絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

ローマの続き3

2009-08-10 | 美術
いま、ローマの歴史を頭に入れようとしていますが、なぜそのようにしているかというと、彫刻と建築を語る時、それがわからないと、この彫刻は誰ですと言っても、時代的な位置がわからければ、頭に入らないからです。

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ここまでの、理解

1、ローマ建国の神話  ロムルスとレムスの話

2、王政        初代王 ロムルス
            サビニの女たち

3、共和政       第7代王の追放、
            ブルータスが自分の子を死刑に

4、帝政

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共和政の時代の大きな出来事は、ポエニ戦争です。

これは、BC264年からBC146年に起こったローマとカルタゴの戦いです。

第一次から第三次まであって、特に有名なのは、第二次のハンニバルの戦いでした。

なにしろ、ハンニバルは、イタリア半島を縦断というローマにとって、大変な打撃を与えた人だったからです。


ハンニバル

ただ、この戦いについて詳しく語ることは、歴史把握のためには必要ですが、美術の勉強にはあまり必要を感じません。ですから、簡単に話します。

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第一次では、シチリア島の奪い合いが、メインでした。
これによって、ローマは初めて本土以外の土地を獲得することになりました。

第二次は、カルタゴの巻き返しで、ハンニバルがまさかのアルプス超えを行って、北から攻めて来ました。象を37頭連れての戦いで、連戦連勝、ローマは本当に苦しめられました。(カルタゴはアフリカですから、南から来るならわかりますよね)
カンネーの戦いは覚えておくと良いでしょう。

しかし、時間と共に食料が不足したり、補給路が断たれたり、いろいろして、その内に、大スキピオに留守のイベリア半島を攻められて、段々戦況が怪しくなり、カルタゴへ単身帰れと命ぜられ、志を果たせずに終わったとされています。

第三次は、小スキピオが、カルタゴの本拠地を攻めて勝利します。
ハンニバルは、その後、ギリシャへ逃げて、二度とカルタゴへは戻らずに死んだようです。

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歴史上、ハンニバルだけは、覚えて置くと良いでしょう。アレキサンダー大王などと同じくらいすごい武将として、扱われる人です。

この戦いの最中に、アルキメデスが出てきます。その知恵のために、ローマはかなり苦しめられました。ローマは、アルキメデスを殺すなと部下に命令を出しますが、その人だと分からずに殺してしまったそうです。

アルキメデスは、地面に円周率の計算を書いていて、ローマの兵隊がその上に立った時、「邪魔だ退いてくれ」といって計算に夢中だったとか、それをローマの兵隊はアルキメデスだと分からずに殺してしまったのだそうです。

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次に覚えてほしのは、ジュリアス.シーザーです。


シーザー(ユリウス.カエサル)

シーザーとクレオパトラについては、私が詳しく語らなくても、映画になっていたりしてみなさんご存知ですよね。
ですから、簡単に箇条書きで書いてみます。

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ここで、重要なことは、シーザーが権力を持ちすぎて、自分を皇帝にしろと要求したことです。そのために共和政を望む人たちから殺されてしまった。
その一言があれば、通過してもいいくらいです。
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しかし、それでは、あまりにあっけないので、エピソードを上げます。

1、三頭政治と言われます。
   特に、ポンペイウスとの権力争いが有名。

2、ガリア戦記を書いて有名。自分で語ったことを、部下に筆記させました。
  ヨーロッパでの戦いの様子です。
  兵隊を連れて、戻ってはいけない決まりになっていたのに、そのまま帰ると殺されるかもしれないという危険から、兵隊を連れてローマにもどります。
その時に、ルビコン河を渡るとき、言った言葉が「賽は投げられた」です。

これ以降、シーザーは皇帝のような地位を獲得していきます。終身独裁官になりました。独裁官というのは、非常時に特別に一人の人に権力を与えるもので、平和なときは、本来存在しないものでした。

3、クレオパトラと結婚。新婚旅行をナイル川でしています。
  カエサリオンという子供も生まれました。

  エジプトの後継者争いが起こっていて、クレオパトラに味方してエジプトを獲得しました。


4、ローマでは、シーザーはクレオパトラの色香に惑わされていると噂されました。

5、あまりに権力を持ちすぎて、危険視されたシーザーは、マルクスブルータスたちによって、BC44年3月15日、元老院の中で暗殺されました。

6、その後、カエサルの養子であったオクタビアヌスが、第二次三頭政治を行って、ライバルのアントニュウスをアクチュウムの海戦で破り、クレオパトラと共に死に追いやります。そして、初代皇帝になりました。


オクタビアヌス

しかしシーザーの失敗があるので、オクタビアヌスはあくまでもローマの第一人者であると言い、皇帝だとは言わないで、全ての権力を手に入れました。ですから実質は皇帝になりました。

アウグストゥスという称号で言われますが、それは、尊厳なる者という意味で、その後の皇帝にも使われました。

クレオパトラは、エジプトを守るために、奔走した女王ですが、最後はオクタビアヌスにも、色仕掛けを試みたようですが失敗し、自分の胸を蛇に噛ませて、その毒でなくなったと言われています。

(ちょっと、疑問?? どうやって、胸に噛みつかせたのでしょうね??)

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豆知識

1、クレオパトラは7人いたのを、知ってますか?シーザーと結婚したのは、7代目のクレオパトラなんですよ。へえええでしょ。

2、クレオパトラは、7ヶ国語くらい喋れたんだって、すごいでしょ。博学だったんだね。因みに、先祖はギリシャ人だからね。アレキサンダーの家来でプトレマイオスという人がいて、その子孫だから、元々、ギリシャ語は家族が話していたんだよ。

  だから、シーザーと話すのも通訳がいらなかったんだね。

3、弟のプトレマイオス13世と仲良く共同統治をするように、父親から言われたのに、プトレマイオス13世がクレオパトラを蔑ろにしたんだ。それでシーザーに頼んで、やっつけてもらったということなのです。

その権力争いにシーザーは上手く乗っかり、エジプトをローマにしてしまったという結果になったのですね。

4、「ブルータスお前もか」は有名ですが、あれは、シェークスピアの劇の中のセリフでシェークスピアが考えたことです。たぶんそう言っただろうと。

5、シーザーとの戦いに敗れたポンペイウスがエジプトへ逃げて行った時、プトレマイオス13世はシーザーにゴマを摩るつもりで、ポンペイウスを殺しますが、シーザーはそれを喜ばず、なぜ殺したのかと怒ったと言います。
その辺りは政治でしょうね。プトレマイオスにポイントを稼がせない態度ということでしょう。

6、シーザーの名前は月の名前になっています。何月だかわかりますか。
  7月です。ジュリアスからジュライになっています。

  因みに、8月はオーガストですが、これはアウグストゥスから来ています。オクタビアヌスのことです。

  しかし、そこまでで、やめてしまいました。なぜか??
  ローマが12代で終わってしまうからです。

  と聞いていたのですが、

本当は、いろいろな皇帝が自分の生まれた月を自分の名前にしましたが、皇帝が亡くなると元に戻されました。皇帝だけでなく、妻の名前も使ったり、いろいろやってしまったので、戻されたのです。

7、シーザーは、暦も作っています。ユリウス暦といいます。
  グレゴリウス暦ができるまで、使われていました。

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簡単に書いてもこんなに出てきてしまいました。ごめんなさい。
面白そうな部分だけでも覚えてください。













        
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ローマの続き2

2009-08-10 | 美術
ローマを掴むには、政治形態から把握するのが良いということで、区分けをしました。

そして、その特徴をそれぞれ掴めば良いのですが、その区切りになった部分の出来事を掴んでおくと、頭の中で整理がしやすと思います。

そこで、王政から共和政になった部分をつかんでみましょう。

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それには、上の絵を見てください。

これは、息子の死体が運び込まれるブルータスの絵です。

私は、ブルータスと言うと、シーザーを殺して、ブルータスお前もか!と言われたブルータスしか知らなかったので、この絵もそのブルータスかと思っていました。しかし、どうも変なので、調べたら、これはそれより500年も前のブルータスでした。

王政から共和政になるときに大活躍したのも、ブルータスという人だったのです。
(正確には、ルキウス.ユニウス.ブルータス)


これは、覚えやすいですよ。同じ名前なのですからね。

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ロムルスから数えて、7代目の王が横暴で、人々の反感をかっていました。正式にみんなから認められた王ではなく、自分で勝手に王を名乗っていたような人でした。

噂では、先代の王を殺して、その関係だった元老院の人たちは次々に殺され、自分の専制を強めて行ったために、反感を買うようになったと言われています。

そのため、ブルータスたちの力で、この王は追い出されてしまいました。

この時代は、ローマより北のエトルリアというところもローマになっていて、そこの出身である王が3代くらい続いていました。だから、王が追い出される状況もその辺りにも原因はあったかもしれません。

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この絵は、息子が死刑になって、運ばれてきた場面ですが、この死刑を命じたのが
なんと、父親のブルータスだったのです。

驚きでしょ??

それは二人の息子たちが、王に加担したのです。ブルータスは共和政を主張し、息子たちは王政を主張した。それで、死刑になったのです。ブルータス一家にとっては、大変なことでしたね。

ブルータスお前もかのブルータスも共和政を主張してのシーザー暗殺ですから、どちらも同じ考えなので、それも覚えやすいですね。

  (共和制の最初と最後にブルータスが出てくると覚えましょう)

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美術では、ローマ以前の文化として、エトルリア美術というものがあったことが、紹介されます。特徴的なものを一つ上げろと言われたら、私はジャコメッティの彫刻のような細長い彫刻を上げます。

人々は、いろいろなお願いごとを神様にして、その願いが叶うと前もって約束をしておいた彫像を納めることになっていたのですが、当時青銅が高くなって、買うことができず、胴を節約して作ったためと言われています。
予め、どのくらいの大きさの像を奉納しますと約束をしましたが、胴の節約で、高さは守ったものの、太さはできるだけ細くしたのです。それが、期せずして現代彫刻のジャコメッティの彫刻みたいな魅力的なものになっているのです。

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因みに、この絵は、ルーブル美術館にあります。私が行った時は、ナポレオンの戴冠の近くにありました。モナリザコースで周ると、見られます。

ちょっと豆知識  ブルートゥスとは、「阿呆」という意味だって。知ってた?

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※ 私の文や写真は、一部ウィキペディアを参考に使わせていただいています。





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ローマの続き1

2009-08-10 | 美術
ローマの美術作品と言えば、建築と彫刻です。

代表的なものをあげれば、コロッセオとかコンスタンチヌスの凱旋門とか、フォロロマーノの遺跡とか、シーザー像や各皇帝の像が出てくるでしょう。
しかし、その前に、一応ローマの歴史をごく簡単につかまえてしまいましょう。

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  因みに、ローマの絵画はどうなっているの???

これは、ほとんど残ってないのです。唯一残っているのは、ポンペイの遺跡です。
ベスビオス火山の噴火で町ごとそっくり埋まってしまったために、発掘されて、ローマ時代がそのまま出てきたために、絵画も壁画で残っていたのですね。

貴重なタイムカプセルですね。

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それでは、続き1を書きます。

レムスを殺して、ローマをつくったロムルスは、初代の王になります。
その後、ローマは王政と言って、7代続きます。

ただ、ローマは若い女性が少なくて、子孫を繁栄させるには少し困っていました。

そこで、隣のサビニに声をかけて、お祭りにご招待したのです。

そして、その祭りに来ていた若い女性を奪いました。

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なんてことでしょう。拉致ですよね。

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怒ったサビニの男たちは、奪われた女性を救うために戦いに来ました。
しかし、そこへその女性たちが現れて、戦いを止めたのです。

これをサビニの女たちという絵で、19世紀の画家ダビッドが描いています。

「ちょっと、待った!!」

という感じで、両手を広げて女性が立っている絵です。



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なぜ、そうなったのでしょうか?

実は、この拉致された女性たちが、ローマでとても大切に扱われて、ローマの兵隊と結婚し、幸せに暮らしていたからなのです。

(ええーー??、おかしくない??)

怒った男たちは、何年経ってから救いに行ったのかなあ?   でしょ??


話のおかしいところは、すこし我慢して、とにかくこの女性たちにとっては、ローマの男が自分の夫や今の家族で、救いに来た男は自分の父親や男の兄弟たちなのです。どちらも死んでほしくはありません。

だから、止めに入ったのですね。

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それで、戦いは終わりになりました。

これが、初代ロムルスの時代の出来事です。
その後、ローマとサビニは共同で国を拡大していきます。パラチーノの丘だけであったローマが7つの丘を全て手に入れて、大きくなります。
そして、二代の王にはサビニの人が王になります。

このように、進んで行きました。

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