山口の瑠璃光寺から錦鶏湖の脇を通り、峠を越えて、萩へ向かいました。
はしり抜けたのは萩往還道と呼ばれるルートです。
国道262号を進み、萩市街の手前で県道32号に入りトンネルを抜けると、
「道の駅萩往還」に出ました。
「道の駅萩往還」に松陰記念館が併設され、数体の銅像が見えました。
下の像は、右が初代内閣総理大臣の伊東博文、中央が五箇条の御誓文・廃藩置県などを提言した木戸孝允(桂小五郎)、左が二度の内閣総理大臣や枢密院議長などを務めた山縣有朋です。
この三名は吉田松陰の松下村塾に学んだ俊英で、江戸から明治の変革期に、日本が先進国に追いつく基礎を作り上げた人達です。
更に奥に、吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞の像があることを後から知りましたが、予定時間を過ぎていたので先を急ぎ、見落としてしまいました。
道の駅萩往還から1km程進んだ場所で、萩往還梅林園の梅が、紅白にたなびく雲の如き景色を見せていました。
これも後から知りましたが、萩から山口・防府へ通じる萩往還を旅すると、ここを過ぎると町が見えなくなり、萩を振り返ることができる最後の場所だそうです。
人はここで松並木の間に見え隠れする萩に別れを惜しんで涙したことから、「涙松」と呼ばれ、
吉田松陰が安政の大獄で江戸に送られる時ここで
「かえらじと思いさだめし旅なれば、ひとしおぬるる涙松かな」
の一首を残しています。
時間は既に17時を過ぎていました。
今日はもうここが限度と考え、たまたま目にしたスーパーで地酒と食料を買い求め、潮騒に包まれた海岸に寝場所を求めました。
次の日の朝、観光客が繰り出す前に、市内を一回りしました。
その後郊外へ車を走らせ、萩港の北に位置する笠山の虎ヶ崎に向かいました。
笠山の麓の虎ヶ崎園地に椿群生林があり、約25000本のヤブツバキが自生しています。
今回の旅は梅が主目的ですが、2月中旬~3月下旬に見ごろを迎える笠山椿群生林を見過ごす訳には行きません。
椿林の中に歩を進めると、常緑樹のツバキ林特有の、下草の少ない林床が、一面の落椿に飾られていました。
岬から日本海を望むと、これから訪ねる長門市辺りに幾つかの島影が見えます。
北の方角にも、日本海に幾つかの島が浮かんでいました。
もう20年程の昔ですが、転勤生活で、新潟の潮騒の丘に暮らしましたが、海の上にはいつも雲が浮かんでいました。
陽射しの明るい広島から、三方を山に囲まれた萩に下った毛利輝元は、この景色の中で何を想っていたのでしょうか。
虎ヶ崎で椿を眺め、もう一度萩市内へ戻りました。
今から50年ほど前に、テントと寝袋を詰めたキスリングザックを背負って、学割の周遊券で山陰を旅したときに、萩の街を徒歩で巡りましたが、その時一番印象に残ったのが、塀に覗くナツミカンでした。
もう一度その景色を見たいと願いましたが、高杉晋作の生家の近くで、記憶通りの光景に出会うことができました。
そして初めて、高杉晋作の生家を訪ねました。
さて、萩で是非とも見たいを思ったのが、自生北限と称する指月山のサザンカです。
指月山は指月公園内にあるので、公園料金所でサザンカの存在を尋ねました。
すると、園内を左手に少し進んだ茶室の裏手辺りにあるとのことでした。
指月山の奥深い場所を予想していたので、ちょっと意外でした。
そしてすぐに「指月山サザンカ自生北限地」の看板を見付けることができました。
茶室裏手の山裾に、数十本の野生種らしきサザンカが葉を茂らせています。
サザンカに花が咲く季節ではありませんが、葉などの特徴から野生種らしいことに間違いはなさそうです。
しかし以前、九州でサザンカの自生地を訪ねた時の様子と、個々の木の樹高、太さが比較になりません。
今日まで全国にサザンカの古木も見てきましたが、この場所のサザンカは若すぎます。
私の目の判断では、この場所のサザンカはどう見積もっても、100年を超えることはない筈です。
更に、この場所は実生サザンカが、100年持たずに枯れる環境には見えません。
つまり、自生地という説に疑問符を付けざる得ないのです。
但し、明治大正の頃に渡り鳥が種を運び来て自生地になっです経緯も考えられますが・・・
詫び錆びを好む、茶人が出入りする茶室の裏に自生地があるのは偶然でしょうか。
指月公園を去るときに、毛利輝元公の姿をお見受けしました。
もしかすると、サザンカの自生地であるか否かは、輝元公であればご存知かもしれません。
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