老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

葛井寺(ふじいでら)と道明寺(どうみょうじ)・道明寺天満宮

2018年08月12日 19時45分33秒 | 旅行/色々な風景
 和泉市の施福寺参拝を終えた後、藤井寺市に向かいました。
この辺りの地理には疎いので、ナビ任せとしましたが、ナビは阪和道を松原まで戻り西名阪で藤井寺に選びました。距離的には下道よりは遠回りのような気がしましたが、高速道路利用なので信号もなく時間的には随分と早く着きました。

 先ず向かったのは、葛井寺(ふじいでら)
ここは、真言宗御室派の寺院で、山号は紫雲山で、藤井寺あるいは剛琳寺とも称し、西国三十三所の第五番札所になります。

 寺伝では神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願で行基が創建し、古子山葛井寺(紫雲山金剛琳寺)の勅号を得たとされ、平安時代になって平城天皇の皇子・阿保親王が再興したとされている。
近世の地誌類や再興勧進帳でも以上の寺伝を踏襲しているが、百済王族の子孫である渡来人系氏族葛井(藤井)連(ふじいのむらじ)により8世紀中頃に創建されたとも推定されている。なお、平安時代初期に寺を再興したと伝えられる阿保親王の母も藤井氏ということです。
(実は、私は“ふじいでら”と言えば市名や駅名の“藤井寺”しか思い浮かばず、”葛井寺“という別の漢字があることは全く知りませんでした)

 中世以前の沿革については史料が乏しく、必ずしも明確でないが、本尊千手観音坐像が奈良時代の作品であり、更に境内から奈良時代の古瓦が出土することなどから、創建が奈良時代・8世紀頃にさかのぼることは間違いないと言われています。

 当寺の伽藍は東西2つの三重塔をもつ薬師寺式伽藍配置であったが、明応2年(1493年)の兵火と永正7年(1510年)の地震で堂塔を失い、現存する建物は近世以降の再建のようです。


 今まで訪れた西国三十三所の寺院と違って、現在では藤井寺の駅近くの市街の真中にあり、周囲は一方通行の狭い道路ばかりで、辿りつくにも一苦労しました。
境内もどちらかと言えばこじんまりとした伽藍があるだけで、静かで厳かな佇まいとは言えませんが、買い物袋を手にした人が多数通られ、それだけ住民にも身近なお寺ということになるのでしょうか。

 南大門から境内に入り本堂でお参りした後、以前に訪れて不思議な形が印象に残っている藤井寺市の生涯学習センター「アイセル・シュラホール」に立ち寄った後、遅めの昼食を摂り、有名な道明寺に向かいました。


 道明寺(どうみょうじ)は、人形浄瑠璃・歌舞伎の『菅原伝授手習鑑』「道明寺」の場で有名ですが、山号を蓮土山という真言宗御室派の尼寺で、道を隔てて道明寺天満宮があります。

 道明寺周辺は、菅原道真の祖先にあたる豪族、土師(はじ)氏の根拠地であり、道明寺は土師氏の氏寺土師寺として建立され、今の道明寺天満宮の前にあり、当時は七堂伽藍や五重塔のある大規模なものであったようです。(このすぐ近くに、近鉄電車の土師駅があります)

 901年(延喜元年)、大宰府に左遷される道真がこの寺にいた叔母の覚寿尼を訪ねて別れを惜しんだと伝えられていますが、この故事は前述の浄瑠璃にも描かれています。また、道真の死後、寺名は道明寺と改められるが、これは道真の号である「道明」に由来するようです。

 道真ゆかりの地ということで、道明寺は学問の神としての信仰を集めるようになりましたが、1575年(天正3年)織田信長の古市高屋城攻めで社殿、五重塔などを焼失しました。
また、明治の神仏分離の際、道明寺天満宮と道明寺をが区分され、現在では路を隔てています。
現在も道明寺天満宮は学問の神として地元の人々に親しまれていますが、また境内には80種800本の梅の木があり、梅の名所として知られているとともに大阪みどりの百選にも選定されています。(まさ)

(葛井寺)

南大門

本堂

同上

藤井寺市のアイセル・シュラホール。(舟形埴輪をモチーフとし、ノアの箱舟を彷彿とさせる巨大な舟型の建築物です)

(道明寺)

寺碑と楼門

楼門

本堂

境内のモクゲンジ(ムクロジ科)の変った実

同上 アップ

境内のカリン(バラ科)の実

(道明寺天満宮)

神門

境内にある牛

拝殿