山口市街へと車を進め、龍福寺を訪ねました。
私は、山口市を訪ねるのは今日が全く初めてです。
今回はネット検索で、龍福寺に梅が咲くと知って訪ね来ました。
しかし旅から帰り、記事を書きつつ龍福寺を調べますと、日本の鎌倉時代から室町時代かけて、この場所に関わる様々なできごとが、その後の歴史に、少なからぬ影響を与えていることを知りました。
龍福寺は、平安末期から鎌倉室町時代にかけて周防(山口県の瀬戸内側)を中心に活躍した大内氏の館跡に建てられました。
大内氏は大内義隆の時に、山陰山陽から北九州までをも支配下に置き、学問や芸術に熱心だったことから、後に大内文化(山口文化)と呼ばれる最盛期を迎えました。
私は今回、そのような知識もないままに、龍福寺の門を潜ったのです。
龍福寺の境内には50本の梅が咲きますが、山口市内は海沿いの場所より寒いのか、梅は2分咲き程でした。
明治14年に龍福寺は禅堂と山門を残し焼失し、その後、大内氏の氏寺であった山口市内の興隆寺から釈迦堂を移築して、本堂とします。
本堂(釈迦堂)は1479年(大永元年)に建立されたもので、室町時代を代表する寺院建築として、昭和29年に国の重要文化財に指定されています。
境内に「豊後岩の由来」と題する、興味ある掲示を見ました。
その内容は
「大内氏は歴代政庁を山口に置いて、西日本に覇をはっていたが、防・長・芸・備・岩豊・築の七か国の守護を兼ね、その富と権力は天下に並ぶべきものがなかった。
当時の世は兵乱にあけくれていたが、山口の町は平和で、いわゆる西の都の繁栄があった。
大内氏は多くの来客をもてなすために、邸前に広大壮麗な築庭をし、当時珍しいソテツを植え、豊後から舟でもってきた岩を配置した。
しかし、これらの岩は、豊後を恋しがり、雨の夜に「豊後に帰りたい」といって泣いた」
と記されていました。
しかしなぜ、豊後(九州の大分)からもってきた岩があるのでしょうか、少なからず唐突です。
そして今回、大内氏の歴史を紐解き、その謎を知ることができました。
この地に一時代を築き上げた大内義隆は、1541年に出雲の尼子晴久との戦いで、大内家を継ぐ養子を失い、1544年に豊後の戦国大名である大友義鑑の次男大友晴英を後継ぎに迎えました。
当時は家督相続と所領がセットだったので、後継ぎは無くてはならないものだったのです。
しかし大内義隆は1551年、重臣の陶隆房の謀反を受け、下関の大寧寺で自害し、大内氏の血筋は絶えます。
一方、重臣だった陶隆房は晴英を君主に迎え、晴英の名を大内義長に変えて傀儡とし、大内氏は表面的に存続します。
しかし陶隆房は1555年(天文24年)、安芸の宮島の厳島の戦いで毛利元就の奇襲を受けて命を落とします。
大内義長と名を変えた、大友義鑑の次男晴英も1557年(弘治3年)毛利元就の侵攻を受け、下関の勝山城で自害し、大内氏は名実ともに滅亡しました。
大内氏の館跡に建つ、龍福寺の庭に豊後由来の岩があり、その岩が豊後を恋しがって、「豊後に帰りたい」と言って泣く話は、きっと歴史の真実を知る後世の人々が語り継いできたのでしょう。
唐突に感じた、龍福寺の豊後岩は私に、この地を舞台にした波乱万丈の歴史ドラマを教えてくれました。
次に瑠璃光寺を訪ねました。
この場所で最初に香積寺を建立したのは、大内氏に前期全盛期をもたらした大内義弘です。
しかし、義弘は1399年(応永6年)に足利義満と争った応永の乱で、大阪堺で敗死。
弟の盛見が兄の菩提を弔うために、香積寺に五重塔の造営を図り、1442年(嘉吉2年)頃に落慶しています。
その後、関ヶ原の合戦に敗れた毛利輝元が萩に入り、香積寺を萩に引寺したため、跡地に山口県仁保から瑠璃光寺を移築し、今日に至ります。
瑠璃光寺の五重塔は大内文化の最高傑作といわれ、日本三名塔の一つに数えられることもあるそうです。
香山公園と呼ばれる境内は、桜や梅の名所としても知られます。
五重塔を背にした広場で、3分咲き程の梅が微かな香を放っていました。
この場所を訪ね、私は初めて、大内氏が1350年頃から勢力を拡大し、1551年に滅亡するまでの約200年間、大内氏が山口で果たした役割と、花開かせた文化を知ることができました。
今も瑠璃光寺に漂う梅の香には、芳醇な大内文化のエッセンスが含まれているように感じました。
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