朝。
幼稚園に向かう車の中で、息子がふいに言った。
「のどかわいた」
それで自分は、水筒を持ってこなかった事を一瞬後悔し、その直後、後部座席には、彼の手の届くところに、アンパンマンの小さな紙パックのりんごジュースがあった事を思い出した。
「そこにあるアンパンマンのりんごジュース飲みなよ」
と言うと、彼は、
「のみたいけど、ままにおこられる」
と答えた。
なるほど、彼はさっき出発前に妻との交渉に成功して、今日のおやつに食べる事になっていた下駄饅頭を車の中で食べていたのだ。下駄饅頭を平らげて喉が渇いたので、ここでさらにりんごジュースを飲む事には抵抗があるのだろう。しっかりしているなあと思わず感心した。
こういう事で妻は怒らないと、自分は夫婦であり大人だから感覚的に分かるけれど、どうして彼がそう思うのかはよく分かる。もしかすると最初はちょっと怒るかもしれないけど理由を話せば必ず分かってくれる。
「大丈夫だよ。ママ怒らないから飲みなよ」
と言うと、
「おこるよ!」
と返ってきた。
「うーん、怒るかなあ。こういう事でママ怒るかなあ」
「おこるって」
「でもさ、パパが飲んでいいって言ってるんだよ」
すると彼は、
「だれがせきにんとる?」
というので、その思わぬ発言に驚きつつ、
「パパが責任取るよ」
と即答した。
ただ、飲みたいけれど飲まない、というのは彼なりの責任ある行動と自制心の表れで、この彼の気持ちを大事にしたいとも思い、ここは飲ませないのが良いのかな、でも喉渇いたと連呼してるし、目の前にあるりんごジュースを飲めないのもかわいそうだな、どうしようと葛藤を感じた。
しかし彼は、そんな自分の心の動揺が伝わったためか、或いは父親に威厳がないためか、恐らく後者だと思うけれど、
「う〜ん。でもおこられる」
と言って、飲むのを躊躇っている。
幼稚園に着いたら、彼が自由に飲める麦茶が常備してあるけれど、残念ながら幼稚園へはまだ道のりがあった。
自分は考えがまとまったので、彼に言ってみた。
「ねえ、S。こういう事だよ。Sは今喉が渇いているけどお水がない。でも車の中にはりんごジュースがある。そして幼稚園に着くまでまだ時間が掛かる。だからSはりんごジュースを飲む事にした。パパも飲んで良いって言ってる。こんな事でママ怒らないって」
すると彼は納得したようで、パッと明るくなり、そうだね、のもう!と、素早く紙パックにストローを挿して飲み始めた。「おいしい!」と言いながらとても嬉しそうに飲んでいる。
自分は息子の中に確かに育まれている自制心と責任感に感動し、そういう風に育ててくれている妻に感謝の気持ちを抱きつつ、妻に損な役回りをさせてしまっている自分の甘さに嫌気が差し、なんだか複雑な気持ちで、りんごジュースをストローで無心に啜る息子をバックミラー越しに見ていた。