スミダマンのほのぼの奮戦記

~グルメ・旅・仕事・自然・地域~あらゆる出来事をフラッシュバック。

落柿舎

2022-05-02 06:12:11 | 旅 ~京都

http://www.rakushisha.jp/

昨年夏に人力車で嵯峨野めぐりをし、遠目で落柿舎の前を通りすぎた。

(2021-8-20付 人力車で嵯峨野めぐり参照)

その時、次は必ず立ち寄ろうと課題を課したが、

早々と来ることができ、その宿題も達成できた。

それにしても落柿舎の前の草を刈ってある広々とした広場は何なのだろう。

とても気持ちが良い空間になっている。

ここは蕉門十哲の一人として名高い、向井去来(慶安4年・1651年~宝永元年・1704年)の

閑居の跡として知られている落柿舎の門。

当時、庭にあった40本の柿の実が一夜のうちにほとんど落ちつくし、

かねて買約中の商人を気の毒に思って価を返してやった。

これが落柿舎の名の由来であります。

元禄の俳人・向井去来は芭蕉の門人にて師翁の言葉に

「洛陽に去来ありて、鎮西に拝諸奉行なり。」と称えられた。

現在の落柿舎は蝶夢門下の井上重厚が明治7年(1770年)に再建したもので、

ご覧のように本庵と次庵に分かれ、農家のような質素な建物であった。

玄関の横には蓑と笠がかけられ庵主の在宅を示していた。

なお、次庵は句会席として使われていた。

芭蕉が訪れたのは元禄2年(1689年)あわせて3度来庵した。

元禄4年には4月18日から5月4日まで滞留し、

その間に座敷に展示されている「嵯峨日記」を誌した。

外の庭には多くの句碑、歌碑、供養塔、俳人塔などが並んでいる。

右側は昭憲皇太后の御歌碑、左側は高浜虚子の生前最後の自筆句碑

「凡そ天下に去来ほどの小さき墓に詣りけり」

芭蕉が嵯峨日記の最後に記した句碑

「五月雨や色紙へぎたる壁の跡」

向井去来の墓は落柿舎の裏、北へ約70メートルの弘源寺墓地内にあり、

遺髪を納めたという去来唯一の立烏帽子形の墓がある。

40センチほどの自然石にただ「去来」とのみ刻まれている。

今から半世紀以上前、この地を1人で訪れ、

このあまりにも簡素なお墓を見て胸がキュンとしたことを思い出す。

約半世紀ぶりの再会に感じるものがあった。

落柿舎の西隣は嵯峨天皇皇女有智子内親王墓に接す。

皇女は初代の加茂斎院にて当代第一の漢詩人としての

名誉を得られたのは17歳の少女の時だった。