今宮神社から次のランチの京都町中華店へ行く途中、大徳寺の境内を通って移動した。
その道中はご覧のように完璧に整備された素晴らしい道であった。
大徳寺は臨済宗大徳寺派の大本山で、
広い寺域に別院2ヶ寺と立派な塔頭がご覧の山内図のように固まって並んでいる。
まさに壮観なエリアだ。
大徳寺は鎌倉末期の正和4年(1315)に大燈国師(宗峰妙超)により開創され、
花園上皇と後醍醐天皇の厚い帰依を受けた。
室町時代には幕府の保護を辞退して在野禅院として独自の立場を貫いた。
応仁の乱で建築物は焼失したが、「一休さん」として親しまれている47世佳持の
一休宗純が堺の豪商の庇護を受けて復興し、豊臣秀吉や諸大名により建造物や寺領が寄進され、
江戸時代初期に現在の建築物はほとんど整えられた。
学生時代、英語をしゃべる住職が居た大仙院に来たことはあったが、
その時のイメージとは全く違う、これが一つのお寺なの?という広さと
すごいという空気感を大徳寺に感じてしまった。
五摂家の筆頭を担う近衛家の墓所はここ大徳寺にあった。
そうか近衛家の菩提寺は大徳寺だったのか!
約300坪ぐらいの敷地を大木が囲み、入口は木の門で閉められ、他の人々を寄せつけていない。
大徳寺の塔頭「総見院」。
本能寺の変で織田信長が自害してから100日後の天正10年(1582年)10月10日に
織田政権の覇権争いの舞台として有名な「大徳寺の葬儀」が羽柴秀吉によって執り行われ、
信長の菩提が弔われた。
本尊は織田信長坐像(重要文化財)。
大徳寺鐘楼は安土桃山時代の1583年(天正11年)に建立された。
鐘楼は1583年(天正11年)に鋳造された梵鐘を釣っている。
生誕500年を迎える茶聖・千利休の菩提寺にして日本絵画の最高峰、
狩野永徳の障壁画を有する大徳寺塔頭、聚光院。
京都国立博物館に寄託していた狩野永徳などの
本堂障壁画46面(すべて国宝)が5年半ぶりに里帰りして一挙公開。
また、現代日本画のトップランナー千住博画伯の障壁画「滝」も公開されている。
大徳寺の塔頭寺院の中でも別格地とされる大仙院。
創建は永正6年(1509年)で枯山水の代表作である書院庭園がある。
天正17年(1589)浅野幸長・石田三成・森忠政(菊丸の弟)が春屋宗園(大宝円鑑国師)を開祖として
創建された大徳寺の塔頭三玄院。
小堀遠州・古田織部・薮内剣仲・長谷川等伯などは春屋に禅を学んだ人々である。
沢庵・千宗且らも修行し、春屋・三成・忠政・剣仲・織部の墓が祀られている。
大徳寺の山門、金毛閣。
応仁の乱後、享禄2年(1529年)に再建された。
その後天正17年(1589年)千利休が造替した。
その際に雪駄履きの自信の木像を安置したことで豊臣秀吉の怒りを買い、
切腹を命じられたという逸話がある有名な門だ。
ここ大慈院は座禅、特に夕暮れから夜にかけてのドラマチックな時間、
静かな境内で組む「夜空の坐禅」が評判になっている。
室町期の建築様式の特徴を見せる本堂(重要文化財)や唐門を持つ大徳寺興臨院。
その後、豊臣政権の五大老を務めた前田利家が菩提寺にするなど加賀前田家ゆかりの寺院だ。
数十年振りに広大な大徳寺の境内を散策したが、
思っていたのと全くイメージが変わってその空気に圧倒されてしまった。
これはもう一度、目的を持ってじっくり来る必要を強く感じた次第です。