(夕方に黄砂に関する記事をアップしましたが、大津・坂本関係の桜の話題も余りズレると季節感がおかしくなりますので、今日は2本目を書き込みます)
琵琶湖疎水を楽しんだ後、直ぐ近くにある三井寺に向かいました。
三井寺というのは通称で、正式には長等山(ながらさん)園城寺(おんじょうじ)といい、天台寺門宗の総本山の寺院です。
かっての政治の中心地であった京都に近く、また天台宗の比叡山延暦寺とも近いだけに、この寺院の歴史は非常に複雑ですが簡単にまとめると、
・園城寺は7世紀に大友氏 (古代)の氏寺として草創され、9世紀に唐から帰国した留学僧円珍(天台寺門宗宗祖)によって再興され、平安時代以降、皇室、貴族、武家などの幅広い信仰を集めて栄えたが、10世紀頃から比叡山延暦寺との対立抗争が激化した。
・天台宗の開祖は最澄(さいちょう)で、これを更に発展させたのが3代目座主の円仁(えんにん、794〜864年)と5代目座主の円珍(えんちん、814〜891年)ですが、この二人には法華経と密教のあり方に関する考え方に違いがあったようです。
円仁と円珍が亡くなった後に、この両派の対立が激しくなり、993年に円珍派は比叡山を降り独立し、円珍派は比叡山を下りて園城寺に移った。(比叡山に残った円仁派を山門派、園城寺に移った円珍派のことを寺門派とよばれています)
・両派は共に支持者も多くて強い影響力を持っていたが故に、両者の対立は単なる思想対立を越えた激しい武力闘争に発展してしまったようで、比叡山宗徒による園城寺の焼き討ちは永保元年(1081年)を初め度々あったようです。
園城寺は平安時代から戦国時代までで合戦・焼き討ち・火災などで23回も炎上しているが、うち14回は延暦寺による焼き討ちであったともいわれています。
・戦国時代に入ると、勢力を強めた織田信長と延暦寺の対立は頂点に達し、元亀2年(1571年)には有名な信長による比叡山焼き討ちが行われましたが、この時は園城寺は信長と良好な関係を構築・維持し続けていて、信長の本陣は園城寺にあったということです。
・次いで園城寺は天下人となった豊臣秀吉とも良好な関係を築いていたが、文禄4年(1595年)11月、園城寺は突如として豊臣秀吉の怒りに触れ、闕所(寺領の没収、事実上の廃寺)を命じられ廃寺同然となった。
その際には、本尊の弥勒菩薩像や智証大師坐像、黄不動尊などは元園城寺長吏の道澄が自ら住持を務める照高院に避難させたり、ほとんどの仏像や宝物は他の寺院へ移され、金堂をはじめとする堂宇も強制的破却、移築された(当時の園城寺金堂は比叡山に移され、現在も延暦寺西塔転法輪堂<釈迦堂>として現存している)ようです。
・このように、幾多のの苦難を乗り越えてその都度再興されてきたことから、園城寺は「不死鳥の寺」とも称されているようで、明治以降は天台宗寺門派を名乗っていたが、1946年(昭和21年)に天台寺門宗と名称を改めたうえで天台寺門宗総本山となりました。
このように歴史のある寺院で、また桜の名所でもあるので、人出も多いかと思っていたのですが、境内はそれ程でもなく、密を気にせずに比較的ノンビリと拝観し、折から見頃の桜も楽しむことができました。(まさ)
仁王門
護法善神堂
桜越しの金堂
金堂
閼伽井屋にある左甚五郎作と伝えられる龍
弁慶の引き摺り鐘。延暦寺との争いで弁慶が延暦寺まで引き摺り上げたと伝えられる鐘です
有名な三井の晩鐘
一切経堂
三重塔
塀と桜
モミジの花
もうシャクヤクも開花
観学院の塀と桜
同上
桜
毘沙門堂とミツバツツジの蕾
ヒトツバダコ(ナンジャモンジャノキ、モクセイ科)
同上
桜越しに市街地を見下ろす
観音堂。西国33か所の14番札所です
展望台より 中央部右への桜は琵琶湖疎水沿いのものです。