砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

川上弘美「真鶴」

2017-08-10 22:55:46 | 日本の小説

久しぶりにいわゆる「聖地巡礼」をした記念に、今日は川上弘美の『真鶴』を。
これまで聖地巡礼をしたのは、タブッキの『レクイエム』でリスボンを、漱石の『こころ』で雑司ヶ谷、小沢健二の曲で尾道、キリンジの曲で江古田のプアハウス、小津安二郎の映画で鎌倉を訪ねたくらいである。あれ、結構行ってるな。




実際の真鶴は美しい町であった。

『真鶴』は不思議な作品、そして川上弘美のなかでもっとも具合の悪い作品であると思う。文章自体は断片的でありながらも、そのリズムは流れるように整っている。具合は悪いが、個人的には彼女の作品では一番好きだ。『神様』『古道具屋 中野商店』のふわっとした日常と非日常のあいだも、『ニシノユキヒコの恋と冒険』『センセイの鞄』のような恋愛の話も良いけれど、彼女の本当の魅力は心の奥深く、どろどろとした部分を描くのがとても上手なことだと思う。

村上春樹はそういった部分を、人間の心の揺れ動きを比喩や突飛なストーリー展開で描く。井戸に入ったりギリシャに行ったりハワイで女を追いかけたり、やれやれ。しかし川上弘美は、それを比較的「そのまま」の形で描いている。
これはもちろん、並大抵のことではない。そしてそれが説得力を持っているから不思議なのだ。しかし説得力を持っているということは、そのまま情感が伝わってくることになるから、読み手はとうぜん苦しくなる。とりあえず心に余裕があるときにでも読んでみてもらえればと思うのだけど、以下に印象深い箇所をいくつか紹介したい。

まず書き出しがすごい。

「歩いていると、ついてくるものがあった」

なんじゃこりゃ。読者は「えーと、一体なにが?」という気持ちになる。しかしその後もついてくるものの正体は判然としない。男なのか女なのか、大人なのか子どもなのか、そもそも人間なのかわからないまま、それはどこかに消えていく。このあたりから「なにか得体のしれないことが起こっておる!」という気持ちにさせられる。

続いて主人公の京(けい)が初めて真鶴に行ったあと、母からどうだった?と聞かれる場面。
「つよい場所だった」京は答える。真鶴は昔ながらの森林、そしてずっと昔から変わらぬ海がある町だ。人間のこころの深い部分に働きかけるにはうってつけの場所であるし、そういう意味では彼女が「つよい」と形容したのも頷ける。
しかし現実の真鶴は作品で描かれているほど、不穏な場所ではなかった(当たり前か)。長いこといたらまた印象が変わるのかもしれない。春先や秋の終わり、あるいは冬に海が時化になっている時に行くと違う顔を見せるのだろう。もちろん、作品の中では真鶴に行ったときの京の精神状態が大きく影響していくのもあるはずだ。

おそらく京の精神状態が一番悪いのは、7月の真鶴に出かける場面だろう。夏に開かれる貴船神社の祭りで「ついてくるもの」と一緒にいながら、京は何が本当で何が幻なのかどんどんわからなっていく。いわゆる「幻覚妄想状態」みたいになっている。船が燃えたのでは。人がたくさん死んだのでは。京はそれを懸念して不安になるが、ついてくる女には「あなたがそう願ったのよ」と言われる。狂気に拍車がかかる場面だ。読んでいて、ずっしりとした辛さがやってくる。


貴船神社。ふかわりょうがいたら「おまえんちの階段、急じゃね」と言うくらいの勾配。


遠くに見えるのが「三ツ石」と呼ばれる、一種のご神体である。

物語のなかでは、失踪した夫や不倫関係の男が中心となる「女としての京」の部分が語られる一方で、遠ざかろうとする思春期の娘との関係の揺れ動き、すなわち「母親としての京」の部分も描かれている。そう考えるとけっこう複雑な構造の話だ。そして複雑な関係のなかで、主人公は何度も傷つき揺蕩っていく。それを「母子の分離」や「不在の対象への愛と憎しみ」といった心理学用語で片づけるのは簡単だけれど、それではこの物語の本当の魅力は伝わらないだろう。読んでいる途中、本当に苦しくなるぶん、そしてその苦しみがなにによるものなのか「わけがわからない」ぶん、終わりに向けて物語が進んでいく、少しずつ整理されてクリアになっていく過程が、なんというか救いのない暗闇の世界に光が差してきた、とでもいうんだろうか。「安心できる世界」にようやくたどり着いた気分になる。
オタマジャクシの話も印象的である。大半は死んだけど、生き残ってちゃんとカエルとなっていったものもある。人間のこころも何か、我慢したり傷ついたり犠牲になっていく部分はあるけれど、それでも生き残って成長していく部分もあるのだろう、そんなことを考えさせるエピソードだ。

それから夫の浮気が徐々に明るみになっていくことについて。空想のなかだけれど逆上して刺したり首を絞めたり、しかしまあこれだけ人を憎めるのがすごいな、というのが率直な感想だ。しかしそれだけ憎めるのは、本当に夫のことを必要としていたからなのだろう。夫の礼が浮気をしていたとはいえ、結局京だって妻子ある男性と関係を持っている。同じようなことをしているのだ。だのに、不倫相手の青茲が自分から離れようとすると「いや」「さみしい」と言って縋り付く。全然知らない男と寝るシーンもある。そこに罪悪感はほとんどうかがえない、自分のなまの感情でいっぱいいっぱい、それどころではないのだろう。そういったシーンも、読んでいて苦しい。

どこまでが「現実」でどこからが「非現実」なのか。こういった妄想的な内容は、『蛇を踏む』でも『なめらかで暑くて甘苦しくて』でもあるけど、一番「わけがわからない」、そして一番「ぞくぞくする」のは、きっとこの『真鶴』だ。三浦雅士の解説も良い。
そして「ついてくるもの」とは一体何だったのか、最後まではっきりしない。けれど、それは主人公とえらく対照的な存在である。京は娘の些細な言動にも揺れ動き、傷つく。男が離れていくことにも苦しむ。けれど「ついてくるもの」の代表である白い女は、平気で自分の子を、しかもまだ幼子を海に放り投げたりしている。ただの妄想のなかの迫害対象といえばそうなのかもしれないけれど、主人公のなかにある一種の狂気というか、破壊的な部分なのではないか、と思うのである。だってあまりにも京のことをよく知っているのだから。中盤では娘よりも近い存在になっている。


なんだか感想が断片的になってしまった。まあでもそういう本だから、ということでどうかご了承いただきたい。まだ2回しか読んだことがないから消化しきれていない部分が多いのだろう、時間を置いてまた読み返したい。たぶん夏休みの読書感想文には向かない一冊だと思うが、もしこの記事を読んで気になったら手に取ってみて欲しい。



今回の巡礼のハイライト、のびやかに寝る犬が羨ましい。

この作品が真鶴の観光に影響しているかどうかはわからない。そもそもいいイメージを与えているのかもわからない。後輩には「これを読んで真鶴に行こうとは思わないです」と笑って言われたけれど、個人的には行ってよかったと思っている。坂の多い、海と森の綺麗な不思議な街だった。レンタサイクルは1日1000円だし、そしてそんなに見どころのある町でもないので(失礼)1日もあれば回れるだろう。興味のあるかたは是非、本を片手に。ついてくるものがないことを願う。

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