砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

新年のご挨拶と他者性について

2022-01-04 18:45:55 | 日記
あけましておめでとうございます。
は?何がめでてえんだよ?(2年ぶり2回目)

新年早々疲れてしまったのでブログを書きます。
今年は土日があいだに入っていたので、年末年始の休みがあっという間に過ぎてしまいました。
むかし話で狐に化かされたときのように「本当に休みなんてあったのか?」「私が見ていたのは…幻…?」という気持ちになっています。悲しいね。

今朝は8時から勉強会に参加して、その後仕事に行きました。明日も朝から長めの会議が入っているし、夜もリモートで会議。明後日も労働後に職場で研修があるから帰るのが22時頃になるし、諸行無常です。この苦しみから抜け出すには大仏を建立するしかない!!!(白眼)

今年はちゃんと勉強や発表を頑張りたいなあ、と思う次第。
更新頻度は相変わらず少ないと思いますが、何卒なにとぞ。



急に話題が変わります。
生きていると納得がいかないことってありますよね。

今日郵便局に行ったら、局員に高圧的な態度を取っているおばあさんを見て少し不快な気持ちになりました。
局員の方は丁寧に説明されているのに、それにも納得がいっていないようだったし、そもそも十分に説明を聞いていないみたいで。列で待ちながら「この人なんなんだろう?」と感じていました。
このとき、なぜ私は不快になっているのだろう、と思うわけです。
私が嫌なことをされているわけでもないのに、なぜ嫌な気持ちになるのでしょうか。

局員に対していわゆる「同一化」をして、きっと嫌な思いをしているんだろうなぁ、自分が局員だったら嫌だなぁ、と思うから不快になっているのか。それともそのおばあさんがあれこれ文句を言うから、待たされる時間が長くなって不快になるのか。

郵便局から職場に戻ってきて、仕事の合間にも考えました。
あれこれ考えた結果、一番嫌だったのは「想像力の欠如」なのかな、と思うわけです。


想像力の欠如。
それをやったら相手がどう思うか、という思考の欠如。

そのおばあさんは、自分が高圧的な言動をすることで局員の人がどう思うか、まったく考えていないように見えたのです。もしかしたら、高圧的に振る舞うことで相手を思い通りに動かそうとしたり、ただ鬱憤を晴らしたかったりしたのかもしれません。その可能性もゼロではないのでしょうが、真実は芥川の『藪の中』のように不透明です。「想像力の欠如」に見えたのは、あくまで私の主観的な理解です。

想像力の欠如。
それで問題を片づけるのは簡単だけど、でも本当にそれでいいのだろうか。
じゃあ自分が想像力をフル稼働させたクリーンな人間で、過去に人を傷つけたことがないかと言えば、まったくの嘘になります。ピノキオの鼻が月面に着陸する規模の嘘です。

私も過去にたくさんひどいことをしました。
ヘビを湘南の風のように振り回したし、殺虫剤を溶かした水をアリの巣に流し込んだりして壊滅させたし。
人に対しても、心無い一言を言って傷つけたことがたくさんあります。私が投げた石のせいで友達がハチに刺されたし、約束を破ったこともあれば泣いている人にひどい態度を取ったこともあります。嘘もたくさん吐きました。
そうした過去のことを思い出しては、いまだに申し訳なく思ったり恥ずかしくなったりします。
あんまり他の人のことはわかんないけど、みんなそういう思い出や気持ちがどの程度あるんだろう。
『彼岸過迄』の主人公のように、他人の薄暗い部分を知りたくて今の仕事をしている面もあるのかな、と思ったり。
自分に好奇心旺盛かつ無神経な部分があることを、もっと自覚する必要がありそうです。


…という懺悔や告解もどきがしたかったんじゃないんだけど、書いているうちにしみったれた文章になってしまいました。
じゃあ他の人にも主体があって、人それぞれに感性や思考や主観があって、というようないわゆる「他者性」ってどうやって確立されるんだろうね、みたいな抽象的なことを私は2012年頃からずっと考えています。まだ答えは見つかっていません。

ちなみに魚は鏡を見て「あ、これ自分じゃん」とわかるみたいです。
すごいですよね。ホンソメワケベラという種類の魚が「ミラーテスト」という実験で成功したようです。詳しくは幸田正典著『魚にも自分がわかる―動物認知研究の最先端』(ちくま新書)をご覧ください。年末に読んでとても面白かった本です。


魚にも自分がわかるのに、私は一体何がわかっているのだろう。
少なくとも自分がちゃんと自分のことをわかっていない、ということはわかっているつもりです。
無知の知、というやつですね。
ガハハハ、どうだまいったか魚よ。
ガハハハハ…。