老いの途中で・・・

人生という“旅”は自分でゴールを設定できない旅。
“老い”を身近に感じつつ、近況や色々な思いを記します。

南九州を訪ねて その②  ~特攻平和会館ほか(4月2日)~

2020年04月09日 20時19分20秒 | 旅行/色々な風景
(先日のこのブログを見た妹から「ティッシュペーパーのトイレでの使用は不可」との連絡を受け、今日は近くのスーパーを覗いて見ましたが、まだトイレットペーパーの棚は空っぽのまま、今後しばらく不要不急の外出ならぬ、トイレットペーパーを求めてのスーパー通いを続けざるを得ません。
また、楽しみのテニスについても利用しているコートが本日から5月6日まで使用禁止となってしまい、暫くは自宅待機となりそうですが、事情が判っていないツレアイは「何で、外に行ったらいかんの?」と少しストレスが溜まっているようで、症状が少し悪化です)


 南九州の旅行記に戻りますが、
知覧といえば、何といってもかっての特攻隊出撃の基地であったことで有名で、「知覧特攻平和会館」の見学は欠かせません。

 正直言って、ここに入るのは気が重かったですが、思い切って見学しました。

 特攻隊員の遺書・遺筆・遺品・写真などが数多く残されています。
検閲の影響も多少はあるでしょうが、多くの遺書・遺筆は、国家の為に死んでいく喜びが書き記されていますが、中には両親(特に母親)や仲間への感謝が書かれたものも数多くあります。

 何よりも、改めて感じるのはこれらの人々が若かったということで、中には17歳という方も沢山おられました。今の満年齢でいえば僅か15歳や16歳の若者です。

 戦争そのものの悲惨さを改めて感じますが、それ以上にこのような若者を特攻という非人間的な行為に進んで駆り立てた、当時の教育の在り方、即ち国家体制や指導者の問題を感じざるを得ません。


 今更、その責任問題を言ってもどうしようもないでしょうが、若者たちをこのような行動に追い込んだ当時の指導者の中で、これを心から反省したのはごく一部の人だけでしょう。

 殆どの人が、これらの若者の純粋な気持ちをある意味で利用したことに対する責任を表明することさえないままに、戦後は“日本再建の為”とかいう身勝手な理由をつけてのうのうと暮らし、生活を享受してきたのではないでしょうか。

 それを考えていると、戦後の日本が彼らが“自分を犠牲にしても守りたい”と願っていたのとは全く違ってしまい、敢えて誤解を覚悟でいえば特攻隊員の貴重な死はある意味では「無駄死に」とでも言えるでしょう。

 改めて彼らの死を心から悼むと共に、理不尽な国家の要請には安易に妥協せずに、自己の良心に従って行動することの大切さを感じる場でした。


 この平和会館の周囲には立派な桜並木がありますが、鹿児島では前日の4月1日に開花宣言がされたとかで、まだ本当にチラホラ咲きという感じでしたが、この様子や街中で見かけた風景なども併せてお知らせします。(まさ)


平和会館前のサクラはチラホラ咲き

同上。 ここも余り人はいません

会館前のツツジも開きかけ

平和会館入口。 飛行機をイメージしてデザインされた様です

像「とこしえに」

館内に展示されている零戦

特攻隊員が寝泊まりしていた三角兵舎

同上 内部

近くにある給水塔。当時のままですが少し傾いています。
戦後には、高台にあるために水不足だった周囲の人々への給水に役立ったようです。

この町には至る所に石灯篭が立っています

お昼に寄った蕎麦屋

ここ知覧は「知覧茶」の産地で、内部にはお茶を煎るための茶炉というものが展示されていました。