてこれらが近世哲学の二大潮流をつくったのであるが、その一つは演繹法による理性論であり、もう一つは帰納法による経験論である。
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 フランスのデカルト(Descartes 1596~1650)を祖とする理性論は、すべての真理は人間が生まれながらにもっている理性によってのみ探求されると主張した。彼らは歴史性や伝統を打破して演繹法を根拠とし、「我思う、ゆえに我あり」という命題を立てて、これから演繹することによって初めて外界を肯定しようとしたのである。
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 したがって、彼らは神や世界や自分までも否定する立場に立とうとしたのである。これに対して、イギリスのベーコン(Francis Bacon 1561~1626)を祖とする経験論は、すべての真理は経験によってのみ探求されると主張した。人間の心はちょうど白紙のようなもので、新しい真理を体得するには、すべての先入観を捨てて実験と観察によって認識しなければならないとしたのである。
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 このように、神から離れて理性を重要視する合理主義思想と、経験に基盤をおく人間中心の現実主義思想は、共に神秘と空想を排撃して、人間生活を合理化しながら現実化し、自然と人間とを神から分離させたのである。

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 このような文芸復興は、人文主義から流れてきた二つの思潮に乗って、人間がその内的な性相に従って神の国を復帰しようとするその道を遮り、外的な性向のみに従ってサタンの側に偏る道を開く人生観を生みだした。これが正にカイン型の人生観であった。
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 このカイン型の人生観は、十八世紀に至っては、歴史と伝統を打破して人生のすべてを理性的または現実的にのみ判断し、不合理なもの、非現実的なものを徹底的に排撃し、神を否定する合理的な現実にのみ重きをおくようになったのである。これがすなわち啓蒙思想であった。このような経験論と理性論を主流として発展した啓蒙思想がフランス革命の原動力となったのである。
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 このようなカイン型の人生観の影響を受けて、イギリスではハーバート(Herbert 1583~1648)を祖とする超越神教(Deism=理神論)が起こった。トマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1224~1274)以来、天啓と理性の調和に基礎をおいて発展した神学に対し、超越神教は単純に、理性を基礎とした神学を立てようとしたのである。彼らの神観は、単純に、神を、人間と宇宙を創造したという一つの意義にのみ局限させようとし、人間において神の啓示や奇跡は必要ないと主張した。

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 十九世紀の初め、ドイツのヘーゲル(Hegel 1770~1831)は十八世紀以後に起こった観念論哲学を大成した。しかし、このヘーゲル哲学も、啓蒙思想を土台としてフランスで起こった無神論と唯物論の影響を受けて、彼に反対するヘーゲル左派の派生をもたらした。このヘーゲル左派は、ヘーゲルの論理を翻し、今日の共産世界をつくった弁証法的唯物論の哲学を体系化したのである。
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 ヘーゲル左派であるシュトラウス(D.F.Strauss 1808~1874)は『イエス伝』を著述して、聖書に現れた奇跡は後世の捏造であるとして否定し、フォイエルバッハ(Feuerbach 1804~1872)は彼の『キリスト教の本質』の中で、社会的または経済的与件が宗教発生の原因になると説明した。このような学説が唯物論の基礎を形成したのである。
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 マルクス(Marx 1818~1883)とエンゲルス(Engels 1820~1895)は、シュトラウスやフォイエルバッハの影響を受けたが、それよりもフランスの社会主義思想から大きな影響を受けて弁証法的唯物論を提唱し、文芸復興以後に芽生えはじめて、啓蒙思潮として発展してきた無神論と唯物論とを集大成するに至った。その後、カイン型の人生観は一層成熟して、今日の共産主義世界をつくるようになったのである。

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(二)アベル型の人生観
我々は、中世社会から近代社会への歴史の流れを見るとき、それが神や宗教から人間を分離、あるいは独立させる過程であるとのみ考えがちである。これは、どこまでも中世社会人の本性の外的な追求によって起こったカイン型の人生観にのみ立脚して見たからである。しかし、中世の人々の本性的な追求は、このような外的なものにばかりとどまったのではなく、より深く内的なものをも追求するようになったのである。
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 彼らの本性の内的な追求が、ヘブライズムの復古運動を発生せしめることによって宗教改革運動を起こし、この運動によって哲学と宗教は創造本性を指向する立体的な人生観を樹立したのであった。これを我々は、アベル型の人生観という。したがって、カイン型の人生観は、中世の人々を神と信仰から分離、あるいは独立させる方向へ傾かせたが、このアベル型人生観は、彼らをして一層高次的に神の側へ指向するように導いてくれたのである。

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 ドイツのカント(Kant 1724~1804)は、お互いに対立してきた経験論と理性論を吸収して新たに批判哲学を打ち立て、内外両面を追求する人間本性の欲望を哲学的に分析して、哲学的な面でアベル型の人生観を開拓した。すなわち、我々の多様な感覚は対象の触発によって生ずるが、これだけでは認識の内容を与えるだけで、認識自体は成立し得ない。
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 この認識が成立するためには、多様な内容(これは後天的であり経験的なものである)を一定の関係によって統一する形式がなければならない。その形式がまさしく自分の主観である。ゆえに、思惟する能力、すなわち自己の悟性の自発的な作用により、自己の主観的な形式(これは先天的であり超経験的である)をもって、対象からくる多様な感覚を統合、統一するところに認識が成立するとした。このようにカントは、対象により主観を形成するという従来の模写説を翻して、主観が対象を構成するという学説を提唱したのである。
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 こうしたカントの学説を受け、彼の第一後継者であるフィヒテ(Fichte 1762~1814)をはじめ、シェリング(Schelling 1775~1854)、ヘーゲルなどが輩出したが、特にヘーゲルはその弁証法で哲学の新しい面を開拓した。彼らのこのような観念論は、哲学的な面におけるアベル型の人生観を形成したのである。

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 宗教界においては、当時の思潮であった合理主義の影響下の宗教界の傾向に反対して、宗教的情熱と内的生命を重要視し、教理と形式よりも神秘的体験に重きをおく、新しい運動が起こるようになった。その代表的なものは第一に敬虔主義(Pietism)で、これはドイツのシュペーネル(Spener 1635~1705)を中心として起こったが、正統的信仰に従おうとする保守的な傾向が強く、神秘的な体験に重きをおいたのであった。
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 また、この敬虔派の運動がイギリスに波及し、英国民の生活の中に染みこんでいた宗教心と融和して、ウェスレイ(J. Wesley 1703~1791)兄弟を中心とするメソジスト派(Methodists)を起こすようになったのである。この教派は、沈滞状態に陥っていた当時の英国教会に大きな復興の気運を起こしたのであった。

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 また英国には、神秘主義者フォックス(Fox 1624~1691)を祖とするクェーカー派(Quakers)が生じた。フォックスは、キリストは信徒の霊魂を照らす内的な光である、と主張して、聖霊を受けてキリストと神秘的に結合し、内的光明を体験しなければ聖書の真意を知ることができないと主張した。
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 この教派は、アメリカ大陸でも多くの迫害を受けながら布教を行ったのである。つぎに、スウェーデンボルグ(Swedenborg 1688~1772)は著名な科学者でありながら霊眼が開け天界の多くの秘密を発表した。彼の発表は、長い間神学界で無視されてきたが、最近に至って霊界に通ずる人が増加するにつれて、次第にその価値が再認識されるようになってきた。このように、アベル型の人生観は成熟して、今日の民主主義世界をつくるようになったのである。

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第三節 政治、経済および思想の成熟期(一七八九~一九一八)

(一)民主主義
(二)三権分立の原理的意義
(三)産業革命の意義
(四)列国の強化と植民地の分割
(五)文芸復興に伴う宗教、政治および産業革命

前の時期において、宗教および思想の闘争はカイン、アベル二つの型の人生観を樹立してきたが、この時期に至ると、この二つの人生観はそれぞれの方向に従って成熟するようになった。そして、それらの思想の成熟につれて、カイン、アベルの二つの世界が形成されていったのである。
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 社会の構造もこの二つの人生観に立脚した社会形態へと整理されて、政治、経済、思想も理想社会へと転換され得る前段階にまで進展した。フランス革命とイギリスの産業革命以後、第一次世界大戦が終わるころまでがこのような摂理期間であったのである。

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(一)民主主義
歴史発展の観点から見た民主主義に関しては既に前章で論述した。しかし、それはどこまでも民主主義が出てくるまでの外的な経緯であった。我々はこのような歴史の発展の中で、いかなる思想の流れに乗って今日の民主主義が出てくるようになったのか、その内的な経緯を調べてみることにしよう。

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 既に後編第四章第七節(二)で論じたように、キリスト王国時代において、法王を中心とした霊的な王国と、国王を中心とした実体の王国とが一つとなり、メシヤ王国のための君主社会をつくって「メシヤのための基台」をつくったならば、そのときに封建時代は終わったはずであった。しかし、この摂理が成し遂げられなかったので、この時代は延長され、政治史と宗教史と経済史とが互いに分立された路程に従って発展するようになったのである。
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 中世封建時代において地方の諸侯たちに分散されていた政治権力は、十字軍戦争以後衰えはじめ、文芸復興と宗教改革を経て、啓蒙期に至っては一層衰微したのであった。十七世紀中葉に至ると、諸侯たちは民族を単位とする統一国家を立てて国王のもとに集中し、中央集権による絶対主義国家(専制主義国家)を形成するようになったのである。
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 この時代は、王権神授説などの影響で、国王に絶対的な権限が賦与されていた専制君主時代であった。この時代が到来するようになった原因を社会的な面から見るならば、それは、第一に、市民階級が国王と結合して、封建階級と対抗するためであり、第二には、経済的な活動において、貿易経済が支配的なものとなったために、封建制度から抜けだした強力な国家の背景を必要とし、また、国民の全体的な福利のために、強力な国家の保護と監督による、重商主義経済政策が要望されるところにあったのである。
     *
 また、復帰摂理から歴史発展を考えてみると、封建時代以後には、天の側の君主社会が成就されなければならなかったのであるが、この時代には法王と国王とが一つになれなかったので、この社会は完成されず、法王を中心とする社会は(次になさんとする神の側の摂理を)サタンが先に成し遂げていくという型どおりの路程に従って、サタン側の専制君主社会へと転化されたのである。

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 カイン型の人生観を中心とする共産世界と、アベル型の人生観を中心とする民主世界を成し遂げていく復帰摂理の立場から、専制君主社会の帰趨を考察してみることにしよう。中世封建時代は、ヘブライズムとも、ヘレニズムとも、同様に相いれぬ社会であったので、この二つの思想は共同でそれを打ち破り、カイン、アベル二つの型の人生観に立脚した二つの型の社会を樹立したのであった。
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 そのように、専制君主社会も、やはり、宗教改革以後のキリスト教民主主義による信教の自由を束縛したので、それはアベル型人生観の目的達成に反する社会であるとともに、またこの社会は、その中に依然として残っていた封建制度が、無神論者と唯物論者たちが指導する市民階級の発展を遮るものであったので、カイン型人生観の目的達成に反する社会でもあった。ゆえにこの二つの型の人生観は共に、この社会を打破する方向に進み、ついには、カイン、アベル二つの型の民主主義に立脚した共産と民主の二つの型の社会を形成したのである。

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(1) カイン型の民主主義
カイン型の民主主義は、フランス革命によって形成された。したがって、この問題を論ずるためには、まずフランス革命について論じなければならない。当時フランスは、カイン型の人生観の影響によって、無神論と唯物論の道へと流れこんだ啓蒙思想が、怒濤のように押し寄せた時代であった。
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 したがって、このような啓蒙思想に染まっていた市民階級は、絶対主義に対する矛盾を自覚するようになり、それに従って、絶対主義社会内にまだ深く根を下ろしている旧制度の残骸を、打破しようとする意識が潮のように高まっていたのである。

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 そこで市民たちが、一七八九年、啓蒙思想の横溢により絶対主義社会の封建的支配階級を打破すると同時に、第三階級(市民)の自由平等と解放のために、民主主義を唱えながら起こった革命が、すなわち、フランス革命であった。この革命により、「人権宣言」が公表されることによって、フランスの民主主義は樹立されたのである。
     *
 しかし、フランス革命による民主主義は、あくまでもカイン型の人生観を立てるために、唯物思想に流れこんだ啓蒙思想が、絶対主義社会を打破しながら出現したものであるから、これをカイン型の民主主義というのである。ゆえに、啓蒙思想の主要人物たちもそうであったが、フランス革命の思想家ディドロ(Diderot 1713~1784)や、ダランベール(D、Alembert 1717~1783)なども無神論、または唯物論系の学者たちであった。
     *
 この革命のいきさつを見ても分かるように、フランスの民主主義は、個性の自由と平等よりも、全体主義へと転化される傾向性を内包していたのである。このようにカイン型の人生観は啓蒙思想を立ててフランス革命を起こし、カイン型の民主主義を形成した。
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 これが神の側に復帰しようとする人間本性の内的な追求の道を完全に遮り、外的にばかりますます発展し、ドイツでのマルクス主義とロシアでのレーニン主義として体系化されることにより、ついには共産主義世界を形成するに至ったのである。

     *
 
(2) アベル型の民主主義
イギリスやアメリカで実現された民主主義は、フランス大革命によって実現された民主主義とはその発端から異なっている。後者はカイン型人生観の所産である無神論および唯物論の主唱者たちが、絶対主義社会を打破することによって実現したカイン型の民主主義である。
     *
 これに対して前者は、アベル型人生観の結実体である熱狂的なキリスト教信徒たちが信教の自由を求めるために絶対主義と戦い、勝利して実現したアベル型の民主主義であったのである。
それでは、イギリスやアメリカでは、どのようにしてアベル型の民主主義を樹立したかということを調べてみることにしよう。
     *
 イギリスでは、チャールズ一世が専制主義と国教を強化することによって、多くの清教徒たちが圧迫を受け、信仰の自由を求めて、ヨーロッパ内の他国、または、新大陸へ移動したのであった。かつてスコットランドでは、宗教的な圧迫を受けた一部の清教徒が国民盟約を決議して国王に反抗した(一六四〇年)。そののちイングランドでは、議会の核心であった清教徒が、クロムウェル(Cromwell 1599~1658)を中心として清教徒革命を起こしたのである(一六四二年)。
     *
 そればかりでなく、ジェームズ二世の専制と国教強化が激しくなるに従って、オランダの総督であった彼の婿オレンジ公ウイリアム(William III 1650~1702)は、一六八八年に軍隊を率い、信仰の自由と民権の擁護のためイギリスに上陸し、無血で王位に上ったのであった。
     *
 ウイリアムが王位につくや否や、彼は仮議会に上申された「権利の宣言」を承認し、議会の独立的な権利を認定し、のち、この宣言は「権利の章典」として公布され、英国憲法の基本となったのである。この革命は無血で成功したのでこれを名誉革命という。
     *
 このように、イギリスにおけるこの革命は、外的に見ればもちろん市民階級が貴族、僧侶など大地主階級から政治的な自由と解放を獲得しようとするところにその原因があったけれども、それよりももっと主要な原因は、そのような革命を通じて内的な信仰の自由と解放を求めようとするところにあったのである。

     *
 また、イギリスの専制主義王制のもとで弾圧を受けていた清教徒たちが、信仰の自由を得るためにアメリカの新大陸へ行き、一七七六年に独立国家を設立してアメリカの民主主義を樹立したのであった。
     *
 このように、英米で樹立された民主主義は、アベル型の人生観を中心として、信仰の自由を求めるために、絶対主義社会を改革しようとする革命によって樹立されたので、これをアベル型の民主主義という。このようにしてアベル型の民主主義は今日の民主主義世界を形成するようになったのである。

     *
 
(二)三権分立の原理的意義
三権分立思想は、絶対主義の政治体制によって、国家の権力が特定の個人や機関に集中するのを分散させるために、啓蒙思想派の重鎮であったモンテスキュー(Montesquieu 1689~1755)によって提唱されたが、これはフランス革命のとき「人権宣言」の宣布によって実現された。
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 しかし元来、この三権分立は、天の側で成し遂げようとした理想社会の構造であって、復帰摂理の全路程がそうであるように、これもまたサタン側で、先に非原理的な原理型として成し遂げたのである。それでは、我々はここで、理想社会の構造がどのようなものであるかを調べてみることにしよう。

     *
 創造原理で明らかにしたように、被造世界は完成した人間一人の構造を基本として創造された。そればかりでなく、完成した人間によって実現される理想社会も、やはり完成した人間一人の構造と機能に似ているようになっているのである。人体のすべての器官が頭脳の命令によって起動するように、理想社会のすべての機関も神からの命令によってのみ営為されなければならない。
     *
 また、頭脳からくるすべての命令が、脊髄を中心として末梢神経を通じて四肢五体に伝達されるように、神からの命令は、脊髄に該当するキリストと、キリストを中心とする末梢神経に該当する聖徒たちを通じて、社会全体に漏れなく及ばなければならない。そして人体における、脊髄を中心とする末梢神経は、一つの国家の政党に該当するので、理想社会における、政党に該当する役割は、キリストを中心とする聖徒たちが果たすようになっているのである。

     *
 肺臓と心臓と胃腸が、末梢神経を通じて伝達される頭脳の命令に従って、お互いに衝突することなく円満な授受の作用を維持しているように、この三臓器に該当する理想社会の立法、司法、行政の三機関も、政党に該当するキリストを中心とする信徒たちを通じて伝達される神の命令によって、お互いに原理的な授受の関係を結ばなければならない。
     *
 人間の四肢が頭脳の命令に従い、人間の生活目的のために活動しているように、四肢に該当する経済機構は、神の命令に従い、理想社会の目的を達成するために実践する方向へと動かなければならない。また、人体において、肝臓が全身のために栄養を貯蔵するように、理想社会においても、常に全体的目的達成のために必要な貯蓄をしなければならないのである。

     *
 しかしまた、人間の四肢五体が、頭脳と縦的な関係をもち、肢体の間で自動的に横的な関係を結びながら、不可分の有機体をつくっているように、理想社会においても、あらゆる社会の人々が神と縦的な関係を結ぶことによって横的な関係をも結ぶようになるので、喜怒哀楽を共にする一つの有機体をつくるようになるのである。
     *
 それゆえに、この社会においては、他人を害することが、すなわち自分を害する結果をもたらすことになるので、罪を犯すことができないのである。
我々はまた、復帰摂理がこの社会構造をどのようなかたちで復帰してきたかということを調べてみよう。
     *
 西欧における歴史発展の過程を見れば、立法、司法、行政の三権と政党の機能を国王一人が全部担当してきた時代があった。しかし、これが変遷して国王が三権を掌握し、法王を中心とする教会が政党のような使命を担当する時代に変わったのである。
     *
 この時代の政治制度は、再びフランス革命により、立法、司法、行政の三権に分立され、政党が明白な政治的使命をもつようになり、民主主義立憲政治体制を樹立して、理想社会の制度の形態だけは備えるようになったのである。
     *
 このように、長い歴史の期間を通じて政治体制が変遷してきたのは、堕落した人間社会が、復帰摂理によって、完成した人間一人の構造と機能に似た理想社会へと復帰されていくからである。このようにして今日の民主主義政体は、三権に分立され、また政党が組織されることによって、ついに人間一人の構造に相似するようになったが、それはあくまでも、復帰されていない堕落人間と同じように、創造本然の機能がまだ発揮されずにいるのである。

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メシア再降臨準備時代ー2

2020年03月21日 18時19分43秒 | 学習

 すなわち、政党は神のみ旨を知っていないのであるから、それは頭脳の命令を伝達することができなくなった脊髄と、それを中心とする末梢神経と同様のものであるといえるのである。すなわち、憲法が神のみ言から成り立っていないので、立法、司法、行政の三機関は、あたかも神経系統が切れて、頭脳からくる命令に感応できなくなった三臓器のように、それらは相互間の調和と秩序を失って、常に対立し、衝突するほかはないのである。

     *
 ゆえに、再臨理想の目的は、イエスが降臨することにより、堕落人間一人の構造に似ている現在の政治体制に完全な中枢神経を結んでやることによって、神のみ旨を中心とした本然の機能を完全に発揮させようとするところにあるのである。

     *
 
(三)産業革命の意義
神の創造理想は、単に罪のない社会をつくることだけで成し遂げられるのではない。人間は、万物を主管せよと言われた神の祝福のみ言どおり(創一・28)、被造世界に秘められている原理を探求し、科学を発達させて、幸福な社会環境をつくっていかなければならないのである。
     *
 既に前編で論じたように、堕落人間の霊肉両面の無知に対する克服は、宗教と科学が各々担当して理想社会を復帰してきたので、歴史の終末には、霊的な無知を完全に除去できるみ言が出なければならないとともに、肉的な無知を完全に除去できる科学が発達して、理想社会を成し遂げ得る前段階の科学社会を建設しなければならないのである。
     *
 このような神の摂理から見ても英国の産業革命は、どこまでも理想社会の生活環境を復帰するための摂理から起こったものだ、ということを知ることができる。
理想社会の経済機構も、完成された人体の構造と同様でなければならないのであるから、前にも述べたとおり、生産と分配と消費は、人体における胃腸と心臓と肺臓のように、有機的な授受の関係をもたなければならない。
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 したがって、生産過剰による破壊的な販路競争とか、偏った分配によって全体的な生活目的を害する蓄積や消費をしてはならないのである。ゆえに、必要かつ十分な生産と、公平にしてしかも過不足のない分配と、全体的な目的のための合理的な消費をしなければならない。

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 ところで、産業革命による大量生産は、イギリスをして商品市場と原料供給地としての広大な植民地を急速度に開拓せしめた。そして、産業革命は理想社会のための外的な環境復帰ばかりでなく、福音伝播のための広範囲な版図をつくって内的な復帰摂理の使命をも果たしたのである。

     *
 
(四)列国の強化と植民地の分割
文芸復興以後、カイン、アベルの二つの型に分かれて成熟してきた人生観は、各々二つの型の政治革命を起こし、二つの型の民主主義を樹立した。この二つの型の民主主義は、みなイギリスの産業革命の影響を受けながら急速度に強化され、民主と共産二つの系列の世界を形成していくようになった。

     *
 すなわち、産業革命に引き続き、飛躍的な科学の発達につれて起こった工業の発達は、生産過剰の経済社会を招来した。そして、過剰な生産品の販路と工業原料の獲得のための新地域の開拓を必要とするようになり、ついに世界列強は、植民地争奪戦を続けながら、急速度に強化されていったのである。このように、カイン、アベル二つの型の人生観の流れと、科学の発展に従って、経済発展は政治的にこの世界を、民主と共産の二つの世界に分立させたのである。

(五)文芸復興に伴う宗教、政治および産業革命
カイン型であるヘレニズムの反中世的復古運動は、人本主義(Humanism)を生み、文芸復興(Renaissance)を引き起こした。これが、更にサタンの側に発展して、第二の文芸復興思潮といえる啓蒙思想を起こすようになった。この啓蒙思想が一層サタンの側に成熟して、第三の文芸復興思潮といえる唯物史観を生み、共産主義思想を成熟させたのである。
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 このように、サタンの側で天の摂理を先に成し遂げていくに従って、宗教、政治、産業各方面においても三次の革命が引き続き生ずるようになった。すなわち、第一次文芸復興に続いて、ルターを中心とする第一次宗教改革があった。第二次文芸復興に続いて、宗教界では、ウェスレイ、フォックス、スウェーデンボルグなどを中心とした新しい霊的運動が、激しい迫害の中で起こったが、これが第二次宗教改革運動であった。
     *
 ゆえに、第三次文芸復興に続いて、第三次宗教改革運動が起こるということは、歴史発展過程から見て、必至の事実であるといえる。事実、今日のキリスト教の現実は、その改革を切実に要求しているのである。
また、政治的な面においても三段階の変革過程があったことを看破することができる。
     *
 すなわち、第一次文芸復興と第一次宗教改革の影響により、中世封建社会は崩壊に導かれた。第二次文芸復興と第二次宗教改革の影響により、続いて専制君主社会が崩壊に導かれたのである。そして第三次文芸復興による政治革命によって、共産主義社会が成立するに至った。
     *
 今後は、将来、第三次宗教改革により、天の側の民主世界が理念的にサタンの側の共産世界を屈伏させて、この二つの世界が、必然的に神を中心とする一つの地上天国に統一されなければならないのである。
一方我々は、宗教と政治の変革に従うところの経済改革も、三段階の過程を経て発展してきたという事実を知ることができる。
     *
 すなわち、蒸気による工業発達によって第一次産業革命がイギリスにおいて起こり、つづいて、電気とガソリンによる第二次産業革命が先進諸国で起こった。今後は、原子力による第三次産業革命が起こり、これによって理想世界の幸福な社会環境が世界的に建設されるであろう。このメシヤ再降臨準備時代における三次の文芸復興に伴う宗教、政治および産業など三分野にわたる三次の革命は、三段階の発展法則による理想社会実現への必然的過程なのである。

     *
 
第四節 世 界 大 戦

(一)蕩減復帰摂理から見た世界大戦の原因
(二)第一次世界大戦
(三)第二次世界大戦
(四)第三次世界大戦

(一)蕩減復帰摂理から見た世界大戦の原因
戦争は、いつでも政治、経済、思想などが原因となって起こるようになる。しかし、このようなことはあくまでも外的な原因にすぎないのであって、そこには必ず内的な原因があるということを知らなければならない。これはあたかも人間の行動に内外両面の原因があるのと同様である。すなわち、人間の行動は、当面の現実に対応しようとする外的な自由意志によって決定されるのはもちろんであるが、復帰摂理の目的を指向し、神のみ旨に順応しようとする内的な自由意志によって決定されるものもあるのである。
     *
 ゆえに、人間の自由意志によって起こる、行動と行動との世界的な衝突が、すなわち世界大戦であるので、ここにも内外両面の原因があるということを知らなければならない。したがって、世界大戦を、政治、経済、思想などその外的な原因を中心として見ただけでは、これに対する摂理的な意義を把握することができないのである。
     *
 それでは、蕩減復帰摂理から見た世界大戦の内的な原因は何なのだろうか。第一に、主権を奪われまいとするサタンの最後の発悪によって、世界大戦が起こるようになるのである。既に上述したように、人間始祖が堕落することによって、元来神が成し遂げようとしてきた原理世界を、サタンが先立って原理型の非原理世界を成し遂げてきたのであり、神はそのあとをついていかれながら、サタン主管下のこの非原理世界を奪い、善の版図を広めることによって、次第に原理世界を復帰する摂理をしてこられたのである。
     *
 したがって、復帰摂理の路程においては、常に、真なるものが来る前に、偽ものが先に現れるようになる。キリストが来られる前に偽キリストが来るであろうと言われたのは、その代表的な例であるといえる。

     *
 ところで、サタンを中心とする悪主権の歴史は、再臨主が現れることによってその終末を告げ、神を中心とする善主権の歴史に変わるのであるから、そのときにサタンは最後の発悪をするようになる。モーセを中心とする民族的カナン復帰路程において、エジプトを出発しようとするイスラエル選民に対し、サタンはパロに最後の発悪をさせたので、天の側では三大奇跡により彼を打って出発したのである。
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 このように、歴史の終末期においても世界的カナン復帰路程を出発しようとする天の側に対して、サタンが最後の発悪をするので、これを三次にわたって打つのが三次の世界大戦として現れるのである。

     *
第二に、神の三大祝福を成就した型の世界を、サタンが先に非原理的につくってきたので、これを復帰する世界的な蕩減条件を立てるために世界大戦が起こるのである。
     *
 神は人間を創造されて、個性を完成すること、子女を繁殖すること、そして、被造世界を主管することなどの三大祝福を人間に与えた(創一・28)。したがって、人間はこの祝福を成就して地上天国を実現しなければならなかったのである。神は人間を創造なさり、このような祝福をされたので、その人間が堕落したからといって、この祝福を破棄することはできない。
     *
 それゆえに、堕落した人間がサタンを中心として、その祝福された型の非原理世界を先につくっていくのを神は許さないわけにはいかないのである。したがって、人類歴史の終末には、サタンを中心とする個性の完成、サタンを中心とする子女の繁殖、サタンを中心とする被造世界の主管など、三大祝福完成型の非原理世界をつくるようになる。
     *
 ゆえに神の三大祝福を復帰する世界的な蕩減条件を立てるためには、サタンを中心とするこのような三大祝福完成型の非原理世界を、蘇生、長成、完成の三段階にわたって打つ三次の世界大戦が起こらざるを得ないのである。

     *
 第三に、イエスの三大試練を世界的に越えるために世界大戦が起こるようになる。イエスの路程は、すなわち信徒たちが歩まなければならない路程であるので、信徒たちはイエスが荒野で受けた三大試練を、個人的に、家庭的に、国家的に、世界的に乗り越えなければならない。このようにして、全人類がイエスのこの三大試練を三次にわたって世界的に越えていくのが、すなわちこの三次にわたる世界大戦なのである。

     *
 第四に、主権復帰のための世界的な蕩減条件を立てるために、世界大戦が起こるようになる。人間が堕落しないで、成長期間の三段階を経て完成されたならば、神の主権の世界が成就されたはずである。
     *
 ゆえに、この堕落世界をカイン、アベルの二つの型の世界に分立したのち、アベル型の天の世界がカイン型のサタンの世界を打って、カインがアベルを殺した条件を世界的に蕩減復帰し、神の主権を立てる最後の戦争を遂行しなければならないが、これも三段階を経過しなければならないので、三次の世界大戦が起こるようになるのである。ゆえに、世界大戦は縦的な摂理路程において、主権復帰のためにあったすべての戦いの目的を、横的に蕩減復帰すべき最終的な戦争なのである。

     *
 
(二)第一次世界大戦
(1) 第一次世界大戦に対する摂理的概要
カイン、アベル二つの型の人生観によって起こったカイン、アベル二つの型の民主主義革命によって、専制君主政体は崩壊した。これに続いて起こった産業革命は、封建主義社会を資本主義社会へと導き、ついには帝国主義社会を迎えるようになったのであった。
     *
 ゆえに、第一次世界大戦は、政治的な面から見れば、アベル型の民主主義により復帰摂理の目的を指向する民主主義政体と、カイン型の民主主義により復帰摂理の目的に反する全体主義政体との戦争であった。また、経済的な面から見れば、これは、天の側の帝国主義とサタン側の帝国主義との戦争であった。したがって、この大戦は一面、欧米諸国中の先進資本主義国家と後進資本主義国家とが、植民地争奪のために展開した戦争でもあったのである。
     *
 また、第一次世界大戦を思想的な面から見れば、当時のキリスト教を迫害した回教国家であるトルコ、および、これを支持したドイツやオーストリアなどカイン型の国家群と、主にキリスト教を信奉した米、英、仏などアベル型の国家群との間に展開された戦争であったのである。結論的にいうと、第一次大戦は、アベル型の人生観の目的を実現すべき民主主義が、蘇生的な勝利の基盤を造成する戦争であったのである。

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(2) 天の側とサタンの側との区別は何によって決定されるか
天(神)の側とサタンの側との区別は神の復帰摂理の方向を基準として決定される。神の復帰摂理の方向と同じ方向を取るか、あるいは間接的でもこの方向に同調する立場をとるときこれを天の側といい、これと反対になる立場をサタンの側という。
     *
 ゆえに、天の側であるとかサタンの側であるというのは、我々の常識や良心による判断と必ずしも一致するものとはいえないのである。モーセがエジプト人を殺したという事実は、神の摂理を知らない人はだれでも悪だと言うであろう。しかし、復帰摂理の立場で見ればそれは善であった。
     *
 そればかりでなく、イスラエル民族が何の理由もなくカナンの地へ侵入して数多くの異邦人を全滅させたという事実も、神の摂理を知らない立場から見れば悪であるといわざるを得ない。しかし、これもやはり、復帰摂理の立場から見れば善であったのである。カナン民族の中に、イスラエル民族よりもっと良心的な人がいたとしても、当時の彼らはみな一律にサタンの側であり、イスラエルは一律に天の側であったからである。

     *
 なお一歩進んで、この例を宗教面において挙げてみよう。すべての宗教はその目的が等しく善にあるので、それはみな天の側である。しかし、ある宗教が、使命的に見て一層天の側に近い宗教の行く道を妨害するときには、その宗教はサタンの側に属するようになる。
     *
 また、各宗教は各々時代的な使命をもっているので、ある宗教がその使命期を過ぎたのちまでも、次の時代の新しい使命を担当して現れた宗教の行く道に障害となる立場に立つとき、その宗教はサタン側になるのである。例えばイエスが現れる前には、ユダヤ教やその民族はみな天の側であった。
     *
 しかし彼らが、ユダヤ教の目的を達成するために新しい使命をもってこられたイエスを迫害するようになったときには、彼らがいくら過去に神をよく信奉してきたとしても、イエスを迫害したその日からサタン側とならざるを得なかったのである。

     *
 近世以後においては、アベル型の人生観の系統はみな天の側であり、カイン型の人生観の系統はみなサタンの側である。このような意味において唯物論者はカイン型の人生観の結実であるので、人間的に見るといくら良心的で他人のために献身していても、彼らはサタンの側である。したがって、共産世界はサタン側の世界となるのである。
     *
 これに反して、信仰の自由が許されている民主世界は、アベル型の人生観として存立する世界であるから天の側である。
前編で既に論じたように、キリスト教はすべての宗教の目的を達成するための最終的な使命をもって、中心宗教に立てられているので、復帰摂理の立場から見れば、この摂理の目的を指向するキリスト教の行く道を妨害するものは、何でもサタン側になるのである。
     *
 したがって、キリスト教を迫害するとか、または、その発展を直接、あるいは間接的に妨害する国家は、みなサタン側になる。ゆえに、第一次世界大戦において、米、英、仏、露など、連合国側の主動国家はキリスト教国家であるばかりでなく、回教国であるトルコ内で迫害を受けていたキリスト教徒を解放させようとした国家であるので、みな天の側になり、ドイツやオーストリアなど同盟国側の主動国家は、キリスト教を迫害する回教国家であったトルコを支持したので、それらの国家はみなトルコと共にサタン側となったのである。

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(3) 復帰摂理から見た第一次世界大戦の原因
復帰摂理から見て、第一次世界大戦が起こるようになった内的な原因の第一は、神の三大祝福を復帰する蘇生的な蕩減条件を世界的に立てようとするところにあった。既に明らかにしたように、サタンは、神がアダムを中心として成し遂げようとした世界と類似した型の世界を先につくってきたので、歴史の終末に至っては、一時は必ずサタン側のアダム型の人物を中心として、三大祝福の蘇生級完成型の非原理世界が現れるようになる。
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 したがって、天の側ではこの世界を打って、神を中心としてその祝福を完成した原理世界を復帰する蘇生的な蕩減条件を、世界的に探して立てなければならない。このような目的のため、第一次世界大戦が起こるようになったのである。

     *
 ゆえに、第一次世界大戦を挑発したドイツのカイゼル(ウイリアム二世)は、サタン側のアダムの蘇生級個性完成型の人物として、汎ゲルマン主義を主唱して子女繁殖の型をつくり、世界制覇の政策を立てて万物主管の型を成し遂げ、サタンを中心とする三大祝福の蘇生級完成型の非原理世界を達成したのである。したがって、天の側がこのようなサタン側を打って勝利して、神を中心とする三大祝福を完成した世界を復帰する蘇生的な蕩減条件を世界的に立てるために、第一次世界大戦は起こらざるを得なかったのである。

     *
 第二に、イエスに対するサタンの第一次試練を、天の側の地上人をして世界的に越えさせるために、第一次世界大戦がなければならない。ゆえに、イエスが受けた試練を中心として見れば、天の側では第一次大戦に勝利し神の第一祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立てなければならなかった。
     *
 なぜならば、イエスが荒野で第一次試練に勝利して、石で表示されたイエス自身を取り戻して個性復帰の基台を造成したように、天の側では第一次世界大戦に勝利することによって、サタン側の世界とその中心を滅ぼし、その反面、天の側の世界を立てて、その中心たる再臨主の誕生を迎え、個性復帰のための基台をつくらなければならなかったからである。

     *
 第三に、主権復帰の蘇生的な基台を造成するために第一次世界大戦がなければならない。我々は既に後編第四章第七節(二)(6)において、専制主義社会を打破して神の主権を復帰するための最終的な政体として、民主主義政体が出てくるようになったと論じたが、結果として現れた事実が物語っているように、第一次大戦で天の側の国家が勝利し、政治版図を拡大させて、世界をキリスト教化した。また、天の側の、広範囲で確固とした政治および経済の基台を造成して、民主主義の蘇生的な基台を確立すると同時に、天の側の主権復帰の蘇生的な基台をつくらなければならなかったのである。

     *
 
(4) 復帰摂理から見た第一次大戦の結果
第一次世界大戦で天の側が勝利することにより、神の三大祝福を世界的に復帰するための蘇生的な蕩減条件を立てるようになった。イエスに対するサタンの試練を世界的に越える立場から見れば、神の第一祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立て、ここで民主主義が蘇生的な勝利を得るようになり、天の側の主権復帰の蘇生的な基台を造成したのである。
     *
 また、サタン側の世界と、その世界の王として君臨したカイゼルが敗北した反面に、天の側の世界の蘇生的な勝利の基台が立てられ、天の側の世界の王として来られる再臨主の誕生される基台が造成されたのである。またこれに続いて、サタン側の再臨主の象徴型であるスターリンを中心とする共産世界がつくられるようになった。
     *
 なぜならば再臨主は、共生共栄共義主義の地上天国理想をもって降臨される方であるので、サタン側では天の側のこのような摂理をそれに先んじて達成するために、サタン側の再臨主型の人物を中心として地上天国型の世界を成し遂げようとしたからであった。ゆえに、第一次世界大戦においては、天の側の勝利によってメシヤ再降臨の基台が造成され、そのときから再臨摂理の蘇生期が始まったのである。

     *
 
(三)第二次世界大戦
(1) 第二次世界大戦に対する摂理的概要
既に中世以後の歴史において見てきたように、民主主義の根本精神は、アベル型の人生観の目的を実現しようとするところにある。民主主義は人間本性の内外両面の性向に従い、必然的に創造理想の世界を追求するようになる。ゆえに、第二次世界大戦は、第一次大戦によって得た蘇生的な勝利の基台の上に立つ民主主義が、人間本性の指向する道をふさぐ全体主義と戦って、長成的な勝利の基盤を造成する戦争であったのである。

     *
 
(2) 全体主義とは何か
一九三〇年代において、経済恐慌が世界的に押し寄せてきたとき、特にこの逆境を克服し難い、孤立した環境に立たせられた独、日、伊などの国家は、その難局を打開する道を全体主義の中に求めようとしたのである。それでは、全体主義とは何であろうか。
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 全体主義とは、近代国家の民主主義政治思想の根本である人間の個性に対する尊重と、言論、出版、集会、結社の自由、そして国家に対する基本的な人権および議会制度などを否定し、民族国家の「全体」だけを究極の実在として見ることにより、個人や団体は民族国家全体の存立と発展のためにのみ存在しなければならないと主張する政治理念である。
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 ゆえに、この制度のもとにおける自由は、個人が主張し享受できる権利ではなく、全体の前にささげなければならない一つの義務であり、また犠牲として定義されるのである。全体主義の指導原理は、すべての権威を多数におくのではなく、ただ一人の支配者におき、そしてその支配者の意志をもって国家民族の理念とするのである。この指導理念による全体主義政治体制の実例を挙げれば、イタリアにおけるムッソリーニ、ドイツにおけるヒットラー、日本における軍閥による独裁政体が各々それに該当するといえる。

     *
 
(3) 第二次世界大戦における天の側国家とサタン側国家
第二次世界大戦は、民主主義によって結託した米、英、仏の天の側国家と、全体主義によって結託した独、日、伊のサタン側国家との対戦であった。それでは、どうして前者は天の側であり後者はサタン側なのであろうか。前者はアベル型の人生観を中心として、復帰摂理の最終段階の政治理念として立てられた民主主義を根本理念とする国家であるから天の側である。
     *
 後者はその政治理念がカイン型の人生観を中心としており、反民主主義的な全体主義国家であるゆえにサタン側である。また、前者はキリスト教を支持する国であり、後者は反キリスト教的な立場に立った国家であるので、各々天の側とサタン側とに区別されたのである。
その内容をもう少し明らかにしてみよう。
     *
 当時代において枢軸国の中心であったドイツは、人間の基本的な自由を剥奪し、その思想統制は宗教分野にまで及んだのである。すなわち、ヒットラーはローマ法王とは別途に協約を結び、厳重なゲルマンの原始的宗教思想を導入して民族的宗教を創設したのち、全国の主教のもとにすべての新教を統轄しようとしたので、新教はもちろん、旧教までもこれに強力な反対運動をしたのである。
     *
 そればかりでなく、ヒットラーは六〇〇万のユダヤ人を虐殺した。また大戦当時の日本の軍閥は、韓国の各教会に神道の神棚を強制的に設置させ、キリスト教信徒たちを強制的に引っ張りだして日本の神社に参拝させ、これに応じない信徒たちを投獄、殺傷した。
     *
 さらに、イタリアはサタン側に立ったドイツと一つになって枢軸国家となり、ムッソリーニは国民思想を統合するために、故意に旧教を国教とすることによって、神の復帰摂理に逆行する道を歩いた。これらのことを根拠として、当時の独、日、伊は共にサタン側の国家であると規定されるのである。

     *
 
(4) 天の側とサタン側が各々三大国に対立した理由
詳細は次の項で論述するが、第二次世界大戦は、イエスを中心として成し遂げようとしながらできなかった神の三大祝福を復帰する長成的な蕩減条件を、世界的に探し立てるために起こったのである。ところが、元来神の三大祝福が完成されなかったのは、アダム、エバ、天使長の三存在が堕落してしまったからであった。
     *
 ゆえに、三大祝福の復帰にも、それらを蕩減復帰するための三存在の関与が必要であったので、後のアダムとして来られたイエスと、エバの神性をもって来られた聖霊(前編第七章第四節(一))と天使の三存在が一つになって初めて霊的救いの摂理を成し遂げ、神の三大祝福を霊的に復帰することができたのである。
     *
 したがって、イエスを中心とする三大祝福を復帰するための、長成的な蕩減条件を、世界的に立てるべき第二次世界大戦も、アダム、エバ、天使を象徴する天の側の国家が中心となり、同一の型を備えたサタン側の国家と戦って勝利し、それを蕩減復帰する条件を立てなければならない。ゆえに、これを知っているサタンは、この摂理に先立って、サタン側のアダム、エバ、天使型の国家を先に団結させ、天の側のそのような型の国々に向かって攻勢をかけさせたのである。

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 アメリカは男性国家として天の側のアダムを、イギリスは女性国家として天の側のエバを、フランスは中間的な国家として天の側の天使長を各々象徴し、ドイツは男性国家としてサタン側のアダムを、日本は女性国家としてサタン側のエバを、イタリアは中間的な国家としてサタン側の天使長を各々象徴したのである。第一次世界大戦においての米、英、仏と、ドイツ、オーストリア、トルコも、やはり各々このような類型に編成された、蘇生的な象徴型としての天の側とサタン側の国々であったのである。

     *
 それでは、第二次大戦において、サタン側の国家であるソ連はなぜ天の側に加担するようになったのだろうか。法王を中心とする西欧の中世社会が復帰摂理の目的を達成できない立場に立ったとき、神はこれをカインとアベルの二つの型の人生観の世界に分立して、共産と民主の二つの世界を成し遂げていく摂理をなさらなければならなくなっていた。
     *
 ところが、封建社会や専制君主社会や帝国主義社会は、みなこのような摂理を成し遂げようとする天の側の行く道を妨げると同時に、サタン側が行く究極の道をも遮ることになるので、天の側とサタン側とが手を組んでそれらの社会を打破するようになったのである。
     *
 復帰摂理は時代の流れに従って発展する。したがって、神の復帰摂理を先に達成していく非原理世界も、時代の流れに従ってサタンの目的を指向し発展せざるを得なくなる。ゆえに、サタン世界においても、古びた社会は進歩的な社会をつくるのに障害となるので、それを清算する戦いをするようになるのである。

     *
 このような歴史的な趨勢からして、第二次世界大戦における全体主義は、天の側においてそうであるように、サタン側が行く道においてもまた、やはり障害となったのである。しかるに神は、サタン側が共産主義世界をつくることを、蕩減復帰摂理上、一時的にではあっても許容されなければならなかったので、ソ連が天の側国家と協力して全体主義国家を打倒することにより、共産世界が速やかにそれなりの結実をするようにされたのである。しかし第二次世界大戦が終わるや否や、民主と共産の二つの世界は、水と油のように、はっきり分かれるようになったのであった。

(5) 復帰摂理から見た第二次世界大戦の原因
復帰摂理から見て、第二次世界大戦が起こるようになった内的な原因の第一は、神の三大祝福を復帰する長成的な蕩減条件を世界的に立てようとするところにあった。神はアダムが堕落したことにより、第二次に、後のアダムであるイエスを遣わし、彼を中心として神の三大祝福を完成した世界を復帰なさろうとしたのである。
     *
 しかしイエスはユダヤ人の不信により十字架で亡くなられたので、これはただ霊的にのみ成就されるにとどまった。またサタンは、イエスが成し遂げようとされた世界と類似した型の世界を先につくっていこうとするので、歴史の終末に至っては、必ずサタン側のイエス型の人物を中心として、三大祝福の長成級完成型の非原理世界がつくられるのである。
     *
 したがって、この世界を打って、神を中心としてその祝福を完成した原理世界へ復帰する、長成的な蕩減条件を世界的に立てなければならない。このような目的のために第二次世界大戦が起こるようになったのである。

     *
 このサタン側のイエス型の人物がすなわちヒットラーであった。ゆえにヒットラーは、その思想とか、独身生活とか、彼の悲惨な死とか、また行方不明になった彼の死体などすべての面において、み旨とは方向が反対であるというだけで、その他の点においては、イエスと類似する面を多くもっていたのである。
     *
 したがって、第二次世界大戦を挑発したドイツのヒットラーは、サタン側のアダムの長成級個性完成型の人物として、汎ゲルマン主義を強化することによって子女繁殖の型を成し遂げ、世界制覇の政策を樹立して万物主管の型を実現し、サタンを中心とする三大祝福の長成級完成型の非原理世界をつくったのである。ここにおいて天の側は、第二次世界大戦に勝利することによって、三大祝福を完成した世界を復帰する長成的な蕩減条件を世界的に立てなければならなかったのである。

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 第二に、イエスに対するサタンの第二の試練を、天の側の地上人をして世界的に越えさせるために第二次世界大戦がくるようになる。ゆえに、イエスが受けた試練を中心として見れば、天の側では第二次大戦で勝利して、神の第二祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立てなければならなかった。
     *
 なぜならば、イエスが荒野で第二の試練に勝利して子女復帰の基台を造成されたように、天の側の世界が第二次大戦に勝利することによって、民主主義の長成的な基台を造成し、天の側の人間たちが天の世界的な基盤をつくらなければならなかったからである。

     *
 第三に、主権復帰の長成的な基台を造成するために第二次世界大戦が起こるようになったのである。第一次大戦において天の側が勝利することにより、民主主義世界は蘇生的な基盤をもつようになったが、それと呼応してカイン型の世界をつくってきたサタン側でも、第一次大戦が終わるや否や、帝国主義を克服して共産主義世界の蘇生的な基盤を達成した。
     *
 ゆえに、第二次大戦では、その結果として現れた事実が物語っているように、民主と共産の二つの世界を完全に分離させ、各々その長成的な基盤をつくるようにしなければならなかった。民主主義世界がその長成的な基盤をつくるようになるに従って、天の側の主権復帰はその長成的な基台を造成するようになるのである。

     *
 
(6) 復帰摂理から見た第二次世界大戦の結果
第二次世界大戦が天の側の勝利に終わったので、神の三大祝福を世界的に復帰するための長成的な蕩減条件を立てることができた。イエスに対するサタンの試練を世界的に越える立場から見れば、神の第二祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立て、また民主主義世界が長成的な基盤をつくって、主権復帰の長成的な基台を造成するようになったのである。

     *
 また、蕩減復帰の原理から見て、サタン側のイエス型の人物であるヒットラーとその国が滅び、サタン側の再臨主型の人物であるスターリンを中心とする共産世界が世界的な基盤をもって現れるようになったのは、復活されたイエスを中心として霊的な王国を建設していった時代は過ぎ、再臨されるイエスを中心として、新しい天と新しい地(黙二一・1~7)を建設するときになったことを見せてくれたのである。

     *
 のように、第二次大戦が終わったあとからは再臨摂理の長成期に入るので、多くの信徒たちがイエス再臨に関する啓示を受け、神霊の業(役事)が世界的に起こるようになるのである。これに従って、あらゆる既成宗教は一層混乱し分裂して世俗的に流れ、宗教的生命を失うようになる。これは、最終的な新しい真理により、すべての宗教を一つに統一するための終局的な摂理によって生ずる一つの終末的な現象なのである。

     *
 
(四)第三次世界大戦
(1) 第三次世界大戦は必然的に起こるのであろうか
神は、元来、人間始祖を創造されて、彼に世界を主管せよと祝福されたので(創一・28)、サタンが堕落した人間を中心として先にこの祝福を完成した型の非原理世界をつくっていくのを許さなければならなかった。
     *
 その反面、神は復帰摂理によってそのあとについていきながら、それを天の側へ奪ってくる摂理をしてこられたことは、我々がよく知っている事実である。ゆえに、人類歴史の終末には、サタン側も天の側もみな世界を主管するところまで行かなければならないので、民主と共産の二つの世界が両立するようになる。
     *
 そして、この二つの世界の最終的な分立と統合のために世界大戦が起こるようになるのである。このように、第一次、第二次の大戦は、世界を民主と共産の二つの世界に分立するための戦いであり、このつぎには、この分立された二つの世界を統一するための戦いがなければならないが、これがすなわち第三次世界大戦なのである。第三次世界大戦は必ずなければならないが、その戦いには二つの道がある。

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 第一は、武器でサタン側を屈伏させて統一する道である。しかし、統一されたのちにきたるべき理想世界は、全人類が共に喜ぶ世界でなければならないので、この世界は、敵を武器で外的に屈伏させるだけでは決して実現できない。ゆえに、彼らを再び内的にも屈伏させて衷心から喜べるようにしなければならない。
     *
 そのためには、人間の本性的な欲求を満足させる完全無欠な理念がなくてはならないのである。またこの戦いの第二の道は、武器による外的な戦いをしないで全面的に理念による内的な戦いで、直ちにサタン世界を屈伏させて統一する道である。人間は理性的な存在であるから、結局理性で屈伏し、理性によって一つになるのでなければ、完全な一つの世界となることはできないのである。
     *
 この二つの戦いの中で、いずれの道によって一つの理想世界が成し遂げられるかは人間の責任分担の遂行いかんによって決定される問題である。それでは、この道に必要な新しい世界の理念はどこから現れるのだろうか。

     *
 人類を一つの理想世界へと導くことのできる理念が、カイン型の人生観で立てられた共産主義世界から出てくるはずは絶対にない。なぜなら、カイン型の人生観は人間本性の内的な性向の伸長を遮っているからである。
     *
 ゆえに、この理念は必ずアベル型の人生観で立てられた民主主義世界から出てこなければならないが、しかし、我々がこれまでに知っている民主主義世界のいかなる既存理念も、共産主義の理念を屈伏させることができないということは、既に歴史的に証明されている事実である。したがって、この理念は必ず民主主義世界から、新しく登場してこなければならないのである。
     *
 新しい理念が出てくるためには新しい真理が出なければならないが、この新しい真理がすなわちアベル型の人生観の根本であり、したがって、民主主義の根本となることはもちろんである。今まで、時代の流れに従って、より新しい真理を探求してきた歴史発展過程がそうであったように、このような新しい真理が出てくると、多くの人間が、今まで真理であると信じてきた古いものと互いに衝突するようになるので、今日の民主主義世界そのものも、再びカイン、アベルの二つの立場に分立されてお互いに争うようになるであろう。
     *
 しかし、この新しい真理が民主主義世界で勝利の基盤をもつようになり、更に進んでは共産主義の理念を屈伏させることによって、ついに一つの真理による一つの世界が成し遂げられるのである。

     *
 神がこの新しい真理を下さって、全人類を一つの理念に統合させようとなさる摂理をサタンが先に知り、自分を中心として人類を統合させようと、偽りのものを真であるかのように説いたサタン側の真理がすなわち弁証法的唯物論である。弁証法的唯物論は理論的な根拠を立てて霊的な存在を抹殺しようとする。
     *
 このような唯物論の立場から神は存在しないということを証拠立てようとしたが、結果的にはサタン自身も存在しないという論理を自らも被らざるを得ず、自繩自縛となり自滅の境地に自ら落ちこんでしまったのである。なお、サタンは歴史の終末をよく知っているので自分が滅亡することもよく知っている。
     *
 したがって、結局はサタン自身も尊ばれないときが必ずくることを想定していながら、自分の犠牲を覚悟して神を否定したのがすなわち弁証法的唯物論なのである。ゆえに、民主主義世界でその理論を屈伏させる真理を出さない限り、天の側はいつまでもサタンの理論的な攻勢を免れる道がないのである。ここに、天の側で新しい完成的な真理を宣布しなければならない復帰摂理史的な根拠があるのである。

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(2) 第三次世界大戦に対する摂理的概要
第三次大戦は、復帰摂理が始められてからこのかた最終的に、民主世界によって共産世界を屈伏させ、理想世界を復帰させようとする戦争である。復帰摂理の観点から見れば、第一次大戦までは、天の側の世界では、植民地を世界的に確保して復帰摂理のための政治と経済の版図を拡大することにより、民主主義の蘇生的な基台を立て、第二次大戦では、民主主義の長成的な基台を世界的に樹立して民主主義の版図を強固にした。
     *
 第三次大戦によっては、新しい真理により完全なアベル型の人生観を立てて民主世界の完成的な基台を造成しなければならず、この基台の上で全人類を一つの世界へと導いていかなければならないのである。ゆえに第三次世界大戦は、復帰摂理の歴史の路程で、三段階まで延長しながら天のみ旨を立てようとしつつも、サタンに奪われてきたすべてのものを、歴史の終末期に至って、天の側で横的に蕩減復帰する最終的な戦争なのである。

     *
 
(3) 復帰摂理から見た第三次世界大戦の原因
上述のように、第三次大戦が武力によって終結されるべきか、あるいは理念の戦いで終わるべきかということは、ただ、神の摂理に仕える人間自身の責任分担の遂行いかんによって決定される問題であるが、とにかくどのような道であるにもせよ、世界的な戦いが必ずもう一度なければならないということだけは確かである。

     *
 それでは、復帰摂理から見て、第三次世界大戦が起こるようになる内的な原因は何だろうか。第一に、神の三大祝福を復帰する完成的な蕩減条件を世界的に立てるためである。ユダヤ人たちの不信仰によって、イエスを中心とする復帰摂理は結局霊的に成し遂げられただけであったので、イエスは再び地上に再臨して神の三大祝福を完成した世界を霊肉共に復帰なさらなければならない。
     *
 ゆえに、サタンはまた、イエスが再臨されて達成すべき世界と類似した型の非原理世界を先につくっていくようになる。したがって、歴史の終末には、必ずサタン側の再臨主型の人物を中心として三大祝福を復帰した型の非原理世界がつくられるようになるのである。ゆえに、天の側では、サタンを中心とする世界を打って、神を中心として三大祝福を完成した世界を復帰する完成的な蕩減条件を世界的に立てなければならない。このような目的のために、第三次世界大戦が起こらなければならなくなるのである。

     *
 そのサタン側の再臨主型の人物が正にスターリンであった。したがって、スターリンはサタン側の個性完成型の人物として民主世界に対抗し、農漁民、労働者の大同団結を主唱して子女繁殖の型を成し遂げ、世界赤化の政策を樹立して万物主管の型を実現し、三大祝福を完成した型の共産世界をつくったのである。ゆえに、共産主義世界は、将来きたるべき神を中心とする共生共栄共義主義世界を、サタンが先に成し遂げた、非原理世界であるということを我々は知らなければならないのである。

     *
 二に、イエスに対するサタンの第三次試練を、天の側の地上人をして世界的に越えさせるために第三次大戦がくるようになる。ゆえに、イエスが受けた試練を中心として見れば、天の側では第三次大戦で勝利することによって、神の第三祝福を世界的に復帰できる蕩減条件を立てなければならない。なぜなら、イエスが荒野で第三次試練に勝利して万物に対する主管性復帰の基台を造成したように、天の側が第三次大戦で勝利することによって、被造世界全体に対する人間の主管性を復帰しなければならないからである。

     *
 第三に、主権復帰の完成的な基台を造成するために第三次大戦が起こらなければならない。それは、天の側で第三次大戦に勝利して共産主義世界を壊滅させ、すべての主権を神の前に取り戻して天宙主義の理想世界を実現しなければならないからである。

     *
 
(4) 復帰摂理から見た第三次世界大戦の結果
かつて神は、アダム家庭でカインとアベルを立てて復帰摂理を完成なさろうとした。しかし、カインがアベルを殺すことによって人類罪悪歴史が始まったので、これを蕩減復帰なさるための善悪の分立摂理は、個人的なものから始まり、家庭、氏族、社会、民族、国家的なものを経て、世界的なものへとその範囲を広めてこられたのである。
     *
 神は、復帰摂理の最終的摂理である三次の大戦に勝利することによって、三段階まで延長を繰り返してきた摂理路程の全体を蕩減復帰なさろうとするのである。最初に人間始祖は、サタンの誘惑の言葉に引きずられていったことにより、神に対する心情を失うようになった。このようにして人間は、内的な霊的堕落と外的な肉的堕落によりサタンの血統を受け継いだのである。ゆえに復帰摂理は、堕落人間が神の命のみ言により、神に対する心情を復帰して霊肉共に救いを受け、神の血統を再び受け継いで完成されるのである(後編第二章第三節(三)(2)参照)。

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 三次にわたる世界大戦における天の側の勝利は、このような復帰摂理のすべての基台を完全に蕩減復帰して、人間が堕落してからのちの悠久なる歴史の期間を通じて、神が完成させようとされてきた創造本然の理想世界を実現していくようになるのである。
 
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摂理的同時性ー1

2020年03月21日 17時32分15秒 | 学習

摂理的同時性から見た復帰摂理時代と 復帰摂理延長時代

第四章 摂理的同時性から見た復帰摂理時代と
復帰摂理延長時代

第一節 エジプト苦役時代とローマ帝国迫害時代
第二節 士師時代と教区長制キリスト教会時代
第三節 統一王国時代とキリスト王国時代
第四節 南北王朝分立時代と東西王朝分立時代
第五節 ユダヤ民族捕虜および帰還時代と法王捕虜および帰還時代
第六節 メシヤ降臨準備時代とメシヤ再降臨準備時代
第七節 復帰摂理から見た歴史発展

既に論じたように、復帰摂理の目的は、「メシヤのための基台」を復帰しようとするところにあるので、その摂理が延長されるに従って、その基台を復帰しようとする摂理も反復されていくのである。
     *
 ところが「メシヤのための基台」を造成するためには、第一に、復帰摂理を担当したある中心人物が、ある期間内に、ある条件物を通じて、神のみ旨にかなう象徴献祭をすることによって、「信仰基台」を立てなければならないし、次には「堕落性を脱ぐための蕩減条件」を立てて、神のみ旨にかなう「実体献祭」をすることにより「実体基台」をつくらなければならない。
     *
 それゆえに、「メシヤのための基台」を復帰するために、摂理を反復してきたすべての復帰摂理の路程は、結局、「象徴献祭」と「実体献祭」を蕩減復帰しようとした摂理の反復にほかならなかったのである。したがって、「メシヤのための基台」を復帰するために、摂理路程の反復によって形成されてきたところの摂理的同時性の時代は、結局、先に言及した二つの献祭を蕩減復帰しようとして生じた一連の摂理的な史実を通じて、その同時性が形成されてきたのである。我々はこのような原則のもとで、各摂理時代の性格を調べてみることにしよう。
     *
 ところで、その時代的性格を把握するためには、その摂理を担当した中心民族と、その中心史料とに対する理解が必要である。ゆえに、我々はまず、復帰摂理をなしてきた中心民族と、その史料とを、詳しく調べてみなければならないのである。人類歴史は、数多くの民族史を連結するというかたちで発展してきた。
     *
 ところで、神は、その中で、ある民族を特別に選ばれて、「メシヤのための基台」を造成する典型的な復帰摂理路程を歩ましめることによって、その民族が天倫の中心となり、人類歴史を指導し得るように導いてこられたのである。このような使命のために選ばれた民族を選民という。

     *
 神の選民は、もともと、「メシヤのための家庭的な基台」を立てたアブラハムの子孫によってつくられたのである。それゆえに、アブラハムから始まったところの復帰摂理時代の摂理をなしてきた中心民族は、イスラエルの選民であった。したがって、イスラエル民族史は、この時代における復帰摂理時代の史料となるのである。
     *
 しかし、イスラエル民族は、イエスを十字架にかけて殺害してしまったので、その後は、選民としての資格を喪失したのである。それゆえに、このことを予知されたイエスは、ぶどう園の比喩でそれを暗示され、その結論として「神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう」(マタイ二一・43)と語られたのである。
     *
 そしてまた、パウロも、アブラハムの血統的な子孫であるからといって、彼らがイスラエルになるのではなく、神の約束のみ旨を信奉する民だけがイスラエルになると言ったのであった(ロマ九・6~8)。事実上、イエスから始まった復帰摂理延長時代の摂理をなしてきた中心民族は、イスラエル民族ではなく、彼らがなし得なかった復帰摂理を継承したキリスト教信徒たちであったのである。
     *
 したがって、キリスト教史が、この時代の復帰摂理歴史の中心史料となるのである。このような意味において、旧約時代のアブラハムの血統的な子孫を第一イスラエルというならば、新約時代のキリスト教信徒たちは、第二イスラエルとなるのである。
     *
旧約と新約の聖書を対照してみれば、旧約聖書の律法書(創世記から申命記までの五巻)、歴史書(ヨシュア記からエステル記までの十二巻)、詩文書(ヨブ記から雅歌までの五巻)、預言書(イザヤ書からマラキ書までの十七巻)は、各々新約聖書の福音書、使徒行伝、使徒書簡、ヨハネ黙示録に該当する。
     1

 しかし、旧約聖書の歴史書には、第一イスラエルの二〇〇〇年の歴史が全部記録されているが、新約聖書の使徒行伝には、イエス当時の第二イスラエル(キリスト教信徒)の歴史だけしか記録されていない。それゆえに、新約聖書の使徒行伝が、旧約聖書の歴史書に該当する内容となるためには、イエス以後二〇〇〇年のキリスト教史が、そこに添加されなければならないのである。したがって、キリスト教史は、イエス以後の復帰摂理歴史をつくる史料となるのである。
     *
上記の第一、第二、両イスラエルの歴史を中心として、同時性をもって展開せられた復帰摂理時代と、復帰摂理延長時代の内容をなしている各時代の性格を対照してみることによって、事実上、人類歴史は、生きて働いておられる神のみ手による、一貫した公式的な摂理によってつくられてきたということを、一層明白に理解することができるであろう。
     *

第一節 エジプト苦役時代とローマ帝国迫害時代

ノアからアブラハムまでの四〇〇年のサタン分立期間は、アブラハムの献祭の失敗によって、サタンの侵入を受けたので、この四〇〇年期間を再び蕩減復帰する役割を担ったエジプト苦役時代には、ヤコブとその十二子息を中心とした七十人家族がエジプトに入ってきて、それ以来、その子孫たちは四〇〇年間、エジプト人たちによって悲惨な虐待を受けたのであった。
     *
 この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するローマ帝国迫害時代においても、イスラエルの選民たちが、イエスを生きた供え物としてささげる献祭に失敗し、彼を十字架に引き渡すことによって、サタンの侵入を受けるようになったので、メシヤ降臨準備時代四〇〇年のサタン分立期間を蕩減復帰するために、イエスを中心とする十二弟子と七十人の門徒、そうして、キリスト教信徒たちが、ローマ帝国において、四〇〇年の間、惨めな迫害を受けなければならなかったのである。
     *
エジプト苦役時代においては、第一のイスラエル選民たちは、割礼を施し(出エ四・25)、犠牲をささげ(出エ五・3)、安息日を守りながら(出エ一六・23)、アブラハムの献祭の失敗によって侵入したサタンを分立する生活をしたのである。
     *
 それゆえに、ローマ帝国迫害時代にも、第二イスラエル選民たちは、聖餐式と洗礼を施し、信徒自身をいけにえの供え物としてささげ、安息日を守ることにより、イエスを十字架に引き渡すことによって侵入したサタンを分立する生活をしなければならなかったのである。
     *
エジプト苦役時代における四〇〇年間の苦役が終わったのち、モーセは、三大奇跡と十災禍の権威をもって、パロを屈伏させ、第一イスラエルの選民を率いてエジプトを出発し、カナンの地に向かったのであった。
     *
 同様に、ローマ帝国迫害時代においても、第二イスラエルの選民たちに対する四世紀間の迫害が終わったのち、イエスは、心霊的な奇跡と権威とをもって、数多くの信徒たちを呼び起こされ、また、コンスタンチヌス大帝を感化させて、三一三年には、キリスト教を公認せしめ、つづいて、三九二年、テオドシウス一世のときに至っては、かくも甚だしく迫害してきたキリスト教を、国教として制定せしめられたのである。
     *
 このようにして、キリスト教信徒たちは、サタンの世界から、霊的にカナンに復帰するようになったのであった。ところで、律法による外的な蕩減条件をもって摂理してこられた旧約時代においては、モーセが、外的な奇跡と権威でパロを屈伏させたのであるが、新約時代は、み言による内的な蕩減条件をもって摂理される時代であるので、心霊的な感化をもって摂理されたのである。
     2
 エジプト苦役時代が終わったのち、モーセは、シナイ山で十戒とみ言を受けることによって、旧約聖書の中心を立て、また、石板と幕屋と契約の箱を受けることによって、第一イスラエル選民たちが、メシヤを迎えるための神のみ旨を立てていくようになったのである。
     *
 これと同じく、第二イスラエル選民たちは、ローマ帝国迫害時代が終わったのちに、旧約時代の十戒と幕屋理想とを霊的に成就するためのみ言をもって、使徒たちの記録を集め、新約聖書を決定し、そのみ言を中心とする教会をつくって、再臨主を迎えるための基台を広めていくようになったのである。
     *
 イエス以後においては、イエスと聖霊とが、直接、信徒たちを導かれたので、それ以前の摂理時代のように、ある一人の人間を神に代わらせ、全体的な摂理の中心人物として立てられたのではなかった。
     *

第二節 士師時代と教区長制キリスト教会時代

モーセの使命を継承したヨシュアが、イスラエルの選民を導いてカナンの地に入ったのち、オテニエル士師をはじめとした、十二士師のあとに引き続いて、サムソン、エリ、サムエルに至るまで、合わせて十五士師が、イスラエルを指導した四〇〇年間を、士師時代というのである。彼ら士師たちは、次の時代において分担された預言者と祭司長と国王の使命を、すべて兼任していたのであった。
     *
 それゆえに、ユダヤ教の封建社会は、このときから始まったのである。このような士師時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する時代である新約時代の教区長制のキリスト教会時代においても、教区長たちは、キリスト教信徒を指導するという面において、士師のそれに該当する職分を帯びていたのである。
     *
 イエス以前の時代では、第一イスラエルを中心として、霊肉合わせて「メシヤのための基台」を造成してきたので、政治と経済と宗教とが、一人の指導者のもとに統率されていたのである。しかし、イエス以後の路程においては、既に造成された「メシヤのための霊的基台」の上で、霊的な「王の王」であられるイエスを中心として、霊的な王国を建設するようになったので、新約時代における第二イスラエルからなるキリスト教界は、復活されたイエスを王として信奉する、一つの国土のない霊的な王国であった。
     *
 教区長は、このような霊的な王国建設において、士師と同じ使命をもっていたので、ときには、預言者にもならなければならず、あるときには、祭司長の役割を、そして、またあるときには、教区を統治する国王のような使命をも果たさなければならなかったのである。このようなわけで、キリスト教の封建社会は、このときから始まったのであった。
     *
 士師時代においては、サタンの世界であるエジプトから出発したイスラエル民族が、みな荒野で倒れてしまい、そこで生まれた彼らの子孫たちだけが、エジプト以来たった二人の生き残りであるヨシュアとカレブの導きに従い、カナンの地に入ってのち、各部族に分配された新しい土地で、士師を中心として新しい選民を形成し、イスラエル封建社会の土台を築きあげたのである。
     *
 これと同じく、教区長制キリスト教会時代においても、キリスト教は、サタンの世界であるローマ帝国から解放されてのち、四世紀に、蒙古族の一派であるフン族の西侵により西ヨーロッパに移動してきたゲルマン民族に、福音を伝えることによって、西ヨーロッパの新しい土地で、ゲルマン民族を新しい選民として立て、キリスト教封建社会の土台を形成したのであった。
     3
 エジプトを出発したイスラエル民族のカナン復帰路程において「実体基台」をつくるために、幕屋を、メシヤの象徴体であると同時に、アベルを代理する条件物として立てたという事実は、既に、モーセを中心とした復帰摂理で詳しく論じたはずである。ゆえに、士師時代におけるイスラエル民族は、士師たちの指導に従って、幕屋から下されるみ旨のみを信奉しなければならなかったのであるが、彼らはカナンの七族を滅ぼさないで、そのままにしておいたので、彼らから悪習を習い、偶像を崇拝するようになってしまい、その結果、彼らの信仰に、大きな混乱を引き起こしたのである。
     *
 これと同じく、教区長制キリスト教会時代においても、キリスト教信徒たちは、教区長の指導に従い、メシヤの形象体であると同時に、アベルを代理する条件物である、教会のみ旨のみを信奉しなければならなかったのであるが、彼らはゲルマン民族から異教の影響を受けたために、彼らの信仰に、大きな混乱を引き起こすようになったのである。
     *

第三節 統一王国時代とキリスト王国時代

統一王国時代に入るに従って、士師が第一イスラエルを指導した時代は過ぎさり、神の命令を直接受ける預言者と、幕屋と神殿を信奉する祭司長と、そして、国民を統治する国王が鼎立して、復帰摂理の目的を中心とする、各自の指導的な使命を遂行しなければならなくなった。
     *
 それゆえに、この時代を実体的な同時性をもって蕩減復帰するキリスト王国時代においても、教区長が第二イスラエルを指導してきた時代は過ぎさり、預言者に該当する修道院と、祭司長に該当する法王と、そして国民を統治する国王とが、復帰摂理の目的を中心として、第二イスラエルを指導していかなければならなくなったのである。当時のキリスト教は、エルサレム、アンテオケ、アレクサンドリヤ、コンスタンチノープル、ローマなどの五大教区に分立していた。
     *
 その中で、最も優位におかれていたローマ教区長は、他の教区を統轄する位置におかれていたので、特に彼を法王と呼ぶようになったのである。
イスラエル民族が、エジプトから解放されてのちのモーセの幕屋理想は、統一王国に至って初めて、国王を中心とする神殿理想として現れ、王国をつくったのであるが、これは、将来イエスが、実体神殿として来られて王の王となられ、王国を建設するということに対応する形象的路程であった(イザヤ九・6)。
     *
 それと同じく、キリスト王国時代においても、キリスト教信徒たちが、ローマ帝国から解放されたとき、聖アウグスチヌスによって、そのキリスト教理想として著述されたところの「神国論」が、このときに至って、チャールズ大帝によるキリスト王国(チャールズ大帝のときからのフランク王国)として現れたのであるが、これは、将来イエスが王の王として再臨せられ、王国を建設するということに対応する形象的路程であったのである。
     *
 それゆえに、この時代には、国王と法王とが神のみ旨を中心として完全に一つになり、キリスト教理想を実現することにより、イエス以後、「メシヤのための霊的基台」の上で、法王を中心としてつくってきた国土のない霊的王国と、国王を中心とした実体的な王国とが、キリスト教理想を中心として一つとならなければならなかったのである。もし、当時、そのようになったならば、宗教と政治と経済とは相一致して、「再臨されるメシヤのための基台」をつくり得たはずであった。
     *
 統一王国時代において、「信仰基台」を復帰する中心人物は、預言者を通じて示される神のみ言を実現していく役割をもった国王であった。預言者や、祭司長は、神のみ言を代理する者であるから、その時代におけるアベルの立場に立つようになる。
     *
 しかし、復帰摂理路程において、彼は、あくまでも霊界を代理して、天使長の立場から実体の世界を復帰していかなければならないので、国王が立ち得る霊的な基台を準備し、王を祝福して立たせたのちには、彼の前でカインの立場に立たなければならないのである。
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 したがって、国王は、預言者を通じて下されるみ言によって国家を統治しなければならないのであり、また、預言者は、一人の国民の立場で国王に従わなければならないのである。それゆえに、この時代において、「信仰基台」を復帰する中心人物は、国王であった。事実、アブラハムから八〇〇年が経過したときに、預言者サムエルは、神の命を受けてサウルに油を注いで祝福することにより、彼を第一イスラエル選民の最初の王として立てたのである(サムエル上八・19~22、同一〇・1~24)。
     *
 サウル王が、士師四〇〇年の基台の上で、彼の在位四十年を、神のみ旨にかなうように立てられたならば、彼は、エジプト苦役四〇〇年とモーセのパロ宮中四十年とを、共に蕩減復帰した立場に立つことができ、したがって彼は、「四十日サタン分立基台」の上で、「信仰基台」を立てることができたはずであった。
     *
 すなわち、サウル王が、この基台の上で、メシヤの形象体である神殿を建設し、それを信奉したならば、彼は、モーセが第一次民族的カナン復帰に失敗しないで成功し、神殿を建設してそれを信奉したのと同様の立場に立つことができたのである。そして、イスラエルの選民たちが、サウル王を中心とするその「信仰基台」の上で、神殿を信奉していくこの国王を絶対的に信じ従ったならば、彼らは「実体基台」を造成して「メシヤのための基台」をつくり得たはずであった。
     *
 ところが、サウル王は、預言者サムエルを通して与えられた、神の命令に逆らったので(サムエル上一五・1~23)、神殿を建設することができなかったのである。このように、神殿を建設することができなかったサウル王は、すなわち、第一次民族的カナン復帰に失敗したモーセのような立場におかれたのであった。
     *
 そして、サウル王を中心とする復帰摂理も、モーセのときと同じように、ダビデ王の四十年を経て、ソロモン王の四十年に至り、初めてその「信仰基台」が造成されて神殿を建設することができたのである。
あたかも、アブラハムの目的が、イサクを経て、ヤコブのときに成就されたように、アブラハムの立場にあったサウル王の神殿建設の目的は、ダビデ王を経て、ソロモン王のときに成就されたのである。
     *
 しかし、その後、ソロモン王は淫乱に溺れて、実体献祭のためのアベルの立場を離れたので、「実体基台」はつくることができなかったのである。したがって、統一王国時代に成就されるべきであった「メシヤのための基台」は造成されなかった。
     *
キリスト王国時代においては、統一王国時代のすべてのものを、実体的な同時性をもって蕩減復帰しなければならなかったので、この時代の「信仰基台」を蕩減復帰する中心人物は、修道院と法王とのキリスト教理念を実現しなければならない国王であった。
     *
 したがって、法王は、統一王国時代における預言者の目的を信奉する祭司長の立場におかれていたので、彼は、国王がキリスト教理想を実現していくことのできる霊的な基台を準備し、彼を祝福して、王として立てたのちには、一人の国民の立場から、彼は従わなければならなかったし、また、国王は、法王の理想を奉じて、国民を統治しなければならなかったのである。
     *
 事実上、このような摂理の目的のために、法王レオ三世は、紀元八〇〇年に、チャールズ大帝を祝福して、金の王冠をかぶらせることにより、彼を第二イスラエル選民の最初の王として立てたのであった。チャールズ大帝は、士師時代四〇〇年を実体的な同時性をもって蕩減復帰した、教区長制キリスト教会時代四〇〇年の基台の上に立っていたので、サウル王のように、「四十日サタン分立基台」の上に立つようになったのであった。
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 したがって、チャールズ大帝が、この基台の上で、キリストのみ言を信奉し、キリスト教理想を実現していったならば、この時代の「信仰基台」は造成されるようになっていたのである。事実、チャールズ大帝は、法王から祝福を受け、王位に上ることによって、この基台をつくったのであった。
     *
 それゆえに、当時の第二イスラエルが、このような立場にいた国王を、絶対的に信じ、彼に従ったならば、そのときに「実体基台」は立てられたはずであり、したがって「再臨されるメシヤのための基台」も、成就されるはずであったのである。
     *
 もし、このようになったならば、「メシヤのための霊的基台」の上で、法王を中心として立てられた霊的な王国と、国王を中心とした実体的な王国とが一つとなり、その基台の上にイエスが再び来られて、メシヤ王国をつくることができたはずである。
     *
 ところが、国王が神のみ旨を信奉し得ず、「実体献祭」をするための位置を離れてしまったので、実体基台は造成されず、したがって、「再臨されるメシヤのための基台」もつくられなかったのである。
     *

第四節 南北王朝分立時代と東西王朝分立時代

サウルによって始まった統一王国時代は、ダビデ王を経て、ソロモン王に至り、その際、彼が王妃たちの信じていた異邦人の神々に香を焚き犠牲をささげた結果(列王上一一・5~9)、この三代をもって、カインの立場であった十部族を中心とする北朝イスラエルと、アベルの立場であった二部族を中心とする南朝ユダに、分立されてしまった。そして、南北王朝分立時代がくるようになったのである。
     *
 これと同じように、チャールズ大帝によって始まったキリスト王国も、三代目に至って、孫たち三人の間に紛争が起こり、そのためこの立場は東、西両フランクとイタリアに三分されたのである。しかし、イタリアは東フランクの支配を受けたので、実際においては、東、西フランク王国に両分されたのと同様であった。
     *
 また、東フランクは、オットー一世によって大いに興隆し、神聖ローマ帝国と呼ばれるようになり、彼はローマ皇帝の名をもって西ヨーロッパを統治し、政教二権を確保しようとしたのであった。このようにして、東フランクは、西フランクに対してアベルの立場に立つようになったのである。
     *
ソロモン朝の亡命客であったヤラベアムを中心とした北朝イスラエルは、二六〇年の間に十九王が代わった。彼らは互いに殺害しあい、王室が九度も変革され、列王の中には、善良な王が一人もいなかったのである。
     *
 したがって、神は南朝ユダから遣わされた預言者エリヤを通して、カルメル山の祭壇に火をおこさせることによって、バアルとアシラの預言者八五〇名を滅ぼされ(列王上一八・19~40)、そのほかにも、エリシャ、ヨナ、ホセア、アモスのような預言者たちを遣わされて、命懸けの伝道をするように摂理されたのであった。
     *
 しかし、北朝イスラエルは依然として邪神を崇拝しつづけて、悔い改めることがなかったので、神は、彼らをアッシリヤに引き渡して滅亡させることにより、永遠に選民としての資格を失うように摂理されたのである(列王下一七・17~23)。
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 また、ソロモンの息子であるレハベアムを中心とした南朝ユダは、ダビデよりゼデキアに至るまで、正統一系を通しつづけ、三九四年間にわたる二十人の王の中には、善良な王が多かったのであるが、ヨシヤ王以後は、悪い王たちが続出し、北朝の影響を受けて偶像崇拝にふけるようになったので、これらもまた、バビロニアの捕虜となってしまったのである。
     *
このように、南北王朝分立時代において、イスラエル民族が、神殿理想に相反する立場に立つたびに、神は、継続して、四大預言者と十二小預言者を遣わされて、彼らを励まし、内的な刷新運動を起こされたのである。しかし、彼らは、預言者たちの勧告に耳を傾けず、悔い改めなかったので、神は、彼らをエジプト、カルデヤ、シリヤ、アッシリヤ、バビロニアなどの異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をされたのであった。
     *
 この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する東西王朝分立時代においても、同じく、法王庁が腐敗して、トマス・アクィナス、聖フランシスなど、修道院の人物たちが彼らに勧告して、内的な刷新運動を起こしたのである。しかし、彼らもまた悔い改めず、堕落と腐敗に陥ったため、神は彼らを異邦人たちに引き渡して、外的な粛清の摂理をなさったのであり、これがすなわち、十字軍戦争であった。
     *
 エルサレムの聖地が、カリフ帝国に属していたときには、キリスト教の巡礼者たちが、手厚い待遇を受けたのであるが、カリフ帝国が滅んでのち、セルジュク・トルコがエルサレムを占領したあとには、彼らは巡礼者たちを虐待したので、これに憤慨した歴代の法王たちは、この聖地を回復するために、十字軍戦争を起こしたのである。一〇九六年に起こった十字軍は、その後約二〇〇年間にわたって、七回の遠征を行ったのであるが、彼らは敗戦を繰り返すだけで終わってしまった。
     *
南北王朝分立時代において、北朝イスラエル王国と南朝ユダ王国の国民たちが、みな、異邦人の捕虜となって連れていかれたので、イスラエルの君主社会は、崩壊してしまった。これと同じく、東西王朝分立時代においても、十字軍が異教徒に敗れ、法王権が、その権威と信望とを完全に失墜するにつれて、国民精神は、その中心を失ってしまったのである。
     *
 それだけでなく、封建社会を維持していた領主と騎士たちが、多く戦死してしまったので、彼らは政治的な基盤を失ってしまい、また、度重なる敗戦により、莫大な戦費が消耗されたので、彼らは甚だしい経済的困窮に陥ってしまったのである。ここにおいてキリスト教君主社会は、ついに崩壊しはじめたのである。
     *

第五節 ユダヤ民族捕虜および帰還時代と
法王捕虜および帰還時代

ユダヤ民族は不信仰に陥って、一向に悔い改めなかったので、神殿理想を復帰することができず、その結果、神は再びこの目的を成就されるために、ちょうど、アブラハムの献祭失敗を蕩減復帰するために、イスラエルをして、サタン世界であるエジプトに入らせ、そこで苦役をするようにされたと同様に、ユダヤ民族も、サタン世界であるバビロンに捕虜として連れていかれ、苦役をするように摂理されたのである。
     *
 これと同じく、既に論じたように、神がキリスト王国時代を立てられたのは、法王と国王を中心として、「再臨のメシヤのための基台」を造成され、その基台の上で、メシヤとして再臨なさる王の王に、その国と王位を引き渡すことによって、メシヤ王国を建設するためであった(イザヤ九・6、ルカ一・33)。
     *
 しかるに、国王と、「実体基台」の中心人物として立てるための霊的な基台を造成しなければならなかった法王たちが、あくまで悔い改めなかったので、彼らは「再臨のメシヤのための基台」をつくることができなかったのである。ここにおいて、神は、この基台を復帰するための新しい摂理をされるために、法王が捕虜となって苦役を受けるようにされたのであった。
     *
 前に、エホヤキム王をはじめダニエルその他の王族、そして、政府の大臣たち、官吏と工匠など、数多くのユダヤ人たちが、バビロニア王ネブカデネザルによって、捕虜として捕らわれていった七十年の期間があり(エレミヤ三九・1~10、列王下二四、二五)、ペルシャが、バビロニアを滅ぼし、クロス王が詔書を発布して彼らを解放したのち、三次にわたって故郷に帰還し、預言者マラキを中心として、メシヤのために準備する民族として立てられるときまでの一四〇年の期間があったのである。
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 この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰する、法王捕虜および帰還時代においても、やはりこのような路程を歩まなければならなかったのである。
法王と僧侶たちは、彼らの不道徳のゆえに、国民の信望を失うようになったので、法王の権威は地に落ちてしまった。また、十字軍戦争以後、封建制度が崩壊して近代国家が成立してからは、王権が伸張していき、法王と国王との衝突が激化していったのである。
     *
 そして、法王ボニファキウス八世は、フランス王フィリップ四世と衝突して、一時、彼によって禁固されるというところにまで至った。その後、一代を経て、一三〇五年に法王として選出されたクレメンス五世は、一三〇九年に、法王庁をローマから南フランスのアヴィニョンに移し、そこにおいて七十年間、歴代の法王たちはフランス王の拘束を受けながら、捕虜のような生活をするようになったのである。その後、法王グレゴリー十一世は一三七七年に至ってローマに帰還した。
     *
 彼が死んだのち、枢機卿たちは、イタリアのバリの監督ウルバヌス六世を、法王として選出したのであった。しかし、フランス人が多数であった枢機卿たちは、間もなくウルバヌスを排斥して、別に、クレメンス七世を法王に選出し、南フランスのアヴィニョンに、また一つの法王庁を立てるようになった。この分離は次の世代に入り、改革会議において解決されるときまで継続されたのである。
     *
 すなわち、一四〇九年に枢機卿たちは、イタリアのピサにおいて会議を開き、分離されてきた二人の法王をみな廃位させ、アレクサンドリア五世を正当な法王として任命したのである。しかし廃位された二人の法王がこれに服さなかったので、一時は、三人の法王が鼎立するようになった。その後、再び監督と大監督のほかに、神学者、王侯、使節など、多くの参席者をもって、コンスタンツ大会を開催、三人の法王を一斉に廃位させ、再び、マルチヌス五世を法王に選出したのである。
     *
 このようにして、法王選出の権限を枢機卿たちから奪い、ローマ教会の至上権を主張してきたこの会議にその権限が移されてしまったのである(一四一八年)。この会議は、その後、スイスのバーゼルにおいて、ローマ教会の機構を立憲君主体にする目的をもって開催された。ところが、法王は、会衆がこのように会議を牛耳るのを 快く思わず、この会議に参席しなかったばかりでなく、それを流会させようとまでたくらんだのである。
     *
 これに対し法王党以外の議員たちは開会を強行したのであるが、結局一四四九年に至って、自ら解散してしまった。このようにして、ローマ教会内に立憲君主体を樹立しようとした計画は、水泡に帰してしまい、その結果一三〇九年以来、失った法王専制の機能を回復したのである。十四世紀の諸会議の指導者たちは、平信徒たちを代表として立て、この会議に最高の権限を与えることによって、腐敗した法王と僧侶たちを除去しようとした。
     *
 ところが、法王権は彼らを幽閉してしまったので、前回と同じ立場に立ち戻ってしまったばかりでなく、ウィクリフとフスのような改革精神を抱いていた指導者を、極刑に処するようにまでなったので、このときからプロテスタントの 宗教改革運動が芽を吹きだしはじめたのである。
     *
 このように法王が一三〇九年から七十年間、南フランスのアヴィニョンに幽閉されたのち、三人の法王に分立される路程を経て、再び、ローマ教会を中心とする法王専制に復帰し、その後一五一七年にルターを中心として宗教改革が起こるときまでの約二一〇年間は、ユダヤ民族がバビロンに七十年間捕虜として連行されたのち、三次にわたってエルサレムに帰還し、その後マラキを中心として政教の刷新を起こすようになったときまでの二一〇年間を実体的な同時性をもって蕩減復帰する期間であったのである。
     *

第六節 メシヤ降臨準備時代とメシヤ再降臨準備時代

 イスラエル民族は、バビロンの捕虜の立場から、エルサレムに戻ってのち、メシヤ降臨準備時代の四〇〇年を経て、イエスを迎えたのであった。ゆえに、これを蕩減復帰するためには、キリスト教信徒たちも、法王がアヴィニョン捕虜生活からローマに帰還してのち、メシヤ再降臨準備時代の四〇〇年を経て、初めて再臨なさるイエスを迎え得るようになっているのである。
     *
 四十日サタン分立期間をもって「信仰基台」を復帰するための摂理が、継続的なサタンの侵入によって延長を重ねてきた、アダム以後四〇〇〇年の復帰摂理歴史の縦的な蕩減条件を、この歴史の最終的な一時代において、横的に蕩減復帰するために、メシヤ降臨準備時代があったのである。
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 それゆえに、この時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するためには、アダムから始まる六〇〇〇年の復帰摂理歴史の縦的な全蕩減条件を、この歴史の最終的な一時代において、横的に蕩減復帰するためのメシヤ再降臨準備時代がなければならない。
     *
 バビロンの捕虜生活から帰還してきたイスラエル民族は、ネブカデネザル王によって破壊された神殿を新築し、また、マラキ預言者の指導によって、邪神を崇拝してきた過去の罪を悔い改めながら、律法を研究し、信仰の刷新運動を起こすことによって「信仰基台」を復帰してきたのである。
     *
 これと同じく、法王がローマに帰還したのちの中世におけるキリスト教信徒たちは、ルターなどを中心として、宗教の改革運動を起こし、中世暗黒時代の暗雲を貫いて、新しい福音の光に従い、信仰の新しい道を開拓することによって、「信仰基台」を復帰してきたのであった。
     *
 ヤコブがハランからカナンに帰還し、エジプトに入るまでの約四十年の準備期間を、形象的な同時性をもって蕩減復帰する時代が、メシヤ降臨準備時代であった。そして、この時代を再び実体的な同時性をもって蕩減復帰する時代が、メシヤ再降臨準備時代となるのである。
     *
 したがって、この時代のすべてのキリスト教信徒たちは、あたかも、エジプトでヨセフに会うときまでのヤコブの家庭、または、イエスを迎えるときまでのイスラエル民族のように、あらゆる波乱と苦難の道を歩まなければならないのである。復帰摂理時代は、律法と祭典などの外的な条件をもって、神に対する信仰を立ててきた時代であったので、メシヤ降臨準備時代における第一イスラエルは、ペルシャ、ギリシャ、エジプト、シリヤ、ローマなどの異邦の属国とされて、外的な苦難の道を歩まなければならなかった。
     *
 しかし、復帰摂理延長時代はイエスのみ言を中心として、祈りと信仰の内的条件をもって、神に対する信仰を立ててきた時代であるがゆえに、メシヤ再降臨準備時代における第二イスラエルは、内的な受難の道を歩まなければならないのである。
     *
 すなわち、この時代においては、文芸復興の主導理念である人文主義と、これに続いて起こる啓蒙思想、そして、宗教改革によって叫ばれるようになった、信仰の自由などによる影響のために、宗教と思想に一大混乱をきたすようになり、キリスト教信徒たちは、言語に絶するほどの内的な試練を受けるようになるのである。
     *
このように、イエス降臨のための四〇〇年の準備時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するために、彼の再臨のための四〇〇年の準備期間があったのであるが、我々は、ここで、メシヤを迎えるための準備期間であるこの二つの時代において、その時代的な背景と環境とが、各々どのようなかたちで造成されてきたかということについて、調べてみることにしよう。
     *
初臨のときには、神がその選民のために、メシヤが降臨される四三〇年前に、預言者マラキを遣わされて、メシヤが降臨されることを預言なさるとともに、一方においては、ユダヤ教を刷新して、メシヤを迎え得る選民としての準備をするようにされたのであった。
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 また、異邦人たちに対しては、これとほとんど同時代に、インドの釈迦牟尼(前五六五~四八五)によって印度教を発展せしめ、仏道の新しい土台を開拓するように道を運ばれたし、ギリシャでは、ソクラテス(前四七〇~三九九)の手でギリシャ文化時代を開拓せしめ、また、東洋においては、孔子(前五五二~四七九)によって儒教をもって人倫道徳を立てるようにされるなど、各々、その地方とその民族に適応する文化と宗教を立てられ、将来来られるメシヤを迎えるために必要な、心霊的準備をするように摂理されたのである。
     *
 それゆえに、イエスはこのように準備された基台の上に来られ、キリスト教を中心としてユダヤ教(Hebraism)を整理し、ギリシャ文化(Hellenism)、および、仏教(Buddhism)と儒教(Confucianism)などの宗教を包摂することによって、その宗教と文化の全域を、一つのキリスト教文化圏内に統合しようとされたのである。
     *
イエスの初臨を前にして、メシヤ降臨に対する準備をするために摂理されたその環境造成の時代を、実体的な同時性をもって蕩減復帰するためにきた時代が、文芸復興時代であった。それゆえに、文芸復興時代は、メシヤ再降臨のためのその時代的な背景と環境とを造成するための時代であったのである。
     *
 したがって、今日において、我々が見ているような、政治、経済、文化、科学など、あらゆる面における飛躍的な発展は、みなこの文芸復興時代から急激に始まって、再臨されるイエスを迎えることができる今日の時代的な背景と環境とを、成熟させてきたのである。
     *
 すなわち、イエスのときには、ローマ帝国の勃興により、地中海を中心として形成された広大な政治的版図と、四方八方に発達した交通の便、そして、ギリシャ語を中心として形成された広範なる文化的版図などによって、キリストを中心とするイスラエル、イスラエルを中心とするローマ、ローマを中心とする世界へと、メシヤ思想が急速に拡張し得る平面的な基台が、既に造成されていたのであった。
     *
 これと同じく、彼の再臨のときに当たる今日においても、列強の興隆により、自由を基盤とした民主主義の政治的版図が全世界的に広められているのであり、交通および通信の飛躍的な発達によって、東西の距離は極度に短縮され、また、言語と文化とが世界的に交流しあい、メシヤ再降臨のための思潮が、自由にかつ迅速に、全人類の胸底に流れこむことができるように、既に、その平面的版図が完全に造成されているのである。
     *
 したがって、メシヤが再臨されれば、彼の真理と思想を急速度に伝播して、短時日の内に世界化することによって、これがそのまま適切な平面的基台になるであろうということはいうまでもない。
     *

第七節 復帰摂理から見た歴史発展

(一)復帰摂理時代における歴史発展
(二)復帰摂理延長時代における歴史発展

 創造原理で、既に論じたように、地上天国は、完成した人間一人の姿と同じ世界である。したがって、堕落した世界は、堕落した人間一人の姿に似ているということができる。ゆえに、我々は堕落した人間一人の生活を調べてみることによって、人類罪悪史の全体的な動向を、のぞき見ることができるといわなければならない。
     *
堕落した人間には、善を指向する本心と、この本心の命令に逆らって悪を指向する邪心とがあって、この二つの心が常に闘っているということを、我々は否定することができない。したがってまた、本心の命令に従う善行と邪心の命令に従う悪行とが、我々の一つの体の内にあって、互いに衝突しあっているという事実をも、我々は否定することができない。
     *
 このように、それ自身の内部で闘争を行っている各個体が、横的に連結して生活を営んでいるのが社会なので、そこでもまた、闘争が起こらざるを得ないようになっているのである。さらに、このように闘争によってもつれあっている社会生活が、時間の流れとともに、縦的に変転してきたのが、人類の歴史なので、この歴史は、必然的に闘争と戦争とをもって連係されるものとならざるを得ないのである。
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摂理的同時性ー2

2020年03月21日 17時30分43秒 | 学習

 しかし、人間は、本心と邪心との執拗なる闘いの中で、悪を退け、善に従おうとして不断に努力をしている。したがって、その行動も、次第に悪行を捨て、善を行うという方向を取るようになるのである。堕落した人間にも、このように善を指向する本心の作用があるので、人間は、神の復帰摂理に対応して、善の目的を成就していくようになっている。
     *
したがって、このような人間たちによってつくられてきた歴史は、善悪が交錯する渦の中にありながら、大局的には、悪を退け、善を指向してきたというのが事実なのである。それゆえに、歴史が指向する終局的な世界は、すなわち善の目的が成就された天国でなければならないのである。
     *
 ゆえに、闘争や戦争は、善の目的を達成するために善と悪とを分立してきた一つの過程的な現象でもあるという事実を、我々は知らなければならない。そうであるから、闘いの結果が、一時的には悪の勝利に帰したとしても、結局は、その悪の結果によって、歴史は、より大きい善の目的を成就していく摂理路程に取って代わられるようになるのである。
     *
 このような見地からして、我々は人類歴史が、神の復帰摂理によって、絶えず善と悪との分立を繰り返しながら善を指向して発展してきたという事実を知ることができるのである。
ところが、人間がサタンと血縁関係を結んだことにより、サタンは、堕落した人間を中心として、将来、神がつくろうとなさるものと同じ型の世界を、先立ってつくってきたので、結果的に、人類歴史は、原理型の非原理世界を形成してきたのであった。
     *
 したがって、人類歴史の終末においては、神が地上天国を復帰される前に、サタンを中心とする、それと同じ型の非原理世界が、先につくられるようになっているのである。これが、すなわち、共産主義世界なのである。
     *
 サタンは、このように、神が成就されようとなさる目的を、常に先立って、非原理的に成就してきているので、復帰摂理路程においては、真なるものが現れる前に、必ず偽なるものが先に、真なるものと同じ姿をもって現れるようになるのである。キリストに先立って、偽キリストが現れるということを預言された聖書のみ言は、このような原理によってのみ理解することができるのである。
     *

(一)復帰摂理時代における歴史発展
堕落した人間たちによって、最初につくられた社会は原始共同社会であった。この社会は、サタンを中心としてお互いに足らないものを補いあう社会のことで、これは元来、神が完成した人間を中心としてつくろうとなさった共生共栄共義主義社会を、サタンが先立って非原理的につくったものであった。
     *
 もし、この社会に、闘争も分裂もなかったならば、この社会は、そのまま永続するはずであるから、神の復帰摂理は成就されるはずがないのである。
しかし、前に説明したように、堕落人間は、その個体において、二つの心が互いに相争い、また、この心の争いが行動として現れて、個体と個体とが互いに闘いあうようになるので、原始共同社会を、そのまま平和的に維持することはできない。
     *
 のみならず、この社会が、互いに、経済的な利害関係を異にする社会へと発展するにつれて、この闘いがより大きく展開されてきたということは、いうまでもないことである。このように、神の復帰摂理に対応しようとする人間の本心の作用によって、サタンを中心として造成された原始共同社会には、最初から闘いによる分裂が生じていたのであった。
     *
 サタンを中心とする人類罪悪史の発展過程を見れば、原始共同社会において、分裂した人間を中心として氏族社会が形成されたのであり、また、それが更に成長して、封建社会をつくったのち、その版図と主権を更に一層大きく拡張して、君主社会をつくってきたのであった。
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 これは、将来、神がこの罪悪世界から善なる個体を呼び給い、彼らを中心として善なる氏族社会を立て、更に、善なる封建社会をつくったのち、善なる王国を建設することによって、メシヤを迎えるための善なる版図と主権を樹立しようとされたので、サタンがこれを先に知ってそのような型の路程を歩んできたのである。
     *
 事実上、神はこのような罪悪世界から、善を中心とするアブラハムを呼びだされて、彼を通じて、神のみ旨を信奉し得る子女を繁殖することによって、イスラエルの氏族社会を立てられたのであった。その後、アブラハムの子孫たちは、エジプトに入って、氏族から部族へと発展してきたのであり、彼らがカナンに戻ってきたのちには、士師時代をつくったのであるが、この士師時代を中心として形成された社会が、すなわち、イスラエルの封建社会であったのである。
     *
 では、この社会を、どうして封建社会というのであろうか。封建社会の特性は、奉仕と服従とを前提とする主従関係による政治制度と、封土を中心とする封鎖的な自給自足の経済体制にあるのである。士師時代は、とりもなおさず、このような性格の社会であった。すなわち、カナンの地に戻ってきたイスラエル民族の各部族には、土地が分配され、その部族たちは、大領主と同じ位置におかれていた士師を中心として封建社会を形成したのであった。それゆえに、この時代をイスラエル封建社会というのである。
     *
封建社会における一般民衆は、その社会の性格上、その領主の思想と指導とに絶対的に服従したのであった。したがって、その領主が神のみ旨のもとに立っている限り、その民は彼に従って、自然に天の側に立つようになるのである。また、彼らはこのような主従関係による封鎖的な政治と経済とを基調とする社会制度のもとにおかれていたので、それによってサタンの侵入を受けない環境の中で生活することができたのである。
     *
 このように、氏族社会が封建社会に発展するようになったのは、サタンの所有を天の側に奪い返すことによって、天の側の主権に属するより大きい版図を形成し、サタンの侵入を防ぐためであったのである。このような神の摂理があったので、またしてもそれを知っていたサタンは、これに備えて、一歩先んじてサタン側の封建社会をつくることによって、サタンの主権を維持しようとしたのであった。
     *
一方において、この封建社会はまた、より大きい主権と版図の君主社会をつくるための基台を造成するためにも、到来するようになったのである。すなわち、イスラエルの封建社会をもって、サタン側の侵入を防ぐことができる小単位の天の側の主権と、民と、経済的な版図とを形成したのち、再びこれらを統合して、より大きい主権と、民と、経済的な版図とを拡張し強化するために、イスラエルの君主社会がつくられたのであったが、これが、すなわち、サウル王をもって始まった統一王国時代であった。
     *
既に、前にも言及したように、イエスはどこまでも王の王として来られた方であった(黙一一・15)。それゆえに、神がイスラエル民族の君主社会を形成されたのは、将来メシヤが来られて、王の王として君臨することができるその基台を造成なさるためであったのである。
神がこのような摂理のもとで、イスラエルの君主社会をつくろうとされたので、サタンの方では、また、これに先んじて、サタンを中心とする君主社会を形成することにより、神の摂理を妨げてきたのである。
     *
 それゆえに、統一王国時代がくる前に、既にサタンの世界においては、エジプト王国が、紀元前数十世紀に第一王朝を立てたのち、三十王朝も継承されたのであり、古バビロニア王国は、紀元前十八世紀のハムラビ王のときに、既に全メソポタミヤを統一していたし、さらにヒッタイト王国は、紀元前十四世紀に、シリヤを中心として、東方の最強国となったのである。
     *
 そして、サタン側の世界においても、これまた、神の復帰摂理に対応する人間本心の作用によって、より善なる王国と、より悪なる王国とが互いに闘いながら、王国を単位とする分立をなしてきたのであった。
     *
 したがって、当時のソロモン王が、もし最後まで神のみ旨を信奉したならば、彼は、エジプト、メソポタミヤ、クレタ(あるいはミノア)などの三大文明を吸収した文化的な社会環境において、彼の卓越した政治能力を発揮して、東方の諸国を統一したであろうし、進んでは、メシヤ理想を実現し得る世界的な版図を形成したはずであった。
     12

 ところが、ソロモン王の堕落によって、神は、この君主社会を崩壊させてしまうような摂理をなさらねばならなくなったのである。
 このように、統一王国時代の王たちが「メシヤのための基台」を立てて、神の主権を復帰し得る基台を準備することができなかったので、結局、神はこの王国を、南北二つの王国に分立してしまわれたのであった。
     *
 そして、神のみ旨に逆らった北朝は、異邦アッシリヤ(エジプト、古バビロニア、ヒッタイトなどの王国が衰えるに従って、このアッシリヤ王国が強大となり、紀元前八世紀にはエジプトを含めたオリエントの中心部を征服して、最初の世界帝国を建設した)に渡して、滅亡するようにされたのであり、神のみ旨を信奉した南朝ユダも、間もなく神のみ旨に逆らうようになったので、新バビロニア(アッシリヤ帝国が滅亡したのち、カルデヤ人によってバビロンを首都とする新バビロニア王国、あるいはカルデヤ王国が創立された)に渡して滅亡するように道を運ばれたのである。
     *
 神はユダヤ王国を滅ぼされたのち、メシヤが降臨されるときまで、ユダヤ民族を多くの異邦に属するようになさることによって、この民族の王位を空位にしておかれたのであった。特に、ユダヤ民族を、民主主義の礎であるギリシャ文明圏内の属国となるように道を運ばれて、将来、メシヤが降臨されたとき、もしユダヤ民族が彼を歓迎するならば、民意によっていつでもメシヤが王位を継ぐことができるように、民主主義型の社会をつくっておかれたのであった。
     *
 ところが、ユダヤ人たちの民意はイエスに王位を継がせるという方向を取らず、かえって、彼を十字架で殺害してしまったので、これをもってアブラハムの血統的な子孫を中心として成就されようとした二〇〇〇年の復帰摂理の目的は、霊的にしか達成されないようになったのである。
     *

(二)復帰摂理延長時代における歴史発展
(1) 復帰摂理と西洋史
キリスト教を迫害したローマ帝国は、四世紀末に至って、ついに、亡くなられたイエスの前に屈伏し、キリスト教を国教として定めたのであった。しかしながら、もし初めからユダヤ民族がイエスをメシヤとして信じ、彼に仕えて彼と一つになっていたならば、ローマ帝国を中心として地中海を基盤として成立していた古代の統一世界は、当然生きておられるイエスによって感化され、彼を王として信奉し、エルサレムを中心とする王国を建設し得たはずであった。
     *
 しかし、ユダヤ民族は、不信仰に陥って滅亡してしまい、メシヤ王国のための土台となるべきであったローマ帝国も、次第に衰えはじめ、西暦四七六年には、西ローマがゲルマンの傭兵隊長であるオドアケルによって滅ぼされてしまったのである。このようにして、神の復帰摂理は、恨みの地ユダヤより、西ローマの版図であった西欧に移されていったのである。     *
 したがって、イエス以後におけるキリスト教による霊的復帰摂理は、西欧を土台として成就されてきたので、この時代の復帰摂理歴史は、西欧においてのみ、典型路程に従って発展するようになったのである。唯物史観で論じているところの歴史発展の過程も、西欧の歴史にのみ適応されるようになっているのであるが、そのような理由も実はここにあったのである。このようにして、西欧を中心とするキリスト教史は、復帰摂理延長時代を形成する中心的史料となったのである。
     *
 
(2) 宗教史と経済史と政治史との相互関係
神は人間をして、有形、無形の両世界を主管することができるようにするため、肉身と霊人体との二つの部分をもって人間を創造されたということについては、既に、創造原理のところで論じたはずである。ゆえに、人間がもし堕落しなかったならば、その霊人体は、肉身と共に成長し完成することによって、霊肉両面の知性が、同時に地上の肉身生活の中で、完全な調和をなし得たはずであった。
     *
 ところが、人間は、堕落することにより、霊肉両面の無知に陥るようになったのである。ここにおいて、人間の霊的無知は宗教によって、また、その肉的無知は科学によって啓発されてきたのであるが、このことに関しては、既に前編の第三章第五節(一)において論じたところである。
     *
 ところで、霊的無知は、宗教をもって堕落人間の中に潜在している本心を呼び起こすことにより、彼らが見ることのできない原因的な世界を探し求めるにつれて、漸次啓発されてきたのである。しかし、宗教は、だれしもがみな痛切にその必要性を感ずるというものではないので、霊的な面の啓発は、ある特殊な人間においては飛躍的なものであっても、一般的には、非常に緩慢なものであるといわなければならない。
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 これは、宗教が世界的に普遍化されている今日においても、霊的な面では、古代人と大差のない人間が多いという事実をもってみても、推察し得ることである。ところが、これとは反対に、肉的な無知は、だれでも認識し得る結果の世界、すなわち、自然界(肉界)に関することを科学的に探究することによって啓発されてきたのであった。
     *
 しかも、科学は、現実を打開するものであるために、だれにも必要不可欠なものである。それゆえに、肉的無知に対する啓発は、急進的であり、かつ、普遍的である。このように、探求していく対象が、宗教においては目に見えない原因の世界であるので、超現実的なものであるのに反し、科学においては目に見える結果の世界、すなわち、物質世界であり、これは現実的なものであるがゆえに、今まで、宗教と科学は、理論的に妥協することのできないものとして、衝突を免れ得なかった。
     *
 そればかりでなく、被造世界の主権を握っているサタンが、現実生活を通して、人間に侵入してくる関係上、今までの宗教の道は、現実を見捨てなくては行かれない道であると見なされてきたので、現実を追求する科学と、互いに調和をなすことができなかったのは当然なことといえる。
     *
 次の章の第一節で詳しく論ずるが、神は元来、人間の外的な肉身を先に創造され、その次に、内的な霊人体を創造されたので(創二・7)、再創造の原則によって、復帰摂理も、外的なものから内的なものへと復帰していく過程を踏むようになるのである。このような摂理的な原則から見ても、科学と宗教とは互いに調和することのできない発展過程を事実上歩んできたのである。
     *
 
このような不調和は、宗教と経済との関係においても同じである。それは、経済もまた科学と同じく現実世界に属するものであり、その上、科学の発達と密接な関係をもって発展するものだからである。このような関係により、神の内的な摂理による宗教史と、その外的な摂理による経済史とは、その発展においても、互いに、方向と進度を異にせざるを得なかったのである。
     *
 ゆえに、かかる神の復帰摂理の典型路程を歩んできた西欧における歴史発展を、摂理的な面から把握するためには、キリスト教史と経済史とを各々別に分けて考察しなければならないのである。
ところで、宗教と科学とが、上述のような関係におかれているのと同様、宗教と経済もまた、堕落人間の内外両面の生活を、各々分担して復帰しなければならない使命を担っているので、これらが全く何らの関係もなしに発展するということはあり得ないことだといわなければならない。
     *
 ゆえに、宗教と科学とは、したがって、宗教と経済とは、その発展過程において、互いに対立しあう側面をもちながらも、我々の社会生活と関係を結んで、それぞれが、各々キリスト教史と経済史とを、形成してきたのであった。では、それらは、我々の社会生活と、いかにして結びつくことができたのであろうか。
     *
 それは、とりもなおさず、政治によって結ばれたのである。キリスト教化された西欧においてはなおさらである。西欧における政治は、急進的な科学の発達に伴う経済発展と、復帰摂理の明確な方向をとらえることができずに、迷いの中にあったキリスト教の動きとを、社会生活の中で調和させていくという方向に向かって進まざるを得なかったので、その政治史は、宗教と経済とを調和させていくいま一つの新しい方向に向かうようになったのである。
     *
 したがって、復帰摂理のための歴史の発展を正確に把握するためには、政治史に対してもこれまた、別途に考察することが必要となってくるのである。これに対する実例として十七世紀末葉における西欧の歴史について、その発展過程を考察してみることにしよう。
     *
 まず、宗教史の面から調べてみると、この時代において、既に、キリスト教民主主義社会が形成されていたのである。すなわち一五一七年の宗教改革により、法王が独裁していた霊的な王国が倒れることによって、中世人たちは、法王に隷属されていた信仰生活から解放され、だれもが聖書を中心として、自由に信仰生活をすることができるようになった。
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 しかし、政治史の面から見るならば、この時代には、専制君主社会が台頭していたのであり、経済史の面においては、いまだ荘園制度による封建社会が、厳存していたのである。このように、同時代における同社会が、宗教面においては民主主義社会となり、政治面では君主主義社会、そして、経済面においては封建主義社会となっているのであるから、復帰摂理の立場からこの時代の性格を把握するためには、その発展過程を、各々別途に考察しなければならないのである。
     *
 そのためには、復帰摂理時代(旧約時代)における歴史発展が、どうしてそのような過程を歩まなければならなかったのであるかを我々は知らなければならない。古代社会においては、科学の発達がほとんど停頓状態におかれていたので、経済発展もまたそうであった。
     *
 いまだ生活様式が分化される以前の旧約時代のイスラエル民族は、指導者の命令により、厳格な律法に追従する主従関係の社会制度のもとで単純な生活をしていたので、彼らの宗教生活は、すなわち彼らの社会生活となっていたのである。したがって、その当時には、宗教と政治と経済とが分立して発展することはなかったのであった。
     *
 
(3) 氏 族 社 会
それでは我々は、ここにおいて、復帰摂理延長時代(新約時代)において、宗教と政治と経済などの各部面から見た歴史発展が、どのようなものであったかということについて、調べてみることにしよう。サタンを中心とする原始共同社会は、神の復帰摂理に対応する人間の本心の作用によって分裂に導かれ、その中で、神のみ旨に従う人間が分立されることによって、天の側の氏族社会が形成されたということは、既に明らかにした。
     *
 これと同じく、イエスを殺害したユダヤ民族は、既に、サタン側の系列に転落してしまったので、神はこの社会をそのままに放置しては復帰摂理をなさることができなかったのである。したがって、神はこの社会を分裂させ、その中から、篤実なキリスト教信徒だけを呼びだされて、彼らを中心としてキリスト教氏族社会を立てられたのである。
     *
 旧約時代においてヤコブの十二子息を中心とした七十人家族が、イスラエルの氏族社会を形成して、摂理路程を出発したように、新約時代においてはイエスを中心とした十二弟子と七十人門徒が、キリスト教氏族社会を形成して、摂理路程を出発したのである。
     *
 キリスト教氏族社会は、原始キリスト教社会であったから、そのときには、いまだ政治や経済においても、取り立てていかなる制度をも必要としなかったのである。したがって、この時代においては、まだ宗教と政治と経済とが未分化で、それぞれに分立した発展をなすには至っていなかったのである。
     *
 キリスト教氏族社会は、地中海を基盤とした古代統一世界の中で、ローマ帝国の厳しい迫害を受けながら繁栄し、キリスト教部族社会を形成するに至ったのであった。そして、四世紀後半から始まった民族大移動により、西ローマ帝国は、ついに四七六年に滅亡してしまい、その版図内に移動してきたゲルマン民族にキリスト教が浸透することによって、彼らを中心とした広範なキリスト教社会がつくられたのである。
     *
 
(4) 封 建 社 会
歴史の発展過程において、氏族社会の次にくるものは、封建社会である。このような原則によって、西ローマ帝国の滅亡と前後して王権が衰退してしまい、国家が無秩序な状態に陥ったとき、封建社会が形成されはじめたのである。このときから西ヨーロッパのキリスト教社会は、宗教と政治と経済とが分化され、各々が相異なる発展をしていくようになったのである。
     *
 封建社会は、大中小の領主と騎士たちとの間に、服従と奉仕とを前提として結ばれた主従関係による政治制度と、荘園制度による封鎖的な自給自足の経済制度をもって、形成されたのであった。国土は、多くの領主たちによって分割されたし、国王は、事実上、領主の中の一人であったから、国王の権力も、地方分権的であったのである。
     15
     
 領主たちは、上部から、恩貸地としての土地の分配を受けて、彼らの独立領地をつくり、その内で裁判権まで行使したのである。したがって、この領地は、ほとんど国家の権力から離れた私領と異なるところがなかったのである。このようにしてつくられた私領的なものを、荘園という。
     *
 自作農の下層の人々が、主権者たちの保護を受けるために、自己の所有地をいったん、領主または寺院に寄贈し、その上でその土地を、再び、恩貸地として貸与してもらうかたちでつくられた荘園もあった。このようにして、荘園は全国に広がっていったのである。最下級に属する騎士は、一つの荘園を分けてもらい、領主の私兵として仕えたのであったが、国王や領主はこのような荘園を数百から数千も所有していたのであった。
     *
 宗教面においても、それは、キリスト教を中心として、既に論じた封建社会と同一の方向に向かって発展するようになったのであるが、これを、キリスト教封建社会というのである。すなわち、教区長、大主教、主教は、大中小の領主に該当する地位をもっており、国王が領主の中の一人であったように、法王もまた、教区長の中の一人であった。
     *
 そこにも、絶対的な主従関係による宗教的な政治制度があり、主教たちは信徒から寄贈された封土をもつようになって、彼らは、封建的な階級層の中で有力な地位をもつ領主ともなっていたのである。
     *
 つぎに、経済面からこの時代を考察してみるならば、この時代は、古代奴隷制度から荘園制度へと移った時代であった。したがって、平民は、このときから土地を所有するようになったのである。そして、この時代の土地制度による身分は、おおよそ、地主、自作農、農奴(半自由身分)、奴隷(不自由身分)などの四階級に分かれていたのである。
     *
 このように、神は、ゲルマン民族を、新しい選民として教化され、封建社会を樹立されることにより、衰亡した西欧の土台の上に、宗教と政治と経済の三面にわたる、小単位の天の側の版図を強化し、将来、天の側の王国を建設するための基台を、準備することができたのである。
     *
 
(5) 君主社会と帝国主義社会
歴史の発展過程において、封建社会の次にくるのは君主社会である。それでは、このときの西欧における君主社会は、政治面から見ると、どのような形成の過程をとったのであろうか。
     *
 西欧に移動したゲルマン民族が立てた国々は、みな、その存立期間が短かったのであるが、フランク王国だけは長い間存続していた。フランクは西ゲルマンに属する一部族であり、それがメロヴィング王朝を建てたのち、キリスト教と結合してローマ文明を吸収し、西欧にゲルマン的なローマ風の世界をつくったのであった。
     *
 この王朝が没落したのち、チャールズ・マルテルは、西侵してきたアラビア人を追い払って勢力を伸ばし、その子ピピンはカロリング王朝を建てた。ピピンの息子であるチャールズ大帝は早くから聖アウグスチヌスの「神国論」を崇拝していたが、王位につくや否や、彼は、アウグスチヌスの「神国論」を国家理念とする君主国家を建てようとしたのであった。

     *
 そして、チャールズ大帝は、中部ヨーロッパを統一し、民族の大移動によって混乱に陥っていた西ヨーロッパを安定させて、強力なフランク王国を確立したのである。
 つぎに、宗教面において、キリスト教封建社会のあとに続いて現れたキリスト教君主社会は、「メシヤのための霊的基台」の上で法王を中心としてたてられた国土のない霊的な王国社会であった。
     16

 そして、法王レオ三世が、紀元八〇〇年にチャールズ大帝を祝福して、彼に皇帝の冠を授与し、天的な嗣業を相続させることによって、法王を中心としてつくられた霊的な王国と、政治的に形成されたフランク王国とが一つになり、キリスト王国をつくったのである。
     *
 キリスト王国時代は、旧約時代の統一王国時代と同時性の時代である。このように、封建時代のあとに続いて王国時代がきたということは、封建社会を統合することにより、より大きい天の側の主権と、その民と、版図とを形成するためであったのである。
     *
 したがって、既に論じたように、天使長の立場から実体世界を復帰するための基台を準備してきた法王は、国王を祝福したのちは、カインの立場で彼に従い、また、国王は、法王の理念に従って、メシヤ理想を実現するための政治を施し、キリスト王国を完全に神のみ旨にかなうように立て得たならば、この時代が、すなわち、メシヤを迎えることができる終末となるはずであった。
     *
 このようにして、そのときまで互いに妥協することができず、衝突しあってきた宗教と科学とを、一つの課題として完全に解決することができる真理が現れたならば、そのときに、宗教と政治と経済とが、一つの理念を中心として、完全に一致した方向に向かって発展することにより、その基台の上で「再臨されるメシヤのための基台」がつくられるはずだったのである。
     *
 それゆえに、キリスト王国時代がくることにより、封建時代は、そのときに、完全に終わってしまわなければならなかったのである。ところが、法王や国王たちが、みな、神のみ旨に反するようになったので、チャールズ大帝の本来の理想を実現することができなくなり、そのため頑強な封建制度の基礎は揺るがず、その後においても、長い間にわたって存続したのであった。
     *
 したがって、宗教と政治と経済とは依然として互いに分立されたままとなり、その結果、法王を中心とする霊的な王国と、国王を中心とする実体的な王国も、依然として分立されたまま、対立して調和し得ない立場をとるようになったのである。
このようにしてチャールズ大帝は、円熟した封建制度の上に王国を建設しはしたものの、その障壁を崩すことができなかったので、事実上、彼は、一人の大領主の立場に立っていたにすぎなかったのである。
     *
 キリスト王国が、このように、再臨されるメシヤを迎えることができる王国をつくることができなかったので、封建制度は次第に強化され、政治面における封建階級社会は、専制君主社会が興るときまで全盛を極めたのである。十七世紀の中葉にかけて、封建階級が没落するにつれて、地方に分割された領主たちの権力は、国王を中心として、中央に集中するようになった。
     *
 そして、王権神授説を政治理念として君臨した国王は、絶対的な権限をもつようになってしまった。このように、国王が、封建階級社会の領主の立場を離れて、政治面における君主社会を事実上形成したのは、十七世紀の中葉から一七八九年にフランス革命が起こるときまでであったと見なすことができるのである。
     *
 つぎに、宗教史の立場から見たキリスト教君主社会の帰趨は、どのようなものであったのだろうか。この時代の法王たちは、神のみ旨のもとに立つことができず、世俗化されてしまったので、彼らは、心霊的な面から衰退の道を歩むようになったのである。
     *
 その上に、なお、十字軍戦争に敗れることにより、法王の威信は地に落ちてしまい、また法王が、南フランスのアヴィニョンに幽閉されることによって、彼らは、有名無実の立場に落ちてしまったのである。そして、法王を中心とする霊的な王国であったキリスト教君主社会は、一五一七年の宗教改革が起こるときまで存続したのである。
     17
     
 この時代の経済面における発展過程を見れば、封建的経済制度は、封建的な政治制度が没落して、中央集権化した専制君主社会になっても、依然として存続され、フランス革命のときまで残されるようになってしまったのである。そして、農業経済の面ではいうまでもなく、資本主義化されてきた他の経済面においても、封建制度の領域を越えることができなかった。
     *
 すなわち、自営農民たちは封建領主の支配に対抗するために、国王の権力に依頼したのであったが、彼らも封建制度の領域を越えることができなかったし、また、マニファクチャーの経営者たちは、封建的な分裂が不利であるということを知って、中央集権の国王と結託したのであったが、結局、彼らもまた、封建化された商業資本家となってしまったのである。
     *
 歴史の発展過程において、封建社会のあとに続いてくるのが君主社会であるとするならば、経済面における封建社会のあとに続いてくるものはいったい何であろうか。それは、とりもなおさず、資本主義社会と、そのあとにくる帝国主義社会なのである。
     *
 国家に対する独裁が、君主主義の特色であるように、金融資本に対する独占が資本主義、特に、帝国主義の特色であるからである。資本主義は、十七世紀の中葉、専制君主社会が始まったときから芽を吹きだし、イギリスの産業革命期からは、次第に円熟期に入るようになったのである。
     *
 このように、資本主義社会がくるようになったのは、封建的な経済制度によって確保された小単位の経済基台を、より大きな基台として確保するためであった。そして、一歩進んで世界的な経済基台を復帰するために、資本主義は、帝国主義の段階に移行するようになったのである。
     *
 ここにおいて、再び、記憶しなければならないことは、神の復帰摂理の典型路程は、西欧を中心として形成されたという点である。したがって、ここで論ずる帝国主義も、西ヨーロッパを中心として展開されたものを指していうのである。
     *
 西欧で膨脹した帝国主義思想は、西欧の各々のキリスト教国家をして、第一次世界大戦を前後して、地球の全域にわたって植民地を獲得するようになさしめた。このようにして、世界は急進的にキリスト教文化圏の内に入ってくるようになったのである。
     *
 
(6) 民主主義と社会主義
君主主義のあとにきたものは民主主義時代であった。ところで、君主主義時代がくるようになった理由は、既に明らかにしたように、将来、メシヤを王として迎えることができる王国を建設するためであったのである。しかるに、この時代が、そのような使命を完遂することができなかったので、神は、この社会を打ち壊し、メシヤ王国を再建するための新しい摂理をされるために、民主主義を立てられたのである。
     *
 民主主義とは、主権を人民におくことにより、人民がその民意に従って、人民のための政治をする主義をいう。したがって、民主主義は、メシヤ王国を建設なさろうとする神のみ旨から離脱した君主主義の独裁を除去し、メシヤを王として迎えるために、復帰摂理の目的を達成することができる新しい政治制度を立てようとするところに、その目的があるのである。
     *
 人間は、歴史が流れるに従って、復帰摂理の時代的な恵沢を受け、その心霊が次第に明るくなるので、この摂理に対応する人間の本心は、我知らず宗教を探し求めるようになるし、また、宗教を探し求めるその本心は、結局、神が最終的な宗教として立てて摂理されるところの、キリスト教を探すようになるのである。
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 今日の世界が、一つのキリスト教文化圏を形成しつつある原因は、実にここにあるといわなければならない。それゆえに、歴史が終末に近づけば近づくほど、民意は、次第にキリスト教的に流れるほかはないのであり、このような民意に従う民主政体も、これまた、キリスト教的に変移せざるを得ないようになるのである。
     *
 このようにして、キリスト教精神をもって円熟した民主政体の社会にメシヤが再臨されれば、その民意によって、神の主権を地上に立て、地上天国を復帰することができるようになるのである。したがって、民主主義は、結局サタンの独裁をなくして、再臨されるイエスを中心とする神の主権を、民意によって復帰なさろうとする、最終的な摂理から生まれた主義であるということを、我々は知らなければならない。
     *
 このような理由によって、十八世紀の末葉に至って、専制君主主義に対抗して起こった民主主義は、イギリス、アメリカおよびフランスで民主主義革命を起こし、君主社会を崩壊せしめて、民主主義社会の基礎を確立したのであった。
     *
 我々は、既に歴史発展の観点から民主主義を考察したのであるが、ヘブライズムとヘレニズムとの摂理的な流れから見た民主主義に関しては、次の章で論ずることにする。
つぎに、宗教の面における歴史発展過程においても、一五一七年の宗教改革により、法王を中心とする国土のない霊的な王国が倒れたのち、キリスト教民主主義が到来したのであった。
     *
 キリスト教民主主義は、宗教改革を起こすことによって、法王が独裁してきた霊的な王国を倒してしまったのである。元来、法王を中心としたこの王国は、既に説明したように、法王が国王と一つになり、再臨なさるメシヤを迎えることができる王国をつくらなければならなかった。
     *
 ところが、法王がこの使命を完遂できなかったので、あたかも、専制君主社会の独裁的な主権を倒すために、民主主義が生じてきたように、神のみ旨から離脱した法王の独裁的な主権を倒すために、キリスト教民主主義が生まれてきたのである。
     *
 したがって、宗教改革以後においては、法王や僧侶を通じないで、各自が聖書を中心として、自由に神を探し求めていくことができる、キリスト教民主主義時代がくるようになったのである。このように、宗教の面においても、信徒たちがどこにも隷属させられることなく、自由意志によって信仰の道を尋ねていくことができる時代に入ってきたのである。
     *
 このようにして、キリスト教民主主義は、将来メシヤがいかなる形態をもって再臨されても、彼と自由に接することができるキリスト教的な社会環境を形成し得るようになったのである。また、経済史の発展過程においても、その発展の法則によって帝国主義を倒し、民主主義的な経済社会をつくるために、社会主義が生ずるようになるのである。
     *
 そして、第一次世界大戦は、帝国主義国家群の植民地獲得のための戦争であるとも見ることができるのであるが、第二次世界大戦が終わるころからは、帝国主義の植民地政策を打開するための国家的民主主義が台頭して、列強国家群は、植民地政策を放棄し、弱小国家群を解放せざるを得なくなったのである。
     *
 したがって、資本主義経済時代は、帝国主義の崩壊を転機として、社会主義的な経済時代に転移するようになったのである。共産主義社会を指向するサタン側の世界において、かく社会主義を唱えるのは当然の主張であるといわざるを得ないのである。
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 なぜなら、その方向と内容とは全然異なるものであるとしても、社会主義的な経済体制に向かって歩んでいこうとする天の側の路程を、サタン側から先んじてつくっていこうとするものだからである。
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 神の創造理想から見るならば、人間に与えられた創造本然の価値においては、彼らの間にいかなる差異もあるはずがない。したがって、神は、あたかも我々人間の父母がその子供たちに対するように、だれにも均等な環境と平等な生活条件とを与えようとされるのである。
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 したがって、生産と分配と消費とは、あたかも、人体における胃腸と心臓と肺臓のように、有機的な関係を保たなければならないから、生産過剰による販路の競争や、不公平な分配によって、全体的な生活目的に支障をきたすような蓄積や消費があってはならない。
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 必要に基づく十分な生産と、過不足のない公平な分配、そして、全体的な目的のための合理的な消費をしなければならないのであり、そのためにちょうど人体における肝臓のように、機能全体の円滑な活動のために、適宜な貯蓄をしなければならないのである。
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 人間は、このような理想をもって創造されたので、その理想を復帰し得る摂理歴史の終末期に至り、民主主義的な自由を獲得し、人間の本性を探し求めていくならば、結局、だれもがこのような社会主義的な生活体制を要求せざるを得ないようになるのである。
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 したがって、民意がこのようなものを要求するようになれば、民意による政治も、そのような方向に向かって進まざるを得ないようになるので、最後には、神を中心とする社会主義社会が現れなければならない。古代のキリスト教社会においても、我々は社会主義的な思想を発見することができるし、十六世紀におけるイギリスのトーマス・モーアのユートピア思想も、このような社会主義的なものであった。
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 また、イギリスの産業革命期に起こったオーエンの人道主義に立脚した思想、そして、十九世紀に入るや、イギリスのキングスリーのキリスト教思想によるカトリック社会主義やプロテスタント社会主義などが生まれてくるようになったのは、みな、創造理想を指向する人間本性の自然的な発露からもたらされたものであると見なさざるを得ないのである。

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(7) 共生共栄共義主義と共産主義
神の復帰摂理の時代的な恵沢は、サタンの侵入によって発揮することができなかった人間の創造本性を啓発していく。人間は、このような本性の欲求によって、我知らず神の創造理想の世界を憧憬し、それを探し求めていくようになるのである。したがって、天の側の社会主義社会を指向する人間の本心は、結局、共生共栄共義主義を主唱し、神の創造目的を完成した理想世界をつくるところにまで行かなければならないのであるが、この世界が、すなわち、再臨されるイエスを中心とする地上天国なのである。

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 サタンは、神の摂理を先立って成就していくので、サタンの側からは、先に、唯物史観に立脚した、いわゆる科学的社会主義を叫びながら共産主義世界へと進んでいく。彼らは、このような歴史発展観に立脚して、人類歴史は、原始共産社会から再び共産主義社会へ戻ると主張するのであるが、その原因については、全く知らずにいる。
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 神は、人間を創造されてのち、彼らに地上天国の実現を約束されたので、人間と血縁関係を先に結んだサタンが、堕落人間を中心として、原理型の非原理世界を先立ってつくっていくことを許さざるを得ない。そして、神が復帰なさろうとするところの地上天国を、サタンが先んじて成就した原理型の非原理世界が、すなわち、共産世界なのである。
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 あたかも君主主義の政治的な独裁を防いで、その主権を、人民のものとして取り戻すところから、民主主義が生じたように、国家の財産が、ある特定の個人階級に独占される帝国主義的な経済体制を打破して、人民が、それを均等に享有するようになる経済体制を樹立するために、社会主義を経て、天の側からは、共生共栄共義主義を指向し、サタンの側からはそれに先立って共産主義を指向するのである。したがって、社会主義は、あくまでも真実なる民主主義的な経済社会をつくるために、生じたものであると見なければならない。
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 我々は、既に、西欧を中心としてつくられた復帰摂理歴史が、宗教史と政治史と経済史の三面に分立され、各々が、公式的な路程を通じて発展してきたということを明らかにした。それでは、これらはいったいどのようにすれば、お互いが同一の歴史路程に導かれて融合される摂理歴史をもって終結し、再臨理想の基台を準備することができるであろうか。
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 既に、上において我々は、人間の霊肉両面の無知を打開するための宗教と科学とが、一つの課題として解決されなかったために、歴史の動向が三分されて発展してきたということを説明した。したがって、このように、三つの部面に分かれて発展してきた歴史が、一つの理想を実現する焦点に向かって帰結されるためには、宗教と科学とを、完全に統一された一つの課題として解決し得る新しい真理が現れなければならないのである。
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 そうして、このような真理に立脚した宗教によって、全人類が神の心情に帰一することにより、一つの理念を中心とした経済の基台の上で、創造理想を実現する政治社会がつくられるはずであるが、これがすなわち、共生共栄共義主義に立脚した、メシヤ王国なのである。

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