いまだペテン師には違いないが、だいぶ臨床心理学博士寄りになってきた気もする今日この頃。明日は卒業式だ。あと数ヶ月で博士号修得、「正式」に臨床心理学博士になるけれど、それでもペテン師に変わりはないと思う。自分という人間の胡散臭さは自分自身が一番良く知っているつもりだ。
それでも鬱や不安などのこころの問題を抱える人たちを心理療法という根本的な治療法で、投薬なしで確実に治せるようにはなってきている。パーソナリティ障害の精神療法も、日々改善されている手ごたえがある。しかしまだまだ問題だらけで、洗練さとはおおよそかけ離れたところにいる。そしてまだまだ恐ろしく未熟な存在。
だけど毎日いろいろな人と会っていく中で、その人たちが良くなっていく中で、その関係性の中で、自分も共に成長していく、そんな「本当の人間関係」が本当に面白く、それはなんて得がたい経験だろうと常々思う。
数年前はほとんどゼロに近かった自己肯定感も、そのような月日のなかで、気付いたら随分確かなものになっている。まだ受け入れがたい自分もいるけれど。
自己受容があるから、ひとは変われるのだと思う。逆にいうと、自分をきちんと受け入れられていないとき、ひとは変われないし、その準備もない。「自分はこれでいいのだ」と、現状の自己像にすがりつくのは、自分を受け入れられていない証拠だ。
自己容認の強いひとは、柔軟で、変わること、変えられることに対してもオープンだ。自分を受け入れているひとが、変われるひとで、自分を受け入れていないひとが、変われないひと、というのはなんだか逆説的だけれど、これはここ数年の経験で自分自身辿り着いたひとつの結論でもある。これは精神療法のからくりでもあると思う。
「それでは君は自分を受け入れられているんだね」、と問われたら、正直なところ、答えはイエスであり、ノーでもある。ひとつ確かなのは、日々変わっていく自分が楽しみなまでには自分を受け入れられている、ということだ。この感覚がもっと強くなればなるほど、他者をさらに深いところで受け入れられるようになるし、それは精神療法家としての成熟とも繋がっている。そこで自分はもっと確実に他者を治せるようになるのだろう。
博士課程の年月は酷い乱気流とでこぼこ道だったけれど、優雅さの微塵もなかったけれど、恥と挫折だらけだったけれど、今だからいえる。決してあきらめないで歩いてきて本当によかったと。すべてのことにありがとう、と。
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