お昼ご飯をなかまちで食べて、上里のビッグボーイに来た。
個性について、考えている。これは、私の論文ではないので、思いつくまま書いている。そう考えると、日記かも知れない。私は日記にこのようなことをたくさん書いた。書きながら考えていた。
個性的な表現を求めて、人と違うものを探し求めたピカソに対して、そんなことは考えもせず、ただひたすら見えるものを見えるとおりに画面に実現しようとしたジャコメッティは絵の追求の方法が全く違う。しかし、どちらもその人でなければ描けないような個性的な絵画を実現した。
これは、なんなのだろうか。
ピカソは意識的に個性を求め、ジャコメッティは無意識的に個性が出てしまったのかもしれない。
私は、どちらかと言うと、個性というものは、意識してもとめるものではないのではないかと考えている。
個性とは何かと考えたとき、それが本物であれば、隠しても出てしまうものではないかなと思う。着るものも飾るものも、化粧も、いくら人と違えても、むしろ、それは個性を隠すものであって、個性的とは思わない。
同じ服装をしても、同じ髪型をしても、隠しても隠しきれずについ出てしまうものこそ、本物の個性ではないかと。
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個性という場合は、ほとんどの場合、良い意味で言うように思う。言い換えると、持ち味だろうか。
ごく、普通に描いていても、つい出てしまうその人の持ち味、それこそ個性ではないか。まだ、漠然と思うだけだが。
ーーーーーーーーー
私の絵は、私が出ているだろうか、どうもどこかの誰かが描いた絵と変わらないように思う。しかし、それでは、誰の絵と同じかと考えると、なかなかしっかりとは当てはまらないことに気づく。
誰が見ても、「それはあなたの絵ですよ」と言ってもらえるほど、個性的ではないと、自分でも思っているが、自分の絵は一体どこに当てはまるかなとは考えている。
風景を描く場合、私は自然を見て、ある程度忠実に描く。
だから、自然主義的ではある。しかし、タッチを生かして描いているので、自然主義より印象派的だ。ただ、印象派は見えるとおりの印象を大事にしたが、私は足し算引き算をして理想的な構図を求める。その点においてはセザンヌ的である。
だからセザンヌかと言えば、セザンヌほど意識的に画面を構成しないから、その点は違う。また、私は視点を一つで考えているから、セザンヌの多視点とは違う。
私は、映画監督の如く、主役脇役を考えた構成をする。タッチを生かしてリズムを考え、バランスを考え、ハーモニーを考えて描く。だから、見えるものを見えるとおりに描く印象派とは違う。
ある意味で、理想を求めて、自分の考える絵画に自然を当てはめて行くような描き方をする。そう考えると、私は現実をつかまえようとするジャコメッティとは全く違うなあと思う。
私の中にある、絵画のあるべき姿を求めて、自然と対応させながら、描いているのだろうか。
その方法が、過去のどの派でもない方法になっているとしたら、そこから他の人にはない個性が出てくるかもしれない。個性を求めるのではなく、自分の考える絵画観に基づいて、やっているうちに知らないうちに出てしまう個性なら本物ではないかと思ったりする。
最近、自分の書くサインが自分のものになったように感じる。サインを見たとき、あっこれ私のサインだと思う。自分が書いたサインかそうでないかがわかるということは、自分のサインが確立された証拠ではないかと思う。
絵もそうなるといいなと思っている。
個性について、考えている。これは、私の論文ではないので、思いつくまま書いている。そう考えると、日記かも知れない。私は日記にこのようなことをたくさん書いた。書きながら考えていた。
個性的な表現を求めて、人と違うものを探し求めたピカソに対して、そんなことは考えもせず、ただひたすら見えるものを見えるとおりに画面に実現しようとしたジャコメッティは絵の追求の方法が全く違う。しかし、どちらもその人でなければ描けないような個性的な絵画を実現した。
これは、なんなのだろうか。
ピカソは意識的に個性を求め、ジャコメッティは無意識的に個性が出てしまったのかもしれない。
私は、どちらかと言うと、個性というものは、意識してもとめるものではないのではないかと考えている。
個性とは何かと考えたとき、それが本物であれば、隠しても出てしまうものではないかなと思う。着るものも飾るものも、化粧も、いくら人と違えても、むしろ、それは個性を隠すものであって、個性的とは思わない。
同じ服装をしても、同じ髪型をしても、隠しても隠しきれずについ出てしまうものこそ、本物の個性ではないかと。
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個性という場合は、ほとんどの場合、良い意味で言うように思う。言い換えると、持ち味だろうか。
ごく、普通に描いていても、つい出てしまうその人の持ち味、それこそ個性ではないか。まだ、漠然と思うだけだが。
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私の絵は、私が出ているだろうか、どうもどこかの誰かが描いた絵と変わらないように思う。しかし、それでは、誰の絵と同じかと考えると、なかなかしっかりとは当てはまらないことに気づく。
誰が見ても、「それはあなたの絵ですよ」と言ってもらえるほど、個性的ではないと、自分でも思っているが、自分の絵は一体どこに当てはまるかなとは考えている。
風景を描く場合、私は自然を見て、ある程度忠実に描く。
だから、自然主義的ではある。しかし、タッチを生かして描いているので、自然主義より印象派的だ。ただ、印象派は見えるとおりの印象を大事にしたが、私は足し算引き算をして理想的な構図を求める。その点においてはセザンヌ的である。
だからセザンヌかと言えば、セザンヌほど意識的に画面を構成しないから、その点は違う。また、私は視点を一つで考えているから、セザンヌの多視点とは違う。
私は、映画監督の如く、主役脇役を考えた構成をする。タッチを生かしてリズムを考え、バランスを考え、ハーモニーを考えて描く。だから、見えるものを見えるとおりに描く印象派とは違う。
ある意味で、理想を求めて、自分の考える絵画に自然を当てはめて行くような描き方をする。そう考えると、私は現実をつかまえようとするジャコメッティとは全く違うなあと思う。
私の中にある、絵画のあるべき姿を求めて、自然と対応させながら、描いているのだろうか。
その方法が、過去のどの派でもない方法になっているとしたら、そこから他の人にはない個性が出てくるかもしれない。個性を求めるのではなく、自分の考える絵画観に基づいて、やっているうちに知らないうちに出てしまう個性なら本物ではないかと思ったりする。
最近、自分の書くサインが自分のものになったように感じる。サインを見たとき、あっこれ私のサインだと思う。自分が書いたサインかそうでないかがわかるということは、自分のサインが確立された証拠ではないかと思う。
絵もそうなるといいなと思っている。