絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

個性とは?つづき

2009-08-01 | 絵のこと
お昼ご飯をなかまちで食べて、上里のビッグボーイに来た。

個性について、考えている。これは、私の論文ではないので、思いつくまま書いている。そう考えると、日記かも知れない。私は日記にこのようなことをたくさん書いた。書きながら考えていた。

個性的な表現を求めて、人と違うものを探し求めたピカソに対して、そんなことは考えもせず、ただひたすら見えるものを見えるとおりに画面に実現しようとしたジャコメッティは絵の追求の方法が全く違う。しかし、どちらもその人でなければ描けないような個性的な絵画を実現した。

これは、なんなのだろうか。

ピカソは意識的に個性を求め、ジャコメッティは無意識的に個性が出てしまったのかもしれない。

私は、どちらかと言うと、個性というものは、意識してもとめるものではないのではないかと考えている。

個性とは何かと考えたとき、それが本物であれば、隠しても出てしまうものではないかなと思う。着るものも飾るものも、化粧も、いくら人と違えても、むしろ、それは個性を隠すものであって、個性的とは思わない。

同じ服装をしても、同じ髪型をしても、隠しても隠しきれずについ出てしまうものこそ、本物の個性ではないかと。

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個性という場合は、ほとんどの場合、良い意味で言うように思う。言い換えると、持ち味だろうか。

ごく、普通に描いていても、つい出てしまうその人の持ち味、それこそ個性ではないか。まだ、漠然と思うだけだが。

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私の絵は、私が出ているだろうか、どうもどこかの誰かが描いた絵と変わらないように思う。しかし、それでは、誰の絵と同じかと考えると、なかなかしっかりとは当てはまらないことに気づく。

誰が見ても、「それはあなたの絵ですよ」と言ってもらえるほど、個性的ではないと、自分でも思っているが、自分の絵は一体どこに当てはまるかなとは考えている。

風景を描く場合、私は自然を見て、ある程度忠実に描く。
だから、自然主義的ではある。しかし、タッチを生かして描いているので、自然主義より印象派的だ。ただ、印象派は見えるとおりの印象を大事にしたが、私は足し算引き算をして理想的な構図を求める。その点においてはセザンヌ的である。
だからセザンヌかと言えば、セザンヌほど意識的に画面を構成しないから、その点は違う。また、私は視点を一つで考えているから、セザンヌの多視点とは違う。

私は、映画監督の如く、主役脇役を考えた構成をする。タッチを生かしてリズムを考え、バランスを考え、ハーモニーを考えて描く。だから、見えるものを見えるとおりに描く印象派とは違う。

ある意味で、理想を求めて、自分の考える絵画に自然を当てはめて行くような描き方をする。そう考えると、私は現実をつかまえようとするジャコメッティとは全く違うなあと思う。

私の中にある、絵画のあるべき姿を求めて、自然と対応させながら、描いているのだろうか。

その方法が、過去のどの派でもない方法になっているとしたら、そこから他の人にはない個性が出てくるかもしれない。個性を求めるのではなく、自分の考える絵画観に基づいて、やっているうちに知らないうちに出てしまう個性なら本物ではないかと思ったりする。

最近、自分の書くサインが自分のものになったように感じる。サインを見たとき、あっこれ私のサインだと思う。自分が書いたサインかそうでないかがわかるということは、自分のサインが確立された証拠ではないかと思う。

絵もそうなるといいなと思っている。









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個性とは?

2009-08-01 | 絵のこと
個性とは、何だろう?

ちょっと考えてみたい。

  「他の人にはない、その人の特徴」ということかな?

どこから、語ったらいいかなと考えている。

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私は、今まで一度も見たことのない絵を見て、それはセザンヌの絵だと言ったら、当たってしまった。それを当てた時、周りにいた人が驚いた。どうしてわかるの?と。そして、すごいねと言われた。

しかし、凄いのは私ではない。セザンヌが凄いのだ。その絵がセザンヌの絵になっていることだ。しかし、どうしてそうなるのか、それは、セザンヌの個性が絵に入っているからだろう。

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ピカソがいくら上手な絵を描いても、ラファエロみたいだと言われて、それがピカソの絵だといわれないことに不満であった。それは、ピカソが描いたのに、ラファエロの絵であって、ピカソの絵ではないという意味である。自分で描いていながら自分の絵ではない。そんな馬鹿なと思う。個性が出ないと、その人の絵だとは言われない。

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画家にとって、個性とはそういう意味では重要である。

しかし、今の時代、絵画はほとんどのスタイルをやりつくされ、どのように描いても結局どこかの誰かがやったことの焼き直しみたいで、本当にその人独自の個性が出るような絵が描けるだろうかと、思ったりする。

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印象派の画家、モネ、ピサロ、シスレーの絵を見ると、それ以前のサロンの黒い絵と比べたら、明るさも色も全く違うので、個性が出ているといえるが、それは、印象派という特徴であって、この三人を比べてみると、違いがわからない。
私は、この三人の絵は絵の特徴で区別があまりつかない。
ピサロが少し細かいタッチが目立つとか、シスレーは構図に問題があるのに気にしないで描いているとかを感じるが、ほとんど変わらないので、見たことがない絵を問われたら、間違うだろうと思う。

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しかし、後期印象派の画家、ゴッホ、セザンヌ、ゴーギャンになると、その違いは歴然としている。それぞれ、個性がはっきりしている。

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印象派以前の絵画は、何々派という特徴はあるが、同じ派の中の区別は見わけがつかないのではないかと思ったりする。

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だから、はっきり個人としての、個性が出てきたのは、後期印象派あたりからだろうか。もしそうなら、画家にとっての個性の問題は比較的新しいのかもしれない。

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そうか、考えてみると、昔は徒弟制度だった。先生が描く絵をそっくりそのままの技法で描けるようになると、一人前だから、みんな先生と同じ絵を描いた。だから、先生の個性をコピーをしているので、それぞれの個性にならないのか。
そうだ、だから、派の特徴はあるが、同じものがたくさんできるために、個性ではないのだ。

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では、その徒弟制度でなくなり画家が個人として存在するようになったから、個性が問題になったのかもしれない。

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ピカソは自分独自のものを求めた。求めてもがき、見つけて周った。

しかし、人と違えばいいのかという問題はある。

人と同じでは個性とは言わない。それはわかる。では、とにかく違えばいいのか。

そのときに、違うことが上辺だけのものなのか、本質的なものなのかという問題を考える。

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見せかけでも、個性か?それは、先に述べたセザンヌという個性を考えた時、絵の中にきちんと出る個性にはならないだろうと、漠然と思う。

アイデンティティという言葉があるが、きちんとした本物でないと、その自己統一性は出てこないのではないかと思うのだ。

というのは、見せかけの場合、すぐに飽きる。そうすると、簡単に変えたくなってしまう。だから、個性がいろいろ違ったものになってしまう。それでは見たこともない絵が同じ人のものであることに気づけない。

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ピカソはあれだけ、スタイルを変えたのに、やはりどこかピカソなのである。
それは、私がピカソをいろいろ知ってしまったからだろうか?

それとも、ピカソという個性が一貫したものとしてあるのだろうか。

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ピカソを考えるとき、私は、その反対側にジャコメッティを考える。
ジャコメッティは、ピカソとは違って個性なんて考えなかったように思う。
それなのに、実に個性的である。
本人は、見たものをとにかく見えるように画面に実現しているだけだという。見えるとおりに描きたいということにおいては、印象派と考え方は同じだ。
そうすると、印象派と同じように見わけがつかなくなってもいいように思う。しかし、ジャコメッティの絵は、誰が見ても、わかる。

そのくらい、我々が普通に考える見える通りとは、全く違うものになっている。

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これは、書いていると、膨大なものになりそうなので、続きは、また、。そろそろお昼なので。





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