思いがけない場所で椿群生地を見出し、気分良く、山口県を日本海に沿って南下しました。
次の目的地は下関市豊浦の「リフレッシュパーク豊浦」です。
私は全国の植物園や花公園のリストを作り、それをホームページで公開しています。
その中の候補の一つである「リフレッシュパーク豊浦」を植物園か花公園のリストに加えるべきか迷っていました。
植物園や花公園は「多種類の植物を観察できる場所」を判断基準とします。
コスモス畑やバラ園などに特化した施設は、夫々にページを分けています。
車を降りて門へ進み、受付で「どんな花が咲いていますか?」と尋ねました。
「今は、奥でナノハナが咲いています」とのことでした。
受付横のガイドマップに、バラ、コスモス、パンジーなどの写真が掲げられていました。
10月上旬にコスモスが100万本咲くことが確認できましたので、従来通りに「コスモスの名所」にリストしておくことで間違いはなさそうです。
次に同じ豊浦町の、妙青寺梅園に向かいました。
妙青寺が風格ある山門を備えていました。
山門を潜り、静寂に包まれた境内へと歩を進めました。
本堂の裏にまわると、雪舟が構築した庭が池に水を湛えていました。
そして、その先の小高い斜面に、100本の梅からなる梅林を見出しました。
梅は樹齢が進んだ故か、花を付けた若枝が少ない気がします。
妙青寺は周防・長門の守護職の大内持盛が1431年(永享3年)に川棚に国清寺を建立し、江戸時代になると、長府の初代藩主毛利秀元が実姉の妙青大姉を埋葬するために伽藍を修理し、妙青寺と名を変えたそうです。
この地の川棚温泉は、1932年(昭和7年)に種田山頭火が3ヶ月滞在し、300を超える句を詠んでいます。
その句が句碑となっていました。
「湧いてあふれる中に ねている」
山頭火の句碑を見るのは今回が二度目です。
前回は大分の宇佐神社の境内でしたが、その時も九州の梅を巡る旅の途中でした。
句碑の横に、山頭火が川棚温泉に滞在した経緯が記されていました。
山頭火は托鉢をしながら句作を続け、昭和7年5月、50歳の時に川棚温泉にたどり着きます。
この地で草庵を結びたいと願いますが、その夢は叶わずに、山口市小郡へと去ったそうです。
「山頭火の旅」を検索し、ウィキペディアに次のような記述を見つけました。
山頭火の父竹治郎はツルゲーネフの父、セルゲイ・ツルゲーネフに似ており、美男子で体格がよく、意志薄弱で好色、結婚も財産目当てであった。
竹治郎はセルゲイよりもお人好しで、寛容な人物であったという。美男子で女癖が悪く、妾を幾人も囲い、政党との関係に巻き込まれてからは金使いも荒くなった。
冷ややかで好色、意志薄弱という特徴を備えていた。
いやはや何ともですが、こんな人が父親だったら、神経をやられるのは当然かもしれません。
もう書いても、誰も傷つかないと思いますが、私の実母の父(祖父)も相当な人物だったようです。
下関園芸センターで、見事な大寒桜が満開の花で出迎えてくれました。
事前の調査で、下関園芸センターには14種50本の梅と200種420本の椿が植栽されている筈です。
管理棟から出てきた職員らしき人に、梅園はどちらでしょうか?と尋ねますと、
「4時で閉園しました」と言われました。
実は、この時はすでに16時30分を過ぎていたのです。
迂闊でした、下関に着く頃はまだ青空が広がっていたので、すっかり時間を忘れていたのです。
まあ、出直せばいいだけのことですが。
そして実を申せば、私の意識の多くは、下関=フグなのです。
大学受験に失敗しての予備校で、講義中に講師から、下関でフグを食べた話を聞かされて以来、私も下関へ行ったら絶対にフグを食べるぞと、50年程も念じ続けてきました。
何時もの如くコインパーキングに車を停め、下調べしておいた、下関駅近くの「おかもと鮮魚店」という大衆居酒屋の暖簾を潜りました。
18時を少し過ぎた頃でしたが、既に店は満席でした。
そして席について、最初にひれ酒、
そして次が白子、
(久しぶりの白子があまりにも嬉しくて、写真撮影の前に箸を付けています)
至福の時が流れました。
ひれ酒の追酒をたのみつつ、刺身の盛り合わせを注文しました。
ん~ どれもこれもが満足至極で、極楽とんぼ。
生きててよかった!
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