人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

文鮮明先生 御言葉選集 7-7

2025年01月25日 15時06分54秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 7 - 7. 人生の道を歩む私たち (1959年9月6日)
人生の道を歩む私たち
1959年9月6日(日)、元本部教会にて。
ペテロの手紙第一 1:21-25


1
<祈り(Ⅰ)>


父なる神様、あなたは6千年という長い歳月を通して、どのような苦労も厭わず、私たちの先祖を導いてくださいました。しかしながら、私たちの先祖たちはたびたびあなたを裏切り、どの日もあなたの側に立ち、勝利と栄光の姿をもってあなたを喜ばせることができませんでした。このことを思うとき、私たちはあなたに向き合う顔がない罪人の子孫であることを認めざるを得ません。


父なる神様! 私たちの心をご憐れみください。天は、至らぬ私たちであっても再びつかまえなければならない立場におられ、至らぬ私たちは再びあなたを求めなければならない立場にあります。これをよくご存じのあなたが、至らない私たちを探し訪ねてくださり見守っておられることを思うとき、私たちはあなたに向き合う顔がありません。しかし、愛の御心をもって私たちを想い、今日も私たちを探しておられるあなたの前に、自分たちの至らなさを悔い改める心を持って集まりました。


訪れてくださり、教訓してくださるべき御言葉がどれほど多いことでしょう。しかしながら、御言葉を語ることができず、事情を伝えることもできない私たちであることが、天の無限の悲しみであることを知り、自らの未熟さを悲しむことのできる私たちとなるように導いてくださることを、父なる神様、切に願い求めます。


生命の権能をもって死の権勢を打ち砕かなければならない終末の時が、私たちの目の前に近づいていますが、私たちは生命の枯渇を感じながらも、生命を渇望する心が不足しておりました。父なる神様!このような私たちを励まし、奮い立たせてくださり、生命の全権者であるあなたをつかむことで強い力と強い心情を持ち、敵の前に立つことのできる息子娘として立ててくださることを切に願い求めます。


今や、父なる神様の御手に捉えられることが私たちの願いであり、父なる神様の姿に似ることが私たちの願いです。 このひとときだけでも、サタンによって汚されたすべての痕跡を洗い清め、父なる神様の内的な性状に似た者となり、外的な形状を整え、本来の美を現しながら、父なる神様の栄光を讃えることのできる姿としてください。そして、父なる神様が本来の御心を備え、創造の理念の実体となった私たちとともに喜び、私たちとともに語り合うことのできるこのひとときとなることを、愛する父なる神様、切に願い求めます。


2


死の波が目の前で私たちを狙い、サタンが生命の権能を奪い去ろうとあらゆる奸計を巡らせている瞬間であることを悟らせてください。 まず、私たちの心の土台を正しく整えさせてください。そして次に、私たちの体を清めて、父なる神様に向かってしっかりと立たせてください。体と心がひとつの目標に帰着し、「父なる神様のものでございます。お受け取りください。」という切なる心を持ってひれ伏す姿とならなければ、無数のサタンたちが容赦なく蹂躙するという事実を、私たちに実感させてください。


今、私たちの心と体から、私たち自身の主観的な観念や過去の意識的な考えをすべて取り除いてください。 そして、心の奥深くから湧き上がる声で天を呼び求めることのできる切なる心、切なる想いを、このひととき溢れ出させてください。それによって、天との新しい縁を結び、新しい心情を引き起こし、新しい生命の復活の歴史を起こすことのできる時間としてください。父なる神様、切に願い求めます。


今、私たちの前には戦いの壁が立ちはだかっています。 この壁を突破することのできる天の精兵となることが必要な最終決戦の段階にあることを悟らせてください。死の権能を持つ者たちに堂々と立ち向かうことのできる天の勇士となれるよう導いてください。そして、敵の陣地に向かって進撃できる父なる神様の息子娘とならせてください。死を恐れず、勝利の旗を目指して黙々と走ることのできる天の精兵となるよう導いてくださることを、父なる神様、切に願い求めます。


頭を垂れる姿勢はそれぞれ異なるとしても、目標だけは一つとなるようにしてください。 また、状況が異なるとしても、心情だけは一つとさせてください。置かれている立場が違い、感じる心が違うとしても、父なる神様に向かう心だけは同じであるようにしてください。真心から父なる神様のために尽くそうとするその心を、どうかお受け取りください。切に願い求めます。


ここに集まったあなたの息子娘たちは、孤独な場で戦い続けてきた者たちです。 この者たちは家庭からも社会からもあらゆる矢を受けながらも、天を呼び求め、一筋の生命の光を頼りに進んできました。これらすべてのことは、父なる神様が始められたことですので、勝利の栄光をあなたの前に捧げるその日まで、一人の命も疲れ果てて倒れることのないよう導いてください。父なる神様のために喜びをもって出発した私たちが、喜びの実を結び、あなたの栄光の基盤を広げることができるようお許しください。父なる神様、切に願い求めます。


3


この日は聖なる日ですので、すべての人々を祝福してください。 多くの教団を祝福してください。そして、哀れな三千万の民を祝福してください。


私たちの生命の灯火が天にあることを私たちは知っており、復帰の道を歩む運命もまた天にかかっていることを知っています。この民族の事情をよくご存じの父なる神様、韓国の教団の現状をよくご存じの父なる神様、心情と心情が結びつき、心情を通して天を誇ることのできるあなたの生きた息子娘が多く現れるべきであることを私たちは知っています。隠れた祭壇を守り、訴えている息子娘たちがいるのであれば、どうか彼らを集め、小さな群れによって大きな群れを恥じ入らせるという御言葉を成就してください。


父なる神様! バアルにひざまずかなかった七千の群れが、狡猾な悪の要素を阻んだように、サタンの狡猾さを阻むことのできる七千の善の群れがこの地に存在するようにお許しください。父なる神様、切に願い求めます。


父なる神様とともに悲しみ、父なる神様とともに議論し、考えることのできる隠された息子娘たちを速やかに父なる神様の家庭に集めてください。そして、彼らを父なる神様の家族としてつなげ、望まれる栄光の園を一日も早く復帰し、すべての恨みを解消する成事を成し遂げてくださるよう、切に願い求めます。


このひととき、ただひたすらあなたにお任せしますので、始めから終わりまで父なる神様だけが運行してください。邪心が入り込む時間とならないようお許しください。 父なる神様の栄光を慕う基準のもとで、天と地全体が順応し、一つに和合する私たちの礼拝とさせてください。これを切にお願い申し上げ、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


4


<祈り(Ⅱ)>


あちらこちらを彷徨いながらも、生命の道を探し求め、父なる神様の前にひれ伏した私たちであることを、否応なく感じます。


今日、父なる神様を「アバ、父よ」と呼ぶことのできる場に立たせてくださった恩恵と、 私たちが知らぬ間に、無限の労苦を惜しまず、私たちを守り、分別し、この場にまで導いてくださった恩恵の前に、何をもって報いましょうか。何一つ報いるものを備えておりません。たとえ体を捧げてもその恩恵に報いることはできず、心のすべてを捧げたとしても、父なる神様の労苦の功績の前には頭を垂れるほかない、不足した者であることを、この時間、否応なく感じます。


ここまで導いてくださった父なる神様には、私たちを生かさねばならない責任もありますが、私たちを通じて栄光の日をご覧にならねばならない父なる神様の事情があり、願いがあることを知っています。 また、このような私たちを見て慰めを得ようとしておられる父なる神様であることを思うとき、不足した私たちに希望を置き、歴史の険しい路程を耐えてこられた父なる神様の前に、顔向けできないことを感じざるを得ません。


私たちの肉と血が、父なる神様の御心を理解し、私たちの骨が一つの人格を形成する姿を備えたならば、その全体が父なる神様の不変の御姿を証する一つの構成体となることができるようにしてください。父なる神様、これを切に願い求めます。


細胞の一つ一つまでもが父なる神様に属し、栄光を捧げることのできる聖なる、そして栄光ある実体を、どれほど待ち望んでこられたことでしょうか。 歴史の過程において、私たちの先祖たちはそのような姿で父なる神様をお迎えすることができませんでした。天に従いながらも時には不満を抱き、時には天を裏切り、選民の権利を誇りながらもそれを放棄したという歴史的な事実を私たちは知っています。


5


父なる神様! このような嘆かわしい血統を受け継いだ私たちは、今日天を信じていると言いながらも、明日には天を裏切ることもあり得る、悪しき世界と近い立場にいる者たちです。このような私たちをどうか憐れんでください。父なる神様、私たちを捉えてください。私たちの渇いた心に、父なる神様の生命の御心を接ぎ木し、新しい生命の力強い復活の歴史を起こしてください。これを切に願い求めます。


これまで地上に生まれ、去っていった人は多く、現在も多くの人が来ては去っていきます。しかし、父なる神様の御事情を握りしめ、父なる神様の御心をつかみ、涙を流す者はおりません。 どうか、今日私たちが父なる神様の御事情と御心を握りしめ、涙を流す者となることができるようにしてください。天地を嘆き、人類を嘆き、歴史を嘆き、堕落した先祖を嘆きながらも、父なる神様をお迎えしたい、父なる神様のために尽くしたいという思いに満ちた息子娘たちが、この地上に多く現れることができるようにしてください。父なる神様、これを切に願い求めます。


誰を見るためにこの場にやってきたのでしょうか? それは、どんな立派な服を着た人を見るためでもなく、どんな美しい人に会うためでもありません。醜い痕跡を持ち、傷ついた体でありながら、尊厳ある父なる神様の御姿に似るためにここに集まりました。どうか私たちを見捨てることなく、抱きしめてください。私たちの心、私たちの思いが寄りかかる場所もなく、孤独であることを父なる神様がご存じであるならば、この時間、私たちを慰めてくださるよう、切に願い求めます。


このような心情を抱き、現れてくださり、永遠の生命の主体として私たちを導いてください。 私たちの体と心にしみ渡る生命の御言葉を与えてくださり、父なる神様の恩恵に感謝し、礼拝することのできるこのひとときとなることを許してください。


この時間、御言葉を通じてお話ししようとするにあたり、父なる神様、どうかここに共にいてください。 伝える者と受け取る者の間に隔たりがあるならば、それがサタンの通路となることを私たちに悟らせてください。そして、その場がサタンの狙う死の領域であることを悟らせてください。伝える者の心も受け取る者の心も一つとなり、父なる神様の御心に連なり、共鳴し、清められる時間となることを許してください。


6


韓国各地に散らばり、孤独にひざまずき、嘆願するあなたの息子娘たちをどうか顧みてください。 困難に苦しむ彼らを励まし、助けてください。「最後まで耐える者が救いを得る」とおっしゃいましたように、忍耐によって父なる神様の栄光を高め、この民族の前に父なる神様の御姿を実体として証し、示すことができるよう導いてください。数多くの教団と多くの人々の上に祝福を注いでください。主の御名によって祈ります。アーメン。






<御言葉>


この時間、皆さんにお伝えしようとするテーマは、「人生の道を歩む私」、つまり「人生の道を歩む私たち」です。このテーマでお話しさせていただきます。


人々はよく「人間は来て去るものだ」と言います。昔も今も、どんなに立派な聖人や君子でもこの世に来て、そして去っていきました。この歴史の流れ、この天倫の動きは、今この瞬間、私たち自身にも連続しているということを、皆さんは心に留めなければなりません。私たちは、来て去らなければならない存在です。どのような因縁や関係でこの地に来たのかは分かりませんが、この世に現れ、無数の現象や何らかの理念的な形態の中で翻弄されて去っていく、という事実は私たちもよく知っています。


では、私たち人間は何のために生まれ、どのような目的のために生きていくのでしょうか?これを多くの哲人や宗教家たちが心血を注いで解明しようとしましたが、未だに解決できず、そのために人類の歴史は嘆きとともにここまで続いてきました。そして今なお、それは続いています。


私たちは、このような緊張した瞬間に立たされている存在です。行きたくなくても行かざるを得ない人生の行路を歩んでいる私たちであることを否定することはできません。親の血統を通して生まれ、気づけば自分が思いも寄らなかった世界で生きています。そして生きるうちに、老いていき、やがて去らなければならない運命に直面するのです。どんなに立派な人であっても、華やかな青春時代が過ぎ去るのを止めることはできませんし、自分の姿が老いていくのを防ごうとしても防ぎきれないのが現実です。


7


考えると切なくなり、考えると胸が詰まり、考えると何か分からないものに対する衝動が湧き起こり、すべてをかき乱してしまいたいという気持ちを、皆さんも人生の中で何度か経験したことがあるでしょう。


「なぜ私は来たのか、なぜ私は生きるのか、どこへ行くのか?」 自分が生まれたことを、自分自身が選んで生まれたと考えてはなりません。生まれはしたものの、何が動機となって生まれたのか、何のために生まれたのかを知らない私たちです。生まれたのは自分が生まれたくて生まれたのではありません。生きているのも自分が生きたくて生きているのではありません。死ぬのも自分が死にたいと思って死ぬのではないのです。


それでは、自分自身を誇ることで何を得るのでしょうか? 自分が生まれたいと思って生まれたわけでもなく、自分自身の力で何かを成し遂げることもできず、死の道を避けることもできない存在である自分を誇ってみても、それはただ哀れに映るだけです。生まれたからには生きなければならない運命であり、そのように生きて去らなければならない運命です。


では、このように生きて去る目的は何なのでしょうか? この問いを改めて考えてみる必要があります。私たちが存在する動機が自分自身によるものではなかった以上、その目的もまた自分だけのものではないはずです。生きる上で幸福な場を嫌がる人はいませんし、華やかで立派な場所で生きたいと思わない人もいないでしょう。しかし、それを自分の思い通りにできないのが私たちの現実です。それでもなお、自分を誇りたい、自分の思い通りに生きたい、自分の思い通りに存在したいと思うのが私たちです。このような感情の交差点を抱えているのが私たちの存在です。


私たちは、自分自身によって生まれたのではないにもかかわらず、より大きな何かを求め、より良い生き方を望み、より大きな目的の価値を追い求めています。それは自分自身のためなのでしょうか、それとも何らかの相対的な目的のためなのでしょうか。この問いについて明確に理解する必要があります。生まれた時、親の血を受けて生まれた私たちは、自ら生まれたいと思って生まれたわけではありません。そして、親が私たちを生んだとしても、私たちは親が自由にできる生命体ではありません。親の思い通りに導くことも、殺すことも、生かすこともできない生命体です。


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そのような権限を誰が持っているのでしょうか? その権限の所有者を解明する日には、自分を中心として喜びを得ることができるでしょう。しかし、今日の人間たちはこの基準を超えることができず、迷い苦しんでいます。このような存在が私たち自身であることを知るべきです。


だからこそ、私たちは心の中でより大きな何かを追求しています。 また、生涯を通じて死の権限を克服し、実際により大きな生命の驚くべき世界と縁を結びたいと望んでいます。さらに進んで、人間の情的な世界を超え、永遠不変の情的な世界と接したいと願っています。それを解明したり証明したりすることはできなくても、そうした感覚に自分が絶えず引き寄せられているのを感じます。特に、良心が澄んでいるほど、その何かが矛盾した世界を捨てるよう促しているのを感じるでしょう。


そのため、この地上に生きている人間の中で、誰も自分を「善なる人間だ」と言うことはできないでしょう。 生まれてみれば、自分は善の種ではなく、悪の種であることがわかります。生まれてみれば、再創造の理念の前に立つことができ、何らかの価値を謳歌できる存在ではありません。自分自身の姿が、不肖の姿、不完全な姿、未熟な姿、不足している姿であることを否定できないのが人間です。このような人間をキリスト教では「堕落した人間」と定義しています。


人間の本心は、堕落した世界で楽しみながら生きたいとは思いません。 そのため、人間は6千年の間、この道を避け、逃げ続けてきましたが、いまだ完全に逃れたと言える基準を立てることができていないことを、私たちは理解しなければなりません。


今日、私たちは悪を避け、善を目指しながら、何らかの目的に向かって進んでいると言えます。 今日も、明日も、たとえ死んでも、悪を排除し、善を掴もうとする目的のもとで、悪の環境を避けながら進むその過程が人生の行路なのです。


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だからこそ、私たちの心は恐怖に震えています。 心の故郷に向かって動いているときはそうではありませんが、悪に傾く場所に立つときには、何かが自分を掴んでいるような恐怖を感じるでしょう。これは、私たちが罪悪の歴史、あるいは死の権威、暗黒の権力に向かって、本心を避けて進もうとしているからであることを、しっかりと記憶しなければなりません。私たちは、逃避の道程を歩んでいます。もし天が存在するとするならば、この逃亡者たちをどのようにされるのでしょうか?悪から逃れるべき人類をどのように導かれるのでしょうか?天が存在するのであれば、その導きの方法が明らかにされなければなりません。


それでは、この逃避の道程とはどのような道程でしょうか? この地上には真の指導者がいません。誰かの事情を考慮し、誰かを支えながら、自分の事情を述べる立場にはありません。多くの人類が生まれては去りましたが、人類は今なお逃れるべき運命に縛られています。それぞれが自分の道を進むのに忙しいのです。逃亡者の運命とはそのようなものです。


皆さん! ある犯罪者が鉄格子に閉じ込められていたところから逃亡するとして、その者に見えるものは何でしょうか?それは自分が生きる道、自由の世界、自分が憧れる何らかの世界であるに違いありません。自由の世界や自分が憧れる世界への思いが強ければ強いほど、置かれた環境から逃れようと全力で走るでしょう。


しかし、人類は逃亡者の運命にある中で、自分が切望する園がどこなのか、自分が望む場所がどこなのかを知りません。 そのような状況の中で、歴史は巡り巡り続けています。目的も方向も立場も分からないまま、自分を慰めながら生きてきた人間であったことを、私たちははっきりと理解しなければなりません。


私たち人間が堕落し、天の前で罪を犯したために、正義の神と不義の神が対立していることを私たちは知っています。 私という存在は不義のサタンの束縛から逃れようとしており、この世界の逃亡者です。私たちは逃避者です。では、救いとは何でしょうか?天国とはどこでしょうか?この世は逃避すべき場なのです。


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逃避にはさまざまな方法があります。 個人として立派に逃避する方法、家族全体で逃避する方法、民族的に逃避する方法、さらには世界的、宇宙的に逃避する方法があります。それらの方法を提示し、教えることができないのであれば、神を「愛の存在」や「創造主」、または「理念の絶対者」と呼ぶ資格はありません。


では、天が人間に対して逃避の方法を教え、指示する基準はどこにあるのでしょうか? それは、どんな学説でもありません。また、天上にあるわけでもありません。それは皆さんの「心」にあります。この事実をしっかりと理解してください。逃避の方向を指し示す基盤は、皆さんの心にあるのです。


心は自然の理にかなうものであり、善に向かって無限に動こうとします。 それは、磁石が南と北を指すようなものです。自然の理は方向を失い、善から外れることはありません。そのような現象は存在しません。同様に、人間の心も何らかの目的に向かって動こうとします。生命に向かって動く心、心情を通じて動く心、真理を見極める心、全体と調和しようとする心、全体の理念に適合しながら生きたいと願う心。この心こそが、天が逃避の方向を指示できる基盤であることをしっかりと理解しなければなりません。


この逃避者としての立場にある私たちが、天性に向かうこの心を守り抜くためには、戦わなければなりません。 戦いが必要です。この戦いを経て、逃避の目的を達成するか、失敗するかによって、救いを得られるかどうかが決まることをしっかりと理解してください。私たちはそのような過程を通過しています。


では、私たちはどのような姿勢で進むべきなのでしょうか? 皆さん、よく考えてみてください。この戦いの過程を進むには、天が望む姿勢で、天が望む戦術で、天が望むその地まで進まなければなりません。主体者の計画に応じて相対的な価値を築いていくことは避けられないのです。


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皆さん、ここで改めて考えてみてください。自分自身の今の姿がどのようなものかを。 どのような目的の世界の中で動き、その世界に囚われて今日も生きている自分自身であることを否定できないのなら、その自分が人生の逃避行路においてどのような立場にあるのかが問題です。


見てください。 敵が道を何重にも塞いでいるのに、目を開けることすらできない人がいます。このような状況に置かれていることを、夢の中でも気づかず、深い眠りに落ちている自分に気づかない人もいます。あるいは、走らなければならない道で疲れ果てて倒れている人もいます。その姿は千差万別です。


皆さん、自分自身を取り戻さなければなりません。 今日ここに出席した皆さんは、自分がどのような立場にいて、どのような姿をしているのか、心の基準を定めて自分を分析する必要があります。心は絶えず促しているのに、何か分からないものが胸を塞ぎ、何か分からない恐怖の圧力を感じています。そのため、「このような場所にいてはいけない」と自然に感じるだけでなく、目に見えるすべての物事を通じてそのような感覚が作用してきます。このようなことを通じてでも、自分がどのような姿でどのような立場にいるのかを知る必要があります。


もしも偶然にでも霊の目が開かれるならば、 数千年前にこの地を去った数多くの道を歩んだ人々が、多くの人々の前で叫んでいることに気づくでしょう。今日、皆さんの隣には多くの霊的存在が走り続けています。そして「一緒に行こう、敵が迫っている」と呼びかけているのです。しかし、皆さんの耳はその声を聞くことができず、目は見ることができず、体はその感覚を捉えることができないのです。この姿は哀れであり、これ以上の嘆きはありません。この嘆きは自分一人の嘆きではありません。このような状況は、存在の価値を全体の理念世界と結びつけようとする天倫の前で許されない罪となるのです。


人が道義の道を歩むには、ただ走るだけでは十分ではありません。目的を成し遂げるための必要条件と、目的とする内容を成就できる心の土台を整えて、その目的に向かって走らなければならないのです。


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人間は堕落によって、以下の4つを失いました:真理、心の故郷、生命の本体、そして愛の実体です。 この4つを失ったことで、人間は本来の状態から遠ざかり、迷いと苦しみの中で生きています。


それでは、逃避者の心に深く刻まれている願いとは何でしょうか? それは「本来の故郷に帰ること」です。その国に登録される国民となるためには、何を備えなければならないでしょうか?真理を悟る必要があります。サタンが支配する悪しき世界のすべての秘密を理解し、堕落したこの地上のあらゆる問題を解明することのできる真理を持たなければなりません。その上で走り続けなければならないのです。


今日の人間は、サタンの主権を天の主権へと結びつける目的 を胸に、真理の故郷、良心の故郷、生命の故郷、愛の故郷を慕いながら、その地を目指して走らなければならない運命にあります。


これまでの人類の6千年の歴史は、真理を探し求める道のりでした。走り続けるためには、真理という必須条件を見つけ、それを解明しなければなりません。真理を持たないままどれだけ走っても、無駄に終わるだけです。私たちが真理に基づいた目的観を持ち現れるとき、すべての価値が測定されます。真理が解明されなければ、すべては無価値となるのです。そのため、人類は今、心の方向性とともに、真理の方向を模索する段階にあります。


これまでの歴史の中で、「真理の王」や「真理の根本」と呼べるものは現れていません。 そのため、今日の世界の人類は、思想や主義に流され続けています。しかし、真理は二つ存在することはありません。それは唯一であり、永遠であり、不変です。にもかかわらず、この唯一の真理と全人類が調和できる内容を備えた真理は存在しないのです。


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今日、倫理や道徳、社会秩序を築く過程で提示されてきたものは何でしょうか?良心の基準に応える真理の基準を求めてきました。しかし、それだけではすべてを解決することはできません。人間がいかにそれを解決したとしても、自分の前に訪れる生死の問題にどう対処するのかという課題に直面します。この生命の問題をどう解決すべきでしょうか?


人間の心は無限の世界と繋がろうとしています。この心の作用を無視することはできません。この宇宙の万物には、目的なしに動くものは何一つありません。さらに、目的に基づいた価値的な縁を離れて作用する存在も存在しません。


ですから、否定できない絶対的な基準に対する絶対的な信念 を持ち、内外から侵入してくるすべての悪の条件を防ぐ必要があります。この強い意志には必ず目的地があり、その目的地では、天の前で価値ある縁を示すことができるでしょう。その時には、心の動きに従い、心が指示する通りに生きることが求められます。たとえ全体の目的を知らなくても、日常生活の中で価値的な縁を築くために、そのように生きていくべきなのです。


皆さんは自分の心に問いかけ、本来の故郷がどこなのかを尋ねたことがありますか? 歴史は進歩し、文化も発展してきました。文化や人間の知恵により、外的な環境はある程度変化し、発展しました。しかし、心の世界は変わりません。この心の世界には革命も進歩もなく、ただそのままで「永遠」であり「不変」です。


心には明確な目的があり、それが定まると無限に進み続けます。 磁石が南北を指し示し、その方向を変えるには外からの大きな力が必要なように、良心の世界も外的な力によって動かすことはできません。したがって、この動かすことのできない心の作用は、絶対的な理念の領域に属しています。心の明確な目的観が解明されると、体のすべての細胞や感情までもが巻き込まれて動くことは間違いありません。


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問題は単純です。どれだけ素晴らしい良心の作用があったとしても、その人が備えている程度以上の作用は起こせません。 自分の限界を超える行動はできないのです。心は主体的な位置にありますが、それが何千倍、何万倍にもなることはありません。心は肉体を制御しなければならない相対的な立場にあるため、相対的な関係を超えては作用できません。


このため、良心にも違いが生じます。さまざまな違いがありますが、その良心には本質に向かう方向性が備わっています。この良心の方向性を確定させるために「観」が生まれます。たとえば「人生観」「宇宙観」、あるいは主義や真理の表象などがそれに該当します。これらは相対性を持つ完全体です。


完全なマイナスがあれば、完全なプラスをある程度推測することができます。完全なプラスがあれば、完全なマイナスが成立します。これは自然現象です。したがって、天上に永遠不変の完全な主体が存在するため、私たちの心はその完全な主体を手本とし、その主体の前に相対的な基準を形成するために、今日も明日も努力を続けるのです。


神は無理やり人間の心の基準を変えることはできません。それは肉体と調和しながら進めなければならないからです。まず肉体を整え、その肉体を特定の環境に置いた後で、その心情の方向を自然の法則に合わせなければならないのです。このような真理の法則を確立することを神は望んでおられます。


もし世界を貫き、天の原則に適合する真理が現れるならば、良心は無限に広がり、活動することができるでしょう。その真理は、私たちの心を完全な方向へ導き、肉体と調和しながら、その価値を永遠に発揮させる基盤となるのです。


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そのため、人間は真理を求め続けています。 しかし、現代の20世紀文明が誇る文明世界においても、人間の心が湧き上がり求める無限の絶対者の前に、自然な相対基準を形成する姿へと促す真理は、地上に現れていません。このため、人間は堕落の悲しみから解放されることができていないのです。


神は、さまざまな形で人間に教え導き、目的に結びつけるための悲痛な歴史を歩まれていることを考えるべきです。


今日、私たちは人生の行路を進みながら、真理の方向を探し求める逃避行路にいます。その過程で、神はどれほどの労苦を積み重ねてこられたことでしょうか。人類の歴史が抱えるすべての悲しみと、惨めな状況を思い起こすと、私たちはそれが恐ろしい歴史だったと思うかもしれません。しかし、この歴史を進めてきた主体者である神の側では、それ以上に恐ろしい戦いが今も続いているのです。この戦いがなければ、私たちは安らかに眠ることも休むこともできない惨事に直面することになるでしょう。


心は始まりであり終わりであり、魂と実存的な本体と結びつくものです。 このため、その悲しみが解消されるまで、またその悲しみを完全に克服して解決するまで、同じような深い悲しみとして心に影響を与え続けます。この悲しみを引き起こしたのは人間であり、この悲しみを延長し続けてきたのもまた人間です。このような人間に対する裁きは、当然の処置と言えるでしょう。


これからの人間は、真理を手にして本来の故郷を目指して走らなければなりません。 次に、生命を探し求めなければなりません。「私の生命の主体はどこにあるのか?」「永遠不変の生命の主体はどこにあるのか?」さらに進めば、「神は愛であり、イエスも愛だと言ったが、その愛の主体はどこにあるのか?」という問いに答える必要があります。


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そして、それらに出会い、次のように宣言するのです。「私が持っている真理の価値はこれです。私が持っている良心の基準はこれです。私が備えている愛の基準はこれです。」その価値的な評価を受け入れた後に向かう場所が霊界です。


霊界には、極めて善なる天上世界がある一方で、それに反対するサタンの世界、すなわち悪しき地獄もあります。このような霊界を知り、目指すべき方向を明確にしながら、私たちは真理と愛を追求していかなければなりません。


皆さんは何を持っていますか? 今、私たちは探し求めなければなりません。心の現象を通じて、自分の心がどのような関係にあるのかを知ったのなら、次に必要なのは、自分の心を無限に高めてくれる本体の前に、自然な作用として陰的なマイナスの立場、あるいは陽的な主体の前に対象的な立場で立つことができる、歴史的・時代的・未来的な真理です。これが、私たちが真理を探し求める理由です。主義を探し求める理由でもあります。


さらに進んで、真理を求めてさまよった先祖たちをも超えられる、偉大な勇者 が現れる必要があります。歴代の聖人や賢哲たちに向かって「一体何をしてきたのか」と問い詰め、数々の道を説いた導師たちに「何を成し遂げたのか」と抗議できるような人物が、地上に現れることを私は切に願っています。それが必要ではありませんか?


このような存在が、逃避する生活を送る人間にとって必然的な条件であり、備えるべき絶対的な条件であるならば、今日の人間は、そのような人物を迎えるための運命的な状況に置かれています。人間は、自ら望んでそのような環境に生まれたわけではありません。また、自分で解決できる根本的な原因を持っているわけでもありません。そのため、常に相対的な立場で価値的な関係を持ちたいと願っても、実際にはそのような価値的な縁を結ぶことができないのです。


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人生の行路で自分の価値を誇る人を見てください。彼らがその価値で持ちこたえられるかどうか。もし不十分な姿で自慢しているなら、周囲の環境や万物ですら「こいつ!」と思うでしょう。これは、私たちが持つ良心に基づく自然な現象です。もしも不相応な者が偉ぶっているのを見たら、皆さんはどう感じますか?「素晴らしい!」と褒めたくなるでしょうか?そうではなく、「こいつ、いい加減にしろ」と叱りたくなるはずです。これは悪い心ではなく、本然の心情なのです。


このような状況にある皆さんは、自分の価値を主張する人々の姿をよく見つめるべきです。「どのような主義か?どのような観か?」という問いには、良心の世界には主義も観も存在しないことを明確に理解する必要があります。良心の世界は、主義や観が切り離されたり、解明されたりすることができない世界なのです。


それでは、今日の私たちの価値はどれほど誇れるものでしょうか?「私はこれこれの主義を持ち、私はこのような存在だ」というのは、愚かな行いにすぎません。観念の内容を中心とした真理、あるいは天理的な内容を内包する心や生命、そして愛の心情の前に立って、自分の姿が恥ずかしくないかどうかを判断してみてください。その瞬間から、自分を見つめ直す過程が始まるでしょう。


私たちはこのような運命に置かれており、行かざるを得ません。それは必然的であり絶対的です。 真理の故郷で共に喜び合える心、真理と心が一つになり動き出す生命、そして真理と心と生命が結びつき、天情(天の情愛)を呼び起こすことのできる愛こそが、人間が求める最高のものです。


今日、皆さんはどのような立場にいますか?確かに手足を持ち、感情を持っていますが、目は何を見つめ、頭は何を考え、手足は何に向かって動いているのか? この問いに向き合う必要があります。


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「手よ、お前は真理を求めるためにどれほど苦労してきたか?」「体よ、お前は真理や本体を目指して走り続ける心にどれほど協力してきたか?」こう問いかけてみるべきです。


しかし、日々「まあ、何とかなるさ」「一杯食べたからそれでいい」「一眠りしたからそれでいい」と繰り返しているうちに、人生はあっという間に過ぎ去り、死の断崖に突き当たってしまう運命に陥ります。皆さん、人間はそのような無価値な存在ではありません。無秩序で無目的な生き方をするために、宇宙の主が私たちの命をこの地に与えたわけではありません。


原因と目的に基づく関係の現象世界を通して、不変の目的を推進しようとする縁を無視することはできません。 その縁を統合し、関係と価値を論じるべき人間が、そんなに浅はかであってよいのでしょうか?皆さんはそのような人間ではありません。


もしここに賢い人が来ているなら、「私はインテリだ」と言いながら、どこかで逃避しようとしている人に言いたいことがあります。それは、この道を一度ノックしてみてください、ということです。これこそ私が伝えたいメッセージです。


今、私たちは心の方向を高める必要があります。心の世界を広げ、地面を見るのではなく、高いところを見上げるべきです。 世界だけでなく、天を見つめるべきです。もっと高く、もっと遠くを見上げなければなりません。


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今日の私たちの心の世界は、地上の生命では満足できません。 地上のいかなる目的も、良心の作用も、そこに留まろうとはしません。人生を通じて、永遠の関係を結び、心情が無限に広がる生命力を求めていることを、皆さんは否定できないでしょう。


それでは、歴史の終わりを嘲笑し、乗り越えることのできる真理はどこにあるのでしょうか? 心の姿はどこにあるのでしょうか? 生命の姿はどこにあるのでしょうか? 愛の姿はどこにあるのでしょうか? 私たちは探し求めなければなりません。


もしこの地にメシア、救世主が現れたとしたら、その人物は明確な目的観と実践的な価値を備え、 人間と神を結びつけることができなければなりません。そして、その内容を生活の過程で証明することができなければなりません。それができないのであれば、その人はメシアでも救世主でもありません。


人類の歴史が始まって以来、万人の前に新たな視点や方向性を直接的または間接的に示し、貢献してきたものがあります。それが宗教です。 宗教の中でもキリスト教は世界の文化創造において大きな貢献をしてきました。


では、キリスト教の本質とは何でしょうか? それはイエス・キリストです。信仰者たちはイエスを救世主と呼んでいます。それでは、救世主とはどのような姿であるべきでしょうか? 救世主は、真理の本体であり、心の本体であり、生命の本体であり、愛の本体でなければなりません。 もし心の本体でないのであれば、絶対者の本体に対して相対的な存在であってもよいのです。


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この観点から天の摂理を振り返ってみると、歴史の中でイエスほど痛快な言葉を残した人物はいません。たとえば、彼は「私は神の独り子である」と宣言しました。この一言だけでも堂々としており、男らしいと思いませんか? イエスが救世主という肩書きを持っていなくても、その言葉の力強さは揺るぎません。歴史の中で、これほど痛快で堂々たる表現をした人物を見たことがありますか? 仮にそれが理想的な表現であっても、その宣言の輝きを否定することはできません。


さらに、イエスは「あなたたちは誰よりも私を愛しなさい」と言いました。どんなに感情豊かな男性でも、この言葉以上に痛快で情熱的な発言を耳にしたことがあるでしょうか? イエスは男性として最高の感性を持った人物でした。


また、彼は「私は道であり、真理であり、命である。私を通してでなければ、目的とする主体のもとへ行くことはできない」と語りました。この論理に基づき、イエスの言葉が解明され、すべての条件に適合しているので、私は彼をメシアと呼びたいと思います。皆さんはどう考えますか?


イエスは、人類を罪の束縛から解放するための王子として、私たちの人生の行路を切り拓くために先頭に立って来られた方でした。天上天下にただ一人現れた「逃避の王子」 だったのです。後に残るすべての人類も、罪の束縛から逃れるべき存在ですが、その彼らの王子として地上に来られたのがイエスでした。


イエスは私たちにとってただの聖人ではありません。彼は真理、愛、生命、心のすべてを結びつけ、神の摂理を実現するための中心人物です。この視点から、彼を救世主として受け入れることができます。


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イエスをそのように感じるならば、歴史的な真理を解明されなければなりません。 イエスに繋がるとき、本来の良心の基準が明確に立たなければなりません。イエスを見るとき、生命の永遠性が明確に刻まれるべきです。イエスを見るとき、絶対的な愛の感情が湧き上がらなければなりません。それができなければ、完全な花嫁になることはできません。


イエスは、すべての万象を創られた神の独り子です。 独り子は神の皇太子であり、天の王国に永遠に存在されるお方です。この目的を見据えて立てられた方ですから、私たちが待ち望む目的の日とは、その方に再び出会える再臨の日なのです。


そのため、人間は未だに絶対的で永遠の生命の縁を結ぶことができていません。どれほどイエスを信じても、いつかは離れてしまうことがあります。イエスが私の花婿であると告白しても、裏切りや離別が起こる可能性があります。キリスト教は真理を説いていますが、人間が進むべき心の方向を完全に示すことはできていません。このため、イエスは再び来られる必要があるのです。


今日、私たちが開拓すべきことは何でしょうか?それは、ただイエスをよく信じることだけではなく、聖書に隠された真理を見つけ出すことです。 人生の行路において悲運の曲折を引き起こした歴史的なすべての内容が、どのようにして現実と未来の世界と繋がるのかを知るために、内外の黒い障壁を切り開かなければなりません。そして、その障壁を突破し、前進するための戦いに勝利できる者となる必要があります。このような資格を持つ人々が現れるとき、初めて真理の世界が開拓されるでしょう。


真理はそのようなところで連絡を取り合い、真理の基盤はそこで根を張ります。 真理は華やかで最高の文化水準の中で根付くのではありません。それは、その文化の裏通りから真理の根を張る必要があります。真理の根は天上に張るのではなく、堕落したこの地上に張られるべきです。真理の根は天国に置くのではなく、地獄の底に置くべきなのです。


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真理の根が地獄の底に張られる日、 天上と連絡できる新たな生命体が現れるでしょう。そのとき、天の新しい生命の基準が確立されるのです。このようにして、真理は最も暗い場所から輝きを放ち、天と地を繋ぐものとなるのです。


だからこそ、私たちは真理を理想的な一面として、希望の標的として掲げましたが、それを探し求める道では、その裏通りをさまよっています。 私たちは生命の象徴を目指しながら生命の裏通りをさまよい、心の裏通りをさまよい、愛の裏通りをさまよっています。これが、人間が求める最高の道を探し求める基準であることを知らなければなりません。


道の生活をする人々は、本体的な基準で喜んでいるように見えるかもしれませんが、実際には道の裏通りで苦しみながら、それを称賛しつつ生きています。これが哀れな道の生活です。


どの民族の文化でも、その民族が革新し、新しい文化を創造する動機と源泉はどこから出てくるのでしょうか? それは、不幸な人々を抱きしめて彼らのために泣くことができる心 から生まれます。この心が爆発すると、新しい希望の炎が燃え上がり、歴史的な炎が燃え広がります。


この国が豊かな国、希望のある国になるためには、不幸で哀れな人々を抱きしめ、彼らのために泣くことができる環境を作る必要があります。 そうすれば、この国は世界を支配する存在となるでしょう。


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イエスの地上での状況はどのようなものでしたか? 彼は理想的な世界の美しさを追求する空虚な立場から、万軍の主ヤハウェの価値を称賛したわけではありません。その内容はそうであっても、生活の面では「地獄の王子」でした。このことを知る必要があります。


イエスは、真理を主張し、それを切り開くために、誰よりも心を尽くして働きました。世の人々が一つの問題を解決するために一つの苦しみを感じるのに対し、イエスは一つの真理を解明するために何千もの苦しみを感じました。そのような「地獄の王子」としての生活を送ったのがイエスだったのです。


そのようなイエスだったからこそ、地獄に行っても堂々と地獄を支配する権威を持つことができたのです。 それは、何の努力もせず、遊びながら得たものではありません。もし、体験も感じることもなく人々を罰するのであれば、その神は真の神ではありません。


イエスは、このような深い心情を持って地上に来られました。そして、「私を愛しなさい」と教えました。 その背景には次のような意味がありました。「一時的な立場で愛する者たちよ!たとえ自分の姿がどんなに尊いとしても、すべてを捨てて私を愛しなさい。そうすれば、神がさらに良い場所であなたたちを愛してくださるだろう。」


イエスの外見は哀れでしたが、180度反対の大胆な言葉を語った ということを知ってください。確固たる信念と内容がなければ、そのような言葉を語ることはできません。この視点から、イエスは真にメシアとなる資格を持っていたのです。


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今日、私たちにとって、あなたと私の縁がどのような関係で結ばれているのか分からず、また皆さんと皆さんが見ている人々との間にどのような曲折があるのか分からないとしても、去ったイエスの姿を追い求めるよりも、実体的なイエスを論じることのできる栄光の価値を持てたなら、どれほど良いことでしょうか。


これまで、多くの人々が歴史的なイエスを信じ、彼を歴史的な救世主と尊称してきました。しかし、神の摂理の前で、メシアの実体的価値を論じることのできる完成の基準を持って彼に向き合った人は一人もいませんでした。


人間として生まれ、歴史的な実体を持つ人間として生まれ、そのような資格を持つことができるならば、その人は真理の王子となるでしょう。


イエスは次のように言われました。「私はまだあなたたちに言うべきことが多いが、今はあなたたちがそれを受け入れることができない。」(ヨハネ 16:12)また、「もし地上のことを話してもあなたたちが信じないなら、まして天のことを話せばどうして信じることができようか。」(ヨハネ 3:12)


イエスは、単なる真理の実体ではなく、良心の根源であり、生命の根源であり、愛の根源 でした。そのようなイエスに対して、「これはこうではありませんか?こうあるべきではありませんか?」と問うことのできる堂々とした人物が現れるなら、私たちは両手を挙げて彼を歓迎し、迎えるべきでしょう。たとえその人物がイエスよりも高く評価されたとしても、イエスはそれを叱責されないでしょう。



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メシアの基準を知った今、私たちはどうすべきでしょうか? イエスを知った今、どうすべきでしょうか? イエスは言われました。「私は道であり、真理であり、生命である。私を通してでなければ、父のもとへ行くことはできない。」また、「天国はあなたの心の中にある。」さらに、「悔い改めよ、天国は近づいている。」 とも言われました。これらはすべてイエス自身を指しての言葉です。


このイエスを聖書の中に再現することが、キリスト教徒の最大の義務です。 イエスを聖書の中に再現する必要があります。 イエスは言われました。「私はあなたの中にあり、あなたは私の中にいる。」この言葉の通り、イエスを私たちの心の中に再現しなければなりません。それができなければ、心が指し示す基準に合わなければ、すべてが崩れ去るでしょう。


心の中にイエスを再現し、生命が躍動する中でイエスを再現し、心情が動く中でイエスを再現できる者こそ、再び来られる主を迎えることができます。 私は架空の主を望みません。そのような主は必要ありません。


逃避の道程にある人間には、敵の攻撃があり、防御があるでしょう。その攻撃を打ち破る基準とは何でしょうか? それは真理です。真理は、サタン世界のすべてを解明し、神を裏切ったサタンを罪人として追い詰め、イエスを掲げ、最終的にはサタンに勝つ内容を備えるものです。


サタンとは何に例えられるでしょうか?それは検察官のようなものです。 イエスは弁護士です。神は裁判官です。そして私たちは罪人です。このような関係性にあるのです。しかし、逃避の道程では、私たちが検察官の立場に立ち、イエスを弁護士として神を裁判官にお迎えし、サタンを犯罪者として裁く必要があります。


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サタンの起源からすべてを解明し、「これこれの罪状があるので、天の処罰をお願い申し上げます」と言えたならば、イエスは「そうだ」と承認し、神がその裁きを下されるでしょう。 そのような場面において、恐れるべきものは何もありません。そのような勝利の基準を持たなければならないのです。


そのようなイエスと縁を結んだならば、その心の世界には障害がありません。 その心には恐怖が入り込むことはできません。恐怖の現象は、悪による暗雲が広がり天地を動き回るために生じます。しかし、それを解明し、その主体を追い出せる立場に立てるならば、天地を揺るがすどんなものも、その人の生命を支配することはできないのです。


皆さんが生きているこの社会には、気づかないうちに真理の波が浸透しています。 良心の世界の流れが浸透しています。生命の感触が接近しており、心情の縁が巡り巡っています。


しかし、皆さんはそれらに対して涙を流しながら、「恐れ多いことです。どうぞおいでください」と歓迎したことがありますか? それがないのであれば、天上と地上の罪人となるのです。


「真理の波よ、私の心を打ち砕いてください。神の心情の動きよ、私の心に宿ってください。神の生命の感触よ、私の心に宿ってください。神の愛の縁よ、私の心情を支配してください」 と涙を流しながら祈る人がいるならば、その人は学問博士よりも立派な人です。このような人こそ、天が歓迎し、招くことのできる貴賓であるということを、皆さんは知るべきです。


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イエスはそのような立場におられました。 イエスは民族の罪を見つめ、次のように語り涙を流されました。「この民族よ!あなたたちは、この民族の中に神の4000年の真理の流れがあることを知らないのか。あなたたちの心の中に神の心情が湧き上がっていることを知らないのか。あなたたちの体に神の愛が宿り、今この瞬間も切ない心情と悲しい心情を抱え、困難と悲哀と絶望の心で涙を流しながら嘆き叫ぶ神がいることを知らないのか。」 と。


イエスは去られました。 イエスは来られましたが、その使命を果たしきることができないまま去られました。では、イエスが残されたその使命を誰が引き受けるのでしょうか?学ぶべきだった真理を、誰が引き継ぎ、私たちに教えてくれるのでしょうか?開拓すべき心の畑を、誰が開拓するのでしょうか?確立すべき生命の基準を、誰が立てるのでしょうか?永遠に縁を結ぶべき愛を、誰がその縁を結んでくれるのでしょうか? イエスは嘆きに嘆き、神の右手で祈らなければならない運命にあることを、私たちは知るべきです。


そのようなイエスが私たちの新郎です。どんなに冷たい心の人間であっても、その心情に浸り、世界を見つめるとき、そこにはイエスの涙と血が染みついていることを知るでしょう。そして天地を見上げるとき、神の愛がその心に染み渡るのを感じるでしょう。


「父なる神よ!イエスよ!」 と呼びかけながら、他の人々が進まない道を昼夜を問わず走り続け、天倫と共に歩む人は、神の同労者です。天はそのような人を必要としています。人類はそのような人が現れることを待ち望んでいます。


私たちの大韓民国もそのような青年男女が現れることを望んでいます。 他の人々が華やかなネオンサインの光の下で酒を酌み交わすその時間に、胸を抱きしめながら、「天よ!地よ!この運命の悲しみを私に任せてください。」 と祈る青年男女がいるならば、この国は決して滅びることはありません。


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全ての創造物の裏通りに生命の理念の根があることを忘れれば、その国は滅びます。 高い地位に登る前に、低い場所で犠牲の供え物となり、血を流し倒れながら、「この民族よ、この国の運命よ」と 心配できる人が必要です。また、そのような心配の声を聞き、その場所を訪れることができる指導者がいれば、その国は栄えます。天の歴史はそのような歴史でした。


この地に来たどの預言者や神に選ばれた偉大な者の中で、血を流さなかった者がいるでしょうか? 血と汗を流す道を歩まなかった者がいるでしょうか?人生の裏通りで苦しみ、踏みつけられ、蹴られ、押され、倒れながらもその道を行こうとする人々が、道義の道を行く人々です。


悲しみの中にある人々を尊敬します。 彼らは死の裏通りで生命の根を張るために苦しみ、追いやられています。この民族は、自分でも気づかないうちに、歴史と生命の流れ、真理の流れ、心情の流れ、愛の流れと縁を結び、その基盤を広げてきました。このような人々を、天も無視することはできません。天もそのような人々を無視することは決してありません。


人類の裏通りで人類全体を責任持とうとされたイエスは、栄光のメシアではありませんでした。 愛と喜びと幸福を歌うメシアではありませんでした。苦しみのメシアであり、悲しみのメシアであり、死のメシアでした。人類を責任持ち、裏通りの最も屈辱的な場所で、不当に扱われ、売られたイエスだったことを、私たちは知らなければなりません。


イエスを信じるということは、簡単に飛びついて掴むようなものではありません。「どうしようもない、もうダメだ」と嘆きながら、涙とともに掴み取る行為なのです。これを否定することはできないでしょう?


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イエスは次のように言われました。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を否定し、毎日自分の十字架を背負って私に従いなさい。」(ルカ 9:23)


ここで言う「自己」とは何でしょうか?それはサタン世界の権威を意味します。自己を中心とした個人の権威、自己を中心とした批判の基準、自己を中心とした感覚の世界は、この世の王、サタンから与えられたものです。これを断ち切り、孤独に涙を流しながら、暗く絶望的な人生の裏通りで苦しみ、肥やしとなり、そこに生命が根を下ろす基盤を築く人々こそが、道義の生活を送る人々です。


今日、キリスト教徒はそのような生活を送らなければなりません。華やかな文化の最前線で、新時代の夢を歌い、それに満足している人々がいるならば、彼らは歴史から糾弾され、この世の終わりの裁きの場に押し込まれるでしょう。


一方で、「あなたたちは皆行きなさい。私はここを守る」と言い、死の淵を自らの体で、血と涙で埋めて平地にしようとする集団があるならば、神はその集団を通して働かれるでしょう。


歴史は新しい理念と新しい形で成り立ちます。しかし、それは良い場所から始まるのではなく、悪い場所から始まるのです。このことを私たちは学び、知っているはずです。そのため、罪がある場所に恩恵が多いというのです。


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神の歴史は、困難で低い場所から始まり、そこに根付いた人々を通して進んできました。この事実を忘れず、私たち自身もその流れに加わる準備を整えるべきです。


私たちがこれから進むべき道は、心を開き、次のように神に訴えることから始まります。「神様!イエスは来られて去られましたが、私の心は無限に高まり、絶対者の前に堂々と立つことができる相対的な価値を歌える心の基準を持つには至りませんでした。私はどうすればよいのでしょうか?」 このように神に抗議することを知るべきです。イエスに訴え、聖書を持って抗議する必要があります。他人の言葉をただ信じているだけでは失敗します。韓国の歴史も、他人の言葉を信じ続けたことで不幸な支配を受けた過去を持っています。


私たちはただの受動的な信仰ではなく、「本質的に正しいものは何か」 を問い続けるべきです。神が人類を探し求める中で、すべてのことを無条件に信じるのではなく、本質的に誤りが含まれていないかを見極める必要があります。イエスが教えられた真理や、聖書の中の言葉が結果として実現されていない場合、「なぜそのように実現されなかったのですか?」 と神に抗議する必要があります。その際、自分自身の立場を明確に証明し、神に問いかけることが必要です。神はそのような抗議を受け止められるのです。


今日、キリスト教ではイエスの再臨を、仏教では弥勒仏の降臨を、儒教では真の人の出現を語っています。これは、単に既存の教えを再現することではなく、「より高度な新しい言葉を持つ主」 の到来を示しています。そのため、私たちは天があると信じるならば、天が答えを出されるまで抗議し続けるべきです。


イエスを信じる目的とは何でしょうか?信じてその後どうするのでしょうか? 新婦になることが目的ならば、その先には何があるのでしょうか?新郎であるイエスと出会い、愛を受けることでしょう。しかし、その愛を本当に受けたことがありますか?もしそうでなければ、抗議する必要があるのではないでしょうか?


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私は次のように考えます。「イエスが私を愛してくださるならそれでよい。もしそうでなくても、私はイエスを越えて神の愛を受ける。」 イエスは神の愛を受けるための条件であり、その役割を果たす存在です。


私たちは他人の言葉をそのまま受け入れるだけでなく、真実と本質を探し求め、神に向かって問いかけ、抗議する信仰を持つべきです。そうすることで、新しい歴史と新しい愛の基準が築かれるのです。イエスを通じて神の愛に近づき、さらなる成長を目指すことが、私たちの真の使命であると言えます。


だからこそ、パウロは「私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、誰が私を引き離すことができるだろうか」と言いました。キリストにある神の愛は、新婦という名詞的な権限の中にある愛ではありません。イエス自身も新婦を迎え、神からの祝福を受けなければ、この天の大いなる事業を引き継ぐことはできません。これを皆さんは知らなければなりません。神を中心とした愛の縁を結ぶ必要があるのです。


では、皆さんはこの内容を備えるために、心の扉を開き、真理の波が押し寄せる感覚を感じたことがありますか?清らかな良心を駆り立てたことがありますか? 良心に囁きかけてくる生命の痕跡を掴み、それを歌にしてみたことがありますか?無限の世界と縁を結び、生命の爆発力として現れる心情的な何かを感じたことがあるでしょうか?それともまだ感じたことがありませんか?


神は被造物である人間に、自己創造的な真理の面、自己創造的な心情の感性、自己創造的な生命の感性、そして自己創造的な愛の感性を、それぞれの分量に応じて感じられるように創造されました。そうでなければ、愛されることはありません。死んだような姿であれば、誰が愛するでしょうか?


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真理的な形、心情的な形、心の形、生命的な形、愛の形、それぞれが自己の本性に基づいた自発的な活力を感じられる刺激を得た人だけが、神から「よし、私の子だ」と認められるのです。それが生きることの本質です。これを否定できるでしょうか?


少しの間違いでも誤解を招くことがあります。本性として与えられた基盤の上で、自己の生命、自己の真理、自己の心の力、自己の生命の衝撃など、自己を表現しうる原初的な内容や動機的な内容を備えることが、絶対者の前に相対的な基準を立てるために必要です。 しかし、与えられたものをただ消費し、立たせても倒れるようではいけません。


今日、逃避の砦を目指して進む人生の行路において、自分の姿はどのようなものか、神は何を求めておられるのかを知るべきです。神は、人間が語られた真理の原動力となる実体になることを期待して、6000年もの間、苦しんでこられたことをはっきりと理解しなければなりません。


その境地に入るとき、キリストがそうであったように、「私は神の中にあり、神も私の中にいる」と 自信を持って言えることを、皆さんが体験を通じて理解することができるでしょう。


そのような動機的な感覚を持ち、死の道を堂々と進もうとする「逃避の王子」を捉えることは誰にもできません。彼は真理とともに動き、私たちの心の世界と調和し、生命の原則とつながり、無限に動き続け、心情の世界と共に無限の創造の妙味を示す存在です。そのため、彼は天が絶対的に保護するのです。


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もしそのような境地において、自分自身の価値を論じ、自分を中心に神と自分の関係を語れるようになったなら、その姿を見られる神はどれほど喜ばれるでしょうか。たとえば、自分が書いた本の中で「この人はこういう人だ」と記した際に、その人が「なぜそんなふうに書くんだ!」と怒るでしょうか?むしろ、「あなたが言わなくても、あなたの心はこうではありませんか?」と穏やかな調子で歌い上げるように伝えられたらどうでしょう?どちらの方が心に響くでしょうか?


神の創造の理想は、自らの心情に内在するすべての刺激的な感性を人間に示し、その価値を見て喜ばれることにあります。


自分を中心に生きる人は、最終的に自分を失い、滅びます。 自分の価値を100%歌い上げた人々も、死と共に消え去る運命にあります。家庭の孝子、忠節な婦人、国家の忠臣であっても、その国家が世界の潮流に流され、融合し、滅びるとき、彼らも共に消え去ります。


私たちが逃避の砦に向かって進むためには、すべての個人的なものや自己中心的な感情を断ち切らなければなりません。 6000年の歴史の中で、そのような人が現れたなら、神がその人を祝福されないはずがありません。しかし、そのような人が現れなかったために、神は嘆かれているのです。


もし韓国にそのような青年が現れるなら、神を韓国にお迎えすることができるでしょう。これは過言ではありません。受信機が強力な信号を捉え、全ての力を引き寄せ、再び発信する力を持っているならば、その原動力を備えた存在となれるのです。


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人類はこれまで、自分を中心にして嘆き、自らの狭い価値を語り、悲しみに暮れてきました。これは実に哀れな姿です。一つの家庭や国家、世界的な主義思想に自らを縛り付けて苦しむ人類の無価値な姿を見て、「お前たち、どけ!」と叫ぶ権限を持つ者、それがメシアです。


観念的な歴史観は簡単に過ぎ去ってしまいます。もし、宇宙を認識的に解明できなければ、歴史はこのまま続くでしょう。歴史は、私たちにすべての基準と基盤を整えて解決することができませんでした。 そのため、まずこの根本的な問題から解明しなければならないのです。


外面的には歴史の流れと、内面的には心が動く方向に歩調を合わせ、堂々と進むべき分岐点で神の前に立つならば、神は「よし、勝利の王子だ」と印を押してくださるでしょう。ここで語られる人は、そのように信じています。


今や私たちは、誰かの言葉をただ聞いているだけではいけない時代に来ました。どんな真理や、どんなに優れた教師の言葉よりも、自分の心の声を聞き、それをさらに聞きたくなるように、その心を探し求めなければなりません。そうすれば、自分でも分からない無限の何かが現れます。それが創造の内容です。


偉大な科学者が高度な分子公式を解こうとする際、相応する基準を見つけられずに苦労することがあります。しかし、一つの相対的な基準を掴めば、全てが解明されることもあります。その基準を掴むためには、眠りを忘れ、食べ物を忘れ、生活上の感情すらも忘れ、これまで五感で感じていた全てを忘れて没頭する必要があります。そのように苦闘する中で、内的な体系から外的で実証的な公式が文化の軌道として現れるのです。


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人間は、このような働きをする中間的な存在に過ぎません。このような私たち人間は、現在どのような立場にあるのでしょうか?原因の世界にも、目的の世界にもいません。私たちは関係の世界で苦闘しています。この関係の世界もまた、やがて過ぎ去るものです。数学の問題を解く際、ある公式に数値を代入して答えが得られると、答え以外のものは必要なくなるのと同じです。


関係の世界が悲惨であったならば、この関係の世界の悲惨さを解明し、神の意志と心情をつなげることができる人がいれば、その人は必ず永生します。歴史と共に裁かれることはなく、終わりの日と共に滅びることもないのです。このことをはっきりと理解してください。


結論として、問題は自分自身にあるのです。私たちが信じるイエスが、食べるものも、着るものも満足に得られず、夜も眠らず祈られたのはなぜでしょうか?それは人生の道があまりにも忙しかったからです。イエスは自らの道を解決しなければならず、民族の道を解決しなければならず、世界の道を解決しなければならなかったため、何百倍もの努力をされたのです。


私たちも、人生の道を進む中で、どれほど苦労し、努力し、この道を切り開いていくべきかを各自で考えてください。人生の道の脱落者とならず、この人生の滑走路を進む途中で墜落する者とならず、堂々と大空を飛ぶジェット機のように飛翔できる勇者の姿を目指しましょう。




<祈り>


父なる神様! 多くの人がこの地を訪れ、去っていきましたが、時間と空間を超え、生命の縁を結んでくださった方はおられなかったことを私たちは知っております。その唯一の方を人類は歴史と共に待ち望み、今日も天に向かって悲痛な叫びを上げています。


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ここにひれ伏しているあなたの息子娘たちは、御言葉を聞いて気づきました。問題は他者にあるのではなく、自分自身にあるのだと。いかなる対象的な存在の観念が問題なのではなく、自分を中心に据えて決断できる実体的な内容こそが問題であることを理解しました。


このような内容を備え、あなたを「父」と呼べる存在をあなたがどれほど待ち望まれているかを知りました。どうか、私たちがそのような息子娘となるよう導いてください。


私たちの心が無限にあなたの前に調和し、体もあなたの前に調和し、永遠なるあなたの生命と愛の前に、自らがあるのかないのか、体の内にいるのか体の外にいるのかすら分からないほどの近い距離で、証を立てる者となること。これが変わらぬ実体として唯一の目的であることを御言葉を通じて聞きました。どうか今日、その感覚を私たちが得られるようにしてください。


私はどのような立場にあるのでしょうか。居眠りをしているのか、道を外れて迷い苦しんでいるのか、休んでいるのか、それとも眠っているのか、どのような環境にあるのかを自分で知るために戦わなければならないことを認識しております。心の戦い、生命の戦い、心情の戦いを経なければならない開拓的な道程が、私たちの前に残されていることを知りました。


そのような過程を通らなければ、私たちが目的の世界と縁を結ぶことができないということも理解しました。


37


今日、この目的に向かって進む私たちの心と体をどうか励まし、本郷に近づけるようにしてください。生命の御言葉が私たちの骨と肉の奥深くに永遠に刻まれるように導いてください。


これらすべての言葉を主の御名によってお捧げいたします。アーメン。

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