代行で頼まれたんで書きました。ちゃちゃっと20分くらいで。
よい子はまねするなよ!2日後くらいには消します。以下本文。
夏目漱石『こころ』を読んで
2年A組 毒蝮 三太夫
精神的に向上心のないものは馬鹿だ、と言った先生の言葉が、今の私たちにもきっと突き刺さるのではないだろうか。この本を読んでいて私はそう思った。
夏目漱石の代表作でもある『こころ』は、これまで幾度となく読書感想文の本として選ばれてきたのだろう。この小説で、人間の自己中心的なありさまを描く漱石の描写はすさまじいものがある。それは初期の作品である『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』には見られなかった面である。
後期作品になってから、人間は一体どうすれば幸せになれるのだろうか、といったことを考え始めた漱石は、他の作品『それから』や『行人』でもそのことをテーマとして扱っているが、結局のところ自分の幸せを人間関係のなかでどこまで追求していくか―家族のしがらみを捨てて自分の友人から恋人を奪ったり、あるいは『こころ』の先生のように、自分が心から尊敬する友人を侮蔑し、出し抜き、つついには間接的に友人を自殺に追いやってしまったり―そういった行為を通じて人は一体幸せになれるのだろうか、ということを考え抜いたのだろう。
おそらくその答え、自分の利益を追求して人が幸せになれるか、ということは、半分は正解であり半分は間違いだと私は思う。
私は「自分の好きなことをしろ」と言って親に育てられてきた。しかしいつまでも自分の「好き」を貫き通すのは難しい。世の中にはルールがあり、人間関係があり、他人がいる。もちろん人から好きだけを貫き通されたら、自分だっていやな思いをするだろう。だからと言って人の言うことに黙って従っていたら、いつしか自分が何をやりたいのか、何を大切に思うかが見失われてしまうと思う。大事なのはそれを見失わないことだろう。
我慢が求められる場合もある。自分の思いを主張しなくてはならない時もある。そこで大切なのは「痛み」に敏感であることではないだろうか。自分の好きなことを相手が了承してくれるにこしたことはないが、そうでない場合だって少なからずあるはずだし、自分が我慢したときは当然「痛み」が生じる。相手が我慢したときも、きっとその人に「痛み」が生じているのだと思う。そういった痛みに対して想像力を働かせることは、今後大人になっていく私にとって必要なことだと思う。
先生は友人であるKに「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言い放った。きっとこの言葉はKに強い痛みを引き起こしたのだろう。これは先生に想像力がなかったのではなく、むしろ十分にあったからこそ、この一言が相手を深く傷つけるであろうことを理解しての発言だったのだろう。しかしお嬢さんをめぐって、強烈な嫉妬や欺瞞の思いが渦巻いている先生は、衝動的にその言葉を放った。それがどれだけ強くKを傷つけたか理解していたからこそ、強い罪悪感があとになって生じてきたのだと思う。とても恐ろしいことだ。自分が信頼していた人から裏切られたその痛みをわかっているのに、自分が人に対して同じようなことをしてしまうのは。
まだそこまで長く生きているわけではないが、生きていて取り返しのつかないことはそんなにないと思う。生きている限り、取り返しがつくことは多いと思う。
でも人の「痛み」への想像力の欠如が、取り返しのつかない過ちを引き起こすことは十分ありえる。先生が言い放った言葉、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という一言、それを時々思い出しては、自分は本当に人の痛みに想像力を働かせているだろうか、あるいは自分が我慢ばかりしていないだろうか、考える必要があるのではないか。この本を読みながら、そんなことを考えた。
以上本文終わり。
これ読む人が読んだら絶対ばれますよね。普通に漱石の後期作品のくくりとかエゴイズムをめぐる思索とか、何作も繰り返し読まないとわかんないし。なお私は『こころ』は人生で4回くらい読んでます。そんな話はまあいいか。
よい子はまねするなよ!2日後くらいには消します。以下本文。
夏目漱石『こころ』を読んで
2年A組 毒蝮 三太夫
精神的に向上心のないものは馬鹿だ、と言った先生の言葉が、今の私たちにもきっと突き刺さるのではないだろうか。この本を読んでいて私はそう思った。
夏目漱石の代表作でもある『こころ』は、これまで幾度となく読書感想文の本として選ばれてきたのだろう。この小説で、人間の自己中心的なありさまを描く漱石の描写はすさまじいものがある。それは初期の作品である『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』には見られなかった面である。
後期作品になってから、人間は一体どうすれば幸せになれるのだろうか、といったことを考え始めた漱石は、他の作品『それから』や『行人』でもそのことをテーマとして扱っているが、結局のところ自分の幸せを人間関係のなかでどこまで追求していくか―家族のしがらみを捨てて自分の友人から恋人を奪ったり、あるいは『こころ』の先生のように、自分が心から尊敬する友人を侮蔑し、出し抜き、つついには間接的に友人を自殺に追いやってしまったり―そういった行為を通じて人は一体幸せになれるのだろうか、ということを考え抜いたのだろう。
おそらくその答え、自分の利益を追求して人が幸せになれるか、ということは、半分は正解であり半分は間違いだと私は思う。
私は「自分の好きなことをしろ」と言って親に育てられてきた。しかしいつまでも自分の「好き」を貫き通すのは難しい。世の中にはルールがあり、人間関係があり、他人がいる。もちろん人から好きだけを貫き通されたら、自分だっていやな思いをするだろう。だからと言って人の言うことに黙って従っていたら、いつしか自分が何をやりたいのか、何を大切に思うかが見失われてしまうと思う。大事なのはそれを見失わないことだろう。
我慢が求められる場合もある。自分の思いを主張しなくてはならない時もある。そこで大切なのは「痛み」に敏感であることではないだろうか。自分の好きなことを相手が了承してくれるにこしたことはないが、そうでない場合だって少なからずあるはずだし、自分が我慢したときは当然「痛み」が生じる。相手が我慢したときも、きっとその人に「痛み」が生じているのだと思う。そういった痛みに対して想像力を働かせることは、今後大人になっていく私にとって必要なことだと思う。
先生は友人であるKに「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言い放った。きっとこの言葉はKに強い痛みを引き起こしたのだろう。これは先生に想像力がなかったのではなく、むしろ十分にあったからこそ、この一言が相手を深く傷つけるであろうことを理解しての発言だったのだろう。しかしお嬢さんをめぐって、強烈な嫉妬や欺瞞の思いが渦巻いている先生は、衝動的にその言葉を放った。それがどれだけ強くKを傷つけたか理解していたからこそ、強い罪悪感があとになって生じてきたのだと思う。とても恐ろしいことだ。自分が信頼していた人から裏切られたその痛みをわかっているのに、自分が人に対して同じようなことをしてしまうのは。
まだそこまで長く生きているわけではないが、生きていて取り返しのつかないことはそんなにないと思う。生きている限り、取り返しがつくことは多いと思う。
でも人の「痛み」への想像力の欠如が、取り返しのつかない過ちを引き起こすことは十分ありえる。先生が言い放った言葉、「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という一言、それを時々思い出しては、自分は本当に人の痛みに想像力を働かせているだろうか、あるいは自分が我慢ばかりしていないだろうか、考える必要があるのではないか。この本を読みながら、そんなことを考えた。
以上本文終わり。
これ読む人が読んだら絶対ばれますよね。普通に漱石の後期作品のくくりとかエゴイズムをめぐる思索とか、何作も繰り返し読まないとわかんないし。なお私は『こころ』は人生で4回くらい読んでます。そんな話はまあいいか。
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