東急ハーベスト京都鷹峯の予約を取る為に行く事に成った「亀岡紅葉巡りツアー」。
当初あまり期待をしていなかったが、意外にも素晴しい隠れた紅葉名所の数々。
これがこんな企画が無かったら訪れることのない至福のツアーとなった。
それでは亀岡のツアー始まり始まり。
ご覧の様になんとなくうら寂しい片田舎にある朝日山神蔵寺は臨済宗妙心寺派のお寺で、奈良薬師寺に始まり比叡山に結願する西国四十九薬師霊場で第四
十三番目札所となっている。
桓武天皇の延歴9年(790)、伝教大師最澄(御歳二四歳)が比叡山で修行をされ始めて5年目、叡山より西の方、常に紫雲たなびき朝日に映じて赤々たるこの山
を望みて、大師自らこの地に来られて、一寺を建立されたのが当寺の始まりといわれている。
比叡山の真西に位置し、朝日山(あさひざん)神蔵寺(じんぞうじ)と号して大師御自ら薬師如来をお刻みになって、天台の道場として開創され、以来百数十年
の間に源頼光はじめ、源氏一門の帰依崇拝尊く、大いに栄えていた。
治承4年(1180年)源頼政が、以仁王を奉じて平家を討ち破ろうと兵を挙げた時、当山の僧兵は三井寺(滋賀県園城寺)の僧兵と合して、財法を地中に埋めて近
江に駆け参じた。
しかし頼政は宇治川に敗れ、その首は丹波の当寺へ葬らんと持ち帰ったが果せず途中に葬られたのが頼政塚(亀岡市篠町)といわれている。
当寺は寺領を没収され、ご本尊の佛像だけを残して荒れ果てた草ぼうの地となったといわれている。
頼政公兜の守り本尊の金銅の小薬師仏が当寺に伝わっているのも頼政公との縁が深かったことを物語っている。
時は戦国、天正3年(1575年)、織田信長公の命で明智日向守光秀公が丹波に入口の際、この寺院も一宇残さず焼け落ちたといわれている。
しかしこの時、何人かが本尊薬師佛をこもに巻き、山中の岩下に隠してその難を逃れ給うたといい、この谷から流れる川を今も「菰川(こもがわ)」と呼ばれている。
徳川の世、延宝7年(1679年)亀山城主、松平忠昭公は臨済宗妙心寺派の僧髙隠玄厚和尚を請じで寺門を再興され、以来13世代の臨済禅の法脈を継承して現
在に至っている。
昭和47年、文化庁・京都府・亀岡市の補助を仰いで本堂西側にこの収蔵庫が建設され、本尊である薬師如来座像(重要文化財)。両脇侍の日光菩薩、月光菩
薩が収容されてきた。
その後平成8年にこの収蔵庫薬師堂「東方閣」の大改築が完成した。
当寺の手水舎はとてもひなびたものでそれなりの味がある。
又その近くには石と苔の上に小さな見ざる、言わざる、聞かざるのかわいいふくろうの人形と真紅なもみじの葉が飾られてあり、何かを語っているようだ。
この日は当寺の女性住職が丁寧に色々な説明をしてくれた。
右奥の大きな大木は当寺名物のモミジ天上の木だ。
片田舎のひなびたお寺の枝振りに味がある古木に柿の実がなっているのがスミダマンの目に詩情ある風景として物悲しげに映ってきた。
今回の旅で特に目に付いた南天の木。特にこちらのは立派な南天だった。
帰りがけに見た何か後光が差しているこの写真は神蔵寺の象徴的な一枚と成った。
「本堂の背後にそびえる朝日山(海抜460M)は、峰を渡り、崖を登り、谷に入って滝に打たれる回峰行場の名残を残し、秋口から初冬にかけて、山の頂きか
ら丹波の霞を見下ろして、また東に比叡山を望む光景は、まさに瑠璃光の世界を思わせる光景だ。」