紅葉で美しい参道を進み、吉野太夫寄進の山門である赤門をくぐる。
ここ寂光山常照寺は洛北の山裳にあり俗に鷹峰三山と呼ぶなだらかな三つの丘陵を西に望むところにある。
当山は元和2年3月(1616)本阿弥光悦の土地寄進とその子、光瑳の発願によって
見延山第21世日蓮宗中興の祖と敬仰される寂照院日乾上人を招じて開創された鷹峰檀林(学寮)の旧跡で、
それ以来連綿と続き世に山城六檀林の一偉観をなしてきた。
散り紅葉の美しい境内の正面に見えるのが本堂。
その扁額は日潮上人筆のものだ。
盛大な頃は広大な境内に大小30余棟の堂宇がならび幾百人となく勉学にいそしむ学僧で
賑わったことは本阿弥行状記や元政上人の日記などに紹介されている。
こちらが本堂内の祭壇。
境内内の紅葉と散りもみじの美しさには思わずため息が出るほどだ。
正面の建物が鬼子母尊神堂で右側にチラッと見える建物が常富大菩薩。
本堂から渡り廊下を渡ると広い部屋に出る。
ここでは当寺の説明DVDが流され、さらに住職さんからのお話もあった。
隣りの源光庵が大変な人混みだったのに比べ、
当寺は人があまりおらず住職さんも張り合いがなかったのでは。
吉野太夫の好んだ大丸窓(俗に吉野窓)を配した遺芳庵という茶席。
4月の桜の季節には名妓慰霊のため島原の太夫道中による墓参、供茶法要が営まれ、
境内随所に野点茶席が設けられて京の名物行事となっている。
本堂の右裏手には墓地があり、その中央の建物、「開山廟」には日乾上人の五輪塔のお墓がまつられている。
こちらが吉野太夫のお墓。吉野太夫は遺言により日乾上人廟の裏手に葬られている。
「唱玄院妙蓮日性信女」がその戒名であり、歌舞伎俳優や芸能人、数寄者にこの地を訪れる人々が多い。
都の六条三筋町の廓に寛永の頃、天下の名妓として一世を風靡し、
その才色兼備を謳われた二代目吉野太夫(松田徳子)が光悦の縁故に
より日乾上人にまみゆるやその学徳に帰依し寛永5年23歳のとき
自ら巨財を投じて朱塗の山門を寄進したのが今に残る吉野門だ。
吉野は和歌、蓮歌、俳句、書、茶湯、香道、音曲、囲碁、双六と諸芸に秀で、
その美貌は唐の国にまで喧伝されたという。
粋人の夫との二人のロマンスは後世演劇、歌舞伎にも戯曲化され有名である。
吉野は寛永20年8月25日、38歳で病歿した。
常照寺、この道の先には源光庵がある洛北の静かな住宅街の風景。