砂漠の音楽

本と音楽について淡々と思いをぶつけるブログ。

「子どもの臨床」の中の居心地の悪さ

2019-12-24 10:57:45 | 日記
年末だし真面目なことでも書こうかな。
今年ももうすぐ終わりますね。皆様にとって今年はどんな一年でしたか。私は様々な学びのある年でした。頑張りました。頑張った総括として、今日はブログでも綴ります。たまには自分のやっている仕事について駄文を少々。そういうのが苦手な人はブラウザバック推奨です。



以前どこかに書いたと思うが、私は主として子どもの臨床を生業としている。身バレを避けるために詳しいことは言わないけれど、その領域で働いていると、時々子どもが「かわいそう」という意見を耳にする。私はこの「かわいそう」という言葉にどうしても馴染めず、聞くたびに落ち着かない気持ちになる。
たとえば虐待を受けた経験がある人、頻繁にDVを目撃する子。はたまた親がアル中だったり、逮捕されたり自殺したり…その子たちの不幸は―もちろん完全には無理だが―ある程度想像できる。多少なりとも心を痛めることもある。しかしながら、例えば虐待のニュースなんかを見ながら「かわいそ~」と人が話しているのを聞くと、微妙に居心地の悪い思いになってしまう。それはどうしてなのだろう。今日はそれについて考えてみることにする。


仮説その1「子どもに偏りすぎ説」
子どもと比べると、大人に対して「かわいそう」と言われることはほとんどない。子どもに「かわいそう」という感情を向けるのが間違えているとは思わないが、大人でも不幸な人たちがじゅうぶんいる。事故や病気、人間関係、家族の不和、自然災害。不幸のあり様は人の数だけある。トルストイも『アンナ・カレーニナ』の冒頭でそう語っている(らしい)。
「かわいそう」という言葉で表現するならば、大人だってかわいそうな人がたくさんいるのだ。人間関係で悩んでいる人もいれば、病気や障害のある人、孤独な人もそうだろう。長年付き合っていた恋人に振られたり、配偶者からDVを受けたりしている人も不遇である。でも何か、子どもにだけ「かわいそう」が使われることの多さ。その不平等感。これは一体どうしてなのだろうな、と思う。大人になると「自己責任」になるからだろうか。ある程度自分で意思決定が出来るからだろうか。

仮説その2「かわいそうと思うことが絶対正しい説」
上の仮説と若干重複する部分もあるが、子どもを「かわいそう」「大切にしろ」と思うことは、現代社会ではとても正しい命題だ。それに対して「間違っている」と異論を唱えることはほとんど難しい。
TVやインターネットを眺めていると、障碍者や生活保護、ホームレスなどの問題にはあまり出てこないのだが、こと子どもの社会問題になると「んま~子どもの不幸なんて許せません!この社会は腐っているザマス!」と声高に訴える人がにょきにょきと湧いてくる、雨後の筍のように。とりわけ某ポータルサイトのYahooコメ欄にたくさんそういう人がいる。
「子どもを大切にしろ」というメッセージはある意味絶対的に正しく、誰も反論できない力強さを持っていると言えるだろう。多少うがった考え方かもしれないけれど、それを理由にして「自分が言っていることは間違っていないのだ」「私は正しいことを言っている」と訴え、無意識的には自身の留飲を下げる欲望を持った人たちがいるようにも思う。


児童精神科医の木部が『こころの発達と精神分析』で綴っているように、人類の歴史のなかで子どもは大切にされなかった時期の方が圧倒的に長く、「子どもは基本的に虐げられる存在」であった(木部,2019)。近代の代表的文学作品であるドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』でも、虐待される子どもの悲痛に主人公の一人であるイワンが同一化して、この世の残酷さ、どうしようもない救いがたさが描かれる場面がある。今でも、一部の国では13歳で結婚して14歳で子どもを産んでいることが報じられる。人類にとってはそれがスタンダードの時期が長かったわけだ。

「子どもを大切に」というメッセージは、相手に有無を言わせないものがある。下手に反論すると白眼視されるだろう。しかし大切にしなくてはならないのは、子どもに限ったことではない。大人だって大事にされたい。というか人は一生のあいだを通して、「他者から大切にされたい欲求」をずっと持っているのだと思う。だから浮気をした相手を許せなかったり、息子や娘から邪険にされると意地になったりする人がいるのではないだろうか。ときとして、それが事件になることもある。それくらい「他者から大切にされたい欲求」は強いものである。

なんだか揚げ足取りみたいな話になってしまった。しかし「子どもを大切にしろ」と訴える人たちのなかには、本当は自分も大切にされたいのに、されていないと感じている人がいるかもしれない。自分のなかになにか薄黒い靄があるのかもしれない。そういった可能性に意識的でないまま、声高に「正しい」プロパガンダを訴える行為は背筋がひやりとするものがある。善意の暴走と言うべきか。


それから。
子どもには選択できることが少ない。金もなければ自由もない。虐待されている子が、自分の意思で逃げることはなかなか難しい。親は選べないのだ。それが大人と比べて「かわいそう」と言われる要因の一つでもあるのだろう。大人だったら周囲に助けを求めたり金を使って解決を図ったり、嫌な人から距離を取ったりできる場合もあるからだ(もちろん、そうできない人もたくさんいるが)。
だからといって、子どもがまったくイノセントな存在とも思わない。性的な空想も抱くし、子どもなりに残酷なこともする(幼少期の私はカエルを空に投げて遊んでいたし、ヘビを湘南乃風のように振り回していたし、殺虫剤を溶かした水を流し込みアリの巣を全滅させたこともある、ひどい奴だ。FF6ならカイエンが発狂して必殺剣を仕掛けてきそう。とても成仏できそうにない)。怒りや攻撃性、嫉妬のようなどろどろした感情も、子どもはずいぶん早い段階から抱き始める。彼らがが純粋で無垢な存在というのはファンタジーなのである。
でも不思議とそういう―子どもが無邪気で無垢であるという―認識をしている人がいる。さぞ幸福な幼少期を送ったか、抑圧や理想化の防衛機制が強いか、想像力に欠けた人なのかもしれない。

村上春樹の小説『海辺のカフカ』に出てくる甲村図書館の司書、大島さんは「想像力の欠如した人間が嫌いだ」と話している。私も同感であるが、ずっと想像力を働かせながら生きていくことは難しい。それはとても疲れる行為だから。

少し話が脱線するが、人間にはあらかじめ、「考えようとする力」と「考えないようにする力」の両輪が備わっていると思う。日頃生きているなかでは、仕事をどうしよう、今日の晩御飯は何を食べよう、私の進路はどちらがいいかな、といったことを考える。一方で「自分はどう死ぬだろうか」「私の一生はこれでいいのかな」といったすぐ答えが出ない問題には、考えないようにする力が働く。考えたところですぐに解決しないし、不安になるだけだから。その両輪のバランスが崩れた時に、人間は不調を起こすのかもしれない。

想像力について話を戻す。想像力をずっと働かせるのは困難だ。だから安易に人に同調することもあれば、「考えても仕方ないから」と諦めてしまうこともある。たくさんある。
近代登場してきたメディアやデバイスは、人類を全体的に「考えない方向」に突き動かしているようにすら感じる。すぐに新しい刺激を提示して、退屈や暇を忌避させようとしているように思う。そういった道具は使い方にもよるだろうし、一方的に悪だと断罪することはできない。便利になった部分も大きい。でもそういう可能性(考えることを停止させる機能)があることを、頭の片隅に置いておくことが大切なのではないか。それによって「考えないようにする力」が働きすぎていないか、時々立ち止まって考える必要があるのかもしれない。それが子どもとかかわる際に、影響をもたらす場合もあるのではないか。


と話が逸れてしまいました。考えているうちにあれこれ脱線してしまうのは、どうにも治りそうにありません。年末で人と会ったり酒を飲んだりばたばたしています。でも今年中にあと1回くらいブログを更新したいなと思っております。

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